メッセージE 2000/2/7
石膏のつぼ。 C.H.マッキントシュ
("The Alabaster Box " by C. H.
Mackintosh)
マタイにより福音書 26章6〜13節 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」 |
忙しい日、そして休みのない日にあって、神はすべての事をひとつの観点から見ています。
すべてはキリストの立場から、ひとつのルールによってすべてのことを測られ、ひとつの試金石(Touchstone---品質や価値を決めるもの)にて試みられていることを、覚えておくという事は必要な事です。
神は、彼らが最高の神の愛によって御子との関係にすでに立っていることを知っています。。
ゆえに、彼らが離れて歩んでいる事にこそ価値を置いているのです。
神はキリストのために行われるすべてのことは尊いことであり、他のことは価値を置いてはいません。
多くの働きは行われるでしょう。こうして人間の唇から引き出された賞賛が分け与うことが大切なのです。
人間は一つの出来事を単純に見るでしょう。その出来事とはキリストとともにつながることに意味があるのです。
その人の質問は大切なことです。
それは、イエス・キリストの御名によってそれらを行う必要があるのです。
しかし、その者は賛成すれば、報酬を与えられるでしょう。
もし、反対すれば焼き尽くされるでしょう。
それは人間によって決められた仕事の話だと言うかもしれませんが、そんなことは重要な事ではありません。
人々は彼のした事柄についてその人を誉めたたえ、その日の雑誌に彼の名前が載せるかも知れません。
人々はその人に友達の輪において論議のテーマを作るかも知れません。
その人は説教者として教師、著者、慈善家、道徳的な改善者としてのその名前を大切にするかも知れません。
もし、キリストとキリストの栄光による行いでないのなら....、
もし、キリストの強いている愛の実でないなら....、
その人の働きがイエスの名前に結ばれることが出来ません。
それは夏の脱穀場のもみ殻のようにすべてが吹かれてゆくでしょう。
そして、永遠に忘れ去られてしまいます。
また、ある人が静けさ、慎ましさ、礼拝での謙遜な役を追求するでしょう。
それは、誰にも知られず目立つことはないでしょう
その人の名前は聞かれないかも知れません。
彼の働いてきた働きは意向というものはなく、単純なキリストの愛の働きだったのです。
彼は彼が支配している彼の目に知られずに働いていました。
主の微笑みで彼には十分なのです。
彼には人間の同意を一瞬も求めた事もありませんでした。
彼は人の微笑を気にしたり、彼の顔をしかめて避けたりする事を模索した事がありません。
彼は、まさに人生の大意を追求したのです。
それはキリストにおいて単純に見え、キリストのために動きます。
彼の働きは成り立つでしょう。
それは、しかし彼は単純なキリストの愛からと覚えず、報酬のために働きをしなかったにもかかわらず、キリストの愛を覚えさられ、報酬を得るのです。
(注者引用:マタイにより福音書 25章32〜46節)
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
新改訳聖書 コリント人への手紙 3章13節
この考え方はすべてがとても厳粛な事であり、慰められる事なのです。
それは、彼らの仲間の目にいくらかの尺度をもって働く人たちにとっては厳粛な事となります。
それにもかかわらず、彼らの主の目の下に働く者にこれらのことすべてにおいて慰められているのです。
ひより見主義から解放されることは言いようのない哀れみです。
現在では、人を喜ばす精神は、すべての我々の働きを主の前に歩む事を始め、続け、そして終わらせる事を可能にしています。
私たちは愛しく、最も人の心を動かすこの実例を見ることにしましょう。
我々に「らい病人シモンの家」が与えられ、マタイによる福音書26章に記されています。
今、ベタニアにある「らい病人シモンの家」にイエスがいます。
その場所は彼の中にあります。
婦人がとても貴重な塗り薬が入ったつぼを持っています。
彼女はイエスのところに座り、それを頭から注ぎました。
シモンの家の中へと行った婦人の目的をもし、私たちが尋ねたのなら何と答えるでしょうか?
彼女の石膏のつぼが何で出来ていて、どんな形をしているかとか、彼女の塗り薬の香りがどんなに優れているかを見せに行ったのでしょうか?
彼女のした事によって人の賞賛を得るためでしたか?
救い主を個人的な友とした小さな群れの中にキリストへの特別な信仰深い人と呼ばれるためにそれを行ったのでしょうか?
いいえ、皆さん。
このためではありません。私たちはそれをどのように知ることができるでしょうか?
それは神がすべての事柄を創造したもっとも偉大な方であり、すべての心のもっとも深い秘密とあらゆる行動に表された真実な動機を知っている方だからです。
そして、イエスは聖なる「計り」で彼女の行いを計り、イエスの同意の印を押されたのです。
イエスはナザレのイエスという人性の中にいました。
彼は、人による行いの重さを知る神でありました。
彼は彼女の行いの前に王国の純然たる硬貨を送りました。
もし、これがいくらかの混ぜ物だったら、いくらかの混合物がしてあったら、いくらかの偽の動機が、いくらかの人間の裏があったのなら、イエスはこのことをしないし、することができないでしょう。
イエスの完全に聖い鋭い目はこの女性の魂のとても深いところに達するまで見ていました。
イエスはどうして、そしてなぜ彼女がこの事を行ったのかをよく知っていました。
そして、イエスは宣言しました。
「彼女は私に対してりっぱなことをしてくれたのです。」
ひとことで言えば、キリスト自身がこの女性の魂のための直接の目的でした。
そして、それは神の王座へのまっすぐな立ち上がる彼女の香料の匂いを送り、彼女の行いの価値を与えいるのです。
彼女は数え切れない多くの人を知り、考える事はないでしょうが、その多くの人たちが彼女の深く個人的な信仰深さの記録を読んでいるのです。
彼女は決して消される事のない永遠のページにある主の手によって刻み込まれる彼女の行いについては想像することもないでしょう。
彼女はそのことについて考えもしませんでした。
彼女はこの行いにより驚嘆しべき悪評を受ける事を気づかず想像もしていませんでした。
彼女がもし気づいていたら....、
彼女の行為からそれのすべての美を奪うことになるでしょう。
そして、彼女の犠牲からそれのすべてのよい香りを奪うことにもなるのです。
しかし、主はその行為者より祝福を受けており、それは忘れられるべきではない事に注意を払いました。
イエスは単にその時にそのことが正しいことだと証明しただけではなく、未来に至るまでそれを手渡したのです。
これは婦人の心にはっきりしてました。
彼女は弟子たちにはっきりと「怒っている」と言わせることが出来、彼女の行為について聞くと「無駄」だと言わせる事が出来たのです。
イエスの心が回復されたことは彼女にとって十分だったのです。
すべての休息はその事に価値があったからこそ求めて行くのです。
彼女は人間の賞賛に支えられる安全、また人間にバカにされる事からの回避など考えてもいなかったのです。
終始、彼女の目的はわき目もそれずにキリストだったのです。
その瞬間から、彼女はその石膏のつぼの上に彼女の手に持ちました。
彼女がそのつぼを破って彼の聖い人格の上につぼの中身を注いだときまで、彼女はイエス自身のためだけにこのことを行うのだと考えていたのです。
(自分の存在など考えていません。また、律法や恵みだとも考えていません。ただイエスのみを見ていたのです。)
彼女は適切な直観的な感覚がありました。
そして、厳かな状況にあって彼女の主を喜ばしました、そこに主はいました。優れて美しい業を彼女はなしたのです。
彼女は香料に価値があったとは考えなかったのです。
もし彼女が持つとしたら、彼女はイエスが価値をもつ1万時間(記念され続ける時)に価値を持ったでしょう。
「貧乏な人」ということに関して、彼らはこれらの場所と同様な主張を持ちました。
「 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
しかし、世界のすべての貧乏人よりもイエスが彼女にとって大事な方だと彼女は感じていたのです。
つまり婦人の心はキリストでいっぱいでした。
そしてその品位の現れが彼女の行為に与えられたのです。
ほかの人たちはそれを「価値がない」と言うでしょう。
しかし、私たちはキリストのために使われるところには価値の無いものが一つもないという確信を置くかもしれない。
したがって女性が判断は正しいです。
まさにその瞬間にイエスに栄光を置いたのです。
そのとき、地上と地獄はイエスに対して立ち上るのです。
それは人間、または御使いのする事が出来るとても高い礼拝の行為でした。
イエスはささげられることでしょう。
影は長くなっていました。
暗がりは深くなっていました。
暗がりが濃くなってきました。
十字架の持つすべての恐怖は近づきました。
この女性は、すべてを予感し、前もって彼女のすべてである主の身体に塗油するために来たのです。
結果に注目して下さい。
すぐに祝福を受けている主が彼女を守りに来ているか確認してください。
そして、これらよりよく知っているこれらの者により軽蔑されて、彼女を憤りから守られています。
「するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
すべての怒っている人間の反対側にある名誉ある弁明がここにあります。
軽蔑と誤解は太陽の昇る前の朝の霧のように消え去らなければなりません。
「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」
それはその行いを踏みつける事でした。
「わたしに対してのりっぱな行い」これはその他のすべてのことから区別されていました。
すべて事柄は、キリストと関連して評価されなくていけないのです。
人は慈善の気品ある目的を実行するために広い世界を生きているかも知れません。
彼は善意に満ちた広い心の果実を気品ある手でそれを見せびらかすかもしれません。
彼は貧しい人を養うためにすべて良きものを与えるかもしれない。
彼は道徳的な、さらにキリストの言うことのできる一つの単独の事柄を決してこだわらない信仰に立ち、最大限可能な期間、広い範囲を行くかもしれませい。
「わたしに対してのりっぱなこと」
読者の皆様!
あなたが誰であったとしても、それともあなたがいかに従事していようともこれを良く考えるべきです。
あなたは、あなたのしたすべてのことにあって主である師のうえに直接あなたの目を見続けてみてください。
礼拝においてすべての小さな行いにおいて、イエスを直接の目的にして下さい。
全く問題はありません。
あなたのすべての働きにおいて探してみてください。
「わたしに対してのりっぱな行い」とイエスが言う事ができるように....。
あなたの方針に、あなたの働きに人間の考えに従事してはいけません。
これらの憤り、これらの誤解に気をとらわれてはいけません。
あなたの主の人性のうえに香料のはいった石膏のつぼを注いでください。
あなたの礼拝のためのすべての行為が、イエスへの感謝の心で満たされた果実であることを確認して下さい。
それなら、彼があなたの働きを評価するだろうと確信して下さい。
その働きが組み立て上げられた無数の行為の前にあなたが正しいことを証明して下さい。
このように、私たちは今まで読んでいる女性と共にいたのです。
彼女は彼女の石膏のつぼを取り、心に1つの目的をもってらい病人シモンの家に進みました。
すなわち、イエスとイエスの前にいるために....。
彼女はイエスに夢中でした。
彼女は何も考えていませんでした。
しかし、イエスの頭に彼女の貴重な香料を注ぎました。
その結果、彼女の行為はイエスに祝福された名前に結び付けられ福音の記録にあって、私たちに及びました。
彼女の個人的な献身の記念を読む事なしに福音を読む事は誰も出来ません。
帝国は上昇して、反映しそして忘れさられてゆきました。
記念物は、人間の偉大さ、慈愛の特性を祝うために建設されました。
これらの記念物は、ほこりの中へと崩れ去られました。
しかし彼女の行為は、彼女のために存在し永久に存在し続けるでしょう。
主の手は、彼女のために記念物を建設しました。
それは、決して滅びないでしょう。
私たちが彼女を真似るための恵みを持ってもよいだろうか。
この日に、そのときに、そこは慈善という点では人間の多くの努力になってしまうでしょう。
私たちの働きがそうなのかもしれませんが、彼らが何者であったとしても、
私たちの心は欠けることない感謝の果物なのです
拒否され、十字架にかけられた主!
ナザレのイエスが十字架につけ、退けられた方針--十字架の教義として完全に心をテストすることは何もないのです。
これは、人間の心の最も深い場所を厳密に調べます。
それが単に宗教的な質問なら、人は、驚嘆することができます。
しかし、キリストは宗教ではありません。
私たちは、我々の章(マタイの福音書26章)のオープニング・ラインよりも優れた証拠を見るために、他の個所を見る必要がありません。
祭司長の宮殿を見て下さい、あなたは何を見ますか?
リーダ、そして人々の指導者の特別な会談?
「そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、....。」マタイにより福音書 26章3節
ここで、あなたの持っている大変人目をひいている形式だけの宗教がありました。
私たちはこれらの聖職者を覚えなくてはならないのです。
律法学者、長老は神の人々によって聖書にある知識の大切な金庫として公然と尊敬されていました。
その知識は、神の下の公職にある重要な宗教にあっての唯一の権威に基づくものでした。
その公職とはモーセの日に神のために設定されたシステムなのです。
カヤパの宮殿での異教の聖職者、ギリシア、ローマの預言者たちの議会は冷静ではありませんでした。
しかし、ユダヤの国の公然の指導者、導き手は冷静でした。
何を、彼らは重々しい話し合いをしているのですか?
彼らは「いかに巧妙にイエスを捕まえ取り調べ、彼を殺すための相談」でした。
読者のみなさん!
このことを良く考えてみてください。
ここに宗教的な人、人間に頼っている人、人間に比重を置く人は人々に影響を与えるでしょう。
そして、これらの人間はまさにイエスを憎みました。
そしてイエスを悪賢く捕まえ、殺すための死の計画に集まっているのです。
今、これらの人は神と礼拝についてあなたと話をすることができたはずなのである。
モーセと律法について....
安息日とすべての大切な戒めとユダヤ教の厳かな儀式について....
しかし、彼らはキリストを憎みました。
この最も厳かな現実を覚えて下さい。
人間はとても信仰的かもしれません。
彼らは、他の者のための信仰的な導き手、教師かもしれませんが神のキリストを憎んでいるのです。
これは、祭司長カヤパの宮殿で1つの学ばれる重要なレッスンなのです。
宗教的であることはキリストではありません。反対です。
最も熱心な狂信者は最も苦く、祝福を受けているものを激烈に嫌悪するのです。
しかし、「時代は変わりました」と言うかも知れません。
今、信仰はとても親しくイエスの名前と関係しています。
それはイエスを愛する必要のある信仰者のためです」
あなたは今、カヤパの宮殿で何の答えも見つける事が出来ません。」
これは本当ですか?
私たちは今それを信じることができません。
イエスの名前は、カヤパの宮殿に時と同じほど今の全キリスト世界で完全に憎まれました。
そして、イエスを後を追うことを模索する人たちも憎まれることでしょう。
私たちはこれを証明するために他を見る必要が無いのです。
イエスはいまだにこの世の拒否されているのです。
イエスの名前はどこで聞くでしょうか?
どこで彼は歓迎する主題となるのですか?
イエスの事をどこで話しますか。
流行的な富んだ家の応接間で....
鉄道車両の中で(19世紀当時の流行)....
クルージングボートのサロンで....
コーヒーショップ、それとも レストランで
要するに、人間のリゾートのどれかで....あなたはするでしょう。
しかし、ほとんど場合においてこのような主題を話す場所ではないのです。
あなたは他のこと何でも話してよいのです。
政治、金、ビジネス、面白い事、馬鹿げた事.....
これらの事はいつでも適当な場所にあります。どこでもいいです。
イエスは決してこれらの適当な場所にはいません。
私たちは、何度も私たちの大通りを見てきました。
この一般的な大通りは、ドイツの楽隊、歌謡曲、および人形劇にて中断されてきたのです。
彼らは決して乱暴的ではなく、咎めます。あるいは気持ちを動かすために話します。
さあ、イエスのことを話すためにこのような場所に人を立たせてみて下さい。
その人は気持ちを動かすために辱めまたは、語るでしょうが、それは交通の邪魔です。
解りやすく言うとこれらは悪魔のための世界であり、どこにでもある空間です。
しかし、神のキリストのための空間はどこにもないのです。
キリストに関する世界の標語は「イエスの名をささやかないで!」です。
しかし神に感謝してください。
もし、私たちの周りに祭司長の宮殿にある答えの多くを見ることがあるのであれば、同様に私たちはらい病人シモンの家に相当するところをあちことに見る事が出来るのです。
そこです。神に祝福されているのです。
これらの者たちはイエスの名前を愛していて、そして石膏のつぼの価値に値されていることをイエスに数えられている者なのです。
それらの者たちはイエスの尊い十字架を恥じていない人たちです。
それらの者たちは夢中にするイエスにある目的を見つけた人たちです。
そしてこの者は喜びの長として数えられた者です。
そしてもっとも高い栄誉を費やします。
それはイエスのためのわずかな方法に使う事です。
働きの質問は彼らに与えられていません。
宗教的な組織ために....
あちこちと走り回るために....
いろんなことをするために....
いいえ、それはキリストです、キリストがそばにいることです。
そして彼が共に従事します。
それは、イエスの足もとに座って、イエスの上に真実な献身の心をもった尊い香料を注ぐことなのです。
読者のみなさん!
それは十分に保証されています。
これは真実な聖書の教えと礼拝にその両方において隠れた力なのです。
クリスチャン個人の命、導きにおいて、もしくは、我々の公の集会に出席するためのすべてのことにどうかかかわらず、
十字架にかかったキリストにおいて適切な感謝は、神にとって受け入れらているすべてにおいて生きてゆくための力となるのです。
純然たるのキリストへの愛情、そしてイエスとの個人的な交わりであり、個人的に、集会として私たちの特色を示さなければならないのです。
そして、天国にてのクリスチャンの裁きにあるのは小さい価値である事が私たちの命(生活)と歴史が証明するでしょう。
しかし、地に裁き(証明)があるのかもしれません。
私たちは個人の歩みへこのような道徳的な力を与える事と、キリストの人格への猛烈な献身としての性格は何も知っていません。
それは単に偉大な信仰の人でも、祈りの人でもありません。
聖書を深く教えられている学生、学者、才能豊かな説教者、あるいは力強い筆者。
いいえ、キリストを愛する事です。
集会においても同じなのです。:力の真実の秘密は、何ですか?
それは贈り物ですか?
雄弁、素晴らしい音楽、それとも堂々たる儀式?
いいえ、キリストを表す喜びです。
イエスがどこにいるのでしょうか。
すべての光の中、命と力です。
イエスはどこにいないのでしょうか。
すべての暗闇、死と廃墟です。
礼拝式、そこにすべての雄弁のための魅力、すべての素晴らしい音楽の呼び物、そしてすべての感動的な儀式の影響を及ぼしたとしても、そこにはイエスはいません。
墓です。
これらすべての事は、完全さの中で存在しているかもしれません。
また、イエスへの献身的な愛はこのように叫ぶ必要があるかも知れません。
「悲しいかな! 彼らは、私の主を取り去りました。
そして、私は知らない、彼らがイエスを置いた場所を...。」
しかし、他人の手で
イエスのために存在される場所を認識しました。
そこでイエスの声を聞きました。
そして、魂によって感じたイエスのまさにその手ざわり、そこには力と恵みがあります。
人間の見解ではすべては、最も完全な弱さに見えるかもしれません。
クリスチャンはこれらのことを覚えておくべきです。
彼らは自分自身で考えるべきです。
彼らに公の集会の中にいる主の存在を認識させてください。
もし彼らが完全な確信で主がそこにいることと言うことができなければ、
彼ら自身で彼らを卑しめさせ、主を待ち望ませてください。
このことには原因があります。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイにより福音書 18章20節
私たちは神にある結果にたどり着くまで、決してそのことを忘れないようにしましょう。
そこには聖い歩みを見ることになるからです。