メッセージY 2001/6/23
あなたが立っている真実な神の恵み by J.N.ダービ
(THE TRUE GRACE OF GOD IN WHICH YOU STAND)
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章12節
「私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。
この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章12節後半
神は「神の恵みのすべて」を知るようにされました。
そして、そこで私たちは神の栄光を味わい、神はそこに私たちを置くのです。
このことを私たちが信じるということは、何とも激しいことではないでしょうか!
それは主の栄光のため神は私たちをそこに置くのです。
私たちの生まれつきのこころは「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。」と感じるでしょう。
新改訳聖書 ルカの福音書19章21節
それは私たちは神の恵みを人間の生まれつきの性質のままで理解しようとするのなら、そのように感じることがあるのです。
また、私たちは時々、恵みとは「神は罪を見ないで通り越してくださる」という考えになる事もあります。
でも、それは違います。
恵みは、罪は恐ろしい、邪悪な事であると教えます。
神は罪を大目に見ることはできません。
人は不義と悪を行った後に、自分で当て布をし、そして、神の前に立つために修繕するでしょう。
しかし、それはすべての人間の持つ能力であり、そこには恵みの必要性はありません。
その事実は、栄光ある主にとって、罪が邪悪なこととして示すのです。
すべての人は罪人です。
そして、完全に滅んでいて、希望がありません。
その罪人には無償の恵みは必要でしょうか?
その必要に罪人は出会うことができます。
私たちは神について私たちのために学ばなければなりません。
私たちの考えによるのではありません。
神がご自身をどのような方であるかを現しました。
神は「あらゆる恵みに満ちた神」なのです。
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章10節
私が罪深い罪人であることを理解した瞬間、私は主が私の罪の全部を知っていたということを理解し、神がその罪を憎んでいることも理解しました。
そして、私は恵みとは何かということを理解しました。
信仰は私の罪より神が偉大な方だということを見させるようにします。
私の罪は神よりも偉大だということはありません。
私は、私のために主の命を捧げられたことを知っていました。
そして同じ主が私の命(歩み)のために日々働いておられるのです。
私との主のすべての交わりは恵みという同じ原則上にあるのです。
信仰の成長のために大きな秘訣があります。
それは栄光ある方として主を見上げることです。
何と貴重なことであり、何と力強いことではないでしょうか!
私の過去にキリストが私のために十字架の上で死なれた時と同じ愛をこの瞬間に感じました。
そしてそれを働かせ、イエスを知ったのです。
それは真実であり、クリスチャンの生活における共通した日々の苦しみの中で、私たちによって扱うべき事柄です。
例えば、私が自己嫌悪におちいり、自分では回復の見込みがないと判断します。
私は私の友としてイエスのところへゆきますが、もし、私に長所があるのなら、イエスのところから出て行かなければならない必要が生まれます。
信仰はこのような誘惑に対して働かなければなりません。
単純にそれは自分自身の努力ではありません。
自分自身の努力に対して、それは決して十分とは言えません。
本当の力(強さ)の源は栄光ある主を知ることにあります。
生まれつきの人は常に強さとあらゆる祝福の源としてキリストを知ろうとはしません。
私のたましいが交わりから出たとしましょう。
そして、私の生まれつきの心が「キリストのところへ行くことができるようになる前に、私はこの主張を訂正しなければなりません」と言ったとしましょう。
しかし、キリストは栄光ある方です。
そして、すぐに神に立ち返る方法を知るべきです。
それは、その時すぐに、私たちはキリストの前に自分自身を深く卑しめることなのです。
それはただ、私たちが私たちのたましいの回復を、キリストの中に、そしてキリストから求めるのです。
イエスの受けられた謙遜こそ、本当の謙遜なのです。
もし、私たちにキリストが何か具体的なことを示してくれないかと私たちが願うのなら、キリストは私たちに何も示さないということがわかるでしょう。
しかし、それが恵みなのです。
それはキリストが私たちのたましいに変わることのない信頼を与えたのです。
それは、私たちがどのような者か考えることではありません。
信仰とは自分自身の中にある信頼について考えることではありません。
それは神の現した愛と知識を理解することです。
それは信頼すべき方としてキリストについての神の考えを知ることです。
私たちは私たちのたましいにとって、必要なイエスを知っています。
私たちの目とこころはキリストに占められることでしょう。
私たちは虚飾と罪に費やすことから確かに守られるのです。
そして、これは私たちのこころにある罪と堕落に反抗する私たちの強さなのです。
同じように、私はキリストの中に罪がないことを私自身の中に見つけることができるのです。
しかし、それは私自身の中にある罪、そして堕落した事柄について考えることではありません。
そして、私はこれらのことに占められているのなら、自分自身を卑しめるべきです。
主イエスについて考えるべきです。
それはキリストにある素晴らしさの上に住むことです。
私たちにとってそのことは良き事を行うことであり、イエスと共にそれを得たのです。
私たちは自分のことを忘れることができるのです。
私たちは私たちの罪を忘れることができるのです。
私たちはすべてを忘れることができるのです。
しかし、イエスを忘れてはいけません。
私たちのこころは恵みを理解することにかたくなであってはいけません。
それは私たちが律法の下にではなく、恵みの下にいることを実際に意識し続けています。
それは恵みによって「確信」することです。
しかし、そのような時に私たちにとっては、実際に恵みが満ちることを理解することよりも、より難しいことは何もないはずです。
それは「神の恵みの中に私たちは立っているからです。」
そして、その力の中を歩んでいるからです。
そのことを理解して、それは私たちがそのことを知るために神が現してくださったことであり、私たちの特権なのです。
神の示した事柄から去った瞬間、そこには常に私たちの中にある考えに従った働きが確かに存在します。
そして、私たちの考えは、私たちに対する神の考えに、そして「神の恵み」に決してたどり着くことはありません。
何事においても、私の予想では私が純粋ではありえないゆえに、正しくありえることは最も小さな可能性だと私は言うでしょう。
自由な恵み?
「神の恵み」は自由ではありえません。
私たちが神の恵みに従ってすべてのことを計ることができるのは、神との交わりの中にいる時だけです。
私たちが神の現してくださったすべての事を理解しているだけなら、それは不可能なことです。
では何によって可能なのでしょうか?
さらにそれは教会の状態でしょうか、それは私たちを動揺させることでしょう。
私たちが神にあって考えるのなら、その時、すべての事柄が、神の恵みを導く働きのための範囲で行われていることであり、それを理解するようになるのです。
恵みのついての考えを持つということはとても単純なことであり、クリスチャンの力の真実な源なのです。
そして、私たちは神の現してくださった事柄を知り、その恵みの理解にとどまるのです。
この神にすべての聖めと、平和と聖霊の休息が隠されているのです。
「神の恵み」は十分過ぎるくらい、無制限であり、完璧です。
もし、私たちが神の現してくださった恵みから離れるのなら、私たちは神の恵みに対する真実な自覚を持つことはありません。
私たちには神の恵みを捕らえる力などありません。
そして、もし、私たちが神の現したくださったことを捕らえようとするならば、その恵みからでることになります。
私たちは放縦(律法に対する反抗心)に戻るだけです。
もし、私たちが神の恵みとは何かという、現実を見るのなら、恵みとは限界のない、限度のないことだということが理解できるでしょう。
それでも、私たちが自分で神の恵みを捕らえようとしてもできません。
そのすべてが私たちに向けられた神の愛なのです。
私たちの喜びも、平安も、私たちが神へと差し出すものに依存するのではなく、神が私たちに差し出された恵みに依存しているのです。
神の恵みは私たちの中にあらゆる罪があることを前提としています。
そして、キリストを通して示され、祝福され、すべての罪、すべての悪が片付けられるのです。
神に対する一つの罪は千の罪よりも恐ろしいのです。
なぜでしょうか?
私たちの中にある、世にあるあらゆる罪があります。
それよりも恐ろしいのでしょうか?
私たちがどのような者か自覚するのであれば、神は私たちを喜んでくださいます。
それが神の愛だからです。
ローマ人への手紙 7章において パウロのクリスチャンの経験について述べています。
確かにこの経験はパウロの中に置かれた理論であり、彼には神の恵みが注がれていないように見えます。
単純にそれがパウロの状態であり、事実なのです。
パウロの神に対する思いが、逆にパウロを悪く導いているのです。
そして、同時に「神は愛なる方です」。そして、その愛は神に向けられた愛であるはずです。
もし、神を見ないのであれば、すべてが「私」、「私」、「私」と言うでしょう。
信仰は神を見ます。
それは神は恵みにあって御自身を現すからです。
さて、私はあなたにたずねてみたいのです。
「信仰は私を見ることなのでしょうか?つまり、信仰の目的とは私の状態、立場を見ることしょうか?」
いいえ、信仰とは私の心に作り上げられる目的ではありません。
しかし、信仰を神御自身が恵みにあって現して下さるからです。
確かに、私たちの罪は大きいのですが、それとは別に、恵みとは神とはどんな方であるかを述べており、私たちがどんな者であるかではないのです。
その事実は「神の恵み」の広さを拡大させるでしょう。
同時に、私たちは思い出さなければなりません。
それは私たちのたましいが神との交わりに至るために必要な恵みの無くてはならない影響力と目的なのです。
そして、それはたましいが神を知るように、神の愛を知るようになるために私たちに捧げられたことなのです。
ゆえに、恵みの知識は真実な聖別の源です。
恵みの勝利は次のことによって確かめられます。
それは人の敵意によって地からイエスを追い払われた時、これらの敵意を持った人たちの行いによって、神の愛がこの救いを得ることができたのです。
何と、イエスを拒絶した人々の罪を償うためにこの救いが入ってきたのです!
このことを知るのなら、人間の罪は最も熟したことを知ることができるでしょう。
また、信仰によって見るのなら、神の恵みが最も熟したことを知ることが出来るのです。
もし、私が神の愛について、わずかにでも疑いやためらいを感じるのなら、私は恵みから逃げているのでしょう。
そして、私はこのように言うのです。
「神の恵みが私の望んでいるようではないから、私は不幸なのです。」
しかし、それは答えになっていません。
その答えは、神にとって私たちが神にどのような方であるべきか望んでいるからではなく、私たちがイエスに何かを望むことではないからです。
もし、自覚を持つとすれば、私たちの中にあるものがどのようなものか、そして、私たちがどのような者なのかです。
そして、その自覚とは私たち自身を卑しめる他に、どんな努力があろうとも無駄なことなのです。
そして、もし自分を卑しめるのなら、神をどのように礼拝するべきであるか私たちの内に増し加えることができるのです。
私たちの歩みは純粋な恵みを基礎としているのです。
あなたの思いに嘆きと疑惑がありますか?
もし、あなたの思いが嘆きと疑惑の中にあるのなら、あなたは今だに「私」、「私」と言っているのではないのでしょうか?
そして、神の恵みを見失っていませんか?
私たちが何であるかということよりも、神がどんな御方であるかということを考えることは良いことなのです。
自分自身をどん底の中で見つけることが、本当のプライドなのです。
私たちには良きところが何もないという完全な自覚が必要なのです。
私たちがこのことを知るまで、私たちは自分自身から完全に離れていないのです。
キリストに目を向けることによって、私たちは自分自身を忘れます。
これこそが私たちの特権なのです。
真実な謙遜はあまりひどく自分自身のことを考えるようなことはしません。
私たちは自分自身のことを考えるのではなく、神のことを考えるのです。
私たちは自分のことを考えることほど悪いことはないのです。
私は何が欲しているのでしょうか?
それは自分を忘れて、神を見ることです。
神の考えには私の考えにまさる価値があります。
そこに自分自身を謙遜にさせる必要があるでしょうか?
確かに自分自身を謙遜にさせる必要があるでしょう。
愛する者よ!
私たちはローマ人への手紙7章について語ることが必要なのです。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章18節
私たちは自分自身について十分に考えるのなら、上記のような答えに至ります。
私たちは神について考える必要があります。
神は私たちについて、悪いことではなく、良き事を考えています。
私たちは私たちについて恵みをもって扱ってくださいます。
この神の考えを御言葉から読んでみましょう。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章31節