メッセージ 2000/12/23
聖書の語るバプテスマ
(BAPTISM : WHAT SAITH THE SCRIPTURE? by H. A. IRONSIDE)
By H.A.アイアンサイド


第二版を発行するに至って

この小冊子は最初の出版から数年が経過して、今、新版を発行するに至り、今回、私は最初の版に多くの変更を加えました。
しかし、私は最初の版にて言わんとしている事は何も変えてはいません。
今は、私が数年前に信じていたことよりも、広い考えを持ち、多くが満たされ、それが多くの信ずべき真実であることを見つけ、また、それを信じて続けているのです。
この重要な問題を改訂し、追加したのは、私が神の人たちに、今このことを述べ、すぐに結論付けさせたいのではなく、祈って考え、そして、この問題の中に目が向けられることを、私ははっきりと望むるからです。
その偉大な要点とは、バプテスマではなく、キリストにあるということです。
とはいえ、彼らはキリストの名を愛し、御言葉を守ることを求めています。
しかし、彼らが良くないことを心に抱いている時、キリストにある霊は、違った考え、そして教会の儀式による慣習について、激しく嘆いているのです。
H.A.アイアンサイド CA、1915年3月


第一版を発行するに至って

バプテスマにおきる見解において、衝突し、多くの問題を起こしてきたこれらの者たちには、必ず助けが必要となります。
私はバプテスマについての事柄を注意深く読み返すことを希望します。
バプテスマとは何か注意深く学び、このことについて、教会の儀式の慣習が、ある者たちがいくつかの大変なことがらを強要していることを知ります。
私はその昔ながらの教会のメンバーが完全に「間違ったバプテスマ」を拒むようになることが、私の義務だと感じているからです。
そして、その他の提案されたテーマを十分に学んだ後に、神のみことばにあって、私は主に信頼を置くのです。
この小冊子はその結論に至ることを望み、その結論を与えるでしょう。
もし、出版にあたって言い訳をする必要があれば、このようなことばで述べることが出来ます。
この数年、私が「福音のための働きをする」ために出かけている間にも、この問題についての考えを文章化することは私を何度も悩ませました。
私は十分にバプテスマについて語っている出版物を見つけることは出来ませんでした。(議論好きな出版物はありましたが、適当だと思える物はありません。)
私は、私の信じている聖書がバプテスマについて何を教えているかをはっきりと、可能な限り手短に、語ることを試みたいのです。
バプテスマが天の御国に、神の家に、もしくはキリストのからだへと、その本当の意味が何を表しているか、どうかはかかわらず、その質問はその現実に対して言及されることはありませんでした。
バプテスマが、これら三つのものが、その本当の意味を表していると私は信じてはいません。
ここでは私は単に、そのことを語ることが必要だと感じています。
そして、その一つがその本当の意味を表しているとみなすことではないことが、重要だという思いが私にはあります。
(そして、他のこととして注意してみると、聖書は決してこれらの三つがその本当の意味を表しているとは書いていません。)
しかし、その中に、主キリストの弟子のために、主のみこころが明確に表されています。
それゆえにキリストに認められることを願うすべての者のために、聖書ははっきりとした利益を与え続けているのです。
私はそのフレンド派、もしくはその他のクリスチャンのメンバーとともにクエーカー派として知られるこれらの者たちはこのような儀式(しきたり)を認めていません。(このようにバプテスマを無視することにより、多くのものを失っています。)
しかし、彼らはすでに王国に入っているのです。
彼らはすでに神の家であり、キリストのからだなのです。
バプテスマは、確かに告白したという立場に結びつくでしょう。
バプテスマは論じ合うことではなく、主張されることです。
バプテスマは単にこれらの告白へと向かうことであり、そして、幼稚で無意識に起こることではありません。

そのみことばは単純です。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 3章27節

このことは告白したクリスチャンにとって真実なこととして受け取ることが出来るのです。
その者は、バプテスマを受けて、公にキリストにつく者とされ、言い換えると、彼らの主としてイエスを認めたのです。
それは教会の儀式(しきたり)として適切に話されていることではありません。
しかし、王国の儀式としては、私は認め、教えています。
それは主の晩餐とは違って、バプテスマは教会が始まる前に行われ、もう一つは救われた後に行われることなのです。
しかし、その王国に加えられるかどうかは、クリスチャンにとって、とても疑わしいことですが、苦難の中にある聖徒には重要なことです。
それとも、私は兄弟を尊ぶことをまったく知らないのでしょうか?
確かに、私がある者に多くの貸しがあります。それは*「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」たるものなどを筆記してしまったからです。
しかし、私がその他の者たちの賜物、敬虔さを覚えていたとしても、根本的には彼らと意見が合うことはありえません。
私は明白な聖書の根拠を持たない限り、私の教える者たちに注意をうながすのです。
私は先の書いた本を読んだ時のことを認めます。
これらの神学はもっともらしく、私のために良き香りを放っているように思えました。
しかし、私は彼らの書いたことから、神の言葉へと立ち返った時、私は真実な神学を見つけることは出来ませんでした。
それは彼らが聖書の中から、彼らが教えていたことを単に読んでいただけのように私には思えました。
いや、むしろ真実な解釈と言うよりも、私的解釈と言うべきです。
学ぶために言うべき事を吟味するために、「家庭における子供に対するバプテスマの問題」を研究することを望む者は、著者ウェイター・スコットによる「クリスチャンのバプテスマ」、著者F.W.グラントによる「バプテスマついての信仰のための秘訣」そして、「Baptism of Households(家族のバプテスマ)に対する異議の批評」の中で、はっきりとそして、恵み深く述べられた議論に導かれるでしょう。

「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 14章29節

(少なくとも、この節の原則ははっきりとここで適用できるのです。)
真実なみことばの誤りのない導きとともに、私を助ける聖書のページにあって、私は私の述べていることを注意深く比較することを求めているのです。

「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 5章21節

H.A.アイアンサイド オークランド、CA、1901年4月

訳者注-* 「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」について
カトリック教会、及び一部のプロテスタント教会において、信仰を個人的なものとせずに、家族の一員が信じれば、家族全員が救われるという考えがあります。
 明らかに、神の宣言を無視した教えです。
彼らはこの箇所からそれを証明しようとします。

「「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。」

新改訳聖書 使徒の働き 16章31〜33節

この使徒の言葉は看守に対して、預言的に交わした言葉です。
つまり、看守に対して「あなたが信じれば、結果的にあなたの家族も信じます」ということです。
ここで、「あなたが信じれば、自動的にあなたの家族も天国に行ける者になります」ということを指していないのは明白です。
また、ここから「幼児洗礼」を主張してきますが、あくまでも救いは「御子(主イエス)を信じる」ことによるのです。
ですから、信仰告白をしない者に対してのバプテスマは意味がありません。
もし、「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」を述べるのであれば、聖書全体が教えている「信仰による救い」をすべて否定することになります。

幼児洗礼について--「福音を理解できない精神的な弱者や、幼児は天国に入れないのですか?
神様はそんなひどい方なのですか?」と尋ねられることがあります。

イエスは「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と宣言しています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章3節

私はそのように質問される方に尋ね返します。
「神様はご自分の選んだ者に対して、そんなに無力なのですか? 
また、神様はあなたに子供を地獄にやるために与えたのですか?
アブラハムはイサクを取り返すことができるという信仰があったからこそ捧げたのではないのですか?」
私たちには福音を述べる責任があります。-


聖書の語るバプテスマ

前書き

多くの者たちがこのテーマについて、語り、そして本を書いています。
表現された意見は、さまざまな、そして、矛盾することを語り、学者によってバプテスマという言葉は、非常に広く異なっていますが、十分に価値のあることを与えています。
それゆえに、バプテスマというテーマについて書くことを、自然にためらってしまうのです。
しかし、その答えを得る方法について、唯一の本の中にある一節の聖句が、その聖書という重要な権威について語っています。

「 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 1章5節

誰が、いくつかの問題について、私たちの前にあるこのようなみことばと共に、本当に主のみこころを求めているでしょうか?
その者は、神のみことばに信頼することに乏しく、自分自身でこの問題について求めることを恐れています。
私たちはただ祝福された聖書によって完全に与えられた、みことばに立ち返りましょう。

「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 3章16節

そして、私たちには語られています。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
新改訳聖書 詩篇 119章130篇

よく似たみことばが私たちを励まします。

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」
新改訳聖書 詩篇 19章7篇

そのことは単に、その時私たちへと、おそらくより単純に、簡単に教えられていることであり、人間の掘ったあらゆる水路から、神の教え自身の偉大なる川へと流れるためことへと立ち返ることであり、私たちには恐れる必要がないのです。
そして、私は尋ねます。
「聖書はバプテスマについてどのように語っているのですか?」
それははっきりとした主題にあって、大いに語るべきことなのです。
その真理を知らないことは神の栄光にはなりません。
最初に、私は最後に引用した節を読者の上に強いることを願います。
それは、私たちの前に神への改心の偉大な主題をもたらすからです。
「主の律法(教理)は完全で、その主題は魂が改心することです」。
ある者は真実に神に立ち返ることがどういうことか知りません。
他の言い方をすると、その者は新しく生まれてなく(ヨハネの福音書3章3節)、神の事柄を悟ることに期待していません。
聖書ははっきりと宣言しています。

このように「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 4章18節

そして、「 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」と書かれています。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章11節

この章の最初の20節を見てください。
私の読者の皆さん、これまでに本当に神に改心しましたか?
それがあなたの告白であるならば、どのように改心へともたらされたのですか?
あなたは今、救いのために何に根拠をおいて安らぎを得ているのですか?
この瞬間、あなたは主イエス・キリストを信じている者ですか?
もしくは、私たちに主イエス・キリストについて語られている福音が本当に、何であるか信じていますか?
あなたはすべてのことから義とされ、罪の赦しの喜びを知っていますか?
あなたは真実に言うことが出来ます。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章1〜2節

これがあなたの状態と一致しない知識なら、あなたの魂が今だこの知識の中にはいないのです。
もし、これらの問題はすべてを否定して答えなければならないのなら、私は神の面前で厳粛なあなたの状態をしばらく考えて欲しいのです。
もし、救われていないのなら、あなたは生まれながらの罪人です。(ローマ人への手紙3章19節)、そして、習慣的な裏切り者(無法者)です(箴言13章15節)
また、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子」(エペソ人への手紙2章3節)であり、習慣的な不従順の子(エペソ人への手紙2章3節)なのです。
私たちは、神から離れて生まれたゆえに、生まれながらの異邦人(エペソ人への手紙2章12節)であり、習慣的に神を離れ(コロサイ人への手紙1章21節)、神を敵として歩んでいる者でした。
あなたは失われた人類から生まれたゆえに、生まれながら失われた者であり(マタイの福音書18章10〜11節)、同様に習慣的に失われているのです。
それは故意に、神から遠く離れ、さまよっているからです(ルカの福音書19章10節)。
その時、あなたは恐ろしい状態にあるのです。
あなたの今、そして、これから、あなたはあなた自身の力によってその救いを取り戻すことに完全に無力なのです。
バプテスマはあなたを手助けしません。
教会の会員であることは何の役にも立ちません。
聖餐式にてパンとぶどう酒を互いに共有することは、あなた自身を裁くことになります。
宗教的な努力は完全に無駄なことです。
「肉によって生まれた者は肉です。」
(ヨハネの福音書3章6節)
私たちは、その基準より上を立って歩むことは出来ません。
教えられたとしても、教えられた肉でしかありません。
宗教的であっても、宗教的な肉でしかありません。
関心と教養の量は「魂」を変えることは出来ません。
ちょうど、肉によって生まれた者は肉であるように、御霊によって生まれた者は霊なのです。
彼らは新しく生まれなければなりません。
新しく生まれること無しに、希望はありません。
救いはありません。
天国もありません。

「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 15章50節

この唯一の方法によってのみ、あなたは救われるのです。
その唯一の方法とは、あなたのために来られた、永遠におられる神の御子です。
このように書かれています。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章11〜13節

ここにあるのはあなたのための希望です。
そして、ここにだけあるのです。
神によって生まれるということは、血による救いの保証にはなりません。
良い決心と、十分に価値のあると思われる告白は何の役にも立ちません。
何者かに施行された儀式によっては、決して救われることはありません。
ただのあざけりでしかなく、人の意欲でしかないのです。
ただ、唯一の聖なる御方は、長い間、反抗され、拒まれ,ひどく扱われたのです。
ただ、救い、新しい誕生を成し遂げる方によるのです。
「ただ、神によって生まれた」のです。
「ことばは人となって」宗教的な学者にそのことを話しました。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 3章5節

神のみことばによる私たちのきよめ(エペソ人への手紙 5章26節)を表わしているゆえに、みことばは水にたとえられています。*
それは新しい誕生によってもたらされるからです。(ペテロの手紙 1章23〜25節)

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 1章18節

このことばは聖霊によって適用され、信じた罪人は新しく生まれます。
(*私は、多くの者がここで「主がバプテスマについて述べている」と考えているのを知っています。
そのようなことは決してないことを示すために、私は尊敬するキリストの僕のペンから以下の注意を加えます。
その僕ははっきりとあらゆる者へ示しているので、慎重に指摘されている事実を十分に考えてほしいのです。
クリスチャンのバプテスマ--ここで水によって示されたのは儀式(バプテスマ)のことではありません。
私たちはこの点についてはっきりさせましょう。

第一に、クリスチャンのバプテスマは、主の復活の後まで定められていません。
そして、それはキリストとともに死に埋葬されたことを示しているからです。
(ローマ人への手紙6章4節、コリント人への手紙第二2章12節)
クリスチャンのバプテスマは、主の死まで、意味も、効用もなかったことがはっきりとわかります。
今、主が新しく生まれた命、祝福された命について話され、その時、主は喜ばれたのです。
それは死への埋葬ではありません。

二番目に、主は十字架にかかる前に、神の王国について話されました。

そして、「だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 16章16節

三番目に、キリストの十字架の前に、主によって使徒たちに語られたみことばを通してはっきりとしたことがあります。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 15章3節

そして、それはクリスチャンのバプテスマを定める前のことであり、十二人とその他のイエスに従った者たちには意味のないことでした。
そして、そのことに彼らは適応させることは出来ませんでした。
矛盾する重要な働きについて、主はニコデモに話しかけ、今、人が従うべき、礼典の儀式ではないことを示しています。
バプテスマは魂のためであり、からだのためではないことが、ここで教えられています。
(C.E.スチュアート著作、ヨハネの福音書の追跡より---C.E.Stuart in "Tracings from the Gospel of John ")
私は私の思いとして付け加えるのなら、ヨハネの福音書4章14節で主イエスキリストの話している「わたしが与える水」が決定的な証拠であるというかもしれません。
3章、もしくは4章のどちらもイエスは儀式について言及していません。

イエスは「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」について語っているのです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書 4章14節

あなたは今、神のことばを信じていますか?

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書 3章16〜18節

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 3章36節

「あなたは人の子を信じますか。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 9章35節

あなたが今、クリスチャンとして信じているのなら、これらの聖句はあなたに語ることができます。
/
「ヨハネのバプテスマの悔い改め。」
今、私たちは本当の主題を見つけるために前進すべきです。
最初に、私たちはヨハネのバプテスマの悔い改めについて語ります。
これは、クリスチャンのバプテスマ(使徒による働き19章1〜7節)とは全く別のものです。
このヨハネのバプテスマによって、ユダヤ人の悔い改めと罪の赦しの必要性を表しています。
ヨハネのバプテスマはキリストの死について、人々に話しかけることができません。
しかし、疑うことなく、神のみこころにあって、「死は、罪人に当然支払われるべきであり、主イエスは罪の身代わりに死なれた」ということが述べられています。
イエスご自身のバプテスマもこのような意味があったはずです。
しかし、私はこのことの後で話すべきことがあります。
ユダヤ人のためには、バプテスマを受けるという事は、死と裁きだけがふさわしい者である事を認めることでした。
それは自分を裁くと言うことを表して、それは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれました。
それはクリスチャンのバプテスマのような形式にて行われたものです。
しかし、私たちがバプテスマの方法と目的の変化について読んだとしても、私は誰もこの問題を求めないと思います。
私たちには、バプテスマの形式が変わったという記録が聖書にはないからです。
そのことは使徒自身が明白にしています。
何人かの者たちは、主と交わることにふさわしくなった後、すぐにバプテスマを始めたからです。
単純に、彼らは同じバプテスマの形式を実際に行うために出て行ったのです。
このバプテスマは彼らの慣習に従って教えられた通りのものです。
彼らの何人かの者たちは、バプテスマのヨハネの従者であり、「神の小羊」(ヨハネの福音書 3章35〜40節)として教えられて者たちでした。
使徒による働き1章21〜22節を見ると、使徒たちすべてがバプテスマのヨハネの従者だったことがわかります。
確かに、使徒たちはキリストから、新しい方法としてバプテスマを行うことを学びませんでした。
ヨハネの福音書3章22、26節 4章1、2節を見てください。
(ここでの面白い点は弟子たちの習慣と関連しています。上記に書かれていることから、兄弟によって私に示されたことです。)
その時、母親たちはイエスのところへ小さな子供を連れてきましたが、弟子たちはその子供たちを追い払いました。
もし、弟子たち、もしくはヨハネが幼児洗礼を習慣的に行っていたのなら、そのような行動はしていたでしょうか?
しかし、イエスは小さな子供たちを迎え入れ、彼らを祝福しました。
今日、クリスチャンの親が確信して行っているようなバプテスマをイエスは授けていません。
つまり、ここでは数年前、私は「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」という本を書きましたが、その著者として、再びここで宣言することはありません。
両親が祝福のために祈り、バプテスマを授けていない子供をキリストのもとへつれてゆくことは、単にカインの捧げ物をもたらすだけです。

キリストは「天の御国はこのような者たちの国なのです」と宣言されました。
新改訳聖書 マタイの福音書 19章14節

バプテスマをこの子供たちに授ける必要はありませんでした。
その者たちはすでにこのような者たちです。
それは非常に単純です。
子供のような者が王国の真実に従う者として認められます。

ヨハネについて、今、私たちは読んでみましょう。

「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」

新改訳聖書 マタイの福音書 3章1、2節

その結果は5,6節において記録されています。

「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」

新改訳聖書 マタイの福音書 3章5、6節

マルコは同じように証言しています。

「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」

新改訳聖書 マルコの福音書 1章4、5節

もし、これらの節において、川の「中」ということに重要な点があるのなら、「浸す」ということはヨハネのバプテスマの決定的な様式とは言えません。

なぜなら、何人かのバプテスマの志願者を水の中に連れて行き、その者を腰の深さに立たせ、頭の上に少量の水を注ぐだけ(滴礼)だとと言うのなら、このような考えは信じられない光景ではないでしょうか?
ヨハネの福音書の中にあるこの節には、このようなありえない錯覚は、聞く耳を持つ人々のために、追放する必要があります。

「一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章23節

そして、彼らは来て、バプテスマを受けました。
もし、「多くの水」がバプテスマを受けるための場所として選んでいるのなら、バプテスマは少量の水を注ぐことではないことがわかります。
このゆえに、聖書のいうバプテスマの方法は主ご自身によって確認できることです。(聖書の他の箇所で多く確認されています。使徒の働き8章38、39節 ローマ人への手紙6章3〜5節 コロサイ人への手紙2章12節)

また、「イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると---」と書かれ、主によって確認され、実行されたことがわかります。
新改訳聖書 マルコの福音書 1章9、10節

バプテスマはからだ全体を水に浸すことを表わしていて、滴礼はバプテスマではありません。
もし、滴礼が主によって定められた儀式だというのなら、死の判決の下にあることと、その永遠の裁きを忍耐して受けなければならないと語っていることになり、バプテスマを真実として受け取ることはできません。

そして、イエス御自身が、ここで受けたバプテスマは私たちの受けるバプテスマの手本ではありません。

イエスご自身が「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と語り、すべて父を知ると告白する服従者である私たちにそのことを気付かせようと、神はそのことを現わしているのです。
新改訳聖書 マタイの福音書 3章15節

しかし、このバプテスマは私たちがすでに気付いているように「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ」(新改訳聖書 ルカの福音書 3章3節)なのです。

イエスは汚れた霊が告白しているように「神の聖者」(新改訳聖書 マルコの福音書 1章24節)であり、ガブリエルも証言しているように「聖なる者、神の子」(新改訳聖書 ルカの福音書 1章35節)なのです。
なんと驚くべきことでしょうか。

「ヨハネはイエスにそうさせまい」としました。
新改訳聖書 マタイの福音書 3章14節

ヨハネはイエスが神の御子であることを知ってました。
(ヨハネの福音書 1章29〜34節参照)
ヨハネはこの不思議な出来事以来、当惑し、牢獄の中で「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と弟子たちに託しています。
その時、ヨハネはイエスがメシアの権威について、疑いを持ったようです。

しかし、すべての者が「今はそうさせてもらいたい」(マタイの福音書 3章15節)と言う言葉を指摘しますが、その時の出来事は私たちに完全な理解を与えることが出来ます。
律法によって、赤ん坊に八日目に割礼を行われました。

現在では、ヨハネに前もって与えられた御言葉によって支配されます。
ヨハネのバプテスマは、ヨハネ自身がこの国家の一部分としての悔い改めた集まりにあって与えたものなのです。
イエスは羊飼いとして、その時の律法と神の証言である儀式への服従の門によって、その囲い(*参照)の中に入ったのです。

(*ユダヤ教は神が所有されています。そして、バプテスマを受けた一部の者だけがこのように言う事が出来ました。

「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。
イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない。」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ。」と言われるようになる。」

新改訳聖書 ホセア書1章9〜10節)

ヨハネへのところへと、門番として、イエスは公然とその柵の中に入って行きました。
しかし、それは、イエスはご自分の羊を名前で呼び、彼らを導き出したのです。
しかし、このように行うことが出来ずに、イエスは良い羊飼い(ヨハネの福音書10章)として、羊のためにご自分の命を捨てました。
そこにいるほかの羊とは、ユダヤ人の囲いではありません。
従って異邦人のことを指しています。
これらの羊は、イエスが導き、このように言うことが出来ました。

「この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章16節

この群れとは柵を指しているのではありません。
すべてイエスの羊を指していて、今イエスはそのすべてを導き出しています。
それは良く知られた事ですが、この16節後半にて使われている「柵」と訳された"fold"(KJV)という単語は元の単語の意味することは違い「群れ」 "flock"と訳されなければなりません。

訳者注)すでに新改訳聖書ではそのことが反映されています。

ヨハネの職務ははっきりとした分離でした。
荒野でヨハネが現れた時、人々の道徳の状態はマラキ書の中で、絵で見るように描写されています。
そこでは神の彼らとの9つの部分から成る論争に気がつきます。
(マラキ書1章2、6、7、12節 2章13〜16、17節 3章7、8、13〜15節)
それでも、私たちは残りの者が3章16〜18節の中にある集まりから分離されていることがわかります。
私たちはルカの福音書の前半にて、このような集まりについて気がつきます。
シメオン、アンナ、疑うことなく、マリア自身も、ザカリア、そして、エリサベス、これらすべての者が「エルサレムの贖いを待ち望んでいる」のです。
新改訳聖書 ルカの福音書 2章38節
ヨハネのバプテスマは表面的にはこの残りの者(待ち望む者)の立場を取ります。
このバプテスマによって、主は彼らと主ご自身とを認識し、同様に主の前触れの職務にあってイエスがキリストであることの保証でもあります。
彼らは神の律法の違反者として死ぬべきものとして、国家の一部が部分的にバプテスマによって悔い改めるのです。
主イエスはバプテスマにあって、この立場を取りました。
それは、イエスが彼らのために死ぬ準備が出来ているという約束のしるしだったのです。
バプテスマを受けに来た者たちは支払うことができなかった負債があることを、バプテスマを受けることにより、美しく表しているのです。
イエスはバプテスマでにあって、彼らの注意を支持し、何もためらうことなく御自身を提供しました。
イエスには罪がないため、悔い改める必要がありません。
しかし、イエスはバプテスマを受けた人々が律法の呪いを持つために達成することの出来ない、すべての義を達成したのです。

このように、彼らの罪と受けるべき報いをおおい隠すためではなく、求める者たちにイエスの取った立場を喜ぶためであり、彼らはその罪と受けるべき報いを告白したのです。
イエスにとって、隠すことをせずに求めた人々と同じ立場を取ることは喜びなのです。
しかし、イエスは彼らの罪と受けるべき報いについての告白しました。
キリストの霊が詩篇作者を通して宣言しています。

「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」

新改訳聖書 詩篇 16篇2〜3節

イエスのバプテスマとはこのことの行ったことではないでしょうか?
イエスの目には「地にある聖徒たち」とは誇り高い、自分を義とするパリサイ人ではありません。
彼らはバプテスマを受けた卑しい仲間であり、一般人と収税人でした。
恐らく彼らの多くはこのような人たちでしょう。
しかし、この人たちは神を義とし、自分自身を罪ある者とし、来ようとしている王国を期待していました。
その王は、聖霊が下ることにより任命されたということを知るのです。(マタイの福音書3章16、17節 ヨハネの福音書1章32〜34節)
このバプテスマは分離させられた仲間とイエス自身とを結びつけるのです。
しかし、ヨルダン川でのイエスのバプテスマは、それまでにイエスが経験しなければならない、もっとも厳粛な浸礼(バプテスマ)だったのです。
イエスは残りの選ばれた者たちのためだけではなく、イエスの偉大な捧げ物を通して救われる全て者のためにバプテスマをお受けになったのです。
イエスのバプテスマはこのことの誓約です。
同様に 十字架によるイエスの栄光による方法をほのめかしています。
旧約の預言者はキリストがどのように「苦しみを受けて、それから、彼の栄光」にはいるかを証言しており、ペテロも私たちに「キリストの苦難とそれに続く栄光」について語っているのです。
それはイエスのバプテスマが、単に私たちに示されただけではありません。
イエスのバプテスマは、イエスの復活後に定めたバプテスマの目的とは全く違う性質を持っています。
ある人はうまくこのことを表現しています。
「イエスのバプテスマは拒絶する残りの民に自分自身を示すことであり、私たちはバプテスマによって、キリストを拒絶する者を見分けます。」
ヨハネの証言は「準備をせよ!」です。
教会の誕生の後で、ヨハネのバプテスマだけを受けた者たちに再びバプテスマを授けていることを知ります。
その時には、すでに主イエスキリストの死と復活についての十分な真実が宣言されていたからです。(使徒の働き 19章1〜5節)
私たちには記録されてはいませんが、十字架の前にヨハネのバプテスマの儀式に服従したこれらの人たちに再びバプテスマが施されたはずです。
ヨハネの弟子たちの「キリストとの結びつき」はすでに、ヨハネと12人の弟子たちと他の者とともにその者たちは認められたものでした。
まったくバプテスマを受けていない者たちは「悔い改め」にあっての救いであり、ペンテコステの日に3000人の人たちにバプテスマを授けることにより新しい時代(dispensation)の働きを開始したのです。
その時の様子は恐ろしいものでした。
これは私たちの身変わりとして、主イエスが耐えられた十字架での怒りのバプテスマを表わす、クリスチャンのバプテスマとして伝え、十分に理解するところのバプテスマです。

次に述べていることは、次の詩篇の節を十分に深く考えた者によって理解されたことであり、不確かな読み方ですが、預言としての詩篇は私たちに多くのことを語ることが出来るのです。

「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」
新改訳聖書 詩篇 42篇7節

前の節で、感動的に、適切に、聖なる十字架の叫びが聞こえてきます。

「ヨルダン---から私はあなたを思い起こします。」
新改訳聖書 詩篇 42編6節

これは真実に、刈り入れ時(型として救いの刈り入れ)にヨルダン川の大水の中に浸かることで、反典型的な箱舟を示すことが出来ます。

「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが―」
新改訳聖書 ヨシュア記 3章15節

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」その時、神は十字架の上で、罪人の当然の報いをイエスに与えらました。
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 2章24節

神の御顔は十字架の上で苦しむイエスから隠された、暗闇の恐ろしい3時間の間に、イエスの汚れのない魂の上をこの大水(単に水ではない)が過ぎていったのです。
その裁きのうねりと怒りにあって「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」という御言葉を成就されたのです。

その者は「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています」
と言うことができました。
新改訳聖書 詩篇 69編2節

とても厳粛に、それは同じ詩篇の69章の14、15節にあってイエスの叫びを私たちは聞いているのです。

「 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。
大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。」

新改訳聖書 詩篇 69編14、15節

ここでは単に罪人の身代わりとして与えられた正しい神の裁きだけではなく、それ以上に残酷な侮辱と憎悪に満ちたバプテスマとしての見方が出来ます。
そのバプテスマがイエスの頭の上に忠実に注がれたため、彼は信じる者を喜んで救って下さるのです。
詩篇の88節では、再び律法の破った呪いだという見方を詳細に描き、その者はこのように叫んでいるのです。

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。
そこは暗い所、深い淵です。
あなたの激しい憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を悩ましておられます。セラ」

新改訳聖書 詩篇 88編6、7節

この最後にある「セラ」はクリスチャンにいかに訴えることでしょうか!
ああ!私の魂よ、私は立ち止まり、私がいかに恐ろしい死から救われたかを、またそれから失われた私を贖うために支払われた代価がいかに偉大なものかを、私は今、はっきりと考えてみたいのです。
上記に述べたことが、イエスの言った言葉の中に私たちにあることを思い浮かべさせます。

「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」
新改訳聖書 ルカの福音書 12章50節

限られた知識において、イエスの弟子たちはイエスと共にこのバプテスマを分ち合いました。

「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
新改訳聖書 マタイの福音書 20章23節

それは単に人から来たものであり、神から来たものではありません。
彼らはユダのように(使徒の働き12章2節)、そしてヨハネのように(黙示録1章9節)御元に下ってゆくことが出来ました。
しかし、この時、彼らは何がこのバプテスマに含まれてるかを知りませんでした。

何も知らずに「彼らは「できます。」と言った」のです。
新改訳聖書 マタイの福音書 20章22節

私たちがローマ人への手紙とコロサイ人への手紙の両方において確認されるように、このことは他のすべてのバプテスマの上に私たちに描かれている、偉大な、そして厳粛な真実だと言えるのです。
何が論議されようとも、私たちが一見して、聖書にあると理解できるようにバプテスマとは水に浸すことです(浸礼)。
そして、それはキリストの死にバプテスマされるという、言葉に出来ないほどの貴重な特権なのです。

次に、私たちは「主の命令」という面からバプテスマの立場を考えてみようと思います。
共観福音書の後半の章において語られているように、バプテスマとは十字架の苦しみを通った後に、復活された主による命令であることを知ります。
ルカはバプテスマについてまったく言及してなく、福音を語ることに専念しています。
バプテスマはコリント人への手紙第一15章1〜4節、1章17節のように福音の一部ではありません。
福音とは神の御子に関することです。
(ローマ人への手紙第一1章1〜4節)
そして、それは儀式に関することではありません。
福音とは御子の働きであり、信じる者が信仰によりすでに義とされたこと、恵みによることが主題であること、どのくらい祝福されたか、適切に人に示しているのです。
(テトスの手紙2章11〜14節)
私たちは、マタイによる福音書とマルコによる福音書の中で記録されている、主の命令について学ぶことができます。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。
わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(アーメン)」」

新改訳聖書 マタイの福音書 28章18〜20節

私たちはこのバプテスマは国家としてのバプテスマと言う考えがありますが、「国家としての悔い改め」が優先して考えられない限り、その確証を見出すことは出来ません。
すべての国に福音が宣べ伝えられるのです。
現実に国全体として弟子になれるならば、その時始めて、これらの者にバプテスマを授けることは適当なこととなるでしょう。
しかし、それは未来に現実に起こることなのであり、この箇所はそのことを示しているのではありません。
(ゼカリア書 14章16節)
現在、少なくとも、私の判断によると、私たちに示されていることは個人的にバプテスマが命令されているということです。
ここではっきりと言える事はマルコの福音書16章では、主のみことばに従う、キリストのしもべのために、信者、もしくは弟子にバプテスマを授けるということが語られているということです。
従って、この命令はむしろ弟子を浸すために語られたのです。
しかし、このみことばは主イエスを現実に愛する者はこの問題にある責任を避けるための言い訳とするでしょう。
それはしもべとして担うべき責任を転化することであり、神が示されたとおり行われたかどうか、自分自身吟味することはありません。

「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書 28章20節

このみことばは私たちが福音の受領者であるという重要性が、私たちに神のみことばが実行されなければならないことを示すのではないでしょうか?

確かに私たちは「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」という主の言われたみことばを覚えることに欠けるのではないでしょうか?
新改訳聖書 ヨハネの福音書 14章23節

それが主に従う心なのです。

同様に他の個所でも「 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とも言われています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書 14章15節

そして、もしこれらの考察が十分ではないのなら、使徒の働き2章38節にあるペテロのメッセージの命令によって確証されるでしょう。
これはクリスチャンのバプテスマに関するものではないでしょうか?

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
新改訳聖書 使徒の働き 2章38節

コルネリオの家で行われた、聖霊による命令がここにあります。

「そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。」
新改訳聖書 使徒の働き10章48節

それゆえに、バプテスマは人としての主によって直接命令されたのではなく、使徒を通して聖霊によって、そして、確かにキリストのみことばの一つでもあり、イエスを愛する者によって守られているのです。
そして、そのバプテスマの方法は「父、子、聖霊の御名によって」行われるのです。
そして、それは実際には「死にあずかるバプテスマ」であり、三位一体の名によって行われなければなりません。
なぜなら、父、子、聖霊の御名が十字架の上に捧げられた人の子にあって、ひとつになり関係していることだからです。
それは神が父として、御子を引き止めませんでした。

「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてある通りです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書 3章16節

一方では、御子が苦しむ者として自発的に志願したのです。
(ヨハネの福音書10章17、18節)

しかし、それは「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった」ものなのです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章14節

もしくは「主イエスの御名によってバプテスマを受けた」(使徒の働き19章5節)と書かれ、先ほど引用した使徒の働き10章28節にも同様なことが書かれています。
これらの聖書個所が誰の権威によってそのことが行われたのでしょうか?

ヨハネのバプテスマと主イエスのバプテスマとの間に特に対照的なものを形作っています。
私たちの前に単に守ればよいというものではないのです。
また、それは見方によって中身が違ってくるようなものではありません。
私は聖書の言う十分なバプテスマの方法を得ています。

私は「主イエスの御名によって」もしくは「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」のです。
マルコによる福音書16章15、16節で、バプテスマは直接信じることと関連していることがわかります。

そして、バプテスマによって、公な信仰の言い表わしを作り出し、このように「口でイエスを主と告白」することなのです。
では、読んでみましょう。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」

新改訳聖書 マルコによる福音書16章15、16節

しかし、私たちは「バプテスマを受けないものは罪に定められます」とは読みことはしません。
聖書にははっきりと書かれています。

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章5節

しかし、真実なクリスチャンは主とともに行動することを望み、それを当然のことと思います。
そして、このように私たちは意味のない形式から離れて、バプテスマの意味する立場を正しく理解して、バプテスマを信仰の最初の行動と見なすべきです。
一部の者たちは福音主義者の良き信仰を持ち,浸すことによって救われると主帳するかもしれません。
その福音主義者は魔術師シモン(使徒の働き8章9〜13、18〜23節)のように、すべてが本当のクリスチャンとは限りません。
しかし、聖書の中に、働き人が信じていない者だと知りながら、バプテスマを授けた。もしくは神の御子を信じる信仰があまりに若いのでバプテスマを授けないという記事を私たちは読んだことがありません。
(ピリポは男にも女にもバプテスマを授けました。(使徒の働き8章12節)
もし、小さな子供にバプテスマを授けることが、使徒の時代の主題だというのなら、その者はバプテスマについて考え、述べる場所を得たのです。
現在の福音主義者である者たちはピリポを例として歩むべきです。
その者は何も恐れる必要はありません。
それは聖書と矛盾することを行っていることを知ったからです)
使徒の訴えから明らかであるように、バプテスマはバプテスマの意味する主題の部分的な知識なのです。

ローマ人への手紙6章3節には「あなたがたは知らないのですか」と書かれ、それはキリスト・イエスにつく(への)バプテスマ」と言われています。
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章3節

私たちはそのことを十分に述べている個所を引用しましょう。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエス (*注)につくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙6章1〜5節

*注(につく(KJV訳ではunto))より適した言葉がここにあります。
ギリシア語の前置詞はこちらの表現の方が適しているでしょう。
第一コリント10章2節を見てください。
イスラエルは「モーセにつくバプテスマ」を受けたと話されています。
そこに同じ言葉があります。
彼らはモーセという指導者に分離しました。
そして、私たちはイエスキリストに分離(聖別)するのです。

ここではすべてのことが単純に見えるでしょう。
しかし、そこでは聖書ははっきりとそのことについて語っているのに、多くの意見のぶつかり合いがあるのです。

前の章にある恵みの教義は「律法の行ないによるのではなく、信仰による」(新改訳聖書ローマ人への手紙3章28節)のです。

そして、頭がアダムからキリストへと変わったという教えを付け加えています。(ローマ人への手紙5章12〜21節)

それは「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」と書いてある通りです。
新改訳聖書ローマ人への手紙5章19節

誰かに尋ねてみたいと思います。
「もし、すべてが恵みならば、なぜ、私が人を喜ばしているように、私自身が楽しんでいないのでしょうか?
私の罪が大きければ、大きいほど恵みも、私にもたらされるいるのです。」
その答えがあるために、クリスチャンとしての歩みを始めた時、バプテスマにある真実な象徴としての基礎を、使徒が訴えています。
「絶対にそんなことはありません」と使徒は叫んでいます。
「私たちは罪に対して死んだのです」。すなわち、罪の支配から死んだのです。
それは私たちがキリストとともに死んだ者とみなされたからです。(11節)
罪はもはや私たちを制御しません。
私たちが罪に死んだので私たちは罪に生きないはずです。
私たちのバプテスマは、キリストの死につく埋葬だったのではないですか?
それは、私たちがキリストと共に死に、今、キリストと共に葬られたと言っていませんか?

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
新改訳聖書ローマ人への手紙6章3節

ここでははっきりと確認された知識によって、この儀式へと結び付けられています。
---「あなたがたは知らないのですか。」
彼らはこの時、この真理を知っているはずでした。
使徒は彼らの中にある無知に驚いたのです。
その者は永遠に続く、形作られた状態を認識していないのです。
バプテスマにあって、私自身の中に何も希望がないことを知ります。
死が私にはふさわしいのです。
しかし、キリストが私のために死なれたのです。
キリストの死は私の信頼する基礎なのです。
ゆえに、私はキリストの死と共に葬られました。
しかし、それだけではありません。
キリストの死は私の死でもあります。
私のすべては神の御性質によって、キリストの十字架にあって裁かれ、取り扱われたのです。
そこに死があるので、私が埋葬されるべきであることは正しいことなのです。
私の古い状態は終わり、空っぽの墓の目撃されたのです。
信仰は言います。

「私はキリストとともに十字架につけられました。」
新改訳聖書 ガラテヤ人への手紙2章20節

バプテスマはキリストと共に葬られたという告白なのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
新改訳聖書 ガラテヤ人への手紙2章20節

もしくは「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」と私たちが前に読んだ通りです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章4節

もし罪が私を制御しようとするならば、私は墓のあった場所に戻り、言うでしょう。
「私はその墓に葬られました。」
私は、あなたのその罪の権威の下でキリストと共に死なれたのです。
あなたは墓の側にある私の働きを期待することはできません。
私は、復活した人間です。
バプテスマは、あなたの身分から見かけ上引き離しました。
(それは、密教(フリーメーソン)の問題が議論されていた時、兄弟がかつて与えてくれたすばらしい答えです。
「あなたはフリーメーソンですか?それとも違いますか?」
「ノー」それが彼の答えでした。
「私もフリーメーソンではありません。しかしかつて確かにあなたはフリーメーソンでした、あなたが死ぬまでフリーメーソンでした。」
そのように答えました。
「真実です。しかし、私はフリーメーソンであることをオンタリオ湖に葬りました」と彼は答えました。
そして、彼が少なくともバプテスマの意義に加わったことは確かなことでした。
コロサイ人への手紙で同じ真実が語られています。
簡単に書いていますが、鋭さを付け加えています。

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章11、12節

ここでは、はっきりとバプテスマの正しいテーマのすべてが、ある者たちは翻訳しているように「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を織り込んだ信仰」と理解しているのを認めることができます。
しかし、それはバプテスマの完全な真実ではありません。
しかし、それは神の命令です。
人は混乱しません。
それは見解が違うのです。
神のバプテスマの手本によれば、それは人々の集まりが実際には割礼の意味も知らずに割礼を行っていた者であり、その割礼の意味は「十字架の上で(神の御前で)肉が死んだことを理解することであり、今、復活という基礎に立っているということです。」
割礼とは肉を切り離すことです。
そして、肉は神の観点から過ぎ去ったのです。
キリストが死んだ時、私も死にました、そして、私はキリストの死にあって割礼を行われたのです。
バプテスマと割礼について言っていることは、他に代わる1つの儀式のように思われ、生まれながらのイスラエルは八日目に割礼を受けることであり、それは旧約聖書において十分言われていることです。
現在の時代(dispensation)においては、バプテスマされ、新しい誕生によって、神の家族になるのです。
ペテロの手紙第一において、同様な考えがあります。
水を通して救われたノアの救いの型としての解釈が説明されています。

「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一3章21節

ノアは箱舟に乗って怒りの洪水を通して救われ、それはクリスチャンが怒りから救われるということの前影(あらかじめ示された型)だったです。
バプテスマがはっきり表しているように、すなわち、それはキリストの働きによる救いなのです。
そして、「キリストの死は私のものです」とクリスチャンは言うことができます。
バプテスマ自身に何も効力はありません。
ただ、外形の汚れを取り去ることができます。
儀式主義のバプテスマの復活の教義がここにあるために、ここで義とされるということが軽視されているのではありません。
それらは良い良心が要求する答えを与える唯一の事であり、その答えとは死者からの主イエス・キリストの復活であると理解され、バプテスマが十分に教えていることです。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章25節

ペテロの手紙とこの箇所を関連付けることは、バプテスマが罪の赦しのための問題であるということになります。
もし読者が、使徒の働きの2章に戻るなら、ペンテコステの日にあってなされた、ペテロのメッセージの要点に気が付くはずです。
その要点とは、神がダビテの子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われた(30節)ということでした。
しかし、その前にキリストご自身が栄光にあってそのことを明らかにしておられます。

それは、キリストは彼が死を通らなけばならないことを、そして、復活によって、神はキリストに人としての王座を与え、「あなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい」と言われたのです。(25〜35節)
新改訳聖書 使徒の働き2章35節

この大部分はすでに成し遂げられましたが、すべてが成し遂げられていません。
このナザレのイエスを(22〜24節)ユダヤ人は殺したのです。
神が行ったのではありません。
しかし神は復活において、イエスを主ともキリストともされました。
もし、このようなメッセージの結果を本当に信じているのなら、少しの間は考えることができるでしょう。
メシアは約束されました。
彼は来ました。
邪悪な手によって、イエスは十字架につけられて、殺されました。
神はイエスを受け入れました。
彼の敵は(彼らは彼らの間で数えられました)彼の足台となりました。
今、イスラエルの希望とは何でしょうか?
何と彼らは裁きの恐怖から逃れなければならないのです!
ここにいるすべての者、いや、それ以上の者は、この恐ろしい問題に関係しています。

「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」
新改訳聖書 使徒の働き2章37節

それは単にピリピ人看守の問題でないことに気がつきます。

「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」
新改訳聖書 使徒の働き16章30節

しかし、それは私たちのしようとしている、キリストを拒絶した国の一部分として、キリストの敵に差し迫った結末からの逃避を求めているというよりも、恐らく個人的な救いもその中に含まれているのではないでしょうか?

詩篇の2編と一致しています。
メシアは支配者と人々によって捨てられました。
それでも、神の命令は立っています。

どのように、いつになったら、彼らは「御子に口づけ」し、「主が怒りを避けること」が出来たでしょうか?
新改訳聖書 詩篇2編12節

この国は、このように神の特別な取り扱いを失い、聖霊が注ぎだされることはヨエル書(17〜21節)を通して約束されたことです。
この者たちは、それを再び得るために、何を行わなければならないでしょうか?
これらの者たちは自分自身と国としての悪を告白し、反抗し、十字架にかけた唯一の方の名にバプテスマされることです。
このことは背教した人々との結びつきに杭を打つことになるでしょう。
その時彼らは、権威のよって降りかかる怒りの外にいることになります。
政治的に彼らの罪は赦されます。
彼らはメシアを拒んだユダヤにすぐにでも来ようとしている裁きを分かち合うことはありません。
(王国として)権威的に、もしくは政治的な赦しは地について述べています。
天について述べているのではありません。
このような解釈をバプテスマによって回避しています。

それは主が「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」と述べた言葉の性質を表わしている赦しなのです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章 23節

その時、この力をペテロが働かさせ、バプテスマへの悔い改めに服従したすべての者への罪の赦しを示しました。
異邦人はこれらの罪の赦しへとバプテスマされるとは語られていないということを見出します。
パウロは、ユダヤ人にも、アナニヤにも、同じようなメッセージを伝えました。
以前は「この道を迫害」(使徒の働き22章4節)だった者がイエスの名を呼んでバプテスマを受けなければなりません。
そして、彼の罪は洗い流されました。
パウロはイスラエルの一部として、その結末を分かちあわなければなりません。
しかし、そのことからバプテスマが施されているのは、それはクリスチャンの基礎的なことでもあるからです。

パウロの罪は(王国の)政治的に赦されたのです。
もちろん、このことはどのようにパウロが永遠に救われたかの問題については触れていません。
これは他の者に対するパウロのメッセージでもありました。

「ですから、兄弟たち。
あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」

新改訳聖書 使徒の働き13章38、39節

コルネリオに確信させるために、ペテロは似たメッセージを語っています。

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒の働き13章43節

これは神の御前にある永遠の赦しであり、信仰によって受け取ることです。
コルネリオと彼の仲間はその結果バプテスマを受けました。

ある者が罪の赦しのためのバプテスマを語ることができたとしますが、私はそのように判断すべきではないでしょう。
それはイスラエル国家の分散と神殿の崩壊の後に、もっと理解されようとしている一般的な方法を通じて救われたのです。(マタイの福音書 24章2節)
その崩壊は聖書の手紙の中ではっきりと述べられていることではありません。
それはすぐにでも通り過ぎてようとしている、かたくなな、悔い改めないイスラエルの多くの人々を見捨ててしまう、その時ための、神のメッセージだったのです。
ガラテア人の手紙2章7節にこのことを見つけ、支持し、このみことばを私は信じているのです。
そこでパウロは言っています。

「ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。」
新改訳聖書 ガラテア人の手紙 2章7節

同様に8、9節も見てください。
もちろん、このことは異邦人の間において、十分に一般的なこととして理解されていることです。
そして、この時代(dispensation)を通して、この者の罪はバプテスマによって赦されると言うことができました。
これは神の御前でというよりも、教会の御前で言うことが出来るのです。(ヨハネの福音書 20章22、23節)
このことは、過去の罪に対して、クリスチャンのからだにもう一度バプテスマすることをもはや必要ないことを示しています。
しかしながら、このことは強制されることなのです。
さあ、今私たちは「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」に関して神が言っていることが何か、問いただす必要を見出します。

もし、私が前に述べた聖書に明らかにされた主のみこころならば、私はバプテスマに関して何も難しい事とは思っていません。
バプテスマはキリストの死につくものと見られ、「男も女もバプテスマを受けた」のです。(使徒の働き8章12節)
彼らは驚くべき救いの準備を自分自身で公言したのです。
その者はキリストとともに復活したことを認めたのです。

「あなたがたはこのことを知らないのですか」、この言葉に表されている意味には効力があります。
新改訳聖書 ローマ人の手紙 6章3節

したがって、幼児や福音の真実を理解していない者には何も意味がないのです。

もし、「私たちはみな」がバプテスマされ、同じ多くの者が「いのちにあって新しい歩み」をしたと考えられるのです。
新改訳聖書 ローマ人の手紙 6章3節

そのように歩むことのできない人たちは、この聖書の箇所であっても、他の箇所であっても、本当にバプテスマされたとは考えられてはいません。
もしそうならば、その者たちに示されたことは簡単に理解できるはすです。
しかし、言及されるそのような事例がありません。
コロサイ人への手紙から、同じように彼らにはキリストの割礼によって割礼を行われ、ここには神の信仰が織り込まれています。

ペテロも、彼らが「正しい良心を願い求めた」と考えています。
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 3章21節

信頼によって、彼らがそのことを認め、よみがえらされたように、彼らはキリストを捕らえたのです。

「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙 3章1節

その時、もし聖書が「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」を語り、それでも聖書は「福音の真実を理解していない者」が「怒りの子」の一人であるということのほのめかしていないというのなら、私は彼らのすべてクリスチャンとしてのその告白を当然のことだとして受け止めることはできません。
コルネリオの家庭の場合、最初の時点において、それはすべて後の者にとって適切な前例となりました。
私たちは使徒の働き10章44節はっきりと述べている通り、このことに関して確信がないままではいけません。

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」
新改訳聖書 使徒の働き10章44節

そして、47、48節では使徒が尋ねています。

「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。」

新改訳聖書 使徒の働き10章47、48節

使徒の働き16章にあるルデヤの家族のように、もし、家のかしらの信仰が単に述べるだけならば、なぜ、神がすでに宣言された他の者たちを疑うのでしょうか?
この一節に書かれていることから、「幼児洗礼」、もしくは「信者の家族がみんな救われている」という考えを認める者は次のことを証明しなければなりません。
まず、最初に彼女が結婚した女性であること、二番目に彼女が母であったこと、三番目に彼女の子供が信じていないこと、四番目にパウロに旧約には啓示されていない新しい啓示が与えられ、すべての者がバプテスマを受け、その時、この厳粛な儀式において、家のかしらがキリストを認めたということです。

私たちは40節にパウロとシラスが「牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。
そして兄弟たち(幼児ではない)に会い、彼らを励ましてから出て行った。」と書かれていることに注目すべきです。

この時、彼女に小さい子供がいたとしても、紫布の商人の家族構成は名もない兄弟であったと考えるのが道理にかなうことです。
ある者たちは「全家族そろって、心から喜んだ」、しかし信じているのは看守だけだという考えに解釈を変えてしまいます。
多くの聖書を学ぶ人たちが34節の解釈をそのように取り、本来の聖書の意味にこのような解釈を与えることに同意しています。

「それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」
新改訳聖書 使徒の働き16章34節

そして、はっきりと32節には「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った」と記されています。
新改訳聖書 使徒の働き16章32節

すべての者が神のみことばを聞きました。
そして、すべての者が信じたのです。
看守とその家族のすべてがその場でバプテスマを受けたことは何も驚くべきことではありません。
この看守は、このように多くの者の真実な「Baptism of Households(家族のバプテスマ)」を目撃し、喜んだに違いありません!

このことに注目するためにもう一つの家族を残しておきました。
それはパウロが第一コリント1章16節の中でバプテスマを授けたというステパナのことです。

パウロはステパナの「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました」という記憶を忘れてはいません。
新改訳聖書 第一コリント 16章15節

多くの者が最初の章にあるギリシャ語の翻訳された言葉「household--家族、家庭」と最後の章の「house--家」のわずかな違いがあるという事実に悩みました。
前者の言葉は、ある者たちは後者がしもべを含み、前者はしもべを除かれて家族だけに限定されて述べていると言っています。
このことは、ここで初歩的な立場を取る者に対して、何の影響を及ぼすことはありません。
ステパナの家族に行われていたバプテスマは幼児(赤ん坊)のことを述べているのではないからです。
そして、私たちは神のみことばに付け加えるようことはしません。

「神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」
新改訳聖書 箴言 30章6節

パウロの1章14〜16節のことばで「私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。----
私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。」
と書かれていますが、ある者たちが教えているように、バプテスマを授けた時に、ステパナの家族に幼児がいたとは教えていません。
また、単純に考えてみても、彼らはいつもコリントにあって連絡を取り合っているような存在ではないはずです。
新改訳聖書 第一コリント 1章14〜16節 中略

「ステパナの家族は、アカヤの初穂」でした。
新改訳聖書 第一コリント 16章15節

アカヤはコリントが位置した地方都市でしたが、彼らが聖徒の職務に専念した後は、いつまでもその地域にいる必要はありません。
ですから、告白をした他のクリスチャンたちのバプテスマが実践されました。
それは単に暗示されたヒントではなく、はっきりとしていることなのです。

あたかも、証明し、すべての抗議者をかわすためであるかのように、私たちは使徒の働き18章8節において「会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」ということを知ります。
新改訳聖書 使徒の働き 18章8節

クリスチャンの子供はすでに祝福の中にいます。
それがバプテスマによって祝福されるのではないことが、コリント人への手紙第一7章からはっきりしていることです。

「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。
そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。
ところが、現に聖いのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙 7章14節

たとえユダヤ人と異邦人を親に持つ子供であっても、割礼が施されるまで汚れているのです。
(使徒の働き16章1〜3節にある、テモテについてのパウロの行動に注意してください。)
しかし、親の信仰ゆえに、クリスチャンの子供は表面上は清いのです。
クリスチャンの家に生まれたということは、すばらしい特権の下に生まれたのです。
そのことはバプテスマによって定義されることは決してありえないことであり、それには限界があります。
まして、そのことは救いへのドアではありません。

雲と海の中あってのモーセにつくバプテスマ(コリント人への手紙10章)は
モーセにつくイスラエルのバプテスマは子供のバプテスマの根拠には決してなりえません。
それは単に彼らの両親といっしょに海を通ったからです。
クリスチャンのバプテスマは個人的に行われることです。
現実に、エペソ人への手紙1章4〜6節は3つの集まりが明白に述べています。
私が正しく考えている限り、多くの教会のように了解しています。
-教会の公に示された身分と創造-
子供たち、もしくは他の者たちが何かの信仰を表わすまで、その人たちを告白した者として受け入れる正当な理由としません。
魔術師、シモンは私たちの知っている限り、悔い改めずにバプテスマを受けた最初の人でした。
そして、バプテスマを受ける者の心を読めないので、このような失敗がこれまで起きていたでしょう。
しかし、その状態でいる無知な人々にバプテスマを施すということは、当然正しいことではありません。
知りながら、それを行うことは私にはとても恐ろしいことです。
それは、木、草、わらで家を建てる人です。
神の要求は使徒の働き18章7節の「聞いて信じ、バプテスマを受けた」というみことばにあります。
この節は使徒がバプテスマを軽く見ていないことをはっきりと証明しています。
コリント人への手紙第一1章17節においてパウロが言っています。

「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 1章17節

したがって、このことはパウロの任務(使徒による働き26章16〜18節)と完全に一致しています。
しかし、パウロは悔い改めた者がバプテスマを施されるということを、注意深く証明してはいません。
その理由はパウロがコリントで感謝するためでした。
パウロは数人の者にバプテスマを授けました。(10〜17節)
しかし、パウロは2回これらのコリント人にこの根拠となる訴えをしました。
事実、彼らコリント人は信仰告白者としてバプテスマが施されたのです。
この章において、その時コリントの教会の中には交わりという問題があり、彼らはキリストよりも他のかしらと結びつこうとしていたのです。
パウロは尋ねました。

「キリストが分割されたのですか。
あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。
あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一 1章13節

クリスチャンが集まらなければならない唯一の名前は、パウロがバプテスマを施している価値がある名です。
15章において、復活に関する問題があります。
どのように強調すべきでしょうか!
パウロはそこで死へのバプテスマを語る時を作りました。
コリントの聖徒は死者の復活を認めないサドカイ人の誤り(使徒の働き23章8節)におちいりました。
これを反論するために、パウロは根本的な真実な福音である、イエスキリスト復活(コリント人への手紙第一15章1〜4節)を彼らに最初に思い出させたのです。
その時、パウロは尋ねています。

「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。
なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章12〜17節

クリスチャンのためにあるすべてのことがらは、キリストの栄光あるこの事実にあるのです。
「キリストはとても低くその頭を下げ、私たちの主は心から苦しまれたのです。」
しかし、死が彼を捕らえていることは出来ませんでした。

それは神の御子の働きにおいて、神の完全な満足を表わしている復活でした。
そして、そのことは永遠に罪が過ぎ去ったことを語っています。
彼らの罪はすべて御子の上に置かれ、御子は木に架けられました。

「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
新改訳聖書 イザヤ書53章6節

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 2章24節

今は御子の上に何もありません。
クリスチャンはこの中に安らぎ、完全な平和を持っています。
コリントの人たちが救世主の復活という事実から始めた時、彼らはどのように聖徒の復活の問題を尋ねることができたでしょうか?
さらに、パウロは付け加えています。

「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章17〜18節

その時、彼らの矛盾は何だったのでしょう。
もし、彼らがこの地上の命の向こうに希望を持っていなかったら最も哀れなことです。
彼らは今だ、「滅びた」人々のバプテスマによって、自分たちの立場を語っていたのです。
それは、「もし、死者の復活がなければ」というみことばに表れています。
20〜28節がはっきりと挿入されたものであることに気がつきます。
この議論は29節においても続けられ、「もしこうでなかったら、死者(複数形)のゆえに(ある人たちは"OVER"「支配されて」と訳しています)バプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。
もし、死者(単数)は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者(複数)のゆえに(支配されて)バプテスマを受けるのですか。」
もし、彼らはキリストにあっておおやけに表わされたバプテスマによって、これらの先に死んだ者が単に滅んでしまったのなら、なぜこのようにこの命にあって、彼ら自身が恥と非難にさらされる必要があるのでしょうか?
もし、彼らの多くの者が、もしくは何人かの者が幼児にバプテスマを授けていたのなら、この訴えは理にかなわないことではないでしょうか!
このように死者のゆえにバプテスマされるということが、何を意味しているのでしょうか?
もし、それが眠ってしまった者たちの立場を、自発的に取るという問題であると思われるのなら、すべてははっきりしています
彼らはバプテスマによって、自らこれら福音に対する憎しみの中から、危険の中へと身を置く事になります。
もし、彼らが復活がないということを信じているのなら、彼らにとって何が利益なるのでしょうか!
なぜ、バプテスマを受け入れることによって、自分自身をそこに置いてしまうのでしょうか!
彼らがもし、死後、祝福された本当の希望をもっていないのなら、彼らの生き方(彼らは確かにより長く人生を楽しむことに重点を置き、望んでいました。)はすぐにでも失われるものでした。
彼らは、死によってすでに作られている隔たりを満たすだけでした。
しかし、それは滅びを持つ者たちに対してバプテスマを施すのです。
もし、彼らの考え、制度が真実なら、彼らはその運命を共有するだけのことです。
確かにそのことは当時行き渡った考えであり、それ以上語ることは何もなかったのですが、パウロ自身と彼と共にいる人たちについて、パウロは尋ねています。

「また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章30節

これはばかげたことです。
世の好意を持とうとする者が、世から敵意を持つのです。
もし、地上の命が全てであるならば、パウロにとって毎日が死の連続であった所に、パウロは自分自身をそこに置くでしょうか?
単に死者の復活があるという人間的な動機からエペソで「獣」と戦ったのなら、何処に利点があるのでしょうか?
(使徒の働き 19章23〜41節)

異教徒の詩人メナンドロス(彼自身投身自殺しました)は彼らよりも賢く「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言いました。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章32節

メナンドロスは少なくとも一致していました。
すべてが単純なのです。
死んだ人のために生きている人にバプテスマを施すという迷信深い習慣はどこにも記されていません。
それはちょうど軍隊のようなものです。

彼らには階級があり、「キリストにあって眠った者」たちはすでに引退したという立場を持ったのです。
だれがバプテスマを施すという権威を持っているのでしょうか?
この権威の質問が問題を作り、キリスト教団体がその多くを作っているのです。

(a)このことについて次のように提議します。
複数の兄弟は説教、もしくは教える能力を所有しており、聖霊によって、からだのかしらに対して、その者はその賜物を使う責任があります。
(ペテロの手紙第一 4章10、11節 ローマ人への手紙12章4〜8節)

(b)複数の兄弟は救われていない者へのみことばの職務を持っています。
バプテスマを受ける人々の意志を確かめる責任があるのです。
(マタイの福音書28章19、20節)

(c)儀式を説教する、教える、施行する。
このいずれかを行うための職務任命は聖書において教えられていません。
私たちは「食卓に仕える」(使徒の働き6章1〜6節)のための職務任命について、
そして、使徒の働き13章1〜3節で、バルナバとサウルの場合のように(バルナバはかつて、数年の間、教師であり、説教者であることが認められています)「手を置いた」時のことを読んでいます。
また、同様に監督の働きをする長老の職務任命は、単純に地方教会における規則の問題です。
必ずしも、すべておおやけの職務について語られたわけではありません。
使徒の働き14章23節 テトスの手紙1章5〜10節 テモテの手紙第一3章2〜7節)
私たちは「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません」と読みました。

訳者注)新改訳聖書では「按手」という言葉が出てきます。
聖書に忠実でありたいと思う人は十分に理解されていると思いますが、聖書の中にはある人たちが言っているような「按手」という考えは存在しません。
単にここでは共同訳聖書で述べているように「あなたに手を置いたとき」と訳されるべきです。(明らかに按手を意識した者によって訳されています。)
ですから、「あなたに手を置いたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません」と理解されるべきです。
この手を置く行為とは旧約聖書のささげものの儀式にあるように「ささげものとささげる者が一つ」であることを表わしています。
おそらく、この長老たちはテモテと自分たちが一つであることを表わしたかったのでしょう。
決して、長老たちがテモテに賜物を与え、もしくは伝授したのではありません。
なぜなら、「按手」が現実的な儀式であるなら、バプテスマ、主の晩餐のように他の手紙においても十分に解説されるべきのものであり、もし、この伝授が完璧なものであればパウロはテモテにこのような手紙を書く必要がなかったはずです。
賜物は聖霊によって与えられるのです。」


しかし、私たちは繰り返し主張しますが、教えること、メッセージすること、伝道すること、バプテスマすること、もしくは主の晩餐の儀式を施こすこと、すべてにおいて人間による職務任命は聖書の中に適用も、許可もされてはいません。
(私はいくつか助けになるこれらの本がこの他の「教会についての教え」を終わらせると考えます。
"Lectures on the Church of God," (W.Kelly.)
"God's Call to His people,"(E.S.Lyman))
全く反対の見方をして、賜物について私たちが語るのであれば、それは聖霊によって「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださる」ということです。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章11節
それは賜物が長老たちのよって与えられなかったテモテの場合においても十分に証明されていることです。
しかし、彼らが手を置く事による交わりを述べているため、神の聖霊は賜物について述べ加えています。
主の晩餐の儀式を施こすことについて、聖書において牧師長なる者は知られていません。
そして、バプテスマを施すのに特別な職務が任命される必要がないことを示すのに、私たちはピリピとアナニアの場合を見ることができます。(コリント人への手紙第一11章20〜29節)
前者のバプテスマを受けた者たちはサマリアにあって福音を受けとった者たちであり、エチオピアの女王カンダケの高官である宦官同様にバプテスマを受けました。(使徒の働き8章5〜13節 36〜39節)
後者は十分に教えられてないようで、神によってタルソのサウロがバプテスマを受けたのです。(使徒の働き9章10〜14節)
(私は食卓に仕えるためにピリピの職務任命を覚えています。
以前にも書いたことですが、何も理解することなく、彼をおおやけの職務に就かせたのです。
使徒の働き6章では、みことばを語る職務から慎重に彼らを区別しています。)

私は多くの者たちを悩ましてきた他の質問をみなさんに捧げようと思います。
つまり、バプテスマと交わりというテーマです。
聖書はバプテスマが主の晩餐の交わりに参加するための条件であるような見方を決してしていません。
その決まりがコリント人への手紙第一10章16、17節にあります。

「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。
それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一10章16、17節

キリストのからだの一員である条件は、単に新約聖書で知られているように教会の一員であることです。
これが聖餐式の基礎です。
すべての者がキリストの貴重な血を通して救われたのです。
その者たちには聖霊が内住され、一つのからだの一員とされたのです。
重大な道徳的問題、あるいは邪悪な教理がその者たちによって習慣的に行われるか、もしくは持ち続けていない限り、主の食卓につく立場を持っているのです。
(コリント人への手紙第一5章1節 テモテの手紙第一1章19、20節 ヨハネの手紙第二 10、11節)

使徒の働き2章41、42節に、はっきりとそのことについて書かれているように、バプテスマは聖餐式を受ける者すべてに施されなけれなりません。
しかし、それを主張するための聖書の根拠はそこにはありません。
これらの者たちは習慣的に信仰を告白した者に浸礼(バプテスマ)を施し、主の晩餐に預かっていただけのことです。
このことはバプテスマの新しい交わりをつくることになるはずでした。
しかし、どうなっていたのでしょうか?
結果としては神の言葉にあって認められる交わりよりも、より限られた交わりになっていないでしょうか!
(私は主にあって愛する兄弟(今は主の元に行きました)によって書かれた下記の文章を心から推薦します。
しかし、私がこの文章において書いている多くの点において私とは意見が合っていません。
「それは、神が地上に教会を持ってから何世紀という間、教会の伝統の愚かさにあって忘れ去られていた偉大な真実を、今日という時に、主が繰り返して多くのことを教えているのです。
それは私たちがすでにキリストに作られた教会の一部であり、私たちが教会を立て上げてゆくことではないからです。
いろいろな教会が新約聖書の中に語られていますが、それぞれがいろいろな場所において神の教会なのです。
何にも所有されていません。-これが神の教会です。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章27節

いろいろな教会が新約聖書の中に語られていますが、それぞれがいろいろな場所において神の教会なのです。
それはこのように公然と明らかにされ、認められていることです。
使徒が次のように手紙を書いています。

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章26節

そうです。一人の者が苦しむのなら、みながともに苦しむのです。
もし、一人の者が尊ばれれば、すべての者がともに喜ぶのです。
そこではそれぞれの者が神御自身からその立場と働きが与えられており、聖霊がその教会に命を与えているのです。

そして、「目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章21節

「この教会の交わりを人は認めることはできません。
しかし、主にだけは認めることはできるのです。」
主は毎日救われる人々を教会に加えてくださるのです。
私たちの肢体はただイエスのしたことに従うだけのことです。
「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」
今、私たちは「受け入れてくださった」という言葉を全く認めることができないゆえに、すべての者が単純に「受け入れる」という言葉に無関心になのです。
それは単に「あなたがたも互いに受け入れなさい」ということであり、教会の中にいるクリスチャンのである者たちが、私がキリストを受けいれるように、私を受け取ることをともに目的とすべきなのです。

それは真実なことであり、私たちが「さばくべき者は、内部の人たちではありませんか」、そして「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです」ということを実行するためなのです。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章11、12節

さらに、「キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。
その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
あなたがたのところに来る人で、この(キリストの)教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。
その人にあいさつのことばをかけてもいけません」
と書かれています。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第二 1章9、10節

しかし、これは弟子たちの神の難しい主張であり、キリストのからだに「受け入れられた」という言葉とはまったく別の事柄です。
ここでは単純に「互いに受け入れなさい」であり、彼らに加わりなさいではないのです。
バプテスマに関する誤りが、兄弟を訓戒することと同じ責任であることが主張されるでしょうか?
そのバプテスマに関する誤りは、幼児洗礼を認めることになるでしょう。
それを拒むことは汚れなき命と、そして神の栄光のために使われる熱意と等しく主張される事柄なのです。
私はこの決まりをここで見つけることができます。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 14章1節

そして「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 3章16節

そして、真実を軽んじて歩まずに、他の者を尊重し、その「良心」が私たちに成し遂げられるために私たちは希望を持ち、祈りましょう。
さらに書かれています。

「もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 3章15節

[From "Baptism:Its Scriptural Place and Use", by F.W.Grant.]
(F.W.グラント「バプテスマ:その聖書的立場と目的」より 現在絶版中)

この兄弟はバプテスマにおける見解において私とは全く違う信仰を持っていますが、私よりはるかに熱心に主イエスへの愛を持っているに違いありません。
私たちはともに最も甘い交わりを楽しむことができます。
しかし、この問題はそれぞれの良心を尊重しながらも、教会の中で多くの争いを引き起こしました。
また、私は私が信じるバプテスマについての真実のために、わずかでありながらねばり強く維持してゆく必要があります。
それはその者がバプテスマの真実について調べる時に、私が強情になり私がその者を裁くことになることにならないためです。

再洗礼派(Re-baptism):それは分派でしょうか?

私は上記のことについて聖書が何を教えているか述べることができます。
今、私はこの問題について私に提議された主題について注意しなければなりません。
「もし、ある者がキリストを対する告白がなされる前に、いくつかの聖書に基づかない方法にて不適切にバプテスマを施されているのなら(特に現実に滴礼などがあります)、その者はキリストを救い主と告白するときに再びバプテスマを受けなければならないのでしょうか?
バプテスマが三位一体の名によってされたという事実では十分ではないでしょうか?
私たちがその名よりも優れた方法を作ることでしょうか?
これは、分派主義ではありません!」
これらの問題のために真面目な者がたびたび、単純に答えてしまうかもしれません。
「神の示したい本当の目的は何でしょうか?」
そのことが最後に残されました。
そのことについて、本当に悩む正直な魂のために、私はこれからそのことに答えようとします。
この問題の最初の部分に関して、その者が信じた後でバプテスマすることをクリスチャンが軽視したために、私は彼らが義とされることがまったく何もないということを知りませんでした。
現実にこのような質問は、私の判断するところでは、その様子を尋ねる事が出来るということぐらいでしょうか?
どのくらい教会が聖書から離れ漂ってしまったのでしょうか?
多くの人は失敗しています。
その時、そのことが聖書を文字通りに教えるために、神から与えられた私の服従を邪魔することになります。
たとえどんな形式、もしくは儀式であろうと、その者は神に与えられた立場を取ろうとはしません。
彼らはその時、命も、意味もない歩みをしているのです。
ローマ人への手紙6章での論証はキリストの死につくバプテスマを持たない者に決して適用されることはありません。
そして、このことはその死をいまだ知ることのない幼児に、正しく適用されることは出来ません。
確かに、クリスチャンでない者(もちろん幼児も含む)はこのように、死がその者にまだ訪れていないように、いまだにその人は罪の中を歩んでいるからです。
彼はキリストの死の必要を認識し、その者は神の子供となることに頼りました。(ローマ人への手紙 5章8〜10節)
バプテスマはその者が魂のこのような状態でいる間は、儀式的な形だけの行為となるのです。
それは単純にその者が悔い改めるべき「死んだ行い」の一つになり、それは単に肉の働きであり、わずかな信仰の意識さえも存在しません。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 11章6節

いわゆる「洗礼命名式--christening」つまり、まだ知恵のない子供に水の滴礼を施す場合、そこには信仰として、もしくは、信仰の入り口としての服従すべき行いが、この儀式にあるというのでしょうか?
そのことは、完全に聖書に反していることであり、たびたび混乱させてきたことです。
最悪の場合、バブテスマの復活について教義が魂の破壊に結びつけられます。
それは、神のみことばを受け取ることによる新生の教義(ペテロの手紙第一1章23節)を全く否定することになるでしょう。
ゆえに、その教義から離れた意味のない儀式をローマ(カトリック)から持ってきたことをすべての者が知るのです。
それから、私はどうするでしょうか
もし、真理を知るのなら、人々が人間によって考え出された三位一体の名に連なる儀式を選び、再洗礼派(Re-baptism)と呼ばれる不名誉への恐れを持つことになるでしょうか?
そして、私はそのようにすることにより、分派になるでしょうか?
どうして?
私は主イエスと使徒たちの言葉に文字通り服従することを主張しており、私はただ人間の考えだした彼らの権威を無視しているだけのことです。
彼らが尊い名に結びついた権威に従わずにいます。
私は、(彼らが分派と呼ぶ)このような理屈を理解することはできません。

そこには私たちの前にある問題の二つ目の部分で、その関係がたびたびたましいへの誘惑になることを証明しています。
実際に「知らないうちに神によって定められたという形式と、神のみことばを文字通り保つことに尊厳を持つ時に、あなたは神の命令なら多くのことをしますが、神の御名についてはあまり興味を持っていません。そこに、あなたに神の御名を汚す危険性があるのです」と言うかもしれません。
このことは、その時に筋道が通るのでしょうか?
そのような理屈よりも、御名の方が優れた価値を持つと言うのでしょう?
祝福されたその名に従順に服従することによりも、何かその名の文字に意味があるかのように、良き尊敬たるものをどのように持つことが出来るでしょうか?
神は神のその御名と人がまさにそのことをしているように、神が明らかにされたそのみことばと正反対のものに結び付けるでしょうか?
祝福されたその名に従順に服従することによりも、何かその名の文字に意味があるかのように、良き尊敬たるものをどのように持つことが出来るでしょうか?
神は神のその御名と人がまさにそのことをしているように、神が明らかにされたそのみことばと正反対のものに結び付けるでしょうか?
今日、私たちが知っているだけでも「御名を汚しているだけの他の多くの事柄」が、公然と行われているのではないのでしょうか?
神は神のみことばから根拠もなく、そのようなことを決して私たちに提示することはありません。
私たちの前の主題について、神ははっきりとどのように示すべきかを知っていました。
神は私たちにすでに注意しているように、神ご自身のその基本形を与えています。
それは今まで間違いが起きていたとしても、すべて無知な人間の失敗と、単純にその基本形に服従するということを私たちは自分のものにしなければなりません。
そうです。
私たちは神のことばに文字通り従うということについて、多くの誤りを持つでしょう。

それが可能であるならば、「人間の教えを、教えとして教えるだけだから」という伝統主義者と手をとって歩むことよりも、私たちは神のことばに文字通り従ってゆこうではありませんか。
新改訳聖書 マタイにより福音書 15章9節

別れのことば

さて、読者の皆さん。
この言葉を閉じるにあたってお聞きしたいのです。
あなたは救われていると確信しますか!
もしそうならば、キリストに対する信仰を告白した時から始まった、バプテスマを受けることによって受けた主イエスのみことば、そして聖霊の導きに従うことを保ってください。
ヘブル人への手紙8章5節において聖霊は私たちに荒野で神の幕屋についての主が「よく注意しなさい」と言われたことについてわたしたちは心をとめます。

「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 8章5節

その時代にあって、この啓示は人の考えを入れる余地を残していません。
神の示された形はすべてを整え、十分でした。
神の幕屋は過去の物として過ぎ去りました。
しかし、「神の御住まい」(エペソ人への手紙2章22節)を地上に持っています。
「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一 3章15節
そのことは、彼が旧約の「影」についてというよりも、今の時代にある教会について語っているのではないのでしょうか?
何が、今の「型」でしょうか。
私たちは使徒の働き2章41、42節にあることからそれを見つけることができるはずです。

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。
その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

新改訳聖書 使徒の働き2章41、42節

あなたはその時、みことばを受けましたか?
もしそうならば、あなたはバプテスマをうけましたか?

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章17節

付録

私がバプテスマを理解し、神のみことばが教えていることを、私が知る限りはっきりと読者に紹介したつもりです。
私は誉あるキリストのしもべの証しを付け加えたいと思います。
主と共にあるこのすべての者が、この主題をそれぞれの位置から与えています。
これらの働きを読むことができる読者は、このすべての結びつきについて助けを得ることができるでしょう。

C.H.マッキントッシュによるノート "A note from C.H.Mackintosh"
私はこのテーマにあるいろいろな見解を良心的に保つ者たちに不満をもつことはありません。
しかし、このことには不満があります。
それは彼らに幼児洗礼を押し付けることにより、イエスキリストの説教と教えの代わりに神の人々の心を乱しているからです。
私自身がこのことを得るために--この問題を求めることは、私が強要されるところです。
私はバプテスマを受けたクリスチャン、もしくは信仰を告白した者たちのために、健全な聖書の教えを無駄に32年間求めてきたということができます。
その理由は聖書を文字通り理解するというよりも、私が結論と推論を推理していたからです。
しかし、聖書の権威は一点も地に落ちないからです。」(新しい物、古い物--Vol.15, page 48.--"Things New and Old")

重要な歴史的箇所 アンドリュー・ミラーによる
バプテスマについて指示おいても実際おいても、新約聖書には完全な統一性があります。
しかし、3世紀の始めから今に至るまで、この重要なテーマにおいて私たちは教会に理論おいても、慣習においても大きな変化があったことを認めることができます。
ライアイズの牧師、イレナウスは幼児洗礼について述べている最初の教父です。
彼の著作は2世紀の終わりごろで終わっていますので、AD200年ごろ死んだと思われます。
使徒的な教父は決してそのことについて述べてはいません。
("Short Papers on Church History"--13章)
章全体はとても面白く、興味のあるものです。

J.G.パレットによる抜粋
私はガラテア人への手紙3章27節を信じています。
その箇所は聖書のどの箇所よりもバプテスマについて私の見解をより頑固なものにします。
それはバプテスマがクリスチャンの知的な行為であり、そのことを表現するための個人的な信仰による行為だからです。
私はペテロの手紙第一3章21節において、心の安らぎを与える何ものをも見つけだすことはできませんでしたが、その箇所がその答えを良心に与えることに可能にしています。
その時、偉大な出来事であるイエスの復活の価値を読み、受け取ることができるのです。
にもかかわらす、バプテスマは水の下にイエスキリストを救い主と信じる者のからだを置かれたことを意味しているからです。
そして、バプテスマは私にとって与えられた儀式の形式を取ることだと認識するからです。
("Showers Upon the Grass" 44ページ)

「使徒による働き」16章についての解説的批評 Wmケリーによる
「イエスが弟子をつくっていたように、ルデヤはイエスを信じてバプテスマを受けました。(ヨハネによる福音書4章1節)
このように主の命令が主のしもべに与えられたのです。
ユダヤ人の間では男性だけに割礼が施されました。
弟子には男性にも、女性にもバプテスマが施されたのです。
(使徒の働き8章12節)
しかし、ルデヤだけにではなく、家族にもバプテスマが授けられました。
何がそこに意味のあることと言うのでしょうか?
私たちは彼女に子供、もしくは夫があったとは聞いていません。
彼女は家族のない未亡人もしくは、結婚をしたことがなかったと思われます。
彼女には家族があったこと、そして私たちは40節において兄弟たち(同胞)、信者(クリスチャン)がそこにいたことに気がつきます。
おそらく男性ではなく、女性だけのはずです。
私たちのほとんどの者はこのことに気がついていません。
小さな者たちについては私たちは何も聞いてなく、聖書からの説明はなされてはいません。
彼らは十分に、詳細に他の箇所で賞賛されています。
にもかかわらず、伝統が、人間の知恵が、そして人間の意志の無鉄砲さゆえに、このことについて十分な聖書箇所が示されませんでした。
いずれにしても、幼児の場合を仮定して、それを基礎にしてここに説明することができます。
幼児洗礼は無茶であり、はっきりしていることであり、道理の合わないことです。
この章にあって、もしくは後の章でおいても、もしくはコリント人へ手紙第一1章においても、何の根拠もありません。
ここではキリストの告白者ではない、複数の者にバプテスマが施されてしまいました。
幼児洗礼の聖書的根拠は何もありません。
(Exposition of the Acts of the Apostles Vol.2, pages 54,55)

終わり


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聖書の語るバプテスマ