メッセージEE 2000/12/8
従順とは何でしょうか?
by C.H.マッキントッシュ
(Obedience: What Is It?)
それはクリスチャンの真実な特徴を理解するために、クリスチャンにとって最も大切なことです。
従順。
それは今までキリストに従ってきたという前に、私がクリスチャンでなければならないということが前提になってきます。
神の子供はそのことを理解しています。
私が神の子供であるゆえに、私はその義務を遂行しなければなりません。
私が神の愛が満ちあふれていると感じ、もしくは示されることがあります。
しかし、その前に私は神の愛の交わりの中にいなければなりません。
もし、私たちがこの単純な原理を私たちの心の中に保つのならば、私たちの心の中にある、律法的な考えを持たなければならないという攻撃から自分自身を守ることができるのです。
律法的な考えを持つことは出来ません。そして行うことも出来ません。
そして、私たちはクリスチャンとして要求されている「従順」の中にそのことが全うされているのです。
私たちは最も祝福された主の小道の中に、その歩みを得ることができるのです。
しかし、その前にそれを見つけなければなりません。
私たちは神とともに歩まなければなりません。
では、私たちはこの歩みをどのように得ることができるでしょうか?
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、---それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」
新改訳聖書 テトスへの手紙 3章5〜7節中略
それは神からの無償の贈り物(賜物)です。
すべてはキリストの名のためであり、栄光と感謝がそこにあるのです。
「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 6章23節
私たちはどのようにそれを簡単に得ることができるでしょうか?
言い換えれば、どのように新しく生まれればよいのでしょうか?
それは神のことばと聖霊によるのです。
他の方法はありえません。
私たちは本来「罪過と罪との中に死んでいた者」でした。
新改訳聖書 エペソ人への手紙 2章1節
健全な神の命の脈動は、アダムの息子や娘の中から聞こえてきません。
アダムは人間の生まれつきの性質を表わした、もっとも良い見本です。
その性質は、最も精錬されており、十分に耕されています。
道徳的に優れ、この優れた社会の仕組みの中で、もっとも愛されるべき存在です。
また、単にその性質にあっては、最も信仰的、献身的に見えます。
しかし、そこには神の、もしくは聖霊の命の輝きは存在していません。
このことは人間の心を辱めるでしょうが、そのことが聖書が言っているとおり、はっきりとした真実であり、絶えず維持され、忠実に示されなければならないことなのです。
私たちは「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのです」、ゆえに私たちには神に従う意思も力もなかったのです。
従順という祝福された神の小道を健全に歩む前に、そこに新しい命、新しい性質がなければならないのです。
そして、この新しい命は神の無償の恵みによって、聖書の御言葉によってすぐにでも、聖霊の働きを通して、私たちと交わりを持つことができるのです。
聖書の一つの節、もしくは二つの節は、読者の心の前にはっきりとこの問題を提示しています。
ヨハネによる福音書 3章の中で私たちは「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」ということを読みました。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章3節
ここで私たちはエペソ人への手紙5章で「みことばにより、水の洗いをもって」と書かれているのを読みましたので、ここで書かれている水は聖書の言葉であることがわかります。
もう一度、ヤコブの手紙1章を私たちは読んでみましょう。
「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 1章18節
ここで示されているように、新しく生まれることよりも、完全に自分の力で行おうとする人間の努力の方が、何事においても理にかなうという考えはありえないことです。
それは完全に神による行為です。
それは神のみこころにより、神の力によるのです。
人がアダムの子孫として生まれた性質において神のみこころを行うことが出来るでしょうか?
確かに何もありません。
では、その人が霊的に生まれた時に何かをすることが出来るでしょうか?
それは神が、最初から最後まで、すべてを行います。
それゆえにすべての栄光が神にあります。
この主題において、よりはっきりとした節を取り上げてみましょう。
ペテロの手紙 1章23節で私たちは読みました。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。
あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙 1章23節
この節よりも大切な個所はありません。
その時、その出生の瞬間に、救いの喜ばしい便りがその人の心の上に届きます。
御言葉は神の命のたねであり、聖霊によって魂の中に置かれます。
このようにして、私たちは再び(新しく)生まれたのです。
私たちが良い行いをする者になるための根源において、私たちは更新されたのです。
私たちがガラテア人への手紙4章で読んだように、私たちは祝福された御子との関係に入れられました。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 4章4〜5節
なんと驚くべき恵みなのでしょうか!
ここで、私たちが真実な従順の基礎がはっきりと、そして十分に、私たちの前に置かれたことが解かります。
そして、その結果、私たちは永遠の命を持ち、その結果、私たちは永遠に交わりを楽しむことを知るのです。
ここには律法的な要素はありません。
私たちは律法を基礎として神の僕になるのでなく、神の愛による、祝福された、高貴な基礎を基に、子として従うのです。
私たちは私たちが従順と呼んでいることを思い出さなければなりません。
「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」
新改訳聖書 使徒の働き 22章10節
それは新しく生まれた魂の最初の一呼吸です。
その時、サウルに神の子の栄光がはっきりと示され、地面に打たれました。
そのタルソのサウルの絶望感は、悔いた心から来た問題だったのです。
しかし、その結果、彼は従順する資格がない生き方をしていたため、彼自身、からだも、魂も、そして霊も明渡すように召されたのです。
律法的な要素がそこに何かありましたか?
初めから終わりまでその形跡がありません。
「キリストに対する愛」だとパウロは言うでしょう。
しかし、それはこのように私たちに強要するのです。
「私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 4章13〜14節
ここで愛するクリスチャンの読者へ。
そこにすべてのクリスチャンの従順であるための動機の基礎があるのです。
命が基礎なのです。
多くの者が従うために、その動機を愛しています。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
なんて貴重な言葉ではないでしょうか!
誰が、この従おうとする心に、このキリストの表明された祝福を適切に述べることができるでしょうか?
私たちはそのことをより多く知るために、本気で切望しなければなりません。
それがもし、私たちが神の聖い戒めを習慣的に無視して歩んでいるのなら、従順の基礎をも欺いて歩んでいることも予想できます。
それは「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」と書かれているからです。
私たちは「わたしの戒め」を持っているでしょうか?
私たちは「わたしの戒め」を守っているでしょうか?
それはたとえ話の中に出てくる兄が「「行きます。おとうさん。」と言ったが、行かなかった」時のようです。
それは空っぽの、意味のない、卑劣なあざけりでしかありません。
その兄は父の持つ集まりにおいて、もしくは彼への信頼感において、十分にそれらを楽しめたと予想できるでしょうか?
確かに楽しむことはなかったでしょう。
その兄が自分のもの、もしくは他人のものを正しく価値判断ができたとは、考えられません。
彼の父の手は彼の個人的な要求のすべて受け入れることが出来たのです。
また、彼は十分に父の心を受け入れる準備が出来ていたのでしょう。
しかし、そこに父の手から受け取る贈り物と父の心との交わりを楽しむこととの間に、確かに大きな違いが存在していたのです。
私たちが今まで捜し求めていたことは後者です。
それは私たちの父への御言葉に対する従順を愛する貴重な実です。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 14章23節
父と御子が私たちのところへ来て、私たちのとともに住む場所を作られます。
このことよりも、貴重な天的な出来事は他には何もありません。
私たちにそれが何を意味しているか知ることが出来るでしょうか?
私たちはそれを楽しんでいるのでしょうか?
そのことはすべての者に共通していることでしょうか?
単にイエスの言葉を知り、持ち、維持することを知っているだけでは全く意味がないのです!
イエスは「わたしのことば」と「わたしの戒め」について話しています。
そこにある違いは何でしょうか?
前者は私たちの神への義務を述べています。
後者は神のみこころを表現しています。
もし、私が私の子供に戒めを与えるならば、それは私に従うための子供の義務です。
そして、もし子供が私を愛するのならば、従うことは大きな喜びになるはずです。
しかし、想像してみてください。
子供が私が「これこれのようにしなさい」と言ったことから判断して、子供が直接、戒めを聞くこと無しに、みこころを行ったのならば、子供は私に、感動させる証明を与え続けます。
そして、それは私の願うところであり、神の愛と愛に満ちた実の証明になるのです。
このことは愛する父の心を最も喜ばすことです。
神は、神の導く従順な子供と神のみこころの受け取る者を作ることにより、この愛する従順に応答するのです。
しかし、それ以上のことがあります。
ヨハネによる福音書15章において私たちは読みました。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 15章7〜9節
これは驚くべき真実です!
また、「わたしの愛の中にとどまりなさい。」とも書かれています。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 15章9節
どのように、愛の中にとどまるのですか?
「 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」と書かれています。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 15章10節
ここで私たちは驚くべき真実を学びます。
私たちの崇拝されるべき主である、救い主が地上を人として歩んでいる時に、主が父に報いて歩んでいることを、私たちの従順と同じ種類の従順だと言っている事です。
私たちはイエス御自身との完全な交わりに入れられました。
その交わりとは、一つは私たちが神を愛したことによって愛の中に入れられました。
もう一つは、私たちは報いることが出来る特権に預かりところの従順です。
このことはペテロの手紙第一において、聖霊によって立証されているもっとも祝福されたことです。
ここではクリスチャンたちが「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち」と呼ばれています。
読者の皆さん、このことに注意してください。
私たちはイエスが従ったように歩むために、聖霊によって聖別され、父に選ばれたのです。
このようにこの節ははっきりと教えています。
祝福された者が神のみこころを行うときに、イエスの食物と飲み物を見つけることなのです。
彼のたった一つの動機は、父のみこころを行うことでした。
「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。」
新改訳聖書 詩篇 40章8節
そこには私たちの中にある悲しみのように、イエスの中には反抗する要素は何もありません。
神の名は祝福されているのです。
神は私たちを神御自身と結ばれており、私たちを祝福された交わりの中に入ることを要求しています。
一つはイエスへの父の愛であり、もう一つはキリストの父への従順です。
素晴らしい特権がここにあります!
私たちはよりそのことを認めるべきです。
私たちは神が言われたすべての戒めと御言葉に従うことをより愛し、神に報います。
そのように神は私たちにご自身を明らかにし、私たちとともに住まいを作るかもしれません。
祝福された主よ、そのことは私たちをすべての事柄においてより従順にさせるのです。
INDEXに戻る⇒