メッセージII 2001/6/13
たれ幕の内側、宿営の外側
by C.H.マッキントッシュ
(INSIDE THE VEIL, OUTSIDE THE CAMP )
「また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。」
ヘブル人への手紙 10章9〜16節
私たちが主の道を歩む時、私たちがこの世の中をクリスチャンとして歩むの力は聖霊を通して理解できます。
私たちはキリストと共にすべての道は認められることであり、そして、キリストをそれを世に明らかにさせるでしょう。
単に知識だけではなく、キリストの最も尊い血を通して、私たちの良心が清められ、私たちはその救いに預かるのです。
クリスチャンとしての内なる性質はこのことを示し、その者はキリストの歩んだ足跡を追うのです。
「私にとっては、生きることはキリスト」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙1章12節
そして、次のように述べています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙2章20節
神の御子以外に信仰はありえません。
それはイエスがこの地上を歩んだ信仰と同じであり、私たちが生きるために要求されていることです。
そのことは私たちの一人一人が私たちの歩み、習慣、感覚、目的について責任を持つことです。
私たちは生きているキリストへの責任を実現しているでしょうか?
それは現実にキリストが不在である世にあって、神の教会がキリストを表現してゆくことなのです。
クリスチャンの良心はたびたび未信者に聖書を手渡し、満足するかもしれません。
そして、その人は聖書からキリストとは何であるかを読むかも知れません。
しかし、それが私たちをこの世に置いた目的ではありません。
「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二3章2節
他の人が読んでいるように、私たちは聖書の手紙を読むのでしょうか?
もし、私がただの書物として聖書を読んでいるのなら、誰も私のところへ来て「あなたは何を信じているのですか?」とも、「あなたは何を好み、どんな見方をしているのですか?」とは聞かないでしょう。
もし、私がキリストの道とキリストを感じることを求めないのならば、むしろ私は障害物です。
クリスチャンはキリストの生きている鼓動を表現しなければなりません。
その鼓動はキリストの原則であり、特長であり、恵みであり、性格です。
クリスチャンとしての性格全体は、たびたびある評価によって作り上げられる傾向があります。
その評価は、神の地位を得させ、神の持つ評価がどんなものかによって特徴付けられるべきものです。
私たちには私たちキリストを信じる信仰のゆえに、キリストが生きていると信じる必要性を求められています。
それは私たちは神と共にある評価です。神がどんな方か示すことによって求められることなのです。
しかし、その力全体は私たちが行いによって、そして、その力を示すことによって理解され、それこそが私たち自身が神と共にある評価だと言えるのです。
そこには、キリストと結びつけられる者としての歩むために、キリストとクリスチャンのためにある二つの大きな段階があることが、ヘブル人への手紙の中で示されています。
10章にある最初の結論としては、聖所の中に入れられたたましいが示されています。
一歩一歩、聖霊が私たちと共にいて私たちを導いていることに注目してください。
そこでは、神が私たちを祝福の場所へと入れて下さりました。
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章19〜20節
垂れ幕--キリストのからだ
その知的な献身的な力は私たちの良心を完全に清めたことを理解させます。
多くの人々はこれを理解していません。
彼らはこの清めを得ようとしています。
彼らは神が私たちに命じていることと完全に逆なことを行っているのです。
私は清められた良心を持ちます。
私は前進しますが、それを得るためではありません。
私はすでにそれを持っているからです。
どのように私はそれを得たのでしょうか?
私が何を行ったのではなく、私の気分や行いによってではなく、私の技能力や経験に関することでもありません。
聖霊が私たちに教えています。
それはイエスの血によるのです。
神はキリストの栄光ある人柄を示し、モーセと御使いと比較しておられます。
また、祭司職としてはアロンと比較し、捧げものとしては律法の下にある捧げものと比較されています。
その最終的な結論として出すべきことは何でしょうか?
私たちは清めれた良心を持っているのです。
私たちは垂れ幕の内に入りました。
それはあるクリスチャンが持っているというものではなく、また他のクリスチャンが苦労するというものではなく、それはすべてのクリスチャンにとって共通の土台なのです。
すべてのクリスチャンは清めれた良心を持っているのです。
ある者たちは私たちが改心する前に、キリストの血が私たちの罪を片付けてしまったと思っているかも知れません。
そして、改心後にキリストの祭司職によって、清めれた良心を持ったと考えているでしょう。
しかし、そうではありません。
神は聖書を通して言っておられます。
それはキリストの血によるのです。
私たちは完全に清められた良心を持って聖所の中に入り、「もはや罪を意識しなかったはず」なのです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章2節
それは正しくキリストの捧げものを理解させ、私の中にこの清められた良心があるのです。
キリストの捧げものだけでは足りないということはありません。
すべて私の罪は抹消されたのです。
私の一部の罪ではありません。
至聖所には大祭司が毎年一度だけ進むことができます。
同様に、それを単純に信じたクリスチャンとみなすことができます。
ある者はたましいの問題として取り扱い、ある者は疑い、恐れ、そして心配することを見つけ、彼らを悩みを与えるでしょう。
キリストの血は私たちを私たちにある汚れ、傷、また何かこのような事柄から清めることができるのです。
「こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
----全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章19〜22節中略
そのことについては使徒であるか、ないかの問題ではなく、もしくは、使徒パウロと十字架上の犯罪人であるかの問題でもありません。
これらの間には何の相違も見出せないのです。
別の言い方をすると、垂れ幕の中に等しく共通した場所を持っているのです。
大祭司であるキリストは私を清く保つために私のところへ実際に来たのです。
キリストの血は私をそこに置いたのです。
ヨハネの手紙の中にこのように表現されています。
「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。
それは、義なるイエス・キリストです。
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1〜2節
イエスキリストはすべての義を原則にし、神の右の座に着いておられます。
なだめとはあわれみの座に着いて私たちをお取り扱いになることです。。
私たちには罪の赦しを求めなさい(請求しなさい)とは、新約聖書の中では語られていません。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章9節
この区別は重要なことです。
いくつかの失敗の赦しを求めることは、失敗を告白することよりも神の子供のためには大変やさしいことです。
私たちは何か特別な罪の赦しのために求め、その罪の赦しの問題が、すでに片付けられたという聖書的根拠を持たずにいるかもしれません。
しかし、みことばの通りに、私たちが罪を告白し、信仰の問題であることを知り、罪の問題がすでに片付けられたを知るべきです。
私は今クリスチャンについて話しているのです。
「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章9節
ここでは神が真実で正しい方と紹介されています。
神は恵み深く、哀れみ深いとは言われていません。
私が自分の罪のために自分自身をさばくその瞬間、私はその罪が過ぎ去ってゆくことを知ることができます。
なんと素晴らしい立場にクリスチャンは置かれたのでしょうか!
そのことはキリストに従う者として最初に知るべき立場です。
クリスチャンは自分の罪から清められたのです。
クリスチャンの良心は清められたのです。
神の助けの光は曇ることがなく、その知識の中に私たちは置かれたのです。
しかし、私たちはそのことに信頼を置くために何をするべきでしょうか?
何もありません。
それは実際的な献身的に歩むことを基礎にして、この建造物を建て上げることです。
律法主義と道徳律廃棄論は同じように扱うことができます。
では、律法主義の仕組みとはどんなものでしょうか?
あなたはこのことを正しく受け取らなければなりません。
福音は言います。--キリストは私を私が決して得ることのできない立場に置きました。
律法がそれを証明しています。
神がその人に律法をお与えになりました、
その人はどうするでしょうか?
あなたは律法を行おうとしても、また律法を行わなかったとしても、人間のこころにこのことをもたらしたのです。
つまり、神がその人に語ったなすべきことを行うことはその人にとって不可能なことでした。
そして、また、神がその人に語ったことをしようともせずにいるのならば、律法はかなわぬものとなります。
「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章10節
私は律法の働きによっては、聖所のすべてに入ることができません。
私はここに一つの結果を置きます。
それはキリストが私のために十字架の上で完成してくださったということです。
そして、このことはヘブル人への手紙の導入の箇所ではっきりと書かれていることです。
「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章3節
その働きが完成したことを証明するために、アロンは決して座ることはありませんでした。
幕屋、もしくは神殿の中に祭司のために、座る座席は準備されていませんでした。
何という間違いに人を導くのかと言うかも知れません?
でも、私はキリストにあって、すべての罪のきよめを所有し、持っているのです。
それはすでに終わっているのです。
しかし、そうでしょうか!
福音は私をそこに置きました。
私の前に置かれた祝福されたレースを熱心に走るためです。
もし、最初に聖所の中に分けられ置かれたのなら、次に置かれる場所は天幕の外に置かれたのです。
垂れ幕の内側に、私は私の良心についてキリストを見つけることができます。
しかし、宿営の外側に、私は私の心(思い)についてキリストを見つけることができるのです。
それは私たちが、垂れ幕の内側に私たちがキリストの知識を流れさせ、単に慰めを得るようになるためではありません。
本当の慰めとは、私たちにキリストの捧げものが与えられたことです。
天幕の外側に置かれたキリストを私たちは実際に認めなければなりません。
垂れ幕の中のキリストは私たちの良心を静めるでしょう。
キリストは天幕の外側で生きています。
私のたましいに力を与え、より献身的にこのレースを走るために私の前に置かれていることです。
「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章11〜13節
垂れ幕の中と宿営の外側よりも、私がキリストにあるモラルを守ろうとする影響を受ける場所は他にはありません。
幕の内側に神の栄光のケルビムが住んでいました。
天幕の外側では罪の捧げものが捧げられていました。
他の場所において、このように神から分けられたという考えを私たちに示すことはできないでしょう。
聖霊はこの二つの場所において、キリストがすべてに満ちていることを私に示しています。
そして、それは知ることによって祝福を受けるのです。
たとえ、宿営とともにあったとしても、私には何もすることはありません。
幕屋は表面的な告白の場所です。
型として、イスラエルの幕屋、反対の型としてはエルサレムの街です。)
なぜ、キリストは門の外で苦しんだのでしょうか?
イスラエルの表面的な告白をする単なる宗教組織からキリストが拒絶されることを示すためでした。
キリストが私たちのために行われた働きは私たちに明白かもしれません。
(そこにある祝福に陰りがさすことを神は許してはいません。)
そして、私たちの良心は完全にされたことを知りました。
そこには責任(応答)がないでしょうか?
私の欲しているすべてにおける良心の平安がそこにあるでしょうか?
垂れ幕の中から聞こえるキリストの声がすべてでしょうか?
天幕の外からキリストの声が聞こえてこないでしょうか?
もし、これらすべてを知るのなら、その者は、喜び、平和、勝利、それらは垂れ幕の内側にいるキリストの声を聞くことができます。
垂れ幕の中にある声を聞くことは、私たちが宿営の外側にあるキリストの声を聞くこととも、非常に関係している事柄なのです。
キリストと共に多くの苦しみを知り、そして共に恥辱を味わった人たちは、垂れ幕の中にある最高の祝福とキリストにある平和を知るのです。
地上にある、私たちの行動、方法、道はキリストによってテストされなければなりません。
「キリストがそこにいるでしょうか?」
「キリストがそれをしようとしているでしょうか?」
もし、聖徒がキリストが求めていることと、逆の道を歩もうとするのなら、聖霊は悲しまなければなりません。
その時、聖徒のたましいはそのことを学ばなければなりません。
キリストの証言を聖霊はどのように悲しむことができますか?
キリストはどのようにたましいに慰めとよろこびがあるでしょうか?
そして、その者がキリストを証しし、その平安を得ているでしょうか?
もし、私がキリスト共にある者たちと歩んでいないのなら、どのように私はキリストと共に喜べばよいのでしょうか?
そこにキリストがいないのならば、そこにキリストの人柄が感じられないのなら、その集まりは喜ぶことができないことを、私たちは知っています。
「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章13節
これは決して人間の前に出てゆくことではありません。
表場を気にすることではありません。
教会に進むことではありません。
信仰を主張することでもありません。
キリスト御自身のところへ出てゆくことなのです。
なぜ、私たちは世の者ではないのでしょうか?
それはキリストが世のものではないからです。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章14節
では、私たちの心は何を求めているのでしょうか?
何かの環境、もしくは他の同様なものを求めるかも知れません?
そして、何かに傾くかも知れません?
「あー、私に世にある何かを残してください」と私たちは言うかもしれません。
ツォアルを求めているロトのようです。「あんなに小さいではありませんか?」
すべてを取り去らないでください。「あんなに小さいではありませんか?私のいのちを生かしてください。」
新改訳聖書 創世記19章20節
ロトのこころはいまだこんなに小さい世を後して出て行こうとはしていません。
こころがキリストで満たされる時、私たちはこの世をあきらめることができます。
この時、この世をあきらめることが難しいことではなくなります。
ある人は世を愛する者に率直に言うでしょう。
「これをあきらめよ」もしく「あれはダメ!」
しかし、何の効力も持ちません。
私が教えなければならないことは、その人にたましいの牧者としてよりキリストを求めさせることなのです。
私は天幕の外にいます。
私は来ようとしている都を求めています。
私は来るべき方を待っています。
この位置に立って、世と世のシステムから立ち退くのです。
私は私自身が二つの位置にいることがわかります。
神の前、そして、もう一つは人間の前にいるのです。
最初に「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章15節
次に節に、聖霊の哀れみ深い働きによる美しい結果が記されています。
「善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章16節
私はキリストと共に垂れ幕の内側にいます。
幕屋の外側は世を表わします。
「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章13節
このように、もし私が幕屋の外に行くならば、私を取り囲む信仰による行動が私に届けられるのです。
それはキリストのためというよりも私のためです。
私は礼拝に従事し、全てにおいて良き行いをします。
私の希望に関しては、ある人たちが言っているように「キリストの再臨の教理を保持している」ことではありません。
私は神の御子が天から来られるのを待っているのです。
それは死んだ、乾いた教理ではありません。
もし、私たちが現実に神の御子が天から来られるのを待っているのなら、私たちはいい加減にこの世の中を歩むでしょうか?
私は私のたましいの必要のためにキリストを信じているのです。
そして、単に私は神の御子が天から来られるのを待っているだけのことです。
キリストの教会を御自身の中に受け取るために、天から来られるのです。
天においてキリストは私たちと同じようにその時を待っているのでしょう。
そして、それは今夜かも知れません。
私たちは反キリストのしるしを求めてはいけません。
彼は国々の中で行動を起こすでしょう。
しかし、この聖い出来事、神の御子が天から来られるのを待つことはうれしい事柄です。
私たちは矛盾を感じていてはいけません。
また、私たちは否定していてはいけません。
あなたはその手でキリストをしっかりと捕まえるのです。
そして、もう一つの手で手短にはっきりと世の中を生きるのです。
もし、私たちが幕屋の中にいるのなら、同時に幕屋の外側も知らなければなりません。
そこには「はずかしめ」があります。
次に「軽蔑」、「憎しみ」、「疑い」があります。
幕屋の外にいないすべての者は、キリストの共にある交わりの喜びの中にいません。
「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章4節
C.H.M