メッセージ 2001/3/9
確信に満ちる どのようにあなたは救われたことを知ることができるか?
(FULL ASSURANCE : HOW TO KNOW YOU'RE SAVED )
By H.A.アイアンサイド


序論

このページの中で書かれていることは、私が持っているというよりは、可能な限り、問題を持つ魂が神にある平和を見つけてくださるように、はっきりと、私の前に置かれた、私が語らなければならない一つのテーマであることを自覚しています。
私は聖書が神の霊感を受けたものであることを信じ、キリストにのみ救いのあることを認め、しかし、神に完全に信頼を置く平和を置くことの出来ないものたちに、特にこのことを考えて欲しいのです。
主はまじめにこのようなことを求めているものたちを知っています。
しかし、バニヤンの巡礼者の様にその思いは混乱し、絶望の淵で、もがいていることでしょう。
もしくは、その者たちは巡礼者の、初めのころの経験である、危険なシナイの崖の下で震える、悩む探求者の様です。
従って、ここでは著者と読者の両方が聖書にある真実が証明されようという試みではありません。
ある者たちはその答えを得るために、健全なクリスチャンの学者によって、聖書の完全性、かつ、神の権威によって書かれた多くの良い本を読むことを求めてはいません。
そして、それ以外の十分な助けを見つけようとただ疑い続け、悩まされることが当然であるという特別な見方を持っています。
とても多くの人々がこれらの考えに沿って助けが必要なことを告白していますが、この問題が彼らの前に置かれている時でさえ、調べることに無関心です。
私が書くのは、私の持つ真実を述べた後で、本当の探求者を得るためです。
聖霊によって私に示された真実な平和の土台である、神のみことばに従った神の考えは私に示され、それが示されるまで私自身、長い間、多くの疑いを持ち、混乱していました。
それは昔のことですが、その時、私は自分自身の中で何度も矛盾を感じて生きていたことを知り、私は昨日のことのように思い出すことがあります。
私はキリストだけに安らぎがあることを知った時に、私のたましいは次第に満たされ始め、終わることのない、動揺することのない、神にある平安に加えられているのです。
時々、雲は私の空をおおうかもしれません。
悲しみと困難は私の魂を試みるかもしれません。
私の心に堕落した思いがあるという新しい発見は屈辱と悔い改めをもたらすことでしょう。
しかし、神とともにあるこの平和は変わることがありません。
それは私自身に頼ることではなく、私の経験や思いに成り立っているものでもなく、キリストの働きが終了したこと、そして、神のみことばによることなのです。
それは「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。」と書いてある通りです。
新改訳聖書 詩篇119編89節


第一章

 この半世紀の間、私の職務は救いの確信を与えることであり、それを追い続けて戦ってきました。
私はキリストに頼る多くの者たちを導くことを喜びとしています。
いろいろ異なった人たちによって表現されていますが、その問題点と混乱と救いの確信についての妨害は、すべて多かれ少なかれ基本的に同じようなものなのです。
私がどのように知り、はっきりとこの確信について示されたかをこの小さな書物である聖書から探すことができます。
私の持つこの真実は、多くの魂の必要を満たすために基礎を証明することができるのです。
私は昔、若い医者がさまざまな病気を持つ患者を助ける際に、習慣的に多くの薬を使用されていると聞かされました。
しかし、医者としての習慣と経験が、これらの薬を与えるだけの療法を捨て、彼らは必要最低限の薬を与えることに集中しました。
魂の医者についても同じよう経験が言えるでしょう。
そして、このことは魂の医者にとって、後の医者の経験と比較して、もしくは初期のころの習慣と比較しても、何か面白くないことを与えてしまうかもしれません。
それは、すべては私たちの主から使徒たちによって直接継承され、最も偉大なる方によって書かれ、要約されたという見解にたどり着くのです。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章14節
すべての霊的な悪に対しての治療方法がここにあるのです。
ここにある最高のメッセージは、多くの者がこの救いを実際のものとしているか、していないか関係なく、あらゆる所にいるすべての人に必要とされていることなのです。
そして、私はこのページを使って、この救いについて宣言したいのです。

キリストを述べ伝える宣教師として

私の人生の多くは、すでに福音の宣教師です。
「キリストの測りがたい富」(ガラテア人への手紙3章8節)を宣べ伝えるために年に30〜40万マイルぐらい、何度も旅することがあります。
これらの旅の間において、私は二回ほど列車に乗り遅れたことを思い出すことがあります。
ある時は、夏時間と標準時間とを間違えて混乱しました。
もう一回は農場主の列車に間に合うだろうという思い込みを真に受けました。
その農場主は、自分の農場から、ミネソタにある、ラウリーの町に私を車で送ってくださったのですが、私が乗ろうとしていた、予約済みのウィニペグに行く午後の寝台列車には乗ることができませんでした。
私はどうしてこのような手段を使なければならなかったのか、いまでも私の友人に対して言ったことを覚えています。
もし、彼は特に重要でもない仕事に多くの時間が費やし、のんびりとこなしていなければこのようなことはなかったでしょう。
そして、そこでは多くの時間が費やされ、私はその無駄なことに対して腹を立てました。
しかし、彼は落ち着いており断固としていました。
結局は、彼は自分のチームを引き上げることになり、私たちは大草原を渡って出発しました。
町から約一マイル離れたところで、私たちは駅に入ってくる列車の蒸気を見ていました。
2〜3分そこに停車し、北のほうへ出発するところでした。
そこで何もすることが出来ずに、5〜6時間ほど深夜急行を待ちました。
もちろん、私は予約などしていません。
私は寝台が取れなかったことをその列車がついた時に知りました。
部屋が空くまで間、つまりカナダの境界に至るまで、私は混雑した普通客車に座るはめになりました。
私は困り果てたその間も、このみことばをもって自分自身を慰めていました。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章23節
「私が列車の乗り遅れ、快適な寝台に乗れなかったことを彼に許されたということに何か目的があるのなら、私が必ずそれを見つけるよう」にと私は真剣に祈りました。
その時、私が混雑しているいやなにおいのする客車に乗りこむと、左側に一つの空席を見つけました。
その席の通路側半分には眠った若い男が占領していました。
私はその男のそばに座り、かばんをしまい込むと、彼は目を覚まし、背を伸ばして、眠そうな顔をして私にあいさつをしました。
すぐに私たちは気が合い、静かに会話を始めました。
それは私たちの周りにいる他の乗客は、いびきをかいて眠っていたからです。
適当なチャンスが与えられたので、私は「あなたは主イエス・キリストを知っていますか?」と尋ねました。
彼はまるで撃たれたかのように身体を起こし「あなたが私にそのようなことを聞くなんて本当に不思議なことです。
私はイエスのことを考え、そして私がイエスを知ることを願っているとつい眠ってしまったのです。
しかし、私がそれを願ったとしても、私はイエスを理解していません。
あなたは私を助けることが出来ますか?」と答えました。
この会話はさらに彼が南ミネソタの町で働いていたという事実を引き出し、そこで彼はあるリバイバル・ミーティングに出席するように説得されていたのです。
明らかに、力によってなされたその伝道は、彼の魂に対して深くかかわりを持つものとなりました。
彼は今まで、罪に対して、泣いて、祈って、悔い改めるために前に出て行ったことがありましたが、そこには神との平和を見つけることはできませんでした。
その時、なぜ私が列車に遅れたかを知りました。
私は意味なく不注意におしゃべりをしたのではなく、このことは私にとって「ガザ」であり、私にはその価値もないけれど、私がピリポであるために神が私を送ったのです。

ピリポがエチオピアの財産全部を管理していた宦官に会った時、宦官がイザヤ書53章を読んでいたように、私もいくつか聖書箇所を開きました。
十字架につけられた救い主のその驚くべきその姿に、私の新しく見つけた友人の注意を引き寄せようとしました。
しかし、その前にイザヤ書53章3〜5節を彼に示しました。
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

新改訳聖書 イザヤ書53章3〜5節

彼は主が彼のすべての罪をキリストに置いたことを信じました。
彼は頭をたれましたが、私は彼に「イエスをあなたの救い主として信頼するように」話しました。
それから、約二時間の間、私たちは聖書のこの箇所から、そしてもう一つの箇所に戻って、神にあるこのような交わりを持ちました。
それから、彼は目的の駅に着き、この命の道を示したことについて私に礼を言い、駅に降りてゆきました。
私はそれ以降彼を見ることはありませんでした。
しかし、私はキリストの裁きの座で、再び彼にあいさつをされることを知っています。

哀れなたましいのための助け

この本が誰の手の中にあるのか、私は語ることはできません。
しかし、私はこの祈りを送ることができます。
この祈りはミネソタの夜、列車の中においての会話のように、青年が神に立ち返る必要を本当に感じたように、多くの哀れなたましいへのメッセージとして証明されることです。
しかし、そのたましいが聖霊の力にあるたましいの源にたどり着き、その書かれたみことばを理解するまで、そのたましいは平和の道を持たず、確信を持つことはありません。
もし、あなたが若く、ちょうどこの問題の中にあるのなら、どのような時であっても、あなたは神の摂理によってこの書物を使う必要があります。
あなたは「主がご自身の方へとあなたを招いている」と見ているでしょう。
私もそのように見ています。
そして、あなたは慎重に、考えて、祈りながら聖書を読み、それぞれの聖書箇所が述べてゆくことを調べているでしょう。
もし、あなたが問題を持ち、このように聖書を読むのなら、確かに確信に満ちることが出来ます。
これは確かなことです。
神はあなたについて深い関心を持っておられます。
神はあなたに主にある救いの方法を与えたいと切望しています。
あなたの注意がこのページに向けられたということは単なる偶然ではありません。
神が私の心にこれらのことを書くように仕向けたのです。
神があなたにこの書物を読むようにされたのです。
これらの事はあなたの悩むたましいに神のメッセージを明らかにさせてくださるでしょう。
神の方法は多種多様ですが、目的は一つです。
それは「みこころによりご計画のままをみな実現される方」だからです。
新改訳聖書 エペソ人への手紙 1章11節

床屋の大きな関心

もう一人との経験によって、おそらくこの章をふさわしく閉じることができるでしょう。
ある日の午後、私は理髪店を捜して、インディアナポリスの混雑した通りを歩いていました。
私が最初にその店に入ったのは、赤と白の縞の入ったポールが目に入ったからです。
そして、私は店に入るとすぐにいすに座り、店員は作業を始めました。
店員の口は軽かったのですが、とても控えめでした。
私が思うには、彼は決して軽率で口の軽い人間ではないと思います。
私は作業が始まる時に祈っていました。
すると良いチャンスが与えられ、別の場合のように私は彼に尋ねました。
「あなたはイエスキリストを知っていますか?」
すると店員の反応は私にとって注目に値するものでした。
店員は作業を続けることができなくなり、動揺に、こられ切れずに泣きだしてしましました。
最初の動揺が過ぎ去ると、今度は叫びました。
「なんと不思議なことでしょう!
あなたがキリストについて私に聞くなんて!!」
私は人生の中で今まで、私にキリストについて尋ねた人は誰もいませんでした。
そして、この三日間私はずっとキリストについて考えていたのです。
あなたは、私にキリストについて何を語ることができるのですか?」
その言葉は再び私を驚かせました。
そして、逆に私は彼に何を導いて欲しいか尋ねました。
その店員はキリストの十字架の絵を見に行き、彼の心に消えることのない印象を与えたことを説明しました。
店員はなおも「なぜ、その良い人はそんなに苦しまなければならなかったのか?
なぜ、神はキリストをそのように死なすことを許したのか?」
その店員は人生において今まで、福音を聞いたことがなかったのです。
そして、私は彼を十字架の物語を聞かせ、貴重な時間を送りました。
私たちはともに祈り、彼は自分の罪のためにキリストが十字架に架かって死んでくださったことを信じ、はっきりと宣言しました。
私は彼の店に去り、彼に福音を本当に力強く語ることができた事を知り、喜びました。
その無知なギリシャ人の床屋はキリストは彼を愛し、彼のために御自身を御与えになったことを初めて学んだのです。
そのことは、私にとっては神に導かれた比類のない例です。
受難劇が描いているイエスの死と復活の描写は私にとって嫌悪するものであり、罪人たちがイエスの生涯を描こうとしているものでしかありません。
しかし、神は罪人の死を楽しんでいません。
神は、その床屋の店員が神に立ち返り、命を得るようにと、この受難劇の描写を使って彼を刺激し、福音を聞く準備を彼にもたらしたのです。
そして、私は神が私の足をその定められた店に導いたということについて何の疑うもありません。
悩む床屋の店員に、世の罪を取り除く神の子羊を語ることができたという喜びを私は持つことができたのです。
このように多くの実例があります。
しかし、私が熱心に願う事ですが、もし、彼がこれらの書かれたメッセージを持ち、自分のものとするのなら、私にとって喜びとなることでしょう。
多くの罪の上に人知を超えた恵みがあります。
贖われたたましいに便りが届きます。
誰もその深さを聞くことができません。
誰が長さと幅を語ることができるでしょう。
その栄光の上で、永遠に私のたましいを住まわせるでしょう。


2、永遠の確信

イザヤ書32章17節の中に非常に注目すべき記事を見つけることができます。
「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」
とこしえの信頼!(永遠の確信)
これは、素晴らしく満足できる表現ではないでしょうか!
2、3日ではありません。
もしくは2、3週間、もしくは2、3ヶ月、あるいは2、3年、それとも一生涯、いいえ永遠です。
それは神の元に来るすべての者は哀れな罪人であり、神は彼らを大切に取り扱い、祝福された確信を与えるのです。
それは彼らの求める信仰生活なのです。
この章の中で使われている二つの言葉は、平和、そして確信と親密な関係にあります。
いまだに世にある多くの信仰的な人々は、どちらの単語の意味もほとんど知ることはありません。
彼らはまっすぐに神を追求しているでしょう。
彼らは、形式的に聖書を読み、彼らは祈り、教会の集会に出席し、儀式に参加し、キリストのために犠牲を払うことを信仰上の職務とするでしょう。
彼らは心から誠実、そして正直な態度を持つでしょう。
彼らはともに交わり、すべての街、そして国家の責任を主張し、その黄金律に心から従おうと努力するでしょう。
それでも、彼らは終わることのない平和、もしくは救いの明確な確信を持つことはありません。
神の救いの方法を理解されていないために、不安、かつ不安定な状態があります。
しかし、私は現実にこのような実例を使って説得することができます。
しかし、カリバリの十字架の7世紀前、預言者イザヤに、後に福音の中に現わされる神の義の祝福の方法が示されました。
それは聖霊によって動かされたイザヤによって話されたことで、驚くに値しません。
その注目すべき言葉は彼の書いた偉大なイザヤ書の中にあります。
たびたびこのイザヤ書は5番目の福音書と呼ばれています。
それはローマ人への手紙にある「義」という言葉をイザヤ書においてもテーマとしているからです。
そして、私は読者にしばらくの間、この「義」と言う言葉が聖書においてどのように使われているのか、考えることをお勧めいたします。

死にゆく法律家

その法律家は死にそうな状態でした。
彼は生涯ずっと教会の礼拝に出席していましたが、救われてはいませんでした。
彼は申し分もなく、誠実の人であるということを知られていました。
それでも、彼は永遠に面して、横たわり、悩み、苦しみました。
彼は人前では正しかったのですが、神の前では罪人でしかありませんでした。
その時、彼の目覚めた良心は、普通では決して悔やむようではない過去に犯した罪と罪過を思い出だすことなります。
彼がそのことを知った時、やがてすぐに彼は自分の造り主と会わなければなりません。
彼の友人は直接彼に、その問題を聞きました。
彼は否定し、悲しげに頭を横に振り、返事をしました。
他の者が尋ね「あなたは救われたくないのですか?」と聞きました。
彼は「私は救われたいのです。しかし、すでに遅すぎます。」と答えました。
しかし、彼はそれに付け加え「私は私が救われるにあたって、何も悪いことはしていない、だから神を求めていないのです」と答えました。
彼の言葉はこの重要な神の「義」についての価値を、どのくらい学んでいたのかを私たちに示すことになりました。
彼の訪問者たちは聖書に立ち返り、不正な罪人が救われる「義」の方法を神ご自身がどのように私たちに与えたのかを読みました。
現実に、彼を救う方法は聖書以外に何もありません。
罪人が救われるために、罪が輝きだされなければならないのなら、彼は永遠に失われるでしょう。
神はすべての人が救われることを切望しています。
しかし、神はご自身の性格を無視して和解することを拒否しています。
そのことがルターの魂をかきたてさせ、新しい暗闇の中を手探りし、疲れ果てた月日の後、光と助けをもたらしたことになりました。
ルターは目隠しされた盲目のリーダーの要求と一致して、無駄にそれを守ろうと試みていました。
ルターがラテン語の詩篇を読んでいた時、ダビテの祈りが聞こえてきたのです。
「あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。」
新改訳聖書 詩篇71編2節
ルターは「これは何を意味しているのだろう?」と叫びました。
「私は神が神の義によって、私をどのように呪うことができるかは理解できますが、しかし、もし、私を救うことができるのなら、それは神の哀れみでしかありません。」
ルターはそのことについてよく考え、そして彼は驚くべき成長に至ったのです。
しかし、少しずつですが、真実はルターの悩む魂に現れ出し、神はご自身によって義とする方法を彼に与えたのです。
神は悔い改め、そして信仰によって神のみことばを受け取り、神のところに来る不正な罪人を義とすることができるのです。
イザヤはこの偉大な、栄光ある真実を強調し、そのことにより驚くべき旧約聖書が福音の計画を明らかにしています。
神の恵みとは別に、預言者は激しさを惜しまずに、完全に失われ、全く希望のない状態を描写しています。
「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。
反逆に反逆を重ねて。
頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。
絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」

新改訳聖書 イザヤ書1章5、6節
それは確かに不愉快きわまる描写です。
しかし、それでも神の目から見た救われていない人間の真実です。
罪は邪悪な病気であり、その呪われた状態の原因なのです。
また、その呪われた状態から、もしくは罪の支配する力から、誰も自分を自由にすることはできません。

確かな治療

神は確かな治療方法を持っています。
「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
新改訳聖書 イザヤ書1章18節
それは神ご自身がこのようにらい病人を清めることができるからです。
「すべての彼の不潔さから、そして、すべての彼の罪過から、神はその不敬虔から彼を義とすることができるのです。
それは彼の義の行いや正しさによらず、神の完全な義の方法によるのです。
それはキリストの十字架です。
私たちはどのように私たちを救うことができるのかを知ることができます。
キリストの十字架は、私たちに神の義と驚くべき恵みを描かせるでしょう。
私たちはすでに義とされているのです。
罪人は罪から自由とされたことを信じています。
私たちは「救い主が私たちのために死なれた」と言うことができます。
重要なポイントは贖いの血です。
そして、私たちは「その血によって神との平和を作られた」と言うことができます。
イザヤは他のすべての預言者よりまさって、十字架の働きを示しています。
彼はカルヴァリへと信仰の目によって予見しており、そこではイエスが他人の罪のために死なれる神の受難者として見ています。
彼は叫んでいます。
「 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

新改訳聖書 イザヤ書53章5、6節
あなたは今までこれらの驚くべき記事について考えたことがありますか?
もし、ないのなら私はあなたに今これらのことを考えることを勧めます。
それはイエスのことです。
神の聖霊がイザヤの思いに語りかけたのです。
イザヤはもっとあなたにそのことを見させようとしています。
それぞれの節が分かれています。そして、その驚くべき意味を考えてみましょう。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され」ました。
その罪を個人として見て、「私たち」という言葉と、単数の「あなた自身とあなたの罪」を示す言葉を置いて見ましょう。
すると「彼は、私のそむきの罪のために刺し通されました」となります。
それは多数の者のために彼が刺し通されたのではないという意味になります。
もし、そこに他の罪人がいなかったのなら、イエスはあなたのために十字架に架かったでしょうか?
ああ、私は私のためにイエスが死なれたことを信じます。
そして、平安を得ます。
「私たちの咎のために砕かれた。」
再び、その咎を個人として見て、「私たち」という言葉と単数の「あなた自身とあなたの咎」を示す言葉を置いて見ましょう。
同様に、あなた個人の不敬虔とかたくなな心が、彼に犠牲を払わせたと考えてみてください。
彼は自分の上に降りかかろうとしている怒りを受け取りました。
彼はさばきのむちが下されようとしていた時、あなたと神との間に介入しました。
それはあなたの代わりに彼が傷つけられたのです。
再び、ここで私は十字架が個人的であると弁明し、信仰を持って叫びことができます。
「彼は私の咎のために砕かれた」のです。
いま、さらに進んでみましょう。
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」ました。
すべてのことが神との平和を作るために必要なことであり、彼はそのことに耐えたのです。
彼は十字架の血を通して平和を作ったのです。
ここも、同じように「私たち」という言葉と単数の「私」という言葉に置き換えると。「彼への懲らしめが私に平安をもたらし」たとなります。
彼は木の上に私の刑の宣告を運んで行ったのです。
このことは今、両方とも確かなことであり、罪人は自由となったのです。
今、この栄光ある章の最後の言葉に注意してください。
「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
あなたはそのことを知っていますか?
あなたの救いの保証は神の真実ですか?
あなたは大喜びで「はい、私は哀れな罪人です。私は失われていて、滅びゆくたましいでしかありません。私は神の裁きに服するものでしかありません。
しかし「彼の打ち傷によって、私はいやされた」のです。
「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」のです。
そして、あなたはその中に加わっていますか?
イエス御自身が私たちにとって、天における最高の義であり、イエスはあなたにそれをお与えになったのです。

その残った借金

それは神が私たちの罪を無視するということではありません。
また、寛大に罪を扱っているというのでもありません。
十字架の上ですべてのことは受け入れられたのです。
イザヤ書53章6節の内容と、世にある他の本と比較してみると、そこには受け入れがたい二つのマイナス面があります。
私たちのような羊は完全に道に迷ってしまいました。
私たち、すべての羊は神の道に立ち返ったのです。
しかし、そこには解決すべき一つの項目がありました。
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」それは私たちのすべての咎をイエスが十字架の上で負われたということです。
最初のマイナス面は。私たちが人間の堕落と関係していることにあります。
羊を導くリーダーの一人は柵の中にある穴を通して進み、すべての後を追いかけます。
そのようにアダムは罪を犯しました。
そして、私たちすべては彼の罪と関係しています。
「こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章12節
しかし、次にあげられることは私たち一人一人が身勝手な道を進んだということです。
一人一人がそれぞれの道において、罪を犯すほうを選びました。
私たちは単に生まれつきの罪人だけではなく、同様に習慣的に罪を犯すものなのです。
他の言い方をすると私たちは失われています。
完全に失われています。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節
罪人に対して、あらゆる訴えがあります。
今、完全に神の義の中に、神を完成された許しを提供し、キリストの復活を信頼するするすべての者を義とすることができるのです。
このようにイザヤは言っています。
「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」

新改訳聖書 イザヤ書32章17〜18節
今、悩む良心は安らぎの中にいます。
神は御子の行ったことを満足しています。
それを基礎として、神は十字架の上のキリストへと悔い改めて立ち返った最も邪悪な罪人を無償で赦すことができるのです。

「その脅えた罪人は神が決して赦すことがないと恐れています。
しかし、その者は肉の性質である借金すべてを、全額支払わなければなりません。
帰ってきた息子に神は口付けし、上着で覆いました。
神の完全な愛は私たちの心から全ての恐怖を取り除きました。」

彼はすべての信じているたましいに言っています。
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。」
新改訳聖書 イザヤ書44章22節
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」
新改訳聖書 イザヤ書43章25節
あなたは流浪してきたことを忘れてはいけません。
あなたの持つ多くの罪は邪悪なものです。
しかし、この知識が平和を与えます。
神は再びこれらの罪を思い出さないという知識です。
神は神の記憶と言う本から、これらの罪を抹消しました。
そして、義にあってこれらのことを行ったのです。
そのことが聖書に完全に説明されました。
借金は払われました!!

キリストの復活が確信を与えます。

そして、キリストの身体がすべて神の贖いの御業によって押された神の印なのです。
神、御自身がこれらのことに責任を取ってくださいます。
神は永遠にその責任を取りたくてたまらないのです。
しかし、神は死者から御子を引き上げました。
それゆえ、御子の働きによってその喜びのすばらしさを証明しました。
現在、祝福された主は天において、大能者の右の座に座っておられます。
私たちの罪がいまだにキリストにあるならば、彼は右の座にいることができません。
キリストが右の座に座っているという事実は、罪の問題が完全に片付けられたという証拠です。
神は満足されたのです。

神は二回支払いを要求しません。
最初の、私の方法には苦しみがありました。
それは神の方法ではなく、私の方法だったからです。

そのことが永遠の静けさと確信を与えます。
その時、私は私の罪を知るでしょう。
その罪は神の義に拒まずにとどまるという方法によって扱われます。
神は私を神のふところに抱きしめてくださるのと同様に、クリスチャンを義としてくださるのです。
私は完全な平安を持っています。
私は「正義の神、救い主」ということができます。
新改訳聖書 イザヤ書45章21節
「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。」とも言われています。
新改訳聖書 イザヤ書46章13節
これらのみことばはなんと励ましのある言葉ではないでしょうか!
私たちは神の義を持っているのです。
この義は人のためにあり、人間にはこれらの義を何も持っていないです。
それゆえ、このことは喜ばしい現実なのです。
私は自分を義とするすべての試みを放棄しまず。
そのことは私はキリストの中に、完全に、そして完成された義を見つけるためです。
すべてのクリスチャンはこの預言者とともにこのように言うことができます。
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書61章10節

この上着の中にあることは、私がいかに輝いているかを隠しています。
御使いたちも、わたしのような上着を持っていません。
それは罪人が贖われるために、この栄光の服が着させられたのです。
私たちにとってイエスご自身が義の衣なのです。
私たちはキリストに信頼して、キリストの中にある者とされたのです。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章21節
「 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章30節
もし、私が恵みにおいて成長することを頼りにして認められるというならば、私は決して平安を持つことはできなかったでしょう。
私がそのようなことを聖いと考えるのならば、そのことは私の個人的な経験を土台とすれば、神を満足させることができるという、私にとってもっとも悪質な自己中心主義となるのです。
しかし、私は「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった」ということを知り、すべての疑いは追い出されます。
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章6節
私の魂は平安です。
私は永遠の静けさと確信を持ちます。
もし、今、私がキリストは死んでもいないし、墓からも出てこなかったと語るのなら、私の十字架への信仰がぐらつき、この平安もぐらつくことを知っています。
これらの偉大な変わらない真理がとどまる限り、私の平安はぐらつきません。
私の信頼は保証されています。
私は「永遠の確信」を持ちます。
親愛なる、悩む、重荷を負う魂よ、あなたそれを知っていましたか?
あなたはそこに安らぐことはできません。
そこは神の祝福された御子にあって、神が安らぎを与える場所だからです。
もし、あなたがキリストにあって、信仰によって救われたことを満足するのなら、確かにあなたはキリストに信頼しており、救われたことを満足しているのです。


3、多くの確信

私はテサロニケの街でテサロニケのクリスチャンが神の働きによって、自分たちが救われたという結果を得たと言うことを思い出します。
パウロはこのように言っています。
「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。」

新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章2〜7節

このみことばはとても印象的な宣言です。
そして、すべてがより鮮明に見えています。
これが今日、この福音的な証しの下に多くの者が進んでゆく理由です。
おそらく、多くの者たちが、私たちの無数の教会において、多くの厳粛なメッセージを語られています。
ある教会では深い霊的な問題の中で、絶え間なく、これらのことを聞かせようとしていますが、いまだに多くの者がその不確かな状態の中に置き去りにされているのが現状でしょう。
彼らは聞き手に確信を与えていません。
このパウロのメッセージの前書きでは、より大きな救いの確信を作り出す性質について語っているだけなのです。
誰が聞き手なのか考えて見ましょう。
長く見積もっても2〜3ヶ月前までは、彼らのほとんどの者が異邦の偶像崇拝者でした。
彼らはこのような罪と汚れの中に生きていました。
彼らはクリスチャンの持つ真実の中に訓練されている者ではなかったのです。
彼らの中にはわずかにユダヤ人だけが律法と預言者についての知識をもっているだけでした。
ゆえに、彼らの多くの者は無知な異邦人であり、迷信深く、常識外れの習慣を持っており、クリスチャンの生活様式を何も理解していませんでした。
彼らのところへパウロと、彼とともにいる巡回伝道師の集まりが来て、彼らの宣言したメッセージの力によって、神が生きているという証明となりました。
聖霊に頼り、彼らはイエスキリストと十字架の苦しみを語りました。
彼らはキリストの復活と現された救いの力を目撃したことを証言し、彼らは生きている者と死んだ者をいつの日か裁くためにイエスが帰ってくることを宣言しました。
それは信じるすべての者に神が生きているという証明を与える、同じ伝道メッセージでした。
パウロの聞き手は自分たちの罪について良心がとがめました。
彼らは悔い改めて神に立ち返り、そのメッセージを聞いて彼らは福音を信じました。
そこにどのような結果があったでしょうか?
彼らは新しく創られました。
彼らの外見的行動は内部に反映し、彼らを変えました。
彼らは闇を通り抜け、光の中に入ったことを知りました。
彼らは単に、神が彼らを迎えたという淡い希望を慈しんだだけではありません。
彼らは神の所有物になったことをしりました。
彼らは多くの確信を持ったのです。
何か他により祝福できることがありましたか?
今日、福音を語る多く者たちが、望まれる結果に作り出すことに失敗しており、それは特に変わった事ではありません。
最後には「滅びゆく者への恵み」を受け取るという希望がなくても、その人々は生涯ずっと熱心な礼拝者でありえます。
確かに何か根本的に間違っています。

死にゆく女性

年を老いた女性が死にかけていると連絡がきました。
彼女の担当医師は、彼女は回復する希望をあきらめました。
彼女の牧師は彼女の死の備えをするためにベッドの横に呼ばれました。
彼女は苦痛の中にいました。
痛烈に彼女は自分の罪に嘆きました。
彼女の冷淡さ、主に仕えるための無力さ。
悲しくなり、彼女は牧師に何か助けが欲しいと懇願しました。
その牧師は彼女にその恵みが滅びかけていることを知りました。
牧師は良き人でしたが、何も彼女に与えることができませんでした。
彼は救いの確信を切望し、死にかけた魂とともに苦しみを分かち合うことに慣れてはいませんでした。
彼は、救済を確信していることを切望した魂の状態で死ぬと共に狭苦しい場所に来ることに慣れていなかった。
彼はいろいろな聖書箇所を引用して読んでみます。
彼の目は次のみことばに目が止まりました。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」

新改訳聖書 テトスへの手紙3章5〜7節
彼はこのみことばを震えながら読んだので、彼女はこのみことばの真実を味わいました。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
彼女は叫びました。
「先生、その通り私は信じます。」
私はそこに安らぐことができます。
私の働きによらずに、ただキリストの恵みに信頼すること...その通りです。
私は静かに死ぬことができます。」
牧師は彼女とともに祈り、そして去ってゆきました。
彼の心はわずかに動揺しましたが、感謝であふれていました。
彼は牧師として、自分の群れの一員のためにこの「滅びゆく者への恵み」を使ったのです。
彼は再びこの地上で彼女と会うとは予想もしませんでした。
彼は彼女はすぐに天国に行くと信じていました。
彼女の医者の言ったことと反しましたが、わずかな間彼女は回復に向かいました。
そして、2〜3週間再び元気になり、多くの確信を持って信じたことを喜び、幸せを感じていました。
彼女はもう一度、もう一度牧師に呼んで、ちょっと変わった問題をしました。
「神が私に「滅び行く者への恵み」と与え、そして今、再び私は元気になりました。神は私にこの救いの確信について何をどうしようと言うのでしょうか?」
「婦人よ!」
彼は「あなたは恵みによって生きる者としてこの喜びを主張し、この救いの確信にとどまる必要があるのです」と彼女に答えました。
彼にはそれは良く分かっていました。
残念なことに、彼は長い間語って来ましたが、彼が教える者たちの思いと心に確信を造りだしたことはなかったのです。
テサロニケのクリスチャンたちは明確な罪の赦しの知識をもつために、死の目前に来なければ得ることができないとは考えませんでした。
彼らのための神の選びは彼ら自身と他の者に対して現実のものでした。
彼らは恵みが彼らの人生の中で実際に働く者であることを見たのです。
そして、それがパウロの言っている「私たちの福音」であり、「私の福音」であり、それがこの救いの確信を造りだしていたのです。
私たちは福音について、何も疑いを持とうとは考えません。
それはパウロが他の箇所でとてもはっきりと語っていることです。
パウロはもう一つのメッセージは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」です。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章3、4節
ここで重要なことはこのことを信仰によって受け取ることです。
すべての疑いは打ち壊され、はっきりしない恐れは追い出され、多くの確信が造りだされます。
もちろん、命の目撃者の唇によって運ばれてきたことを忘れてはいけません。
彼らの中にあるパウロは、永遠に生きる者として行動していたのです。
明確な福音を述べ伝えるキリストの聖なる牧師は、聖霊の力によって結果を得る義務があります。
このような人は神の手により、悪魔の砦を打ち落とすための強力な武器となるのです。
それは彼らが信仰によって受けとるのなら、それ自身が強力なメッセージなのです。
何人かのメッセンジャーは確かに敬虔そうに見えるかもしれませんが、そのメッセンジャーの個性に救われた魂の安らぎの場所を見出そうとする試みは大きな間違いです。
信仰とは安らぎを得ることです。
神の最高のしもべになることではありません。
しかし、神のみことばは変わることはありません。
不幸せなことに、それは影響されやすい人々よって、キリストの牧師のために賛美することに、心が奪われているという事実が明るみにされます。
そして、彼らは宣言される真実よりも、その牧師に信頼を置いていました。
「私はビリー・サンディによって改心しました!!」
ある人が私に言いました。
私はその言葉に答えて「あなたはあなたの魂が救われていることを確信していますか?」
ミスターサンディはついにキリストの代わりに自分自身を置いてしまったのでしょう。
そして、更なる会話の問題点は、熱心な福音主義者のための人間賞賛によって持ち去られ、聖霊の証人になるために誤った「握手の感動」という証拠をその人は持ち出したのです。
少なくともいえることは、神の救いの計画を現実に理解しているとは思えず、ビリー・サンディの語っているこのような力を信じているとしか思えない事です。
その時、はつらつとした感情的な体験は、決して確信の安全な基礎にならないということに、心にとめておくことはとても良いことです。
その確信の基礎はキリストの血であり私たちの内に確実に作られています。
そして、神のみことばであり、それもともに私たちの内に確実に作られているものです。

ビクトリア女王がその問題を解決しています。

巨大な帝国であるイギリスの偉大な支配者である、ビクトリア女王の知られた真実性のある話がここにあります。
彼女がスコットランドにあるバルモラルで城を占領していた時、女王は親しみやすい方法を取って、スコットランドの高地に住む農場労働者の老女性に招待される習慣を持っていました。
招待をした者たちはこの招待を誇りと感じました。
そして、招待をした者たちは主を知っており、また、女王がたましいの問題について悩んでいるのを知りました。
ある年が終わろうとしている季節がやってきました。
女王陛下は最後に、慎ましいけれど、彼女ととても親しいクリスチャンの家を尋ねました。
「さよなら」と言った後、その農場労働者はおどおどと尋ねました。
「私は栄光ある女王陛下にお尋ねしたことがありますが、よろしいでしょうか?」
女王陛下は「あなたの望むままにしてください」と答えてくれました。
そして、農場労働者は「陛下と天国にて会うことができますか?」と質問しました。
そこにいた王室への訪問者は答えました。
「私はイエスの血に罪の赦しの力があることを完全に信じています。」
そのことだけが救いの確信の土台です。
カルヴァリに注がれた血は、すべてのあらゆる階級、地位に関係なく、その力を持っています。
旧約時代のイスラエルは出エジプトの時、恐ろしい伝染病はエジプトとエジプトに住む人々に襲いかかりました。
イスラエルの民が脱出するための神の備えた方法です。
イスラエルの民は子羊を殺し、その血を家のかもいと入口の二つの柱に注ぎかけ、家の中に入り、扉を閉めました。
その夜、滅びの御使いが通り過ぎてゆきました。
その御使いは血の注がれた扉の中に入ることが許されていません。
主はこう言われました。
「主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。」
新改訳聖書 出エジプト記12章23節
ある者たちは家の中で震えていたことでしょう。
そして、ほかのある者たちは主のみことばによって、安全を確信し喜んでいたのです。
彼らが安全を確信したのは、彼らの気分によったのでも、感覚によったのでもありません。
しかし、神の目が小羊の血を見たという事実の後に、その滅びから守られたのです。
彼らは主のみことばを思い出したでしょう。
彼らはそのみことばを真実だと信じ、多くの確信を得たのです。
それは今日の私たちにも言えることなのです。
私たちは2000年前、カルヴァリの上で私たちの贖いのために流された血潮を見ることはできません。
しかし、今まで神の目の前に理解され続けたことがあります。
その十字架の血潮が流されたその瞬間、かもいと二本の門柱にある血の後ろに、キリストを信じる悔い改めた罪人が守られているのを神がご覧になられます。
それゆえに、裁きからの救いの確信は、その者が唯一聖なる方の義の要求を満足させることが出来るかではなく、イエスキリストがこの義の要求を満足させたのです。
キリストが私たちの罪のための代価を支払い、神は私たちの裁かれるべき罪を過ぎ越し、そして、すべての事柄から私たちを義とすることを可能としたのです。

エジプトでの恐ろしい夜

その夜、エジプトにいたユダヤ人の若者はこのように考えたと私は想像します。
私はこの家の長子です。
そして、今夜、多くの家の長子は死ななければなりません。
今夜、私は守られ、そして安全が保証された立場が確実に与えられていることを望みます。
しかし、その時私は多くの自分の欠点について考え、私は深い苦しみと疑いの中にいるでしょう。
私は他の者が死ななければならない時、私はどのように考えても自分が救われるのには十分な者だと感じることができません。
私は非常に傲慢で、とても不従順で、非常に頼りにならない人間で、そして、今の私には問題が多く、悩みがちです。
次の日の朝、私は太陽の光を見ることが出来るのかとても心配です。
若者の持つ悩みと自分を責める思いは、彼が裁かれる要因となるでしょうか?
そんなことは絶対にありません。
彼の父親は彼に十分に言い聞かせるでしょう。
「子よ、あなたは自分自身に言うことはすべて真実でしょう。
私たちのある者は確かに彼のように言ったでしょう。
私たちすべてはすべて死に値する人間でした。
しかし、小羊はあなたのために死んだのです。
その小羊はあなたの代わりなのです。
あなたと滅ぼす者との間に家の外側に塗られた小羊の血があります。
その血を見て、どうして若者の顔がどうして明るくなったのか理解できたでしょうか?
若者は叫びました「私はその血を見ました。
裁きから私を救うのは私ではありません。
私を救うのはその血です。
私は安全です。
それは私が血の注がれた扉の後ろにいるからです。」
このようにこの若者は多くの確信を持ったのです。
そして、同じように、今,神が神の御子による贖いの働きの御業が私たちに与えられているので、私たちは神の証言を信頼するのなら、神の与える平和を自分のものとし、私たちはすべての罪の咎めから解放されていることを知るのです。
誰かがこのように尋ねるかも知れません。
「神がお与えになる救いと、私自身の中にあることとの間に大きな違いがあるのではないでしょうか。」
いいえ、それは違います。
しかし、そのことは別の真実の側面を見ることになります。
ある者が福音を聞いた瞬間、彼は新しく生まれ、新しい命を受け取りました。
その命は罪を憎み、聖いことを愛する性質を持ったのです。
もし、あなたがイエスのところへ行き彼を信頼するのなら、あなたはこの真実を現実のものとしないでしょうか?
あなたにかつては喜びを与えていた偽りを、あなたは今、憎み、嫌っていないでしょうか?
あなたは、あなたの中に、神に対する新しい願望を見つけることは出来ないでしょうか?
それは聖さを求める思いと、義への渇きです。
これら、すべては新しい性質の証拠です。
そして、あなたが神とともに歩んでいるように、日々、内住される聖霊の力を見つけることが出来るのです。
その力によって、実際に、あなたは罪の支配からの救いを得ているのです。
それは救われた結果です。
あなたが義とされたのは、あなたの中に何か良いことがあったからではありません。
それは、イエスがあなたのために行った御業によるのです。
最初に、このことは解決すべきことです。
しかし、今、あなたのために死んだキリストは、日々、あなたと御自身を同じ者とするために日々働いています。
あなたのその献身的な歩みによって、あなたの救いが明らかにされ、それは日々働かれるキリストの働きによって可能となったのです。
テサロニケ人への手紙ではこのように書かれています。
「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 1章9〜10節
その瞬間、彼らは神に立ち返り、彼らは救われ、罪が赦され、義とされたのです。
彼らは十字架の御働きと主イエスの復活された命の完全な価値を知り、神の元に引き渡されたのです。
彼らは最愛の人の中に受け入れられましたのです!
神はこのように彼らをキリストの中に見ています。
彼らは大いに多くの確信を持つべきです。
この問題は解決されました。
その時、彼らは死んだ者としてではなく、生きた者として、自分自身を神の元に置きました。
それは彼らがキリストによって救われ、キリストは彼らのために多くの犠牲を払ったのです。
彼らは日々、彼らのために死なれたキリストが帰ってくるのを待っています。
神はキリストを死者の中からよみがえらせ、栄光に高く上げられ、神の右の座に座っておられるのです。
この救いの問題は「キリストが永遠に座しておられるという」答えによって、始めて、満足のゆく礼拝ができるのです。

よい働きによって救われません

始めに注意しておきます。
私たちは良き働きによっては救われません。
別の言い方をすると、誰もクリスチャンとしての命を得るまで、クリスチャンとして生き始めることはできません。
この命は、神の命であり、永遠です。
それは福音を信じる者のために、神ご自身によって与えられることです。
使徒ペテロは私たちにこのように話しています。
「「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。
あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」」

新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章23〜25節
それゆえに、その新しい誕生は福音のメッセージのみことばと聖霊の力によるのです。
「 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章6節
このみことばは主のニコデモへの言葉です。
その者は永遠の命、滅びることのない命へと更新されます。
私たちはどのようにそのことを知ることができるでしょうか?
神は私たちにこのように語っています。
ヨハネのの福音書5章24節のみことばを私たちは注意深く考えてみましょう。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節
このみことばはヨハネの福音書の10章27〜30節と関係があります。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。
またわたしは彼らを知っています。
そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。
だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章27〜30節
最初のヨハネの福音書5章24節では5つのことばが結ばれていることに気がつきます。
「聞いて--信じる者は--持ち--ことがなく--移っている」です。
これらのみことばを注意深く学んでゆくと、彼らは決して引き離されることはないという真実に結びつきます。
ヨハネの福音書10章27〜30節の節で、キリストの羊について言われていることを注意深く読んでください。

a. 彼らはわたしの声を聞き分けます。
b. 彼らはわたしについて来ます。
c. 彼らに永遠のいのちを与えます。
d. 彼らは決して滅びることはありません
e. だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

このことが示している救いの保証よりも、優れた保証がありますか?
そして、このいくつかのみことば以上に明確な確信を与えるものがありましたか?
この完成された救いは御子を通して、神の元に来た者すべてに与えられているのです。
疑う者はこの証言によって、神をうそつき扱いにします。
神の記録を持つ者は多くの確信を持ちます。
あなたに「私は信じようと試みています」と言うでしょうか?
誰を信じようと試みているのでしょうか?
あなたに神の生きている方法によって話す勇気がありますか?
神は決して御自身の言った事を言い直す方ではありません。
もし、友達があなたに注目する話を話し、その話しが信用できなかったとします。
あなたは「私はあなたを信じようと試みています」言うでしょう。
それは、その友達を侮辱することにならないでしょうか!
そして、あなたは真実の神に対しても同じように扱っているのです。
この救いは誰からの贈り物であり、誰からの約束でしょうか!
この約束は決して無効になることはありません。
そんなことをしているよりも、むしろ神を見上げましょう。
過去に犯した罪のように、今、神に信頼をおいて、そして、あなたが贖われた者の一人であることを知り、過去に救いを疑ってきたことを告白してみましょう。

何年か前、セントルイスにおいて、福音への招待するために行われたイベントに来た男に自分が救われたいという欲望を言い表すように、福音の働き人は導いていました。
その働き人は、救い主としてキリストを受け入れ、そして神の約束を信じることにより救われるという方法をそこの来た男に示そうと努力していました。
しかし、そこに来た男は言い続けました。
「私は信じない!決して信じない!
誰が、あなたを信じるものか!」
それに答えて働き人は言いました。
「私は誰も信じることは出来ません。」
その男は言いました。
「あなたは誰も信じていないのですか?
あなたは神を信じていないのか?」
その男はうそをつくことが出来ずに「なぜ、誰も信じていない」と言ったのです。
そして「私は神なら信じることが出来る。いままでこのようなことは考えたことはなかった」と答えました。
私はあなたが「何かの感覚を持たなければならない」と言っているのではないかと思っていました。
」と答えました。
その男は、神の確かな約束に頼る代わりに、信仰の上に何か感覚によって働きかけようと努力していました。
初めて、彼は神のみことばによって神を捕らえたことを理解し、彼はその通りにしたのです。
そして、彼は救いの力と確信を体験したのです。

私たちは試みることによって救われません。
救いは自分自身から出てきません。
その血に頼るのです。
私たちの代価はすでに払われたのです。
それはイエスキリストの中に見つけることができます。
その方は聖い方であり、正しい方です。
彼の偉大な働きは私たちを救います。
それは「試みることではなく」、それは「信じる」ことです。
私たちの行いは必要なことではありません。
必要なことはイエスキリストの価値をもっと知ることです。
私たちの気分や、感覚はキリストの偉大な貯えに何も付け加えることはできません。
単純にキリストを受け取るだけです。
その方は聖い方であり、正しい方です。
単純にキリストを信じることです。
それは「試みることではなく」、それは「信じる」ことです。


4.全き信仰による確信

私たちはいまここで述べようとしている主題をともに考え、そして主題について述べられているみことばをヘブル人への手紙10章19〜22節の中で見つけることができます。
私たちは十分に気をつけてこれらの節全体を読んで見ましょう。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章19〜22節

あなたは「全き信仰をもって(確信)」というその注目すべき表現に気がつきましたか?
あなたの魂はそのみことばを読んだ時、感動を覚えませんでしたか?
「全き信仰をもって(確信)」
何か、そのこと以上に貴重なことがありますか?
そして、あなたは自分のためにその確信が欲しいのなら、単純にあなたは信仰によってそれを受け取らなければなりません。
そのことを十分に確かめるためにその確信について述べてみましょう。
その確信は感情的な経験をすることではありません。
もしくは、その確信とは注意深く論じ合うことでも、哲学でもありません。
その確信は「全き信仰をもって」あらわされるものなのです。

少年は先生の質問に正しく答えました。
その質問とは「信仰とは何ですか?」でした。
少年はすぐに叫んで「信仰とは神を信じることです。神に質問を尋ねることではありません。」
少年の言葉によって、信仰は神を捕らえました。
このことは現実に何を意味しているのでしょうか?
ヘブル人への手紙11章1節にある霊感によって、すばらしい定義づけがなされています。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章1節

神は人間の理解を越えて私たちにある事を語りかけています。
信仰が与えている資産です。
それは目に見えませんが、目に見えることよりも現実性があります。
それは神の宣言した真実の上に築き上げられた、疑うことのできない確かさに信頼を置くことです。
そして、その時、神の約束によって現実に完成され、聖霊が真実の目撃者となります。
ゆえに「全き信仰をもって」確信を得ることができるのです。
単に確かな現実を知的に受け入れていることが、信仰ではありません。
こららを踏まえ、信仰とは委ね、信頼することが伴います。
その結果は信仰の言葉において、そして信仰の働きにおいて表現されるのです。
また、私たちの祝福された主について、歴史的な声明を述べることがキリストにある信仰ではありません。
それはキリストにある贖いの働きに信頼し、キリストに自分自身を委ねることです。
信じることは委ねることです。
委ねることは信仰を持つことです。
キリストの中に信仰をもつことは、「全き信仰をもって」救いの確信を持つことです。
それはこのように、信仰は具体的に何かに手を置かなければならず、何か価値のある明確なメッセージに頼らなければなりません。
それはまさしく福音の中に示されており、無力で見込みがない失われた罪人を救うための神の秩序だった計画なのです。
その時、例えば4回「信仰によって生きる」と私たちの聖書の聖書で語られています。
それは単に私たちが楽観的精神で生きていることを示しているのでなく、信仰、もしくは希望によって、必ず最後にはすべてのことが正しい結果が出るということを示しているのです。
そして、その時、私たちは「信仰によって義と認められる」という教理を語るのです。
それは勇敢な心を保つ者が、義であると宣言することではありません。
信仰は救いではありません。
信仰はキリストに手を置くことです。
その者は救われます。
ゆえに、強い信仰が弱い信仰に対して語ることは愚かなことです。
そのキリストにあるもっとも力ない信仰によって、その者は救われています。
自分にある最も強い信仰、もしくはキリスト以外にある何かに頼る信仰は惑わしであり、罠でしかありません。
その信仰によっては救われずに、永遠に見捨てられた魂を見るようになります。
そして、私たちは「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」と命じられています。
その意味しているところは、神が私たちの贖いのために神の御子と神の栄光ある働きについて現されたこの救いに対して、絶対的に頼るべきであることを教えているのです。
私たちの見ているヘブル人への手紙のこの箇所において、私たちに賞賛に値することが示されているのです。
私たちは律法時代に多くの捧げ物と、もう一つの主イエスキリストの完全に満足された捧げ物との間にある違いをはっきりと対比してみようと考えました。
際立った違いがいくつかあることに気をつけてみましょう。

1、律法時代の捧げ物は数多く、何回も繰り返して行われていました。
これらは一つではありません。しかし、キリストが捧げられたのは繰り返されることはありません。
2、律法時代の捧げ物は罪の問題を解決するために必要な価値がありませんでした。
キリストには無限の価値があり、その価値はこれから後、永遠に罪の問題を解決しています。
3、律法時代の捧げ物は捧げた人々の良心を清めることができませんでした。
しかし、キリストは信じるものすべての良心を清めることができます。
すべての罪が神の目の下から片付けられ、その結果、完全な良心を与えることが出来るのです。
4、律法時代の捧げ物によっては、至聖所への道が開かれ、幕が裂かれ、神の与えられた新しい道に生き始めることができません。
5、律法時代の捧げ物には捧げた者を完全にすることはできません。
キリストの捧げ物は信じる者を完全に、そして永遠に義とすることができます。
6、律法時代の捧げ物を捧げる時、毎年、繰り返し、捧げる者の罪を思い起こさせました。
しかし、キリストの捧げ物はこのようにいうことを可能にしました。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章17節
7、雄牛の血、ヤギの血が罪の問題を解決することは不可能でした。
しかし、キリストは御自身を捧げることによって、これら罪の問題をすべて解決してくださいました。
もし、私たちが古い時代(ディスペンセーション)の捧げ物について現されたことが何であるか理解するために、このことはおおいに私たちを助けることになります。

罪を持つ、悩むイスラエル人について考えてみましょう。

私たちが悩むイスラエル人として、捧げ物を捧げるために神殿中庭の祭壇の近くに立っていると想像してみましょう。
私たちは捧げ物を捧げるために捧げるやぎをもってきます。
祭司の注意深くその捧げ物の外観に傷のないことを調べ、それをほふるように命じます。
捧げる者は捧げ物のやぎののどにナイフを当て、それを祭壇の前に捧げ物を寝かせ、その頭に捧げる者の手を置きます。
そして、捧げ物の皮をはぎ、細かく切り分け、そして、内部を注意深く調べます。
そして、捧げ物が完全であると宣言され、祭壇の火の上に置かれ、捧げ物が受け入れられ、その時、初めて確かなものとなります。
その血は祭壇の回りと、4本の角に注ぎかけられます。
そして、その後、祭司は罪の赦免が宣言され、捧げた者の罪の赦しは確かなものとなります。
しかし、これは「後に来るすばらしいものの影はあって」現実に罪を片付けるものではありません。
その傷のない動物は、後に来る偉大な罪の捧げ物となった、罪のない救い主を現わす型です。
キリストの血は人間の罪過を完全に贖い、そして、贖いを完成されたのです。
キリストを通して神のところへ来る者は、永遠に罪が赦されます。
もし、イスラエル人が主に反抗して罪を犯すのなら、その翌日には新しい犠牲を必要としました。
しかし、そのイスラエル人の良心は決して完全にされることがありません。
キリストに信頼を置くすべての者にも、永遠の罪の問題がありました。
しかし、キリストの一つの捧げ物は、無限の価値があり、その問題をすべて解決しました。
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章14節
ここに述べられている意味においての「聖なる者」とは、贖いとキリストの個人的な完成された御業の価値において、神に完全に分けられるということを示しています。
キリストは私たちの聖別(ささげ物)です。
神は私たちを、ゆえに神の御子の中に見るのです。
それは人間が何か夢見ることではありません。
神によってのみ、この計画が実行されたのです。
この聖書の証言を信じる者は、十分な確信で満ちるのです。
ある者は自分が救われ、その喜びを知ろうとはしません。
しかし、すべての真実を信じる者は、自分は救われたことを知って喜びます。
また、ある者は喜びという感情に信頼を置いてしまい、その感情が過ぎ去った時、その喜びを置き去りにしてしまいます。
しかし、神のみことばに信頼することを基礎とし、そこにとどまるのなら確信を持つことが出来ます。
それは神のみことばが変わることがないからです。

平和を持たない、老いた紳士

何年も前に、私はカリフォルニアにあるサンタクルーズから数マイル離れた、小さな片田舎にある校舎にて、連続して福音伝道集会を持っていました。
ある日、私は毎夜の礼拝に出席し、親しくなった年老いた紳士とともに馬に乗っていました。
しかし、彼は個人的に救われているという確かな確信を持っていませんでした。
私たちは美しく、曲がりくねった道に沿って走っていました。
その道は本当に大きな木で取り囲まれていました。
私は彼にはっきりと救いの問題を問いかけました。
「あなたは神との平和を持っていますか?」
彼はすぐに速度を落とし、馬を止め、言いました。
「今、なぜ、あなたはここでそのことを私に言うのですか。
私が救われているか、それとも私がその確信を持つことに見込みがないことを知るまで、もう一歩も進む気はありません。」
私は彼に問いかけました。
「では、あなたはどのように神との平和を見つけることが出来ると思いますか?」
彼が答えました。
「それは、私を困らせる問題です。
私は私がそのことについて何か間違っていないという、はっきりとした証拠が欲しいのです。」
私は問い返しました。
「あなたはあなたの考えがはっきりと正しいという、何か感情的な動きが欲しいのですか?」
彼は答えました。
「私は多くの人の言っているように、そのような感情的なことを言うことができません。
ある人たちは何かの信仰心を持った時、何か巨大な力を感じたと私たちに言ってきます。
私はずっとそのことを探してきました。
しかし、私にはいつも理解できないことでした。」
私は答えました。
「信仰とは何でしょうか?
キリストに信頼を置くことです。
それ以外のことではありません。」
しかし、今、あなたは救いを探して求めていたと仮定しましょう。
そして、突然、幸せだと感じる感覚があなたにやってきたとしましょう。
では、あなたは救われていると確信することが出来るでしょうか?」
彼は「よく考えてみましょう」と答えました。
私は彼に「では、あなたがその感覚に頼って、人生を歩み、そして死の床についたと想像してみます。」
悪魔がやってきてあなたに語ります。
「あなたは失われていて、哀れみの希望はあなたの上を通り過ぎてゆきました。」
あなたは悪魔に何と言うでしょうか?
「私は数年前に、幸せだと感じたという経験を持ったから救われている」と語ったとします。
なんと悪魔はあなたに宣言するでしょうか?
「「あなたをだますために幸せだという感覚を、あなたに与えました。
あなたは救われていないことが証明されました。」
もし、本当にそのようになったのなら、あなたどう答えますか?」
彼は考え込んで答えました。
「私にはそのようにはなって欲しくない。
私は幸せだと感じたからといって、十分に救いの確信を得たとは思いません。」
私は彼に「では、どうすれば十分だと言えるのですか?」と尋ねました。
「もし、私が天使からの幻、もしくはメッセージから何か明確な言葉を得ることが出来るのならば、その時、私は確信を持つことが出来ます。
もし、あなたがこの栄光ある天使の幻を持ち、その天使があなたの罪の赦しを語ったとしても、あなたはこの言葉に信頼して、十分に確信することが出来ますか?
私はこのように考えます。
たしかに、天使が来て、救いについて問題がないと宣言するのなら、そのことは確かだと思うでしょう。
しかし、あなたは瀕死の状態であり、悪魔が「あなたは結局失われているのです」と宣言し、あなたを妨害しているのなら、あなたは何と言うことが出来るでしょうか?
「なぜですか?天使は私に「あなたは救われている」と言いました。」
しかし、悪魔は言います。
「私はその時の天使です。
私は、あなたをだますために光の御使いに変身していました。
私はあなたが欲しいのです。
あなたは永遠に失われています。」
「あなたはその時、どのように言うことが出来ますか?」
彼は1,2分考えてから、返事をしました。
私はあなたが正しいと思います。
天使の言葉は信用できません。
私は「しかし、今は、神は幸せだと思うことよりも素晴らしいことをお与えになりました。
それは御使いのことばよりはるかに信頼できることです。
「神はあなたの罪のために神の御子を死なせ、お与えになりました。
神はあなたがキリストに信頼するのなら、あなたの罪は過ぎ去りました」と決して変わることないみことばで証言されています。
このことを聞いてください。
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒の働き10章43節
このみことばは神が使徒ペテロを通して語られた言葉です。
ヨハネの手紙第一ではこのように書かれています。 
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章13節
「あなたに宛てられているこれらのみことばを信じることが出来ますか?
あなたは、神の御子の御名で信じますか?」
彼は答えました。
「私は、確かにそのことを信じます。
私はイエスが神の御子である知り、そして、彼が私の罪のために死なれたことも知っています。」
私は彼に言いました。
「私は神があなたに「あなたは永遠のいのちを持っていることがわかることが出来る」と語っていると信じています。
このことに信頼を置くだけで十分ではないでしょうか?
このみことばはあなたへ直接届けられた天からの手紙です。
あなたは、どのように神が話されたこれらのみことばを拒否できるのでしょうか
あなたはキリストに信頼する事が出来ないのですか。
キリストは天使よりも、刺激的な感情よりも優れた者ではないのでしょうか?
あなたは聖書のみことばにあって、キリストを得ることが出来ないのですか?
それとも、キリストにあってあなたの罪が赦されということを信じることが出来ないのですか?
「今、あなたが死の床に付き、あなたの所へ悪魔が来て、あなたが失われていると主張したと仮定してみましょう。
今度は、あなたがこのように答えることが出来ます。
「引き下がれ、サタン。」
あなたは悪魔を恐れる必要がありません。
私は生きている神のみことばを信頼し、神は私に永遠の命を持っていると語っています。
そして、更に私の罪すべては赦されたとも語っています。」
あなたは、今、このように言うことは出来ないのですか?
あなたはもう頭を下げて、神に問う必要はありません。
あなたは悔い改めた罪人として、神のところへ行くのなら神と交えりを持ち、あなたは救われるのです。
聖書のみことばに信頼してください。
「この福音は---御子に関することです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章2、3節 中略
その老いた男は目を下に向けたまま、私は彼がかなり動揺しているのではないかと思いました。
しかし、彼の唇が突然、動き、祈りだしたのです。
彼は目を上げ、馬に軽くムチを当て「さあ!行こう。今、すべてのことがはっきりした。
これは私が長年求めていたものだ!!」と叫びました。
その夜、彼は集会にて、前へ来て、彼の半生涯、無駄に時間を費やしたことを集会の聞き手に語りました。
その時、彼は「キリストが罪人を救った」という神のメッセージを見つけ、信じたことを語ったのです。
主が彼の家族を捕らえるまで、この七年間、彼は私と常に手紙のやり取りをしていました。
その家の聖徒たちは喜びで満たされ、疑いと恐れは追放され、彼は確かな神のみことばに信頼したのです。
彼は信仰によって、十分な確信で満たされたのです。

改心においての感情的な要因

私を誤解することがありませんように...。
私は決して、改心においての感情的な要因に価値がないということを言っているのではありません。
私は罪の赦しが完全であるというみことばの証言に信頼を置くべきことを述べているのです。
その時、その者が現実に失われているということを神の聖霊によって理解させられ、その者は目覚めます。
しかし、その者が目覚めた時、感情に何の刺激がないのなら、それほど奇妙なことはありません。
その者は悔い改めに導かれ、罪に対しての態度、自分自身への態度、神に対しての態度は完全に変えられます。
私たちはその者のほほに流れる後悔の涙を見ても驚く必要はありません。
その時、その者は魂に語りかけられた神のみことばを信頼し、信仰によって聖霊の証言を受け取ります。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章17節
それは考え込むことではありません。
しかし、ウェスレーように、そう彼の心は何か違った思いをもって神の救いを喜んだのです。
私がはっきりさせようと試みていることは、何か感情的な変化を基礎としていることではありません。
しかし、そこに感情的な経験が何もないということを述べているのではなく、もし、あるのならば、聖書において主が与えられているその証言を受け取った結果なのです。
信仰は神のみことばをそのまま受け取ります。
そのみことばは十分な確信を与えます。
聖霊は信じる者の心に来て、住んでくださります。
そして、その者はキリストに従うのです。
その魂はキリストに信頼し、神の平和に入り、その時、その者は恵みにおいて自然に成長するのです。

私は、贖いの血の上にわたしのすべてをさらけだしました。
すると、聖霊が私に入ってきて、私は神のみもとに連れて行かれました。


5、全き確信に達する

パウロがコロサイのクリスチャンに手紙を書いた時、彼らの多くはエパフラスを通して救われました。
エパフラスは祈る人であり、献身的な人です。
使徒パウロは言っています。
「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章1〜3節
2節において描かれている「豊かな全き確信に達し」という表現に私は注意して欲しいのです。
初めの救いの問題は解決されていました。
誰もそこでいくつもの更なる問題を引き起こすとは想像もしなかったでしょう。
神の子供はこの敵だらけの荒野を通り過ぎてゆく旅人であり、よそ者です。
そこでは神の子供は多くの敵によって悩まされ、敵はあらゆる手段を使ってその進行を妨げることが可能です。
神の子供は「新しい誕生」において与えられた「霊的な性質」とともに「古い肉的な性質」の中で絶え間ない戦争があり、いまだに敵を持っているのです。
そして、外部には「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章8節
私たちは「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」と勧められています。
悪魔は悪魔自身が神にあるキリストと共に隠された命を決して滅ぼすことが出来ないことを知っています。
しかし、悪魔は悪魔的な巧妙さを使って、クリスチャンの霊的な進行を妨げ、恵みにおける神の子供の成長を遅らせることなら、どんなことでもするのです。
疑いの火矢と肉体の楽しみという刺激によって、悪魔はクリスチャンと神との交わりを邪魔し、クリスチャンの喜びと証しを破壊しようと努力しているのです。
従って、もっとも聖い信仰の上に建て上げられ、健全な霊的な教えにあって教えられることは必要なことなのです。
「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります」とダビデは言っています。
新改訳聖書 詩篇119章104節
ある者は自分が救われたということを知るとすぐに、聖霊により頼み、神のみことばを慎重に、正しく、組織的に学ぶことを始めます。
聖書は私たちの父から私たちへの手紙です。
私たちは神の贖われた子供です。
神は私たちにみこころと、みこころに従って歩む方法を示し、私たちはその価値を知らなければなりません。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

新改訳聖書 テモテへの手紙第二3章16、17節
みことばの学びは私を真実に教えるのです。
それは私の命と歩みにおいて整えられる必要を示すものであり、私が神の持つ正しさをどのように明確に理解させるものであり、そして、それはまっすぐな主の小道へと私を導くものなのです。
クリスチャンは決して聖書の学びを怠るべきではありません。
もし、怠るのなら、その者はその者の霊的な命にあって発育と成長が妨げられ、疑うと恐れの餌食となり、あらゆる教えの風によって運び去られてしまうのです。

新しく生まれたアイルランド人

生まれてすぐの赤ん坊がミルクを欲しがるように、新しく生まれた魂はみことばによって育てられる必要があります。
あなたがもし、新約聖書を読むことによって改心したアイルランド人の話を聞くのなら、私は不思議に思うでしょう。
彼は自分の中に宝を新しく見つけ喜び、そして、時間が許すならいつでもその神の示された聖書のページに夢中になることを彼は楽しんだのです。
ある日、その教会区の司祭が彼を見つけ、彼のたましいを祝福へともたらしたのは貴重な本を熟読しているからだと、その司祭は理解しました。
司祭は厳格に問いました。
「パット、あなたの読んでいるその本は何ですか?」
彼は答えました。
「それは新約聖書です。私はこの聖書を読むことができます。」
司祭は「新約聖書!パット、あなたのような無知な人が読んではいけません。」
その本は学校に行って、本当の意味を学んだ聖職者のための本です。
あなたがそのように学んでから人々に与えるものです。
しかし、あなたのような無学な人々が読むと、いろいろな間違った考えを持ってしまいます。」
パットは答えました。
「私はこの箇所を正しく理解することが出来ます。
使徒ペテロの言った言葉によって私は祝福されました。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章2節
その通り、私は今、ちょうどキリストにあっての乳飲み子です。
ですから、私は私自身のためにこの聖書を読んでいるのです。」
「解かりました。パット。しかし、全能者はみことばを取り扱う聖職者を任命し、あなたは神のみことばである乳を、私のところへ来てそれを求まなければなりません。
私はその乳をあなたに与え、あなたはその乳を受け取ることが出来るのです。」
しかし、パットは答えました。
「確かにあなたの言うことを厳粛に受け取ります。
でも、あなたは私の乳牛は向こうの小屋の中にいるのを知っています。
そして、私は乳牛の乳をしぼる人を雇いますが、それは私にとって苦しみとなります。
それは、私は容器の半分が水で割られていることを知るからであり、すぐに私は彼を解雇します。
そして、私は乳牛から乳を容器の中に入れ、今はいつでも高級なクリームを手に入れることが出来るのです。
私はみことばの乳を手に入れるのにあなたを頼っていました。
人は私に与えたみことばの乳に水を入れて割りました。
でも、今は私は自分で乳牛から乳をしぼり、容器の中に入れています。
さらに、それはとても高級なみことばのクリームであり、私のたましいは毎日そのクリームを食べているのです。」

そのように、あなたが聖書を熱心な研究もしないで、自分を飾り上げる必要は何もありません。
しかし、あなたは聖書を学ぶことなしに、確信に満ちることはありえません。
あなたは聖書からその確信を見つけたいと思うのなら、聖書という素晴らしい方法の中に展開される真実を求め、その後に聖書の中にある確信に満ちることが出来ます。
疑いと疑問は追放され、神は私たちにその確かな立場を与えることが出来るのです。

落胆するクリスチャン

多くの教えられていないクリスチャンは落胆させられることがあります。
もちろん、彼らが真実なクリスチャンであることを疑っているわけではありません。
しかし、悪魔は彼らの心に偽りのこころを挿入してきます。
それは、悪魔が彼らの心をだませるか試みるためであり、悪魔は有利な立場を得ようとします。
悪魔はこのような人々を失敗へと導こうとしているのです。
しかし、真実な知識はクリスチャンとして持つ、二つの性質を理解するのなら私たちはたびたび助けられることがあります。
ひとつは肉にある罪に関することであり、その肉固有の性質は再び生まれることによっては、破壊されることありません。
そのことを理解することは大切なことです。
これに反して、クリスチャンが死ぬべきからだの中にいる限り、その古い罪の原理はクリスチャンの中に残ります。
もう一つは新しい誕生によって起きることは、新しい、そして、神の性質が伝えられた新しい命です。
これら二つの性質はお互いに対立しています。
しかし、聖霊によって歩むクリスチャンの中に肉の欲望は満ちることはありません。
でも、時々、これらの欲望は現れてくることがあります。
この性質は、古いアダム的な性質に属する悪い原則に反する、神の側につく性質であり、クリスチャンとして歩むために必要な理解しなければならないものです。
また、私たちの行ってきた罪過のためだけではなく、罪の性質のためにも主イエスキリストが十字架の上で死んでくださったと神は見ておられることを理解することは大切なことです。
今、信仰はこのことを真実として受け入れます。
そして、クリスチャンはこのように言うことが出来ます。
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

新改訳聖書 ガラテア人への手紙2章20節
注意深く、何がここで教えられているか考えてみましょう。
私には責任が問われます。
古い人として、肉の中にある人としての責任です。
しかし、私の罪ある性質すべて含んで、私はキリストとともに十字架につけられました。
それはいつのことでしょうか?
それはイエスが2000年前、カリバリの十字架の上で死なれた時です。
キリストは私のためにそこにいたのです。
私はキリストの中にいたのです。
キリストは私の(罪人)の代表であり、私の身代わりでした。
私が死ぬべき死をキリストが味わったのです。
ゆえに、神の目には私の死は、キリストの死なのです。
私はキリストとともに死んだのです。
このことは私の個人的な経験として、現実のこととして理解するように求められています。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章11節
古い性質は私に対して何の権利もありません。
もし、古い性質が自己主張をし、私を束縛しようと努力をするのなら、私は古い性質に対して神が味方してくれるのです。
神は肉にある罪に対して、無用なものであることを宣言します。
もちろん、私も罪に対して無用なものであることを宣言しなければなりません。
私はキリストの十字架の中にともに十字架に架けられ、キリストとともに死からよみがえったと神が見て下さっていることを、私自身を見なければなりません。
そして、私たちはキリストの復活において新しく生きているのです。
ゆえに、私たちは罪の下にはいないのです。
私はキリスト共に生き返りました。
キリストが私の中に生きているのです。
キリストは私の新しい主人です。
「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章14節
それは甘く、そして強制する恵みの力です。
恵みは私をこのように導くでしょう。
「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙12章1節
実際、私はまだこの古い身体の中にいます。
しかし、私は復活したキリストを頭とする新しい創造に属しているのです。
勝利の命から離れた歩みをするのは、ただこのことを認め、行動しなかった結果なのです。
パウロはこの新しい創造の中にある立場と責任をコロサイとラオデキアのクリスチャンに認識されることを熱望していました。
パウロは文字通り、霊において苦闘していると彼らに語っています。
そして、彼らはキリストに従う心によって、世の、肉の、そして悪魔の力からの完全な救いを見つけ、その真実を理解したのです。
パウロはキリスト御自身が人間の哲学、律法主義、儀式主義、禁欲主義の解毒剤である事を示しています。
また、このことは、罪の力からの救いを求める時に、すべての人間が戻りやすい傾向ですが、これらは肉の働きに対して何の効力もありません。
悪魔の力からの解放は栄光あるキリストの十字架においてのみ完成されました。
頭であるキリストは天において高く上げられ、私たちに私たちが望んでいる勝利を与えました。
私たちはキリストと共に復活したので、私たちは上にあるものを求めるように勧められます。
キリストが神の右に座を占めておられるからです。
「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章1、2〜3節

もう一人のアイルランド人は「栄光」と叫びました。

彼は自分が救われた事を知り、しばらくは喜びに満たされていました。
しかし、ある日恐ろしい考えがやって来ました。
「もし、私が何かこのすべてを失うような何かの罪を犯しなら、結局は最後には私も、この喜びすべても失われてしまうのではないだろうか?」
彼は口では言えないほどおそろしいものを感じました。
それはかつては主を知り、喜びに満たされたのに、その時、その高い地位と特権から落ちて行き、終わりないの苦痛の中にのめり込んで行ったのです。
彼は日夜、このことについて考え、大きな悩みの中にいました。
しかし、ある夕方の集会で、彼はコロサイ人への手紙3章1〜4節までのみことばを聞きました。
私はそのみことばをその集会で語り、私は十分にこのみことばからこれらのことについて語ることができました。
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。
そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章1〜4節
彼の耳にこの貴重な箇所が聞こえ、そして彼の目はこのみことばの後を追いかけました。
これらの祝福されたいくつかの事柄が確かに彼の魂をつかんだのです。
彼はこのような公の集会にいることをすっかり忘れてしまい、この御業をなして下さった神について驚きのあまり、声を出して叫んでしまいました。
「神に栄光あれ!!」

あなたは彼の持つ未熟な考えを笑うかもしれません。
しかし、彼は確信に満ちることを理解し、その真理を見つけたのです。
彼は自分が実際にキリストと結ばれたということを理解し、彼の頭が天に昇って昇って行かれた時から、彼は永遠にある保証を受けたのです。
その魂とは、そうこの救い出されたこの真実な彼の魂です。
あなたはどのくらい自分自身の事柄から自由にされたのでしょうか!
あなたはどのくらい栄光あるキリストに結びついたのでしょうか!
それの実質的な結果はその後(コロサイ人への手紙3章5〜17節)に続きます。
そこでは私たちは肉欲から離れるように勧められています。
(それは実際的に死の場所に置く事を意味しています。)
地上にある私たちの仲間は、新しい創造に属していない、すべて清くないこと、もしくは神に属さない聖さを裁きます。
ゆえにそれはしばらくの間、この卑しい、古いからだの持つ性質を、大目に、寛大に扱うことではありません。
それは私たちが話している、この古い人の習慣と態度という、新しい人としてふさわしくない上着を脱ぎ捨てることです。
そして、直接、私たちはキリストにある人の適切な性質を着たのです。

あなた自身でこの章を読んでください。
主イエスは言われました。
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章32節
聖霊に拠り頼み、聖書のみことばを学ぶ、贖われた者にとって、このことはどのくらい必要なことだと言えるでしょうか!
それは彼らが神の真実に無知な結果の恐れと、自分に信頼を置くプライドの両方から救い出されるためです。
自由とするみことばだけが信頼を与えることができます。
それはその人の命にあって、動揺を覚えた時、信頼し、主に明け渡したたましいは、それを見出し、祈るに満ちることができます。
十分な確信に満ちることが出来るように次のように書かれています。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
新改訳聖書 詩篇119編130節

進め!進め!進め!

そこで、一丸となってクリスチャンの命を進むのなら、いろいろな問題と困惑が起こってくるでしょう。
そして、これらの問題は神のみことばである聖書がすべての答えを与えていることを知ることが出来ます。
そこには不思議なことがいつも私たちの理解を超えて存在しています。
それは神の道と私たちの道、そして神の考えと私たちの考えは違うからです。
しかし、信頼するたましいは神の現した真意を学び、来たるべき日(キリストの空中再臨後)にあって表されるために静かに後のことを任せることなのです。
そして、その日、神はすべてを表わし、私たちは神の光の輝きを知り、私たちは神を見るのです。
その時、まさに私たち自身が神に知られているように、私たちは神を知ることになります。

その時、私は朝の中の本当の朝、イエスの御元で目を覚ますでしょう。
その後で、誰も決して、夜に戻ることはせずに、栄光ある日を永遠に灯すのです。
私は満足するでしょう。

その時、私はこれらの愛する者を持つことを知るでしょう。
そして、私の手の中に親愛なる者たちを握りしめます。
私はずっと、これらの者たちを無視してきました。
そして、私はあなたが私にいかに忠実であるのかを知り、それを確認します。
私は満足するでしょう。

その時まで、みことばは私たちの足元の灯火、私たちの道の光なのです。
その光によって、私たちは安全に、守られて、この世界を歩まなければならないのです。
この世界には罪と悲しみが支配しており、人知によって解決できない、四方八方に理解することのできない不思議なことがあります。
しかし、神にはすべてが知られているのです。
そして、キリストイエスにあって現された恵みの目的に従って、みことばによって歩むということが求められているのです。
神のみことばにあって、私たちの心には十分な安らぎが与えられています。
そして、私たちのたましいには平和が保たれています。
それは私たちが十分に確信に満ちること理解し喜んでいるからです。

私は悟るほど熟練した者ではありません。
何が神のみこころでしょうか?
何が神の御計画でしょうか?
私はただ神の右の座に座られた私の救い主を知っています。

私はみことばを信じたとき、キリストを得ました。
キリストは罪人のために死なれました。
私のはこのように読みました。
「私の心の中に必要を見つけた時、キリストが私の救い主となりました。」


6、確信に満ちる希望

この世界の知識人の一人が私たちに「希望は、人間の鼓動の中に永遠に響いている」と語りました。
命のいくつかの局面については真実かもしれません。
しかし、永遠の未来に関しては、神のみことばは更正し得ない立場において、私たちは希望のない状態であることを示しています。
エペソ人への手紙2章11〜12節を私たちは読んで見ましょう。
「ですから、思い出してください。
あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。
すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章11〜12節
しかし、その時キリストに信頼する者はすべてローマ人の手紙8章24〜25節で語られている「恵みによる良き希望」をクリスチャンが持った瞬間から変えられているのです。
「私たちは、この望みによって救われているのです。
目に見える望みは、望みではありません。
だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」

新改訳聖書 ローマ人の手紙8章24〜25節
注意してください。
これは私たちが救われるための希望を言っているのではありません。
しかし、おそらく、私たちがより適切に希望を持って救われていることを断言するために書かれているのです。
彼は信仰の十分な確信を理解していました。
そして、神のみことばを根拠とすべきことを知っていました。
神にはうそをつくことはできません。
彼はすでに義とされ、永遠に現在、救われているからです。
そして、彼にはイエスキリストが空中再臨の時に、彼の身体は贖われるという希望を持っているのです。
その時、彼は神の御子の姿と完全に一致されるのです。
彼は命のいろいろな試練と波乱を直面したとしても、この希望は彼を支え、彼に見えないことを見ているかのように忍耐する勇気を与えるのです。
ローマ人への手紙5章の冒頭部分は適切にここで引用されるでしょう。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

新改訳聖書 ローマ人の手紙5章1〜5節
私たちはすでにこの確信は感情的な経験に基づかないということをすでに見てきました。
「主はこう仰せられる」というみことばを基礎としなければなりません。
しかし、私たちはこのことを踏まえた上で、私たちの経験も決して過小評価をしてはならないとも言うことが出来ます。
新しくされた人間は真実なクリスチャンの経験を楽しんでいます。
それはキリストの知識によって造られたものです。
そして、その者はクリスチャンのとしての歩みの中で、いろいろな試みに会うことによって、その者に保証されることなのです。
これらのことはクリスチャンとしての個性を完成させるために、共に働く者として神によって設計されたのです。
ゆえに、問題からしりごみすることは、もしくは、苦難から自由にされることを祈り求めることはおおきな失敗です。

忍耐のための祈り

この物語はたびたび若いクリスチャンのために語られることです。
彼はキリストの牧師である年老いた兄弟のために勧めと助けを求めていました。
彼は「私のために祈ってください。私は多くの忍耐が欲しいのです。」
彼らはひざをかかげ、涙を流し、その牧師は神に請い求めました。
「主よ!この兄弟により多くの苦難と試練を送ってください。」
他の兄弟が叫びました。
「待ってください。私は私に苦難があるようにとは祈ってほしいとは願っていません。忍耐が与えられるようにと言っているのです。」
答えはこうでした。
「私はあなたの言うことがわかりました。
しかし、私たちには「患難が忍耐を生み出し」というみことばが語られています。
それは私たちにはもっとも学ぶのに時間のかかるレッスンなのです。
「患難、忍耐、品性、希望」
それはたましいに対して何も恥ずかしいことではありません。
神の喜びの中に浸ることです。
それは「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
新改訳聖書 ローマ人の手紙5章5節
これは私たちの前にいつも共にあることで、ヘブル人への手紙6章10〜12節で私たちが読んだ「希望について十分な確信」について、何が言われているか理解することは簡単であるべきことです。
「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

新改訳聖書 ヘブル人の手紙6章10〜12節

ある人が神とともに歩き、目に見えないキリストを求めるように苦しみと忍耐を学ぶのなら、永遠の事柄は時間や理解といった事柄はより現実になり、単に生まれついた人間にとって何よりも大切なこととなるのです。
このようにこれらのことは信頼するこころの冷静さ、つまり十分な確信は、ただ現された神のみことばだけを基礎としているのではないからです。
神と交わる個人的な知識も十分な確信を得るための要素です。
これらのことは現在ある命に対して潜在的な信頼感を与え、私たちの前に置かれています。
ある人が尋ねました。
「どのようにイエスが生きていることを知ることが出来ますか?
イエスは現実に死からよみがえったのですか?」
その答えは「なぜ、そんなことを聞くのですか?
私は今、イエスとの会見から帰ってきたところです。
私は自分が決して間違っていないことを知っています。」
そして、この証言はすべてのクリスチャンのある時代の中で、非常に多くの者たちによって語られていかなければならないことです。
聖霊によって、個人的なイエスキリストとの交わりの現実が証言され、証明されたのです。
愛と献身的な思いをもって、引き出されたことであり、このような方法を通して祈りが答えられたのです。
そして、疑問を持つ傷つきやすい心に対して、疑うことを不可能にします。

若者の確信

ある時、ロバート.T.グラントがまだ昇天される前、私に話してくれたことがあります。
それは旅行中のことです。
彼はプルマン式車両の中で自分の聖書を読んでいました。
すると、彼は周りの人々が何もしていないことに気がつき、彼はカバンを開き、いくつかの福音の書いたトラクトを出し、これらのトラクトを配布し、再び席に着きました。
ある若者が自分の席を離れて、その説教者のところへやって来ました。
そして、「あなたは何のために、私にこれを配ったのですか?」と尋ねました。
グラント氏は答えました。
「なぜって!それは天国からのあなたへのメッセージです。あなたのたましいにやすらぎを与えるためですよ。」
若者は冷たく笑い、言いました。
「私はそのようなことは何年も前に信じました。
しかし、それは私は学校に行って、教えられのであって、今はすべて水の中に放り込みました。
私はそれらのことに何も実体がないということはよくわかっています。」
グラント氏は再び尋ねました。
「では、お願いがあります。
今、私があなたにさっきくばったものを私に読んでくれますか?」
「主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。」

新改訳聖書 詩篇23編1節
グラント氏は言いました。
「あなたは、そこに何もないと言うのですか?
私のいままで長い間、その祝福を知っています。
その中に何もないというですか?」
青年は「次に何か読むところはないのですか?」と答えました。
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」

新改訳聖書 詩篇23編2〜3節
青年は言いました。
「私は、何もそれにないとわかりました。」
グラント氏は繰り返して言いました。
「あなたは、そこに何もないと言うのですか?」
青年は「私を許してください!私にもっと何か聞かせてください」と言いました。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
新改訳聖書 詩篇23編4節
グラント氏は言いました。
「あなたは、そこに何もないと言うのですか?」
青年は叫びました。
「私を赦してください。すべてがそこにあったのです。」
私の母はこれらの言葉を口にして死にました。
そして、私に救い主を信頼するように懇願していました。
しかし、私は救い主であるキリストから遠く離れていました。
あなたはそれを取り戻すように導きました。
私にもっと話してください。」
そして、神の僕が救いの方法について真実を開きました。
青年は不注意にも信ぜずにいたましたが、このプルマン式車両の中で、罪を自覚し、キリストにある真実に導かれ、キリストを救い主として正しく告白したのです。
その通り、命においても、死においても、すべてのことが主としてのキリストの祝福された交わりの中にあります。
そして、そのことは十分な確信に満ちるという希望を与えます。
しかし、不幸なことに聖霊によって、この確信は時より曇ったり、多少なりとも失いがちになったりします。
それは祈りとみことばを食することにだんだんと不注意になり、怠慢になってゆくからです。
ゆえに、私たちにはこのような勧めがあり、私たちをせきたてます。
「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。」
新改訳聖書 へブル人への手紙6章11節

不幸な堕落者

彼らが古い罪から清められたことを忘れたため、ペテロは自分勝手な方法を取り、神との交わりの外に置かれたことをある人たちに話しています。
これは悲しい状態の中にいることです。
旧約聖書の中では一般的に「堕落する--backsliding」と呼ばれ、箴言14章14節では次のような箇所があります。
「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。」
新改訳聖書 箴言14章14節
年老いた説教者である私は少年の時使っていた言葉として、次の言葉を紹介することができます。
「堕落者はいつもひざの中にゆく。」
これはとても真実なことです。
祈りの怠慢は、その人の霊的な感覚の鋭い刃を鈍くします。
そして、その怠慢はクリスチャンに知らぬまに世的なこと、肉的な事柄に簡単に陥らせます。
その結果、その人のたましいの目は曇させられ、天的な思いは打ち消されます。
堕落者は近眼なのです。
彼は鮮やかにこの哀れな世界の事柄を見ています。
しかし、彼はそのかなたにある主から与えられたすばらしい地位を見ることができません。
このように勧められています。
「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
新改訳聖書 黙示録3章18節
あなたの聖書とあなたのひざに帰りなさい。
聖霊はあなたの出発点である悔い改めた心を示しています。
そこにはあなたの初めの愛があります。
そして、そのことをはっきりと神の前に裁くのです。
永遠の事柄が貴重なことを失う原因となった罪と失敗を、ダビデと共に泣いたことを認識してください。
そして、あなたはあなたの神から離れて放浪した結果としてそれを告白するのです。
「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」
新改訳聖書 詩篇51編12節
そのように告白するのならば、その堕落と固く結びついたとしても、もう一度、神自身との交わりの祝福を知り、神の平和が川のように流れるようになり、あなたは十分な希望に満ちた確信を持つことを再び与えられるのです。
あなたが神と共に歩むのならば、あなたの信仰の極めて成長し、すべての聖徒の中であなたの愛はとても大きくなるでしょう。
あなたの希望はあなたのために天に貯えられ、あなたの開かれた目には、はっきりとそれを見ることが出来るのです。
あなたの心は主に満たされ、主御自身があなたのたましいを元の場所に戻されるのです。
主御自身が、私たちの希望であることを良く思い出してください。
イエスは私たちに場所を備えるために父の家に帰りました。
そして、イエスは私たちを御自身の元に受け取るために、再び帰って来ることを約束されています。
それはイエスがおられるところに、私たちもおらせるためです。
このことはもっとも清められた希望です。
ヨハネの手紙第一3章1〜3節の中で神の聖霊が私たちに語っています。
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。
――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。
私たちは、今すでに神の子どもです。
後の状態はまだ明らかにされていません。
しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章1〜3節
3節において「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」と翻訳されています。
私たちが学んでいるように、これは「時のサイン」ではありません。
単純に真実な預言です。
しかし、イエスが来られる時は私たちの希望なのです。
私たちはますますイエスを見習って歩む必要があるのです。
私たちはイエスが認められないというものを憎むようにと学ぶでしょう。
そして、私たちは今にでも来ようとしているイエスの帰りを待つように、自分自身をあらゆる肉と霊の汚れから清め、聖さの中から完全さを見つけるようになるでしょう。
この希望によって私たちは元気付けられるのです。
そして、聖霊の印は私たちの罪のすべてを赦します。
それはキリストの打たれたムチのあとによって私たちは癒されるのです。
この地上にあっては、私たちはよそ者であり、旅人であり、私たちの所有すべき場所はありません。
しかし、私たちの主が来るまで僕として、この希望を待ち、見ているのです。
この希望は、私たちが主を待ち望むことを切望するキリストに対する誠実さの原動力となるのです。
私たちは「主の帰りを待ち受けている僕」であることが勧められています。
それは主が、朝、もしくは昼に、それとも夜に、いつ帰ってくるか、私たちの心がいつもそのことに思いを巡らすことなのです。
私たちは主と会う準備がいつも出来ていますか?
主が帰ってくる時に恥じることはないでしょうか?
「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章46節
驚くことはありません。
テトスへの手紙2章11〜14節の中でこのことは「祝福された望み」と呼ばれています。
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」

新改訳聖書 テトスへの手紙2章11〜14節

偉大な恵みの学校

ただ、私たちが恵みのよって今、救われているというだけではありません。
私たちは救われているというのと同じように、私たちは恵みの学校の中にいるのです。
主は私たちに用意された立場をお与えになっています。
そして、変わることなくそのことが認められるために、その学校で私たち自身がどのように振舞えばよいかを学ぶのです。
そして、私たちには私たちの教師が与えられ、私たちは自分自身を否定する重要性が教えられ、それは神のみこころと反対のことは拒否することなのです。
私たちは汚れなく、聖く生きることにより、現実に信仰が告白され、明らかにされるためなのです。
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望む」ことを私たちのたましいの前に持っているのです。
新改訳聖書 テトスへの手紙2章13節
キリストが最初に来られた時、イエスは死なれすべての不法から私たちを贖いだしてくださいました。
それはキリストが御自身にあって私たちを清め、これらの人々を御自身のものとするためです。
それは熱心に私たちをすべての良き働きに従わせるためなのです。
キリストが二度目に来られる時、キリストは私たちの身体を贖い、すべての事柄において御自身と同じようにされるのです。
このことはなんと素晴らしい希望ではないのでしょうか!
そして、今、私たちはその確信された力の中に生きています。
私たちは変わることのないキリストの愛を持ち、まもなく、私たちはキリストの顔を見ることが出来るのです。
たびたび、キリストにあって死んだ者が起こされた時、私たちは忘れてしまうことがあるでしょう。
しかし、私たちは私たちが彼らの貴重な身体を墓の中に入れたことを思い出すべきです。
でも、たしかにそこに栄光ある復活の希望があるのです。
それは最も祝福ある希望です。
その時、主が帰ってこられるということは現実に希望です。
すべて過去の時代の死んだ信仰ある聖徒たちが、その時生きている地上にある聖徒たちとともによみがえり、驚くべき変化があります。
その時、起こることが次のように書かれています。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一4章16〜17節
これは、なんと輝く望みなのでしょうか!
そして、主の再臨が現実にどのくらい近づいているか知っているでしょうか!
私たちは口ごもりながら話すべきではありません。
もしくは、このことは疑いも不信仰も与えはしません。
しかし、実際に主が来られるまで、希望の十分な確信を保つ努力を与えます。
何度も、私たちは「期待が長びくと心は病む」と感じるかも知れません。
新改訳聖書 箴言13章12節
しかし、私たちが主に仕えることに忙しい合間にも、特に他のことに勝利を試みる間にも、神の僕として喜びをともに分かち合っている時にも、その実現は確かなのです。
その時、ついに私たちの主に仕える日に終わりか来るのです。
私たちの中でキリストに仕えることについて、多くをあきらめたというものは誰もなく、もしくはキリストの栄光に得ようと努力したが時間がなかったことを申し訳なく思う者もいません。
しかし、私は恐れています。
私たちの多くの者にこれからの世界が与えられます。
これらすべては私たちのものです。
もし、私たちが今のこの地上に戻ることができ、もう一度人生を送ることができるのなら、自己中心的にではなく、誠実に生きたいのです。
私たちを贖ったキリストの名誉をただ追求したいのです。
もちろん、すべてにおいて救われていないということよりも、火によって救われたということのほうがはるかに良いことです。(コリント人への手紙第一 3章13節参照)
確かに、私たちは何の収穫もなく私たちの主に会いたいと願う者は誰もいません。
むしろ、主は喜びと共に来られるのです。
その時、私たちの希望は満ち溢れます。
私たちの収穫の束は私たちと共にあります。
私たちは私たちが持っているものを思い出しましょう。

私たちはこのわずかな時間に、キリストについての驚くべき物語を語っているのです。
キリストは私たちの罪と呪いを自分の身に請け負ってくださったのです。
私たちはキリストの栄光を見るまで、時間はわずかです。
そして、私たちはキリストと共にキリストの座に座るのです。

そこでは、私たちは決して「私が帰るまで専念しなさい」という命令を聞くことはありません。


7、すべての人の中にある確信

現実的な確信の基本的な土台について最後の解析に入ります。
それは単にそれぞれのクリスチャンのそれぞれの救いについてではなく、
しかし、完全な神のプログラムを最終的に実行することであり、それはただ私たちの主イエスキリストの復活を信じ、安らぐことです。
それは使徒の働き17章には記録されているように、使徒パウロのアテネのマースヒルズ(アレオパゴス)における偉大なるメッセージによって強調されており、アテネの哲学者に対して述べられていることです。
そこで分別のない、無知で愚かな偶像崇拝を指摘したあとで、パウロは知られぬ神についての真実、天と地の創造主である神について付け加えています。
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

新改訳聖書 使徒の働き17章30、31節
パウロ自身が復活した主を目で見た証拠を持っており、そのことを話しているのです。
道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光がパウロを巡り照らし、復活したキリストがパウロに現れたのです。(使徒の働き 9章参照)
そして、まさにその時、そこには偉大な奇跡の多くの目撃者が生きていました。
彼らは老若男女、いろいろな人がいたでしょう。
パウロがアテネを訪問した何年も後に、パウロはコリントの教会に手紙を書いているのです。
パウロは五百人以上の明確な主の復活の目撃者がいたことを述べています。
パウロは付け加えています。
「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。
その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章5,6節
ホーレス・ブッシュネルはイエス・キリストの復活は古代史において、最も証明された事実であると述べています。
いくつかの他の目立つ出来事に対しての権威ある情報源について考えてみましょう。
そして、これらの出来事と復活の証言と比較します。
あなたはこの比較の批評の公正さを実感するでしょう。
この四つの福音書の著者は、これらの福音書が証言しているように、最も純粋で敬虔な誠実な人たちです。
これらの福音書はキリストの復活に対して無条件な証拠を提示しています。
他の新約聖書の著者たちには、パウロ、ヤコブ、ペテロ、そして、ユダ、彼らは同じ栄光ある事実をはっきりと言及し、明確に教えています。
彼らはイエスキリストが生きている方として紹介しており、この方はかつて私たちの罪のために死なれたことを述べています。
他のどんな古代史における出来事も、このように多くの目撃者の証言を列挙することはできません。
福音に反対している者でさえ、復活の朝に復活を証明する事実である空っぽの墓について、復活に反対しているのもかかわらず、その証明はなされていません。
反対者たちはイエスが3日で復活すると預言したことを知っていました。
弟子たちが先生の身体を盗むのを彼らの手から防ごうと、反対者たちはピラトのところへ行き、何か手段を取るように要求しました。
ピラトは彼らに墓に対して、防備をし、封印をするように命じました。
このようにピラトは付け加えています。
「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」
新改訳聖書 マタイの福音書 27章65節
しかし、彼らの努力はまったく無駄でした。
その時、定めの敵が訪れました。
天使の手がローマ帝国の封印を打ち壊し、石を転がし落としました。
空の地下穴が現れた時、すでに身体はそこにはありませんでした。
確かに、キリストの敵は誰も、その墓を略奪していません。
彼らは死んで三日目が終わるまでイエスの身体を守ろうと決心していました。
彼らはできるものなら、復活のメッセージの反論をでっち上げるために、復活の後で誰かの死体をどこかから持ってくることも出来たかもしれません。
確かに、彼らはそのようなことをしました。
弟子たちが夜、来て、イエスの身体を盗んで行ったという策略に富む祭司たちによって作られた物語を信用するのはとても不合理なことです。
それはいまだに「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」からです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書 20章9節
驚くべきことがあります。
それはイエスの弟子たちが復活について忘れていたのに、イエスの敵がそれをはっきりと覚えていたことです。
空っぽの墓はイエスを愛する者たちにとって大きなショックです。
同じように、イエスを嫌う者たちにとってそれは恐ろしい兆しだったのです。

キリストの身体の復活の現実

ただ、個人的に現われてくださったキリストの姿だけが、弟子たちに現実に復活されたことを納得させました。
40日間の間、キリストは多くの証拠を残して弟子たちの前に現れてくださり、彼らに神の御国について教えました。
それは復活によって、キリストが死を現実に打ち破った十分な証拠を与えています。
そして、これらが栄光ある現実であることを教え、すべての反対者に対して立ち向かうことを可能にしています。
それは神が墓からキリストの身体を引き上げ、あらゆる人を目撃者としたからです。
彼らはイエスがその同じ身体をもって天に引き上げられるのを見ました。
そして、その後でペンテコステの聖霊授与を受け、聖霊の偉大なる力により、彼らの主の復活の目撃者として彼らは出て行ったのです。
これは教会のための優れたメッセージです。
キリストは私たちの罪のために死なれ、私たちを義とするために生きています。
その復活された身体は復活前の肉と骨の身体を材料にしています。
それは神の御子としての贖罪の働きで神が満足されたという証明であり、それは現在、主イエスにあって、クリスチャンが神によって正しく義とされたということが宣言されるためです。
キリストは肉体的に死んでいるけれど、霊的には生きているという人がいるかも知れません。
それはある人にとっては真実だと信じられているかも知れません。
しかし、神が満足された御子の働きとしての証拠にはなりません。
何年も前、ニューヨークの雄弁な説教者は救い主の肉体的な復活を否定しました。
「イエスの身体はいまだに知られぬシリアの墓の中で眠っています。
しかし、イエスのたましいは前進しています」と宣言しました。
多くの者たちがこの素晴らしい解釈に拍手を送りました。
この解釈はこの時代の間ずっと催眠術のように人々をだまし続けています。
しかし、それは全くの間違いであり、過ちなのです。
もし、イエスの身体がいまだに墓の中に横たわっているのなら、イエスは復活を宣言することもなく、救いに対して無力です。
これは異端です。異端のために考えられたことであり、新しいことではありません。
このようなことは、使徒たちの時代でさえ、ある特定の集まりの中で普及している考えでした。
コリント人への手紙第一15章によっても立証されることです。
コリントの教会において、サドカイ人の教えを受け入れ、文字通りの復活の事実を否定する者たちが現れました。
激しく、パウロは良く知られたみことばをもって挑戦しています。
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。
なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章12〜19節
ここでははっきりと考え、学び、聖霊によって教えられるべきです。
もし、キリストが復活していないのなら、私たちは福音を語る必要がありません。
そこでは、罪過の鎖の捕らえられた哀れな、失われた罪人のための救いのメッセージはありません。
キリストが死んだだけだという信仰は誰も救うことができません。

キリストの復活の証明とは何でしょうか?

その時、私たちは注意深くあるべきです。
この栄光ある真実について神のみことばは私たちに何を語っているでしょうか?

1、主イエスの復活は神の人格と職務について、私たちに要求して真実があることを証明しています。
イエスの敵にイエスは言っています。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書2章19節
しかし、イエスの話した神殿とは御自分の身体です。
それから、御自身の弟子たちに対してこのように宣言しています。
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章18節
イエスははっきりと彼らに語りました。
人の子は罪人の手に渡され、裏切られます。
そして、付け加えています。
「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。
しかし、人の子は三日目によみがえります。」

新改訳聖書 ルカの福音書18章33節
従って、もしイエスが肉と骨を持った物質的な身体を持って復活して、墓の中から出てくることに失敗したのなら、
イエスが御自身に関して言われたこと、そしてイエスの救いの力はすべてが無効となります。
しかし、イエスは失敗していません。
イエスが死によって捕られられていることはありえませんでした。
イエスの言われたみことばは三日目の復活によって成就したのです。

2、イエスの復活の証明は真実なる聖書の預言の成就です。
旧約聖書の多くはメシアの死と復活で占められています。
詩篇の16編において、ダビテはメシアについて預言しています。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
新改訳聖書 詩篇16編10節
ペテロとパウロの両者は私たちにキリストの復活の成就として私たちに紹介しています。
イザヤはキリストの生まれる700年前にこのように預言しています。
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」
新改訳聖書 イザヤ書53編10節
ここで注目すべきことは、死はヤハゥエのしもべの活動の終わりではないことです。
そのしもべが自分のいのちを罪過のためのいけにえとした後、彼は末長く、子孫を見ることができ、復活において人類の祝福のための神の偉大な計画の管理者となることです。

3、主イエスの復活は私たちの利益のために表わされた全能の力です。
エペソ人への手紙1章17〜23節において、私たちはすべてのクリスチャンのために求める使徒の祈りを持つことが出来ます。
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ」
たのです。
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章18〜20節
そして、その全能の力が死んだたましいを新しい命の中に生かし、神の子供に力を与えるのです。
その結果、地上において、神の子供は罪に勝利した天的な命に生きることを可能とされたのです。
そして、私たちがこの地上にいる間は、聖霊に管理されて神との交わりの中を歩むのです。

4、キリストの復活は罪の問題が満足されたという証明です。
私たちの罪は十字架の上のキリストの上に置かれました。
キリストは自発的に罪人たちに対する責任を受け入れたのです。
キリストは木の上で御自分の身体にあってこれらのことを耐えたのです。
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章25節
神が死の中から神の御子をよみがえらせた時、それはキリストの完了した完全な働きを承認することを表わす神の方法でした。
もし、罪が永遠に片付いていないのなら、キリストは墓から前へ出てくることはなかったでしょう。
しかし、私たちのためにすべてがためらうことなく支払われたのです。
死はキリストに対して何の要求もないのです。
キリストが復活したことによって、神はキリストが神の祝福された御子であることを承認し、そのことを受け入れ、それを造られたすべての知的被造物に宣言しています。

5、キリストが復活したゆえに、現在、神の記録から罪が片付けられ、信じる罪人に確信を与えるのです。
神はイエスを信頼しています。
そして、神御自身には何の負うべき責任はありません。
私たちはローマ人への手紙8章32〜34節でこのように書いてあるのを読みました。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章32〜34節
その声はキリストの終了した働きに信頼する者は、誰も有罪者として呼ぶことの出来ないことに気をつけて読んでください。
キリストの死と復活はクリスチャンがどんな心配事をしたとしても、再び罪の問題として取り上げられることがないのです。
復活とはすべて支払われた領収書のようなものです。
十字架の上にその膨大な借金は置かれました。
復活されたキリストは私たちに語っています。
すべての要求が応じられ、クリスチャンに対して罪の問題は再び取り上げられることはありません。
今、私たちはキリストの中に受け入れられたことを知っています。
キリストは私たちに対しての宣告を受け入れ、そして、高い神の御座に座られたのです。

6、キリストの復活は神御自身によって神がこの世界を裁く印です。
その裁きは父がその名誉を与え、喜ぶ者に対する人間の態度が基礎となっています。
もし、人が彼を主として、救い主として受け入れるのなら、彼らは罪のために裁きに連れて来られることは決してありません。
しかし、もし人がキリストを拒否し、彼の恵みを拒むのなら、彼らは単に自分のすべての罪のために答える必要があるというわけではありません。
その残りの答えをも答えるのです。
それは彼らが彼らのために死なれたキリストを拒んだために裁きを受けるからです。

7、キリストの復活はただそれだけで、福音のメッセージに有効性を与え、死の恐怖からクリスチャンを救い出す力を持っているのです。
今、テモテへの手紙第二1章8〜10節に戻り、私たちはこの重要な勧告を読んでみましょう。
「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。
むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。
この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」

新改訳聖書 テモテへの手紙第二1章8〜10節
私はあなたにこれらのみことばを注意もせずに読むことを求めていません。
彼らの兵力が、そして彼らが厳粛に、彼らの持つ価値感があなたのたましいをしっかりとつかむことができるようになるまで、私は何度も読み返すことをお勧めします。
私たちの救い全体は私たちの救い主イエスキリストに掛かっています。
イエスキリストは死を廃止としました。
つまり、死のちからとを無効としました。
そして、福音を通して命と不滅とを明るみにしたのです。
キリストは死の暗い流れに下がりました。
全てのその波と大水は彼の上に流れ込みました。
しかし、キリストは復活において決して死ぬことのない命を得たのです。
ヨルダン川の水は私たちのために押し返され、私たちはキリストの勝利を得たみことを聞くことが出来ます。
「イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章25〜26節
あなたのこころはこのように答えませんか?
「はい、主よ、私は信じます。」
私のたましいはあなたのたしかなことばに永遠に信頼します。
そして、私はわたしの救い主として、私の主としてあなたを告白します。

神の確かな確信、キリストのよみがえり

このように神はすべての人にキリストが死者の中からよみがえったという確信を与えています。
もし、サタンがあなたの不面目とはっきりとした欠点があなたをおおわせることにより、あなたを落胆させるのなら、あなたはサタンと論じるようなことはしないでください。
神の王座を仰ぎ見てください。
そこにはかつてはみにくい十字架の上に架けられ、苦しみ、その死んだ身体は新しいユダヤ人議員ヨセフの墓に収められましたが、今は勝利をし、死からよみがえられ唯一の方をじっと見つめてください。
それはその完全な神の三位一体に現された事であり、その神格はこの驚くべき出来事に関係しています。
そして、それぞれの神の人格は私たちの主の死からの復活に関係しています。
私たちはすでにキリストの復活が彼自身に要因があると見ています。
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章17節
また、彼はこうも言っています。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書2章19節
そして、同様に父なる神に要因があると見られます。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章20節
同様に、聖霊はこの素晴らしい奇跡を行うための直接の代理人として認められます。
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章11節
天に高く上げられ、神の右の座に座られ、復活された私たちの祝福された同じ主の偉大な力によって生かされるまで、罪過と罪の中に死んでいたあらゆる所にいるすべての人々のために、キリストとキリストの復活の証言を見ると、神の御神格のそれぞれが関係しているのです。
最も高く上げられた聖霊を感じる者は誰でも、キリストを呪ったリ、否定することはできません。
声をそろえて賛成しましょう。

たとえ、この世界があなたを否定したとしても、この私のために私はあなたの側に立ちます。


8、確信のこころ

ヨハネの手紙第一にて、真実が表わされているとても貴重なこのみことばは、クリスチャンの歩むという側から見て経験的な要素を含んでいます。
3章18〜19節における以下のみことばにおいて、私たちは勧めと励ましの両方がされています。
「子どもたちよ。
私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章18〜19節
現在ある、クリスチャンにある確信のこころは聖霊の働きの結果であり、そこには信仰による十分な確信がそれに続いて起きます。
この瞬間に、私は神のみことばにあって、この神を得て、私の救い主として主イエスに信頼を置きます。
そして、私は聖書の権威の上にその事を知ります。
私は何度も、この聖書と現在、唯一なる方と共にこの命を持っていることを結び付けようとしています。
この神は私たちの罪のためになだめのささげものを与えてくださったのです。
そして、私がクリスチャンとして歩む時、聖霊の絶え間ない働きを通して、心の奥底に豊富な補強的証拠を持つことができ、私が受け入れてきた教理よりも現実なものなのです。
私は、日々、私の中にある真実な人にあって、確実な証拠を見つけています。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章10節
このようにして、私の確信は深まるのです。
私は注釈のない神のみことばにあって、永遠のすべての事柄を信頼し始めた時に、私は見つけたのです。
恵みを通して、その圧倒的な真実なる確証は、罪人である私に永遠の生命の現れを信仰にあって現実に与え続けているのです。
私たちは注意深く、これらいくつかの確証的な証拠を見てください。
これらは神の前にあって、私たちのこころに、確信を与えます。
最初にクリスチャンは、神のみこころへの生まれながらの愛を意識するようになります。
「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。
それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章3〜5節
それはクリスチャンでない者の生まれつきの性質が、神のみこころを楽しむことを言っているのではありません。
救われていない人は、自分の道を愛しており、他の方法へ自分の意思を明け渡すと尋ねるだけで憤慨するのです。

イギリス弁護士は青年に忠告しました。

英国の弁護士は青年に忠告しました。
モンタギュー・グッドマン。
彼は良く知られたイギリス弁護士です。
そして、同様に彼は広く知られ、認められたキリストの牧師です。
彼はこの点を示そうと、以下の出来事に関係づけました。
ある晩、私は学ぶために、ある若者と席を共にしました。
私はその若者を少年時代から良く知っています。
彼は遠い東の方へ出かける寸前で、さよならを言うために来ました。
私たちは正直に友達として話し、私は彼にキリストを信じるように勧めました。
私は彼の答えを忘れることはできません。
それは反抗でも、いやみもなく彼は言いました。
「私は私の気に入るように行いたいのです。
キリストに対しても、また、他の誰に対しても、なぜ私は自由を放棄しなければならないのか私にはわからないのです。」
彼は人類の一員を代表して罪人の考えを表現して言ったようです。
まさしく、このみことばは一般的な人間の真実を現していることです。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
新改訳聖書 イザヤ書56章2節
これは神の前にある人間への有罪宣告です。
彼は神のみこころをうける準備が出来ていません。
彼は思い通りに歩み、それに干渉されることに憤慨するのです。
彼は「あなたのみこころではなく、私の意志を行いたいのです」と同じ事を実質的に言っているのです。
彼は自分の意思でこのことを決め、そして、このことが純粋なことか、もしくは俗悪なことか、感情的か、もしくは知的か、正しいことか、もしくは間違っていることか、悲惨なことか、もしくは情けのあることか、関係なく、彼にとって普遍的な真実なのです。
彼は彼の人生の結末の支配者が正しいことを主張しています。
その支配者とは彼のたましいです。
ところで、改心によって何が起こるか考えてみてください。
私は私の救い主として信頼し、私は私の主としてキリストを信じるのです。
キリストの愛はあらゆる面において私のこころをつかんでいるのです。
私は私の意志をキリストに委ねます。
これから、私は毎日のように失敗をするでしょう。
キリストが私をつかんでいることを知って、あらゆることを行うので、私の心は最高の満足を得ていることを私は見つけるのです。
私は神の戒めを愛しています。
ボナーの美しい古い讃美がこのように歌われています。

私は荒野にいる羊でした。
私は囲いが好きではありませんでした。
私は私の羊飼いの声が好きではありませんでした。
私は命令されるのが嫌いでした。
私はわがままな子供でした。
私は私の帰るべき家が好きではありませんでした。
私は私の父の声が好きではありませんでした。
私は遠く歩き回るのが好きなのです。

羊飼いは自分の羊を捜しました。
父は自分の子供を捜しました。
彼は谷と丘の上に、そして不毛の砂漠、荒野の上に
私に追いかけました。
彼は私が死にそうなのを見つけました。
私は飢えて、弱りはて、一人きりです。
彼は愛の帯で私を縛り、荒野にいる私を救ったのです。

キリストは私の羊飼いです。
キリストは私のたましいを愛しています。
キリストは私をご自分の血で洗ってくださいました。
キリストは私のすべてとなりました。
キリストは失われた者を探し、荒野にいる羊を見つけたのです。
キリストは私を柵の中に連れて行きました。
キリストは今も私を守ってくださるのです。

私は荒野の羊でした。
私は命令されるのが嫌いでした。
しかし、今の私は私の羊飼いの声が好きです。
私は私の帰るべき家が好きで、好きでしょうがないのです。


確信を得て、態度を変える

この私のこころに与えられた確信による態度の変化は、新しい誕生によって私が神の子供となった証拠です。
かつてのプライドある私のこころを制御することが出来ていることを何も他に説明できるものはありません。
そして、今の私の熱心な願いは神のみことばにある神の命令に従うことです。
私はヨハネの使っている「命令」という言葉が単純にシナイで与えられた十戒を指しているのだと、愚かなことを言うことを望んでいません。
それはそれ以上のことなのです。
その私たちの中に成就された律法の義とは、私たちに肉に従って歩むことではなく、聖霊によって歩むことなのです。
この他に、私たちは私たちの主イエスキリストの命令を持っています。
それは地上にいるキリストの弟子の行動に対して、キリストが教えていることであり、すべてを受け入れるべきなのです。
そして、その後、そのことは聖霊によって現され、新約聖書において示されています。
新しく生まれた者は主を喜ばすことを願っているのです。
二つ目の実例として、私たちはヨハネの手紙第一3章9節に書かれていることについて考えるべきです。
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章9節
このみことばは注意深い読者を困らせました。
私たちはより注意深く読んでみましょう。
サタン自身、神の愛しい子供にこのみことばを苦痛のために使います。
安らぐ感覚、良心に基づくたましいを持つ者にとって、このみことばがクリスチャンには罪がないのだと意味しているのだと理解して者がいるのであれば、悪魔はこのような者に言うのです。
「あなたには罪があることを知っている。
あなたは何度も考えと、ことばと、行いにおいて失敗しているのを知っている。
ゆえに、あなたは罪を犯しているのです。
あなたは神の子供であることはできません。」
そのことははっきりと理解できることなので、たとえキリストに信頼し、そのことに反抗しようとしても、このような考えが何か間違っていると直観的に感じたとしても、悩むこころはこのことを受け入れる傾向があります。
ここでこの動詞が不自然なものであることに目を止めることは、私たちを助けることになります。
それは「現在進行形」で表現されているからです。
この問題とは偶発的な罪の問題では指しているのではありません。
もしくはいままで犯してきたいくつもの罪を指しているのではありません。
これらの罪はひどい嘆きと、悲しみを生んできたことでしょう。
しかし、むしろこの罪は罪の特徴を持つ行動の方向性を示しているのです。
このことをわきまえた上で、6節に戻って読むことは良いことです。
そして、正しい翻訳においてこのすべての箇所を読んでみましょう。
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を習慣的に行うことは出来ません。
習慣的な罪を行っている者はだれも、キリストを見て(注1)もいないし、知ってもいないのです。
子どもたちよ。
だれにも惑わされてはいけません。
義を習慣的に行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
習慣的な罪は、悪魔から出たのです。
悪魔は初めから罪を習慣的に犯しているからです。
神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわす(無効にする)(注2)ためです。
だれでも神から生まれた者は、罪を習慣として行いません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまって(残って)いるからです。
その人は神から生まれたので、罪を習慣的に行うことができないのです。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。
義を習慣的に行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。
兄弟を愛さない者もそうです。」
ヨハネの手紙第一3章6〜10節( Ironside訳参照)

作者注)1、ギリシャ語の見るには"blepw""orw"(ewrake)--直完了能動態の二つがある。
通常、物を見るときは前者を使うが、ここでは後者使われている。
後者の意味は単に見るという意味より、見た者の識別能力を重視している。
つまり、識別した結果の知的要素を主張していある。
また、使われている直完了能動態とは、過去にそれを見て、いまだにその影響下にあることを示している。
もし、信じるということばに当てはめるのなら、過去に信じた、そして、今も信じているとなる。
このことより、多くのことが学べると思うが、「習慣的な罪を行っている者はだれも、キリストを見てもいない」とは、まず、この者はイエスキリストを見たことのない者(つまり、未信者)、逆に私たちは過去に見始めて、今も見ていることを示している。

2、
lush(luw)--アオリスト接続法で使われている。
つまり、未来に起きるべきことを表わしている。
つまり、神の子が現われた(アオリスト過去形)のは、悪魔のしわざを打ちこわす(未来)ためです。


二つの異なる人間の集まりの行動はどうでしょうか?

この二つの人間の集まりがどのような集まりか見てください。
ここで言われているのは古い人と新しい人です。
救われていない人は罪を習慣的に行うのです。
たとえ、世を基準として、彼らの性質の中にすばらしい性質があったとしても、彼らは自分の道を歩むことを喜びとします。
これが罪の実体なのです。
「罪は不法です。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章4節
すべての熱心な学者は「罪は律法違反です」と訳すのが、より正しい翻訳としています。
私たちには語られています。
「律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章13節
しかし、罪は違反として認められるものなのです。
それは、律法が罪の基準としてまだ与えられなかった時にも、罪自身が自覚として認められるものなのです。
それは不法として、そして堕落した人間の間に、あらゆる場所で見られることなのです。
このことは悪魔のこどもが、はっきりと自分たちが悪魔に属する集まりであることを証明しています。
しかし、キリストを信じる者は違います。
私たちに見られるように、キリストに立ち返った者は上から(新しく)生まれた者です。
このように、私たちには新しい性質があるのです。
この新しい性質は罪を憎み、その者の欲求と考えを支配し、罪を忌まわしいものとして見るようになります。
その者はその者が過去に犯してきた愚かなことと不法とをひどく忌み嫌うようになり、聖められることを熱心に求めます。
そして、聖霊によって力付けられ、その者の生活の方向性が変えられます。
その者は義を行うます。
何度も失敗を繰り返すかもしれませんが、その者の生活の方向性全体は常に手直しされてゆくのです。
神のみこころは彼が喜び楽しむことです。
そして、ますますその者はキリストにとどまる貴重さを学び、恵みと知識において成長するのです。
また、現実に服従の小道を歩むために、神の力がその者に与えられるのです。
その者の新しい性質は、主としてのイエスに降参する時、喜びを見つけるでしょう。
このことは新しい断固なる三つ目の証拠として、私たちを導くでしょう。
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。
それは、兄弟を愛しているからです。
愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章14節
ここで語られている愛(agaph)と単なる人間の愛情心(filov)との間に違いがあります。
ギリシャ語の新約聖書を見ると、二つの異なることばが二つの側面を現すために使われています。
神のよって伝えられた愛を示すため、聖書の至る箇所で、聖霊によって選ばれ、そのことばが使われています。
そのことばは単なる人間の愛情心を示すことばよりはるかにまさっています。
その愛は私たちが新しく生まれた時に私たちの中に植え付けられたものです。
この愛は聖霊によって私たちに与えられ、私たちの心の中に広く与えられたものです。
なんと素晴らしいことではないでしょうか!
それはあらゆる所にいるすべての聖徒たちへ、そして、私たちに結び付けられているのです。
本能的に新しく生まれ変えられたたましいは、自分が新しい家族に入れられたことを受け入れるでしょう。
その者はキリストにあって兄弟、そして姉妹として救われた者たちすべてに主張します。
この大きな変化がその者に現れる前、彼はクリスチャンの集まりからしりごみして逃げ、世の人ともに交わることを好んでいました。
今の彼は過去に世の人との交わりを求めたように、クリスチャンの交わりを追及しています。
私たちはあの「釈放されたふたりは、仲間のところへ行き」と書かれた箇所を読みました。
ペテロとヨハネはイエスを証しし、牢に入れられたとしても、彼らは仲間の所へ行ったのです。

その境目ははっきりしています。

これは単なる一時的な概念ではありません。
なぜなら年につれて、その境目はもっと強くはっきりしてくるからです。
この世はよりだんだんと魅力的に感じなくなって来るでしょう。
そして、贖われた家族は兄弟愛を貴重なものと感じるようになるのです。
それが、変わることのない新しい命の性質です。
この愛はとても習慣的なことなのです。
真実な神の子供はことば、もしくは口だけの愛では満足しません。
神の子供は活発と言えるほどの慈悲深さと、恵みある行動によってその愛を明らかにしています。
その真実はヨハネの手紙第一の至るところで強調されていることです。
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章7節
それは注目すべき事実です。
ヨハネの手紙の初めの箇所で明確にされた、この新しく生まれたというこれら内的証拠を強調した後で、
この使徒は偉大な最も強調され、神の証言を信じる単純な信仰がもっとも確かな証拠であるという真実の箇所を閉じようとしています。
それはたましいにより良心的に歩ませ、自分自身の経験と体験に信頼していません。
ゆえに、その確信は福音の真実の偉大な根本から離れた経験に上に建てあげるようなことはしないからです。
そのようにヨハネの手紙第一4章13〜16節では私たちに語られています。
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。
愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章13〜16節
この箇所を読んだ者はこのように尋ねるかもしれません。
「しかし、どのように私が私に聖霊が与えられたことを知ることが出来るのですか?」
その答えは聖霊です。
聖霊は福音の永遠の真理への証拠を私たちに運んできます。
聖霊はキリストを個人的な救い主と信じるすべての者に内住しています。
もし、あなたがイエスを神の御子として告白し、あなたがあなたの中にいる聖霊によって神を知り、神の御手の中にあなたがいることを知るのであれば、神の愛は福音の中に示されるのです。
その性質は神の力と知恵を明らかにします。
キリストの十字架はキリストの愛と恵みを私たちに語るでしょう。
ホラーティウス・ボナー博士は私たちが前に引用した讃美を書いた作者の一人です。
それほど広く知られていませんが、彼は他の讃美においてもっとも際立つものがあります。

私たちは花や木を見て、あなたを知りました。
その新鮮な快いそよ風、
小鳥の翼の上に讃美
夏、そして春の喜び

私たちは私にキリストが来られたという最高のことを知りました。
みにくい十字架へと私たちを連れてゆきます。
高きところより父によって送られたのです。
その時、私たちの命は生き、死は死にました。


私たちの救い主が罪のきよめをなし、天に昇り、神の右の座に座られました。
聖霊が地上に降りて来て、祝福され、完成された働きを証しする力を私たちに与えました。
イエスが死に、そのわき腹にローマ兵の槍が突き刺した時、
我々の救世主が罪に浄化を作ったとき、彼は天国にひろわれて、神の右手で着席しました。
神聖な聖霊は、その時それほど幸いにも成就される働きの証言に、与えること力に地に降りました、
ローマのやりが死んだキリストの側を突き通しました。
「すると、ただちに血と水が出て来た」と書かれています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章34節
その流された血と水は罪人のために引き渡されたキリストの聖い命の証しを打ち消してしまうでしょう。
イエスは死なれたのです。
しかし、聖霊はキリストに対する神の記録を付け加えています。
ヨハネの手紙第一5章8節にこのように書かれています。
「御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章8節
このように神は神の御子の完全な贖いの働きについて多くの証言を与えています。
そして、今、神は信仰によってこの証しとこのように永遠に救われたことを受け取る人に対して何を要求しているでしょうか?
私たちはたとえ、信頼すべき人間の証言が、私たちの知識、あるいは立証すべき能力以上にこの問題について話された時、私たちはこの信頼すべき人間の証言を信頼すべきでしょうか?
確かに、その時、私たちは無条件に神の御子について与えられた神の証言を受けとらなければなりません。
しかし、別の言い方をすると聖書に書かれた事以上にその人間の証言に信頼を置くと言うことは、信頼すべき神の記録を拒否することになり、神をうそつきものとすることです。
その聖書の記録を信じることは、まさにこころとたましいの中にこの神の力によって与えられたメッセージを受け取ることです。
ゆえに、ヨハネが私たちに語っています。
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章13節
それは、この「これらのこと」ということばが、神に使わされた使徒によって書かれ、私たちの前に置かれた愛と光の手紙のすべてを受け入れることだという事が、その時はっきりするからです。
ポイント、ポイントを取り上げてもう一度、復習してみましょう。
それぞれの節、テーマにおいて、聖霊において現されたメッセージを追いかけみましょう。
それは生きている神の真実なるみことばを受け取ることです。
それはあなたが上から(新しく)生まれたことと、現在、私たちがすでに持っている、終わることのない永遠の命を何か粗捜してみたり、疑ってみたりすること以上にみことばを学び、受け入れることなのです。
その結果、あなたの心は神の前にある確信で満ち溢れるでしょう。

祝福された確信であるイエス、それはわたしのものです。
それは栄光ある神の救いを前もって味わう者である。
救いの受取人、神の受け入れた者
聖霊によって生まれた者、キリストの血で洗われた者。


2章

1、全き確信を妨げる苦難

神との平和に加わり、そして救いの全き確信を楽しむことからたましいを守り、それを邪魔するいくつかの苦難と惑わしについて考えてみることが、今、私にとっての目的なのです。
これらの問題と反対は光を受けた後、熱心に求める人たちから何度も私のところへ質問されることがあります。
それゆえに、私は信じるだけの十分な理由を持っており、神のみことばに示された、神によるクリスチャンとしての歩みの方法を妨げる、そのわずらわしい考えの代表例をあげることができます。
もし、私の読者がこころと良心において安らぎを持っていないのなら、彼はここで取り扱われている特有な問題が彼自身にあることが解かるかもしれません。

1、私はどのくらい十分に悔い改めたという確信を持つことができるのでしょうか?

たびたび、悔い改めの意味することの間違いから、現実とは違う問題が起きることがあります。
救いは悔い改めがなければ救いはありません。
しかし、重要なことは「悔い改め」という単語が正確に何を意味しているかです。
それは後悔と混同されてはなりません。
単なる後悔とは「罪による悲しみ」です。
もしくは、「懺悔」たるものは罪を贖うための人間による努力でしかありません。
もしくは罪から立ち返ろうとする改心の努力でもありません。
悔い改めの本当の意味は「罪に対する態度、自分自身に対する態度、神に対する態度を変える」ことです。
ギリシャ語聖書のオリジナルのことばの意味するのは「思い(考え)の方向転換」です。
それは単に知識において観点を変えることではなく、態度の完全な反転です。
今、あなた自身をこの方法でテストしてください。
あなたはかつて、罪の中に生き、罪を愛していました。
あなたは、今、それらの罪の中から救われることを望むでしょうか?
あなたはかつて自信過剰であり、あなたの中には存在しない、想像上の利点に信頼を置いていました。
あなたは、今、神の前に罪人であると認めていますか?
あなたはかつて、神から隠れようとして、神の権威に対して反抗しようとしていました。
あなたは、今、神について調べ、神について知り、神に対してあなた自身を明け渡すことを望みますか?
もし、あなたがこれらの問題について素直に「はい」と言うことができるのであれば、それはあなたにとって「悔い改め」なのです。
あなたの態度はかつてのあなたの態度とは全く違っています。
あなたは自分自身のたましいを清めることができない罪人であることを認め、そのことを神の方法において告白されなければなりません。
これが悔い改めなのです。
そして、覚えていてください。
悔い改めとはその人が自覚した悔い改めの量ではありません。
それは自分自身から神へと立ち返るという現実です。
それはイエスキリストを通して始めて効力を持ち、神の恵みにある立場を取ることなのです。
正確に言うのであれば、私たちの中のある者は十分に悔い改めをしていないかもしれません。
神が私たちの邪悪な罪を見ているように、この罪を見ている者は私たちの中には誰もいないでしょう。
しかし、その時、私たちが自分自身を裁き、救い主に信頼を置くのなら、私たちはキリストのすばらしさを通して救われます。
私たちはキリストの慈愛の受取人なのです。
悔い改めは日々深められ、続くものでしょう。
私たちは何度も神の無限の価値と、私たちがいかに価値がない者かを学ぶのです。

悔い改めには涙も、もしくは祈りもいりません。
ただ、必要なのはたましいのためにある贖いの血です。
キリストにあって、あなたがかつて犯してきた罪が書き記された巻物は捨てられたのです。


2、私は神と適応出来るとは感じることはできません。私にはそのような価値がないのです。
神が私を捕らえられずに私は恐れているのです。


もし、あなたがあなた自身において、天において、もしくは、神が示したこのような愛の価値に適していないと思っているのなら、あなたの状態は何という哀れな状態ではないのでしょうか!
それは、キリストがあなたを贖うために死なれたということに、あなたが適応しようとはしないからです。
それは、単純にあなたが永遠の裁きに値する者だからです。
キリストは罪のない御方でしたが、あなたのために罪となられたのです。
あなたがキリストにあって神の義となるのです。
もし、あなたの中に神に対して適応するものがあるならば、あなたには救い主が必要ありません。
ローマの百人隊長が自分のしもべのためにイエスのいやしの力を求めた時、百人隊長はユダヤ人の長老たちをイエスのもとに送りました。
長老たちは言いました。
「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

新改訳聖書 ルカの福音書7章4、5節
しかし、百人隊長が主と顔を会わせた時「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言いました。
新改訳聖書 ルカの福音書7章6節
長老たちは「資格のある人です」と言ったかも知れませんが、百人隊長の答えは「資格は、私にはありません」でした。
ゆえにイエスのこころは動かされ、イエスは言いました。
「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
新改訳聖書 ルカの福音書7章9節
人間が自分自身の価値について考えるのならば、その者のための救いはそこにはないでしょう。
しかし、その時、悔い改め、その者が自分に価値のないことを知るのであれば、主イエスキリストの中にある信仰を通して、その者のために救いの道がすぐにでも開かれるのです。
悔い改めることなしに、救いが必要であるということを罪人は信じることは出来ないのです。

あなたが良心に対して手間取っていたり、適当な心地よい夢を見たりしている場合ではありません。
すべての資格は神に要求することであり、キリストの必要を感じることなのです。


3、私はひどい罪人であり、決して救われるような者ではありません。

しかし、キリストは義を要求しに来たのではなく、罪人を悔い改めさせるために来たのです。
キリストは正しい人々のためには死にませんでした。
真実に言いますが、この世界には正しい人など存在しません。
「義人はいない。ひとりもいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章10節
もし、何か仮定して言ってみるのなら、彼らは自分自身を義とし、正しいとしているだけです。
彼らには救い主は必要ではありません。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」
新改訳聖書 マタイの福音書9章12節
罪は私たち人間の本質全体にのしかかる恐ろしい病気のようです。
しかし、イエスは偉大な医者です。
もっともひどい病気さえも治療することが出来ます。
その偉大な医者に対して、ひどすぎる人や、罪深すぎる人、邪悪すぎる人は誰もいません。
イエスの医者としての技術は無限です。
イエスは大きな恵みを大きな罪人に示すことを喜びとしています。
タルソのサウルは罪人の頭でした。
しかし、サウルが主イエスを信じたその瞬間に彼は救われたのです。
あなたはもっとすごい罪人なのです。
あなたはより救い主を必要としています。
あなたはもっとひどい状態です。
そのことがあなたのためにキリストが死なれたという、より優れた証拠となるのです。
神は私たちの罪すべてを、カルバリの十字架に架けられた神の御子の上に置きました。
罪人たちのために神の御子は苦しんだのです。
あなたの罪の一つさえも、もう見ることはありません。
キリストの和解の働きにはこのように無限の価値があるのです。
現在、地上にいる最も邪悪な罪人が、もし信仰によって個人的な救い主として主イエスを受け取るのならば、その罪人の上にもその恵みが現されるのです。

私には罪があります。
しかし、それは神の栄光ある知恵は私の歓喜となりました。
私の罪の一部分ではなく、私の罪、全体を、キリストの十字架の上で釘付けにしました。
もう、そこに持ってゆく罪など存在しません。
私のたましいは...主を讃美します。主を讃美します。


4、もし、私が選ばれていないのならば、救われないのではないでしょうか?

まず、あなたは神の定められたということと、その不思議を興味本位で試みることをやめてください。
神の御子が選んだ者たちすべてが、神の元に来ると言うだけで十分なのです。
私たちの主ははっきりとヨハネの福音書6章37節で語っています。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章37節
今すぐに、この問題を持つ者はこの節の前半をそのまま受け入れるべきです。
この節の後半はよりこのことをはっきりとさせ、人間への責任を見つけることができます。
あなたはイエスのところに来たでしょうか?
もし、来たのならば、あなたを決して捨てないというイエスの誓いのことばをあなたは持っているのです。
あなたがキリストのもとへ来るという事実は、父がわたしにお与えになったという事実を証明しているのです。
D.L.ムーディはとても簡単にそのことを片付けました。
「選び」とは誰のみこころでしょう。
選ばれていないということは誰も望んでいません。
このことははっきりと聖書に教えられていて、すべての者が招かれているのです。
覚えていてください。
私たちは決して「キリストは選ばれた者のために死なれた」と語ってはいけません。
みことばは何と言っていますか?
「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章6節
あなたは不敬虔な者でしょうか?
ならば、あなたのためにキリストは死なれたのです。
あなたの主張は片付けられ、あなたは神との平和の中に加えられました。
使徒パウロを通して語られた、聖霊の宣言について考えて見てください。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第一1章15節
私たちは決してキリストは選ばれた者のために来られたと語ってはいけません。
「罪人」という単語の中には「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書かれたその中に含まれているからです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章23節
あなたは自分が確かに罪人であることを理解しているでしょうか?
その時、あなたは救いがあなたのためにあることを確信するでしょうか?
もう、あなたはこれ以上、救いの問題を持ち出すことはないでしょう。
神のみことばにあって、あなたは単純に、そして十分に神を得たのです。

罪人はイエスが受け取ったのです。
健全な恵みのことばで十分です。
その者は天国の小道にたどり着いたのです。
すべて悩む者、落ち込んでいる者は何度もそのことを歌うでしょう。
キリストは罪深い人を受け取ったのです。


5、時々、私は永遠に裁きの中に入れられることになっているのではないかと。恐れることがあります。
もしそうならば、私のような恐ろしい場合には何の手段もないのですか。


誰も神に呪われるように定められた者はいません。
神によってすでに知られていることは理解するのなら、計り知れない価値と慰めがあります。
あなたは聖書に立ち帰ろうとはせず、自分自身のために聖書を読んでいなかったのでしょう。
ゆえに、あなたはこの二つの章に書かれている「あらかじめ知っておられる」、もしくは「あらかじめ定められた」ということばをいままで見つけられずにいたのです。
最初にローマ人への手紙8章29〜30節を読んで見ましょう。
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章29〜30節
もう一つはエペソ人への手紙1章です。
5節を私たちは読んで見ましょう。
「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章5節
11節においてもそのことを言っています。
「私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章11節
あなたは注意すべきです。
これらの4つの章において、天国、もしくは地獄へ行く者を定めたとは述べていません。
クリスチャンは究極的には、キリストに似た者になることが定められていると述べているのです。
神が救われる者と、失われる者とを定めたとは、聖書の中では私たちには語られていないからです。
主イエスキリストに対する態度ゆえに、人間は永遠に救われ、もしくは永遠に失われるからです。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章36節
「定められた」という言葉の意味することは、私たちがいつの日か贖われ(キリストの空中再臨時)、主イエスのようになることを示しているのです。
これは大切なことです。
この救い主に信頼を置くこれらの者たちに喜びと慰めを与えるはずのみことばによって、あなたはその間違った解釈によって、恐怖へと導かれる必要はありません。
自分自身のために、キリストに信頼を置くべきです。
そして、神があなたを神の御子の形に似た者としてくださることをあなたは知らなければなりません。

そのように、私は恵みによって、将来、神の御子のようになるのです。
それはキリストが私のために勝ち取ったことです。
栄光ある父、すべての知恵を超えた神の知恵。
この栄光にあるように、神の祝福を私たちにももたらしてください。


6、私は信じようと試みますが、私には救いの確信がありません。

誰を信じようと試みているのですか?
あなたはうそのつくことができない唯一の方を信じようと試みていると、勇気を出して話しています。
しかし、これは神の顔につばをかけ、侮辱する行為ではないのでしょうか?
もし、あなたの親しい友人が現実にあった面白い話をしてくれたと想像してみてください。
そして、あなたはその友人にこのように尋ねたとしましょう。
「私はあなたを信じようと試みています。」
もし、このように尋ねるのなら、あなたはその友人の言っていることを全く信じていないと宣言しているのと同じ事です。
その時に「神の御子についての証言を与えてくださいと神に求めるように信じなさい」と私はあなたに求めるでしょうか?
神はキリストを信じるすべての者に永遠の命を与えると約束しておられます。
あなたは神を信じますか、それとも、信じませんか?
もし、あなたが神を信じないのなら、現実にあなたは神をうそつきだと言っているのです。
もし、あなたがいままでこのように神をうそつき扱いにしているのなら、神の御前に進む前に、あなたの中にあるやましい思いがあるのなら、その悪意を告白し、神に語りかけてください。
私は神のみことばに単純に信じ、拠り頼ります。
幼い少年でさえ、「信仰とは疑うことなく、神を信じることです」と答え、この問題を解決しました。

私は信じています。
今、私は信じています。
それはイエスが私のために死なれたことです。
私を罪から自由とするために、十字架の上で血を流してくださったのです。


7、私は何も自分が変わったとは感じていません。

新約聖書の中で「感じる(feel)」という言葉が単に一回だけ見つけられるということは注目すべき事実です。
それはアテネにおいてのパウロのメッセージに見られます。
パウロは神を金や銀の像と同じものと考えているアテネ人を非難し、すべてを創られた真実なる神を彼らに示している場面において見つけることができます。
「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求める(feel after)ことでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」

新改訳聖書 使徒の働き17章26〜28節
あなたは今、この節の中にこの「感じる(feel)」と言う言葉を正しく見つけ、理解しましたか?
しかし、ここで述べられている「感じる(feel)」は福音とは関係していません。
むしろ、神から離れ、闇の中を手探りしている異邦人に対して言われていることです。
「もし探り求める(feel after)ことでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。」
あなたは彼らのような無知な状態にいるわけではありません。
あなたは福音を聞いたのです。
あなたは唯一、生きておられ、真実なる神を知っているのです。
あなたは何かを感じるようにとは語られていません。
神についての記録を信じるようにと語られているのです。
次に、あなたは新約聖書の中で「感じている(feeling)」という言葉が2回使われているということに興味を持つかもしれません。
それは救いのメッセージとともに使われ、救いは何かを行うことではないということを示すために使われています。
エペソ人への手紙4章19節において、救われていない異邦人の立場について述べられているのです。
「道徳的に無感覚(past feeling)となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙4章19節
このことは継続的に罪のむさぼりの中にいる人たちに対して言われていることです。
彼らは無感覚になっているのです。
そして、良心を覚えるようなことはしません。
他の者に見習って、彼らは不節制と無法の中におちいるのです。
しかし、もう一つの箇所においては、私たちはこの「感じている(feeling)」とは違う関係があることを読むことができます。
ヘブル人への手紙4章15節を見てください。
私たちの祝福された主イエスご自身によって、私たちにもたらされたとても大切な節です。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情(feeling)できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章15節
新約聖書の他の箇所に、この「感じる(feel)」もしくは、「感じている(feeling)」という言葉を見つけることはできません。
それに比べ、私たちは何度も、信じる、信仰、委ねる、信頼というみことばを読んだはずです。
その通り、これらの言葉は私たちのために与えられているみことばです。
もし、「感じる」と言うことばにとらわれているのなら、あなたは自分の無知を感じなければなりません。
そして、今主イエスに語り、イエスに信頼し、そして人々の前でキリストを告白すべきです。

「イエスよ、私はあなたを信頼します。
信頼すべきあなたは私のたましいと共にあります。
飽き飽きし、疲れ果て、そして助けもない時にも、あなたは私のすべてなのです。
あなたのような方は、天においても、地においても、他にはいません。
あなたは罪人のために死なれました。すなわち、主よ、それは私のためです。」


8、私は、私の救いの働きにおいて、神の御業を見ることが出来ます。
しかし、もし、私が神の御業が私自身に効力を持つというのなら、私には何もすることがないということになります。


聖書の学びのクラスで、素晴らしい救いを得て、喜びを新たに発見したという証言をする者が起こされました。
あなたはその人の話を今までに聞いたことがありますか?
その人のこころはキリストで満たされ、彼のくちびるはキリストについて語っていました。
彼はキリストに夢中であり、キリストはその人の贖いであり、主なのです。
そのクラスのリーダーは律法的な人でした。
他のクラスが終わった時、そのリーダーは言いました。
「私たちの兄弟は「主が彼に何をしてくださった」かについて語ってくれました。
しかし、彼は大事なことを語り忘れています。
それは、彼が何のために救われたかです。
それは神の御業を、私たちも行うためです。
兄弟!神があなたを救う前に、あなたはあなたのやるべきことを行いましたか?」
救いを喜んでいた人はそのリーダーのそばですぐに言いました。
「私はたしかに行いました。
私は神から逃げました。同じぐらい早く、私の罪は私を連れ去りました。
それが私の行ったことです。
そして、神は私を捕まえるまで追いかけました。
それが私の行ったことです。」
その通りです。
あなたと私は私たちの行うべきことすべてを行ったのです。
そして、それはとても悲しいことなのです。
私たちはあらゆる罪を犯しました。
しかし、神はそのすべての者を救わなければならなかったのです。
私たちが救われた後、私たちは昼も夜も、神の恵みが働きゆえに、神への感謝を示すために働きます。

私たちには自分の罪を片付けるために働きなさいとは語られていません。
もしそうならば、この救いは、馬鹿らしく、もろく、頼りないことになってしまいます。
私はそのような救いを受けたのではありません。
しかし、祝福された真実を私は知っています。
私は堕落して、滅びる者でした。
しかし、キリストが私の罪のために苦しまれました。
その通り、キリストがそのすべてを行ってくださったのです。


9、私は必ずしも神を信頼していないわけではありません。
しかし、私は私自身が確かだというわけでもありません。
私はいまだに自分の信仰が非現実的なことを信じているのではないかと恐れています。


キリストを救い主と信じる信仰ではないように思えます。
キリストは不変なる方です。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章8節
信仰とはまさにキリストに信頼の手を置くことです。
あなたは自分自身を信頼するようにとは言わないでしょう。
あなたはその信頼を失ないながら、自分自身に良き物を求めるのですか?
すべての信頼を主イエスに置くべきです。
イエスは決して非現実な方ではありません。
そして、もしあなたの信仰がキリストで占められるのなら、すべてのことが機会と永遠のために良き物とされるのです。

イエスよ。
私はあなたに頼り、あなたに身を隠します。
罪と惨めさが積み重ねられた場所で、私は安らぐことが出来るでしょうか?
あなたの柔和で謙遜なこころの上に、私の悩むたましいは安らぐことを覚えるのです。


10、しかし、聖書は言っています。
信仰とは神からの賜物です。
しかし、すべての人が信仰を持っているわけではありません。
おそらく、私が信仰を守っているのは神のみこころではないのでしょう。


「信仰とは神からの賜物」という意味は単に神のみことばを受け取ることです。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章7節
もし、すべての者がこのように神のみことばを受け取るのなら、彼らは信仰を持ったでしょう。
しかし、悲しい事ながら、多くの者たちが神のみことばを聞き流し、疑い、捨ててしまいます。
聖霊はみことばによって教えてくださいます。
しかし、ある者は聖霊の栄光ある働きに反抗してしまいます。
他の者はみことばを聞いて、信じるでしょう。
それが信仰なのです。
それが神からの賜物であり、真実なのです。
それは神のみことばが与えられたからです。

ユダヤ人の祭壇の上で殺されるいけにえの血ではありません。
それは邪悪な良心の平和を与え、また罪のしみを洗い流すことが出来たでしょう。
しかし、キリストは天的なひつじであり、私たちのすべての罪のための捧げものとなりました。
その高貴な名と価値ある血はユダヤ人の捧げものよりはるかに優れたものです。
私が立って悔い改めた時、私は信仰によって、あなたの愛しい頭の上に自分の手を置きます。
そこで、私の罪を告白します。
私はその呪いから移されたことを見て喜び、そのことを信じます。
祝福されたひつじは喜びの声をあげ、贖いの歌を歌うのです。
アイザックワット


11、私が悩んでいるということは、私がキリストを受け入れていないことではないでしょうか?

キリストを受け入れるということはキリストをあなたの主として、救い主として、信仰によって受け取るということです。
しかし、もっと厳密に言うならば、神がキリストを受け取ったということです。
その偉大な出来事は、キリストが私たちの罪をキリストの上に置き、これらの罪のなだめのためにキリストが死なれたと言うことです。
そして、神はキリストを死からよみがえらせ、栄光へと引き上げたのです。
その完全な贖いの働きの結果が受け入れられ、キリストは神に受け入れられたのです。
このことを信じるのなら、そのたましいは神との平和の中に入れられるのです。
私は単純に神の御子を信じる信仰によって神に信頼するのです。

神にある平和とは、栄光に入れられたキリストにあるのです。
神は光であり、神は愛です。
イエスの死は、神の上にもたらした敵の物語を語ることです。


12、ある時は私はイエスに信頼し、神の前に義とされたことを信じますが、私は私の罪を忘れることができません。
毎晩、毎夜、私はこれらの罪を思い返すことがあります。
もし、確かならば、私は過去の罪を忘れることができるなら、本当の罪の赦しを得ることができるのではないでしょうか?


ああ!親愛なる悩む者よ。
あなたはよりキリストに近づく者となり、あなたの罪により深く悔い改め、いままで犯してきたこれらの罪を自分自身でより嫌うべきです。
しかし、あなたの慰めは神がこれらの罪すべてを赦されたという、祝福された知恵にあるのです。
神は「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」と言っています
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章17節
このみことばは悩むあなたの思いと苦しむあなたの前に来て、神があなたを現実にすべての罪を赦されたということを知り、あなたは神に安らぎを得るのです。
そして、再び、同じ問題であなたを苦しめることはないでしょう。
キリストはこれらの罪すべてを解決したのです。
そのことを信じる時、平和を得るのです。

罪の恐ろしい叫びは永遠に解決されました。
主イエスに栄光あれ、祝福された御名に!
どんな方法、手段にもよらずに、神は恵みを提供します。
救い主キリストは死なれ、すべての働きは終了しているからです。


13、わたしは何度もキリストのために物事を決めなければならない時が来ます。
その時、私は確信をもつことが出来ず、恐ろしくなり、あとずさりしてしまいます。


もし、その問題があなたに何か能力があるというのならば、あなたは恐れるでしょう。
しかし、あなた自身に何の力もないというのなら、あなたはその確信を持つことを可能とします。
しかし、あなたが主イエスキリストに信頼を置いた瞬間に、あなたは新しく生まれたのです。
その時、聖霊があなたの心に住んでくださり、新しい命の力が与えられたのです。
聖霊はあなたに誘惑に抵抗することを可能にし、神の栄光のために生かしてくださるのです。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章13節
これらのことすべてを自分自身で勘定してはいけません。
聖霊に任せ、聖霊には聖霊の方法があるのです。
あなたが聖霊に降参するのなら、聖霊は勝利をもって、あなたを導くのです。

主にあれば安心です。
疑いなどありません。
血の力によるのです。
神の中にキリストと共に隠されている命を破壊するものは何もありません。

14、もし、最後まで私がこの救いを保っているのであれば救われるでしょう。
しかし、私は最後までこの救いを保つことはできません。


失礼とも思いながら、聖書の物語を引用し、言わんとしている内容を変えて例えとして用いたいと思います?
もし、ノアとその洪水に述べられていることに例えられるのなら、あなたは救いを保つということをどのように考えますか?
箱舟が完成した時、神がノアに「今すぐに、鉄で出来た大きなくいを作り、箱舟のわきにそれを打ち込みなさい」と言ったと想像してみて下さい。
ノアは神の命じられた通りにくいを作り、神はノアに言います。
「あなたとあなたの家の者は来て、このくいに捕まりなさい。」
そして、ノアとその妻、三人の息子たちとその妻たちがそれぞれがそのくいの上につかまったとしましょう。
すると、雨が降ってきて、洪水がやって来ました。
そして、箱舟は水の上に運ばれようとしましたが、彼らは力を尽くして、じっとくいにつかまっていました。
神がこのように言ったと想像してみて下さい。
「もし、この大洪水が終わるまであなたがこのくいにつかまっているのであれば、あなたは救われます。」
あなたはノアの家族がこのように救われたと考えることができますか?
聖書は単純にこれとは違った救いを語っています。
ノアの家族は安全に守られて、箱舟に乗って救われたのです。
「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。」
新改訳聖書 創世記7章1節
それは、今述べられていることと、何と違うことではないでしょうか!
箱舟の中にいた者たちは、箱舟が嵐に耐える限り安全でした。
そして、すべてキリストの中にいるクリスチャンは安全なのです。
神がキリストをお立てになったからです。
自分の努力から離れて、キリストに信頼を置き、ただ、真の箱舟であるキリストの中に安らぎ、神の偉大な救いを喜ぶことを見てください。
そして、あなたがキリストをつかんでいるのではなく、キリストがあなたをつかんでいるということをはっきりと覚えてください。
イエスは言いました。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章5節
「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章10節
キリストはあなたのために死なれ、現在、あなたを守るために神の右の座に生きておられます。
そして、神はあなたをキリストの中に見ています。
「神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章7節
何か他に、より確かなものがあったでしょうか?

キリストの始められた良き働き。
その力強い御手は完成されました。
キリストの約束は、その通り、アーメンです。
それは決して失われることはありません。


15、もし、私が狭い門から入るだけだというのなら、信じようとは思いません。
私にとって、信じるだけだというのは簡単すぎる方法に思えるのです。


私たちの主のみことばは私たちに与えられるとき、良く途切れることがあるでしょう。
激しい戦いは救われるために必要だと私たちが感じることがあるでしょう。
しかし、神はそのようなことを決して意図されているのではありません。
本当に理解していない者は救われていないことを、神は私たちに理解させます。
非常に多くの人々はあてもなく、不注意にもさまよい続け、命に至る門を用心することなく通り過ぎます。
そして、彼らの意義は肉的、そして、世的な欲望を満足させることです。
救われようとする者は、自分自身を霊的な最も大切な事柄に対して目を覚まさせようとします。
まず最初に、その者はこのことを実行し、このことを理解したうえで、この狭い門に入ろうと努力するのです。
その者はバニヤンの巡礼者のようです。
彼は危険に気づき、罪の恐ろしい荷物を理解した時、彼の年をとった同行者の願いを聞き入れることを拒否し、自分の耳に指を入れ、言い聞かせました。
「命、命、永遠の命」
そのようにして、彼は滅びの町から逃れたのです。
さらに、あなたはたましいの大きな問題である和解を妨げまいと決心になければなりません。
しかし、あなたはあなたが救われるために神と戦う必要はありません。
神があなたの決心を待っているのです。
神はあなたの自分の努力を捨て、キリストにあなたの信頼を置く瞬間を待っています。
主イエスの恵みある招待を受け入れることから、あなた自身を守ろうとする必要は何もなく、その救いが確定されているゆえに、あの巡礼者の戦いに参加するのです。
主イエスはあなたのすべての必要と罪過を知って上で、あなたに主イエスのところへ来なさいと命じています。
それはあらゆるしみからあなたを洗い、あなたを天にある栄光に似合う者とするためです。
このことから離れ、絶対に戻ってはいけません。
しかし、あなたはそのすべての壁を取り除き、こころを救い主に明け渡すべきなのです。

主イエスは私に神が何をなさったか語っています。
神の愛する御子によって、カルバリ山の上で成就されました。
ゆえにあなたは救われたのです。
そこには私の働く場所はありません。
これ以上の恵みの働きはありません。


16、私には神の時を待つことができません。
神が私を救う準備が出来るまで、私には何もすることができないのです。


しかし、今が神の時なのです。
神にはっきりと私たちに語っています。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一6章2節
あなたは別の時を待つ必要がありません。
この瞬間に、神はいままであなたが救われるために何か準備をする必要を語っていません。
しかし、あなたは次のことを知るべきです。
あなたがこれらのみことばを読んでいる通りに、あなたは神のところに来ることに不適格なことです。
日々、あなたの罪はいままで犯してきた恐ろしい罪のリストに加えられ続けています。
あなたが神を拒み続けているすべての時間において、そう、神の祝福された御子を受け取りことを拒否することによって、あなたの罪過が増し加えられているのです。
あなたはあらゆる時において、神から離れ、神の愛に反抗して罪を犯し続けているのです。
なぜ、今、神の前にひれ伏し、この邪悪な記録に表わされていることを閉じようとはしないのですか。
そして、あなたの必要は永遠の命である神の贈り物を受け取ることなのです。

私はかつて赦されるために待っていました。
私が救われることが私の望みです。
待っていました。
しかし、私のこころはかたくなです。
この危険は勇敢であることを望みました。
ある時まで、わたしは神の真実を曲げていました。
私は立って、私が罪人であることを告白しました。
豊かに神の恵みが満ち溢れました。
イエスは私を完全な安らぎに引き渡しました。


17、本当は私はイエスのところへ行きたいのですが、どのような方法で行けばよいのかわかりません。

このゴスペルの単純な招待につまずいているのは、とても奇妙なことです。
イエスはこの地上にいた時のように、神の人柄を持った人間として、今も生き、愛しています。
私たちがイエスのところへ行くように、イエス自身が宣言しています。
あなたは何から離れているのいるのか知っていますか。
その時、あなたは確かに、福音と反対のことを行っています。
決して、イエスのところへ行くことは難しいことではありません。
祈りにおいて、あなたのこころをイエスのところへ連れてゆくことができます。
イエスに問いかけて下さい。
あなたは罪人であり、そのためにイエスは死なれたのです。
今、あなたは「来なさい、すべてあなたを受け入れる準備は出来ている」という、イエスの栄光ある招待を受け入れるべきです。
信じるのなら、イエスはあなたを受け入れてくださいます。
それは、イエスはご自身の言ったみことばを、実行し、いつも守っているからです。
あなたは賛美歌の著者である、シャーロット・エリオットの話を聞いたことがあるかもしれません。
彼女が若い時、彼女は自分のたましいの問題について、悩みわずらっていました。
しかし、とても無口でしたが、ある時、他人から助けを求められました。
ある時、フランスの牧師が彼女をたずね、彼女に直接、問題を投げかけました。
「あなたはイエスのところへ行きましたか?」
彼女は「私はイエスのところへ行きたいのですが、どのように行けばよいのか知りません」と返事をしました。
その牧師は簡単に答えました。
「あなたは正しくイエスのところへ行ったのでしょうか?」
彼女は涙を流し、彼女の部屋に逃げてしまい、その後で彼女のたましいは救われたのです。
彼女は、この彼女の持つ表現にたどり着き、良く知られた以下の引用の詩を書いたのです。
あなたにはこのような詩を書くことが出来るでしょうか?

私は来ました、来ました!
私は正しく来たのです。
あなたの愛は計り知れず、すべての防壁を壊しました。
今、あなたのところへ、その通り、ただあなただけが、神の小羊です。
私は来ました、来ました!


18、私が救われた証拠を得るまで、私は祈ってはいけないのでしょうか?

聖書の中にどこにも、自分たちが救われるために祈らなければならないと語られている人々はいません。
その目覚めた、そして悩むたましいの自然な表現が祈りであることは真実です。
しかし、聖書の中に「祈りを通して」救われると言われている箇所はありません。
では、罪を自覚した罪人には何が要求されているのでしょうか?
福音を信じることです。
あなたが家に帰り、疲れ、空腹であったと仮定してみてください。
あなたの妻に「さあ、私に出来るだけ早く夕飯を食べさせてください」と言ったとしましょう。
彼女はすぐにそれに応じ、食卓に着き、あなたを呼び、あなたは彼女が提供した物を目の前にします。
しかし、それを食べようとはせずに、真剣にあなたは「食物を下さい」と彼女に主張し、嘆願したとしましょう。
彼女はあなたをどのように考えるでしょうか?
そして、神の考えは、飢えている罪人のために福音のごちそうを並べ、「食事に来る者」すべてを招待しているのです。
しかし、招待する者の声に聞き従う代わりに、人間はひざまつき、神の哀れみと恵みと主張します。
そして、彼らの救いである生きているパンを提供している祝宴とその招待を受け取ろうとはしないのです。
聖霊の証言は、みことばあってキリストを受け取るこれらの者は、単に救いを喜んでいるということです。
それを信じる者は、神のみことばによって与えられる聖霊の証言を受け取っているのです。
(ヘブル人への手紙10章15節参照)
その人自身がその証言をしています。
それはその人のこころに真実が受け取られているからです。
「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章10節
その人は聖霊が来て、内住していることを信じ、聖霊の証言をこころから喜びます。
その証言とは幸せだと感じることではありません。
それはみことばを通して与えられる聖霊の証言です。
私たちはこの証言が問題なしに喜びと楽しみを、私たちにもたらすことを信じています。
私は、私が幸せだと感じているから救われているとは信じていません。
しかし、私が救われていると知っているから、幸せだと感じるのです。
年老いた福音主義者が少年のように何度も言っていたことを私は知っています。
「信じることは根が実を感じることです。」
これは良く出来た表現です。

その平安は、私の救い主がくれたものです。
その平安は前には知らなかったものです。
そして、その方法によって私は明るく成長しました。
私が救い主をより学んだ時から......


19、時々、私は私の恵みの日を忘れて、罪を犯したことを恐れています。
私は主を見つけることが出来ずに、長い間主を求めてはいません。


恵みの日から離れて罪を犯したものは誰もいません。
あなたが救われることが神の願いだからです。
この欲望は常にあなたに注がれているのです。
もし、あなたが神を求めているのなら、それは神があなたを求めている証拠なのです。
しかし、あなたは神を求めても神を見つけることが出来ないということを語り、それが現実に何を意味しているのかを尋ねています。
神は隠れることなどはせずに、失われた羊を探す良き羊飼いのように罪人を愛するために来ているのです。
ある日、少年に尋ねました。
「ぼうや、君はキリストを見つけたかい?」
少年は驚いたような顔をして答えました。
「なぜ、そんなこと聞くの?私は自分が失われているということを知りませんでした。
それは、私ではなく、神が私を見つけたからです」
その驚くべき告白は確かです。
旧約聖書の時代、神は預言者を通して言われました。
「主を求めよ。
お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。」

新改訳聖書 イザヤ書55章6節
そして、福音の真実を語るには不十分ですが、これらのみことばには、いまでも適用できる真実があります。
イエスは言いました。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節
あなたは失われていますか?
「立ち止まって、主の救いを見てください。
正しく立ち止まり、あなたの心を悔い改めた罪人として神のところまで持っていってください。」
そして、あなたの恵みの日から離れて罪を犯したことについて、キリストは言っています。
「だれでもわたしについて来なさい。」
あなたはこの「だれでも」という言葉に含まれているでしょうか?
あなたの中でそのことが取り入れないということが証明されるのなら、あなたは今でも神の恵みがあなたに到達できないところにあります。
あなたのたましいの敵の偽りの声を聞いてはいけません。
その敵はあなたに希望を失わせるのです。
しかし、神の寛大な招待に注意してください。
神の招待は「道であり、真理であり、いのちなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節
神は今、あなたがイエスの名にあって信じることを命令しています。

そして、いま、あなたが神を求めるのなら、愛を持って、神があなたを探してくださるのです。
その時、私は罪と苦悩の中をさまよい、神から離れていました。
神は私の耳を開き、神の召しを聞くように御命じになりました。
彼を私を探し、私を見つけました。
その方はキリストであり、すべてをなして下さったのです。


20、しかし、私はどのように自分のたましいが救われたという強い確信を持つ信仰を持つことができるのでしょうか?

たましいを救うのは信仰ではありません。
唯一なる神は信仰を通して救われることを定めました。
神は信仰を手段として義とされようとするのは真実です。
しかし、現実にはキリストの血のよって義とされるのです。
イエスの救いにあって、最も簡単なことを求めたのです。
自分に対する最も強い信仰、もしくは良い働き、もしくは教会の中にいること、もしくは儀式を行うこと、もし、あなたがこれらのことに救いを求めるのなら、あなたは失われていて、もし確信を得たとしてもすぐに失ってしまいます。
ニュージャージー、プレーンフィールドにいるジェームズ・パーカー氏はある病院を訪ねました。
その時に看護婦は白いついたてに囲まれているベッドを示し、ささやきました。
「この貧乏な人は死にそうな状態です。
ある教会の聖職者がここに来て、最後の儀式を行いました。
この人はもう長く生きることはないでしょう。」
パーカー氏はついたての中に行きたいと頼み、その許可は与えられました。
そして、パーカー氏はその死にそうな人を見下ろし、その人の胸の上に十字架像があるのを見て、かがんで、その十字架像を取り上げました。
その病人はパーカー氏の目を苦しみながら見上げ、ささやきました。
「それを返してください!
私は胸の上にそれを置いて死にたいのです。」
その訪問者は十字架の上にいる人物を指して、力を込めて言いました。
「彼は素晴らしい救い主です。」
その病人は答え「その通りです。私はその十字架像を愛しています。
どうぞ、その十字架像を私に返してください!
私の希望です。その十字架像が私が死ぬのを助けてくれるのです。」
パーカー氏は答えました。
「十字架像ではありません。
十字架の上で死なれた唯一の方、主イエスがあなたの救いのために死なれたのです。」
その人は当惑したように見えましたが、やがて顔が明るく見え始め、そして言いました。
「私は十字架像ではなく、私のために死なれた方であることがわかりました。
私はいままでそのことを理解していませんでした。
私は本当にいま、そのことがわかりました。」
信仰がその人のたましいの上ではじけたのは明白でした。
パーカー氏は十字架像と真実な救いを入れ替えたのです。
彼は短い祈りを捧げ、そして、去ってゆきました。
しかし、数分もしないうちに、パーカー氏はその人の体が病室から運び出されるのを目撃しました。
後に、パーカー氏はそのことを私に語ってくれました。
神が神の御子の働きをこのように考えていることを私は知っています。
それは神が天に入るすべての者に持っているということです。
その者にキリストを与え、神はこの地上において、天国に入る最も簡単な理由として、信仰を求めておられるのです。
それは祝福すべき真実です。
信仰とは十字架の救いです。
それは最も力がなく、弱々しく見える信仰です。

そこにある命は十字架につけられた唯一の方を見上げます。
この瞬間、そこにある命はあなたのためです。
見上げて下さい。
罪人はキリストを見上げて下さい。
キリストはあなたのために釘付けにされ、キリストの中にいる者を救ったのです。


21、私は私が救われるために律法を守らなければならないのでしょうか?

律法を守る!
あなたはなぜ、すでにいままで多くの人々が何回も犯してきた神の戒めを守ろうとするのですか?
「十戒」を注意深く読んで見ましょう。
文字通りに、もしくは霊においてこの「十戒」を行ったとしても、この戒めはあなたに解決を与えることはできません。
一つずつ学んでゆきましょう。
そして、神がこの戒めを現した理由を、真正面から正直に語る必要があるのです。
聖書にはこうあります。
「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章12節
同様に、彼らにはこのようなことが宣言されています。
「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章10節
私たちはこのことについて、まじめに考える必要があるのです。

a、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章3節
神はまぎれもなく、独占されるべき方です。
神は礼拝の対象となるべき方です。
しかし、あなたはあなたの人生において、この地位を神に捧げていますか?
あなたの愛とあなたが礼拝の対象とすべき思いを、ほかの多くの神々に分け与えていませんか?
あなたには、いままでにこのようなことがありませんでしたか?
もし、そうならば罪を認めるべきです。
あなたの罪は数えられました。
次の戒めに進んでみましょう。

b、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
....それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」

新改訳聖書 出エジプト記20章4〜5節中略
偶像崇拝全体は、あなたは決して行ってはいけない罪であり、実際に行われるべき礼拝に悪影響を及ぼすことです。
しかし、聖書の中に出てくる何人かの者たちが、彼らの心の中に偶像を置いたのを私たちは読んだことがあるのです。
そして、これらは神が忌み嫌うこととして、偶像を木や、石や、金属で作ったのです。
これらの名前は何でしょうか?
自分、財産、名声、楽しみ、もっとたくさんの名が付けられました。
その偽の神々の熱狂的信者は真実な異教徒の偶像崇拝者です。
彼らは刻み、輝くそのシンボルとして、その前に身をかがめるのです。
あなたはこのように邪悪な偽の礼拝者ですか?
もし、そうならば罪を認めるべきです。
真実な、生きている神の前に恥をかかせたことをわびるべきです。
そして、「邪悪だ!!」と叫んでください。

c、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章7節

この邪悪な冒涜の習慣はどのくらい普及しているでしょうか!
「決して誓ってはいけません。」
新改訳聖書 マタイの福音書5章34節
これは聖書にある命令です。
この一行の命令の通りに、罪を犯さずに来た者は果たしているでしょうか?
覚えて下さい。
それは常に悪だというわけではありません。
主の御名を汚す邪悪な言葉に対して言われていることです。
神に対する当然の敬意と尊敬無しに、その御名が不注意に、軽々しく使われる時、その戒めが破られ、真実に、誓いと呪いに結び付けられるのです。
そして、呪いによって汚されないという考えをもって、多くの者が誓いました。
あなたは正直にこの第三の戒めに直面し、叫んで下さい。
「誓うことは罪ではないと....。」

d、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
新改訳聖書 出エジプト記20章8節

神は人の持つ時間の七分の一を要求しています。
神は6日を労働と理にかなった楽しみのために使います。
神は1日を神のために取っておくことを要求しました。
「安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。」

新改訳聖書 マルコの福音書2章27節
ここで私たちにはっきりと語られています。
何と私たちは恩知らずなのでしょうか?
神の定められた聖日を無視することは、神の権威に反行する人間のこころの証明なのです。
あなたはこのことについて、あなた自身に何か言うことができますか?
あなたは有罪ですか、無罪ですか?
その答えは永遠の義の法廷で答えられるのです。

訳者注)
読者の方々には理解されていると思いますが、これは律法の説明です。
律法はイスラエルに与えられていることで、キリストを救い主と信じる教会に与えられていることではありません。
安息日は週の最後で、土曜日です。
クリスチャンには主の復活を記念して、日曜日を礼拝日としています。
著者は安息日を通して、聖日(日曜日)の大切さを訴えていると理解しています。


e、「あなたの父と母を敬え。」
新改訳聖書 出エジプト記20章12節

終わりの日の特徴ある罪の一つに「両親に従わない者」があります。
新改訳聖書 テモテの手紙第二3章1節
私たちのこころはいままで、どこにあっても外見をつくろおうとします。
常に、忠実で従順な子供がどこにいるでしょうか?
神は、この地上で養ってくれた父と母に対する服従が、私たちの神への服従の証しとなることをテーマとして考えています。

私たちは神の中にある完全を追い求めてきました。
しかし、わずかながらにも離れてしまったのではないでしょうか!
あなたはあなた自身と神に対して、完全に正直であるべきです。
あなたがいままで従順ではない、強情な子供だったのなら、あなたの誤った行いを義としようと試みてはいません。
しかし、ここで、あなたは自分の邪悪さに気付きますが、罪人として悔い改める場所を得ることができるのです。

f、「殺してはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章13節

決して、あなたの手は人間の血で汚されていないかもしれません。
しかし、ヨハネの手紙第一の中にある箇所で「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」と言われています。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章15節
この高く、聖い基準によって裁かれます。
この者はここで有罪とされているのです。

訳者注)
ここで「兄弟を憎む者」とは誰でしょうか?
イエスキリストを救い主と信じ、罪の赦しを得たクリスチャンでしょうか?
いいえ!この箇所の前でヨハネは言っています。

「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章9節
前にも説明されていたことですが、アイアンサイド氏は適切に聖書原語に忠実にこのような訳を加えています。
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を習慣的に行うことは出来ません。
習慣的な罪を行っている者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」
私たちは習慣的に兄弟を憎み続けることが出来ないのです。」
ここでは習慣的な罪を示しているのです。(「確信を得て、態度を変える」の欄、参照)
もし、私たちが罪の中を歩み続けようとするのなら、神の子供ゆえにむちが与えられ、罪から遠ざけられるのです。
ですから、ここで言う「兄弟を憎む者」は未信者を指しているのです。
しかし、もし、私たちがこの律法という、高く、聖い基準に自分を照らしだすのならば、私も罪人であることが十分に自覚できるはずです。


g. 「姦淫してはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章14節

この汚い罪から、自分を身体的に清く保とうとする多くの者たちがいますが、心の中の思いにおいて、必ずしも潔白と言える者は少ないと思います。
そして、主イエスは神の観点から見て、淫らな姦淫の罪があることを語っています。
このことはこの律法の基準を高く上げる事になり、生活全体の基準をも高く上げなければならないでしょう。
もし、行い、もしくは思いにおいて、いままであなたのたましいを汚したことがあるのならば、弁解することはできません。
もし、弁解するのならば、あなたを過去の犯した罪に対する心理学者にするだけのことです。
しかし、イエスの足元にふれ伏した、ルカの福音書7章の中に出てくる女性と、ヨハネの福音書8章に出てくるもう一人の女性は、確かにこの罪を犯したのです。
しかし、彼女らはイエスの言うことを聞いたのです。
「あなたの罪は赦されています。」
新改訳聖書 ルカの福音書7章48節
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章11節

h、「盗んではならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章15節

私たちは盗むということを考える時、巨額な金額や貴重品を盗むことを考えるものですが、
しかし、その者は現実に家に強盗に入るとしても、大金を使い込んだとしても、現実にはつまらないものを盗んでいるに過ぎないのです。
盗むことが罪だというよりも、その者は自分の義を盗んでいるのではないでしょうか?

i、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章16節

いままで、あなたのくちびるは嘘で汚したことはありませんでしたか?
私たちは「悪者」について語られています。
「悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。」
新改訳聖書 詩篇58編3節
このことは私たちがたびたび注意すべき事柄です。
すべての子供たちに真実を話すことを教える必要があります。
誰も今まで嘘をつくことを学んできた者はいません。
「悪い者に、どうして良いことが言えましょう。
心に満ちていることを口が話すのです。」

新改訳聖書 マタイの福音書12章34節
したがって、それはうそをつくのは「くちびると習慣」なのです。
勇気を出して「私には罪がありません」と言ったとしても、その言葉は数えられ、それに答えるために、別のうそを多くのうそに付け加えているのです。

j、「欲しがってはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章17節

このことは禁じられていることで、自分を義とするタルソのサウルがその罪深い性質を自覚することです。
サウロは外見的な戒律については、何の違反もないことを主張できる者でした。
しかし、サウロは自分自身が奴隷であることがわかり、自分自身を制して欲しいことを神に望んだのです。
「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙7章10節
あらゆる種類の肉欲(むさぼり、欲望、悪意)がサウロの中で働き、自分が助けようのない奴隷であることを理解したのです。
サウロを縛るくさりを、自分では壊すことが出来ないのです。
あなたは自分が同じ立場にいることを見つけますか?
その時、律法の声とその方法に導かれ、その権威を知るのなら、あなたが罪の下にいることを認めさせられるのです。

さらに、この違反は罪の意識を生じさせます。

今、できる限り、このことについて慎重に考えて見る必要があります。
あなたはこれらの十戒の言葉を数えてゆくのなら、この言葉のすべてを犯したとはいえないでしょう。
しかし、ヤコブの手紙2章8〜11節で聖霊の語っていることを覚えておくべきです。
「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。
しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。
そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」

新改訳聖書 ヤコブの手紙2章8〜11節
そのくさりはもっとももろい連結よりも強くはないことは、たびたび認められてきたことです。
では、あなたが十戒のくさりによって縛られ、絶壁の上に立たされていたと仮定します。
あなたが谷底に落ちる前に、どのくらいの戒めをあなたにきつく言いつける必要があるでしょうか?
そして、もし、あなたが戒めの一つを破り、罪を犯すのならば、あなたは律法によって罪に定められ、呪いの下に置かれるのです。
神の律法は救われた人を決して呪いの下に引き渡すことは出来ません。
律法は罪を誇張し、人をより罪深くするためです。
そして、罪過(違反)の特徴を教えます。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」

新改訳聖書 ガラテヤ人への手紙3章13節
キリストは人となり、律法の下に生まれました。
彼は律法に完全に従い、律法の違反における罰則は彼の上にはありませんでした。
しかし、彼は十字架に向かい、私たちのためにその呪いに耐えてくださったのです。
それはキリストに信頼する私たちが、神の正しい律法の裁きから永遠に自由とされるためなのです。
「御子を信じる者はさばかれない。
信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章18節
「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章1節

律法から自由にされるとは、何という幸せでしょうか。
イエスは血を流されました。
そこには赦しがあります。
私は律法によって呪われ、堕落によって傷つきました。
キリストはすでにそのすべてから、私たちを贖いだしたのです。


22、私は他の人々にした多くの罪に対して謝罪することができません。
ゆえに、キリストの前に行き、赦しを得ることもできません。


「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書5章24節

訳者注)文字通り、これは律法の下にあるユダヤ人に対して言われていることです。
しかし、私たちに適応するべき内容も存在しています


あなたが他の人に行った罪について注意を払うことは良いことです。
しかし、私たちクリスチャンには聖書のみことばの中に、まず最初に仲直りしなさいとはどこにも語られてはいないのです。
したがって、私たちが救われた後、ゆがんだ事柄を他の人々がまっすぐにすることを必要としている場合、私たちが全力を尽くしてそのことを求めることなのです。
それはすでに救われた使徒がこれらのことを次のように書いています。
「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。
かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙4章28節
十字架の上で悔い改めた泥棒について考えて見ましょう。
確かに、彼は仲間に対して悪いことをたくさんしてきたでしょう。
それでも、彼がイエスを信じた瞬間に救われたのです。
この場合、彼が犯してきた犯罪に対して、仲直りも、謝罪もすることは出来ませんでした。
彼の手足は十字架に釘づけにされました。
彼が行ってきた多くの悪を埋め合わすことは不可能でした。
しかし、三本の十字架の中央に架けれた、聖く苦しむ御方のその力によって、彼は十分に、そして無償で赦され、パラダイスに似合う者とされたのです。
彼には生きることができ、そして死刑台から降ろされることが認められたのなら、疑うことなく、彼は現実に悔い改めことを求めて人生を過ごすことになったでしょう。
しかし、このこととは全く別に、彼は救われたのです。
それは主イエス・キリストの和解の働きを土台としているのです。
あなたは全く同じ方法において救われたのかもしれません。
その時、キリストにあって新しく人として生まれたのです。
あなたは神の栄光のために、利己主義ではなく、献身的に生きるように励み、それによって、あなたの神への愛が証明されるのです。
そして、もし、あなたが人間関係において正しく悪を片付けることができるのならば、あなたは自分自身の中に喜びを見つけることができるのです。
そして、あなたは他の人が救われる恵みの目撃者となるでしょう。
しかし、あなたが過去の出来事をいくらきれいに清算しても、あなたのたましいの救いの根拠にはなりません。
神があなたを救うお手伝いは、あなたには出来ないのです。
それはただキリストの働きのみ、認められる事なのです。

下の方へあなたの致命的な恥ずべき行為を降ろしてください。
キリストの足元に降ろしてください。
キリストのあって立って下さい。
ただキリストにあってのみ....。
そこには栄光ある完成があるからです。


23、私がクリスチャンであることは謙遜な希望です。
しかし、私は確かにクリスチャンであるという勇気もありません。
裁きの日に至るまで、私にはどのくらいクリスチャンでいられるか知ることができません。
それにしても、裁きの日は遅すぎます。


もし、この問題がその偉大な神の議会の前に解決されていないならば、その時あなたは取り消しのない裁きに入れられ、永遠に失われます。
おそらく、あなたは偉大な白い御座に裁きの時に誰が裁かれるのか誤解して苦しんでいるのでしょう。
その裁きは罪人が裁かれるのです。
その時、すべてキリストから離れて生きている者と死んだ者が、彼らの働きに合わせて裁かれます。
クリスチャンはその御座の前で裁かれることはありません。
このことについて私たちの主イエスは言っています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節
私はこの節についてはダービー訳が好きです。
それは私たちのRV(KJV)訳よって確認できます。
RV訳では"shall not come into condemnation" 「罪の宣告に入る(来る)ことはないでしょう」となっていますが、ダービー訳では"cometh not into judgment"「裁きの中に来ていない」となっています。

訳者注)
原語では
eiv krisin ouk ercetai--「裁きの中に来ていない」(訳者訳)
新改訳聖書では「さばきに会うことがなく」となっています。


ここに栄光ある真実が現されているのです。
主イエスの中にあるクリスチャンは罪のために裁かれることはありません。
それはキリストがすでに彼らのすべて罪の裁きを受けられたからです。
ゆえに、信仰によって、救い主として神の御子を受け取るすべての者を、神が無償で、完全に義とすることが出来るのです。
もう一度、上記のみことばを見てください。
わたしのことばを聞いて、信じる者は、永遠のいのちを持っているのです。
それは現在、私たちが持っているのです。
ゆえに「イエスを信じ、永遠の命を持つことは私の希望です」と言うことは現実には不信仰です。
あなたが神を疑っている時の謙遜について話しているのではありません。
キリストと彼のみことばを得て、疑うことなく永遠の命はあなたのものなのです。

しかし、私はまったくふさわしくないのです。
しかし、疑ってはいません。
イエスは来ました。
しかし、彼は私を追い払うようなことはしません。
イエスを信じています。
永遠の命を持って、福音を叫びます


24、私が救われているという事を知ることが出来る前に、まずバプテスマを受けなければならないのでしょうか?

あなたがバプテスマを受けなければならないということは適切なことであり、正しいことです。
しかし、バプテスマはたましいの救いをもたらすものではありません。
そのことをペテロは救いの型として私たちに語っています。
ちょうど、旧約の時代におけるノアの箱舟の救出の時のようです。
しかし、私たちには明確に語られています。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章8節
ピリピでの救いを求めた看守は明確な質問をたずねました。
「救われるためには、何をしなければなりませんか。」
新改訳聖書 使徒の働き16章30節
そこには明確な答えがあったのです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
新改訳聖書 使徒の働き16章31節
バプテスマは信じた後に行われたのです。
それは神の定められた方法であり、キリストを主として救い主として告白することです。
どうしてもバプテスマを受けることの出来なかった多くの人たちは救われました。
もう一度、悔い改めた泥棒について考えて見てください。
神は罪人が救われるために二つの方法を持たなかったことを確信してください。
その時、イエスを信じるのなら、泥棒を救った同じ恵みがあなたをも救うのです。
キリストの血だけがあなたのすべての罪を清めるのです。
少し混乱するかもしませんが、バプテスマに関する節が多く存在しています。
しかし、明確な事柄の上にあなたのたましいはやすらぐはずです。
明確な声明が恵みによる救いについてなされています。
あなたが聖書を学ぶ時、その当惑した部分は聖霊の導きによりはっきりしてくるでしょう。
キリストのバプテスマは死からの救いを基礎をしているというのが聖書の見解です。
主イエスよ、私たちは覚えます
あなたのその悩むたましいを...。
その時、あなたの愛は深く、その波はあなたの上でうねっています。
死の深い水の中にバプテスマされ、私たちのためにあなたの血は流されました。
私たちのために栄光の主は、死者と共に数えられました。

25、もし、私が確かに正しい教会に所属することが出来るなら、私はこの救いの保証を感じることができるのでしょう。
そこには違った教会がたくさんあり、私自身が混乱し、ダメになってしまいます。
教会は安全の箱舟ではありません。
教会は主イエスを信じる、すべて者たちのあつまりです。
ゆえに、その者たちは聖霊によって一つの体の中にバプテスマされる(入れられる)のです。
これはいかに古く、尊厳を持つものかもしれませんが、単なる組織ではありません。
あなたが(地上にある組織としての)正しい教会の中にいるのならば、確かにあなたは安全です。
救いをその教会に信頼を置くのなら、あなたは永遠に失われるでしょう。
あなたの信頼は教会のかしらである、復活したキリストに置かなければなりません。
彼はただ一人の救い主です
すべての教会的な見栄は無益です。
いろんな種類の教会のメンバーシップがありますが、すべて価値のない欺きなのです。
キリストだけが信じる者をすべての裁きの嵐の中を安全に運ぶことの出来る箱舟なのです。
あなたがたとえどんな名称に目を向けたとしても、あなたがその名称に救いを結びつけるのなら、あなたは決して救いを見つけることはありません。
それでも、もし、あなたがキリストのところに来ることが出来たのなら、始めてあなたはキリストにある人々と交わりを楽しむことが出来るのです。

私はあなたの支配される場所を愛しています。
それはあなたの住む家、教会です。
私たちの祝福されたあがない主が、その貴重な血をもってその教会を救ったのです。


26、私はイエスが私のために死んだと信じています。
しかし、私が救われたと言う事が怖いのです。
それは私が神を愛するべきだと知っていながら、神を愛していないことを私は知っているからです。


私は神を愛されるべき方であるゆえに、誰もが神を愛しているのか疑問に思うことがあります。
しかし、それはあなたの愛に対する思いについて、重大な間違いを犯していると言えます。
というよりも、あなたはキリストの十字架にあって表された、あなたへの驚くべき神の愛を喜べば良いのです。
それは年をおいて、あなたのために神のなさった御業を覚えてゆくものだからです。
私たちは時々、愛が愛を生じると言う事があります。
このことは神の愛について、とても真実なことと言うことが出来ます。
あなたは神の愛に占領され、あなたの心は神の愛に応答します。
ゆえに、あなたはこのように言うことが出来ます。
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章19節
あなたのこころの中にあることを見てください。
信頼の基礎は、停止した船の中にあるいかりを投げ込むようなものです。
そのいかりを船の外に投げ込みます。
あなたの悩み、戸惑う大きなこころの海の中に、あなたは大きな岩をつかむまでそのいかりを投げ込みます。
キリストだけが岩なのです。
そして、彼は罪人への無限の神の愛を現しているのです。
以下に書かれた詩は著作者ははっきりしていません。
しかし、最も祝福された真実です。

インクを持ち私たちは海を満たすことが出来ます。
羊皮紙の世界を作ることです。
すべての草の葉はペンです。
そして、すべての人の職業は筆記者です。
乾いた海の乾いた世界の上に神の愛を書くためです。
しかし、私がどんなに書いても聖書の巻物に入れられることはありません。
それでも、私の神への愛は空の隅々まで広げられるのです。


27、すべてが順調な時、私は確信を感じることがあります。
しかし、他の他の時には震えることもあります。
私が間違っているのではないかと恐れているのです。


もし、あなたがイエスがあなたのために死なれ、再びよみがえったことを信じているのなら、その確信について間違いはありません。
もし、あなたが聖書のみことばにあってキリストに捕らえられ、そして、平和と赦しのためにキリストのところへ行くのなら、その確信について何の間違いもありません。
もし、あなたがあなたのこころをキリストに開くのなら、彼はあなたに語った通りに来てとどまってくださります。
その確信について何の間違いもありません。
神はこの基本的な事実に変更を加えることはしません。
あなたは震える必要がありません。
それは嵐の夜、コーンウォールの沖合で岩にぶつかって座礁した船の物語です。
すべての方法が尽きました。
しかし、アイルランド人である一人の若者は、そびえ立つ巨大な岩棚のゴツゴツした斜面に波によって投げつけられてしまい、助かるためのすべての方法が尽きてしまいました。
若者は何とか避難する場所を見つけ、朝を迎えました。
浜辺の上を監視していた人は望遠鏡を使って彼を見つけました。
そして、彼はボートを出し、こいで、若者のところにたどり着きましたが、若者は病と風にさらされていて、まさに死と隣り合わせの状態でした。
彼は慎重にボートの中に若者を運び入れ、ボートを岸に付けました。
強壮剤が若者に与えられた後、彼は若者に尋ねました。
「あなたはこの一晩中吹き荒れた嵐の夜、岩の上で震えてはいませんでしたか?」
若者はアイルランド人らしく明るく答えました。
「震えていた?確かに私は震えていました。
しかし、私のいたこの岩は、この夜一度も震えたことはありませんでしたよ!」
もし、あなたがキリストに信頼するのなら、あなたは岩の上にいます。
その岩は固く、安全なので動くことがありません。
完全に自分自身から目を離し、単純に神のことばだけを信頼してください。

暗さがイエスの愛しい顔を隠しおおう時、
私はイエスの変わることのない恵みを信頼します。
どんなに激しく、嵐の風の中にいようとも、
強固な岩であるキリストの上に私は立っています。
すべて他の者が沈みゆく砂の上にいようとも....。


28、私は私の救いについて、とてもはっきりした確信を持っていました。
しかし、ある時、私はその確信を再び失ってしまいました。
なぜ、これらの暗い期間がやってくるのでしょうか?


これらの暗い期間が来ることについて、いろいろな理由があるでしょう。
もっとも偉大な聖徒たちは、同じ経験について語っています。
彼らは大きな精神的な疲労と肉体的な欠点によって、おそらく打ち負かされたのでしょう。
私たちののたましいの敵対者は、常にそのような状態につけこむ準備ができています。
そして、今までずっと、私たちがこの確信に完全に忘れてしまうことを求めてきました。
私たちが神の明確な約束に頼るのなら、私たちの霊的状態は健康であり、強いのです。
年老いた牧師によって語られる本当にあった物語がここにあります。
彼は生きている間、はっきりと力をもってこの福音を語っていました。
しかし、彼は疑いと不安定な状態によって、自分自身が大きな悩みの中にあることがわかりました。
そして、彼はその時、苦しみました。
彼はその問題を妻に告げ、彼の注意をヨハネの福音書5章24節に向けさせました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節
彼はうれしさのあまり、笑いだし、このように言いました。
「なんて不思議なことでしょうか!
私は長年、このことを自分自身に語ってきたのに、ずっとこのようなみことばを私は忘れていました。」
その後、私の妻は私の部屋に来て、ベッドの上で休んでいる年老いた夫を見つけ、寝台の足元で聖書を開きました。
彼女は「あなたはいったい何をしているのですか?」と叫びました。
彼は答えました。「闇の君主であるサタンが、再び私を求めてきました。
そして、サタンはこの部屋の中で最も暗い場所に隠れようとしましたが、私はサタンのわなを捕らえました。
ベッドに下にいたサタンに私はヨハネの福音書5章24節を示しました。
すると、サタンはその瞬間、私を悩ませようとするのをやめたのです。」
この物語が示している人間の持つ精神的な欠点を、私たちはよく理解することが出来ると思います。
しかし、それは祝福された真実の原則なのです。
たましいの敵対者であるサタンがあなたの信頼を打ち壊すために あなたに向かって来る時、神がサタンに何と言っているのかを示すのです。
しかし、そこには他の理由があるのです。
それはあなたがかつて喜んでいた祝福された確信を失っているからです。
使徒ペテロは、ペテロの手紙第二1章9節において、そのことを示しています。
前の説において、彼は霊的な成長、クリスチャンは「あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加え」ることの重要性を強調していました
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章5〜7節
そして、ペテロはもし「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」と語っています。
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章8節
しかし、一方ではクリスチャンがこれらのことを怠るのなら、神への信頼と、神の祝福を期待することは出来ません。
そして、私たちにはこのように語られています。
「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章9節
注意してください。
その者は自分の古い罪から清められました。
しかし、彼は怠慢と不注意のゆえにこの確信を失ってしまったのです。
過ぎ去った日々の祝福が彼の記憶から遠ざかってゆきました。
クリスチャンの命は決して静的とは言えません。
その命は恵みにあって成長するか、もしくは堕落と悪化のどちらかです。
「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。」
新改訳聖書 箴言14章14節
その者は神と共に歩むことができずに、自分が吹き流されてしまうことを許しています。そして、彼には救いの喜びは全く失われています。
この問題について吟味してください。
もし、あなたに心当たりがあるのなら、あなたの聖書を学ぶことについて、そして祈る者として生き方について、恵みという言葉の使い方において、軽率だったのです。
神にこれらのことをすべて告白し、これから神と共に歩むことを熱心に求めるべきです。
そうするならば、あなたのクリスチャンとしての個性はますます強い者とされてゆくでしょう。
そして、一番最後に「もし、あなたの人生において、喜びと、あなたのの救いの確信が奪われたことを見逃してしまい、その罪をあなたがいくらかでも知るのなら、そのことをを私に思い出させてください。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
新改訳聖書 詩篇66編18節
時に、キリストと共に喜びに進む多くの者が、その後に罪にもて遊ばれ、神の聖霊を悲しめる事へ捕らえられ、そして導き入れられることがあるのです。
それはキリストにあって受け取った神の知識を失ったからです。
あなたの命にあって何も告白されていない罪がないことを確認してください。
あなたには隠れた罪が何もなく、その問題をいい加減に扱っていないことを確信しています。
それはあなたにある聖霊の力を飲み干し、神との親しい交わりを妨げるのです。
あらゆる種類の世にある肉的な喜び、あなたのクリスチャンの責任として不誠実さ、不適切な軽率、こころに抱いた悪意、もしくは他の人々への不快な思い、これらすべて、いやそれがわずかであっても、あなたにある確信の理解を破壊するために数えられているのです。
もし、これらのいくつかの悪があるならば、神の面前ですべてがあらわにされます。
思い出してください、聖霊は言っています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章9節
誘惑者の言うことを受け入れてはいけません。
それはあなたは悪い習性から離れるために無力だからです。
思い出してください。
それはあなたがその力を持っているかという問題ではありません。
しかし、あなたが正直に悪い行いを悔い改め、あなたの付きまとう罪を克服する神の助けを得るために主へと立ち返るのです。
あなたのために神が証人となってくださるのです。
しかし、あなたは私たちの主イエスキリストを通して神の中に生きているのです。
聖霊があなたを通して働いて下さるのです。
あなたの悪に傾きやすい性質に対して、あなたは勝利し続けているのです。
そして、あなたを救った栄光ある神へ勝利して生きることがあなたに可能となったのです。


2、勧めのことばを締めくくりにあたって

今、あなたの問題が難しく、前のページですべて触れられたわけではないと、私は理解しています。
しかし、たとえ何があっても、あなたが救われたというはっきりとした確信をあなたは守る必要があります。
私はあなたが絶望してあきらめることがないようにお勧めいたします。
そして、このような知識はあなたのために書かれたのではないと簡単に結論付けないでください。
あなたのこころの状態がたとえどうであっても、あなたの良心の問題が何であっても、あなたの特殊な悩みが何であっても、そこには神の聖いみことばがあり、確実にあなたの状態に対処するように設計されているのです。
あなたがその問題を神と共に解決せずに、あなたの個人的な救い主として主イエスキリストを得ようとするのなら、聖霊に信頼し、日々聖書から探し、読みながら祈り、考えて下さい。
そして、神を見上げる時、神ご自身がすべての必要を教えて下さるからです。
「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」
新改訳聖書 詩篇25編9節
再び、神はこのように言っています。
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
新改訳聖書 イザヤ書66章2節
私たちのの祝福された主は「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」と宣言しています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章17節
すべての必要は謙遜な思いとこころの後悔の中で失われた罪人の立場を取ることです。
神はすべてを知っており、その思いを数え上げています。
神のみこころは滅びることではありません。
書かれたみことばを通して、あなたへの神の思いが現されるためなのです。
このようにイエスキリストを通して、神にある平和の確信に導かれるのです。
しかし、別の表現をすると、神があなたに自由に使えるように置いた恵みの手段に、注意を払わずにいてはいけません。
もし、あなたがみことばを教える職務につくことが出来るのなら、それと同じぐらい宣言される福音を聞くことが出来るのでしょう。
それは神を知らない知恵によって世は福音を聞くことがないからです。
「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 1章21節
いつも、祈りの場所を持ち、そして他の人と考える準備をしましょう。
その他の人はあなたの求めている知識と喜びの証明となります。
それはルデヤが祈っていた時、パウロが救われる方法を説明するために送られたのです。
そして、主が彼女のこころを開き、彼女はその救いを受け取ったのです。
彼女は自分が知っていたすべての知識の光に従って本気で求めたのです。
彼女がかすかな光を追いかけたように、より多くの光が彼女を照らすように主は取り計らったのです。
もう一つのことは誰もが神の光源を望むためにとても重要なことです。
あなたの命にあって知られている罪を力を尽くして処理してください。
そして、あなたの思いとこころを汚すために送られたすべてのことを回避してください。
ダビテが言っています。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
新改訳聖書 詩篇66編18節
もし、あなたが不必要に不敬虔なものに結び続けるのなら、もしくはあなたが世の楽しみに参加するのなら、あなたはすべてにおいてかたくなな良心を持とうとするので、聖霊から助けを期待することができないでしょう。
そして、その者はその軽率な行為のゆえに深い悲しみに至ります。
貴重な時間を役に立たない汚い文学に浪費してはいけません。
あなたを高め、霊感に満ちた、あなたの聖書を最初に読みように心がけましょう。
そして、あなたがこれらのことを得るために、良き信仰書をあなた自身に役立つように読むべきです。
これらの信仰書は永遠の事柄をより現実な事柄としてあなたにより教えるでしょう。
感情的な救いの確信を求めることは愚かなことです。
それは神の恵みの豊かさを知るために与えられた神が命令の意味してことを無視しているに過ぎないからです。
御子を信じる者は救われているのです。

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