メッセージ 2001/10/12
預言-聖書の霊感とその証拠
by H.A.アイアンサイド
Prophecy
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章21節
私はあなた方の中でいったいどのくらいの人が、本当に聖書がこの世界にある唯一の預言書であるかを、じっと立ち止まって考えたことがあるでしょうか?
私たちは多くの宗教的文学について知っています。
そして、学者たちは専門的にこれらの文学を学び、宗教的に比較し、生きている神の御言葉である聖書を他の宗教的文学と呼ばれる本と同レベルに置こうとする傾向があります。
しかしながら、あなたは聖書以外のこれらの本すべてを取り、片側に置き、もう片側に聖書を置き、比較させることができますか?
そして、聖書が数千年も前に何百との預言を含んでいるという事実によって、神聖なものとして区別できる唯一の本であることを認めることができますか?
その預言は文字通りに成就したのです。
他の預言は今の時代に成就されるでしょう。
私たちはいまだ成就されていない預言がやがて成就されるだろうと感じることでしょう。
このことは昔、私がまだ若いときに、私が注目している事柄に良き必要な答えを与えてくれました。
その時、私はクリスチャンになって数ヶ月ばかりで、聖書にあるあらゆることに学ぶことに熱心な15歳の青年でした。
私は新聞上に広告されている聖書研究の講座コースに注目しました。
私はいくつかの集会に参加し、少しでも講義を聞こうと手はずを整えました。
しかし、この講義に参加した最初の夜、私はこの講義が私の希望していた通りの講義ではないことがわかりました。
そこに来た講師は教養があり、雄弁でしたが、彼は懐疑論者であり、聖書を天からのメッセージとして真実な書物としては信じてはいませんでした。
その講師は聖書の文学的アピールと聖書の内容について流暢に話しました。
しかし、そのことが逆に彼の持つ聖書の神の霊感についての考えを受け入れることが、私にとっていかに不条理であるかの証明となりました。
そして、私はその不条理な考えについてわずかにでも学ぶことが出来たと考えています。
その夜、彼の言った一つのことが私をとても惑わしました。
彼が話したこのことを、今、私は昨日のように思い出すことが出来ます。
「あなたは、聖書が神の御言葉であることを信じていますか?」
もし、信じているのならば、あなたはなぜ聖書を信じているのか、わたしに尋ね続けたはずです。」
その時、しばらく言葉が途切れた後、彼は「私はあなたがなぜ聖書を神の御言葉と信じているか話しましょう」と話を続けました。
そして「なぜ、信じているのか?それはあなたの両親があなたにそのように教えたからです。
あなたの両親が聖書が神の御言葉だと教えたからです」とその講師は言いました。
あなた自身が問題を何も調べることなく、あなたが両親の言うことをそのまま受け入れたのです。
もし、あなたがヒンズー教の家に生まれたのなら、あなたは今聖書を信じているようにヒンズー教の聖典「ビデック」信じたことでしょう。
もし、あなたが仏教の家に生まれたのなら、あなたが今モーセとイエスの教え、そして他の聖書的著者たちを受け入れているように、仏陀と仏陀の弟子たちの教えを受け入れるでしょう。
もし、あなたがゾロアスター教の家に生まれたのなら、あなたが今、聖書が何であるか知っているように、ゾロアスター教の経典(ゼンドアベスタ)を知るのでしょう。
もし、あなたがイスラム教の家に生まれたのなら、あなたが今、聖書が信じているように、コーランを信じるのでしょう。
もし、あなたが中国漢民族の伝統宗教である道教、もしくは儒教の家に生まれたのなら、ラオ・タズ、もしくは孔子の哲学の著者は、あなたが今、聖書が正確な真実であるように真実だったでしょう。
若くしてクリスチャンになった私を悩ませたこれら多くのことを、私はそれまでに聞いたことがありませんでした。
私は自分に問いました。
「私の持っている信仰とは、誰かから聞いただけのものであり、はたして真実なのであろうか?
私がクリスチャンなのは、単に私の両親から引き継いだだけのもので、真実だと思い込んでいるだけのことだろうか?
私の信仰と聖書の中に出てくる多くの人々の持つ信仰とは同じものなのだろうか?」
その時、私はその講師の挙げたこれら宗教の本を調べ、彼らがこれらの本を聖書と同じ価値を置いているかどうか見てみることにしました。
私は市立図書館にいる受付の女性に言ったことを詳しく覚えています。
「私は世界中にある異なる聖書をすべて見てみたいのです。」
彼女は私を見てにこやかに言いました。
「残念ながら、ここには唯一、一つの聖書しかこざいません。」
彼女は非常にわかっている女性でした。
「すみません。私の尋ねたいことは他の宗教の人々が聖書と同じ価値を置いている本を見たいと言うことです。」
彼女は図書館の中にある一室に私を連れてゆき、そこには10フィート(3.48m)ほどの長い本棚にたくさんの本が並べられていました。
その本棚には翻訳されたものも含めて世界にある宗教のたくさんの本が並んでいました。
これはオックスフォード大学のマックスマラー博士と彼の仲間たちによって準備されたものです。
私はおそらくこれらの本の38冊は読んだと思います。
その本は紙はとても厚く、紙面が大きく、古い百科事典にも似て、一冊がとても巨大なものでした。
私は「これらの本が欲しいのです」と言うと、図書館の案内役はにこやかに「あなたこれらの本すべてを持って帰りたいと言うのですか?」と尋ねました。
私は「いいえ、私一人ではありません。私は三枚のカードをここに持っています。
一つは私の母の名前で、一つは私の兄の名前で、もう一つは私のものです。
私はこれらの本の3冊をまず持って帰り、読み終わったら返しますので、次の三冊を持って帰りたいのです。」
私は彼女がそっと笑ったように見えました。
しかし、私は一心にそれを求めました。
私は私が借りた三冊の大きな本を家に持ち帰ることができました。
そして、私はその夜これらの本を読み始めたのです。
私がそこに置いた問題を解決するのに数週間が必要でした。
しかし、これらの本を読むにしたがって、この10フィートの本棚の中には十字架がないということに気がつきました。
私はいくつかの事柄について学ぶことができました。
そして、確かにこれらの事柄は私の人生において価値のあることでした。
最初に、いくつかの大きな民族的な信仰に対して私は悪い考えを持っているということがわかりました。
私はこれらの宗教の中に何も良きものがないと考えました。
しかし、そこには多くの健全な道徳と宗教的感覚があり、時にはとても美しく表現されているということを私は発見したのです。
これらの宗教書の著者たちが確かな道徳のメジャーと霊の光を持っていると理解することは簡単なことです。
確かに、彼らは真実を明確に宣言していますが、それはまさにたくさんの価値のないゴミの中にある存在する、まれな宝石のようなものです。
しかし、次に私はこれらの38冊の宗教書の中に、聖書がすでに語っている道徳、もしくは霊的な真実以上のものは見つけることが出来ないということが解かり始めたのです。
今、これは注意すべき事柄です。
聖書はこれらの宗教書からすれば、決して大きすぎる書物ではありません。
しかし、これらのことについて十分に語っているのです。
わたしはこれらの宗教書の中に明確な真実の宣言を見つけることはできません。
聖書にある宣言は完成しており、道徳もしくは、霊的な命とともに働き、聖書に何も付け加えることはできません。
そして、私はこの聖書の真実性に語った上で、もう一つ別の方面から言いたいことがあるのです。
私がこれら異教の本を読み通し始めた時から、多くの年月が過ぎてゆきました。
しかし、その過ぎ去っていった年月の中で、いくつかの書物を読みましたが、私の聖書にない別の道徳枠や、霊的な真実を私は見つけることは出来ませんでした。
私はあなたの慎重な考えのゆえに、その声明を賞賛します。
しかし、今、私は三番目のことを言いましょう。
私は、その時おそろしい印象を持ち、私の生涯を通して多くのことを教えてくれました。
これらの大きな宗教書の中にはすでに成就した明確な預言的声明がありません。
たしかにこれらの本には預言的な試みがありますが、聖書の預言とは比べものにならないほど幼稚なものです。
その時、私は15歳の少年でした。
しかし、私は聖書が世界に存在する唯一の預言書として、聖書自身が神の御言葉であることをどのように証言しているかを学ぶことが出来たのです。
その時、私はこのように言うことが出来ました。
「あの講師は悪です。」
私は聖書を単純に信じているのではありません。
それはわたしの両親が私に聖書が神の御言葉だと教え込んだからではありません。
私は神の無限の哀れみ知り神に感謝します。
神は私をクリスチャンホームの家に生まれることをお許しになりました。
そして、神に忠実な私の両親の教えのゆえに私は神を讃美します。
しかし、私はためらうことなくこのように言うことができます。
「私は聖書が神の御言葉であることを信じています。
それは私の両親がクリスチャンであったからではありません。
他に理由があります。
それは聖書自身が神の御言葉である保証をしているからです。
預言の御言葉、それは神の御言葉である証明です。」
預言書であるイザヤ書の9章を見るならば、神御自身がこのことを強調して語っています。
この箇所では、神はイスラエルの民の偶像崇拝と言う問題を取り上げています。
彼らの多くはまことの神からイスラエルの民の周りにいる異邦人のさまざま偶像へと向かってゆきました。
そして、この章の中で私たちは偶像についての主の論争を知ることができます。
このおどろくべき出来事はもっとも描写的な方法において記録されています。
イザヤの偶像を作ると言う記述に気をつけてください。
「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。
貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。」
新改訳聖書 イザヤ書40章18〜20節
あなたはその皮肉を見ることができましたか?
歩くことができない神。
そのあと対照的な表現が続きます。
「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。
初めから、告げられなかったのか。
地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。
地の住民はいなごのようだ。
主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」
新改訳聖書 イザヤ書40章21〜23節
どこに神のような方がおられるでしょうか?
この崇高な表現において、神は何度も繰り返して、真実なる神の偉大さ、威厳に戻り、教えているのです。
この箇所において、神は異なる異教のあらゆる信仰を取り上げています。
そして、異教の祭司と預言者の組織は預言によって彼らの信仰の神性を証明しようとしますが、神は何度も繰り返してこの異教に立ち向かっておられます。
イザヤ書41章21〜24節に注意してください。
「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。
あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。
持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。
先にあった事は何であったのかを告げよ。
そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。
または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。
後に起ころうとする事を告げよ。
そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。
良いことでも、悪いことでもしてみよ。
そうすれば、われわれは共に見て驚こう。
見よ。あなたがたは無に等しい。
あなたがたのわざはむなしい。
あなたがたを選んだことは忌まわしい。」
新改訳聖書 イザヤ書41章21〜24節
あなたはそれが挑戦であると理解できたでしょうか?
ある人はこのように言うかもしれません。
「もし、あなたの宗教について何か超自然的なことがあったかも知れません。
あなたの偶像には何か神の力が宿っているかもしれません。
しかし、預言によってすべてのことが実証されます。」
御言葉はこれから来ること、もしくは過去に起きた事を教え、そして、それがどのように来たのかを私たちに語っています。
また、被造物の不思議とその終わりをはっきりと教えています。
偶像にはこのようなことをすることは出来ません。
イザヤ書43章9〜10節を見てください。
「すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。
彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。
彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ。』と言わせよ。
あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべである。
これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。
わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。」
新改訳聖書 イザヤ書43章9〜10節
ゆえに、イスラエルの歴史がイスラエルの神の存在を証明しているのです。
その通り、預言者は語っています。
「それは神は私を通して真実を語り、私はその真実をあなたに語っている証明です。
このことはこれらの時代を通して真実であり、後に私があなたに語ったこれらのことが起きるでしょう。
そして、あなたがたは聖書が神の御言葉である証人となるのです。」
先の箇所にこのように書いてあるとおりです。
「 あなたがた(イスラエルの国家)はわたしの証人」となるのです。」
新改訳聖書 イザヤ書43章10節
イスラエルの人々が従順にせよ、不従順にせよ、もしくは彼らがパレスチナの国にいようと、国々の中に散らされていようとイスラエルを通して神の存在は証明され、そこに何の違いもありません。
彼らが何処にいようとも、何をしていようとも、神御自身が自分が生きておられることをイスラエルの歴史を通して証明されておられるのです。
聖書の預言には、3500年のイスラエルの歴史が刻み込まれているのです。
モーセがモアブの平野で始めた時、すでにモーセはイスラエルの歴史を予告しました。
そして、まさにその預言の成就されてきたことを、このイスラエルの35世紀の歴史が示しているのです。
イスラエルは神が言ったように正確に行ってきました。
これらの出来事は、モーセによって告知され、モーセの語ったことが神の言葉であることが証明されたのです。
あなたは何度か偉大なフレデリックの物語を聞いたことがあるでしょう。
ユダヤ人講師が語りだすとほとんどの者がこの話をするでしょう。
この偉大なフレデリックは多くのボルテールの見方によって疑い、軽蔑し、そして、自分も疑い、信じない者となったと聞かされていました。
ボルテールは才能ある者であり、気のきく者であり、カトリックの祭司として訓練された者でしたが、カトリックの盲信と偽物すべてから疲れ果て、これらの作り物を信じる信仰を拒んで主に立ち返ったのです。
時々、私はボルテールのことを申し訳なく感じることがあります。
それは彼が若者だった時、これらカトリックの重要な事柄を彼が非難していないと私は理解していたからです。
彼はまさにその時代に捧げられた犠牲だったのです。
私たちは彼の冒涜的な表現について考えてみる必要があります。
「この哀れな人を押しつぶしてしまえ!」
彼が話したその時、誰かがイエスの御名について述べました。
「私はあなたに懇願します。
私に人間の名(イエスの名)を二度と聞かせないで下さい。」
でも本当は、彼は神の御子を知らなかったのです。
彼が心の中で持っていたイエスとは、迷信的なローマカトリック教会の偽祭司のイエスだったのです。
ボルテールはローマの組織の中で見つけた宗教を憎みました。
そして、ボルテールはフレデリックの考えに自分の疑いを注ぎ込みました。
ある日、そのプロシア人(前ドイツ)は従軍牧師に立ち返りこのように言いました。
「もし、聖書が本当に真実ならば、手短な証拠をもって証明されるはずだ!
私は何回も、この聖書の霊感を証明するために尋ねてみました。
私にこの偉大な、学ぶべき聖書が手渡されましたが、読む時間も、読むために心を集中させる余裕もありません。
いくつかの巻はキリスト教者の証言に基づいていたはずなのですが、私には読み通すことが出来ませんでした。
もし、あなたの聖書が天から与えられたのが本当であれば、私に一言でその証拠を与えてください。」
私にこの偉大な、学ぶべき聖書が手渡されましたが、読む時間も、読むために心を集中させる余裕もありません。
いくつかの巻はキリスト教者の証言に基づいていたはずなのですが、私には読み通すことが出来ませんでした。
もし、あなたの聖書が天から与えられたのが本当であれば、私に一言でその証拠を与えてください。」
その時、親切に人は答えました。
「陛下、それはイスラエルです。」
フレデリックは静かにしていました。
イスラエルの歴史のように前もって3500年も前に神によって預言された国はありません。
そのような国は聞いたこともありません。
もし、聖書が神から与えられたものでなければ、絶対に不可能なことです。
あなたはイザヤ書44章7節を読みました。
そして、主がその御言葉をあなたの心に置き続けることができますように。
そして、私はあなたがその主の挑戦的な方法に心を留め、求め引き継いで欲しいのです。
「わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。」
新改訳聖書 イザヤ書44章7節
ある者が適切に言います。
「全ての歴史は、彼(神)の物語です---"All
history is His story."」
神はすべてのことを聖書の中で予知し、予告しています。
そして、単純に聖書で予告された歴史が明らかになってゆくということは、神がここに立っているという預言の証明となるのです。
このことがわかるのならば、イザヤ書45章11節に戻って見ましょう。
「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。
「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。
わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。」
新改訳聖書 イザヤ書45章11節
そして、イザヤ書46章9、10節
「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。
ほかにはいない。わたしのような神はいない。
わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。」
新改訳聖書 イザヤ書46章9、10節
その時にイザヤ書48章3節を読んでみましょう。
「先に起こった事は、前からわたしが告げていた。
それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。
にわかに、わたしは行ない、それは成就した。」
新改訳聖書 イザヤ書48章3節
私はイザヤ書40〜48章からいろんな箇所を取り上げてみました。
私は、あなたにこの箇所全体を注意深く読むことをお勧めいたします。
聖霊はあなたにあらゆる偽りの宗教に対して、反論するように準備させようとしています。
あなたが聖書を信じない不信者たちを扱う時に、これらの箇所は助けになるでしょう。
聖書を信じないと言う者たちに尋ねる最もよい方法の一つです。
「あなたは聖書にある預言的な要素をどのように説明しますか?」
一般的な答えとして、あなたはこの二つの答えのうちの一つを答えるでしょう。
その人は「私は聖書の中にどんな預言もあることも信じない」、もしくは「私は聖書の中にどんな預言もあることも知らない」のどちらかを答えるでしょう。
もし、その人が「私は聖書の中にどんな預言もあることも信じない」というのなら、あなたはあなたの聖書を使って、彼に直接、もう一度預言に戻リ、説明し、伝道することができます。
もし、その人が「私は聖書の中にどんな預言もあることも知らない」というのなら、あなたは彼とともに聖書の預言と預言が成就したことを注意深く学ぶことを試みてください。
私は「預言の驚異」と言う本の中で使われているジョン・アーカートの法則が好きです。
彼は預言の問題を証明をするための原則をここに置いています。
私たちは聖書の中にあるこの偉大な預言のいくつかを学ぶ事があるでしょう。
その時、イスラエルがどのように聖書の預言を成就させたか、その原則を見ることができます。
私たちは聖書の中に見ることのできるすべての預言と、別の箇所でイスラエルが聖書の預言が成就させた物語とを、私たちの考えの外に置くかもしれません。
そこには偉大な多くの預言が存在します。
たとえば、あなたがイザヤ書53章を読もうとするのなら、その時新約聖書に立ち返り、あなた自身のために成就されたこと確認してください。
レビ記、イザヤ書、エレミヤ書の預言を読むのなら、ダニエル書とその他の預言書に戻り、それがバビロン捕囚において成就されたを確認してください。
しかし、今だに聖書に書かれている多くの預言が成就されていません。
イスラエルは聖書の語っている通り特徴付けられ、正確に予告され、多くの時代を通り過ぎてきました。
エドム、ツロ、エジプト、その他の国々についての預言は真実です。
過去のユダヤ人の1800年の歴史を考えた時、これは特にきわだつ真実です。
これらの聖書預言の全体の大筋を注意深く学んでいない者は聖書が拒む権利など持っていません。
そして、誰であっても「聖書はすべて、神の霊感による」ということを理解する必要があり、正直に調べる必要があると私には思われます。
正直な人は一般的な知性を持っているでしょう。
ならば、その人は聖書が真実かどうか知りたがっているはずです。
そして、人はすぐにはそのようなことは必要ないと考えるかもしれません。
もし、神のみこころにより、まだ来ない出来事が預言者に与えられなかったのならば、預言と歴史が完全に一致することなど全く考えられないことです。
神は聖書著者に霊感を与え、神は失われた人を贖うために御子を与えられたのです。