メッセージ 2001/7/2
黙示録 七つの教会 
(An excerpt from H. A. Ironside's commentary on Revelation)
By H.A.アイアンサイド


七つの教会 (PART1)

私たちは最初に黙示録の2章に見られる七つの教会の内、最初の4つの教会に宛てられた手紙について考えてみましょう。
最後に宛てられた手紙の中で、私は黙示録1章19節が何を言っているのかはっきりさせようと思います。
私たちはすでに使徒ヨハネが見たことについて考えてきました。

それは黙示録の最初の幻にあって、ヨハネは燭台の真ん中に栄光ある主を見ました。
そして、「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事」を示されたのです。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録1章19節

三つ目の「後に起こる事」については4章のみことばの始めにはっきりと示されます。
RV(KJV)訳聖書において「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった」と私たちは読みました。
必然的に、私たちは単純に二つ目の「今ある事」とは、2章と3章のことでなければなりません。
その「今ある事」とは現在継続中の時制であり、現在進行中の出来事であることがわかります。
これは単に黙示録の一部分というわけではなく、現在、特別なことを示しているはずなのです。
教会時代に対して、私たちへの警告、そして勧めであり、私たちに教えるために書かれているのです。
実際、私はこのことを信じることに黙示録の価値があると信じます。
私たちは現在、発育中の若木を見ていますが、その黙示録の価値は私たちに完全に成熟した木を与えるのです。
私たちは現在進んでいるさまざまな動きを正しく考えるために、この黙示録を必要としているのです。
自分自身のことを言うならば、もし黙示録の教えていることを私が知らなかったのなら、私は絶対的な疑惑を持つ多くの教えの動きと自分の信仰とを同一視してきたことでしょう。
私が黙示録を注意深く学ぶことにより、これらの教えの終わりが何であるかを知り、それを信じることが出来たからなのです。
では、私はそれを示してみましょう。
だれかが、「教会の同盟体系」について尋ねたとします。
もし、すべての教会が同盟を結ぶのなら素晴らしいことかも知れません。
もし、私たちが巨大な一つの組織を持つのなら、それは素敵なことかも知れません。
誰でも受け入れられるような信仰告白が存在するのなら、すべての教会がその共通した同じ信仰告白を認めることに同意できたはずです。
しかし、キリスト教世界は分裂し、みにくい結末に至っています。
今、なぜ、このようになってしまったのでしょうか?
これは主の祈られたことの成就ではありません。
主はこのように祈られました。

「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章21節

私はこのような意見に捕らわれてしまうかもしれません。
しかし、私は黙示録に立ち返るのなら、それは主イエスキリストが神の教会を取り去った後(空中再臨)、ちょうどこのような宗教的な連盟が起きることを私は黙示録から学ぶことが出来ます。
そのことは黙示録17章において「大バビロン」として示されています。
これは巨大な世界教会です。
現在ある動きは、このことに対する準備だと言えます。
そして、そのことは私にとって黙示録の御言葉によって示された輝く天からの光なのです。
私は、もしこのことが終わりへの道だと言っているのなら、今あることはその世界教会の一部ではありません。
悪から分離すべきです。---さまざまなこの世の組織のことではありません。
---悪から分離は神の命令です。
現在進行中である出来事と動きを、預言書としての黙示録が未来に起こるべき出来事に光を投じるのです。
それは私たちがその警告を受け取り、神のみこころから反した事柄より身を守るためなのです。
私たちが「今ある事」を学ぶ前に、私はこのたとえをあなたに与えましょう。
かつて、ある人々が古い城の中を探し、頑丈なドアに掛けられたとても不思議な古い鍵を見つけました。
彼らはそのドアにショックを与え、ドアを開けようと試みましたが、何の効果もありませんでした。
彼らはいろんな方法で鍵を外そうとしましたが、それを回すことができません。
間もなく、ある人が床に散らかったたくさんのガラクタの中からたくさんの古いキーを拾い、その人は「私はその鍵を開けることが出来るかも知れません」と言いました。
彼は一つの鍵を取り出して、鍵を開けようとしましたが、開けることが出来ません。
彼はもう一つの鍵を取り出して、鍵を開けようとしました。
わずかに開いたかなと思いましたが、開ける事はできません。
そして、もう一つの鍵を使いましたが、開けることはできません。
しかし、より開けられるかも知れないという、思いが強くなってゆきました。
他の鍵を使って、何度も繰り返しましたが、どの鍵もそのドアを開けることが出来ません。
そして、最後にちょっと奇妙な鍵が残りました。
彼はその鍵を入れると、その鍵は回り、そのドアをあける事が出来たのです。
彼らは「この鍵はこのドアを開けるための物でした」と言ったのです。
私が黙示録の1章20節にある事実に注意を注ぐのなら、あなたは私のたとえ話を理解するでしょう。
そこには7つの燭台と不思議な関係があることを私たちは語るのです。

7つの燭台はアジアにある7つの教会を象徴しているのです。
しかし、そこにはこれらのものと不思議な関係があるのです。
ある者が一つの鍵を試している間、他のある者が他の鍵を試していました。
そこにはこの不思議を理解、解釈するための多様な努力がありました。
この聖書箇所を研究している信仰を持つ忠実な研究家がこのように言うまで解決は見つかりませんでした。
「黙示録のこの箇所が「今ある事」を現わしているのなら、神は教会時代全体の歴史を預言的に私たちに示すことを喜びとしているとは考えられないでしょうか?」
この鍵はこの不思議を解くことが出来たでしょうか?
聖書を研究する者たちは、エペソの教会に宛てられた手紙と教会の歴史の最初の働きを比較しました。
この鍵はここでは完全に合いました。
彼らはこのことに基づき、スミルナの教会に宛てられた手紙と教会の歴史の二番目の働きを比較しました。
ここでも、その一致は明確でした。
彼らは勢いづき最後までその比較を続け、ラオデキアの教会まで来た時、ラオデキアの教会に書かれている答えが私たちの生きている今日の教会の信仰告白に正確に一致していることが解かったのです。
そして、彼らは言いました。
「ここにある、不思議ははっきりしました。
この鍵は開けられたのです。
私たちは正しい鍵を持ったのです。」

自分としては、私はこのことが7つの教会の送られたこれらの手紙は真実な主のみこころとして見ているので、そこには何の疑問も持っていません。
7つの教会が選ばれたのは、聖書の中で7が完全数だからです。
そして、あなたがこれらの手紙を単に読むだけではなく、信頼できる教会史を使い、あなた自身でどのようにこの鍵を完全に開けられるかを試みることは良きこととなるのです。

その名前にはとても意味のあります。
これらの名前の意味が逆がであることはありえないことです。
それはこれらの教会への適応と勧めが一致するためです。

最初の例を見てみましょう。
エペソの意味は「魅力的」という意味です。
このギリシャ語の単語は、彼らは好んで「乙女」という意味に使いました。
エペソの教会に宛てられた手紙は私たちに教会の始まった時の状態を教えています。
その時、主は星(主のしもべ)を手の中に握り、彼らの牧会を制御していました。
まさに主はこの星をあちこちに送り、この主の恵みの喜ばしい福音を宣言し、聖徒たちを牧していました。
しかし、人間の組織は大きくその主の恵みを変えてしまいました。
主は教会の中を歩きました。
始めに主の名が唯一の中心だったことに気がつきます。
そして、聖徒たちの集会は、主の中にありました。
2節と3節を読んでください。

「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。
また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章2、3節

初代の教会は世から分離して歩んでいました。
ギリシャ語の「ekklhsia」は聖書の中で「教会」と訳されています。
その意味は「集まり」という意味です。
これは神の考えによる表現です。
教会を合併しようとするあらゆる努力と主に反対する世界は混乱のまま終わるのです。
なぜなら教会は決して現在の時代(ディスペンセーション)において、世を改心させないからです。
かつて、誰かがA・T・ピアソン博士に尋ねました。
「あなたは世が本当に変わったと考えているのですか?」
博士は答えました。
「よろしいでしょう。
私は少しは世が教会の考えを聞くようになったことは認めましょう。
しかし、教会はとても世的になりました。
それは私に何の意味があるのでしょうか?
単純に教会は集まりを意味しています。
もし、世が改心したのなら、教会と呼ばれるものの他に何かかがそこにあるのでしょう。」


エペソの時代におけるクリスチャンたちは、これらの邪悪な人たちを連れてくることはできません。
しかし、私たちの時代にあって、この訓戒は教会の中でその結果を出しています。
多くの地方教会において、誰でも良いからと言って、教会のあらゆる奉仕に十分に参加することを歓迎し、もし、彼らが銀行口座に貯えようするのなら、それは初代教会とは非常に異なっています。
そのエペソ人の小さな集まりは言うでしょう。
「私たちは金銭を代価として、聖く成長したくありません。」
そんなことよりも彼らは真理に対して忠実でした。
エペソのクリスチャンは使徒であると主張した者たちを試みました。
そして、もし彼らが詐欺師であることを見つけたのなら、彼らをうそつきとして拒否したでしょう。
しかし、その代わりにこのように言いました。
「こんにちは、あなたは何々博士が良い推薦状を持って来ることを知っています。
博士は教えられた素晴らしい人です。
しかし、博士はキリストは処女マリアを通して生まれた神であること、もしくはキリストの贖いなどを信じていないそうですけど....。」
その他にも、博士は非常に多くの良い特質を持っているようですが、私たちは博士にきびしくなければならないでしょう。
初代教会はその者に言うでしょう。
「あなたは主イエス・キリストのしもべでしょうか?」
そして、もっと重大な問題をその者にします。
もし、その者が正しい信仰を告白しないのならば、彼らはすぐに彼の仮面をはいで、その活動を拒否したのです。
しかし、今日において、先生と呼ばれる者たちが聖書の真実を否定するようになり、信仰告白をしている教会との違いさえも全く知らない状態なのです。
ああ、初代教会の熱意と敬虔が少しでもあるのならば!
3節において、私たちは主イエスの御名のために苦しむ聖徒たちのことを学びます。
それは教派の名称のゆえの苦しみではありません。
もしくは特別な神学や慣習に対する苦しみでもありません。
その苦しみはキリストのために苦しむです。
キリストの御名のために彼らは試みに会い、迫害にも耐えたのです。
それでも、そんな時であっても、私たちは初代教会が減衰状態になっていったという証拠を持つのです。
4節にはこのように書かれています。

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章4節

彼らは初めの愛から離れてしまったのです。
心はキリストから離れ漂っていました。
その共同体には回復はありませんでした。
その霊的な退廃は現在のラオデキアの時代まで拡大し続けています。

次の手紙において、私たちは主の愛が決して変わらないことを見ることができます。
主は眠ってしまった者たちから人々を目を覚まさせるためにある事を起きしました。

「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。
――しかしあなたは実際は富んでいる。
――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章8、9節

スミルナの意味はミイラです。
聖書において、しばしば死者を香料を詰めて保存することについて述べられています。
ミイラは香りを放つために香料の中に付け(押し)込まれなければなりませんでした。
教会が異教徒のローマの鉄のかかとの下に押し込まれた時代を述べています。
教会は2世紀にわたる変わることのない迫害による苦痛にもかかわらず、神への甘い香りを決して放つことはありませんでした。

「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章8節

何という祝福を知っているのでしょうか!
それは神の子供がキリストの復活と結びついているのです。
キリストの復活の力は神の子供の中に働いています。
キリストは言われます。

「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章9節

これは教会が、憎まれ、非合法化され、そして迫害された時のことです。
立派な建物で礼拝する代わりに、クリスチャンたちは共に洞穴、カタコンベ、もしくは他の隠された場所に集まりました。
そして、そこには敵が近づいて来た事を警告するための見張りを置きました。
世によって侮辱を受けました。
彼らはキリストへの信仰と忠実のために帝国の敵として、犯罪者として取り扱われました。
彼らの人生は、神にとって貴重なものでした。
しかし、彼らは神の豊かな目の中にいたのです。
彼らは、この世の幸福には貧しい者でしたが、信仰が豊かでした。
さらに、その時でさえ、彼らの集まりは完全ではありませんでした。

「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章9節

初期の時代において、教会にやって来たユダヤ化する動きについて述べています。
それはガラテア人へ手紙に記されているパン種です。
そのパン種はその時に完全に裁かれてはなく、驚くべきことに2、3世紀において進展していたののです。
キリストは言われます。

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。---あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章10節中略

ローマがクリスチャンを迫害した2世紀はとても意味深いものがあります。
皇帝ネロが迫害を始め、AD312年に終了しました。
総督は至るところでクリスチャンを探し出し、彼らを殺すことを目的とした明確な10の勅令がありました。
その最後はディオクレティア皇帝の下にありました。
彼は10人目の迫害者でした。
初代のクリスチャンたちは彼が最後の迫害者だと信じました。
事実、彼は最後の迫害者でした。
「殉教者の血は、教会の種です」とアウグスチヌスが言いました。
繰り返された殉教の証しは、迫害者たちに救い主として主イエスキリストを信じるように導きました。
それは殉教の死においてされた証しによって、真実に現わされた力を確信させたからです。
迫害によって、クリスチャンたちを滅ぼそうとするサタンの努力は無駄でした。
しかし、これらの時代はクリスチャンとは何かを教えているのです。
その時、神の人々はミイラのように押し込まれたのです。
何という献身的な、甘い匂いなのでしょうか!
何とクリスチャンの愛という香りは神の王座まで漂い上ったのです!

ペルガモは2つの意味を持っています。
「結婚」と「高さ」という意味です。
教会の力が上昇し、世と結婚してしまった時のことを語っているのです。
具体的にはコンスタンチーヌと彼の後継者の下で、教会と人間の権威が結びついた時のことを述べているのです。
12、13節を読んでみましょう。

「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。
『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。
そこにはサタンの王座がある。
しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章12、13節

主イエスは御言葉によってすべてのことを裁いています。
主は御言葉を通して、終わりの日に人間を裁くことについて話しています。
もし、あなたが御言葉を拒むのなら、御言葉は終わりの日にあなたを裁くことになります。
イエスは言われました。

「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。
そこにはサタンの王座がある。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章12節

サタンの王座とは何でしょうか?
もし、あなたがスミルナクリスチャンに何かを尋ねたならば、彼らはあなたにローマいる皇帝の王座を指し示したことでしょう。
ペルガモの教会において、あなたは神の教会が皇帝の王座に座っているのを見つけることが出来ます。
それはどのようにして起きたのでしょうか?
どのように、それは起こったのでしょうか?
あなたがローマの歴史と教会の伝統について精通しているのなら、ディオクレティア皇帝ととガレリウス皇帝の死後のことを思い出してください。
コンスタンチーヌとマクセンティウスは王座のために戦いました。
コンスタンチーヌは炎の十字架の幻を見て、「このしるしを見て、勝ち取るのです」と言うのを聞いたとされています。
コンスタンチーヌはこの幻が何を意味するのか不思議に思いました。
彼は十字架がクリスチャンの信仰のしるしであり、クリスチャンの神がクリスチャンの信仰の戦士として彼が召されたことを意味しなければならないと語りました。
もし、彼がその声に従うのなら、彼はマクセンティウスの軍勢に対して勝利者となり、世の皇帝になれるということでした。
彼はクリスチャンの監督たちを呼び、彼らに信仰を説明してくれと頼みました。
彼は新しい教義と受け入れ、我こそが神に定められた後援者と擁護者であると宣言しました。
一部の作家は多くのコンスタンチーヌの改心の物語を作りました。
しかし、彼がキリストイエスにある信仰によって、神の子供になったというのは疑わしい話です。
コンスタンチーヌは彼の敵対者に対して大勝利をおさめ、世の皇帝となったのです。
彼の最初の行動として、彼はクリスチャンに対する迫害にやめさせ、クリスチャンを解放したのです。
コンスタンチーヌは普通ではありえない特別な栄誉を教会の監督に与えました。
彼らは帝国の貴族と王座に座ったのです。
それはキリストの再臨が近づいているという真実があきらめれたという時でもありました。
コンスタンチーヌ以前の時代は教会はキリストの再臨を求めていました。
キリストの再臨は彼らにとって、期待と希望でした。
しかし、この大きな環境の変化の後に、彼らはこの標準を大きく失ったのです。
クリスチャンの監督はこのように言ったでしょう。
「私たちはキリストの支配を求めていました。
しかし、私たちは間違っていました。
コンスタンチーヌの帝国こそ、キリストの王国なのです。」
彼らは教会がすでに世を支配していると思ったことでしょう。
それは宗教改革の日まで続きました。
その時、光が再び現れ出しました。
今、最も興味深いことに注意しましょう。
主はまさしくその時にこのようなことを言っています。

「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章13節

続けて、主は言っています。

「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、---わたしに対する信仰を捨てなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章13節中略

ここに注目すべきことがあります。
キリストはサタンの王座に座っている者たちを見て、なおかつ、この者たちに「わたしの名を堅く保って」いることを賞賛しています。
アリウスはみことばの永遠性を否定しました。
ヨハネは言っています。

「初めに、ことばがあった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章1節

キリストは常に存在しておられます。
すべての事柄の始まりが始まった時、みことばがありました。
アリウスはみことばが神から発したすべての存在の中で最も偉大なものであると宣言しました。
アリウスに対して異論を説く者は、神と共におられる唯一の方がみことばであると主張しました。
永遠なる三位一体---父、子、聖霊
一つの神が三つの人格を持っているのです。
それは教会が今までに直視するように求められていた最も重要な問題です。
そして、それは1世紀もの間、至る所で熱い論争を引き起こした強烈な問題だったのです。
長い間、教会はこの二つのことばにおいてほとんど分裂状態でした。

"homoiosian"---類質論者 キリストと父は似てはいるが本質的には同じではないとする者。
"homoousian"---同本質論者 キリストと神とは本質的に同一とする者。
最初はアリウス主義者の閧の声です。
二つ目の声は正しい声でアレキサンドリアの監督でアタナシウスによって率いられました。
コンスタンチーヌはついに自分の問題(皇帝と教会についての問題)について関与することを決定し、その争う集まりは妥協などしませんでした。
そして、コンスタンチーヌはニセアの街で行われた大きな教会会議に呼ばれたのです。
その会議は、使徒たちの教義の問題であり、その真実性について議論しました。
イエスは神なのでしょうか、もしくは単にイエスは偉大な方だけなのであり、神がそのような存在に至らせたのでしょうか ?
300以上の監督とコンスタンチーヌは共に集まりました。
コンスタンチーヌは金の王座に座り、クリスチャンの教会の指導者として認められ議長をしました。
まさにその時、彼は最も位の高い法王、もしくは異邦人の大祭司としての資格に至ったのです。
これは現在においてのローマ法王の資格と同じものです。
この問題はいろんな方向から調べられました。
何度もコンスタンチーヌはこの騒動を鎮めるために呼ばれました。
感情はとても高ぶったことでしょう。
ある時、才能のあるアリウス主義はこの反対者を静めたかのように思われました。
また、この会議に参加している大きな集まりはコンスタンチーヌの件に結び付け、忌まわしいユーテリアン(三位一体を否定する)異教に賛成し、その票を投じている集まりのようにも見えました。
例えるのなら、アフリカの砂漠からの隠れるように出てきた人の足はトラの皮で覆いトラのごとく見せますが、まさにそれに飛びつくようなものです。
アリウス派の者たちは大きな傷を暴露し、この後者であるコンスタンチーヌ派を自分の背中から引き離したのです。
(その結果、彼らは野獣のいる競技場に投げ込まれ、その爪によってひどく傷つけられました。)
そして、劇的に叫びました。
これらの事は主イエスキリストの権威がかかっているのです。私はこれ以上この冒涜を聞いていることは出来ません。
それから、このアリウス主義者はキリストの永遠の神性についての真実を明確に述べ、とても活発に演説し続けたのです。
その会議に参加している多くの者は、それが聖霊の声であることをすぐに認め始めたということです。

この物語がたとえ真実だったにせよ、私にはこの内容が真実だったと言うことは出来ません。
しかし、これらの事は間違った霊(教え)が広がっていることを示し、多くの者がそれに賛成しているのです。
そして、大部分の者がディオクレティアヌス皇帝の恐ろしい迫害を通ってきた多くの者だったのです。
その最終結果はニセアの会議にて、私たちの主イエス・キリストの真実な神性を告白するようにとの記録が残されました。
「真実に神なる方」、「光の光である方」、「完全なる完全である方」--祝福された一つの人格の中に神として、人としての両方の存在を持った方、この二つの存在は決して離されることはありません。
このようにかつて、そしてみことばの権威に立ち、キリストの御名が否定されることなく、永遠に公衆の面前で神の教会の信仰が認められるに至ったのです。
もしこの会議が他の方法をもって、キリストにある信仰について決定されたならば、あなたは何も考えることはなかったでしょう。
それは何を意味したでしょうか?
ユニテリアン派の教義(三位一体の教理の否定)はこの時より後に、正統派という印を持って行こうとしました。
そして、真実なるキリストの神性は異教の標章をつけられたのです。

私たちには上記の引用された節の後半にあるアンテパスが誰であるか記録されていません。
しかし、その言葉は少し変わった意味があり「すべてに対して(反抗して)」という意味があります。
ニセアの会議後、多くの年月が過ぎ、アリウス派は再び優勢になりました。
アタナシウス、その真実なる勇敢な年おいた優勝者はアリウス派のテオドシウス皇帝の前に呼ばれました。
皇帝は彼にアリウス派の教えに反対するのをやめる様に要求しました。
---ところで、この皇帝は死んでから後に、主の晩餐にアリウス主義者が認められるようになりました。
アタナシウスはこれを拒否しました。
テオドシウスは霊に従わずにいることを求めているという理由で痛烈に彼を叱り、激しく問いただしました。
「あなたは全世界があなたに対立しているのを理解していません。」
真実な勝利者は直立し、皇帝に答えました。
「ならば、私は全世界に対立しています。」
彼はさまざまな種類の追放と反対にもかかわらず、その時代における、真実である忠実な証人アンテパスでした。
ああ、私の兄弟たちよ。
今日、神はこのような人を求めているのです。
もし、この世界すべてに反抗する必要があるのなら、真実な理由をもって立とうとする者を神は求めているのです。

私たちは今、ペルガモの時代にあるもう一つの状態について考えて見ましょう。
それは教会の中にニコライ派の教えが入って来たことです。
バラムはバラクを教え、イスラエルの子孫に障害物を置きました。
それは民数記25章1〜9節において記録されているように、ミデヤン人の女と聖くない関係を結ばせるように彼らを導いたからです。
その姿は教会と世との結合を表します。
スミルナの教会時代と呼ばれる間、サタンは迫害によって教会を滅ぼそうとしました。
次の三世紀の間、サタンは異なる作戦行動に出たのです。
サタンは外から世的という支援を受け証しを破滅させようと努力しました。
そして、中から偽りという原理を導入したのです。
キリスト教世界で異なる名称を得たのです。
その時、彼らは主の輝きをもって、もっとも光り輝いた時代と言えたでしょうか?
その輝きは、彼らが最初の愛を持っていた時代において輝いていました。
彼らは世から苦しみを受け、彼らが世からの迫害の良き対象となっていた時代において、彼らは光り輝いていたのです。
しかし、これらの時代は過ぎてゆきました。
迫害の時代は終わったのです。
世が彼らを満足して見始めたのです。
世は剣と危険の代わりに、両手いっぱい広げた手とにっこり微笑んだ顔で彼らを迎え入れます。
すべての場合において衰弱し始めたのです。
それがペルガモの時代なのです。
コンスタンチーヌの支援はディオクレティアヌスの迫害を出来なくさせたのです。
それが教会を堕落させたのです。
教会は主が来られるのを待つ純潔な処女として召されたことを忘れてしまったのです。
その時、教会はキリストを十字架につけたこの世と結婚し、教会はこの世の側につきました。
このように教会は現実には決して悔い改めることをせずに、聖くない同盟をこの世と結んだのです。
このことは邪悪な原則を教えるニコライ派が入ってきたことと結びつけて考えることができます。
他の者たちは翻訳されていないギリシャ語に意味があることを何度も示してきました。
ニコライ---「民の支配者」
ニコライ派の教えは実は知識階級の教えです。
彼らは一般人と呼ばれる者たちを自分自身の持ち物のように支配することを目的とした階層制度によって軽蔑したのです。
彼らはこのように書かれていることを忘れています。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書23章8節

エペソへの手紙の中で主はエペソの人たちにニコライ派の行為を憎むことを賞賛しました。
これらの者たちはディオクレティアヌスのように、彼らの間で優越感に浸るのが好きだからです。
しかし、ペルガモへの手紙の中では、私たちにはニコライ派が違った仕組みを持つ教えとして示されているのです。
それは知識階級が神を原点としているものとして受け入れられたということです。
従って、何かが曲げられなければなりません。
このようなことがテアテラの時代のために準備され、この後の手紙と一致していることです。
私はいままで、でてきた名前に何か意味があることを示そうと試みてきました。
テアテラはおそらく意味を明確にすることが最も困難でしょう。
学者は私たちに二つの言葉から出来ていると説明します。
一つは「犠牲」、もしくは「香のささげ物」を意味しています。
もう一つの意味は「絶えず進む」と言う意味があります。
推薦された解釈は「継続的な犠牲」です。
そして、このことはとても意味があることです。
テアテラの時代の教会は確かに教会と国家の連合された時代であることは、すでに気がついていることでしょう。
それは7世紀にローマの監督が正式にキリストの代理人として、目に見える教会のかしらとして認められました。
このことは正確に話す事ですが、この時教皇政治が始まったのです。
これは私が知る限りでは、ローマカトリックが教会の始めではありません。
キリスト教世界のかしらとして認められたローマ教皇が出てくる以前には、ローマカトリックは存在していませんでした。
プロテスタントがこのことを念頭において、このことを考えることは重要なことです。
あなたはカトリック信者がしばしばこのように言ってのを聞くかも知れません。
あなたは最初の教会がローマカトリックであることを知っているはずです。
そして、プロテスタント教会という全く異なる枝はローマカトリックから分かれたのです。
プロテスタント教会はルターの時代までなかったのです。」
これは全く間違ったこじつけです。
7世紀に至るまで教皇政治たるものは存在していなかったのです。
6世紀もの間、教会はますます堕落してゆきました。
7世紀に至るまで、教会は神のみことばから離れて漂っていました。
7世紀における神のしもべとしての自分を推薦する者の告白は、すでにすべてのキリスト教会のかしらとして法王を認める準備が出来ているか!だったのです。
あるローマカトリック教徒がプロテスタントの学校に通う聖書に通じた女子学生に尋ねたことがあります。
「ヘンリー8世の時代、あなたの教会はここにありましたか?」
彼女は気がきく適切な答えをしました。
「なぜ、あなたはこんなことを聞くの?
聖書を中にあなたの教会も出てこないでしょ!」
7世紀と言えば、初代のクリスチャンから見れば遠く離れた時代です。
その時、彼らはすでにローマの司教の要求を受け入れる準備ができていたのです。

私はテアテラという意味が継続的な犠牲を意味すると言いました。
あなたはローマの教会の大きな根本的誤りの重要性を知るでしょう。
つまり、ミサにおける犠牲です。
ローマカトリック教会の司祭は、ミサにおいて、彼らの捧げるささげ物が生きている者と死んだ者のために有効な継続的な罪のささげ物であることを宣言しています。
そこにはプロテスタントが見逃すことの出来た多くの事柄が存在しています。
この中心的な根源は神への冒涜です。
カルバリの十字架に掛けられた主イエスの完成された御業を否定することです。
邪悪な世界のために完全なささげ物は唯一です。
そして、それで十分なのです。
司祭がミサのささげものを捧げるためにローマの祭壇に立つたびに、司祭はカルバリの十字架の上で主イエスによってなされた働きの変わらない有効性を否定しているのです。
私は何度もカトリックの祭司の家にこの問題を押し付けました。
あなたにとって祭司のささげ物の土台は何なのですか?
彼らは「その土台とは生きている者と死んだ者のために有効な継続的な罪のささげ物であり、それに応じて、わたしにとって主イエスを捧げる恵みなのです」と言っています。
私はそのことに対して通常このように質問しています。
「さて、キリストが捧げられるためには、キリスト御自身がほふられなければなりません。
キリストはほふられなかったでしょうか?」
---「その通りです。」
「では、あなたは、毎回祝福を宣言する度に、生きている者と死んだ者のために有効な継続的な罪のささげ物としてキリストを捧げることを宣言していますか?」
---「その通りです。」
---「では、あなたはその時に、そのいけにえを捧げる度に、何度も繰り返してキリストを殺していることになります!」
その時、彼らは逃げ始めます。
しかし、彼らにとって恐ろしい結論からの脱出の方法がありません。
ローマの司祭がミサのささげ物を捧げる時、彼がもう一度生きている者と死んだ者のためにキリストを現しているのだと司祭は言っています。
そして、キリストを捧げることのできる唯一の方法とは、キリストを死に置くことです。
ゆえに司祭が捧げるたびにキリストを殺すことになります。
使徒ペテロはペンテコステの時に言いました。

「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」

新改訳聖書 使徒の働き2章23、24節

もし、キリストが絶えず捧げられなければならないのなら、司祭は神の側から見て主イエス・キリストを殺害する罪を犯しています。
神はすぐにローマを裁かれます。

キリストのテアテラへの手紙がこのローマの教会の大変な冒涜について正しく話しています。
「継続的な犠牲」?
それは決してありえません!
キリスト御自身の十字架の他にいかなるささげ物の必要はありえません。
主の威厳はとても偉大なのです。
キリストの血の価値は絶対的無限の価値を持ちます。
あなたにとっても、そのほかの人にとっても新しいささげ物について語ることは無駄なことです。
あなたは「先生!私はあなたに同意します」と言うかもしれません。
よろしいでしょう。
今は私に尋ねてみてください。
あなたはどのように、一度だけ十字架の上で一つの捧げられたささげ物と関係を持つのですか?
あなたは言うことは出来ます。
「神に感謝します。
キリストは自分自身を罪のためのなだめのささげ物として捧げられました、そしてキリストは私の救い主です。
私はこの他にいかなるささげ物をも必要としていません。
私のたましいはキリストの完成された働きを信頼しています。
私は私たちに神が示してくださった以上のことは何も要求することはないはずです。
では、私たちはテアテラに宛てられた主の手紙に戻ってみましょう。

「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章18節

この御言葉は主がそれぞれの者にこれらの教会に御自身を現わす方法としてとても意味のあることです。
そして、教会が特別な状態であると判断できます。
その時、主は厳粛に「神の御子」としてテアテラの教会に御自身を現わしています。
なぜ、主イエスキリストはここで自分が神であるという事実を強調しているのでしょうか?
それがローマがあらゆるところで人々にキリストはマリアの子であると教え、習慣づけさせていたからです。
かつて、私はキリスト、もしくは御父のところへ行くよりも、すぐに聖母マリアのところへ行くと話していた婦人と話すことがありました。
彼女は言いました。
御子は聖母とともに多くの影響を与えています。
このような影響を与える者は他にはありません。
でも、もし主キリストがわずかにでも不人情なことがあるのなら、私はキリストの良き母親のところへ行きます。
そして、私は「私のためとなる主キリストへの良き言葉を言わせてください」と彼女に尋ねるのです。
何も言えなくなるほどに、私たちの主イエスキリストを茶かしているのではないでしょうか!
キリストの愛を受け取るために、キリストの以外の場所に「もう誰でもいいから行け」と言っているのと同じです。
誰がキリストと比較できるのですか?
このようにキリストをマリアの子としてみる時に、キリストの立場が格下げされているのです。
キリストは神の御子です。
キリストは哀れな罪人を救うために無限の恵みをもって来られた方です。
キリストは「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」方であることに気がついて下さい。
このことはキリストの聖さと正しさについて話しています。
キリストはこれらすべてを裁かなければなりません。
それでも、キリストは推薦すべきことを決して見落していません。
キリストは語り続けます。

「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章19節

主はローマの偉大な良き業績を賞賛しています。
思い出してください。
7世紀から現在に至るまで、見のがされることができないローマカトリック教会の良き働きの習慣があり、そこには大きな哀れみが示されたのです。
ローマカトリック教会の修道女と修道士がいて、貧窮者と病人のために生きるための準備があったのです。
ルターの時代以前に、西ヨーロッパの病院ごとにローマカトリック教会の修道院または修道院が存在していました。
主はそれらのことを忘れてはいません。
わずかな信仰があるのならば、神の愛はそのことにじっと注目しているのです。
もし、ローマ教会の盲信の中にある心が主御自身の祝福にたどりつくのなら、キリストは恵みにあって彼らと出会い、彼らへのキリストの愛を明らかにします。
しかし、その時、主は彼らの悲しい汚れの上に主の指を置きます。

「あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章20節

よくこれを理解するために、私たちはアハブ王の時代におけるイスラエルの歴史に戻る必要があります。
イゼベルは混ざる技法の名人でした。
彼女はイスラエルの信仰とフェニキアの信仰を一つに結びつけるために証人になりました。
彼女はローマカトリックとまさしく同じ事をしたのです。
教とキリスト教とユダヤ教を混ぜたのです。
それはキリスト教ではありません。
しかし、その中にほんのわずかですがクリスチャンがいたのです。
その迷信と、その礼拝の姿は何処から来たのでしょうか?
異教徒を改心するのを助けるのだという弁解のもとに、偶像礼拝に丸ごと捕らえられてしまったのです。
教会は偶像崇拝にすっかり適応してしまいました。
4世紀、5世紀、そして6世紀において、あなたはこのように段階を踏んで異邦人の慣習と儀式に妥協してゆく教会を見つけることができます。
7世紀に入ると、クリスチャンの教会においてこの異邦人の慣習について激しく非難する必要もあったはずです。
しかし、このように融合されたものは片側からもう一方へ切り離すことは完全に不可能な状態になっていたのです。
ローマのカトリック教会に行きます、そしてすべての儀式をこなし着席した後に、あなたは聖書を持ち、端から端まで調べてみてください。
そして、自分自身に問いかけてください。
「聖書の中にそのようなことが書かれていますか?」
あなたはきっと言うでしょう。
「そんなことは書かれていません」と....。
それがその時何処からきたのか、あなたは疑問に持つかも知れません。
異邦人寺院に行ってください。
その儀式を見るのなら、あなたはきっとこのように言うでしょう。
「そのとおり、これらのものは同じです」と....。
ローマカトリックのキリスト教はユダヤ教です。
そして、偶像崇拝と結びついています。
そして、主はこの邪悪な組合せを憎んでいます。
主がローマに反対し続ける二つの事柄に目を止めてください。
最初は教会と世界の結合です。
そして、世との友情は神に反抗することだからです。
偶像崇拝は形あるものを崇拝することです。
十戒の二番目の戒めにおいて厳しく禁じられていることです。
(出エジプト記20章4、5節)
神はイゼベルに悔い改めるために余地を与えました。
しかし、彼女は悔い改めることはありませんでした。
サボナローラ、イタリア、ウィクリフ、そして、イギリスのクランマー、スコットランドのヨハネ・ノックス、ドイツのマーティン・ルター、スイスのツウィングリ、フランスのカルバンの時代に戻って見ましょう。
これらの力強い宗教改革者は、ローマの不正から悔い改めるようにと、ローマと呼ばれる世界の至るところで神によって建てられた者たちです。

「あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。----わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録2章20、21節中略

このことがテアテラに言われていることに注意してください。
あなたはこれらの教会に移ることは出来ません。
あなたはこのスミルナ教会の代わりにテアテラを置くことは出来ないはずです。
しかし、そのことはローマの教会に適応されています。
そして、私たちの時代において、私たちは多くの愚かなプロテスタント教が、現在この古いローマがテベレ川の岸に座る年老いた無害なお人よしであると信じています。
ローマはとても満足そうにのどを鳴らします。
プロテスタントの人たちは「私たちはローマを理解することはありません。
私たちはいままでに宗教改革を行って来たというのに、彼らは何と哀れなのでしょう。」というでしょう。
そして、その努力がローマ法王によって一つの社会的なリーダーシップによって、キリスト教という大きな組織をさまざまな形において再結成する力となってゆくのです。
これはプロテスタント教会の組織の中で多数の者が公言している事実です。
これらのプロテスタントの人々は何と愚かなことを信じているのでしょうか?
プロテスタントは長い間、邪悪な教理に反抗することをやめています。
貴重な真実のために捧げられた数多い命を忘れてしまったのです。
そのことをわきまえた上で、もしこの時代において、ローマ法王がプロテスタントとふたたび同じくつわをしようとするのなら、法王はその結合を推奨し、それを制御するでしょう。
もし、プロテスタントの人々が聖書に立って礼拝を捧げているのなら、命の代価をもってそれを阻止するはずです。
しかし、プロテスタントのリーダーたちはこの偉大な教会の結合という考えに目がくらまされます。
そして、ローマとの結合の日が近づいています。
聖書ははっきりとそのことが起こることを示しています。
しかし、神に感謝すべきことに、教会がキリストによって、雲の中で主と会うために取り上げられる日まで起きることはありません。
それは主の約束と一致しています。
(ヨハネの福音書 14章2、3節)

神はローマに悔い改めるために余地を与えました。
ローマが神にとって何か好ましくない欲望を持っていると自覚していたのなら、ローマは16世紀に悔い改めることが出来たはずです。
16世紀以降、ローマは処女マリアの絶対的な無罪性を宣言し、ローマはその冒涜と誤りを付け加えました。
マリアが死ぬことなく天に引き上げられ、天の女王としての王位に着いたと宣言され、マリアは女神と立場を得ました。
バチカン会議の75年ほど前に、ローマ教会はマリアについて別の悲惨な教義を作り出しました。
ローマ法王の不可謬性です。
(ローマ法王が法王の座についている時は過ちを犯すことがないという教理)
この教理には根拠などありません。
多くの監督者たちも「これは行き過ぎだ!
私たちは何度も法王たちが互いに言い争うをしているのを知っている」と言っています。
それでも、ローマは悔い改めることはありませんでした。
ローマが中世に犯したこれらの罪は神の持つ激しい罪のリストに付け加えられました。
神はローマに対して、悔い改めを求め、そのみこころが最後まで変わることがないことをありません。
そのことすべてをはっきりとさせることがプロテスタントにとっての義務です。
神はこの女(ローマ)を「大きな患難の中に投げ込もう」と言っています。
エペソの教会は終わりました。
スミルナの教会の終わりはおよそ312年です。
ペルガモの教会も終わりました。
テアテラの教会が始まったのは7世紀です。
そして、まさに大患難時代まで存在しているのです。
ローマは最後に偉大なるバビロンとして自分自身を現わすでしょう。
彼女の子供たちが裁かれるのです。
しかし、いったい何処に「サタンの深いところをまだ知っていない」者たちを見つけることが出来るでしょうか?
神は御自分のものとして彼らを所有します。
そして、「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい」と勧めています。
それはローマが常に捜し求めていた、神の約束--克服者としての国家権力です。
キリストが来られる時、彼らはキリストと共に支配するでしょう。
このようにキリストが次に来られる時の希望は彼らの前に置かれているのです。
そして、これより以降、教会への手紙の中に同じ希望について多くの場所を占めています。
しかし、神のみことばが与える驚くべき賜物を知るのであれば、かつて一度も学ぶことができなかった希望へと導き、自分自身のために聖書を求めようとする思いへとかきたてると私は信じているのです。


七つの教会 (PART2)

おそらく、これらの注解の言わんとしてことについて、私より鋭い感覚を持ち理解する者は誰もいないでしょう。
なぜ、このようなことを言うのでしょうか?
それは黙示録の注解が、歴史が進まなければ、すべての点において詳しい説明が出来ないということはないからです。
神のみことばが与える驚くべき賜物としてその注解が完成されているので、聖書は単独で何事でも与えることが出来るのです。
しかし、もし私に出来るのなら、あなたが更に聖書を学ぼうとする意欲を磨き、自分自身のために神のみことばを調べ、そして評価するクリスチャンとしてスタートして欲しいのです。
さらにこのテーマについて書かれたもの、出版されたされた本をも同様に比較していただきたいのです。
私は、これらの注解が無駄ではないと感じているからです。
(これらのキリストのしもべである著者たちは聖書が真実であると信じています。
これらの信頼すべき著者たちの賞賛することを常に私の喜びとしています。)
数多い優れた黙示録の注解があります。
一つ一つがこのテーマについての更なる研究のために助けになると私は確信しています。
ウォルター・スコットによる「黙示録の注解」---"Exposition of the Revelation" by Walter Scott.
WM・ケリーによる「黙示録」---"Lectures on Revelation" by Wm. Kelly".
私が七つの教会について、特に賞賛するのがF・W・グラントによる「預言から見る教会の歴史」---"The Prophetic History of the Church" by F.W. Grant"です。
私たちは今、この偉大な注釈された教会の歴史について、この驚くべきタイムテーブルから見てゆきたいと思います。
次の教会から見てみましょう。

「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。
『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。
あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目をさましなさい。
そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。
それを堅く守り、また悔い改めなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章1〜3節

サルデスの意味は「残りの者」もしくは「逃げてきた者」です。
この意味には確かに意味があります。
そして、明らかに誤解されている話を聞くことがあります。
そのことを踏まえたうえで、私たちは偉大な宗教改革時代における国家的教会を預言的に見ることができます、
その教会はローマから逃げてきたのです。
しかし、堕落してしまったのです。
冷たく、命のない形式主義に陥ったのです。
そのことは最初の節からはっきりと見ることができ、ある意味においては教会の始めのころに原理に戻ったとも言えます。
主御自身が紹介しているこの教会は、エペソに宛てられた手紙と非常に似ている箇所があります。
しかし、その違いに注意してください。
ここでは主は7つの星を持っていると言っています。
エペソの教会では、主は7つの星を右手に持っていると言っています。
少なくとも言える事は、牧会者がキリストに属しているという承認です。
牧会者とはキリストの牧会者です。
決して、教会の牧会者ではありません。
それなのに、栄光ある宗教改革の時代には、人間という仲介者なしに、キリストによって牧会者がコントロールされるという真実が十分に理解されることはありませんでした。
プロテスタントの牧会者がローマ・カトリックの階級制度と非常に異なる反面、残念なことに、人間の聖職授任はキリストに対するしもべの責任という正しい概念を曇らす結果になっています。
主は厳粛に宣言しています。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。
あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章1節

なんと悲しく、厳粛な訴えではないでしょうか!
ある者は驚いてこのように尋ねてくるでしょう。
「祝福と回復である宗教改革の後の時代にそのようなことがありえたのでしょうか?」
しかし、私たちは国家的教会が最初に望んだことは、国民のすべてがこの国家的教会の一員となることを望みました。
彼らは幼児洗礼によってキリストの王国、そして教会の一員になると考えたのです。
先ほどの質問をした者は何の問題もなく、これが教会だと理解できたことでしょう。
それもこの教会がとても正統的だと考えていることでしょう。
おそらく、これらの教会は今だ、主に罪と罪過の中に死んだ者たちによって組み上げられているのです。
この膨大な人々の集まりほど悲しいことはありません。
バプテスマを受け、クリスチャンとして共に結ばれています。
主の晩餐の儀式に参加し、キリスト教と教会に熱心ですが、個人的には全く欠けています。
キリストにある信仰によって救われていないのです。
神のみことばと聖霊によって新しく生まれることよりも、形式と儀式に信頼を置き、それをある者たちは"birth-right membership"(教会員としての権利)と呼んでいます。
その時代のあらゆる場所において、男も女もその失われた状態であることを良心に問いかけるようにと断固なる福音が語られるべきあり、その大きな信仰の回復が必要となったはずです。
しかし、彼らは個人的に主イエス・キリストを受けとろうとはしませんでした。
みことばは「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」と言っています。
新改訳聖書 エレミヤ書4章3節

私たちは人々が「彼らはもっと昔に語られた改心を好んでいる」と言うのをたびたび聞くことがあります。
よろしいでしょう。
では、その昔のメッセージでは、みにくい罪の罪深さと、人の持つ罪の習慣だけではなくその性質によってすべての人間が失われた状態であることが最初に語られなければならないはずです。
そして、そのメッセージによって、男も女も、キリストを信じないすべてのたましいが捕らえられ、そして、その昔の福音によって罪の赦しだけを認めさせたはずなのです。
驚くことはありません。
主がプロテスタントに言っています。

「目をさましなさい。
そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章2節

ですから主は彼らに「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい」と要求されています。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章3節

現在、確かに、注意深く聖書を調べるすべての者にそのことが明らかにされなければなりません。
このメッセージはテアテラの時代に適用できるように、サルデスの時代についても適用できると理解することはできません。
ローマに宛てられた時に、宗教改革時代の教会に宛てられた時のようにみことばに同じ力があるとは思われません。
宗教改革時代の教会の手紙には、何を受け取り、何を聞いたのでしょうか?
それは、明らかに宗教改革の時代に恐れず宣言された偉大な真実なのです。
そして、その真実は将来、16、17世紀において告白された信条において教えられ、具体化されたものです。
そして、「私はこの信条を非難し時間を浪費する者の一人ではない」と私はいうことが出来るかもしれません。
この信条の意味するところは「私は信じます」です。
何でも信じるというどんな人でも信条を持っています。
プロテスタントの偉大な教義のすべてはローマ・カトリックの盲信から逃げた人々の信仰によって成された、注意深く作成された宣言によるものです。
彼らの願ったのは、神から受け止めた真実を認め、それを彼らの子供たちが明確にすることです。
私たちには驚く必要がありません。
もし、私たちがこれらの教義の中に何かの宣言を見つけるというのなら、その宣言はより完全な光と知識によって、教義の拒否、もしくは修正されるために私たちを導くはずです。
しかし、私はこのように考えています。
「これらのことは神のみことばの根本的な真実の中で行われていることではありません。
これらはキリスト信仰のシンボル的な出来事と見るべきではない」と私たちは言うかもしれません。
ルーテル派によるアウクスブルク信仰告白の場合においても、長老派によるウエストミンスター告白の場合においても、英国国教会の39の条項においても、更に他の多くの宣言についても述べることが出来ます。
これらの宣言の一つ一つは、真実なキリストの神性、カルバリの十字架の上で成されたキリストの贖いの御業の有効性を主張しています。
すべての宣言は救いが単に信仰によるものであり、形式的な行いによらないことが等しく宣言されています。
私は繰り返して言いますが、これらの教義は根本的なキリスト信仰の真実に立っています。
しかし、私がまさに述べているように、今だ何かこのような教派にもし付与されているものなら、今日においてその宣言された教義は、ある教職者たちの誉れではないはずなのです。
また、私はこのような教会の説教台に立って、「私はこのような教会の教義を教会の外に放り投げてしまいましょう」言うことも出来ます。
人がその到着点にたどり着いたのなら、その人はもはや彼が信じてはいないそのような教義を投げ出してしまうはずです。
もしくは、その人は自分自身を素直に捕らえようとするでしょう。
現在、現わている背教の最悪の特徴として、何千という人々がこの伝統的であると信じ込まれている説教に捕らわれているという点があります。
それぞれの教派は理解されている教義に立っていますが、もし、彼らが滅ぼすことができると言うのならすべてのあらゆる教義は破壊することも出来るのです。
そして、これらの教義にあって阻止されていた真実が復帰されたゆえに、私たちは神に感謝を捧げることが出来るかもしれません。
一方で、そこでは神のみことばが服従させられていることを私たちは認識できます。
しかし、人間らしく描き出された教義はすでに必要ないはずです。
それにもかかわらず、この告白の中に主の言われた通りに私が納得させられる見解を見ることができます。

「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章3節

主がプロテスタントに要求しているのは、宗教改革にて偉大な真実を遂行したことを思い出し、それをしっかりと捕られていることです。
そして、プロテスタントが過ぎた時代において扱った不注意な方法を悔い改めることなのです。
そして、今、この教会においても主の到来を主御自身が近づいていることを語っています。
これらの手紙において2度目のことです。

「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。
あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章3節

このみことばはテサロニケ人への手紙第一5章にあるみことばと大きく違っています。
そこでは使徒パウロが同じ素晴らしき主の到来について、このように書いています。

「しかし、兄弟たち。
あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」

新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一5章4節

その違いは明白です。
ゆえに、その主の到来は、日々その日が来ることを期待している主の愛する人々のためにあるのです。
主の到来が、突然で思いがけないものとして盗人のように来ると告白する多くの者たちだけにあるのなら、その者にとって主の到来は喜びの代わりに失望を並べることになります。
テサロニケ人への手紙第一5章4節における主の宣言と約束を知るのなら、私たちは祝福されるでしょう。

訳者注)
「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」

新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一5章3〜5節

多くの聖書注解者がキリストの空中再臨は突如として、前兆なく起きることを主張しています。
これは正しいことであり、主の権威を主張することです。
(「キリストはいつでも来られることが出来る」という意味として理解するのであれば...。)
「その日」は確かに「キリストの地上再臨、もしくは患難時代におけるさばきの時代」を指すでしょう。
この時代にはクリスチャンは天に引きあがられ(空中再臨)、主と共にいます。
しかし、「暗やみ」という言葉は患難時代を示していません。
確かに、「暗やみ」という言葉は悪魔の支配しているところ、裁きを指している箇所があります。
単に「暗やみ」と言うのならば現在、主を信じない世全体が「暗やみ」です。
しかし、ここでは「光」と対照的に描かれています。
光は明らかに「みことば」、もしくは「神の支配」を示しています。
(ここで千年王国について語っているのではありません。)
つまり、主はいつでも来ること出来ますが、クリスチャンにはその日がますます近づいていることをみことばから知ることが出来ることを主張している箇所です。
時代はますます、聖書の語っている時代に近づいているのは明白です。
単に、突然で思いがけないものとして盗人のように空中再臨が来るのであれば、アイアンサイド氏の言うように「喜びの代わりに失望を並べること」になるでしょう。
つまり、いつ来るか判らないということだけを主張しているのであれば、ペテロの手紙にある反論者のように、キリストの来臨はどうなったのか、もしくはそんな簡単には再臨が来ないという事を代弁していることになります。
私は固くこのことを主張します。
私たちを迎えに来てくださる主イエスの来臨は目前です。

さらにサルデスの教会において、「その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者」だと言われる人たちを見ることができます。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章4節
ただ、キリストの血だけが彼らを導くことができました。
何千ものキリスト教世界にいる者たちが連合され、一つ一つがほとんど区別がつかないほどに結びついてゆきますが、それは聖書的ではありません。
にもかかわらず、主の目にははっきりと認識されています。

「主はご自分に属する者を知っておられる。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二2章19節

これらの勝利者へと「このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」という約束がされています。
その現れの時には、何千もの名がキリストを信じていなかったという告白がされることになります。
それは人としての問題ではなく、真実に神によって生まれたかの問題です。
キリストにあって与えられる永遠の命は失われるということは聖書以外の多くによって示されることがありますが、聖書によってそのことを示すのは不可能です。
現実に、他の方法であろうとも、永遠の命を失うことはありえません。
キリストにあって永遠の命を持つと告白する者の名はすでに登録されているのです。
実際にユダの手紙で言われているように、彼らは「枯れに枯れた(二度死んだ)」者です。
新改訳聖書 ユダの手紙12節
最初は罪と罪過の中に死に、二度目は永遠の命の告白において死んだ者です。
現れの日において、彼らの名前は取り除かれています。
しかし、真実にキリストにある永遠の命を持つ者の良き行いはその日まで継続され、彼らの名がいのちの書に残され、そのことが証明されます。
このように主の再来の時に御父と御使いの前でこのような告白がなされるのです。

次はフィラデルフィアの教会への手紙です。
その意味は「兄弟愛」を表わします。

「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。
『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
---あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章7〜10節中略

このフィラデルフィアの教会をリバイバルと呼ぶ時代だと私は信じます。
宗教改革が引き連れてきた、冷えた生命のない形式主義がすべてのプロテスタントにおけるキリスト教世界の上に置かれた時---人が単に教義を告白することに満足し、私たちがすでに述べてきたように、人がバプテスマによって教会に結びつけられると考えられていた時代がありました。
しかし、18世紀、19世紀において、宗教改革が行われた国々の上に祝福された偉大な波が来たのです。
神は偉大な力をもって新たに働き始めたのです。
素晴らしい目ざめの時が北ヨーロッパとイギリス諸島にありました。
半世紀後に同じ偉大な力はアメリカに現れ始めました。
聖霊はキリストのしもべに満ち始め、これらの者たちは主の先導者のようにさまざまな国々通して進み出ました。
罪人には悔い改めが、聖徒たちには彼らの素晴らしい特権に目覚めることが求められました。
その少し後で、19世紀の始めのころ、神は特別な方法をもって、神のことばの価値をより深く理解するように、神に選ばれた多く者に刺激し始めたのです。
この場面にいた神の選ばれた者たちの導きは、神のことばの価値を十分に認めさせることができたのです。
この導きによって、神の選ばれた人々の集まりの中心にキリスト御自身が存在されるという事実を認識させたのです。
そして主の御名のために何千もの人々があらゆる人間の組織から去り、そして神のみことばによってのみで導かれようと努め、単純にその必要に出会い始めました。
今、私たちは黙示録の暗示していることに何か意味あるものとして行うことはしません。
それは何か特別な動き、もしくは本質的にその結びつきがフィラデルフィアであるかのごとく理解し、クリスチャンたちが連合を結んだりすることを聖書は示していません。
しかし、サルデスの教会に宗教改革時において国家的教会が示されたようにプロテスタントの中にフィラデルフィアが示されたのは、プロテスタントに神のみことばの権威、そしてキリストの御名の貴重さを強調する必要があったからだと私は信じています。
フィラデルフィアについての要求がいくつかの特別な集まりへ求められました。
しかし、それは忌まわしい教会の権限として行われたのです。
そして、神はこのようなうぬぼれにはっきりと打撃を加えるのです。
この特別な方法とは何かに気をつけてください。
それはフィラデルフィア人ように歩もうと求める人々に注意をうながすことです。
第一にこの教会の名前にはとても意味があります。
それは「兄弟愛」です。
ここでこれらの兄弟愛を考えることには暗示があります。
彼らは神によって生まれ、神の愛が彼らに与えられた聖霊によって彼らの心の中に広く注がれています。
そして、彼らはキリストの所有とされたすべての者に示す愛によって個性付けられています。
ああ、これらの者たちの中に見られる特徴は何と小さなことでしょう!
現在、主の証言をするために、彼らにはとても大きな要求が求められています。
そこには神を土台とし、霊的な原則を保つための多くの高レベルな真実と、大きな要求があります。
しかし、最初の兄弟愛を見逃しているのなら、あなたはいまだにフィラデルフィアを見つけていないのです。

次に、主が教会に御自身を現わしたその特徴を観察することができます。

「聖なる方、真実な方、---その方がこう言われる。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章7節中略

このこと自体、命の中を歩む私たちにとって、悪から、そして間違った教理から分離するための挑戦的な宣言となります。
つまり、もし私たちが交わりの中を聖い方と共に歩むのなら、私たちは「聖なる方にならって、あなたがた自身も、---聖なるものとされなさい」というみことばを思い出さなければなりません。
もし、私たちが真実な聖い方との交わりを楽しもうとするのなら、私たちはサタンのうそを拒否しなければなりません。
そして、私たち自身を真実に愛し、生きなければなりません。
それゆえ、それに従うのなら、他の者によって言われているように「悪からの分離は、神の原則に結びつく」こととなるのです。
確かに、冷たく、形式的な考えからの分離について言っているのではありません。
しかし、それが悪からキリストへ分離することなのです。

第三に主はご自身について語っています。

「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章7節略

イザヤ書22章22節を見るのなら、ダビテの鍵を持つものとはダビテの家の管理人でした。
そこではエリヤキムのことを言っています。

「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」
新改訳聖書 イザヤ書22章22節

この節の残りが示しているのはエリアキムが主イエスキリストの型であることです。
この唯一なる方の片の上にすべての御父の栄光が置かれました。
イエスは聖霊によってこの偉大な神の真実である宝庫の扉を開きます。
そして、誰も閉じることができません。
他の言い方をすれば、そこにはよこしま思いでいると、真実に歩む事に対して不本意になり、イエスが扉を閉めてしまいます。
その扉は誰も開けることができないのです。
イエスが他の箇所で言っています。

「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
新改訳聖書 マタイの福音書6章23節

キリストがダビデの鍵を持っているという反面、別の理解をするのなら私たちはキリスト御自身が鍵であると見ることができます。
それは神の人々のたましいのためにキリスト御自身がそのことを現わし、キリストが神のみことばの宝庫を開けるのです。
ですから、それを理解することは祝福となるのです。
このようにキリストは聖書は鍵であり、そのほかに必要はありえません。
聖書を理解するためにキリストだけを知る必要があります。

おそらく、私たちが開いたり、閉じたりすることをみことばに適応させようとするのなら、別の考えもあるはずです。
つまり、それを礼拝(奉仕)に適用することです。
主御自身が主が送ったこれらの者にドアを開き、また主がこれらの者たちのためにドアを閉めるのなら、彼らはその意思を示すでしょう。
そして、このことはフィラデルフィアのクリスチャンが一つの実例となります。
彼らは日常的にそのとびらを見つけているのです。
キリストが神の家を支配する御子であるという真実に従って彼らは行動しました。

しかも、キリストは御自分のしもべに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命令しておられます。
新改訳聖書 ルカの福音書16章15節

何千ものしもべたちがキリストだけに信頼し出てゆきました。
自分の国だけではありません。
海の向こうの国々へ、さらに異教の人たちにも福音を述べ伝えたのです。
どんな組織も彼らを支える集まりもなく、あらゆるすべての必要を満たす主御自身を見つけていたのです。
そして主がまさに言われているように開いたり、閉じたりしているのです。
「どんなことが起ころうとも、信仰は確実に主を信頼させるでしょう。」
私は8節が二つ目の適応を強調していると考えます。

それはイエスが「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」と言っているからです。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章8節

ここにフィラデルフィアの教会の重要な特徴を見ることができます。
「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」
神のみことばを守ることは聖書を信じる、読んだり学ぶことよりも、とても大きな必要であるはずです。
それは主の現わされたみこころへの服従を意味するからです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

新改訳聖書 テモテへの手紙第二3章16節

それを理解することはとても祝福されることです。
行動を起こすべき信仰のために、なんと広い視野を持つ必要性があるのでしょうか!
神の祝福された本は、私のすべての歩みにおいて「私が神に服従を求めて歩むように」注意を払っています。
この本が私を案内することができない状況を決して見つけることはできないでしょう。
そして、私は神のみことばを守る必要性を信じています。
神の御名を拒むことは、私たちの周りに増え広がっている背教の姿です。
神の御名を拒まなかった者たちは、すべての点において神を汚す者たちとの交わりを拒みます。
キリストは彼らにとって他のすべての事より、特に礼拝のためには貴重な存在です。
彼らの中に彼らが求めている価値ある御名を辱め、汚す者がいます。
彼らはそのような者と連なることを拒みます。
それはどこであっても、フィラデルフィアの真実として宣言されることは有意義だと思います。
しかし、悪魔は人々のこころを引き離そうと偽りを起こすのです。
そして9節にあるように主はこれらの者たちをはっきりとサタンの集会として話しています。

「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章9節

その日が来た時、彼らは主に忠実な者たちの足もとに来てひれ伏すのです。
そして、主が彼らを愛していることを知るのです。
それは、考えているとおりに、確かに偽りのユダヤの組織です。
ユダヤの組織を主張する者はあらゆるところで恵みの真理に反対しています。
私たちは主に喜ばれようとしている恵みの原理を実行しようとしますが、彼らはこの原理を妨げるあらゆる方法を捜し求めているのです。
これらの教師は無知にも、真実なクリスチャンとしての立場を捨てようとしています。
彼らは霊的なイスラエルと主張し、自分自身にユダヤ人の約束とユダヤ人の希望を割り当てようとしています。
そして、クリスチャンとしての良心をユダヤの律法主義の束縛の下に置こうとします。
このように彼らは現実にはサタンの働きを行っているのです。
10節の約束は他の教会への約束と違って、すべての真実な神の子供のために約束されています。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章10節

このみことばは主の誓いであり、彼らは主の御名を愛しています。
そしてみことばを守ることを求めています。
彼らにまさに地に来ようとしている恐ろしい患難を通るために、この世界に残ることはありません。
この表現はヨハネの黙示録においてたびたび使われる表現です。
その表現は単純に世に住み人たちを意味していません
しかし、聖書のいろんな箇所を注意深く読んでゆくのなら、特別な言葉を見つけることができます。
その言葉は「地に住むすべての者」---"the earth-dwellers"であり、天に国籍を持つ者と対照的な意味を持っています。
彼らは人としてはクリスチャンとしての告白をもっていますが、天の召しを拒否しています。
それは彼らは地上的な関心事と世的な方法によって証明され、彼らは現実には世に属しています。
彼らのすべての希望と宝は地上にあります。
主もこのように言っています。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書6章21節

彼らのために来ようとしている大患難は恐ろしい試みの時です。
黙示録の大部分が扱っているこの混乱の時については、私たちは後の講義にて明示してゆくことにします。
しかし、現在の時代(dispensation)の教会が主に会うために取り上げられる時がきます。
そのことはテサロニケ人への手紙第一4章13〜18節で約束されていることです。
そしてこの節の言っていることと一致していることを確認するために、黙示録の後の節を見てください。

「わたしは、すぐに来る。
あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章11節

主の再臨はすべてのクリスチャンのこころに持つべき希望です。
彼らは彼らを愛し、彼らのために御自分を与えたキリストに会うことに憧れているのです。
主の来られる時、彼らは主の裁きの座の前にて明らかにされることがあります。
ここで彼らは地上で行ってきた礼拝(奉仕)に従って報いられるのです。
その時、主を拒否した時代に捧げられた礼拝(奉仕)に報いて、主は彼らに冠を与えられるのです。
「あなたの冠をだれにも奪われないように...」という警告に注意してください。
それは「あなたのいのちをだれにも奪われないように...」でも、「あなたの救いをだれにも奪われないように...」ではありません。
それはキリストにあって永遠に保証されていることであり、神が支えてくださることです。
私は救いを失うことはありません。
しかし、もし私が忠実なしもべではないのなら、私はその冠を失うかもしれません。

そして、「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす」と語られています。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章12節

すべてのことは私たちの哀れな知識では計り知れないことです。
私たちの理解力には限りがあります。
しかし、そのことは確信について、保証について、交わりについて、主御自身との親しい交わりについて語り、クリスチャンの心を天国のことで満たします。
それは主の祝福と永遠の家です。

このラオデキアの教会にて七つの教会を終え、この時代が私たちの時代となるのです。
実際に地上にあるキリストを告白する教会の最後の舞台となります。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。
『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。
あなたは、冷たくもなく、熱くもない。
わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章14〜16節

ラオデキアの意味は複合語であり「人々の権利」です。
いくつかの他の言葉を使って、現在の教会の状態を適切に現わすことができたはずではないでしょうか?
世界と教会の両方に民主化の時代がやって来ました。
人々の大部分はいままでにない、これらの偉大な力を理解しているはずです。
その素晴らしいスローガン、人々の主張、神の声(民の声は神の声)
高々とそれははっきりと世界中に鳴り響きました。
帝国主義、そして貴族の政府のあらゆる形が消滅しました。
--現在、わずかに存在しています。
無政府状態の時代は私たちの上にはほとんどありません。
ソ連共産主義は不幸なロシアに限りません。
その共産主義はあらゆるキリスト教世界の中に恐ろしい進展を成しています。
政治家と資本家は現在ほど、悩み、神経質になった時代はないでしょう。
世界大戦において、私たちは兵士たちが世界の民主主義の安全のために戦ったことを話します。
政治家は民主主義から安全な世界を作るためにすぐにでも軍隊を作ろうと試みています。
この極端な民主主義の時代の霊はキリストを告白する多くの教会に忍び込んでいます。
神の権威と神のみことばは速やかに否定されます。
ゆえに、ラオデキアへの手紙と自由主義との間にある一致は、私たちについて一般的に考えるのならば、特筆すべきことがあります。
今日において、神の真実に対する証言はだんだんと小さくなっています。
主はご自身をアーメンなる方として送っています。
これはすべての神の約束を確立される方であることを示します。
そして、この方は忠実な、真実な証言者であり、最後まで神であり続ける方です。
にもかかわらず、主に従うと告白した多くの人々が背教によって払い除かれてしまいます。
主は御自身と真実に対するなまぬるさと無関心のゆえに、教会をしかっています。
主は「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」と言っています。
そこには神のみことばに対する強烈な熱意も、キリストと聖書を絶対拒否するということもありません。
その代わり、そこには聖霊ににとって忌まわしい吐き気をもよおすなまぬるい状態があるのです。
なまぬるい水は、もともと吐剤なようなものです。
そして、主はこのなまぬるい教会ををここで取り扱われるのです。
主はもはや、これ以上このような状態を寛大に扱うことができません。
しかし、主は裁きにある実にいやな教会を吐き出してしまいます。
一方、教会はその誇りと自己満足によって進み続けます。
ですからこのように言われています。

「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章16節

そのみことばは、決して教会の地位ある人と肉的な事柄に関心を示すリーダーを満足させることはありません。
現在において、彼らの働きは偉大なものだからです。
教会にて人気を追求することは何事においても支持されます。
人々の権利は十分に考えなければならないでしょう。
しかし、主イエスキリストの権利は考えられることはありません。
多くの場所において、私たちがキリストと共にいることよりも、キリスト無しでいることのほうが簡単になってきました。
もし、聖霊が偉大な力をもって私たちの間で働かなければ、聖霊なしで信仰の計画を進めてゆくことも簡単なのです。
聖霊が言うのも不思議ではないからです。

「わたしはあなたに忠告する。
豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。
また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。
また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章18節

その通り、そこにはたくさんの働きがあり、多くの肉的な力と人間の努力が世を矯正するためにあります。
そして、キリストから離れて生きる人間の快適な状態を作るのです。
なのに、神の真理である偉大な事柄は完全に無視されています。
そして、いわゆる教会の奉仕者たちは新しい誕生を全く知らない人たちで占められています。
彼らは誰も神の御国を見ることはできないでしょう。
そして、私たちはキリストを告白する教会のドアの外に主が立っているのを見ます。
そして、とても丁寧な勧めをしています。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章20節

ああ!愛する友よ。
この時代において、それは遅らされています。
夜はさらにふけています。
そして、主は御自分の教会の真ん中で始められています。
そしてこのなまぬるい組織の外に立って、主の御名によって呼んでいます。
主は無駄に思えるほどドアの中に入ることを求めたたき続けます。
それでも、一人一人皆が主のために扉を開けようとはしません。
主の御前で、地上に存在する教会、もしくはキリストを告白する教会が与えることができる他のすべての事柄より、この扉を開けることの必要性を見つけてください。
そして、私たちは恵みの現在の時代の終わりにいます。
エペソの教会の時代はずいぶん昔に過ぎ去ったことです。
同じようにスミルナとペルガモの教会の時代の真理も過ぎ去りました。
テアテラの教会、私たちはすぐにそれを見て、ローマ・カトリックのことだと話しでしょう。
そして、その通りに、ローマ法王は普遍的な司教として認められ、私たちとともに終わりの時まで進みます。
サルデスの教会はテアテラの後の時代に始まり、現在の時代まで残っています。
そして、主が来られるまで存在します。
フィラデルフィアの教会。
ここにおいても神に感謝します。
しかし、この教会はわずかながら強さを持っています。
また、終わりの時まで存在します。
しかし、ラオデキアの教会は神のすべての事柄に全く無力になっていることがますます明らかになってきています。
次に来る大きな出来事は主イエスキリストが来られることです。
そして、私たちをキリストとともに集めます。
私たちはこのことを待っているのです。
そして、私たちの心は切望して、このように叫びのです。

「主イエスよ、来てください。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録22章20節

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黙示録 七つの教会