メッセージDD 2000/12/6
二つの「なければならない」 ヨハネによる福音書 3章
by C.H.マッキントッシュ
(The Two "Musts" : John 3)
私たちの主とニコデモとの会話の中で、イエスは2回「なければならない」と言う言葉を使っています。
この言葉はこの二回の両方の場合において、非常に深く教訓に満ちたことを教えています。
それは、ひとつのはっきりしたことを教えていて、私たちの見解はどちらであっても、正しい、もっとも大切な福音的な真実を含む、聖書箇所であると信じています。
最初に私たちは「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」と読みました。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章7節
ここで、私たちはニコデモの最高のユダヤ人的な立場は、完全に退けられていることを知ります。
もし、私が新しく生まれなければならないなら、もし、私が新しい命、新しい性質を持たなければならないのなら、その時、私は誇りに出来る、出来ないということは最も小さなレベルの問題にもなりません。
人が女によってこの世に生まれて来るとき、その人の上に捺印された堕落した両親の形(性質)も一緒に生まれてきます。
人が創造者の手によって来たので、神の形(性質)に造られました。
人は、その母の子宮から生まれたので、人の形(性質)と堕落した被造物に似たものとして生まれました。
それゆえに、私たちの主は力強く「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と表現しています。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章3節
イエスは「あなたの性質を直さなければなりません」とも、「あなたはもっと努力をしなければなりません」とも、「あなたの生活の態度を改めなければなりません」とも、「あなたの心を入れ替えなければなりません」とも、言っていません。
もし、このようにイエスが言われたのなら、ニコデモは、決して「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」とは尋ねなかったでしょう。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章9節
すべてのパリサイ人にとっては、行いを変えること、性質を変えること、いくらか道徳的な自分を直すこと、および自己改善などは、「完全な知識」とされるべきものでした。
パリサイ人はこれらのことの誇り、すべて、もしくはいくらかは理解していることでした。
しかし、パリサイ人は自分の肉の中に、何も良いものがないということを何も認識していませんでした。
パリサイ人は自分自身が資格のない、完全な破産者として見ることができません。
パリサイ人はそのことに反抗して、そのことに説明を加えることが出来ませんでした。
ニコデモもようなパリサイ人には受け入れることは出来ない、破産者という宣告を受け入れ、、そして、貸主に何も要求出来ないことを認め、もう一つの別の富を求めなければなりまでした。
彼は新しい命を得なければなりません。
この小さいことば「なければならない」の中に巨大な力があります。
その結果、すべてがこのように至ります。
それは大酒飲みに「あなたがたは新しく生まれなければならない」と話しかけることであり、また、すべての分野の人に、あらゆる状態の人に、すべての階級の人たちと目立たない人たちに、あらゆる風土にすむ野蛮な人たちに、どんな考えの持ち主であっても、どんな教派の人にあっても、そのことを明確に、断固として、あなたのプライドを捨て、「あなたは、新しく生まれなければならない」と話しかけるべきだということです。
そのことは道徳的な行いに基づいて歩むべきだということよりも、良心をより多く圧迫してゆきます。
それはどんな状態であっても、道徳的な改善という問題を少しも邪魔することはしていません。
そして、すべての慈善家、もしくは道徳の改善家に対して、多くの妥協点を許すかもしれませんが、社会、世論、法律、もしくは公に定められたさまざまな主張を乱すことはしません。
それどころか、すべてこれらの事柄を全く手付かずに残してゆきます。
しかし、そのことはそれらを明確にし、これらすべての上に指揮する声を発します。
そして、そのことは罪人にも、女から生まれた人にも、最悪の人にも、最善の人にも言われていることです。
「あなたは、新しく生まれなければならない」
それは、改良ではなく、甦りを要求します。
修繕ではなく、新しい命です。
その時、新しい命は、私たちに何をするべきかを尋ねてくるでしょう?
どこに私たちは立ち返るのでしょうか?
どのように私たちこの新しい生命を得たのでしょうか?
私たちの主はくりかえし、この「なければならない」という言葉を与えました。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章14〜15節
このことはすべてを解りやすくしています。
二人目の人は、この場面に登場しています。
ここに二人の人と二つの「なければならない」があります。
最初の人のように、その人は新しく生まれなければなりません。
そして二人目の人は上げられなければなりません。
この言葉の中で、十字架がこの困難な問題の完全なる解決を与えています。そしてその神の答えは「どのように」なのです。
私は最初の「なければならない」によって、完全に打ちのめされたのでしょうか?
私は提案されている困難な問題に対しては、打ち勝つことができないのでしょうか?
それでも、私が「なければならない」という確実に不可能なことを主張しているゆえに、私は絶望のふちに立っているのでしょうか?
それから、私たちの心の上にある、二つ目の「なければならない」に何という力があるのでしょうか?
「人の子もまた上げられなければなりません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章15節
なぜ、人の子は「なければならない」のでしょうか?
それは私が新しい命を持たなければならないからであり、そしてこの命が御子の中になければならないからです。
しかし、それは御子の死を通してのみ、私のものになることが出来たのです。
キリストにあって一つの見方が出来ます。
それはキリストが私のために上げられ、私が永遠に生きるためにです。
二人目の人の死は、私に対するその最初の命ためであり、それはキリストの命だけを基礎にしています。
キリストにあって一つの見方が出来ます。
それは私のために上げられ、それは私が永遠に生きるためにです。
その魂は単純に神の御子を信じる者にあり、その者は死んで、甦ったのです。
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章5節
その者は終わりなき命を持ちます。
その者は死から命へと渡されました。
その者は古い創造から新しい創造へと渡されました。
その者は罪から義へと渡されました。
その者は敵であることから味方へと渡されました。
その者は闇から光へと渡されました。
その者はサタンから神へと渡されました。
神の聖霊は読者の心に美しさと力、その深さ、寛容な理解力、そして、この二つの「なければならない」という道徳的な栄光を表しているのでしょう。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」
新改訳聖書 テトスへの手紙 3章5〜7節