メッセージSS 2001/12/19
喜びのおとずれ
ヨハネの福音書 3章16節 by C.H.マッキントッシュ
(Glad Tidings : John 3 :16 )
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
ここにある聖書のいくつかの節は、聖書全体の中でもっとも貴重な真実が含まれていると思われます。
この節はイエスとニコデモの談話の中で交わせれた一つの会話であることと私たちは知っています。
そして、この節は具体化された、そして、要約された、まさに真実なる福音の完璧な宣言であり、「喜びのおとずれ」という表現がふさわしいでしょう。
この「喜びのおとずれ」はメッセンジャーたちによって、そして彼らが語った福音のメッセージによって、すでにわたしの中に存在しているものです。
そして、この福音の壮大な目的は罪人の永遠の救いを保証する方法についてであり、神と罪人の両方にもたらせられました。
そうです、福音は救い主である神が失われた人間に現したことなのです。
言い方を変えるのであれば、罪人の必要を満たす神の御性質を、福音によって神が罪人に示されたのです。
まさに、この救い主は失われた者にとって必要なものであり、おぼれている人に救命艇、もしくは病人に医者、もしくは空腹な者にとってパンなのです。
彼らはこれらの方法以外のものが必要です。
それは救い主としての神であり、失われた罪人としての人間が共にここで出会うのです。
その問題のすべてが永遠に解決されたのです。
罪人は救われたのです。
それは神が救い主だからです。
彼は神に属する御性質において、満たされたすべての役割において、彼を支持するすべての集まりにおいて、完全に罪人を救ったのです。
そこに完全な、そして、永続するクリスチャンのたましいの救いついての問題が起きてきます。
その問題とは神が救い主であることを否定するということです。
その問題は義ということに関係しています。
しかし、神は義なる方として御自身を現しています。
ゆえに、神は御自身の義に結びつけ、クリスチャンを完全に義とするのです。
クリスチャンがもし、私がもっとも弱い者であると認めつつ、一つの悪を容認するのなら、それは義なる神に対して不名誉なこととなるでしょう。
しかし、私はこのことを容認します。
それは神が義なる方であるからです。
そして、すべての反対者、すべての告発者の直面で私は論じます。
それは私が完全に義とされたからです。そして、これを認めなければならないからです。
同じ原則に立って、私はこのことも容認します。
神は救い主としても御自身を御現わしになりました。
そして、曇りのない確信をもって、神にある大胆さをもって私は論じます。
それは私が完全に救われたからです。そして、これを認めなければならないからです。
それは私の中にある何かに信頼を置いているからではなく、単純に神御自身が御現わしになったことすべてに信頼を置いているからです。
私は神がすべてにおいて完全であることを知っています。
ゆえに、神は救い主としても完全なのです。
そして、私は完全に救われたのです。
そうです。神の栄光の中に私の救いがあるからです。
「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
新改訳聖書 イザヤ書45章21〜22節
ある人が失われた罪人として立場から、正義の神、救い主である方、そして永遠に救われているという確信についてを「見て」、信じました。
「見る」なんと簡単なことではないでしょうか!
それは「働き」でも、「何かをする」ことでも、「祈ったり」「感じたりする」ことではありません。
それは単純に見ることなのです。
それはその時、何を意味するのでしょうか?
救い--それは永遠(終わりのない)の命です。
そうです。神は救い主でなければなりません。
そして、この価値あることば「見る」ということは、私の見るべき方を見いだすことを私が望み、実際にこの救いが表現されるのなら、神は救い主でなければならないことは私にとって十分に理解できることとなるのです。
こうして、次のことすべてが明らかにされます。
救いは私のために準備されており、その者は保証され、その救いを「見る」ことが出来ます。その安全(保証)は永遠であり、私のために確保(保証)されているのです。
その救いの保証は単に今日、明日の問題ではありません。
その保証は現実に永遠のものなのです。
クリスチャンの隠れ家の後ろにある救いのとりでは、神御自身-救い主-神によって建設され、キリストの贖いの働きという確かな土台の上に立っています。
そして、地にある力、地獄の力もこれらのものを揺るがすことはできません。
「だから、神である主は、こう仰せられる。
「見よ。
わたしはシオンに一つの石を礎として据える。
これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。
これを信じる者は、あわてることがない。」」
新改訳聖書 イザヤ書28章16節、ペテロの手紙第一2章6節
今、私たちはこの講義の特別なテーマを構成する意味深く、教えられるこの節に戻って直接学んで見たいと思います。
その節の中に、最も確信できる救い主であり、神である方の御声を聞こうではないでしょうか。
このような方法は今まで決して現わされてはいませんでしたが、神は天から降りて来て下さり、その御声を聞かせてくださったのです。
その驚くべき祝福された救いの事実は、神がはっきりとこの世界に現わして下さいました。
そうです、この書かれた、そして読まれているこれら何行かの節によって私たちに知らされているのです。
その方がどんな方であるかを知ることによって、その方を知るのです。
その方についてそれぞれが、もっとも可能性のある方法によって、そして個人的な祝された親しい交わりにおいて、その方と共になされなければなりません。
このことについて考えようではないでしょうか!
私たちはあなたにお願いします。
あなたの救い主として、あなたの父として、まさにあなたの神として考えてみてください。
その方の親しい視線の下で、その方の光輝く、愛しいほどの御顔にあって、あなたはその方と共にいるでしょうか?
あなたはその方に頼っているでしょうか?
しがみついているでしょうか?
共に歩んでいるでしょうか?
生きていますか?
動かされていますか?
そして、その方の最も祝福されたプレゼントをすでに持っているでしょうか?
これは平和と命です。
これは神学校で学ぶ神学よりはるかに勝ることなのです。
神を知るということは素晴らしい価値があります。
しかし、人は決して神学者、救いの説教、さらに神を知らずに生きること、死ぬこと、そして永遠に滅びてしまうことに深みを覚えないことも知っておくべきです。
このような聖書の教えを押し沈めてしまうことはとても恐ろしいことです。
私たちは厳粛に考えてみる必要があるのです。
人がもし、神の指の結果である神学によって、永遠の夜である黒い、闇である地獄に行くことを知るのなら、その人は信仰告白者のイスに座り、説教壇や机の前に立つことが出来るでしょう。
その人は偉大な教師として、雄弁な説教者としての神学を見ることが出来るでしょう。
多くの人たちがその人の足元に座り、学ぶでしょう。
そして、もっと多くの者たちがその人のくちびるから出てくる言葉を信頼し、浮かれ気分になれるでしょう。
しかし、彼自身このくぼみの中に落ちてしまうのです。
彼自身が汚れと不道徳によって、この不幸な永遠を暗く過ごすことになるのです。
そのようであってはいけません。
その者は神が現わしてくださったイエスキリストと直面し、神を知るべきなのです。
そのようにし、その者は永遠の命を得るべきなのです。
キリストの言われた御言葉です。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章3節
永遠の命とは神学を学ぶことではありません。
人はこれらのことを学ぶために座わるかもしれません。
そして、その人は法律、もしくは薬について、天文学、もしくは地質学を学ぶでしょう。
しかし、学ぶすべての人は神については学ぼうとはしません。
ゆえに、その人は神なき人生を歩んでいるのです。
そして、その最後は永遠の滅びです。
その人は単に見かけは信仰深そうに見え、この世界の中では偉大な献身者と呼ばれたかもしれません。
彼はとても熱心に他のすべての仕事を放棄し、教会での組織だったすべての儀式に熱心に参加するかもしれません。
彼は断食もし、祈っているかもしれません。
教会のメッセージを聞き、祈りを唱えるかもしれません。
彼は最も献身的であり、最も模範的な信者と呼ばれるでしょう。
しかし、それでも彼は神なき人生を歩み、そして、神なき状態で死ぬのです。
そして、永遠の地獄の中に沈み込むのです。
ニコデモを見て下さい。
ニコデモよりも優れた宗教的な人間性の実例をあなたは何処に見つけることができますか?
ニコデモはパリサイ人でした。
ユダヤ人の支配者でした。
イスラエルの先生でした。
それ以上にニコデモは、イエスの行う奇跡を神から来たものだとはっきりと認識していたでしょう。
それでもイエスがニコデモに言ったことばはこうでした。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 3章3節
これは私たちにはもう必要のないことでしょう。
確かに、父のみもとに行くことは、人が単に宗教的になるということも優れているという証明となるのです。
しかし、ニコデモは実際に他のものを導く導き手であり、教師なのです。
それでも、ニコデモは神からの命を持つことはなかったのです。
ニコデモのような状態は、キリストにあって神を知る者の状態ではありません。
神を知る者ははっきりと目的を持っています。
この者は神御自身と価値ある相続物を受け継ぐのです。
これは神の側にある厳粛な事です。
このことは個人的なキリスト信仰を土台にしており、真実なる信仰を位置付けるものです。
その信仰は日常のすべての事柄の上に、そしてすべての事柄に働かせることが出来ます。
私たちの信仰とは単に繰り返したり。単に神学だったり、神聖、もしくは宗教的と呼ばれるものだったりしてはいけません。
それは神御自身を知ることであり、信頼し、楽しむことなのです。
それは喜ぶべき、紛れもない事実です。
神を知るということは、魂のためにある神学であり、神との交わりのための土台であり、真実な信仰生活と言うことができます。
神を知るために理解しなければならないことはいくつかあります。
それは神についての知識、神への信頼、そして神と共に楽しむと言うことです。
今、そのことは読者が尋ねようとしていることではないでしょうか?
「どのように私はこの貴重な宝を持つことが出来るでしょうか?
今の生活において、救いにおいて、神の力強い方法において、どのように私は神を知ることが出来るでしょうか?」
神を知るために、私は何をすれば良いのでしょうか?
私はどのような者であるべきなのでしょうか?
その答えは神が御自身において現されているのです。
もし、神がそのように御自身を現わさなければ、私たちが神を知るために、何をすればよいのか、どのような者であるべきなのかを判断出来る材料など何もないことに気がつくのです。
そうです。神を知るための材料は私たちには何もないのです。
私たちの中にも、私たちの持物にも、神を知ることのできる材料は何もないのです。
もし、神が御自身において現されなければ、神についての無知は永遠に私たちに永遠に残り、私たちは無知ゆえに永遠に滅んでしまうのです。
しかし、神はこの暗い闇から来て御自身を現わしてくださったことに注意してください。
私たちは神が私たちに現わしてくださった真実なる聖書に記された通りに現れてくださったことを知っています。
私たちはそれを見つけ、知り、永遠の命を得たのです。
そして、私たちの贖われたたましいは祝福された永遠を通して神の現してくださった真実を味わう続ける祝福を知り、今は喜び跳ねているのです。
私たちは永遠の命を得るために人の中に何か不適格性があることを追求する必要はまったくありません。
私たちの所有する命は神の知識を基礎としているからです。
そして、神の知識は神の現してくださったことに頼らなければならないのです。
みことばにおいて、そして神を知ることは命であり、神について無知なことは死を意味しています。
しかし、何処で神を知るべきなのでしょうか?
これはとても深い、重要な問題です。
多くの者がヨブと共に叫ぶのです。
「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」
新改訳聖書 ヨブ記23章3節
何処で神を見つけることができるでしょうか?
私は被造物の中に神を見ることが出来るでしょうか?
確かに、神の御業はそこに見ることが出来ます。
しかし、そこに私のために神が何をして下さったか知ることはできません。
創造物---失われた罪人には何も判らないのです。
その偉大なる御腕は私のような哀れな、邪悪な恥知らずの罪人には何の効力も持たないのです。
何処で神を見つけることができるでしょうか?
私は広大な神の領域をのぞくことが出来るでしょうか?
神の支配の球体は無限の広さを持っているのです。
神はこの失われた哀れな私を見つけ出したように、罪人に御自身を現わすことが出来ないのでしょうか?
神のみこころと支配は自分が地獄にふさわしい罪人だと知る者には価値のあることなのです。
明らかに、もし私がこれらのことを知るのなら、私は困惑していまい、迷い出てしまうでしょう。
私は近視眼であり、無知であり、その全体像をはっきりと説明することが出来ません。
なぜ、なぜゆえに、私の人生における一つの出来事が、歴史的な出来事がこの私と関係し、問題視されるのでしょうか?
ロンドンで起きたこの事件について、私はどのようなことが起きたのか説明できるでしょう。
しかし、なぜ、最も価値ある人生を送っている者が突然死に至った事については、私にはとうてい説明することが出来ないのです。
彼は夫であり、大きな家族の父親なのです。
この時代にあって、彼は自分の養うべき家族のために絶対に必要な人物であり、彼の命は断たれました。
彼の家族は悲しみと欠乏の中に残されました。
ここにもう一人の人がいます。
ここにいる哀れな寝たきりの被造物は横たわっているだけです。
彼女に関係した者はみんな長生きをし、教会と教会員一人一人に頼りきっていました。
彼女は何年もそこに寝たきりの状態であり、自分が何も役に立たない重荷になっていることを知っていました。
私にこのような現実について説明できるでしょうか?
この深く不思議な時代に起きるこれらの出来事から、神の神意である御声を解釈する能力が私にはあるのでしょうか?
確かに私にはありません。
私には「神の摂理と呼ばれる迷宮」を完全に迷ってしまい、その問題を解決するための糸口は私のために、そして私の中に見出すことはできません。
私はそこに救い主を見出すことはできません。
神はそこにはいません。
さて、私は律法に戻るべきでょうか?
それとも、モーセの組織に、レビ記の儀式に戻るべきでしょうか?
私の求めているものがそこにあるでしょうか?
律法を与えたそのみこころとは何でしょう?
「火のように見えた」山の上で、そして、山は雲におおわれ、深い闇が包み、神は稲妻と雷光を送り込みました。
この光景の裏側にある隠されたベールの中には、私たちのため神のみこころが示されたのでした。
ああ!私は神と会うことはできません。
私は神の要求に答える事はできません。
私は神の条件に適応できないのです。
私は神のみこころにかなう、私のこころの中にある、強い思いをもって神への愛を語ることが出来ます。
しかし、私は神を知りません。
私には神が隠されていて、見ることは出来ません。
私は神の命から疎外されており、私の良心は鈍く、私のこころはかたくなです。
悪魔は私の道徳的存在を完全に否定してしまい、神に反抗するように私を導くのです。
私は律法の要求していることを行う前に、根本的に私の存在が新しいものにならなければならないことに気がつくのです。
どのように私は新しくされるのでしょうか?
それはただ神を知ると言うことにあるのです。
律法によっては神は明らかにされません。
それは神が暗い雲の中に隠れており、引き裂かれていない幕の中におられるからです。
ゆえに、私はそこで神を知ることが出来ません。
「火のように見えた」山から、そして、引き裂かれていない幕から、その組織全体から私は完全に撤退しなければなりません。
これらの独特な特徴には、特別な目的があります。
そして、多くの者がいまだに求め叫んでいるのです。
「ああ!私は何処で神を見出すことができるか知っているからです。」
創造物の中でというよりも、自然界を通して知られる神の摂理と言われるものよりも、律法に書かれていることよりも、神ははっきりとみことばの中でに御自身の正しさと救い主をお示しになっているのです。
私は創造物の中に神の力を見ることが出来ます。
私は自然界を通して知られる神の摂理の中に神の知恵を見ることが出来ます。
私は律法の中に神の義を知ることが出来ます。
しかし、神の愛はただイエスキリストに出会うことにより知ることが出来るのです。
「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 5章19節
この素晴らしい事実がここにあるのですから、私たちは読者に熱心になるべき態度を要求します。
つまり、誰かまだ主を知らない者があるのであれば、その人には主を知ると言う最後のステップを踏ませるため、もっとも重要な可能性が残されています。
そのことなしに何も正しいことなどありません。
神を知ることは最初の一歩です。
それは単に神について何かを知る知識ではありません。
それは新しく生まれること無しに、人間的な性質のまま宗教的に立ち返る事ではありません。
何かをよりよくするために試みることでも、律法を守ろうとする努力でもありません。
これらの人間的な事柄の中に見つけ出すことはできません。
それはイエスキリストの御顔にあって、神を知ることにより実現するのです。
「「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 4章6節
この問題すべてが、深く、祝福された奥義なのです。
読者よ!あなたの生まれつきの性質に言うのであれば、あなたは闇の中に立っています。
この闇の中には聖霊の一筋の光さえもありません。
全能者である創造主のくちびるから、荘厳な権威ある発言がこぼれる前に、その者は霊的にも、道徳的にも肉体を持った被造物なのです。
ただ、闇があり、混沌としていただけなのです。
「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 4章4〜6節
二つの事柄がここにあります。
それはこの世の神が不信者の思いを盲目にし、輝きに満ちた神の与える尊い命を見えなくしているのです。
そして、この尊い命は、私たちに神の栄光の光の輝きを与えることができるのです。
他に言い換えるのであれば、神は御自身の驚くべき恵みにおいて、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださるのです。
神の知識の壮大な現実にあってすべてのことが理解することができるのです。
そこに光があるでしょうか?
もし、あるのなら、それは神を知っているからです。
そこは闇ですか?
それは神を知らないからです。
疑うことなく、光の現われと、光を経験する中で、私たちはいろいろな尺度で測ることでしょう。
しかし、そこに光があるのです。
それは、そこに神を知る知識があるからです。
そして、同様に闇から来る様々なことがそこにあるかもしれません。
より恐ろしいものがそこにはあるでしょう。
しかし、そこに闇があるのは神を知らないからです。
神の知識は光と命です。
神に対する無知は闇と死です。
人間は科学と文学に宝によって自分自身を豊かにするかしれません。
しかし、神を知らないのであれば、その人は光なき夜の闇の中にいるのです。
他の言い方をするのであれば、人がもし、人間の学問にまったく無知であったとしても、神を知っているのであれば、その人は光ある昼間を大胆に歩いているのです。
今、注目している聖書箇所ヨハネの福音書3章16節の中に、私たちはこの福音書全体の性格を非常に良く表していることを知ります。
この興味を引く現実を握ること無しに、光について考えることは不可能です。
そのことを知るのであれば、私たちは神御自身が、その驚くべき神の御性格と御性質において私たちを導きいれてくださることを知ります。
さらに、私たちは世全体は受け入れることはありませんが、個々の罪人として私たちを神は導きいれて下さるのです。
それは3章16節の聖書箇所には「誰でも(ひとりとして)」という、もっとも誰もが満足できる言葉があるからです。
このように神と罪人は結びついたのです。
神は罪人を愛し、与えたのです。
そして、罪人は信じ、持ったのです。
それは神のさばきでも、激しさでもありません。
しかし、神は罪人を愛し、与えるのです。
前者は律法です。
後者は恵みです。
前者はユダヤ教です。
後者はキリスト信仰です。
一方は、私たちは神がこの命を持つために律法という従順を要求しています。
しかし、もう一方では神に従うべき基礎として、私たちに命をお与えになりました。
一方は、私たちは人がこの命を持つためにもがいていることを知ります。
しかし、もう一方では神は私たちに命を、主イエスキリストを信じる信仰を通して、無料の贈り物としてお与えになりました。
このようにこの二つの組織はまったく反対のものであることがわかります。
この違いを同じものとして考えることは不可能です。
「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章17節
では、このテキストにおいて表してきた方法について、より私たちは考えてみましょう。
「神は、世を愛された。」
私たちは神の愛についていろいろな側面を見ることが出来ます。
何か特殊な国だとか、民族、階級、もしくは家族だとかそのような制限は何もありません。
この世界全体に住む誰にも適用されることです。
神は愛なる方です。
それは神の愛される価値があるか、もしくは健康であるかの問題ではありません。
それは神がどのような方であるかの問題です。
神は愛なる方です。
神は御自身を否む方ではありません。
神の御性質は力ある方であり、活発です。
人の心は多くの問題を持つでしょう。
そこには神の御前にある立場と状態について多くの働きがあり、人の心はこれらの多くの問題を持つでしょう。
これらの問題を持つということはとても正しいことなのです。
聖霊御自身がこのような問題を起こさせ、そして働かせるのです。
しかし、その結果、輝きの中に偉大な真実を見出すのです。
神は愛なるお方です。
私たちがどのようなものであろうと、世界がどのようなものであろうと、必要なことは神がどのような方であるかです。
そして、私たちは神の御性質に対する真実を知ります。
神は深く、豊かな土台を持っており、キリスト信仰の土台として横たわっています。
救われたたましいは惨めな場面を通して、深く、悲しい衝突を経験するかもしれません。
そこには多くの疑いと恐れがあるかもしれません。
暗さと厚い雲がおおうかも知れません。
何週間も、何ヶ月も、もしくは何年も律法の下で過ごさなければならなかったかもしれません。
その人は内側で自分の良心を責めていたことでしょう。
さらに、福音の真理に立つ原則、そして教理をただ知識によってのみ理解するようになるかも知れません。
しかし、その結果として、私たちは直接、個人的に神御自身と接触を取らなければならなくなります。
神とはどのような方でしょうか?
神の性質は、人格は...。
神は御自身を福音の中に現しているのです。
私たちは私たち自身に神を知らせなければなりません。
神は愛なる方です。
よく見てください。
それは神が愛なる方ですと言葉だけで言っているのではありません。
実際に神は愛しておられるのです。
神が愛なる方であることは単に神の属性を示す教理の問題ではありません。
実際に神の御性質が愛なる方として働いておられるのです。
ここで私たちは神が義なる方であり、聖い性質のことについて語られていません。
しかし、神は正しい御方であり、聖い方です。
しかし、それでは神が愛なる御方であるという、祝福された真実を十分に語ることが出来ません。
しかし、それでもなお、義なる、聖い御方であるからこそ、神は愛なる方でありえるのです。
ですから、ここにいる罪人は最終的に、そして絶対的に滅びです。
その罪人は希望がない哀れな者です。
彼の周りにある、そして中にあるあるものは価値のない苦悩です。罪人の邪悪さと惨めさに満ちています。
この世界、何処を探しても罪人を満足させるものは何もありません。
罪人の心の中には神を満足させることも、自分自身の良心さえも満足させることができないのです。
そのことを知った時、罪人の心の中に新しい測りが与えられます。
そして、罪人はその偉大な現実である「神が愛である」という真実に出会うのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
と書いてあるとおりです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
ここに命があります。
そして、その命はそこに安らぎを得るのです。
ここに救いがあります。
十分な、自由な、そして終わることのない。
その命は貧しい、足りない、邪悪な、失われた者のために備えられたのです。
救いとは人間の中に、もしくは人間の出来る何かに頼ることではありません。
人間が何者であるか、もしくは人間に可能性ではありません。
もしくは、人間が何をするかでも、何が出来るかでもありません。
単純に神が私たちのために何をしてくれたかです。
神は愛し、与えます。
そして、罪人は信じ、受け取るのです。
このことは、被造物を見ても、支配者たちを見ても、律法を行っても到底理解できないことです。
神は被造物にあって、語り、救いを実行しました。
神は神のみことばによって御自身の存在をこの世に明らかにしました。
しかし、私たちは被造物から神の愛、そして与え主であることを聞くことはできません。
この世の政府、支配者たちからも、私たちは神の計り知れない知恵によって神がこの世をすべて支配しているという事実を知ることはできません。
たとえ、天の軍勢の真ん中にいようと、人間の子供たちの真ん中にいようとも神の愛を知ることはできません。
私たちは、そこから神を理解しようとすることできません。
ただ、私たちは神を理解する方法について唯一言うことができます。
神は不思議な方法へと私たちを導きいれたのです。
このことを成し遂げるための神の驚くべき方法。
神は海の中に神の足跡を残しました。
神は嵐の上にさえ乗ることができます。
深い山の中にさえ、神の存在を感じることができます。
決して、誤ったことのない神の技術。
神の御業は神の輝かしい被造物への芸術によって証明されます。
最後に律法に関して言うのであれば、それは最初から最後まで命令と禁止項目について完全なシステムです。
そのシステムの完全性は人間が試みられる時、その行動によって証明されます。
そして、その人間は試みられる時、すべてにおいて、神から遠い存在であることが証明されてしまうのです。
「律法は怒りを招くもの」なのです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章15節
しかし、「律法によっては、罪の自覚が生じ」るのです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章20節
しかし、罪人の世界にあって、このような完全なシステムがどのように機能することが出来るでしょうか?
このシステムが命を与えることが出来るのでしょうか?
不可能です。
なぜ?
それは人間がこの聖い要求を満たすことが出来ないからです。
「もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章21節
しかし、人間が適応できないのです。
律法は人間が死と有罪宣告を受けているということを現わにさせます。
コリント人への手紙第二の3章を見てください。
ここにあるのは律法が律法の下にある者に何をもたらすかです。
それは良心ある邪悪さと、良心に対してなされた有罪判決の結果生じた、たましいの問題における死というプレッシャーです。
他のどんな方法においても、律法の下にあるたましいは素直であればあるほど、この問題は解決することは不可能となってゆくのです。
その時、何が必要となってくるでしょうか?
単純に神が愛なる方であるという知識です。
その愛を十分に用いた御業によって証明された貴重な贈り物を受け取ることです。
これがすべてにおいて必要な永遠の土台です。
愛、愛の贈り物が必要なのです。
私たちは私たちの良く知るヨハネによる福音書3章16節、この鮮明な数行からその答えを得ることが出来るでしょう。
キリストの十字架の上にその記録は刻まれています。
罪は罰せられ、罪人は救われたのです。
なんと尊い記録ではないでしょうか!
おそらく、多くの悩む罪人がこれを読み、信じたのではないでしょうか!
神は御自分の子を惜しむことはせずに、私たちすべてのために十字架に引き渡されたのです。
なんと驚くべき神の愛ではないでしょうか!
神の愛は御自分のみもとにおられる御子を罪人に与える以上のものはありえません。
その時、それは誰がこの世界を造られたかという問題になるでしょう。
しかし、神は御自分の口を通してこの世界を造られたのに、神は御自分の御子イエスキリストを犠牲されたのです。
神の愛は聖い愛です。
義なる愛です。
すべてが神の性質に属する調和の取れた行いであり、神の王座が要求する愛です。
「恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章21節
このたましいはこの真実を十分に理解し、つかみ得るまでこの特権を評価することはないでしょう。
この特権を理解していないのなら、そこには神は哀れみ深いという漠然としたことがあるでしょう。
そして、キリストのあがないの働きをある程度は信頼しているでしょう。
そこに向かう限る、すべてが真実であり、現実です。
しかし、私たちの前にある神の愛による方法をもって神が御自身に栄光をお与えになったことを考え、理解するまで、私たちは真実な特権を持ったとしても神を喜ぶ可能性などありえないことなのです。
良心は決して静まることはありえません。
もしくは罪の問題を完全にさばかれることなく、解決されていない良心があるのなら、悪魔は逆にその良心を鈍感にさせ、静かにさせておくことが出来ます。
それでも聖書にはこのように書かれています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
この「ほど」という小さな言葉は何と深く、力ある言葉ではないでしょうか!
ここに何か難しいことをする必要があるのであれば、私たちのたましいは何度も悩むかもしれません。
そして、このたましいは神に近づくことが出来ずに悩み続けるのです。
クリスチャンの霊的成長の過程において、何千というたましいがこの問題について悩み、苦しんできたことでしょうか。
しかし、多くの者たちがこれらのページを開き、このテーマについてこのわずかな言葉を読んで、喜んできたということは十分に考えられるべきことなのです。
多くの人たちが「どのように私たちのために送られた愛、そして、この愛の贈り物を知ることができるのか?
何を根拠して、私が永遠の命を持てるということを信じればよいのか?」と尋ねるかもしれません。
私は神の救いの計画を知っています。
私は「キリストの贖いの苦しみが信じるすべての者の罪の赦し、そして義とするためである」ことをすべて信じています。
私は聖書の宣言すべてが真実であることを確信しています。
私は次のように信じています。
「私たちすべては罪人です。
さらに、私たちは自分自身を救うために何も出来ない者です。
そして、私たちは聖霊によって教えられるために、キリストの血によって洗われる必要があります。
私たちは神をここで喜ぶことが出来ます。
そして、これから先、神と共に生きることになるのです。」
「私はこのことをはっきりと信じている」と言われるかも知れません。
また、「私は私が救われているという確信を持てない、そして、何の権威によって私の罪が赦され、私が永遠の命を持っているということを信じればよいのか知りたい」と言われるかも知れません。
もし、誰かがこのように言うのならば、どのような考え方があったとしても、どのような言語であったとしても、また、まったくむずかしい表現だったとしても、最初の場所に戻る必要があります。
私はその人のこころの向きをこの二つのことばに向ける必要があることを知っています。
これは私たちが救いの確信について与えられた貴重なテストです。
ヨハネの福音書3章16節にある「世」と「誰でも(ひとりとして)」という二つのことばです。
「この二つのことばに私は適応できないと言う人は誰もいないと思います。
では、私たちは何を尋ねればよいでしょうか?
それはこの「世」ということばの意味です。
この「世」ということばにはどんな意味が含まれて、何が含まれていないのでしょうか?
今、私たちの主はこのように宣言しています。
「神は、実に、--世を愛された。」
何を根拠にして、あなたはあなたの範囲、領域から神を追い出すことが出来るのでしょうか?
神の愛はあなたに適応できないのでしょうか?
その者は自分がこの世に属していないことを示されない限り、他にどのような根拠も認められないのです。
そうです、この地上以外の世界が存在しているからです。
もし、この世が希望無き、滅ぼされるべき罪の世界なら、この世にいる者はその滅びの宣言から逃れることが出来るでしょうか?
この世にいる者が自分自身をこの世から追い出すことが出来るでしょうか?
不可能です!
その時、何が出来るでしょうか?
何をするべきでしょうか?
自分自身をこの世界から除外すべきでしょうか?
その時、このことが神の無料の愛、そしてキリスト・イエスによる救いにとっての問題となってくるのです。
しかし、さらに私たちは尋ねるでしょう?
「誰でも(ひとりとして)」と言う親しんできた言葉にはどのような意味があって、どのような力があるのでしょうか?
疑うことなく、文字通りそのことばは「すべての人-誰でも」なのです。
そしてその言葉が「誰でも」と言っているのなら、どうして「あなた」が含まれていないのでしょうか?
多くの人が神の愛が無限でありたいと願っていますが、むしろ願いではなく確かな無限の愛がそこにあるのです。
そして、あなたはこの福音の中にある「誰でも(ひとりとして)」という言葉には、あなたの名前が含まれていることを知るでしょう。
確かにこの「誰でも」という言葉にはこの世のたくさんの人々が含まれています。
そして、それ以上に、あなたは神の愛について満足できることを発見することになります。
たとえ、私がこの地球上にたった一人の罪人だとしたら、もっとはっきりとこの「誰でも」という言葉があなた個人を指していることを理解できるかもしれません。
このように、その時、まさにこの福音のメッセージのみことばは、その一つ一つの言葉が「喜びのおとずれ」として私たちに理解されるでしょう。
このように福音が自分に適応することが難しいという可能性は残されていません。
もし、私たちが私たちの主がこの地上にいた時に学ぶことが出来たのなら、私たちはこのような言葉を聴くことができたでしょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
そして、私たちが復活された後の主と再び出会うことが出来たなら、このような言葉も聞くことが出来たはずです。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
新改訳聖書 マルコの福音書16章15節
そして、最後に私たちの主が復活され、天に昇った後に送られた聖霊の声を聞くことが出来たのなら、このような言葉も聞くことが出来たはずです。
同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章12〜13節
上記に上げたすべての句に次に上げる二つの単語が使われています。
一つは一般的なものであり、もう一つは特殊なものです。
そして、この二つの単語が共に救いのメッセージを表現しています。
この救いを自分に当てはめることを拒むなら、その者には救われるためのどのような方法ももはや残されてはいません。
もし、「全世界」という範囲において、「すべての造られた者」がこの尊いキリストの福音の目的ならば、あなたはそこに含まれているのでしょうか?
どこに地獄へ行くべき罪人にこの救いの喜ばしい便りを宣言するする権威があるでしょうか?
それはあなたのためではないのでしょうか?
もし、拒むのならもうそこには何も残されてはいません。
私の兄弟たちよ!
救いは空気と同じように無料です。
地の上に注ぐ雨のしずくの様に救いは無料です。
私たちの歩く道を照らす太陽の光のように救いは無料です。
もし、これらの自然の贈り物と同じように救いに何か制限を設けるとするのならば、キリストのみこころが自然と比べ不均等なものになり、神の御性質と矛盾が生じるでしょう。
しかし、この読者の中で何人かの人たちは、このテーマを語る段階において、私たちに次のように尋ねたいと感じるでしょう。
「わたしは選びの問題をどのように考えればよいのでしょうか?」
私たちは「とても簡単な質問です」と答えるでしょう。
「神はその答えを持っています。
ただ、イスラエルが相続すべき土地を受け取ろうとして、不信仰によって失敗したように、あなたも自分をイスラエルと同じように見て、悩む探索者のようにつまずいてはいけません。
私たちは深く重要な選びの教義に沿った真実な方法を信じています。
私たちはよりこのテーマについて考える必要があります。
十分に考え通すということは確信へと結びつきます。
選びの教理について、もしくは神は救われる者をすべて予見していたという教理によって、誰でも救われるというテーマを妨げたり、メッセージの聞き手を困らせたりすることは、福音主義者、もしくは語り手がメッセージの質の一部を落とすことになります。
もし、その語り手が祝福されたその職務を遂行したいのであれば、失われた罪人としてその者を扱わなければなりません。
私たち罪人が共通して滅ぶべき者、共通して邪悪な者、共通して有罪な者であることは広く知られたメッセージの土台です。
メッセンジャーはそれを人々に語る必要があります。
そして、メッセンジャーは十分な、無料の、与えられた、個人的な、そして、永遠の救いのメッセージを語る必要があるのです。
そして、神のふところから来る鮮烈なメッセージである必要があります。
メッセンジャーのメッセージは聖霊によってコリント人への手紙第二5章に宣言されているように「和解の務め」なのです。
「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章19節
そこに驚くべき福音の基礎があります。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章21節
この二つのことの隔たりの溝をどのように埋めるべきでしょうか。
わずかに同意できるかもしれません。
しかし、私たちは真実な選びの教理を祝福された方法をもってはっきりと立てあげなければなりません。
神は確かに聖書に真実な土台を置いており、その聖書全体は完全に統合され、その十分な価値から私たちは離れることが出来ません。
この問題はイエスの御前にゆく罪人の前に置かれた信じる前に解決すべき問題として扱ってはいけません。
しかし、その問題の答えを得るならば、イエスのところへ行くときに最も貴重な慰めと勇気付けを得るための手段となるはずです。
この問題を解決するのと、解決しないとは大きな違いがあります。
もし、救いを受け入れる前に神の選びの問題を解決することが求められているならば、どのようにその人はその問題を解決すればよいでしょうか?
その罪人はどこに解決を求め、立ち返られなければならないのでしょうか?
どこで罪人は選ばれた者としての神の確証を見つけることが出来るでしょうか?
その罪人は選ばれた者であることを、彼の信仰をベースにして聖書の中にある句の一行から確証することが出来るでしょうか?
罪人にはそのようなことが出来ません。
その者は聖書の多くの節から自分が失われている、何も出来ない罪人であることが見つけることが出来ます。
その者は聖書の多くの節から救いにおいて、自分には救われるために何も出来ない者であることがはっきりと解かるかもしれません。
何百もの聖句が神の愛について語っており、自由にそれらの箇所を開くことができます。
神の愛はキリストの贖いの価値と力に現われています。
そして、その罪人が神の祝福されたその救いを自分のものとする時、その者を受け入れてくださる心温まる神の歓迎ぶりに、その者はこの救いの確信を得るのです。しかし、もし、そうならば、その者は永遠の行き先と選びの問題を先に解決する必要があるはずです。
そして、熱心になってその問題を解決しない限り、希望などありません。
その者はこの望み無き絶壁の上から落とされてしまいます。
なんと多くの何千とのたましいがこの選びの教理を誤って自分に適応し、このような希望無き歩みをしているのではないでしょうか?
私たちはこの選びの教理が完全であることを信じています。
私たちはこの選びの教理を誤って理解している者たちに真実な光を照らす必要があります。
ここにある悩むべき問題はこの問題を正しく持ち出すことにより、読者に助けを与えるでしょう。
私たちは悩むべき探求者の知るべき知識のために、もっとも重要な問題であることを信じています。
その探求者の見るべき観点は、キリストの十字架の召しという観点から見ることです。
もし、選びという観点から見るのであれば、彼の良心はすさんでしまうのです。
神の恵みは、失われた、死んだ、邪悪な罪人として、その者と出会う必要があります。
選ばれた者としてではありません。
「神に愛されている兄弟たち。
あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章4節
どのようにその兄弟は自分が選ばれたことを知ることができるでしょうか」
「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章5節
パウロはテサロニケの人々に失われた罪人として語っています。
その時、福音は失われた者として彼らに置かれたのです。
ゆえに、パウロは彼らに選ばれた者として書くことが出来たのです。
このことは選びという問題を正しい場所に置くことが出来ます。
もし、読者が使徒の働き17章を読むのなら、パウロがテサロニケ人たちの中にいる福音伝道者として、どのように自分の務めを果たしたか知ることが出来ます。
「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。
そこには、ユダヤ人の会堂があった。
パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。」
新改訳聖書 使徒の働き17章1〜3節
同様に、コリント人への手紙第一15章を開いてみましょう。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。
これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、...」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章1〜4節
この箇所を、もっと他の多くの箇所を引用することが出来るでしょう。
私たちは使徒が単に教義を語ったのではなく、人に対して語ったことを学ぶことが出来ます。
使徒は選びの教理について語ってはいません。
使徒が手紙の中で選びについて語っているのは、罪人に対して語っているのではなく、救われた聖徒に対して語っているのです。
このことは常に、福音伝道者の典型的なモデルとすべきです。
私たちは使徒が伝道する場面において、選びの教理を語っている場面を一度として知ることはありません。
使徒たちはキリストを宣べ伝えたのです。
彼らは神の素晴らしさ、神の愛、善意、神のやさしい哀れみ、罪の赦しに導く神の愛を語ったのです。
恵み深い神には、真実な自分の状態、そして、罪人としての性格を知ったすべての者を受け入れてくださる準備が出来ているのです。
これが使徒たちの語ったメッセージパターンです。
むしろ、言うのであれば、彼らの中にある聖霊のメッセージパターンです。
さらに、言うのであれば、これは私たちの祝福ある師であるイエスのメッセージパターンです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章28節
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章37節
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章37節
ここには悩むべき探求者が持つべきつまずきの石などありません。
救いのために予備的問題など置く必要はありません。
救いを成し遂げるための条件など何も必要ありません。
何か無難しい神学を解決する必要もありません。
そうです。
まさに今、この瞬間に、罪人は罪人としての自分の状態を知った上で神に会う必要があるのです。
そこでは疲れたものが休み、渇いた者が飲み、死んだ者が命を得て、邪悪な者が赦され、失った者が救われるのです。
ここにある無料の招待は、選びの教義と関係しているでしょうか?
疑うことはありません。
疑うどころか、選びの教義はこれら無料の招待とは何の関係もありません。
言い換えるのならば、完全な、無料の福音は選びの教義は非常に大切な真理であり、偉大な真実ですが、この無料の救いの招待とはまったく別のものなのです。
そして、この選びの真実を正しく理解するのであれば、神の恵みの福音とは離して理解すべきです。
神の恵みの福音の広さと祝福の基礎であり、そして、その福音が神の広さとその大きさの中に完全に存在し、そして、そこに満ちているのです。
福音は失った私たちと出会い、私たちを救いのです。
その時、私たち救われた者は神と出会うのです。
そして、私たちのうちに貴重な選びの教理によって、決して失われることがないという事実が建て上げられるのです。
哀れな苦しむたましいを神学的問題、もしくは教理のポイントで悩ますことは神の目的ではありえません。
そうです。
神の名は永遠に祝福されています。
神の赦しにあふれた愛の哀れみは人の罪を赦し、それは神の栄光に満ちた神の願いなのです。
そして、キリストの血の贖いは罪を清める力を持っています。
その力はすべての罪に悩むたましいの霊的な傷に適応させることができます。
そして、あらかじめ救われる者が定まられているという教理、そして、この選びの教理について言うのであれば、これらの教理は神のみことばによって神の聖徒たちへ慰めとして知らされるものです。
決して哀れな罪人を悩ますためにあるのではありません。
この霊感あるこのページの上に彼らは価値ある宝石として輝くのです。
彼らは神の家族の一員であることがはっきり示され、彼らの教師である方から学んでいます。
彼らは命と平和の熱心な探求者として歩んでいるのです。
彼らは決してつまずきの石として偽っているのではありません。
しかし、彼らは福音を語る者たちに耳を傾けるべきです。
福音を語る者たちの幸いな職務は失われた世へと通じるハイウェイ、そしてその世からの逃げ道であるべきです。
彼らは子供たちに食べさせ、そして慰めるように勧めるべきです。
決して、罪人に対して、怖がらせたり、つまずかせたりしてはいけません。
私たちは本当に熱心であるならば、すべての福音を語る者たちに言うことができます。
決して、この福音メッセージに何かの神学的な問題、もしくは説明を加え、この福音に制限を加えるようなことをしてはいけません。
キリストを語るのです。
私たちの前に、救い主である神の深い、永遠の愛が明らかにされています。
あなたの罪を明らかにされることを求めるべきです。
良心の呵責を覚えた罪人は、神が現わして下さった赦しの中に至るのです。
もし、あなたが進んで、その良心に従って導かれるのなら、それは雷のようです。
その罪にあって、雷のおおきな響きのようです。
大きな白い御座、火の池、終わることのない苦痛という恐ろしい現実の前にある雷の響きです。
しかし、あなたがその罪の意識を見出そうとするそのまっすぐな良心は、キリストの血の贖いの御業に安らぐことが出来るのです。
その時、あなたは神からの資格を得て、あなたの職務における働きの実を救われるべきその人に手渡すことができるのです。
あなたはキリストの信仰の深い奥義にあってその人に教えることができるのです。
あなたは福音伝道者としてのあなたの義務を忠実に遂行することができるという確信を得て安らぐことができるでしょう。
あなたは決して健全な神学の領域を侵すことはありません。
そして、悩む探求者のために、私たちは同じ熱心な者として言うことができます。
イエスを信じるというこの瞬間まで、その導きを邪魔するものは何もないのです。
あなたがキリストの声を聞くことができるように、神学はあなたを導いています。
キリストの声とは「わたしについて来なさい」です。
そこには妨害するものなどありません。
難しいことも、問題も、状況も、信仰を妨げるものは何もないと確信できます。
あなたは失われた罪人です。
そして、イエスは罪人に対して完全な救い主です。
あなたのキリストに信頼を置くべきです。
あなたは永遠に救われているのです。
キリストを信じるならば、あなたは神に選ばれた者としても立場を知るでしょう。
「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章29節
あなたの罪をイエスに委ねなさい。
イエスはこれらの罪を赦しへと導き、御自身の血によって無効とします。
そして、あなたに神の義というしみ無き衣を着させてくださいます。
今、神の聖霊は尊い、すべてを満足させる救い主のところへ、あなた自身を、単純に、そして完全に至らせることができるでしょう。
もし、手短に言うのであれば、神の選びの教理の悪い方向で適応させるのであれば、三つの悪を区別して結果を得ることに気がつきます。
1、実際に熱心なたましいが勇気を失い、出来る限りの助けを得ようとしますが、このようなたましいが選びの問題を正しく理解することを拒否するのであれば、極端な滅びに至る結果となります。
もし、このような者たちがこの喜ばしい便りである救いの福音が、単に選びの問題であると語るのであれば、キリストの死も、そして救われるということも、彼らが選ばれていなければ、キリストの死も、その恩恵も、選ばれていない者たちには適用されないということになります。
つまり、このような者たちはイエスから神学に、愛あるこころから冷たいうろたえた組織神学と言われる教義に移ってしまうことになります。
このような者たちの結末がどのようになるのか言うことは不可能でしょう。
彼らは妄信的な信仰に、もしくは他の背信的な信仰に走るかもしれません。
彼らは教会で高い地位に着くかも知れません。
もしくは教会に広く受け入れられるかもしれません。
もしくは全く教会に受け入れられないかもしれません。
彼らは現実に生きている、愛なる、尊いキリストを望んでいるでしょうか?
神のキリストはすべてを満足してくださいました。
キリストは苦悩するたましいの真実な食物です。
2.しかし、二番目の立場として、不注意に歩むたましいは、もっと不注意に歩むようになります。
彼らはさらに選びの教理を偽って適用するからです。
このような人は、この教理に立つ時、自分の置かれた立場、そして救われたという希望において大きな圧迫を受けるのです。
彼らは腕を組んで考え、このように言うでしょう。
「あなたは神が私に力を与えてくれない限り信じることができないことを知っています。
もし、私が選ばれた一人であれば、私は救われることが出来ます。
もし、そうでなければ、私は救われることはありません。
私にはどうすることもできません。
私は神の時を待っているのです。」
すべてのこのような偽りと見え透いた言い訳は暴かれ、そして打ち砕かれなければなりません。
もし、そうならばキリストのさばきの座の光の中にゆくのなら、この者はそこに立つことは出来ないでしょう。
そこでそこに立つ一人一人は選びが備えれていたことを学ぶでしょう。
何の弁解も役には立ちません。
そこに神によって準備されていない限り、罪人の救いには障害があると言うことになってしまいます。
みことばはこのように語っています。
「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」
新改訳聖書 黙示録21章6節
どのような語りであろうと、どのような言語であろうと、全く同じことが語られるべきです。
苦悩する探求者の足元からつまづきの石は取り除かれました。
この不注意な拒む者のくちびるから出てくるこのような懇願の祈りは取り除かれるべきです。
誰も追い出される者はいません。
すべての者が招待されているのです。
そこに障害があろうとも、もしくは懇願の祈りがあろうとも、すべての者が歓迎されているのです。
そして、すべての者がその歓迎に応答すべきです。
ここに、誰かが自分で神の救いを拒み、言い訳をしている者がいます。
神の救いは神の命令を主張するものであり、日の光のようにはっきりしているものです。
しかし、その者には自分が致命的な誤ちを犯しているゆえに、その光は隠されてしまったのです。
3、そして、私たちは繰り返し言っている事ですが、三番目の最後の立場は選びを誤って語るのなら、それは熱心なこころにとって実際に悲しみとなるでしょう。
こころの広い福音伝道者は選びの教理を偽って適用することのならこころを湿らせてしまい、無気力にすることでしょう。
これは最も慎重に避けなければならない問題です。
私たちは福音伝道者が選びを語るということは単なる主義主張ではないことにこころを留めるべきです。
もし、その者が福音を正しく真っ直ぐに伝えようとするならば、選びを語るべきではありません。
一言で言うのであれば、この尊い選びの教理は悩ますためのつまずきの石--何も考えない嘆願--熱心な福音伝道者の水掛け論ではないのです。
神の聖霊は私たちに真実な力を正しく調整しながら(解決しながら)受け取ることを教えているのです。
この尊い選びの教理を誤って用いることから生じる、難しさをはっきりと克服するために、少しの間、忍耐を持って頂きたいのです。
そして、私は読者にヨハネの福音書3章16節にある「みな」(誰でも)という言葉を示したいのです。
そこには何も邪魔するものはなく、ただ神の無料の暖かい贈り物を受け取ることで完全に解決されるのです。
神は一人子をお与えになったのです。
今、私たちはすべての場合においても、神の贈り物を受け取ったその結果を考えることが必要なのです。
私たちの主イエスキリスト御自身が語っているように受け取る必要があるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
ではここで、神の贈り物を受け取ったその結果とは何でしょうか?
それはどんな場合においてでも、御子を信じるのなら、その者は決して滅びることはなく、永遠のいのちを持つのです。
では、この御子を信じる者はこの「滅びる」と言うことばの中に含まれているでしょうか?
どんな死に満ちた言葉によって、火と硫黄の燃える池にある恐ろしさを語ればよいのでしょうか?
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
新改訳聖書 マルコの福音書9章44節
私たちは確信して信じています。
この言葉を語れる人は誰もいません。
しかし、ニコデモとの会話の中でイエスは唯一その言葉を使うことが出来たのです。
私たちは私たちのはっきりとした、明確な証言をもって語るように求めています。
イエスが永遠の滅びである、厳粛な真実を教えているからです。
私たちはこのテーマについて語る時を持ちます。
そして、私たちは私たちへの神からの正式な要求として信じているのです。
私たちはこの箇所で「滅び」という言葉が使われている限り、私たちの考えはその真実によって占められるべきです。
私たちは他の注意をこの真実よりも先に促してはなりません。
このことは深刻、かつ暗い事実として記します。
たましいと神の真実な敵はヨーロッパ、そしてアメリカの何千者たましいを導きます。
私はこれが邪悪な終わり無き滅びという深刻な現実であると考えます。
悪魔はさまざまな土台を使って、さまざまな論争を使って、そしていろいろな考えや道徳的な状態、個人的な知的な見解からこれらのことを実行し、適応させます。
また、悪魔は神が人を苦痛の場所に送るような方だと人に納得させようとします。
その考えは神がどの被造物の上にも慈悲深く、善意にとんだ方であることを否定することです。
今、この論議を主張している、もしくは主張している気になっているすべての者のために、私たちは重要な問いを提示しましょう。
「悔い改めない、そして信じないこれらの死んだ者たちが罪を持って行うこととは何でしょうか?」
いったいそこに、そこには神が罪人を地獄に追いやるような考えがあるのでしょうか?
たしかに、神はとても聖い方であるのは確かです。
罪を天国へと導く方ではありません。
神と悪はともに住まわれることはありません。
これははっきりしていることです。
どのように、いつ、この必要を満たすことができますか?
もし、神が罪を天国に導くことができないのなら、罪人は滅びるのです。
しかし、そのことは何を意味するのでしょうか?
それは全滅することを意味しているのでしょうか?
それは存在しているからだとたましいを完全に絶滅させ、消し去ることを意味しているのでしょうか?
多くの者たちが疑いなく、このようであって欲しいのです。
「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言うでしょう。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章32節
何と言う願いでしょうか!
なんと多くの何千ものの子供たちが、ただこの瞬間だけを考え、快楽を求めているのです。
そして、彼らは、彼らの舌にある甘い少量の罪に飲まれているのです。
彼らは手のひらにあるお気に入りである永遠の出来事をわずかな邪悪な快楽と交換してしますのです。
そして、人類の狡猾な敵対者は地獄などないと人間に納得させているのです。
悪魔は地獄などない、いおうと燃える火の池など存在しないとこの致命的な問題の基礎を人々に与えているのです。
このような大ペテン師のいうことを信じていはいけません。
覚えていてください。
神は聖い方です。
神は御自分の存在の中に罪を入れることはできません。
もし、あなたがあなたの罪を持って死ぬのなら、あなたは滅びなければなりません。
それははっきりと聖書の証言と一致しています。
地獄において永遠に苦悩し、苦しむのです。
聞いて下さい。
私たちの主イエスキリストが「この世の国々のさばきの描写の説明」を語っています。
「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
新改訳聖書 マタイの福音書25章41節
そして、あなたは恐ろしく厳粛に強調されてきたこれらのことばを聞いたのです。
思い出してください。
この「永遠(終わりない)」(everlasting)と訳された言葉が新約聖書の中に7回出てきます。
また、次のような言葉も同じように適用されるでしょう。
「永遠の火」(Everlasting fire)
「永遠の命」(eternal life)
「永遠の滅び」(ever lasting punishment)
「永遠の破滅」(eternal damnation)
「永遠の住まい」(everlasting habitations)
「永遠の滅び」(the everlasting destruction)
「永遠の栄光」(eternal glory)
「永遠の救い」(eternal salvation)
「永遠のさばき」(eternal judgment)
「永遠の贖い」(eternal redemption)
「永遠の聖霊」(the eternal Spirit)
「永遠の資産」(eternal inheritance God)
「重い永遠の栄光」(eternal weight of glory)
「永遠の慰め」(everlasting consolation)
「永遠の資産」(eternal inheritance)
「永遠の御国」(everlasting kingdom)
「永遠の火」(eternal fire)
今、私たちは率直にあなたが道理のわかる人として尋ねたいと思います。
そして、聖霊、もしくは神に対して、永遠のということば何を意味しているかその原則とは、単に一時的な地獄の火、もしくは悪の滅びる時ではありません。
もし、これらの一つでも、終わり無き永遠を語っているのなら、他も同様に終わり無き永遠を語っているのではないでしょうか?
少し、ギリシャ語のコンゴルダンスを見てみましょう。
そして、尋ねてみたいと思います。
永遠という単語が含まれている節にいくつかチェックを入れ、それぞれの言葉の反対の意味を持つ言葉を置き換えて見ましょう。
まず、永遠という言葉はどれくらいの時間を表しているのでしょうか?
考えてみるだけで恐ろしいことです。
もし、あなたが反対の意味を入れて考えるのなら、神の霊感を持って書かれた聖書に対して、大胆不敵な冒涜となるでしょう。
あなたは確信すべきです。
あなたはこの「永遠」という言葉を、どのような聖書箇所においても置き換えて読むことは出来ないのです。
生きている神のみことばに干渉することは危険なことです。
その聖い神の権威の下でひざをかがめることはとても良いことです。
明白な意味と厳粛な力を避けて通ろうとすることは、知らずにいるよりも悪いことです。
その意味の持つ力は滅ぶことのない不滅のたましいに適用されるのです。
疑うことなく、「滅び」という言葉には、恐ろしい、言葉に出来ないほど恐ろしい永遠に炎の燃え上がる現実の場所を示しているからです。
これが聖書の教える「滅び」です。
喜びに酔っている者、金を愛する者はこのことを忘れてしまおうと考えるのです。
彼らは鏡の中で、もしくは忙しい仕事の中でこのような考えすべてを流しさってしまおうと試みるでしょう。
感情主義者は神が哀れみがないと非難するかもしれません。
懐疑論者は永遠に燃える火が本当にあるかと推論するかもしれません。
しかし、私たちはこの文章を通して読者がゆるがせられない、深い結果に至るようにように熱心に願っています。
私たちのこのこころにある悲しみは、罪の中に死んだ者はこの滅びに入ることなのです。
キリストに信仰を置くすべての者たちが確信して永遠の天国に入れるように、罪が赦されずに死んだ者は永遠の地獄に入るのです。
もし、滅びということばが他のことを示しているのなら。聖霊は他の言葉を使ったでしょう。
キリストに信仰を置く者たちに救いを適用させるなら、罪の中に死んだ者たちにもはっきりと適用されるのです。
このことは疑う余地の無いことだと私たちは考えています。
しかし、そこには別のテーマが永遠の滅びについての教理に対して主張されます。
これは繰り返し言われることですが「人がこの短い人生のうちに犯した罪を永遠の滅びとして負わせるようなことを神がするだろう」かということを私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。
では、答えましょう。
これは悪い結果をもって、この議論を始めることは好ましくありません。
それは人の目から見ているので時間の問題のように見えるでしょう。
しかし、それは神の視点から見て、この重大な罪の問題として見なければなりません。
では、どのようにこの問題を解決すればよいでしょうか?
ただ、十字架を見るだけのことによって解決されるのです。
もし、あなたが神の視点に立って罪とは何であるかを知りたいのであれば、あなたはこの罪を離れさすために神に何を支払えばよいのか直視しなければなりません。
それはキリストの永遠の捧げものを基準として、ただそれだけによって、あなたは罪を正しく理解できるのです。
人々は自分たちのわずかな期間である人生と神の永遠を比較するでしょう。
そして、彼らの短い人生と永遠の果てにまで続く期間を対比させるでしょう。
彼らは短い人生の中に犯した罪を一つの尺度を使って、永遠の嘆き、苦痛とをそれぞれ対比させ測ってみようとします。
そして、この結果を知るならば、このような議論にはならないでしょう。
その問題は、それは罪を取り去るために永遠の贖いが必要であることが知らされまなければなりませんでした。
もし、そうならば、罪の滅びも永遠でなければなりません。
もし、罪の結果からの解放させることができるのが永遠の贖い以外に存在しないのであれば、これらの結果も当然、永遠なのです。
一言で言うのであれば、私たちは神の視点から罪を見なければなりません。
そして、神の立場から罪を測らなければなりません。
そのこと以外に、私たちは罪とは何か、罪の値とは何か、決して正しく理解することはありません。
しかし、人間は罪の支払わなければならない滅びの代償と時間について、神が支配されてということを念頭に置くのなら、それは人の愚かさと言うほかありません。
神はただそのことを支配できるお方です。
そして、結論付けるのであれば、これらのものは惨めさと哀れさ、霊的な病気と悲しみ、死と荒廃、すべてこの天地創造からの6000年間に起きたことです。
まさに一つの行いによって、禁断の実を食べてからです。
人間にこのことが説明できるでしょうか?
人間に一つの行いによってこのようなひどい惨めな結果を至ったということを結論付けることが出来るでしょうか?
できません。
では、説明することが出来ないのであれば、罪の結果が滅びであるという問題を結論付ようと試みる時、どのように罪が入ってきた事実を信じれば良いのでしょうか?
この最も重要な点について、多くの者たちが自分自身を誤って導くのであれば何と悲しいことではないのでしょうか?
神は唯一、罪とその値を見積もることが出来る方であり、神は唯一その罪のすべてを語ることのできる方なのです。
ならば、神は知っていながら、罪のさばきを行わずにおられるでしょうか?
アーメン、その通り、神は御自分の御子の十字架にあって罪を測られました。
そして、そこで、神はその価値がどれほどであるか、もっとも印象深い方法をとって、その罪の値を十字架に置いたのです。
何をあなたは考えるべきですか?
あなたはこの苦い叫びを聞かなければなりません。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
新改訳聖書 マタイの福音書27章24節
もし、神は御自分の一人子を見捨てた時、御子を罪とされたのであれば、同じように自分の罪を認める者たちすべてを神は捨てることは出来るでしょうか?
どのように人は罪を取り除けばよいのでしょうか?
私たちはこの結論が避けられないことを信じています。
私たちはこの贖いの無限の性質が永遠の滅びの教理だけでは答える事はできないと考えています。
この比較することの出来ない価値ある犠牲はかつて私たちの永遠の命を持った、そして永遠の滅びから救われた土台なのです。
私たちは永遠の怒りから救い出され、永遠の栄光へと入れられたのです。
それは終わることの無い惨めな地獄から救われ、私たちは終わりない永遠の至福を手に入れたのです。
このように十字架の側から見るのであれば、もしくは私たちの側からこの十字架を見るのであれば、私たちはこれらの問題が永遠の問題であることが解かるはずです。
もし、私たちが暗い地獄の深みから見るのであれば、もしくは私たちの側から地獄を見るのであれば、私たちは同様にこれらの問題が永遠の問題であることが解かるはずです。
私たちはそのとき、同じ無限、永遠、神の現実を知ることになります。
十字架によって、私たちは天国の祝福と地獄の惨めさを知るのです。
私たちは十字架の上で死なれ、永遠の命と至福を獲得された祝福された唯一なる方に信頼を置いているのです。
その方を拒絶する者たちは終わりない破滅の中に沈まなければなりません。
私たちはこの問題を神学的問題として取り扱ってはいけません。
また、永遠の滅びについての教理を守ろうとして前進し、あらゆる論議を尽くすかもしれません。
しかし、どのようであっても私たちはここで更に考えてゆかなければならないことがあります。
私たちは読者に健全な結果を得るためにキリストのみもとへと行くことを示さなければなりません。
それはたましいが不滅であることです。
「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
新改訳聖書 創世記2章7節
人間の堕落において、たましいの不滅の問題について何も触れてはいません。
もし、たましいが不滅なら、たましいの消滅はありえません。
たましいは永遠に生きなければなりません。
すべてに優先して考えるべきです。
人間の教えるすべての教訓が恐ろしい永遠という重大な真実の下に姿を消すでしょう。
その真実はすべての概念に勝り、頭の中に不可解な計算をめぐらせます。
人間の計算はただ有限な範囲において扱われています。
それは決して終わることのない永遠に表されるようにとは、理解することはありえません。
しかし、ここにいる著者と読者である皆さんはともにこの永遠を生きなければなりません。
光ある祝福された世界、もしくは希望が決して来る事のない恐ろしい場所のどちらかを選ばなければなりません。
もし、神の聖霊が厳粛な永遠、そして不滅のたましいが地獄へ行くことを、より私たちのこころに印象付けるのなら、私たちはこれらの重大な現実を感じ取ることに嘆かわしくも欠けた者であるというしかありません。
私たちは日々、いろんな人と接触することがあるでしょう。
私たちは買ったり、売ったり、また運んだり、永遠に生きなければならない者たちと様々な方法をとって接触しているのです。
そして、これらの者たちにキリストの血に個人的に興味を持つことなしに死ぬのなら、恐ろしい永遠のあることを、またこれらすべての者たちに恐怖に満ちた状態が待っていることを、私たちは切迫して語らなければならない機会を見つけなければならないのです。
私たちはたましいとともに懇願し、来ようとする神の怒りから逃れるようにと多くの他の者に警告を与えながら、より熱心に、より厳粛に、より信仰的により熱くなれるように神に求める必要があります。
私たちはより永遠の光の中を生きるように求めます。
そして、その時、私たちはより多くの人たちを交わり関係することを求めます。
今、残されていることはいままでずっと考えてきた聖書のもっとも実り多い箇所であるヨハネの福音書3章16節の結果を出すことです。
ヨハネの福音書3章16節、この節はあらゆる場合において、神の御子にある単純な信仰に対する、積極的な結果を置くことが出来ます。
とても単純に、はっきりと、その事実はすべて主イエスキリストを信じる者が永遠の命を持つことを宣言しています。
それは単に信じる者の罪が消えたということではありません。
もちろん、それは幸いなる真実です。
もしくは、単に信じる者の持つ邪悪な性質から救われただけでもありません。
もちろん、同様に真実です。
しかし、それ以上に、信じる者は新しい命を持つのです。
その命は神の御子に(中に)ある命です。
信じる者は完全に新しい基盤の上に立っています。
信じる者はもはや古いアダムの中に見られる者ではなく、復活されたキリストの中に見られるのです。
これは素晴らしい真実であり、最も深く最も可能な場面なのです。
私たちは読者の平静な歩みと祈りに対する態度を熱心に神に求めます。
そして、神は私たちにひ弱な方法を示してくださいます。
それはヨハネの福音書3章16節のに含まれていると私たちは信じます。
私たちがキリストにある信仰によって得たことが、多くの者の感情において不完全に感じられるからです。
ある者たちは私たちの古い肉の状態において、負うべき負債を支払うように要求するように言うでしょう。
それがキリストの贖いの働きが、私たちの古い性質のための一つの救済策と見ています。
しかし、このように私たちには語る必要がありません。
尊い真実のゆえに神は恵みを与えてくださいます。
しかし、それ以上のことです。
それは単に罪が贖われたというのでありません。
私たちはキリストの十字架によって、古い性質は有罪とみなされました。
そして、私たちは信じることによって、死んだ者とみなされたからです。
古い状態において負いべき負債を支払うように結ばれた契約はキャンセルされました。
それだけではありません。
この古い状態自身が神によって完全に否定されているのです。
そのことがキリストを信じる者によって説明されています。
この偉大な真実はコリント人への手紙第二5章で教理として説明されています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章17節
使徒は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は罪が赦され、そして自分の負うべき負債を払うのです。」言っていません。
これらは神の真実のです。
しかし、この声明はより多く、正しく私たちに示されました。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と宣言されています。
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章17節
古い性質が赦されたのではありません。
しかし、この古い性質はその属性とともに完全に取り除かれた(わきに置かれました)。
新しい性質が導入されたのです。
そこには古い性質のひとかけらも残っていません。
「これらのことはすべて、神から出ているのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章18節
今、このことは私たちの心に大きな安心を与えます。
もし、いくつかのたましいが新しい創造という真実を何か尺度をもって測ろうとするまで、キリストの福音が与える完全な自由の中に入ることができるのか、私たちには本当に疑問です。
そこにはキリストの赦しがあるでしょう。
神の慈愛と慈悲にある信頼の測りをもって、きっと最後には天国に入れるというあいまいな望みです。
そこには「永遠の命の意味が正しく理解されていません」と言われているかもしれません。
もしくは新しい創造と聞いても良心に喜びが湧き上がりません。
古いアダムの性質全体が取り除かれた(わきの置かれた)というすばらしい事実を理解していないのです。
古い状態は神の視野からみて完全に取り除かれたのです。
しかし、何人かの読者は「古いアダムの性質」、「肉」、「古い人」などの単語を知ることによってより困り果ててしまうかも知れません。
このような表現を持つ単語によって、おそらく読者の耳にはとても奇妙に聞こえるかも知れません。
私たちは読者の頭を打ち抜くようなことは避けたいのです。
神が私たちの証人です。
そこには私たちの願う一つのことがあります。
その一つの目的とは、私たちのこころの中に今まで保とうとして来たものであり、読者に教え、教育してきたことです。
ゆえに私たちはむしろその聖書の句を従おうというよりも無駄というリスクを負って走ってきたのです。
その結果、このような「肉」、「古い人」、もしくは広く開かれた聖書の中で使われているこの種の単語の意味が無明確、もしくは知識だけの考えになってしまったのです。
実例として、私たちはローマ人への手紙6章で「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」と書かれています。
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章6節
今、ここで使徒の使っている「古い人」と言う意味は一体何でしょうか?
私たちは使徒がアダムの性質の中にある人を教えているのを知っています。
その性質は最初の祖先であるアダムから引き継いだものです。
では、罪の体とはいったい何を意味しているのでしょうか?
私たちは今、私たちの置かれている贖われていない、新しくされていない、信じていない立場、状態を示すシステム全体(体)を意味していると信じています。
訳者注)救いを受け入れたクリスチャンも罪の体を持っています。
まず、イエスを救い主として信じた瞬間、内なる人(たましい)は新しい法則の元に新しく生まれます。
しかし、からだはまだ贖われていません。
キリストの空中再臨の時、死んだ者はこの瞬間によみがえさせられ、生きている者もそのまま引き上げられ、この体は贖われるのです。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
テサロニケ人への手紙第二 4章16〜18節
「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」
コリント人への手紙第一 15章51〜53節
古いアダムがその時、十字架に掛けられたと宣言しています。
罪の古い状態がキリストの死によって滅びた(無効になった)と言っているのです。
ゆえに、主イエスキリストを信じるたましいはこの特権を知っています。
この罪深い、邪悪な者を神の目からは死んだ者として見ているのです。
完全に取り除かれた(わきの置かれた)のです。
私たちは神の御前においてこのような罪ある存在ではありません。
その者は死んで、葬られたのです。
注意して、よく見てください。
それは単に私たちの罪が赦され、私たちの負うべき負債が払われ、罪が贖われただけではありません。
人間が罪を犯してきた性質、負うべき負債に対する契約、罪を負うべき結果、これらのものが神の視野の外に永遠に持っていかれたのです。
このことは私たちの罪を赦したという神の方法を言っているのではなく、もしくは私たちがこれらの罪との同じ関係から離れたということでもありません。
そうです。
神は御自分の驚くべき恵みと広大な計画を持っています。
クリスチャンのために古いアダムとの関係、およびその関係に属しているものすべては有罪とし、廃止されました。
もはや、神によって認識されることはありません。
私たちは神のみことばである聖書の声によって宣言されています。
キリストトともに「十字架に付けられ」、「死んで」、「葬られえ」、「よみがえった」のです。
神は私たちに信仰の問題として、私達が感覚で感じることではなく、私たち自身が認識(計算)すべきこととして語っているのです。
それは信仰の問題です。
感覚の問題ではありません。
もし、私が私の観点から私自身を見るのであれば、私は私自身の感覚の問題として自分自身をさばくでしょう。
私は決してこの真実を理解することは出来ないのです。
それはなぜでしょう?
それは私自身が同じ罪深い被造物であることを今まで以上に感じているからです。
私は私の中に罪があることを感じています。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章18節
私の古い性質は変わらないし、改善もされません。
私は今でもなお、同じ邪悪な傾向を持っています。
そして、もし、聖霊の慈悲深い力によって屈辱ではばく、押さえつけるのであれば、私たちの真実な性格がそこに現れるのです。
まさに言わんとしていることがここにあるのです。
多くの素直なたましいは悩む、問題の中にあるということは疑うことはありません。
彼らは自分自身を見ています。
彼らは神の真実に安らぐ代わりに、自分自身を見たり、感じたりすることに根拠を置いているのです。
彼らは自分自身を感じたことと、神のみことばを読んだことをともに満足させることを不可能にしてしまいました。
言い換えるのなら、彼らは自意識過剰になり、神の現してくださった真実との調和を保つことを、何か難しいことにしているのです。
しかし、私たちは信仰とは神のみことばにおいて神を得ることなのです。
それはずべての点において神とともに考えることなのです。
それは神の言われたことを根拠として神のことばを信じることです。
ゆえに、もし神が私に私の古い人が十字架に付けられたと語るのならば、もはや神は私を古いアダムの立場として見ることはありません。
復活されたキリストにあって見てくださるのです。
私は小さな子供のように信じています。
神が私に日々信仰の中に歩めと語っています。
もし、私が神の言われた真実を証明するために、自分自身を見るのならそれは信仰ではありません。
アブラハムの例が次のように書かれています。
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章19〜21節
これはキリスト信仰の根底にある偉大な原則です。
「それでアブラハムは神を信じた」
新改訳聖書 ローマ人への手紙4章3節
神について何かを信じたのではありません。
神御自身を信じたのです。
これが信仰です。
その信仰は私たちの考えではなく、神の考えを語っているのです。
簡単に言うのならば、私たちの持つべき神に対する考えが示されたのです。
今、私たちの前に置かれたこのテーマを私たちに適応してみましょう。
それは最も単純なことなのです。
「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
注意してください。
御子について何かを信じることではありません。
御子御自身を信じることなのです。
キリストのという方を信じる単純な信仰の問題なのです。
そして、信仰を持つすべての者が実際に永遠の命を持つのです。
これは福音の中に示された私たちの主の直接的であり、明確な声明なのです。
これは何度も繰り返されてきたことです。
そして、これがすべてなのです。
クリスチャンが永遠の命を持っているというだけではありません。
しかし、更に優れた光によって--使徒たちの書いた手紙がこの偉大な質問に答えています。
クリスチャンは古い自分を見るでしょう。
地上にいるクリスチャンは古い性質の中にいるのです。
それを使徒は「古い人」と呼んでいます。
その古い人は神によって死んで、葬られたと説明されています。
このことを理解するのは難しいかもしれません。
しかし、読者が思い出さなければならないことは、読者が理解したから信じるのではなく、神の御言葉だから信じなければならないのです。
「それでアブラハムが神を理解した」とは言っていません。
「アブラハムは神を信じた」のです。
その時、クリスチャンの理解に光がそそがれるのです。
もし、私が信じるために理解することを待っているのなら、子供のように神のことばを信じる信仰に自分自身をゆだねる代わりに、私は私が学ばなければならないことを学ばなければなりません。
このことを考えてみてください!
おそらく、あなたは理解できないと言うでしょう。
どのくらい自分自身が罪深いかをあなたは理解しなければなりません。
あなたはその働きを感じながら、自分自身を死んだ者として見上げることが出来るでしょうか。
ため息をつきながら、動揺しながら、自分自身の傾向を見ながら、たえずあなたはうろたえているのです。
私たちは答えることができます。
むしろ、神の永遠の御言葉が宣言しています。
もし、あなたのこころの中でイエスを信じるのなら、この時あなたにとってすべてが真実です。
簡単に言うのであれば、あなたは永遠の命を持っているのです。
あなたはすべてのことから、義とされたのです。
あなたは新しい創造です。
古いことは過ぎ去りました。
すべてが新しくなったのです。
そしてすべてのことが神のためにあるのです。
一言で言うのであれば、あなたはキリストの中にいる者であり、「この世にあってキリストと同じような者であるからです」。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章17節
そして、あなたの罪が赦されたということより偉大な出来事はありません。
あなたの負うべき負債は取り消されました。
あなたのたましいは地獄から救われたのです。
自信をもって言うことができます。
そして、私はあなたに尋ねたと仮定してみましょう。
「あなたは誰の権威によってあなたの罪が赦されたと信じているのですか?
あなたは救いを感じているからですか?
それとも実感しているからですか?
それとも理解しているからですか?」
いいえ、それはこのように書かれているからです。
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒の働き10章43節
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章7節
そして、同様に同じ尊い権威において、あなたは古い人がすでに十字架に付けられたということを信じています。
あなたは肉の中にいるのではありません。
あなたは古い創造物ではありません。
あなたは古いアダムと関係がありません。
しかし、対照的に神のよって、実際によみがえられた、栄光あるキリストの中にある者として見られているのです。
神がキリストを見ておられるように、神はあなたを見ているのです。
なんと素晴らしい真実でしょうか!
さばきの下にある古い世界にあって、あなたの状態はついて言うのであればあなたは今だにここにいます。
あなたの中にある肉がまだ存在しているのです。
しかし、あなたの主が言ったことを聞いてください。
父なる神があなたについて語っているのです。
「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章16節
そして、再び言っています。
「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章18節
ここで、もし、あなたが神のみことばにひざをかがめるのなら、もし、あなたが理由なしに自分自身のことを見て、あなた自身のことを感じ、そして考えるのであれば、あなたは単純に神の言われていることを信じるのです。
あなたはあなたは肉の中にいるのではなく、聖霊の中にあるのです。
その事実から流れ出る祝福された平和と神の特権の中に入れられたのです。
あなたは古い創造の中にあるのではありません。
新しい創造の中にあるのです。
この世のために生きているのではありません。
神のために生きているのです。
あなたが生まれつき性質を持つ子供、そして最初のアダムのメンバーとして占めていた古い出発点をきれいにふき取られました。
このことはノアの時代にあって洪水、箱舟に型としてはっきりと示されていたのです。
創世記の6〜8章を見てください。
「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。
すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
そこで、神はノアに仰せられた。
「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。
地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。
それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」
新改訳聖書 創世記6章12,13節
ここに 型として古い創造物の終わりが記されています。
すべてがさばきの水の下を通り過ぎました。
その時、何がそこにあったのでしょうか?
「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」
新改訳聖書 創世記6章14節
ここに私たちは目に見える新しいものを置きました。
それは箱舟です。
水の暗い深淵の上を平安に満ちて浮いていたのです。
その箱舟はキリストの型であり、キリストにあるクリスチャンの型です。
古い世界は人間とともに、さばきの波の下に葬られました。
そして、箱舟だけが取り残されたのです。
箱舟は救いと哀れみの器です。
大波に対する安全と勝利にあって進むことが出来たのです。
このように、真実と現実にあって、神の御前にはさばかれるべきものは何もありません。
しかし、キリストの勝利、栄光である復活があるのです。
キリストにある人はキリストに連なっているのです。
すべて肉なる者の終わりが神の御前にやって来ました。
それは肉が、もしくは生まれつきの性質がどれほど醜いかという問題ではありません。
それは単に邪悪なものであり、単なる廃棄物です。
ではどのような問題なのでしょうか?
それは「すべての終わり」です。
これは厳粛なことであり、決定的な評決です。
そして、その時そこに何があるのでしょうか?
キリストの復活です。
他に何もありません。
神はキリストにあるすべての者をキリストともに復活した者として見ておられるのです。
キリストの外にあるすべての者がさばきの下にあるのです。
この問題にあるすべての答えがここにあるのです。
「わたしはキリストの中に、もしくは外にいるのでしょうか?」
何という質問だと言われるかも知れません。
では、あなたはキリストの中にいるでしょうか?
あなたはキリストの名を信じていますか?
あなたはキリストによってあなたのこころに確信を持ちましたか?
もし、そうならば、あなたは永遠の命を持っています。
あなたは新しい創造なのです。
古い存在は通り過ぎました。
神はあなたの中に残っている古い存在のひとかけらをも見ていません。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
新改訳聖書 コリントの手紙第二5章17節
あなたは古いものが過ぎ去ったと何も感じないと言うかも知れません。
私たちの答えは神があなたの持つ幸いな特権について言われていることです。
神があなたのことについて宣言していることをあなた自身が認め(計算し)、信じることなのです。
神の言われていることは、キリストにあるあなたの真実なる状態と一致しています。
神はあなたを肉の中にある者として見ていません。
キリストの中にある者として見ておられます。
神の御前には絶対と言えるものはキリスト以外には何もありえません。
あなたの手があなたの体の一部であるように、最も弱いクリスチャンであってもキリストの一部とみなされています。
あなたはキリストを離れては神の御前には存在していないのです。
そこには命も、義も、聖さも、力もないのです。
そして、キリストから離れたはあなたは持たず、何もありえません。
キリストにあって、すべてなのです。
神はあなたを完全にキリストと同一視しています。
驚くべき事実!
深い奥義!
最も栄光ある真実!
これは達成できたとか、進歩出来たという問題ではありません。
私たちは神の教会の最も弱きメンバーとして置かれ、完全に立っているのです。
そこには様々な知恵、経験、そして献身的な歩みにおいて測られることも真実です。
しかし、そこには一つの命、一つの立場、一つの神の御前における地位があります。
それはキリスト御自身です。
クリスチャンの命に高きも、低さもありません。
キリストがクリスチャンの命なのです。
あなたはキリストが高いとか、低いとか言うことはできません。
私たちはクリスチャンの命についてより高いレベルについて理解することができます。
しかし、そこにはクリスチャンの命について語られているより高い霊的な知恵と呼ばれているもの何もありません。
これが壮大な真実であり、私たちは熱心に祈ります。
聖霊なる神が読者の心を十分に開くことができますように...。
私たちははっきりと理解することのゆえに、何千もの曇った思いを払いのけ、何千もの質問に答え、何千もの難関を解き明かせるという確信を感じています。
それは単にたましいに平安を据えられその効果を持てるというだけではありません。
そして、私が単にキリストとともに神に受け入れられ、同様に現在の世からキリストが拒まれたということをともに分かち合えるというだけではありません。
二つの出来事はともに連なるでしょう。
これは一つの雄大な質問の二つの側面を構成しています。
もし、私がキリストの中にあるのなら、キリストとともに神の御前にいます。
その時、私がキリストの中にあるのなら、この世に対してもキリストとともにいます。(迫害され、困難があるはずです。)
この世界は神の御前との結合を決して受け入れず、そして世との関係を拒みようなことはありえないからです。
もし、私がどちらかの立場を取るのなら、もう片側についても同様なことが言えるのです。
ヨハネの福音書17章においてこのことが十分に語られています。
「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。
それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章22〜23節
そして、私たちは他の箇所をも読みました。
「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。
しかし、世は彼らを憎みました。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章14節
これはどのような質問に対しても答えることのできる、はっきり、肯定した答えです。
そして、素晴らしい聖書の中にあることを思い出してください。
私たちの主が単に使徒たちに話しているだけではありません。
「彼ら(使徒たち)のことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章20節
これはすべてのクリスチャンに対して書かれているのです。
ゆえにキリストとの栄光をキリストともにすべての者が受け入れ、世から拒まれることをキリストともにすべての者が受け入れ従う者なのです。
二つのことは分離できない事柄なのです。
かしらとその部分は天において一つの共通した神に受け入れられた事柄を分け合うのです。
主にあるすべての人々がこの真実、そしてこの現実の中により参加することができますように...。
もし、そうならば、私たちは天にある交わるの意味を少しでもより多く知ることが出来るのです。
世界はキリストを拒んだのです。
訳者言及
現在、多くのクリスチャンと言われている者がこの世界に受け入れられることを望んでいます。
特に、悪魔はこの地上にカルト宗教や異端的教会を送り込んでいます。
また、彼らは若干ながら、真理である部分も使います。
これが悪魔のテクニックです。
特に、死後の問題、神のさばきなどの単語を並べます。
もちろん、彼らの語ることは根拠などない、偽りです。
見事に、人間から嫌われるパフォーマンスを行ない、異常な言動を繰り返します。
多くの教会がこのような組織とは違うことを強調しようとし、世に受け入れられるような「愛」だとか、「交わり」だとかいう言葉を並べ、世に受け入れられるようなパフォーマンスをします。
(もちろん、一時的には受け入れられ、人は集まるかもしれません。しかし、その結果はリバイバルどころか、教会自身の質の低下です。)
このようにして、悪魔のわなに多くの教会がはまり、キリストの十字架の証しが出来なくなっているのです。
もし、最近の一般的な教会で主張しているように、死後の天国や地獄、神のさばきを語ることがカルトならば、キリストの十字架の御業が神の怒りから救いであることを語ることが脅しとして避難されるなら、私たちはカルトでも、脅しでもいいのです。
喜んで拒まれましょう。
キリストが世から拒まれたように....。
2002/2/19 完了