メッセージ 2001/10/26
完成されたキリストの働き
by H.A.アイアンサイド
第9章 完成されたキリストの働き (パート1)
神の御言葉によって分け与えられた思いには価値があります。
私たちは今、その神への思いへと入れられました。
ヘブル人への手紙の著者である使徒は、型としての聖所の持つ性格と前の時代にあった礼拝に私たちの注意を最初に向けようとしています。
この章において、この使徒はユダヤ教の神殿よりも、幕屋の方を考慮していることに注意してください。
ある人たちが考えているように、ともに神の啓示によるもので、幕屋よりも神殿の構造の方が劣っているというわけではありません。
ダビデがソロモンに変わりことのない聖所に対する計画を与えるとき、はっきりとこのように宣言しました。
「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行なう。」
新改訳聖書 第一列王記28章19節
しかし、神殿を象徴的に見るのであれば、旧約の主の力が現れた時代において、千年王国の栄光と祝福を前もって形にして十分に現さられ、理解できるものものです。
幕屋は神殿とは別の方法で、荒野をさまよう人たちのために千年王国の真実を描き、主が一時的に住まわれた場所です。
聖霊については雲の柱によって型として現されています。
聖霊はこの世の荒野を通ってゆく、現在の時代(dispensation)の集まりである、神の残りの民を安息へと導いておられます
天にある聖所の影を地上の聖所に写しだしているのです。
(ヘブル人への手紙9章1〜10節、参照)
そこには神への礼拝である儀式と「地上」の聖所を見ることが出来ます。
この「地上」と言う言葉は霊的ではないと言っているのではありません。
むしろ、天とは対照的に現されていると言った方がいいかもしれません。
この幕屋自身、二つの部分に分けられています。
一つは聖所と呼ばれ、もう一つは至聖所と呼ばれ、垂れ幕によって区切られていました。
そして、ヘブル人への手紙の著者である使徒が、一つ一つを結びつけて幕屋の備え付けられた様々な備品について説明しています。
私たちは聖霊の絶対的な霊感によって、実際の幕屋とは別に、口語的な表現によって最高の具体的な説明を持っています。
使徒が最初の部分について書いた時、このように言っています。
「その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章2節
彼は香の金色の祭壇については述べていません。
それとも、垂れ幕のすぐ前に置かれている祭壇のことを忘れてしまったのでしょうか?
それとも、このことについて省略しなければならない霊的な理由があったのでしょうか?
聖書を神の御言葉だと信じないものたちはすぐにこのことに飛びつきました。
霊感を持った著者が書いたこの箇所について、間違いがあると主張しました。
しかしながら、私たちが次の3つの節を注意深く見る時、すべてがはっきりとされてきます。
「また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。
しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章3〜5節
注意深く観察してみると「その前部の所には」(9章2節)と言う表現から、単に「そこには」(9章4節)という表現に変わっている事に気がつきます。
それから、「金の香壇」が本当に金で覆われている香の祭壇であることにも気がつくはずです。
オリジナルの原語では「thumiasterion」という言葉で、普通に香の祭壇(金の香壇)を指している言葉です。
黙示録8章3、5節に使われている香壇(金の香炉)では「libanotos」という言葉が使われており、上記の言葉とは同じではありません。
英語を使う通常の読者であれば、この二つの言葉のどのように違うか理解できるはずです。
単にへブル人への手紙9章4節で意味している香壇とは香の祭壇(金の香壇)を指しています。
しかし、なぜこの手紙の著者はその祭壇が聖所(垂れ幕の手前)の中にあると言っていないのでしょうか?
なぜ、この著者ははっきりと至聖所と結び合わせていないのでしょうか?
その答えは単純明解です。
この香の祭壇(金の香壇)は至聖所に属していました。(幕の向こう側)
型としてみるのであれば、至聖所全体から見て、キリストの人格と仲介者としての働きを示しているからです。
しかし、旧約聖書の時代(dispensation)、その香の祭壇(金の香壇)は垂れ幕の外側に置かれなければならないのです。
そこは祭司たちによって近づくことが出来る場所です。
神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた時においても、この香の祭壇(金の香壇)は垂れ幕のそばに立っていたいました。
聖所の真ん中で香の香りよい煙を立ち上げていました。
手紙の著者である使徒は聖所の中については何も語っていません。
しかし、使徒はこの金の香壇が聖所に属していることを宣言しています。
その時、その不完全とされていた記述が聖書の完全性を現わすもっとも美しい証拠となるのです。
古い旧約の時代(dispensation)が続いた間、祭司たちは聖所の中へ入ることはありませんでした。
彼らは単に幕屋のたれ幕の前にある聖所において、儀式を行ったのです。(香が捧げられるように香壇はそこに置かれていた。)
年に一度だけ、大祭司は一人で捧げものを捧げるために第二の幕屋(至聖所)の中に入ることが許されました。
そこには、贖罪蓋(償いの座)を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。
「そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。
その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章7節
このように応用され、聖霊はこのような厳粛な事実を宣言しています。
それは神によって直接現された事実であり、最初の幕屋は祭司の前にいろいろな器具が置かれている限り、今だに神はその真理を知られないようにされているのです。
「これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章8節
このことは聖所への道を提示しているでしょう。
しかし、AD70年に起きた神殿の崩壊に至るまで知られていないことでしたが、このように多くの者がこの道を知るに至ったのです。
最初の幕屋を現わした時すでに、神は本当の至聖所への道をはっきりと現わしていたのです。
イエスキリストが十字架の上で死んだその瞬間に、型として現わされた幕屋の組織全体が神の前からその機能を失ったのです。
しかし、しばらくは神殿の姿は残っていました。
そして、十字架の上で捧げられた主イエスキリストのからだを単純に描写した贈り物と捧げ物はそこに存在していたのです。
これらの捧げ物自身には現実に何の価値もありません。
彼らは罪の問題を解決することができません。
ゆえに、彼らは完全な良心を持つことが出来ずに、これらの捧げ物を捧げていたのです。
「この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章9節
彼らは罪の問題を解決することができません。
ゆえに、彼らは完全な良心を持つことが出来ずに、これらの捧げものを捧げていたのです。
彼らには罪の問題を解決することはできません。
ゆえに、捧げもの捧げることによって良心を完全にすることはできません。
「それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章9節
多くの定めは「ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので」、人であろうと物事であろうと、すべてが肉的な儀式であり、最初の契約に関係していることです。
この定めには一時的な目的(旧約においてキリストを現わす)に仕えようとするだけのものです。
これらの規則は単に新たにされる時まで有効なものです。
その時とは、キリストが死と復活によってこれらすべてを成就させ、その結果、神は新しい、栄光ある恵みの時代(dispensation)を表わしてくださったのです。
キリストの優れた捧げもの(ヘブル人への手紙9章11〜23節)
使徒はさらに今、驚くべき私たちの主イエスキリストの捧げ物をどのように示そうと言うのでしょうか!
この捧げものこそ、すべての古い契約の型と影に勝るものなのです。
キリストは大祭司であり、犠牲の両方なのです。
完成された贖いを基礎として聖所の中に一度限りキリストの血は捧げられることにより、キリストの大祭司はすばらしい事がらを行っているのです。
キリストの職務は偉大な、より完全な幕屋と関係しており、キリストは天に永遠に住まわれ、その御業は神の御前に永遠に留まります。
「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、...」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章9節
キリストの贖いはどこにも失敗など見当たりません。
また、その贖いはキリストの終わられた御業の価値を評価するすることが出来ます。
古い契約の下では、イスラエルが罪を犯すたびに新しい契約が必要になりました。
しかし、キリストが自分自身を一つの完全な捧げものとして捧げられたので、罪の問題は永遠に解決されたのです。
ゆえに、良心にはさまよいもなく、たましいの問題について失敗などありません。
聖められた者たちは信仰によって、キリストの贖いの御業によって彼らに有効となるのです。
その御業は神の王座の前に立つその瞬間に、私たちの立場を変えることができるのです。
キリストが死んでなく、もしくは墓から離れていないと私たちに語られているのなら、十字架はゆらぎ、平和さえもゆらぐでしょう。
しかし、キリストの血には無限の価値があり、キリストは神の義の要求すべて満足され、このように永遠の贖いは保護されているのです。
キリストの血が十字架上で流された瞬間、天においてその有効性は認められました。
このように贖罪蓋(償いの座)の上に血が注がれることを成就させたのです。
しかし、単に神の王座の上に注がれただけではありません。
同じように信じる者の上にも注がれ、すべての汚れから清められたのです。
13節では私たちの前に、民数記19章で与えられている赤い雌牛の儀式が提議されています。
「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章13、14節
雌牛は燃やされて灰にされます。
その灰は水と混ぜ合わされ、この隔離された水は汚れたイスラエルの上に注がれたのです。
それはイスラエルがこの地上において礼拝を捧げるためにふさわしい者となりためでした。
灰はこのことを生き生きと表現しているのです。
彼らは十字架の上にいる私たちの救い主のように「完了した」(ヨハネ19章30節)と大声を出して叫ぶことができます。
ゆえにその灰は再び燃やされることのないことを教えています。
そこで、失敗をするクリスチャンは御言葉によって日々洗われ、頼りことを覚えるのです。
そのクリスチャンのたましいはキリストの完了した御業の真実によって新たにされ、そこにはクリスチャンが日々犯してしまう罪の解決があるのです。
ゆえに使徒は言っています。
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章14節
キリストは罪なき御方です。
罪人の立場を取って、永遠の霊の力にあって、御自身を御捧げになりました。
キリストの血が流されることを通して、私たちの良心は死の働きから清くされ、生きている神に仕えるために自由にされたのです。
イスラエルは古い契約の下にありました。
死と接触し、汚れたイスラエルは分離の水に頼ったのです。
しかし、私たち自身が救われないという立場をあるという事実によって、私たちにあるすべての努力は汚れており、無駄なものなのです。
私たちは罪と罪過の中に死んでいる者だったのです。
しかし、今、私たちのすべてが解決されています。
私たちは信仰にあって、そして新しい命の力にあって、生きている神に仕えるために自由とされたのです。
したがって、キリストはご自分の死に基づいて新しい契約の仲裁者なのです。
キリストの死によって、キリストは信仰によって神に立ち返ったその者を、信じたその瞬間にすべての罪の問題を解決してくださったのです。
これは疑うことなく、次のような表現によって示されています。
「 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、....」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章15節
実際に、キリストが十字架の上で贖いとなられるまで旧約聖書の聖徒たちの罪は片付けられてはいません。
この時、これらキリストを信じる者は完全に新しい契約の中に入れられたのです。
キリストは御自身の血によってこのことを保証してくださっています。
古い契約はキリストが来られるまで、神の人々に与えられた神のみこころでした。
「モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章19、20節
新しい契約は私たちの祝福された主のみこころであり、永遠の相続すべき財産を受け取る者たちがキリストに信頼を置くように神が定められたのです。
そして、その約束を信じるすべての者たちとともにその財産を分かち合うことを、神は喜んでいるのです。
キリストの死によって、そのことが証され、効力発したのです。
キリストの死から離れては、このような邪悪な罪人に対する祝福はありえません。
契約は「人が死んだとき初めて有効になるのであって...」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章16節
キリストの十字架上の死にこの新しい契約、証し、もしくはみこころが置かれ、実行されました。
それが純粋な恵みの契約であるゆえに、過去に示されたイスラエルとユダへのこの素晴らしい契約が、前の章で語られたようにすべてのクリスチャンに適応されるのです。
契約の血はすでに流されました。
この祝福された流れを隠すものは何もありません。
過去の時代(dispensation)の下で血が流されることはこの契約を確認することであり、死が人の違反行為のために生じる結果であることを人々に警告しているのです。
同時にその流された血は新しいささげもの契約を象徴的に示しているのです。
「また彼(モーセ)は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました」と私たちに語られています。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章21節
「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章22節
前節に続く声明は絶対と言えるものであり、あとの節がすぐにそのあとにあるので簡単に理解できます。
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」ということは古い契約に限定されているのではありません。
神の計画によると、天にある事柄の型と形は、ささげものの動物の血で清められる必要がありました。
しかし、現実には昔の動物の血ではなく、より優れた血で清められる必要がありました。
罪は天において始まったので、より天的な清めが必要なのです。
天においてサタンの堕落がありました。
ゆえに、天が汚されたのです。
キリストのささげものは汚れてしまった天を清めるための基本です。
キリストのささげものは汚れた天を清めのための基礎であり、義の住む新しい天と新しい地に至る保証なのであり、最後に、天において、地の上にあるすべてが十字架の血を通して神と和解するためなのです。
もちろん、万人救済説を称えているのではなく、地の上に生きているすべての者が救もなく、天を汚した堕落天使が救われるということを言っているのでもありません。
罪と罪人たちが地と天から取り除かれる時が来ると言っているのです。
神はすべてにおいてすべてなのです。
聖所への道(ヘブル人への手紙9章24〜28節)
基礎的な教えを述べた後で、ヘブル人への手紙の著者である使徒は新しい(dispensation)の特別な真実を示し始めています。
そして、古い契約において示された型がキリストをはっきりと現していて、いかにこの真実が古い契約に取って代わったかを教えています。
ヘブル人への手紙9章24〜28節の中で、私たちは主イエスキリストを表わしたと思われる3つの事柄を適切に示すことが出来ます。
キリストは過去に現れ、キリストは今は現れており、キリストは将来も現れるということです。
その目的はそれぞれ違っています。
なぜならば、最初に現在、聖霊が私たちの上に住まわれ、私たちの罪の問題を置き、その問題を思い返し、立ち返させる為に、仲介者として存在されておられるからです。
そして、この章を閉じるにあたって、キリストが二度目に現れる時、私たちの完全な、そして、栄光ある贖いを完成させ、私たちに喜ばしい時が訪れることを教えています。
24節の中で、私たちは信仰によって真実な幕屋を見ることが出来ます。
「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章24節
私たちは復活された祝福の主を見ることが出来ます。
キリストは現在、私たちのために神の御前におられます。
キリストは神の王座の前で私たちの代表として完璧な方です。
そして、私たちはキリストにあって受け入れられているのです。
また、同様にキリストは人間の弱さと間違いに陥りやすいという観点から見ることができる仲介者なのです。
そして、使徒ヨハネが書いているように、手紙の中でイエスは私たちのために責任を負われる、父とともに助け手(弁護者)として紹介されています。
「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。
それは、義なるイエス・キリストです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節
私たちは実際に失敗する者であり、神との交わりを壊してしまう者だからです。
私たちは正しく、キリストの完了された御業について、たびたび語ることがあるでしょう。
もちろん、その時、私たちは十字架の上の身代わりの贖いを語ります。
しかし、聖書にはキリストがまだ成し遂げていない働きのことを述べています。
私たちはキリストの仲介という特別な職務について考えるべきです。
キリストは栄光のうちに上がられて以来、この職務を天の聖所において成し続けています。
この働きは、聖徒がこの地上において必要がある限り、決して終わることのない御業なのです。
キリストの十字架の御業は決して繰り返すことのない働きです。
キリストが罪の問題を完全に解決してしまったので、繰り返す必要はありません。
キリストはさばきという面において私たちの立場を取ってくださったのです。
このことを前提として、私たちは律法に置ける捧げものとキリストの一つの捧げものとの間に大きな違いを見つけることが出来るでしょう。
キリストが御自身の力強い捧げものによって罪が取り除かれたことを現すことにより、世々に示されてきたことを完成させたのです。
過去の時代の捧げものは何回も繰り返し捧げられました。
それはこれらの捧げものが罪の問題を解決することが出来なかったからです。
しかし、キリストの貴重な血は私たちの贖いのために注ぎだされました。
この血には無限の価値があり、どんな方法であろうとこの血の価値に何かを付け加えようとするのならば呪われなければなりません。
祭壇における捧げものは、贖いの偉大な日を表わす型として成就したと言うことができます。
現在、キリストは御自身の血の価値を持って、聖所へと入っておられるのです。
間もなく、昔の祭司が職務を終えて聖所から出てきたように、キリストの祝福された人々のために聖所から出てこられるです。
そして、キリストは人々の目から隠されている一方で、祝福された人々は偉大な大祭司としてキリストを再び見上げるのです。
人々は死の宣告とそのさばきの下にあったのと同じぐらい真実に、キリストはその宣告を御自身の上に置き、多くの罪のために御自身を御捧げになったのです。
そして、確かなこととしていえる事は、キリストはこの祝福された人々に現れます。
彼らは再びキリストを見ることになります。
キリストを持つすべての者のために、そして、完成された、最終的な救いの成就のために、キリストは罪の問題とは関係なく、もう一度帰って来るのです。
わずかな間、聖霊はキリストのなざめの働きを証言するために世に来られています。
一方、天においてはキリストは天の聖所において御自分の職務を続けておられます。
そのことは後の28節において、はっきりさせるつもりです。
預言の知識を伸ばそうとする者たちはキリストが二度目に来られることを期待しています。
その時、私たちはキリストに会うために引き上げられるのです。
これから書くことは決して著者の心の中にあることを描いた創作事ではありません。
また、聖書の中にある他の箇所で聖霊の教えている確かなこととも言えません。
しかし、すべてのイスラエルが贖罪蓋(あわれみの座)に贖いの血をふり注いだ大祭司が出てくることを見たように、すべてのクリスチャンは私たちの主イエスキリストが再び来ることを見ることができると考えています。
これらのことはキリストの来られる方法について、もしくはこの出来事の目的に関して、多くを理解する必要はないと思います。
しかし、私は更なる思いをもって叫びたいのです。
「主イエスよ、来てください。」
新改訳聖書 黙示録22章20節
第10章 完成されたキリストの働き (パート2)
10章の最初の18節において、律法の捧げものとキリストの一つの捧げものが今までよりもはっきりと対照的に描かれています。
ヘブル人の手紙の著者である使徒がこの二つの捧げものを綿密に比較していることに注意深く、気をつけて読んでください。
このようにこの論議を追いかけることは大切なことです。
この使徒はすべてのクリスチャンが聖所の中に入るように招待することによって、この説得力のある論議を完了させています。
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章19〜22節
B、すべてを満足させた捧げもの(ヘブル人への手紙10章1〜22節)
レビ族の組織は来るべき素晴らしい事柄の影でしかなく、正確な描写とは言えません。
ゆえに、ユダヤ人の祭壇に毎年繰り返し捧げられる捧げものには、彼らに現された良心の問題に限って言うのであれば、良心を永久に完全とすることは不可能なことでした。
つまり、小羊、もしくは、雄の子牛を連れてこることにより、罪の問題が解決できたでしょうか?
もし、解決できるのであれば、このような捧げものが繰り返して捧げられる必要があったでしょうか?
礼拝者が現実に完全に清められたのならば、すべての罪の良心から完全に自由にされたはずです。
注意深く見てください。
この使徒は罪の自覚(consciousness)とは言っていません。
罪の良心--意識(conscience)と言っています。
「一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章2節
訳者注)ここでいう"conscience"という単語はギリシャ原語で"suneidhsiv"が使われています。
日本語では「意識して」という表現で十分だと思いますが、「良心に訴える」もしくは「良心して」(動詞)という意味で取り扱えます。
その区別はたいへん重要なことです。
今日、考えにおいて、言葉において、行いにおいて、罪を意識します。
しかし、私は自分の罪を告白します。
私は私の父である神の顔を確信をもって見上げます。
私はこれらの恐ろしい罪を知っていますが、キリストの血がその答えを与えています。
キリストの血のゆえに、私は罪のさばきから、私の良心は自由にされたのです。
ゆえに私は決して過去の律法の下にいることはできません。
すべての罪には新しい捧げものが必要です。
そして、その時、偉大なる贖罪の日において、毎年繰り返して捧げられるイスラエルすべてのための贖いがありました。
3節に注意してください。
「ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章3節
違う翻訳が指摘されています。
これらの助けはこの節が意味していることを正しい光で照らすことができます。
「思い出される」と訳された言葉は「承認される」もしくは「自分に問う」、もしくは「認識される」と訳される方がよいかもしれません。
訳者注)"anamnhsiv"--著者の言わんことを意識して訳すのなら「更に記憶によって覚えられる」と定義付けられます。
しかし、もし捧げものが彼らを実際に清め去ることが出来たのならば、なぜ、このように罪が認識される必要があるのでしょうか?
約束手形を例えにするのなら、あなたが理解することに助けになるでしょう。
合計するとかなりの金額になる借金がある人がいたと私たちは想像してみましょう。
その人は一年間で借金を返すため、手形で支払いました。
その一年が終わる時、彼は自分ではこの借金が返せないことに気がつきます。
その人は再び新しい手形を作ります。
手形自身には何の価値もありません。
同じように、神の側から見るであれば、捧げものには道徳的にも、霊的にも何の価値はないのです。
しかし、手形のは毎年、時期が来るのであれば、借金が支払われるという認識があるのです。
今、私たちはある人が必ず払って下さる力があることを知っています。
その手形は保証されています。
では、いつ支払われるのでしょうか?
満期になった時です。
手形は清算されるためにその人に手渡され、その人は義務によって約束された金額が支払われるのです。
その適応ははっきりしています。
雄牛のヤギの血は罪を取り除くことはあり得ませんでした。
しかし、神を信じるイスラエル人が祭壇に捧げものを持ってくるたび、神に対しての注意心が湧きあがってきたと言うでしょう。
その人は自分の責務、罪を認め、同じだけの責任を感じます。
これがこのイスラエル人のできることのすべてでした。
しかし、肉体を持たれる前のキリストはこのような注意心すべてを保証し、これらすべてを完全に解決する時が来ることを証ししておられたのです。
どうして、キリストはこの世に来られたのでしょうか?
キリストはこのように言っています。
「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。
『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章5〜7節
ここで神はすべての要求を恵みにあって受け取りために、確かに保証人となりました。
それは神の御座が悔い改めた罪人に対して置かれているからです。
この節は詩篇の40編6〜8節からの引用です。
また、この見解においてレビ記1〜7章までの4つの捧げものすべてを注意深く見ることは非常に興味を持ちます。
その言葉の示す捧げものは和解の捧げものについて述べられたものです。
その用語から見るのであれば、ユダヤ教のミンハー
(日々の礼拝、祈り)を示しており、食事の捧げものです。
その他の二つの用語はいくつかの説明が必要であることがはっきりしています。
これらすべての捧げものは罪を取り去る効果はありません。
それゆえに、神はこれらの捧げものを喜ばれないのです。
しかし、神はご自分の祝福された御子をこの世界に送り、この捧げものの型(type)を成就されたのです。
そして、イザヤ書にて書かれている贖いの代価を、ご自分の人格において支払ってくださったのです。
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
新改訳聖書 イザヤ書53章10〜11節
また、詩篇の40編の宣言を成就されることにより、実際に古い時代(dispensation)を終わらせ、新しい時代に至らせたのです。
「また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章9節
このように「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われています。
もちろん、神のみこころ、つまり「御子が罪を贖うために来られた」ことについて語っているのです。
今、私たちの約束でもなく、もしくは私たちの個人的な義の感覚でもなく、キリストがみこころを成し遂げたという基礎の上に、神の側に置かれたという信仰を私たちは持っているのです。
キリストのからだは一度だけ、完全にすべての者のために捧げられたのです。
私たちのからだの中にどのくらいゆっくりとこの真実がしみこんでゆくのでしょうか?
いったい、いつになったら私たちの中で確実なものとなるのでしょうか?
しかし、ある者は自信をもってこのように言うかもしれません。
「人の中でキリストの働きが信仰において確かなものとなるまで平和は続かない。」
次に、ヘブル人への手紙の著者は律法の大祭司に働きを読者に思い出させこのように言っています。
「すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章11節
「すべて祭司は毎日立って」この表現は意義深いものがあります。
私たちは幕屋、神殿の中でいすや長いすについて、読んでいません。
それは祭司の仕事は決して終わることがないからです。
私たちの偉大な大祭司にある御業と大きな違いがあるのではないでしょうか?
「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章12〜13節
「永遠」ということばと、「罪のためのいけにえ」もしくは「座に着き」というという表現を結びつけて考えるのなら、そこに違いを生じさせることはありません。
その捧げものは永遠の効力を持つのです。
もう一方、祭司であり、かつ捧げものであるキリストの働きは犠牲を再び捧げるようなことはしません。
ゆえに、キリストは座られたのです。
キリストの一つの捧げものは完全であり、完成されたものです。
すべての者は終わってしまったすべての働きの価値のゆえに、神の御前に現れた信仰によってキリストと結び合わされているのです。
キリストにある捧げものは、永遠に完全なものです。
完成されたキリストの働きである捧げものを聖霊は証ししています。
「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章15節
聖霊は父と御子の前から来て、キリストの完全な終わられた御業の証言しています。(ヘブル人への手紙10章15節)
そして、聖霊は旧約聖書を開き、旧約の聖徒たちが決して理解できなかったことを私たちに知らせています。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。
わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章16〜17節
これはエレミヤ書31章33〜34節から引用です。
現在、キリストに立ち返るすべての者への真実という新しい契約を通して、イスラエルとユダに対する約束がなされているのです。
「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
新改訳聖書 エレミヤ書31章33〜34節
新生を通して、神は「律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」のです。
そして、何も資格のないものがこのように宣言されるのです。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章17節
これはすべての問題から完全に義とされた結果です。
疑うことなく、現在、キリストによってすべてのことが解決された者に対して言われているのです。
ゆえに、祝福の結果とはこのことです。
「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章18〜19節
この完成された赦しはキリストの「兄弟たち」に対してなされています。
また、神は新しい祭司の家には「大胆にまことの聖所にはいる」ことを勧め、清められるための礼拝をすぐに行うように求められておられるのです。
彼らはキリストの血の永遠の価値の中に、キリストが私たちのために開いてくださった新しい生ける道を通って入ったのです。
十字架上のキリストの死によって聖所の幕は二つに裂かれました。
そして、神はもはや何も隠しておられません。
人は、もはやキリストから締め出されることはありません。
「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章20節
贖いとはとても親密なものとなったのです。
そして、贖いは「神の家をつかさどる、この偉大な祭司」(ヘブル人への手紙10章21節)という真実とともに関係しているのです。
聖霊はすでに来られ、私たちには聖霊において聖所の中に入ることが促されているのです。
ですから、次のように勧められています。
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章22節
汚れたイスラエル人が一回だけ洗ったように、私たちもキリストの血によって一回だけ完全に洗われたのです。
今日において、このことすべてを理解しているのはわずかなクリスチャンだけというのは非常に残念なことです。
キリストに希望を置く非常に多くの者に、幕は裂けていないと言う方が良いと思うぐらいです。
この多くの者たちは聖所に近づくことの出来るという自由な観念を持っておらず、彼ら自身はまだ執行猶予中だという考えを持っています。
もし、彼らが単純に自分自身の告白に忠実であれば、彼らは神の現してくださった方法に適応されるはずです。
何と多くのものが真実なるクリスチャンの立場を理解せずに、失われ続けているのでしょうか?
これらのことは昔の聖歌の中で美しく歌われています。
今、私たちはキリストが受け入れてくださったことを知ることができます。
しかし、私たちはそこに達することはできません。
キリストは私たちの有罪の宣告の下に置かれました。
キリストは高き王座に座られました。
神はキリストの中にすべて信じる者を見ています。
そして、最も弱き聖徒は贖いの血を通して、すぐにでも聖所に近づくことが出来るのです。
その勧めと警告は、最も軽んじられている者にある祝福された真実を曇らせてしまうものではありません。
そのようなことは聖霊によって教えられているのものではありません。
むしろ、ここで現されていることが何か、すばやく理解し、その重要性を強調すべきです。
背教に対する警告
聖所の中に入るという栄光ある招待に続いて、23〜25節の全く対照的な勧めがなされています。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章23〜25節
23節における告白はKVJ訳聖書の訳よりも良いかもしれません。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章23節
"Let us hold fast the profession of
our faith without wavering; (for he is faithful
that promised;) "---KJV BIBLE
---「約束された方は忠実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと信仰を告白しようではありませんか。」
katecwmen thn omologivan thv elpidov aklinh.
pistov gar o epaggeilavmenov.
---「私たちは希望の告白を動揺しないで持ちましょう。
約束された方は真実だからです。」
注意していないと、私たちは真実ではないことを告白してしまうかもしれません。
私たちの告白はこのようなものです。
「クリスチャンは十字架で死なれ、そしてよみがえった栄光あるキリストにある信仰」を宣言しています。
キリストはこの偉大な告白を右にも、左にもそれることなくしっかりと握るように勧めています。
クリスチャンはこのようなの信仰を確信し、神は御子に関する約束を与えています。
恵みは、今、この瞬間に至るまで、ずっと満たされているのです。
23節における告白はこのKVJ訳聖書の訳よりも良いかもしれません。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章23節
私たちは真実ではないことを告白してしまうかもしれません。
私たちの告白はこのようなものです。
「クリスチャンは十字架で死なれ、そしてよみがえった栄光あるキリストにある信仰を宣言しています。
キリストはこの偉大な告白を右にも、左にもそれることなくしっかりと握るように勧めています。
クリスチャンはこのようなの信仰を確信し、神は御子に関する約束を与えています。
恵みは、今、この瞬間に至るまで、ずっと満たされているのです。
この一つの偉大な約束は主の再臨の時に確かめられるように残されているのです。
私たちはキリストの過去の働き、そして現在の働きに関係している栄誉ある点について決して失敗することがないと確信しています。
キリストは今までと同様に未来においても忠実な方です。
この章において三回、私たちは御言葉によって説得されます。
私たちは最初に「神に近づこうではありませんか」と勧められています。
次に「しっかりと希望を告白しようではありませんか」と勧められています。
三回目に「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」とも勧められています。
クリスチャンはただキリストを告白しているだけではありません。
もしくはキリストと孤立して行っているのではありません。
クリスチャンはただキリストを告白しているだけではありません。
もしくはキリストと孤立して行なうことでもありません。
キリストは性質と恵みのその両方において、他の者たちと結ばれているのです。
そして、キリストは愛と良き働きのために兄弟たちに対して奮起するように求めているのです。
礼拝、祈り、信仰告白のために交わりを持つ兄弟たちとともに建て上げられてゆくのです。
決して、冷たい何かの方法においてキリストへと強制的に従わせることではありません。
もし誰かが悲しく結果を持っているのなら、もし他の兄弟が失敗することを恐れているのなら、クリスチャンはそのような兄弟たちの方へ目を向ける責任があることを思い出すように勧められています。
その者は何か預言的な真実を持って特別な光で照していません。
彼のその兄弟への態度は党派心を作らせる理由となります。
彼に必要なのはこれらの事であり、彼らに必要なのはキリストの栄光ある空中再臨の日がより近づいているということなのです。
10章26〜31節において、私たちは全く別の側から見ることが出来ます。
ヘブル人への手紙6章にあるように、それは背教に対する警告です。
その警告はキリストの一つの完全な捧げものを基礎にしています。
それはヘブル人への手紙10章22節の前半において、このような驚くべき方法においてはっきりと示されています。
6章における警告はキリストの集まりの中にある聖霊の働きに現された力を基礎としています。
その背教はキリストの人格、キリストの完成された御業を信じる信仰から離れることであり、その教えるところは滅びです。
それは10章26節にあるように、単純にクリスチャン生活における失敗など言えるものではなく、強情な罪です。
キリストの捧げものをはっきりと拒否することです。
もしくは、現在において、背教が単純な愚かさであり、邪悪な信仰の解決方法などでもありません。
使徒は実際にこのように書いています。
「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章26節
この動詞は現在分詞です。
それは習慣的になっていることを表わしています。
もし、その者が旧約聖書がキリストとキリストの御業について教えていることについて、そして、新約聖書で表わされていることを比較して十分に確証でき、真実なる知識を得て、背教を拒むように慎重に説得された後には、神はその者に対して何も言うことが残してはないのです。
その者はユダヤ人、もしくは異邦人のための唯一救いの手段である方をはねつけ、その真実を拒んだのです。
背教したユダヤ人は自分自身にその原因があったことを知るべきなのです。
それはそのユダヤ人には神殿には捧げものが今だに必要であると考えていたからです。
その結果、その者はキリストに従うことを告白しながらも、ユダヤ教の捧げものに帰って行こうとするのです。
しかし、これは恐ろしい誤ちです。
これらの捧げものにはもはや効力を持ちません。
罪に関して言うのならば、キリストの贖いはただ神の要求に応じる事でした。
背教は何も見つけることは出来ません。
「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章27節
また、旧約聖書において「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章28節
しかし、何が福音のメッセージを知らされた人と彼の罪の意識を比較させたでしょうか?
その者はある時、知的に真実を確信したでしょう。
しかし、彼は自分勝手に理由を設け、最終的に真実からさばきへと向かって行ったのです。
このように行うことは「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者」者なのです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章29節
これが足の下に神の子を踏むことになっていて、数え上げることになっていたことをするために、「彼が聖別された契約の血罪深いこと。」
このようなことをする者は真実に神から生まれた者ではありません。
ゆえに真実な神の子供には、聖霊はこのような恐ろしい歩みからその者を守ろうととどまっているのです。
しかし、「自分を聖なるものとした契約の血」とは何を表現しているのでしょうか?
確かに、答えは捧げものの置かれた立場にあるのです。
すべてのイスラエルは古い契約の血によって、シナイに離れて置かれました。
それでも、イスラエルの中のある者たちは信仰に欠けていましたが、血の力によるすべての権利から立ち返ることもできたのです。
同様に新しい契約の血の価値を知る地上にある信仰を告白する教会全体が、現在、神から離れて置かれているのです。
しかし、これはこの新しい契約の十字架を捨て、教会を買い取って下さった祝福を拒む可能性を排除できません。
聖霊は偉大なるキリスト、ほむべきキリストの御業を喜びます。
キリストの証言を拒むことは「恵みの御霊を侮る」ことです。
「恵みの御霊」と言う表現は新約聖書の中でこのヘブル人への手紙10章29節にのみある表現です。
そして、旧約聖書の中にはゼカリヤ書の12章10節の中にだけ見つけることができます。
そのうえでヘブル人への手紙10章30節を読むのであればとても興味深いことを見つけること出来ます。
私たちはすでにこの手紙の著者が誰だか認めています。
「私たちは、「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章30節
再び、ここで主はご自分の民を裁くつもりです。
この引用は申命記32章35〜36節までの引用です。
「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。
彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」
主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。
彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。」
新改訳聖書 申命記32章35〜36節
ヘブル人への手紙10章30節の二つ目の引用はヘブル語からの正確な引用です。
しかし、最初の引用はヘブル語からというよりは70人訳聖書からの引用です。
二つ目の引用の節は著者が正確に同じギリシャ語に翻訳したのです。
ローマ人への手紙12章19節にある引用と同じです。
私たちはローマ人への手紙の著者が誰だか知っています。
そして、同じ著者によってこのヘブル人への手紙が書かれたことを確信していることでしょう。
この警告に書かれていることが近づいていることが厳守に宣言されています。
「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章31節
この証しを拒むすべての者は、神が与えた御子をさばきという立場において会わせなければならないのです。
私たちは詩篇143編にてこのようことを読みました。
「あなたのしもべをさばきにかけないでください。
生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」
新改訳聖書 詩篇143編2節
しかし、ローマ人への手紙6章7節では「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と文字通りに翻訳され私たちに語りかけています。
悪魔はその節を使おうとします。
私たちはその問題と困惑を持つ素直なたましいについて考えることがあります。
その敏感な良心を持つ者たちは神とともに歩むことに失敗するでしょう。
悪魔はそのような者たちを訴え続けているのです。
このようなことがたびたび恐れとして起きてくるのです。
彼らの故意的な罪を犯すという悪はここでは予想されていることなのです。
しかし、それは私たちの前に堕落として共通して呼ばれる問題のことではありません。
何人かの真実なクリスチャンはこのような悪をたびたび犯すことがあるでしょう。
そして、このような失敗に圧倒されてしまうこともあるでしょう。
その者はイエスが単に罪のさばきから解放者としての救い主、もしくはささげものとしてよりしがみつこうとするでしょう。
この章にある背教はこのような希望も意識もありません。
その者は完全にキリストと十字架の両方を踏みつけたのです。
その者は軽蔑しながらもイエスの血を聞き、知識として握ぎりしめたでしょう。
しかし、その者はここで何も握っていないです。
そこにあるのは滅びだけです。
それはこの章の32節から終わりまで書かれていることが証明しています。
ヘブル人への手紙の著者は本当にキリストに信頼するすべての者のこころが確信するように願っています。
使徒は背教に関する言葉を書いていますが、このような者たちには決して適用していません。
神が明らかにした真実において、使徒は彼らにその兆候の見える最も軽い段階において、もう一度彼らがユダヤ教に戻る危険性について警告したのです。
使徒は過去の彼らの思いを思い出しました。
それは聖霊によって、そして真実によって光照らされ、最初に目覚めさせられた日のことです。
「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章32〜33節
彼らは使徒のために、このような方法をおいて彼らの愛を示したのです。
この使徒が投獄された後に、彼らは可能な限りすべての方法をこの使徒に示したのです。
「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章34節
彼らがその良きことを始め、キリストへと聖別された献身的な命にあって今日までその良きことが続いているのです。
使徒はこの良きことが終わりまで続けることを勧めています。
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章35〜36節
報酬は救いと区別して考えるべきです。
救いは完全に恵みによるものです。
そして、私たちが主イエスキリストを信じたこの瞬間より私たちのものなのです。
彼は言っています。
彼らがその良きことを始め、キリストへと聖別された献身的な命にあって今日までその良きことが続いているのです。
使徒はこの良きことが終わりまで続けることを勧めています。
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章35〜36節
報酬は救いと区別して考えるべきです。
救いは完全に恵みによるものです。
そして、私たちが主イエスキリストを信じたこの瞬間より私たちのものなのです。
彼は言っています。
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
新改訳聖書 黙示録22章12節
この約束を知るのであれば、この地上において根気よく耐えることがいかに必要なことではないでしょうか!
私たちはその時に私たちのために備えられた神のみこころが私たちに満たされることを確信しています。
私たちはその時に、祝福された約束に満たされ、その約束を受け取るのです。
2001/12/4完了