メッセージGG 2001/2/5
罪の赦しとは何でしょうか?
by C.H.マッキントッシュ
(FORGIVENESS OF SlNS WHAT IS IT? )
違反が赦され、罪が覆われることは、なんという祝福でしょうか!
この真実は祝福されたことであり、知らずいるべきことではありえません。
唯一の真実な幸せの基礎として、私のすべての罪を赦されたという十分な保証を持つためです。
その保証無しに幸福であることは、私はいつも永遠に走り続けなければならないという、大きく開いた深い割れ目の淵に立った幸せでしかないのです。
すべての罪が十字架の血によって贖われたという、神から与えられた保証を持つまで、充実した幸せを楽しむことはまったく不可能なことです。
私の罪の意識がイエスによってすべてもたらされたのでしょうか?
もしくは、いまだに私の哀れな良心の上にあるのでしょうか?
今、罪の赦しという主題を説明する前に、私は、私の読者にとてもはっきりとしたことを尋ねたいのです。
そのポイントは個人的な質問ですが、すなわち「あなたはあなたの罪が赦されたというはっきりと確立された保証を持つことができると思っていますか?」ということです。
私は始めにこの質問をします。
それは今日、多くの者がキリストの福音を説き、告白しますが、いまだに多くの者が確かに罪の赦しを否定しているのです。
彼らの多くの者は罪の赦しを信じるということは「見込み」であると主張しています。
そして、他方では常にこの最も重大な点に関して迷っていることは、謙遜であるという証明であると言っています。
しかし、それを言い換えると、その謙遜によって神のみことばを疑っており、みことばを信じるということは単なる罪の赦しの「見込み」でしかないということになってしまいます。
これは以下の節を読むのであればとても不思議なことに思えます。
「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章46〜47節
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章7節
「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章14節
ここで私たちは、イエスの名によって「罪の見のがし(remission)」、もしくは罪の赦し(この言葉は3箇所で同じ言葉が使われています)を所有し、そしてそのことはクリスチャンたちによって語られているのです。
訳者注)新改訳聖書では「(remission)--ギリシャ原語"paresiv"」は「見のがし」、赦しの両方に訳されています。
実例として次の箇所が上げられます。
「(remission)--ギリシャ原語"paresiv"」の場合
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章25節では「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」となっていますが、へブル人への手紙9章22節では「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
また、同様な言葉で「(forgiveness)--ギリシャ原語"afesinv"」も赦しと訳されています。
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章7節
「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
などがそうです。
この違いには大きな違いがあります。
「(forgiveness)--ギリシャ原語"afesinv"」は完全な赦し、特にキリストの血による贖いを指しています。
つまり、二度と繰り返されることがありません。
しかし、「(remission)--ギリシャ原語"paresiv"」は一次的な見のがしを指し、完全なものではではなく、完全に贖われる必要があります。
ですから、この単語が使われる箇所では「儀式」上の赦し、もしくはキリストを救い主と信じる以前(キリストの血による完全な贖い以前)の取り扱い上の赦しを指しています。
もし、上記を取り違えるのなら、教義上、大きな間違いを犯すことになり、「キリストの血がなくても救いがある。」となってしまいます。
特に、旧約の儀式においても、救いがあると説かれる方がいますが聖書はその違いをはっきりと述べています。
その他に、儀式上の救い(完全な救いではない)には「(cover)--ギリシャ原語"epikaluptw"--覆う」という言葉も使用されていますが、同様に罪を覆うことであり、完全な救いを指していません。
その宣言はエペソ人とコロサイ人へと送られ、彼らは「あらゆる国」(ローマ人手紙1章5節)に所属している者たちであり、キリストの御名による罪の赦しを彼らに語られているのです。
この「見込み」は彼らにとって、持つべきもの、もしくは罪の赦しに対して迷うことが信心とか謙遜になるのでしょうか。
真実にいうのなら、彼らはおおいなる罪人であり、「罪過と罪との中に死んでいた者」(エペソ人への手紙2章1節)であり、「御怒りを受けるべき子」(エペソ人への手紙2章3節)であり、「他国人であり---神もない人たち」(エペソ人への手紙2章12節)であり、「敵となって、悪い行ない」(コロサイ人への手紙1章21節)をする者たちなのです。
彼らの一部は、おそらくアルテミスに膝をかがめ、恐ろしい偶像崇拝の中に、そしてあらゆる邪悪の中に住んでいた者なのです。
しかし、「罪の赦し」はイエスの名において彼らに語られたのです。
このメッセージは真実でしょうか、それとも間違いだったのでしょうか?
彼らのために語られたのでしょうか、それともほかの人に語られたのでしょうか?
すべては夢、それとも影、それとも作り話だったのでしょうか?
それは何も意味のないことでしょうか?
そこに確実なもの、信頼できるもの、強固なものは何もないのですか?
これらは簡単な質問です。
罪の赦しが確実ではないという主張する人々に簡単な答えを要求します。
もし、現在において本当にこの罪の赦しを知ることができないというのなら、使徒たちの時代にあれば罪の赦しを知ることが出来るのですか?
もし、1世紀においてそのことを知ることが出来るというのなら、なぜ、今世紀においてそれを知ることが出来ないのですか?
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章6〜8節
ヒゼキヤもこのように言うことが出来ました。
「あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」
新改訳聖書 イザヤ書38章17節
イエスが地上を歩んでいるとき、言われました。
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」
新改訳聖書 マタイの福音書9章2節
このように罪の赦しは神のみことばがあたえられているすべての時代において、すべての者に知られていることなのです。
どのような場合においても、罪が赦しを知ることが出来ないと主張する人々の教義をくつがえすのは、このみことばだけで十分です。
このおどろくべき貴重な祝福を誰も知ることができないと、もし私が聖書から見出すのであれば、私は満足することができません。
今、私は自分の聖書を開き、赦しの知識にもたらした、あらゆる種類の罪過を私は見出すことが出来るのです。
したがって、私はもっとも邪悪な罪人のために神の確かな罪の赦しを今、知ることが出来ます。
アブラハムにおいて、ダビテにおいて、ヒゼキヤにおいて、中風の男において、そして民数記、その他の箇所においても、罪の赦しを信じることは単なる「見込み」だったでしょうか?
彼らの中に疑う心が起きたでしょうか?それともそれは謙遜と真実な敬虔のしるしとなったでしょうか?
恐らくこれらは特別な例外的なケースであったと考えるかもしれませんが、それでも問題にはなりません。
今の私たちの質問の答えは、彼らにとっていつものことであったか、もしくは例外的なことであるかは関係ありません。
そのことははっきりしています。
彼らは無理にでも断定された反論をしてきますが、誰も罪が赦されたということを知るものはいないでしょう。
神のみことばは聖書において私たちに教えています。
その目的とするところは読者と「著者である私」のように、感情的であり、弱さであり、失敗であり、そして罪深さなのです。
それは罪の赦しにあって喜びと知識に至ります。
ゆえにこの重大な質問に関して理解することの出来ない者たちに対する聖書的根拠(喜びと知識)は何もありません。
罪の赦しは旧約および新約聖書は中に記された真実なのであり、罪の赦しが完全ではないと私たちに教えることはなく、特別も、例外もないのです。
もし、このいくつかの例に対して注意深く見るのであれば、アブラハムの場合において言えるでしょう。
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章19〜25節
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
新改訳聖書 創世記15章6節
そして、私たちが信じるなら、私たちのものとなる義について聖霊が宣言しています。
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」
新改訳聖書 使徒の働き13章38〜39節
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒の働き10章43節
今の問題は、彼らが率直に罪の赦しを集まって聞く者たちに語った時、使徒ペテロとパウロが何をしていたかです。
使徒たちは、この罪の赦しを誰も持つことが出来ないという考えを、彼らのこころに伝えるつもりだったのでしょうか?
アンテオケの集会ではパウロは聞き手に言っています。
「あなたがたに良い知らせをしているのです。」
新改訳聖書 使徒の働き13章32節
パウロはこの罪の赦しを誰も持つことが出来ないという見解を受け入れていたでしょうか?
もし、福音が単なる効果、影響力であり、そこに疑いと不安をそこに残すのであれば、いままでどのように福音を「良い知らせ」と呼ぶことが出来たでしょうか?
もし、本当に真実ならば、赦されたという保証を喜ぶことは出来ません。
その時、使徒の語ったことすべては全く逆のことを語っていたことになります。
その時、私たちはパウロが聞き手に「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しがあるのか、ないのか、だれも命の問題を知ることができません。」と語ったことを見出すでしょうか?
使徒たちの説教と教えがこのようなことを語っていたでしょうか?
使徒たちは、十分にはっきりとした方法で、また至る所で、十字架に架けられ、復活した救い主を信じるという望ましい結果としての罪の赦し(見のがし)があることを示したのではないのしょうか?
現在的な教師たちによって多くのことが主張されていますが、それはかけ離れた暗示でしかなく、私たちのすべての罪が完全に赦されたと信じることは危険な仮定ででしかないということにならないでしょうか?
そして、そのことは永遠に疑うたましいに信仰心と謙遜を与えることになるのでしょうか?
この世にあって、私たちのキリストにある永遠にある保証について、完全な確信を得て、決して喜んで生きてゆく可能性はそこにはありません。
私たちは神のみことばに頼らずに歩むこともできるし、キリストの捧げ物として私たちのたましいを捧げることも出来ます。
神の「良い知らせ」のその唯一の効果が、希望のない途惑うたましいにたどりつく可能性があるのです。
キリストは罪を持ち去りました。
しかし、私はその御業を知ることができません!
神は話されました。
しかし、私には確かではありません!
聖霊は下られました。
しかし、私にはキリストの証言を信じることが出来ません!
キリストの贖いの御業を辱め、聖霊によって記録された聖書を信じる信仰を拒否します。
ああ、もしこれが福音なら、信仰における平和と喜びに別れを告げることになります。
もし、このことがキリスト教会にて行われているのであれば、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らすために「罪の赦しによる救いの知識を与える」というみことばが無駄になります。
新改訳聖書 ルカの福音書1章77節
もし、救いの知識を誰も持つ事が出来ないのであれば、その時何のためにその救いの知識が与えられたというのでしょうか?
そして、この者は自分自身と他の者すべてをだましていたことになり、私たちの前に救いがないかもしれないという問題を作るのです。
ああ、何千人という者が迷っています。
そして、何千人という者が多くの者をだましています。
しかし、神の真実と、私の罪すべてを持ち去ったという有益なキリストの御業が何であるか、なぜ私はその絶対的確信を持つことが出来ないのかいくつかの理由があるのです。
多くの人は迷い、そして私はキリストに信頼を置くことが恐ろしいと感じています。
多くの人は他の者たちをだまし、私は神のみことばにだまされるのが怖いのです。
このことは単純にこのことばを受け取るときに、このすべてが達せられることであり、このように私たちはこのみことばを受け取るべきなのです。
時々、この確かな主張は、その者たちが着ようとしている外見と肉的な敬虔というドレスを脱がすことになり、不必要なものとなるでしょう。
ゆえに、私たちは彼らが何者かあるか悟るかもしれません。
私たちは健全で教えられたクリスチャンの告白と権威をもって推進するという立場を取るべきであること、それは私たちへの義務ではないのでしょうか?
それは私たちが誤りのない聖書の原則によるこの試みが何であるかを把握するためなのです。
必ずこのことはなされることです。
そして、もし私たちに「私たちは救いの確信が決してあるものではなく、しかも、救いの確信について考えることは推定でしかなく、そして、さらに私たちは最大の努力をもっても、神のあわれみよって、私たちが死ぬとき天国を入れるかもしれないという、この命にかすかな希望を持っているだけ」だと誰かが尋ねるのなら、私たちは神のみことばに直接反対しているこのような教えを完全に拒まなければなりません。
偽りの神学は「私は決して救いの確信を聖書のみことばから得ることはできない」と言うでしょう。
私はどれを信じるでしょうか?
前者は、私を闇で包まれた疑いと恐れで満たします。
後者は、神の確信を伝え、この完了した御業を基礎に、私にその力を与えます。
私は前者と後者、どちらに従うべきでしょうか?
聖書を基礎として言わんとしている事がそこにあるでしょうか?
永遠の救いの確信を持つための概念がそこにあるのでしょうか?
私はそこには何もないことを主張します。
その偽りの概念から離れて、この救いという項目はキリストのみことばは私たちの前に置かれました。
キリストにおいて赦しが受け入れられたということは、曇りえない確かなことであり、クリスチャンが楽しむことの出来る特権なのです。
そして、私に尋ねてください。
それは神に忠実なみことば、キリストの完成された御業ではありません。
それはキリストに委ねようとするたましいが十分な確信を楽しむためです。
それがキリストに委ねるという信仰によるのは真実です。
この信仰は聖霊によって心の中に働くのです。
しかし、このことは完全に現在ある質問に答えることは出来ません。
何を私は望んでいるのでしょうか?
私の読者がこの文章の研究によって、完全な堅固な確信を持って立ち上がることです。
その者にとって、キリストと同じくらい安全な立場があるという、今示している確信を得ることは十分可能なことです。
もし、罪人がこの確信を今まで楽しんでいなかったのなら、なぜ今もこの喜びを求めようとはしないのですか?
キリストの御業は終わったのではないのですか?
神のみことばは真実ですか?
はい、その通りです。
もし、その時にキリストが呪われた木に釘づけにされた時、すべて私の罪はキリストの上に置かれたことを、私が単純に信頼するなら、私は赦され、義とされ、そして神に受け入れられたのです。
主は私の罪をキリストの上に置いたのです。
キリストは十字架を耐え忍び、これらの罪を片付け、今はこの罪を持たずに天に昇って行かれました。
キリストの御業で私は十分なのです。
もし、今キリストが天にある権威ある右の座に立ち、私の罪を告白しているのなら、明らかに私に対してではありません。
神の義が罪の持参人である私の上に置かれ、神の憎む罪の怒りがキリストの上に置かれました。
それは私が復活し、栄光ある救い主にあって、自由とされ、永遠に罪が赦され、受け入れられるためなのです。
これらは喜ばしい便りなのです。
読者の皆さんはこのことを信じますか?
あなたは死なれ、復活されたキリストを信じますか?
あなたは失われた罪人としてキリストのところへ行き、こころから信頼をキリストに置きますか?
あなたは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」を信じますか?
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 15章3、4節
もし、信じているのなら、あなたはキリストにあって、救われ、義とされ、受け入れられ、完成されているのです。
あなたは、哀れな弱々しい被造物であり、常に争う邪悪な性質を持っていることは真実です。
しかし、キリストはあなたの命であり、あなたの知恵であり、そしてあなたの義であり、あなたのささげものであり、あなたの贖いであり、あなたにとってすべてなのです。
キリストはあなたのために天に昇られ生きています。
キリストはあなたを新しく清く造るために死なれたのです。
キリストはあなたを清く保つために生きているのです。
キリストの死があなたを清く造ったので、あなたは清いのです。
そして、あなたはキリストが生きているので、あなたは清く保たれているのです。
キリストはあなたのための責任をすべて御自身に負われました。
神はあなたがキリストに造られたものとして見ています。
神はキリストの中に、キリストと同じものとしてあなたを見ているのです。
ゆえに、それが哀れな罪を負った、そして誤りに導かれたたましいの、しるしであり、そして叫びであることをこの時代にあって鳴り響かせ、わたしはあなたが律法主義、敬虔主義、そして偽の神学という暗い廊下をこれ以上歩むことないように主に願い求めているのです。
しかし、復活し、勝利をしたキリストにあってあなたが立っているのなら、あなたの受け取る分は完全であり、完成されているとみなすべきです。
それはキリストの持つ天にある栄光の御住まいにあって、永遠にキリストと共にいるという希望を持って生き、地上にいる日々をキリストにあって喜んで生きるためなのです。
このように救いの確信が、唯一、神の権威にかかっていることを確立しようとするならば、その者の罪は赦されています。
私たちは今、神の聖霊の教えていることに信頼しているのです。
そのみことばが説明しているように罪の赦しというテーマを考える必要があります。
すなわち、
最初に、神が罪を赦しているという基礎です。
第二に、神が罪を赦すという広さです。
第三は、神が赦す罪の方法です。
この表わされた3つことには価値があり、
このことは私たちがこの表わされた三つの問題全体を理解する過程において、鮮明さ、完全さ、そして、正確さを与えるという価値があります。
よりはっきりさせるには、私たちは、より神の赦しという基礎を理解し、罪の赦しの広さを認識し、その方法を賞賛する必要があります。
私たちが神の赦しの基礎を考えようとしているこのわずかな間、神は聖霊を私たちの導き手としてくださるでしょう。
不安を感じる読者にはこの主要点が解らなければならないことは、最後に残るとても大切な項目です。
はっきりと罪が赦されたという基礎を得るまで、神によってとがめを感じる良心は、真実な休息を楽しめるということを理解できません。
そこには確かに漠然とした考えが存在し、神の哀れみと慈愛を尊重しているかもしれません。
神には罪人を受け入れ、彼らの罪を赦す準備があり、裁きの場所に入ることに意欲を示さず、哀れみの場所にすばやく入ってゆきます。--この問題すべてはその哀れみの場所にあるでしょう。
しかし、どのように咎めるたましいが神に会えばよいのでしょうか。
神はいまも、いや、すでに義としてくださった方なのです!
キリストはいまも神であり、すでに救い主なのです!
キリストは罪に対して勝利を得、栄光をお受けになったのです!
もし、罪の赦しが完全ではないのなら、そこに神の性質に調和があるでしょうか!
ですから、過去に理解していたキリストに信頼を置かない、神の平和たるものを捨てなければなりません!
その良心に神の真実の光が注がれ、罪が神の御前に決して立ち入ることの出来ないという力を実感します。
しかし、その力が罪なのです。
また、その力によって罪が神を嫌っていることの証明ともなります。
ゆえに神の方法によって、罪を扱うことを理解し、信じるまで激しい恐れがそこにあるのです。
罪は現実であり、神の聖めも現実です。また、良心も現実のものであり、来ようとしている裁きも現実です。
これらすべてのことは、永遠の生きる者として見つけなければならないものです。
義は満足されるべきです。
良心は清められ、サタンは封じ込められます。
イエスの十字架によることのみです。
その時、ここから神の赦しという真実の基礎を持ちます。
このキリストの貴重な贖いは、甘い交わりの中で神と義とされた罪人が出会うという土台の基礎を形作っています。
私はその贖いの中に宣告された罪を見ます。
義は満足されました。
律法は罪人を救うことに導きました。
敵は混乱しました。
このように被造物には何もすることはなく、すべてが神の御業であり、そこで被造物は力、知恵と慈愛の現れを楽しむのです。
しかし、「神の恵みが義を通して支配される」ことのように--
「神の正しさと平和、慈悲と真実」の栄光の組合せのよう--
古い被造物世界でもっとも優れたものでさえ、このことについて何も示すことは出来ず、ただこのことを示すためにカルバリが残されていたのです。
すべての基礎とこれらの重要な問題がここにあります。
どのように神が正しくこれらの問題を弁護するのでしょうか?
栄光ある答えをお受けになったのです。
キリストの死はその答えを与えています。
神は復活の新しく、永続する基礎の上に、罪人を扱い、その結果、罪人を義とするために罪を十字架にて扱ったのです。
神は一つのわずかな罪も、大目に見たり、見過ごしたり出来る方ではありません。
しかし、神がそれを片付けたのです。
神は罪を強く責めています。
神は十字架を信じた罪人の上に、終わることない愛情の輝きを注ぐために、罪の上に神の義の怒りをイエスの十字架の上に注ぎだしたのです。
このことが心に刻み付けられました。
すでに罪は裁かれ、罪人は救われたのです。
何という尊い記録なのでしょうか!
すべて確信を持たない罪人は信仰の目でこのことを読むでしょう。
その記録は確立されてしまった平和を、心に据え付けられたならないのです。
神は罪に関する問題を満足され、私たちはこれで十分なのです。
ここで、私の邪悪な、問題を持った良心は甘い休息を見つけるでしょう。
私は私の前に暗い山のように、罪がそびえ立つを見ます。
私には永遠の怒りがあるのでないかという恐れがあります。
それは神の見えるところから離れて、イエスの血はこれらの罪を抹消しました。
これらの罪は永遠に過ぎ去ってしまいました。
そして、神の忘れ去られ広大な海の底に沈められます。
私は私の罪のための十字架に釘づけにされた者としての自由を得たのです。
その者はこれらの罪を持たずにその王座に今、座っているのです。
その時、神の赦しを基礎としていることです。
何という強固な基礎なのではないでしょう!
義はそれを所有しているのです。
救いの確信を持てない良心はそれに頼るのです。
サタンもそのことを認めなければなりません。
神は義とする者(弁護人)として、光の中を歩む信仰と罪を赦し啓示によって御自身を現わしました。
単純であり、はっきりしていて、何よりも満足できることです。
もし、神が義とする者(弁護人)としてご自身を現わしているのなら、啓示された信仰によって、義とするのです。
十字架の栄光の意味が罪人の上に輝くとき、その者の罪はキリストの死にあって裁かれ、復活において義とされ、その罪人はそのことを見て、知って、そして信じ、所有するのです。
救いについて、確信を持てない読者は見てください。
私は真実な罪の赦しの基礎を理解することを、読者に懇願します。
私たちがあなたの貧しく問題だらけの良心が、不滅の基礎である罪の赦しの上に頼らされるまで、その赦しの広さと方法がどのようなものかと考えていることは意味のないことです。
私はあなたにその理由を述べます。
完了された贖いの土台の上に頼る瞬間から、あなたに何が邪魔をするのでしょうか?
あなたの良心は断固とした神の義に満足をすること以上に、何か満足すべきことは何かあるでしょうか?
では、言いましょう。
神が正しい義とする者として自分自身を現わしているその基礎は、あなたが十分に固く決意して義とされた罪人として立っているからでしょうか?
あなたは友に何を言うでしょうか?
キリストはあなたにとって十分な存在でしょうか?
あなたはあなた自身の中に、あなたの方法に、あなたの働きに、あなたの考えに、そして、あなたの感覚に何か救いに関することを探すでしょうか?
もし、そうならば、それは無駄なことであり、あなたは探すことをあきらめるべきです。
あなたは何も見つけることはできません。
もし、あなたが何かを見つけることができたとしても、それはあなたにとって負担であり、損失であり、妨害するものでしかありません。
キリストは神に対して満足されたのです。
キリストは同様にあなたをも満足させます。
その時に、その時までではありません。
あなたは真実な幸せを手に入れるでしょう。
もし、あなたが現実に救いの知恵を知り、救いに加わることができるのなら、その瞬間、神はあなたに聖霊をお与えになるでしょう。
ただ、神は、神が持つ赦しだけを基礎として、その捧げものを完全に満足することができるのです。
神の赦しの広さ:とても多くの者たちがこのことについて、混乱しています。
彼らにはキリストの贖いだけでは十分ではないのです。
彼らは現実に彼らのすべての罪に適用され、罪から解放されたということを実際に自分のものとはしていません。
彼らは今まで述べてきた救いの現実の力に加わっていません。
おそらく、彼らはこのように歌うでしょう。
「すべて、寛大に罪の赦しを行う者は不法者です。」
彼らにはキリストが単に自分たちの罪を運んでくるようにしか思われないはずです。
すなわち、彼らの改心に至る時間までの罪しか赦されていないという印象しか持てないのです。
彼らは日々の罪の問題について迷っています。
それは、彼らが犯してきた過去の罪の問題の基礎と違う他の方法で解決されるべきであると考えているからです。
このように彼らは、その時、突き落とされ、ひどく悩まされるでしょう。
そして、キリストの死において罪の赦しの十分な確信を得るまで、彼らは違った考えを持っているはずです。
もし、神の子供が罪を犯したのなら、その者は御父のところへ行き、罪の告白がなければならないことは真実なことです。
しかし、罪を告白するものに対して、何を使徒は言っているでしょうか?
「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章9節
今、なぜ彼は「真実で正しい」と言っているのでしょうか?
なぜ彼は「恵み満ちて、哀れみ深い」と言っていないのでしょうか?
それは使徒が罪の問題全体がキリストの死によって認められ、そして、解決されたということを土台にして話しているからです。
キリストは義の助け手(弁護人)として天に昇り、今も働いておられるのです。
赦しの問題について、神が忠実に、そして、正しく罪を扱っているという以外の土台はありえません。
クリスチャンの罪はすべて十字架の上で贖われました。
もし、十字架を無視するなら、その罪がいかにわずかであろうとも、その者は神の聖所の領域に入ることはできません。
ゆえに、その者に永遠に失われています。
さらに私はそのことに付け加えましょう。
もし、すべてのクリスチャンの罪がキリストの死において贖われていないのなら、告白によっても、祈りによっても、断食しようとも、その他のいかなる手段によっても、決して罪が赦されることはありません。
キリストの死は、神が真実と正しさにおいて、罪を許すことのできる唯一の土台です。
そして、私たちはキリストが真実と正しさにおいて罪の赦しを行い、その他のどのような手段においても罪の赦しをなすことはありません。
このことは神の栄光のためであり、私たちに大きな慰めとなります。
しかし、もし、私の読者の叫びを想像するならば、おそらく「私が将来、犯す罪すべても贖われたのですか?」と言うでしょうか。
私は「キリストが呪われた木の上にこれらの罪を持ち去った時、私たちの罪すべてが未来だったのです」と答えることができます。
キリストが罪のために死んだとき、この20世紀の間、全てのクリスチャンの罪は未来なのです。
ゆえに、もしこの将来犯すだろう罪が赦されているという考えが難しいことだと言うのならば、おそらく私たちは将来、罪を犯します。
そして、罪の問題が解決されないのならば、それはもっと大変難しいことを述べていることになります。
(私たちは神の御前において、十字架上のキリストの贖いの苦しみの価値を覚えておくべきです。
そして、クリスチャンのたましいはローマ人への手紙8章34節にある、変わることのない祝福されたみことばを基礎として歩む必要があります。)
しかし、真実にあって、将来、犯すだろう罪のすべての難問の多くは、神ではなく、私たちの見方から、そして、天からではなく、地上から十字架を見る習慣によって起きているのです。
聖書は、将来、犯すだろう罪については話されてはいません。
過去、現在、そして、未来は単に人間がこの地上にいる間のことです。
すべてが神と共に、今が永遠の瞬間なのです。
私たちの罪すべては、十字架の上で限りない神の義の目の前にあり、その罪すべてはイエスの頭の上に置かれました。
私は例外も、心配も、ためらいもなく、はっきりと、断言して言うことができるでしょう。
それは信じる者の人生が、どのような場面であっても、どのような瞬間においても、そして、輝かしい舞台の上にあったとしても、信仰の耳によって、福音の神の喜ばしい便りを聞いた時から、その者が栄光の階段を上る瞬間までのすべての罪は、イエスの死によってそこに運ばれ、罪の赦しの永遠の土台はそこに据えられたのです。
「あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」
新改訳聖書 イザヤ書38章17節
間違った将来の罪の問題に対して、神の宣言に対する正しい信仰の応答ではないと言うことができます。
その時「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章13節
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
新改訳聖書 イザヤ書53章6節
「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章34節
私たちは、十字架につけられた犯罪人を例として上げる事が出来ます。
彼は判決を受けた罪人でした。
信仰の目は、彼のそばで十字架に架けられた祝福された者に注がれました。
その時に、そこで彼は神のパラダイスに入れる者となったのではないのでしょうか?
犯罪人は十字架の上にて、神が示している資格を持ち、「罪の赦し」が与えられたのではないのでしょうか?
間違いありません。
犯罪人は自分のために、自分の性質の中に、もしくは天国に適応させるために何か行いをする必要があったでしょうか?
何もありません。
さて、天に入るために何かできたとでも、想像しますか?
犯罪人が十字架から降りてきて、釘が抜かれ、特別に自由にされたのでしょうか?
彼の性質には罪があり、彼は考えにおいても、言葉においても、そして、行いにおいても、罪を犯しやすく性質を持ち続けていました。
今、彼は決して神に対しての資格、適応性、ふさわしさを失っていません。
彼の罪すべてはイエスによって持ちさられました。
そして彼は天国に入るためにふさわしさを一度限り、永遠に、その時、得たのです。
もし、彼が50年間地上にいたとしても、彼いつもどんな時であろうとも、完全に天国に入るのにふさわしい者となったのです。
それは真実なことであり、もし、赦された罪人が罪を犯したのなら、彼は神との親しい交わりが中断され、交わりが回復される前に彼は心からの告白がなされなければなりません。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙1章7節
私の交わりは中断されるかもしれません。
しかし、私の資格は決して失われることがありません。
すべてが十字架の上で完成されました。
罪と罪過のあらゆる形跡は比べることのできない極めて貴重な犠牲によって償われたのです。
その犠牲によって、クリスチャンの罪過と有罪とされた立場から、義とされ、完全に愛されたという立場に移されたのです。
彼は恵みという立場に立ちました。
彼は恵みの下にいます。
彼は恵みという空気を吸っているのです。
それは神の見方と一致していて、決して間違っていることはありません。
もし、彼が罪を犯すのなら(彼は犯さないでしょうか?)、彼は罪の告白がなされなければなりません。
その時、何を告白しますか?
罪の赦しと清さは、神の忠実さと義を土台としていて、十字架にあって答えられているのです。
すべてが十字架の上に基礎が置かれるのです。
神の忠実さと義はキリストの主張です。
私たちは十分に告白がなされるのなら、私たちは完全に清くされ、私たちの交わりも回復されるのです。
キリストの貴重な血を基礎として、私たちはすべての事柄について休むことができるのです。
単に、今、私たちは一つの点において乏しいいうことに心を留めます。
それは神の赦しの広さの理解するということです。
これに関連していることで、大きな他の重要点があります。
例えば、キリストを共に信じるクリスチャンの一致です。
私たちは神の家族に入れられ、聖霊が内住され、すべての者に完全な罪の赦しが示されるということです。
しかし、私たちは自分自身を限られたテーマの中に閉じ込め、土台とその広さに自分を適用させようと努力します。
私たちはいくつかの言葉(神の赦しはこういうモノだ!!)に閉じこもってしまうでしょう。
私たちはどのように行動すればよいか、その罪の赦しの方法に頼ってしまいます。
事実、その内容よりも、その罪の赦しの方法の中に力があることが理解できます。
私たちはこのことについて、どのくらいこのような言葉を聞くことがあるしょうか?
「はい、私は彼が私に憐れみを施したことを知っています。
しかし、彼は何も善き行いをしないでいいようにと、このような罪の赦しの方法を取ったのです。」
今、主が行われたこの神の赦しの方法は、イエスの名が祝福されるためです。
イエスは単に偉大なことを行っただけではなく、これらの者たちの心がその行動にあって、私たちに赦しの確信を与えるために、このような罪の赦しの方法を彼らに対して行っているのです。
私たちはその実例を聖書に持っています。
例えば、ルカによる福音書7章でパリサイ人の家にて、キリストがシモンへの交わした言葉を見てみましょう。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。」
新改訳聖書 ルカによる福音書7章41〜43節
訳者注) 金貸しはふたりとも赦してやった。
(KJV訳--he frankly forgave them both. --金貸しは単純に二人とも赦してやった。)
KJV訳ではここに"frankly"単純に、率直に、という言葉が導入されている。
「その者たちは何も支払う物がない時に、シモンは「単純に」二人とも赦したと言いましした。
今は、単に借金の問題だけが心配されていました。
たとえ、いろいろな罪の赦しの方法が取り入れられたとしても、結果は同じものです。
私たちの心は、その「単純に」という言葉の道徳的な力を認めずにいられますか?
誰が、書かれている内容も、その力も忘れてしまったのでしょうか?
誰がどのように、その示された「罪の赦しの方法がそこにはない」と言うことができるのですか?
金貸しは、二人の者の心にある金額について動揺をも取り去り、赦したのです。
その動揺は裁きを恐れる敏感な心の中で、二人の日常の行動から全ての魅力を奪い取ってしまいました。
一方では、その赦しの方法である「単純に」にという言葉が強められるなら、その表現を超え、その価値の内容は増します。
その瞬間をもう一度見てみましょう。
よく親しまれていますが、この霊感に満ちたルカの福音書15章は非常に実りある箇所なのです。
それぞれのたとえ話が罪の赦しの方法とその力の美しさを示しています。
羊飼いが自分の羊を見つけた時、羊飼いは何をしましたか?
羊飼いは羊に対してこれら全ての問題について文句を言い、心に答えるように言い聞かせましたか?
そんなことはありえません!!
それはありえないことです!!
何をその時、羊飼いはしたでしょうか?
その羊をかついだのです。
どのように?
いなくなった責任、もしくはこの問題について問いただしましたか?
いいえ、喜んだのです。
ここで私たちは素晴らしい罪の赦しの方法を知ります。
羊飼いは羊を再び取り返したことを心から喜んだのです。
羊は肩の上に置かれ、安全に守られました。
そして、肩の上に羊を置いた時、すでに羊飼いは「喜び」という言葉を失してしまいましたか?
誰がどのように、その羊飼いの行動によって表されていれる、すばらしい罪の赦しの方法がそこにはない」と言うことができるのですか?
なくした銀貨の場合においても同じ事が言えます。
「 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。」
新改訳聖書 ルカによる福音書15章8節
女は退屈そうに、疲れてだるそうに、興味も持たずに銀貨を探したでしょうか?
彼女は「念入り」に熱心に心を込めてその一枚を探したのです。
彼女が失った銀貨を見つけたかったのははっきりしています。
この銀貨のたとえで表されているのは、罪の赦しをはっきりと証明しています。
最後に、貧しくなって帰ってきた放蕩息子を迎える父親に表されている罪の赦しの方法に注意してください。
「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
新改訳聖書 ルカによる福音書15章20節
間違いを犯した者として、子としての身分から追い出された者として、父親はしもべを送ってはありません。
それとも、父親は台所に行き、料理の準備をしたのでしょうか?
それとも、父親は自分の部屋に閉じこもってしまったのでしょうか?
いいえ、父親自身が走って行ったのです。
言うのであれば、帰ってきた息子に父親として愛情を与え、父親は父親としての尊厳を持ち続けました。
そして、父親はただ帰ってきた放浪者として迎えることに満足しませんでした。
息子を出迎えが、父親にとって心を込めて行われたことが証明されたのです。
父親がどのようにこれらのことを行われたかと言うだけではなく、それがどのように父親が息子を赦し、受け入れたかが示されています。
いろいろな他の聖書箇所で、神の罪の赦しの方法が表現されていると言うことができます。
しかし、人間の心に罪の赦しの方法が示され、行動となり、神がその力を恵みをもって認めてくださるということは、今まで書かれたことだけで十分に証明されることです。
ゆえに、このメッセージを終えるにあたって、私は私の読者に熱心に訴えます。
あなたは、今、この罪の赦しという土台、神の赦しの広さと方法について考えてください。
あなたが持つ罪の赦しの土台は無限の広さを持ち、神ご自身の王座と同じくらいに堅固なものであることを知らなければなりません。
そして、罪の赦しの方法は、あなたが欲するままに与えられることが可能です。
したがって、私はあなたに「罪の赦しという大きな問題について満足できますか?」と尋ねることができるでしょう。
あなたは、神が喜んで、自発的に罪の赦しを差し出していることに疑いを持つことが出来ますか?
その時、神の罪の赦しの広さとその方法を土台として、神はあなたにその答えをお与えになります。
あなたはためらうことができますか?
神はその時、実際に罪の赦しを疑う者たちに、神のみこころがどのように寛大なものかをお示しになり、御手を開き、あなたを受け取って下さいます。
神はあなたに十字架を示しています。
そこで神はご自身の御手で罪の赦しの土台を据えました。
そして、すべてがすでに成された事を教え、保障しています。
そして、今、あなたがそこに安らぎを得ることを懇願しています。
これから、そして、永遠に、神はあなたのために働いておられるのです。
祝福された聖霊が、これらの清さと豊かさにあって、あなたが罪が赦されたクリスチャンとしてだけではなく、同じ様に単純に、そして、永遠にすべての罪が赦されたことを信じた者として導かれることを私は願います。