メッセージOO 2001/8/8
ルカ15章のたとえ話
by J.N.ダービー (Parables of Luke
15)
そのたとえ話は驚くべき祝福されたたとえ話です。
このたとえは主イエスキリストとして現れてくださった神である方を語っています。
この方は人間の世界に降りてこられ、人間の世界で「考え、ことば、方法」において現わしてくださいました。
私たちは私たちの罪を見るのならば、人間の罪を見ることができます。
その罪は神の前にある義の光の中に裁かれるべきであるという問題として見ることができます。
そして、そのことは最も重要な問題なのです。
しかし、ある意味、神はいまだにこの悪をなくしてはいません。
そして、神は御自分の義を主張し、その義を示しているのです。
その祝福は私たちのためにあり、その罪にもかかわらず神は神なる方なのです。
「神は愛だからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章8節
そして、もし、イエスが神であるのなら、イエスは愛なる方でなければなりません。
それにもかかわらず、そこに神に逆らう人間のこころのあらゆる理屈とつぶやきがあります。
神は神のみこころに私が求める要求を行ってくださり、その要求を作り、人の心に自分の道を見つけさせます。
その理由は神のみことばの一節に肉にある性質があるゆえであることが記されています。
何度も私たちはこれらのことを繰り返してしまいますが、神はこれらのことにあって御自身を現わしてくださるのです。
神には失敗はありえません。
神が語り、御自分を現わしたその時に、私たちは神の現わしてくださった十分に過ぎるほどの祝福を常に持つことができるのです。
その祝福は私たちのこころに神の力をもって御自身が進み出ることであり、祝福とは神御自身なのです。
神は人間から神の特徴を得ているのではありません。
もし、神が罪を扱うのであれば、御自身を現わすことによって、もしくは御自身を現わしたうえで、この罪の問題を片付けるのです。
今、この罪の問題は私たちのこころにあり、私たちは神に信頼を置いているのです。
私たちは神の家とそのふところに、私たちに実際に適用される特権を持っているのです。
そのことは確かに理解されるべきことであり、神御自身が隠されていたことです。
人間は栄光ある光の中に神の現れを導き入れることはできません。
イエスは人の子としての人格において、その恵みを隠しておられました。
イエスは肉のからだを着ておられたのです。
しかし、邪悪な努力と人間の堕落した見解の持つこころ無き理屈は、イエスに御自身が本当に神であること強要させるのです。
その時、イエスはメシアとして、人の子として、律法の遂行者として、御自身を現わします。
しかし、そのことが神として御自身を現したという十分な根拠になるわけではありません。
人は常に拒み続け、誤りを絶えず見つけるでしょう。
人間は神が示してくださったキリストの方法に同意することができずに、確かな事柄を粗捜しするのです。
人間はこのように神を圧迫し、神を追い立てるのです。
人間は単にキリストに対し「あなたは本当に神なのか」聞き出したくて強要しているのです。
この章において、このことが提示されています。
このたましいは束縛されています。
そして、人間はその束縛を見つけ、神ご自身が現してくださった確かな事柄に飛びつくのです。
その確かな事柄とは神の現してくださった愛です。
そこで、私たちは信頼と平安を得るのです。
この章において、神はすべての真実を強いて語りました。
神は神である御方です。
神は哀れみと喜びである方なので、このたとえ話(特にこの哀れな放蕩息子を歓迎したというたとえ)を使って語られたのです。
神は人の反対にもかかわらず喜びを持っているのです。
その神の持つ喜びとは愛において行われ、まさに人とは反体のことをなさるのです。
その人たちは神が裁きに進むのを否定しません。
(もちろん、ここで不信者の告白について話しているのではありません。)
もしくは、一般的な原則を主張し、神の義に反対します。
それは、人のプライドが、その原則を土台として神と出会うことが出来ると考えているからです。
しかし、その時に神は来て、その十分な完全な喜びを示してくださるのです。
そして、その喜びは、天にある喜びを現わしているのです。
人は反対し始めます。
すべてが恵みであるべきではない。
しかし、神は収税人と罪人をこのように扱ってくださったのです!
なぜ、いけないのですか?
どうして、人が自分の義を主張するのですか?
神は恵みにおいて扱われ、人の義をないものとされたのではないのでしょうか?
「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
新改訳聖書 ローマ人の手紙3章22〜24節
キリストは光によってこのみことばを証明し、それを明らかにしました。
パリサイ人と収税人は適用されるべき者として見られています。
しかし、人間はそれを嫌いました。
それは人間の道徳的状態のレベルの低さを表わしています。
人は恵みにおいて罪人として置かれますが、人はそれを拒みます。
神はそれを準備しましたが、人はそれをたたみます。
人は常にそれを求め、自分の義と他人の義との間に違いを設けようとし、その人間の性質は人の間で支持されています。
神の義を軽んじ、人の義を誇張しています。
これは常にともにあることです。
ヨハネの福音書8章において、私たちは律法学者とパリサイ人がイエスの前で告発しています。
その女は石打ちにされるべきであり、逃げることのできない悪でした。
イエスはその女に対して、哀れみ、もしくは義のどちらかを否定しなければならなかったのです。
彼らはイエスをどうしようもない難しい状態に置こうと考えました。
これが彼らの動機なのです。
もし、イエスが彼女を赦すのなら、イエスはモーセの律法を打ち壊すことになります。
しかし、イエスは「誰か、彼女に石を投げなさい」と言ったのです。
すると、もう誰もモーセの律法を実行しようとはしませんでした。
イエスはどのように行ったのでしょうか?
イエスは律法と義を表わそうとしているすべて示したのです。
イエスは彼女の告発者に言いました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章6節
良心は働き始めました。
「正しさだけではだめだ。私たちの性質について真理は何を言っているのだろう。」
すでに彼らはこのことについて気が付いているのです。
「私たちは光の現わされた場所から出てゆかなければならない。
その光が私たちが罪人であることを証明し、私たちにはっきりと語りかけている。」
彼らはそれを聞くと、年長者たちから若者に至るまで、すべての者が出てゆきました。
イエスは求めていた主張によって名声を得て、最初に喜んで彼女から目を離しました。
イエスは彼女の中にあることを見通し、それを発見していたのです。
イエスだけが残り、女はその真ん中に立っていました。
イエスは律法を実行しませんでした。
それはイエスは裁くためにきたのではないからです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章11節
そこに愛だけが生じるのです。
どんな時においても、誰かがイエスの前に立っています。
もしくは、誰かが罪人として連れて来られ、もしくは罪を告白した者としてイエスとともにいるかもしれません。
しかし、常に恵みであり、すべてが恵みなのです。
その時、より罪を私たちの中に発見するでしょう。
そして、無料の、無制限の恵みがより現れてくるのです。
「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」」
新改訳聖書 ルカの福音書15章1節
これらのことは多くの者にとって、とても不思議なことに見えたでしょう。
神であるイエスがもしここに下って来ないのなら、神は人間の義について何も語ることはしなかったでしょう。
しかし、イエスは収税人と罪人の集まりの中にその義を見つけたのです。
なぜでしょうか?
イエスは道徳的な義についての人の考えをひっくり返す必要があり、神がそれを示したのです。
それは彼らは義について間違った基礎を持っていたからです。
この章にあるすべてのたとえ話はイエスによって話されました。
それはイエスと収税人と罪人の関係において、恵みの目的となるためです。
私たちはこの唯一なる偉大な、そして祝福された考えが、神に現わされたのです。
「私はそのことをどのように思うでしょうか?」
それは「人が最悪な、邪悪な状態にいることです。そして、それはあなたにも言えることなのです。」
その者は豚の世話をしなければならないほど堕落し、落ちぶれたのです。
しかし、その時、私が示したこのことの後に別の事が起きています。
父が子供が帰りを受け止め、そのことを心から喜んでいます。
それはあなたの持つ生まれながらの心が、はっきりとそのことを認識すべき事柄です。
父が優しい感覚を持とうとするのなら、父の心は義ではありえません。
しかし、主イエスが世に来られたにもかかわらず、多くの者が、世にあって疲れた心の状態の中に、そして、本当に打ち砕かれたこころが安らぐ場所を見つけられない状態の中に---そのようなところに父は子を導かれるでしょうか?
(ある者は誇りある教訓をはっきりと見つけることができましたが、そこにはただ哀れな、疲れ果てた場所でしかありません。
打ち砕かれたこころは主の情けを得て、そこに安らぎを見つけるのです。
主のこころは開かれたおり、打ち砕かれたこころに生命を与えます。)
キリストは人間がどこにも見つけることが出来なかったことを、他の場所で、神の中に見つけることが出来る事を示すために来られたのです。
これは祝福です!!
これは、私たちの歩みにおいても言えることです。
すべての者が哀れな疲れ果てた心を持ち、世にあって、すべての事について疲れ果てていたとしても、私たちは父のふところにあるこの祝福の中に安らぎを見つけることが出来ます。
この安らぎは他の場所に見つけることはできません。
今、私たちは詩篇の32編に書いてあるように、この神への信頼自身が、真実なこころを中に神を見つけることが出来るということを語っています。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
新改訳聖書 詩篇32編1、2節
私はこころにそむきが見つけられ、咎められることを恐れています。
しかし、その時、私はすべてが赦されたことを知り、愛が注がれました。
私は神にすべてを話すことができます。
それは単純なことです。
「心のうちの真実」は恵みによって作り出され、欺かれることはありません。
それは神の力の秘密はこころに中に置かれ、神御自身が義だということです。
「しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」
新改訳聖書 詩篇130編4節
そこには二つの全く違った可能性があります。
一つは神のみこころにある考え(律法)によって、神から与えられる評決です。
もう一つは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われる神の中に見つけられる評決です。
後者は真実を信じ、罪の咎めから良心が完全に癒されることです。
私たちの現実にある立場の中にこれらのことを見つけることはできません。
もし、律法の下にあるのなら、神が義なる方であることが認識され、私たちはその義を手につかむことになります。
もし、神の義をつかむのなら、あなたを襲い、私は自分自身を殺さなければならなくなります。
その義を素手で取り扱うにはあまりに鋭すぎます。
姦淫の女に石を投げようとする者は、その打撃の重さの下に自分の頭を置かなければなりません。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章24節
もし、私が人だというのであれば私は「もうだめだ」という人間なのです。
この章において、私たちは3つのたとえ話によって与えられたことを学ぶことができます。
このたとえ話によって教えられている事の根底にあるのはすべてが愛です。
最初のたとえ話では失われた羊を探す羊飼いです。
二つ目のたとえ話は失われた銀貨の一枚を探す女です。
三つ目のたとえ話は帰ってきた放蕩息子を受け入れる父親です。
そして、三つ目のたとえ話において言える事は、息子を探していることが問題ではなく、息子が帰ってきた時、息子を受け入れるための父親の方法です。
これは大変重要なことです。
私たちのたましいは神が失われた者を求めているという偉大であるこの基本的な真実を知っているというだけでなく、正しくそのことを理解する必要性があります。
多くのこころが御父の元に帰ろうと切望していますが、どうしたら御父が受け入れてくださるかを知りません。
主イエスは私たちに神の恵みと愛を語っています。
神が探していること、そして受け入れてくださることを示しています。
最初の二つのたとえ話では私たちは「探している」ということに注目します。
三つ目のたとえ話では御父が受け入れてくださったということに注目します。
すべてのたとえ話を通して言える事ですが、この方の偉大な原則はすべて走り、歩き回っているということです。
疑うことなく、罪人にとって受け入れられるということは喜びであり、神にとっても罪人を受け入れるということは喜びなのです。
「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
新改訳聖書 ルカの福音書15章32節
子が家の中に迎え入れられて喜んでいるだけではありません。
御父が幸せなのです。
放蕩息子が帰ってきたことは天において喜びがあります。
たとえ、どんな人であっても、パリサイ人であっても、そのように迎えられるのです。
最愛の友よ、これは祝福された真実です!
その音の響きは神が起こされました。
天において、すべての思いはその響きに応答しています。
このように天に導かれることは驚くべき、親しむことなのです。
さらに言うのであれば、この方は天を十分に知っている方なのです。
その響きの和音は神御自身が繰り返し鳴らしており、天において繰り返し応答され続けているのです。
すべての思いは恵みによって調整されるために下って来なければならないのです。
自分自身を義としようとすることは、いかに乱れた和音ではないのでしょうか!
イエス御自身がこのように行ない、神の喜びと恵みを前にして語りました。
天の喜び、兄の感覚と比較してこのことを言っています。
この兄は自分を義とする人たち、ユダヤ人のことを描写しているのです。
耳を澄ましてください。
天からその愛へと鳴り響いています。
私たちはそのこころとキリストが降りて来てくださったその方法にあってこのみことばを読んでみましょう。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節
ああ、なんと快いことでしょうか!
人の子が感じていることは、ここで語られていることよりももっと快いのです。
神の愛が下ってきました。
人がたどり着くのではありません。
それは天にあってごく自然なことなのです。
地上において、私たちの間で、神は失われた罪人を救う喜びを明らかにしました。
「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙1章12節
主イエスの最初の目的は罪人を必要な存在にすることによって、神を義とすることなのです。
イエスはすぐに人間の生まれつきのこころへと現わしてくださっています。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、....」
その羊飼いは羊を自分の肩のうえに背負いました。
そして、家に帰って喜んだのです
私が失われた羊を探さないことは正しくないことでしょうか?
取税人と罪人の中に行くことは神にとって正しくないことでしょうか?
それは道徳を求める人にとって似合わないかもしれません。
しかし、神には似合うことなのです。
罪人の中に来られたということはイエスの特権なのです。
滅びた罪人の近くに来てくださったのです。
それはイエスが罪の中から私たちを救い出すことの出来る方だからです。
羊飼いは自分の肩の上に羊をかついで喜びます。
イエスはそのために労苦することを選びました。
イエスはその労苦に興味を持っておられます。
イエスはその羊に価値を持っていたからです。
その羊はイエスのものです。
そして、羊を家に連れて帰り、再び喜んだのです。
この羊飼いはこのように表現されています。
「羊の大牧者」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章20節
イエスは羊に興味を持っておられることをこのように表現しています。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節
イエスは愛によって羊への興味を十分に示しておられるのです。
その羊は御自分のものです。
イエスは羊を家に連れて帰り、喜んだのです。
「友だちや近所の人たちを呼び集め」ともに喜んだのです。
そこには救いの強さと力があります。
主はどのようにそのことをなしましたか?
時より、私たちはキリストを求めることを人々に語ることがあります。
ある意味においてそれは正しいことです。
しかし、羊飼いが見つけるまで捜し歩いたのです。
イエスは「私のところまで来ていなさい」とはここでは言っていません。
イエスは最初に罪人の中に来られたのです。
罪人を救うために、求めるために来られたのです。
イエスは罪人が決して入ることのできない天国から罪人へと語っていません。
哀れな罪人はキリストを求めて天国に行くようなことは出来ないからです。
キリストが地上に来られて、罪人を求めたのです。
イエスは哀れならい病人に「天国に上って来い」とは言っていません。
イエス御自身がらい病人のすべての必要を満たすために、らい病人のところへ降りて来てくださり、「わたしの心だ。きよくなれ」言われたのです。
他の者がらい病人の上に手を置いたとしても、それはらい病が伝染させるだけのことです。
キリストだけがらい病人のなかにある汚れた力に触ることができ、伝染することもなく清める事ができたのです。
イエスは言っています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章28節
これ以上のことはこの箇所から見つけることはできません。
もっと他の箇所をあげるのなら、大洪水の中に放たれたノアの鳩を例としてあげることができます。
私はこの世界に安らぎがあるか試みました。
それは陸地のない邪悪の海です。
しかし、イエスはこのようにいうことが出来ました。
「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
イエス以外に誰がこのようなことが言えたでしょうか?
二つ目のたとえ話の中に別の事が示されています。
それは愛には労苦が伴うということです。
つまり、その熱心な努力は失われた者を探すという決意に伴うものです。
このたとえ話は羊ではなく、家の中にあるお金です。
すべてのことはお金を見つけるために行われました。
その女がろうそくに火をつけ、家を掃除し、愛の行動を止めることは出来ませんでした。
その精力的な愛による行動は銅貨の一枚が見つかるまで行われました。
彼女の行動と興味はどうして行われたのでしょうか?
それはその銅貨が彼女のものだったからです。
彼女の所有物である銅貨が見つかり、回復された時、私たちは喜ぶのです。
見つかった銅貨との親しみをこめて、彼女の喜びと歓喜の声はこのように言うのです。
『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』
新改訳聖書 ルカの福音書15章9節
それが主の方法なのです。
ここで、私たちはよき羊飼いのたとえと同じ原則を持つことができます。
そこにある行動によって、良き結果が生じるまで働かれる、忍耐強い愛なる聖霊による方法が示されているのです。
この両方のたとえ話の中に、私たちは恵みによる絶対的な行動を見ることができます。
ここには罪人のこころの中にある努力については何も言及されていません。
同様にこの両方には偉大な原則があります。
(前にも述べたように3つのたとえ話に共通しています。)
神は愛によって喜ぶということです。
それは女の喜びであり、羊飼いとしての喜びです。
このように、恵みに反対する人間の形式主義の目標とする結果は、今も働く力によってイエスの宣言と恵みの働きによって追い出され、すべてを良きことに導くのです。
羊の中にも、銅貨の中にも、形式主義の働く場所は存在しません。
形式主義は、銅貨の一枚においても、羊においても何もすることはできません。
羊飼い、そして女も全く同じ事をしたのです。
失われたものを持ち、それを取り戻した時、それは彼らの喜びでした。
彼らが失われたものに価値を持っていたからです。
ある意味において、私たちは全く価値のない罪人です。
しかし、神の愛によって罪人を非常に価値のある者として見てくださるのです。
これらは同じ真実であり、そこには最も重要な働きがあります。
その者は迷い、そして再び帰ることができ、その結果、その者のこころにその働きの結果が作り出されるのです。
ゆえに、私たちには三番目のたとえ話が与えられているのです。
そこにはさまよう者としての感覚が示され、さらに受け入れる者としての方法が示されています。
父のこころと放蕩息子はともに開かれたこころを持っています。
単に放蕩息子のこころに語りかけられた、内側への働きだけではなく、父のこころにあるはっきりとした思いが現れています。
一言で言うのなら、父の愛に対して帰ってきた息子の中に作られた思いについて考えることではありません。
確かに、息子の中には自分に対するすべての答えが与えられたでしょう。
しかし、息子のこころにはこの父によって答えが与えられたのです。
そこには単純な一つの事実があります。
父は「走り寄って彼を抱き、口づけした」のです。
そのようにして父は息子のこころに語ったのです。
この最後のたとえ話はいつ語られたのでしょうか?
それはイエスが収税人と罪人を受け入れたために、パリサイ人たちが抗議しに集まってきた時です。
イエスは最もひどい堕落に至った人間、つまり「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」と思った人間の例を上げました。
(ユダヤ人は豚を嫌っていることを私たちは思い出さなければばりません。)
なぜ、ここでこのような描写がされているのでしょうか?
それは恵みの枠を越えて、罪人には何も与えることができないことを示すためです。
あなたもどうかずっとこの恵みを追いかけてください。
神はこの話の最後に神として行動してくださいます。
私たちはもう少し、このことを詳しく見てみることにしましょう。
11〜13節を見てください。
「またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章11〜13節
まさにこれは人間としての歴史を現しています。
ここでは息子は父の家において、家を出て帰ってきた時よりもずっと幸せな存在だったのです。
しかし、息子は彼の意思を実行しました。
ここに息子のすべての罪が隠されていたのです。
ここで私たちは認めるべきことがあります。
私たちは無駄に生きるとしても、違ったとしても、私たちは私たちの神から離れて行ったのです。
その若者は大変な罪人でした。
その時、息子は父の家では金持ちとしての生活をとしていました。
しかし、今は遠い国で豚とともに餌を食べているのです。
息子は神から独立した行動を選びました。
それが彼の罪だったのです。
彼はこの後にその実を刈り取ったのです。
しかし、疑うことなく、これは彼にとって重要な問題ではありませんでした。
しかし、ある意味において、重要なのは息子の罪に対して最も大切なことは哀れみだったのです。
それは、これらのことが彼に罪が何であるか示すことが出来ないからです。
人は罪人たちの間をはっきりと区別し裁きます。
しかし、主は罪人の行き先場所を示します。
そこは人に対する裁きの場所であり、悪の満ちた場所であり、神の恵みを差し出すことのできない場所です。
素晴らしき真実を提示するのなら「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言うことができます。
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章20節
彼が最初に家を去った時、彼のこころは父から遠ざかり、そむいていました。
彼の背中は父と父の家から離れてゆきました。
そして、彼の顔は遠い国の方を見ていました。
息子は自分の思いを実行するために出てゆきました。
親のこころはそのことを理解しています。
私たちの子供の罪は私たちに反抗します。
私たちはそのことを感じています。
私たちは神に対して罪を犯していますが、そのことは感じていません。
私たちすべての者は子供としての立場を感じていますが、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と書かれている通りなのです。
新改訳聖書 イザヤ書53章6節
それから、弟は出来る限り陽気に振舞って出て行き、遠い国にたどり着いたのです。
「そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」のです。
新改訳聖書 ルカの福音書15章13節
しばらくの間、ある人たちは彼が豊かに生活しているように見えたかもしれません。
しかし、罪人はたましいをなくしてしまっていても、幸せそうに見えるのです。
罪人は自分自身の幸せについて考えます。
その結果、神から離れて生きることを求めます。
罪人の考えにはもはや、束縛など必要ないからです。
しかし、その時、これらを実践した後、罪人は悪魔の国の中にいることに気が付きます。
彼は悪魔の奴隷です。
まさに、気ままな思いは悪魔に奴隷として従うことなのです。
「何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章14〜16節
その遠い国では誰も彼に「いなご豆」さえも与える者はいませんでした。
サタンはすべてを高く売ります。
私たちのたましいの値段はいくらでしょうか?
あなたはすべてを買わなければなりません。
この世界の原則はお金を出さなければ何も無いと言うことです。
すべてのものに値段が付けられなければなりません。
あなたの満足は名声とたましいの犠牲をもって、買うものなのです。
もし、あなたがあなた自身を悪魔に売るのなら、あなたは「いなご豆」を得ることができます。
悪魔はあなたに決して何も与えません。
あなたは与えることの出来る方を見つけようとします。
あなたは神のところへ行かなければならないのです。
世にあって、人間の心は決してやさしいものではありません。
この短い期間に、人は自分の状態を忘れてしまうでしょう。
しかし、その時彼はすぐに欠乏し始めるのです。
彼は困り始めているのに、彼の意思は父のもとに帰ろうとはしていません。
また、そのことは神に立ち返るための努力の必要を語っているのではありません。
確かに、そこには救われる時を求める人たちの思いが存在します。
しかし、その時が必ずしも「欠乏する時」ではありません。
彼は世の楽しみの中に、そして悪の中に、彼らを満足させる答えを求めるでしょう。
(このどちらかに答えを求めるかは問題ではなく、最後に、すべてが神に答えがあるということです。)
最後に世が考えるべき事は神御自身についてです。
それから、その時に彼らは何も求めるべきことが何もないと確信するでしょう。
彼らは父を知らないわけではありません。
しかし、決して父の家について考えようとはしません。
もし、本当に彼らが神について考えたのならば、恵みについてではなく、さばきにについて考えるのです。
世の人は言います。
「あなたは世があなたを満足させることができないことを知るために、世にあるすべてのことを持たなければなりません。」
しかし、世全体が神に人を立ち返らせようとはせずに、世自身が満足することができないという知識に達します。
その人は自分が滅びることをより知らなければなりません。
単に彼が満足できるかではなく、彼は破滅するのです。
その人の放蕩とともに...。
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。
それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
雇い人のひとりにしてください。」』
新改訳聖書 ルカの福音書15章17〜19節
息子の良心は目覚めました。
「私はここで、飢え死にしそうだ。」
そして、その時彼は「父の家」のことを考えました。
まさに、そこは彼が最初に逃げだした悩みの場所だったのです。
彼はどのように受け入れられられれば良いのか理解していません。
そして、彼は父の家に愛があったことも理解していません。
彼は父の家に、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいることを理解していません。
彼は自分が空腹であることは理解できたでしょう。
しかし、その空腹とともに自分が滅んでしまうことを理解していません。
彼は、父の家にあるぼんやりとした喜びではなく、父の家にある自分に必要な利点を求めました。
知恵と哲学も神を見つけることはできません。
このことは私たちのために知らされているのです。
また、私たちは私たちの必要を通して、このことを知ることが出来るのです。
その必要は空腹な者の外に見つけることができます。
誰がパンの価値を発見することが出来るでしょうか?
化学者でしょうか?
いいえ。
空腹な人です。
それは罪人の心です。
その通り、神の聖徒たちが持つべき心です。
それは正しい方法で、正しい場所に置かれます。
私たちが今このように学んでいることを除いて、私たちがいままで学んできたことがすべてのことが頑固なものだと言うのならば(神の義)、私は多くのことに疑いを持つでしょう。
彼が父の家に良き物があることを知っていました。
そこにいるしもべはとても幸せでしたが、彼がそこに帰ることは絶望的としか考えられませんでした。
しかし、彼にはそこに帰る必要性があったのです。
すべての事柄が彼に父の家に帰らなければならないことを語っているのです。
こうして彼は立ち上がったのですが、彼は父の良きところをまだ知ってはいません。
神に立ち帰るすべてたましいは、神の中に良きものがあるという考えに至ります。
私たちはルカの福音書5章におけるペテロの中に同じ事を見ることができます。
「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。
私は、罪深い人間ですから。」と言った。」
新改訳聖書 ルカの福音書5章8節
なんという矛盾でしょうか!
イエスの足もとにひれ伏し、離れてくださるように語るとは...。
そこには良心と愛情との中に働きがありますが、はっきりとした矛盾をたびたび感じることがあるでしょう。
神は私たちのための必要となってくださいますが、いまだにこの良心が言うのです。
「私は、罪深い人間ですから。」
ペテロは自分自身が何の価値のないことを感じました。
そして、イエスはとても聖い方であり、義なる方でした。
ペテロはこのような方とともにいたのです。
それでも、ペテロはイエスのところへ行かずにいられなかったのです。
同様に、放蕩息子は父の家に帰ってゆき、父の家の中で喜ばれたのですが、父のこころを真実に感じ取ろうとはしませんでした。
彼は「あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と言おうと考えました。
新改訳聖書 ルカの福音書15章19節
彼は自分のしたこと、そして彼の中にある悪を理解し、少しづつ段階を踏んで父の愛を計ろうとしていたのです。
彼の考えはしもべとしての立場を取ることです。
今、この段階にある多くの者のこころがあります。
父は、ある程度彼らに適応させなければならないので、その基準を低く下げたのです。
(私は肯定的に自分自身を義とすることを話しているのではありません。)
彼らにはまだ律法主義が残っているでしょう。
そして、父の家のしもべの立場を取ろうとします。
今、父は単に恵みをもって私たちを受け取ってくださるのです。
それは私たちはすべてを使い切ってしまった者であり、私たち自身が破滅状態で者であり、神への要求自身を失っている者なのです。
私たちの過去を見てください。
「私を雇い人のひとりにしてください」
この言葉を父に対して言うことはできません。
もし、言うのであれば父が息子に仕えてくださるのです。
こののことばを父に言うことは、父に対する悲しみとなり、絶えることなく父のこころに注がれ続けるのです。
同様に、父が子に対して自分自身を低くされたということは、このように子を取り扱い、受け入れるためだったのです。
この息子が家の中にいることは、彼の罪をはっきりと思い出させることができたでしょう。
そして、家の中において、父の愛に対して、彼はしもべであるという証言は必要ありません。
父は家の中において息子をしもべとして扱うことはできません。
もし、無限の恵みがもたらせたのならば、父の愛の大きさを表わす祝宴において、彼の感謝が表わされるはずです。
放蕩息子はいまだに完全な謙遜に至っていません。
それは恵みの他に何もないことを感じるためです。
しかし、いまだに父は彼が言ったように彼を扱っていません。
「私を雇い人のひとりにしてください」
しかし、このような言葉は必要ありませんでした。
「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章20節
彼はどのように「私を雇い人のひとりにしてください」と言うことができるでしょうか?
その時、彼は父に走り寄って抱かれ、口づけされたのです。
そこに彼は自分が息子であるという意識が生じたはずです。
放蕩ゆえの裁きはどうなるのでしょうか?
父は、現実に彼を裁かなければならないという状況にいるかもしれません。
しかし、今は裁かなければならないという推論をここから取り出してはいけません。
一人は父です。
しかし、もし裁くのならば、もう一人は子ではないでしょう。
ここで描かれているのは、神の恵みである福音を受け取る真実な方法についてです。
その方法とは私のこころの働きではなく、私が神の前にどのような者であるかです。
しかし、私に対して父がどのような方であるかを聖霊によって啓示されたのです。
そして、もし神が父であれば、私は子です。
私はこれを土台として安住しているのです。
つまり、子としてくださる聖霊を十分に受け取ったからです。
私は多くのたましいがこの聖霊を持っていないことを知っています。
彼らは子として父の家に住んでいることもなく、父の愛の中に安らぐ場所を見つけることもしていないのです。
もう一度ここで、この放蕩息子の受け入れられる方法を見てください。
彼はこれからしようとすること、これから言おうとすることを、そして、自分が受け入れられる状態において、自分の考えを一新することを決心しました。
「立って、父のところに行って....。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章18節
しかし、彼が父の家にたどり着く前のできごとを、次のようにすべてが語られたのです。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章20節
息子が歩んできた道は父の愛の中に消え去りました。
父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしたのです。
子の側には何もありません。
あるとすれば、価値のないという告白だけです。
かつて、私たちは受け止められた者です。
しかし、息子の考え、感覚が父の知識、考えによることを私たちは忘れてしまうことがあります。
私たちには「何も価値がないということ」は、私たちの救われた状態においては完全に理解できることでしょう。
しかし、私たちは父の愛の現れの中にいることさえ、忘れてしまうことがあるのです。
父は息子が遠い国のボロ着を着ていたとしても、かまわず子の首もとに口づけをしたのです。
息子の中に何かあったからでしょうか?
いいえ。それは息子の心の中に父を求める愛を知ったからです。
父は彼にいろんなことを語りたかったのです。
しかし、息子は自分がとても悪いことをしたのを知っていました。
「あなたは私の恵みを無駄にし、私の名を汚した。」と言われて当然だったのです
ゆえに、彼は何も語ることは出来なかったのです。
彼がそのことを良く知っていました。
しかし、そのことが息子としての立場、もしくは息子としての価値をそこなう問題ではありません。
彼は父にふさわしい存在ではありませんでした。
息子は自分自身から、自分自身のために何かを行うことをしませんでした。
父のこころにはそのような理由は必要なかったのです。
父は彼を抱きしめました。
それは父の愛がそこにあったからです。
その愛は神の中にある愛です。
決して罪人の中にある愛情といわれるものではありません。
また、その愛はキリストにあって受け入れらたという贅沢な特権を土台として成り立っているのです。
父の愛の知識が私の中に作られ、私はそれを感じています。
しかし、もし私の罪が赦されたことを知るのなら、父は私の首もとに抱きつき、口づけしてくださるのです。
それから、私はより私の罪を知り、同時に私は父の愛を知り、私はより幸せを感じるのです。
ルカの福音書7章47節を読んでみましょう。
「この女の多くの罪は赦されています。
というのは、彼女はよけい愛したからです。
しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
新改訳聖書 ルカの福音書7章47節
ある商人が自分では返すことが出来ない負債を持っていたとします。
彼は自分の帳簿を通して本当のことを見ることを恐れています。
しかし、彼の借金が他の者の助けによって、すべてが支払われたのです。
すべてが支払われた後、彼は確かな莫大な富(友人)を知ったのです。
それは彼の友人たちによってそのすべてが支払われたのです。
彼はもう友人たちを見て恐れることはありません。
彼の債務に対する恩義の広さの発見は、彼の持つ友人の愛を理解し、増し加え、友人のために仕えてゆくことを覚えたことでしょう。
もし、銀貨1000枚ではなく、彼が銀貨1万枚分の借金を見つけたのなら、彼はきっとこのように言うでしょう。
「なぜ、この借金は私の求めている富より素晴らしいのです。」
そして、もし先のことを見るのなら、彼は総額銀貨10万枚の借金を見つけるでしょう。
もうそこには私の友人のように借金を払える友人はいません。
しかし、恵みは常にそこに置かれています。
したがって、私たちが罪を発見するたびに、私たちは罪の赦しを知ることが出来るのです。
そして、愛が高められ、喜びが増します。
父が私を口づけしてくださるのです。
そして、私が罪の自覚するのであれば、たとえボロを着ていたとしても、父は私に罪が赦されたことを証明してくださるのです。
世の中にあるものは決して罪の赦しを与えません。
世は私に抱きつく以前に、私の着ているボロ着(罪)について何も考えてはくれません。
しかし、父はもう一つのことを行います。
「ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。
食べて祝おうではないか。」
「新改訳聖書 ルカの福音書15章22、23節
哀れな罪人である私たちに神は神の愛を示しました。
その時、神は私たちにキリストを着させたのです。
神は私たちを家の中に導き入れました。
そこにいるしもべは、神が私たちに与えることのできるすべての誉れにも劣らない誉れを持っていました。
神の愛は私たちがボロ着を着ているにもかかわらず私たちを迎え入れてくださいます。
しかし、ここでは同じ愛ある行動が別の方法で示されています。
神は私たちを父のそばに置くために家の中に迎え入れてくださったのです。
そこにはみこころにあって、神の持つ息子の価値感が現われているのです。
私たちはここで息子に着させられた礼服についての記述を読むことができます。
指輪、くつ、そして肥えた子牛をほふり、帰ってきた放蕩息子とともに喜んだのです。
それが息子に与えたということは、父が持つ息子の価値を現わしていますが、これらのものでは父の愛を現わし切れません。
父は家の中にいるしもべのように、恵みをもって息子を置くことができたでしょうか?
父の家の中で、誰が息子が願っていた謙遜なしもべとしての立場を持ったと考えることが出来るでしょうか?
そうではありません。
それだけで、父のみこころを現わせるというのならばその人は無学すぎます。
私は聖書からこのように読んでいます。
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章7節
今、もしあなたがその結果にあって始めることができるなら、父のみこころと恵みはそこにあります。
私たちの前に不名誉と堕落があったのです。
しかし、私たちの罪と恥辱の記憶とは対照的に、神は私たちを家の中に置いてくださるのです。
そして、その恵みは神にとって価値のあることです。
もし、そこで何か恥辱を感じるのなら、それは遠い国の形跡を追いかけているだけのことになります。
その遠い国に戻ることが父の持つ価値観だったでしょうか?
いいえ!
「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはず」です。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章2節
父の家の中にいることは神の家の中にある立場であり、それが神の求める価値感でなければなりません。
別の面から見てみましょう。
おそらく、私たちの哀れな不信仰なこころはこのように言うでしょう。
「ああ、その場所において、実際に父の家において、そのことは実際に真実なことでしょう。」
私は信仰とは何か尋ねてみましょう。
神が裁くように信仰も裁きます。
私は神の聖い光の中に罪を見ます。
私は最も真実な光で裁く時、私は神に反抗します。
そして、その不名誉を神に置きます。
そして、私の父の思いの中で、私は恵みを学ぶのです。
神は神は真実であるという保証印をクリスチャンに押します。
信仰は単純に確かなものを与えます。
理屈はそうではありません。
理屈は世の中にある事柄のためにはすべてをふさわしく導くかも知れません。
しかし、神は神を信じるクリスチャンたちにあるすべてのことについて話しておられます。
信仰は保証します。
それは「かもしれない」という仮定ではありません。
神は真実なる方です。
今、私が天にいるように、今、私はそのことが真実であることを確かに信じ、持っているのです。
「アブラハムは神を信じた」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章3節
アブラハムは神の中に真実があるということよりも、神の言われたことを真実として信じたのです。
しかし、それが神を信じるということになるのです。
そして、私たちはアブラハムのように神の言われた事を信じるべきであり、神の信じる最初のポイントになるのです。
もし、私たちが神の御子にあって信じていると言うのならば、その時、神は私に何を語るのでしょうか?
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章17節
私はこのことを信じ、私は永遠の命を持っていると信じています。
それを疑うことは罪です。
もし、神が私を保証してくださることを信じないでいるのなら、私は神を悪者にしているのです。
自分自身を信じて、御子を信じないでいることは罪です。
こひつじの血を通して、罪の汚れのない神の賜物の中に私は存在しているのです。
信仰はこのことを信じています。
神はそのように言われました。
もし、救いが私の持つ義によるのなら、粉々にされて始末されなければなりません。
救いはこひつじの血によるのです。
そこには何が必要でしょうか?
私の罪を半分清めることでしょうか?
その問題の根源は何でしょうか?
神はキリストの血の価値をどのように見積もっているのでしょうか?
あなたはキリストの血の効力に限界があると考えていますか?
いいえ!
聖書はすべての罪から清めたと言っています。
もし、私たちが更に進んで見るのであれば、神御自身が木に架けられたキリストのからだにあって、私たちの罪がむき出しにされています。
これが私の罪なのでしょうか?
そうです。十字架上のキリストのからだは私の罪ゆえなのです。
もし、私のたましいが一方ではこひつじの血の価値を知るのならば、もう一方ではすべてが父の愛からの生じた結果であることを知ることできます。
放蕩息子の中に邪悪な事が存在しています。
つまり、この愛を疑うこと自体が邪悪なのです。
父は息子に口づけをした時、息子は遠い国のボロ着を着ていました。
それから、彼は自分がボロ着を着ている理由を考えたでしょうか?
その理由として、息子は父のこころに愛の表現がないからだと言えたでしょうか?
私はここでキリストの御業の性質を知ることができます。
まず、ボロ着を着た罪人の私の方に神が来られ、その結果、キリストの十字架によって私が救われたということを知ることができるのです。
(そして、神は自分を義とするパリサイ人に対してもこのように強いておられたのです。)
私の疑うこころはこのような恵みの前に静かにさせられます。
神の恵みが罪に対して制裁を加えることができると言う者がいるでしょうか?
ここで兄さんの考えに立って、弟への裁きについて弟に聞かせるべきでしょうか?
このような兄にさえ、弟に対する恵みがどのようなものであるか父が話しかけているのを見ることができます。
「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章28節
私たちはこの哀れな人に対して示された神の愛の忍耐を見ることが出来ます。
この忍耐は哀れな放蕩息子に示されたものとは違います。
しかし、この哀れな兄はともに喜びを分かち合おうとはしませんでした。
しもべたちは喜びこのように言いました。
「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章27節
喜びの声は捕らえられました。
しかし、兄はどのような人だったでしょうか?
その人は自分のことをパリサイ人のように義としていた者なのです。
ですから、父が出て来て、いろいろなだめてみる必要があったのです。
あなたのこころが愛と恵みにひねくれて立ち返えるようなことがないように気をつけてください。
そうするのであれば、神はあなたを罪人として示すでしょう。
「兄はおこって、家にはいろうともしなかった。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章28節
父の弟を受け入れた理由について、このように言いました。
「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章32節
愛はすべてにおいて、十分に満たすことができるのです。
しかし、兄には無駄なことでした。
家の中にある雰囲気は父から最も低いしもべに至るまで充満しており、兄はそこに入ってゆく気にはなれませんでした。
兄には喜びも、楽しみも無く、そこに残っていました。
そこに父の恵みの豊かなこころに反抗する兄の思いが証明されていました。
そして、これが人間なのです。
あなたはこのように神を知るのですか?
あなたは自分自身を知ろうとしています。
そのようにすることは確かに良いことかもしれません?
しかし、そこに兄のように父に反抗する思いが存在するゆえに、神の思いを求めようとはしません。
どのように私は神の思いを知ることができますか?
私が自分のこころを知ることによって、神を思いを知ることが出来るのでしょうか?
いいえ、それは違います。
それは、神の御子によって与えられた賜物にあって、神の御言葉である聖書を学ぶことによって実現できるのです。
私たちは神が罪人のために神の御子を与えたことを知らなければなりません。
もし、私たちがこのことを知らないのであれば、私たちは御子を全く知らないことになります。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章32節
私は神に仕えるしもべになったと神に対して言ってはなりません。
すべての真実な礼拝は、神に対する知識の結果として捧げられるのです。
礼拝は神の慈愛の上にあなたのこころを適用させようとして建て上げることではありません。
私たちのこころは律法主義に戻りたいという傾向があり、それを謙遜だと思っています。
真実な謙遜、強さ、祝福とは、神の祝福と現れにおいて自分自身を忘れることです。
私たちは神の謙遜に至らせるプロセスにおいて、真実な謙遜に至らせられることでしょう。
しかし、それは全く自分が邪悪な者だと考えることではありません。
それは真実な謙遜ではありません。
私たちは神の愛の現れと私たちの父にあって「古い自分は脱ぎ捨てた」という特権を持っているのです。
今、私たちは古い自分を脱ぎ捨て、キリストを着て、新しい歩みをしているのです。
それでも、主はあなたをキリストを通して認め、そして哀れな罪人として知っていてくださるのです。
それでも、神はこのような愛を現してくださっているのです。
2001/8/29 終了