メッセージTT 2002/3/8

三本の十字架 
ルカの福音書23章39節〜43節 by C.H.マッキントッシュ
(THE THREE CROSSES : Luke 23:39-43 )


しばらくの間、私たちとともにこころを静め、三本の十字架についてよく考えてみてください。
もし、私たちが誤ることがなければ、私たちはすぐにでも私たちの前に広がっている真実という広い原野を見つけることが出来るでしょう。
まず、最初に私たちはこの三本の十字架の真ん中に集まらなければなりません。
むしろ、そこで釘打たれた方、ナザレのイエス、この幸いな方は愛に満ちた働きをもって人生を過ごし、病人を癒し、らい病人を清くし、盲人を見えるようにし、死人をよみがえらせ、空腹な者を食べさせ、やもめの涙を乾かし、人間に必要なすべての必要を満たし、すべての悲しみの子供に真実な同情の涙をいつでも流すことが出来た方なのです。
この方の食事と飲みものは神のみこころを行うことでした。
良き方として、聖い方として、しみなき、完全な栄光ある方なのです。
唯一、純粋な方であり、この世に現われた、汚れなき人間の収穫の初穂の束であり(訳者:初穂としてキリスト)、人となられた神なのです。
彼はこの世に現われた栄光ある完全な神であり、神御自身の方法により、完全に御自身を現わして下さったのです。

このように、キリストは十字架の中央に置かれ、私たちは今、彼がなぜ十字架掛けられたのか尋ねることができます。
私たちは三つの方向からこのレッスンを学ぶことができます。
というよりも、私たちは三つの意味深い真実を私たちのこころに広く理解できると言うことが出来るのです。
最初に、私たちは神の御前にある人間のこころには「他に何も教えられることができない」ということを逆に教えられました。
十字架が教えていることは、他の事柄には見出すことはできません。
もし、私たちが、世の測りをもって、人間のこころの測りをもって、罪を測りをもって、完全な基準を求めるのならば、私たちは私たちの主であるイエスキリストの十字架を見なければなりません。
私たちは十字架のことを考えずにはいられません。
そして、私たちは十字架を無視して通り過ぎることはできません。
もし、私たちが世とは何かという事を知るのであれば、この世自身が十分に言い現わしていることですが、そこには堕落した人間性が満ちています。
その時、「キリストを十字架に掛けろ、十字架に掛けろ」という人間の声が響いています。
その声は人間のこころから発しているのです。
人間の心の中には他の宣言がないのではないかと思えるほどの強い宣言です。
これが神の側から見た人間の真実な状態です。
その時、人間は神の子を十字架に釘付けしたのです。
人は罪の極限の高さ、道徳的な悪の深さにまでに及んだのです。
その時、人はキリストより強盗と人殺しを選びました。
それは人が光と愛よりも、強盗と人殺しの方を選ぶということの証明です。

十字架はこの恐ろしい事実を実証しているのです。
私たちはこの点を理解することは大切なことです。
しかし、十分な明確さをもっているようには思われません。
まず、私たちは自分自身を修正する基準をもって、この世界を判断しようとする傾向があります。
そして、私たちは「信仰のない世だ!、この世は卑しいところだ!、偽りで満ちている!」とこの世界の無価値さを語ります。
そして、もう一度、私たちは世を基準とする測りをもって自分自身を測ろうとするのです。
ゆえに、私たちはいつまでたっても本当の目印まで達することができません。
本当の結論に達するために、私たちは完全な基準をもって判断しなければなりません。
これはただ十字架にあってのみ私たちは見つけることが出来るのです。
十字架だけが人間の、世の、罪の完全な測りなのです。
もし、私たちが世とはいったい何なのか本当に知りたいのであれば、私たちは世がキリストよりも泥棒を選んだということを思い出さなければなりません。
キリストは完全な御方であり、この二人の盗人の間で生きておられたのです。
キリストを十字架に掛けた世が、私たちの生きている世なのです。

世はこのような特徴を持ち、このような道徳的状態であり、これが真実な立場なのです。
世は故意にキリストが十字架に掛け、はっきりとその完全な行動によって証明されるのです。
私たちは栄光あるキリストを十字架に掛けた世の邪悪さについて見たり、聞いたりしています。
世は邪悪と偽りを与えることが出来るという最も強い証拠を私たちに与えることが出来ます。
何も、私たちは驚く必要はありません。
その答えとして、誰かが「世は変わった」と言うかもしれません。
確かに、ヘロデとポンテオ・ピラトの時代とは違うかもしれません。
この二十世紀の時代はあらゆる点において進歩し、一世紀の時代とはとても違いと言えるでしょう。
文明は過去のこの場面におおいを掛け投げたでしょう。
その一面として、キリスト教会はこのような過去の汚点を清め、そして悟りを得たとして、多くの儀式(ミサ)に影響を与えました。
しかし、世が過去にこのような恐ろしい行動を行ったことを知るならば、この世が変わると判断することは非常に認めがたい事なのです。
あなたは実際にこの世が変わると信じているのでしょうか?
世の道徳的状態の根底にある源が本当に改善されるのでしょうか?
世の内側にある中心が本当に変わるのでしょうか?
私たちは無料の福音と、聖書を開くとそこにこの福音が書かれていることを簡単に認めることが出来ます。
この福音は神の哀れみによるもので、聖書のいろんな箇所で提供されています。
私たちは感謝のこころと霊的な礼拝をもって、何千もの、何百もの、尊いたましいが神に立ち返ることを考えます。
私たちは私たちのすべてのこころをもって、主を讃美します。
それはキリストの信仰を持つさまざまな多くの人たちが生き、そして死んでいったからです。
そして、この瞬間にもこれらの者たちが、キリストの御名、人格に真実に適合し、その結果を確信し、そして、これらはキリストを要因としてのです。
しかし、後に栄光ある結果を記す余白を幅広く残した上で、私たちは固い決意をもって立ち返りましょう。
世は今だに、キリストを十字架に掛けた世であることを確信すべきです。
キリストはエルサレムにおいて33歳で十字架に掛けられる時を持ち、実行に移されました。
これは現在、キリスト教において行われてきたことなのです。
このようなことをいうことは、激しく、大胆なことに思えるかも知れません。
しかし、真実なことを言っているのでしょうか?
エルサレムの宗教的指導者が「この人ではない。バラバだ」と言った時より、今の世はイエスの名を少しでも尊ぶようになったでしょうか?
それが本当か試して見てください。
品の良い客間で、裕福な人たちの真ん中で、私たちの生きている気品ある時代にあって、きらびやかな集まりがそこにはあるでしょう。
そして、その集まりの真ん中で、比べうるものなどない尊い御名のもとに進み、深く息をしてください。
豪華客船のサロンルームで、ハイクラスの客車の中で、娯楽を楽しむ劇場にて、彼の名を呼んでみてください。
もし、あなたが惑わずに語ることが出来ないのなら、今、語られているこの主題からあなたは不適当な者なのです。
そこにあるのはキリストの名でもなく、そこにある主題とはイエスを主題にしていません。
しかし、そこでキリストのことを語るのなら、あなたはすぐに黙ってしまうでしょう。
私たちは歌手やバンドのコンサート、もしくは歌劇などで、警察の言うことを聞かずに主要通りが妨げられたのを何度も見たことがあるでしょう。
でも、キリストのしもべである者が通りに出て福音を語り、この通りをふさぐのなら、すぐにそのしもべは警察に呼ばれるでしょう。
この公道はキリストのためのあるのではなく、悪魔のためにあるのです。
「この人ではない。バラバだ」
だれが、今の時代が変わったと言えますか?
何が変わっていると証明できますか?
言うまでもなく、彼らはこの世が改善されるという偽りの考えを証明しています。
彼らは二十一世紀の時代が最高だと言っています。
たしかに、いくつかの場面において、この世は衣装を変え、敵意を見せなくなったでしょう。
たしかに、異教的な上着を脱ぎ、キリスト教的なおおいを身に付けたかもしれません。
しかし、そのおおいの下には恐ろしい異教的な考え(霊)が潜んでいるのです。

ローマ人の手紙1章29〜31節とテモテへの手紙第二3章を比較してみてください。
あなたはそこに暗い異教徒が持つ、特徴と外観を見つけることが出来るでしょう。
これらの異教徒は、神の形と結びついて造られ、堕落した道徳観によってグロテスクな形を持っています。
クリスチャンの告白という外観だけの上着と同じです。
この世が良くなってゆくというのは致命的な間違いであり、この世は神の御子を殺したという汚れで満ちています。
それぞれの歴史の舞台において、もしくは歴史上のあらゆる状態において、実際に世が悪魔の支配下であることは同意され、証明されていることです。
この世はさばきの下にあります。
その判決は下されました。
その恐ろしい日が来ることは、すばやく実行されます。
この世界は深く、暗く、急速な流れをもって火の池に流れ込んでいます。
そこにはさばきの剣以外何もありません。
そのさばきは神と私たちの主イエスキリストの父と神の御子を殺したこの世との間でまだ実行されてはいませんが、重い問題がそこに据えられているのです。
このように、もし、聖書が私たちの導き手なら、さばきはドアの外に来ています。

1900年前、霊感を受けた使徒が「神はさばく準備が出来ている」という厳粛な宣告を書きました。
もし、神がさばく準備ができているのなら、今すでに準備が出来ているということです。
ならば、なぜ遅れているのでしょうか?
それは哀れみによって長く耐えておられるのです。
決して喜んで滅ぼそうとしているのではありません。
すべての者が悔い改めるのを望んでおられるのです。
なんと尊いみことばなのではないでしょうか!
すばらしいやさしさと比較できない恵みのみことばです。
みことばは私たちの神の恵みあるこころによってより大きく私たちに語りかけてきます。
神は人の救いを熱心に願っておられるのです。
その恐ろしい日は神の手による復讐の日です。
そして、その時、イエスの声、神に使わされた声はそのくちびるを通して響き渡ります。
恐ろしい旋風が起き、そこから逃げ出そうとする者たちによって、あらゆる場所からその声が聞かれるでしょう。
そして、神の救いの砦へと彼らは逃げてくるのです。

しかし、このことは私たちを二つ目の問題へと導きます。
人に対して向けられた神のみこころの表現として十字架を見てください。
もし、十字架の上に私たちの讃美する主であり、救い主であるイエスキリストがおられるのなら、私たちは深く、広く、そして、間違えることなく、人の持つ神の真実な立場を心に留めて、神の御性質を読むことが出来ます。
そして、その同じ十字架において、私たちは人に向けられた神のみこころにある真実な立場をよりはっきりと読むことができるでしょう。
十字架はその両方における神の完全な測りなのです。

キリストのわき腹をローマ人のやりは突き刺しました。
救いのための血は流されました。
十字架にある驚くべき出会いを私たちは見るべきです。
敵意と愛-罪と恵み
神に対して逆らう敵の強さを人はカリバリにおいて見ることができます。
しかし同じ場所で、神は祝福された御名、神の愛の強さを見ているのです。
憎しみと愛は出会いました。
そして、愛は勝利を証明しました。
神と罪は出会いました。
神は勝ち誇り、罪は拭いさられました。
そして、今、十字架の側における復活において、喜びのおとずれが宣言されました。
私たちの主イエスキリストによる永遠の命にあって、義を通して、恵みの支配がそこにあるのです。
十字架において、その戦いが行われ、勝利が宣言されました。
そして、今、支配者の勝利の手によって、恵みにより勝利の戦利品は遠くに、広く配られたのです。

あなたは本当に人に向けられた神のみこころが何であるか知りたいと願っていますか?
もし、あなたがそうであるなら、前へ進み、そしてじっと見つめてください。
十字架の中央にいるイエスキリストは固く決意した議会と神の予知によって釘打たれているのです。
これは真実であり、私たちはすでに幸いなる方が人の邪悪な手により、十字架に付け、殺されたのを見ているでしょう。
これはこの問題の暗い部分です。
しかし、そこには神の目から見て明るい部分もあるのです。
疑うことなく、人は自分自身を十字架から追い出しました。
しかし、神は人の上にいます。
そうです。
神は地上と地獄のすべての力の上にあり、これらの恐ろしい順序で並んでいるのです。
ヨセフとその兄弟たちの場合のようです。
彼らはヨセフを穴の中に突き落とし、イシマエル族に彼を売り、そのこころの中にある敵意を現わしました。
ここには暗い部分があります。
この時のヨセフの言葉が記されています。

「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。
神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

新改訳聖書 創世記45章4、5節

明るい部分がここにあります。
しかし、誰にこの恵みの驚くべき言葉が語られたのでしょうか?
打ち砕かれたこころ、そして、悔い改めた霊に、そして、罪を自覚した良心に語られたのです。

「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ」と彼らは学び、このように言うことが出来たのです。
新改訳聖書 創世記42章21節

このように言うことができるのなら、私たちは今、私たちの前にある明るさと暗さが一本の真実な線によって結ばれるのです。
これらの者たちは自分の置かれている真実な立場を取り、自分自身に向けられている神のさばきを受け取りました。
彼らは自分の罪の重さを真実に十字架によって理解し、十字架は彼らに向けられた神の愛あるみこころの表現であることを認めたのです。
彼らは同じ十字架において、栄光ある真実に入ることができ、人が持つ神への憎悪とともに、人に対する神の愛が示されたのです。
二つの事柄がともに連なっています。
私たちが自分が罪を持っていることを知るのなら、十字架において、清められ、平和を持ったことを学びます。
また、私たちは尊い血の力はすべての罪から私たちを洗い去ることを知るます。
そのとおりです。
砕かれたこころと、悔い改めた霊だけがキリストの十字架で現わされた驚くべき神の愛の中に真実に入ることができるのです。
どのようにヨセフは言うことが出来たでしょうか?

「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」
新改訳聖書 創世記45章5節

もし、ヨセフがここで兄弟たちの罪を取り除くことができなかったのなら、愛の交わりの中に入ることは不可能です。
そして、打ち砕かれていないこころ、たどりつけない良心、悔い改めないたましいはどのように、キリストの血の贖いの価値を知ることができるでしょうか?
どのように神の愛の甘い味を味わうことができるでしょうか?
完全に不可能です。

ヨセフが最初に兄弟たちと出会った時、ヨセフは「荒々しいことばで彼らに言った」と記されています。
新改訳聖書 創世記42章7節

しかし、その口調は彼らの打ち砕かれたこころを知って発せられたものでした。
ヨセフは「われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ」という言葉によって、彼らの状態を良く理解できたのでしょう。
そして兄弟たちは「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません」というその言葉の価値を知ったのです。
私たちが十字架の前に完全に打ち砕かれる時、私たちの持つ罪の重さを十分に知らされるのです。
それは私たちの前に置かれた神の愛の栄光の現われを見る準備をするためであり、そして、その時私たちはこの邪悪の世から逃げ出すためです。

その時、そこで、私たちは私たちが今、話しているこの暗い、流されてしまいそうなこの世から完全に救われ、平和と清さに満ちた神の救いというその中に入れられたのです。
そこで私たちは太陽のように輝く父の御顔の御前を行来きすることができ、新しい創造としての純粋な空気を吸う事ができるのです。

「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二9章15節

そして、今 十字架の上に神の御前にあるキリストのみこころを表現したこの目的の一つを閉じる前に、一言、言いたいことがあります。
すぐにでも働こうとしている聖霊の働きの下にあるその力を示そうとすることは読者にまかせようと考えています。
しかし、この点について私たちはわずかでありながら示すことできるのです。
私たちにはこの方によって完全に栄光を受けられたことを思い出すように、少なくとも、この神に逆らう世界のその中で、その言葉に出来ないほどの慰めは存在しているのです。
神はキリストにこの完成された働きと栄光を与え、この地上にいる者たちはその神のみこころを食べ、そして飲んでいるのです。
キリストの命と死にあって、キリストは完全に神の栄光を現したのです。
かいばおけから十字架まで、キリストのこころは完全に一つの目的に捧げられていたのです。
すなわち、神のみこころを成し遂げられ、そのみこころのすべては成し遂げれようとしているのです。

「そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。」」
新改訳聖書 詩篇40編7節

その聖書の巻物には御子のことが書かれています。
時が来て、神の永遠の助言に従って、キリストはこの世に来られ、神のみこころを成し遂げたのです。
これゆえに、キリストは御自分の完全な存在のすべての力をもって、御自身をお示しになりました。
このことから言えることは、キリストは最初から最後まで、わずかなものをも歪めて御自身をお示しになるようなことはしないということです。
その時、私たちの注意は十字架の中心に目を向けます。
キリストが神のみこころを成し遂げるために来られ、その生涯の始めからイエスのこころはその成就されることに求め、そして私たちはその神のみこころが完全に完成されたということを見ることができるのです。
ピリピ人への手紙2章には素晴らしい箇所があります。
その箇所は幸いにも私たちの前に開かれています。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章5〜8節

これらのことは何とすばらしいことでしょうか!
十字架の奥義に示されていることは何と奥深いのでしょうか!
そこから、発している光は何という輝かしさを持っているのではないでしょうか!
何と神のみこころはここに開かれているのです!
神に向けられた人のこころ、人に向けられた神のこころ、神に向けられたキリストのこころ、これらすべてを十字架に見ることができます。
私たちは二人の強盗の真ん中に掛けられた一人の人を見ることができます。
そして、神の普遍的な御存在において、天国、地獄、地上の光景のそれぞれが、そして、全体が完全に十字架の中に示されているのです。
私たちは神のみこころとは何か知ろうとします。
私たちに対する神の愛は神は罪を嫌うということでしょうか?
私たちは十字架を見なければなりません。
私たちは人のこころとは何かを知ろうとします。
人の本当の状態、人が神にあるすべての良きものを嫌っているということ、人のこころの中にある愛は完全に悪であること...。
私たちは十字架を見なければなりません。
私たちは世とは何か、罪とは何か、悪魔とは何かを知ろうとします。
私たちは十字架を見なければなりません。
確信して言うことができますが、十字架のようにすべてを見ることのできるものが何かあるでしょうか?
私たちはそのことを十分に考える必要があります。
それは永遠の時代を通しての私たちのテーマとなるでしょう。
おそらく、それ以上に今、私たちのテーマだと言えます。
聖霊は私たちのたましいを十字架の生命力に満ちた深みへと導くのでしょう。
私たちはその十字架に釘付けされた方を吸収し、キリストを十字架に掛けたこの世から離れてゆくのです。

私たちのこころから発する言葉は「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」です。
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章14節

神はイエスキリストのゆえにそれをお与えになっておられるのです。
わずかな間、栄光ある主が私たちを贖うために、驚くべきかなその十字架の中央に釘付けされたのです。
今、私たちは他の二人に立ち返って見たいと思います。
両側に掛けられた二人の者について霊感に満ちた記録から、厳粛な重みのあるレッスンを学ぶことが出来るでしょう。
ここで単純に人類を神のキリストを信じ受け取る者、信ぜずに拒む者にと二つの分類に分けるのなら、私たちはここにいる二人の強盗が始めから終わりまで、その二つの人類を代表していることに気が付くのでしょう。
まず最初に言える事は、これら二人には何か優れた違いが存在していないということは最も大事な点だと言えます。
性質においても、彼らの歴史的な記録においても、彼らの状況においても、全く同じだと言えます。
ある者はこの二人に何か違いがあることを打ち建てようと努力しました。
しかし、そのことには反対します。
そのように言う事はむずかしいことです。
もし、そうならば悔い改めた強盗の話から照らし出されている恵みの輝きを曇らすことになります。
それには悔い改めた強盗の過去の歴史におけるいくつかの出来事が存在しなければなりません。
また、その強盗の過去の出来事が十字架の最後の祈りによって示されている、驚くべき終わり、贖われる未来、希望に満ちた状況についての説明がなされなければなりません。
しかし、聖書はこのような主張についてまったく沈黙しています。
そして、この状況を、ただ反論するか、もしくは何か可能性を持たせるか、ただ黙っているわけにはいきません。
しかし、実際にこの状況は私たちに二つの霊感に満ちた証言を与えているのです。
この瞬間、ルカは私たちの注意を悔い改めた強盗に目を向けさせています。
十字架の片側にいたこの強盗は神の御子をののしる恐ろしい働きをしていたのです。
マタイの福音書にはこのように書かれています。

「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」
新改訳聖書 マタイの福音書27章44節

同様にマルコの福音書の福音書には次のように書かれています。

「イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」
新改訳聖書 マルコの福音書15章32節

今、これが神の結論です。
すべての問題がそこに含まれていることはこのことが証明しています。
この二人の強盗には何も違いはないのです。
彼らは二人とも、さばかれて当然な罪人でした。
実際に彼らはただの罪人であるばかりか、永遠の世との境にいたのです。
彼らは祝福された神の御子をののしるという恐ろしい罪で満ちていたのです。
無益です。
ゆえに、彼らが自分の性質、自分の邪悪性、自分の犯罪性、そして自分の不敬虔な罪の中にいる限り、誰であろうと彼ら二人を区別しようと試みることはできません。
私たちは悔い改めた強盗と呼ばれる者のたましいに確信の矢が刺さるその瞬間まで、この二人には何の違いも見つけることはできません。
このことはよりはっきりと見えてくるでしょう。
そして、よりはっきりと、すべてにまさってこの場面を神の恵みが支配するのです。
「何の差別もありません」それは祝福された輝きです。

「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章22節

「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章12節

これは人間が栄光の神について教えている、単なる基準ではありません。
そして、すべての者がそこに達していません。
「何の差別もありません」という神にとってベストなことが、同様に人間にとって最悪な事となります。
そこには単に良心、もしくは人間の側の義という問題があり、いくつかの違いが存在するでしょう。
その測りの基準は人間です。
その時、簡単に区別することは出来ない、いくつかの壁がそこにあるからです。
しかし、そうではあってはいけません。
すべてが神の栄光によって支配されなければなりません。
そして、神の支配のゆえに、人間は不完全です。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが」できないのです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章23節

しかし、祝福された神、そこには別の側の大きな問題があるのです。

「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章12節

神の恵みの豊かさはこのように人間の滅び、邪悪な、そして惨めさの最も深く場所にも伸ばされているのです。
もし、神の栄光の現われである光があるなら...その他にものは現わすことはできません...人間は完全な滅びです。
神の恵みの豊かさはキリストの人格、そして働きの中に描写されています。
そして、その豊かさは人の滅びにとって絶対必要なものであり、同時に神の栄光の側から要求する滅びに対する必要性は人間にとっても十分なものであり、あらゆる方法においてその滅びに対する治療方法を提供しているのです。
私たちは悔い改めた強盗の印象的、かつ美しい物語の中に、どのようにこのことが描かれているか見ようではありませんか!

それはルカの福音書において神の聖霊が証明しています。
このように現実に神の働きが始まる特別な点において、この興味深い例を取り上げてみましょう。
マタイとマルコがこの強盗を不敬な悪人として現わしています。
私たちが今、見ているようにこれらの霊感に満ちた記録よりも、私たちはより道徳的な堕落した深い影について固く考えることができます。
そこにはさばきのわずかな色合いさえも取り除くことができません。
すべてが深夜の闇のようです。
地獄のような暗さがあります。
しかし、十字架の中央にある隠された方法を通して、天からまっすぐに照らされた光が、闇にたどり着きました。
その光によって、私たちの生まれつきの真実な状態をとても深く理解することができるのです。
しかし、そのままの私たちでは深く進むことは不可能なのです。
すべての局面において、すべての段階においてその性質の滅びは完結しました。
もし、すべての者が十字架の上の強盗と同じ尺度を持って自分を見ることができないなら、もし、すべての者がこの強盗と同じ実に至っていないのなら、もし、すべての者がこの強盗と同じ恐ろしい姿に自分自身を見ないのなら、それはこれらの生まれつきの性質から答えを得ていないことになります。
人間のこころは、畑に蒔かれた種です。
あらゆる罪過の種を見つけることができるでしょう。
その種は人間の歴史のページを汚してきたのです。
もし、その種が発芽もせず、実を結ぶことがないのなら、それは違った種です。
しかし、その違った種がこの環境に蒔かれ、影響を与えているのです。
この大きな問題について聖書の証言は、明確に完結しています。

「何の差別もありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章22節

人間はこのようではありません。
それは自分自身を基準としているからです。
霊感のこの大胆な声明によって、自分を義とすることは根こそぎ取り除かれます。
人は何かこの強盗を区別するのが好きでなのです。
その人は自分をマグダラのマリアやサマリアの女、もしくはこのような者たちと同じ種類に見ることはしません。
そこには何の違いもないのです。
しかし、今、恵みのレベルは全く区別されるべきものです。
そして、将来にさばきはこれらのことを測るでしょう。
もし、私たちが救われているのなら、私たちはマグダラのマリアやサマリアの女の集まりの中にいるのです。
そして、もし、私たちが失われているのなら、悔い改めない滅び行く者たちの集まりの中にいるのです。
そこには疑うことなく、栄光に満ちた身分があります。
そして、同様に滅びという身分もそこにはあるのです。
しかし、人のこころにある現実の性質とその個性はについては「何の差別(違い)もありません」なのです。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることができよう。」

新改訳聖書 エレミヤ書17章9節

どんなこころでしょうか?
人間のこころ-著者と読者のこころは次の箇所のようでしょう。

「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書15章19節

もし、彼らが滅びにいなければ、これらの事は人間のこころから出て来ません。
もし、彼らが行いにおいてもこのようなことが出て来ないのなら、彼らは滅びの中にいないでしょう。
しかし、彼らの状況は単に自分を守るように操作してだけのことです。
聖書は明確、かつ、変わることのない証言を与えています。
そして、いつであろうと神の聖霊は人のこころと良心を操作し始めています。
聖霊はこの深い知識とこの聖書の真実なる証言と告白を人に与えているからです。
あらゆる神によって確信されたたましいはこれらの働きに採用される準備が出来ています。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章18節

あらゆる悔い改めた霊は事実、完全な滅びを知っています。
現実にすべての者は何の制限無しに聖霊のみこころによる確信の力の下に至っています。
彼らに封印がなされ、彼らのこころに霊感に満ちたこの声明を与えているのです。

「何の差別もありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章22節

もし、神の聖霊によって悟りを得ているのなら、最も精錬され、磨かれ、理知的な人です。
その人の上に神の光が輝いているように、私たちは十字架の上の強盗の立場と同じ立場を取ることは簡単です。
その時、隠された源泉が現わせられ、その人の中にある生まれつきの自分でも気がつかないような深い性質を見るように導かれるのです。
その性質にこれらのことの根と原因があるのです。
このように親戚、友人、そして、知人、単に見学者は表面的に判断して、とても良く出来た人格だと思っているのでしょう。
しかし、神の光に照らし、自分自身を良く知るのなら、ただこのように叫ぶのです。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章24節

「ああ、私はつまらない者です。」
新改訳聖書 ヨブ記40章4節

「ああ。私は、もうだめだ。」
新改訳聖書 イザヤ書6章5節

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」
新改訳聖書 ルカの福音書5章8節

これらは神によって確信させられた適切な発言なのです。
そして、その時、このようなことが私たち自身にとって真実で健全な表現であるだけありません。
私たちはキリストイエスの福音の中に開かれているように、神の恵みの豊かさを現実に認める準備をすることなのです。
恵みは本当の罪人を取り上げます。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節

私が私の失われた立場、私の希望の無い滅び、私の最も惨めな状態をより十分に理解します。
そして、わたしはより十分に神の救いの満ちた、かつ自由な場所に入ることができるのです。
その救いは十字架の血によって買われたのです。
ゆえに、私たちは十字架の強盗の救いの中にある恵みの光がいかに輝いているのかを知ることが出来ます。
ならば、神はこの強盗に対して失敗するようなことはありません。
この強盗には信頼すべき良き働きを持ち合わせていませんでした。
この強盗には慈善的な行ないはしていません。
バプテスマも主の晩餐にも預かっていません。
儀式も、セレモニーも、宗教的な定めもこの強盗には行うことができません。
一言で言うならば、この強盗について知る限り、この者は希望の無い者としか言えないのです。
この強盗には何が出来たでしょうか?
何処にこの強盗は立ち返ればよいのでしょうか?
この強盗の手と足は悪人が貼り付けにさせられる十字架に釘づけされています。
それはこの強盗がどこかに行くことも、何かをすることもできないということを語っているのです。
強盗の手、かつてこの手は暴力のために伸ばされて使われていたのです。
しかし、今、この手は木に釘付けされ、何もすることはできません。
強盗の足、かつてこの足は罪過の道を歩むために使われていました。
しかし、今、この足は木に釘付けされ、何処にも行くことはできません。

けれど、このことに心をとめてください。
この哀れな強盗はもはや自分の手と足を使うことをはできませんでした。
この手足を使ってもはや宗教的な働きなど行うことはできません。
しかし、この強盗の心と舌は自由であり、彼はこの心と舌うを使って信仰を働かせ、告白することが出来るのです。
ローマ人への手紙10章にはこのようにあります。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章10節

なんと尊いみことばではないでしょうか!
十字架の上の強盗にはなんと適切な言葉ではないでしょうか!
自分の身を滅ぼした助けの無い、そうすべてにおいて哀れな者にとって、なんと適切な、健全な言葉ではないでしょうか!
そして、私たちは十字架の上の強盗と同じ方法をによって救われなければならないのです。
天国へ行く二つの道はありません。
もし、天国に行く方法が宗教的、道徳的、パリサイ的、もしくはこのような方法でなければならないのなら、悪人が天国に行くことはできません。
しかし、そこにはもう一つの道があります。
そして、その方法とは、神の御座から邪悪な、罪と罪過の中に死んでいた罪人のところへ贖いの愛という足跡を残し、降りて来てくださったことに注目してください。
そして、そこから尊い贖いのキリストの血による御座へ帰っていかれたのです。
これが天国への道です。
その道は愛によって、血が流されてこそ可能だったのです。
そして、この道は地の果て果てから集められた贖われた喜びに満ちた聖い礼拝者たちによって歩まれています。
彼らはこのように天的な歌を歌っています。

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
新改訳聖書 黙示録5章12節

私たちは強盗の心が自由だと言いました。
その通り、彼は聖霊の偉大な行動の下に自由だったのです。
そう、その強盗の隣にいる幸いなる方に立ち返るために自由なのです。
その方をその強盗はののしっていたのです。
しかし、その強盗は今、悔い改めることができたのです。
そして、その方に対して、この強盗は人にも御使いにも今まで語ることの出来なかった最も尊い証言に至ったのです。
しかし、滅びゆく強盗のたましいにある神の御業の進展を注意深く見ることは最も教えられ、興味を持つことです。
実際、どんな者であっても、そのたましいに働かれる神の御業は最も深い関心事だと言えます。
私たちの中にある聖霊の導きを、私たちの中にあるキリストの御業と切り離して考えてはいけません。
そして、聖霊の働きとキリストの働きの両方が私たちのうちに立てられたということを知り、そして、私たちに働かれる神の永遠の護りについてこの二つは永遠に切り離されることがないのです。
このことは現実に、固く、神のものとして完全に立てあげられます。
人のためではありません。
初めから終わりまで、たましいの中において最初に確信が与えられた時からその確信に神の恵みの栄光ある福音のやわらかい光が十分に照らされるまで、すべてが神のために立てあげられるのです。
主がそれゆえに賛美されるのです。
例えて言うのなら、その被造物の中にある原子は初めから終わりまでそこにあるだけならば何の問題も起きません。
しかし、やがてその一つの原子は中性子化され、全体を破壊します。
その原子に価値を与えてはいけません。
今、悔い改めた強盗の場合において、今、永遠の聖霊がこの強盗に対して最初の接触があったことを認めることができます。
それは神の働きにおけるとても初期的な実です。
この言葉の中にこの強盗がキリストに従おうとすることが説明されています。

「おまえは神をも恐れないのか。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章40節

この強盗は「おまえは滅びをも恐れないのか」とは言っていません。
すべての場合において聖霊の聖別は主を恐れると言うことに証明され、自分の持っている悪に対して聖め嫌うのです。

「主を恐れることは知識の初めである。」
新改訳聖書 箴言1章7節

もし、彼に罪を嫌うこころの一欠片さえもなかったとしても、ここではさばきを恐れ、地獄を恐れ、罪の結果を恐れたでしょう。
しかし、どこにおいてでも神の聖霊はこころの内に現実に働いておられるのです。
聖霊は現実に神の側から見た罪に対する理解力とそのさばきを教えているのです。
これが「悔い改め」なのです。
読者は深く考えてください。
それはすばらしい現実であり、あらゆる場合においての優れた要素なのです。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

しかし、滅びゆく強盗のたましいにある神の御業の進展を注意深く見ることは最も教えられ、興味を持つことです。
実際、どんな者であっても、そのたましいに働かれる神の御業は最も深い関心事だと言えます。
私たちの中にある聖霊の導きを、私たちの中にあるキリストの御業と切り離して考えてはいけません。
そして、聖霊の働きとキリストの働きの両方が私たちのうちに立てられたということを知り、そして、私たちに働かれる神の永遠の護りについてこの二つは永遠に切り離されることがないのです。
このことは現実に、固く、神のものとして完全に立てあげられます。
人のためではありません。
初めから終わりまで、たましいの中において最初に確信が与えられた時からその確信に神の恵みの栄光ある福音のやわらかい光が十分に照らされるまで、すべてが神のために立てあげられるのです。
主がそれゆえに賛美されるのです。
例えて言うのなら、その被造物の中にある原子は初めから終わりまでそこにあるだけならば何の問題も起きません。
しかし、やがてその一つの原子は中性子化され、全体を破壊します。
その原子に価値を与えてはいけません。
今、悔い改めた強盗の場合において、今、永遠の聖霊がこの強盗に対して最初の接触があったことを認めることができます。
それは神の働きにおけるとても初期的な実です。
この言葉の中にこの強盗がキリストに従おうとすることが説明されています。

「おまえは神をも恐れないのか。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章40節

この強盗は「おまえは滅びをも恐れないのか」とは言っていません。
すべての場合において聖霊の聖別は主を恐れると言うことに証明され、自分の持っている悪に対して聖め嫌うのです。

「主を恐れることは知識の初めである。」
新改訳聖書 箴言1章7節

もし、彼に罪を嫌うこころの一欠片さえもなかったとしても、ここではさばきを恐れ、地獄を恐れ、罪の結果を恐れたでしょう。
しかし、どこにおいてでも神の聖霊はこころの内に現実に働いておられるのです。
聖霊は現実に神の側から見た罪に対する理解力とそのさばきを教えているのです。
これが「悔い改め」なのです。
読者は深く考えてください。
それはすばらしい現実であり、あらゆる場合においての優れた要素なのです。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

これ以上のことで得るものは何もなく、またわきに置いておくようなものは何もありません。
ある人たちは正しい事を行うことや、善を行う事を主張し、自分の無能な弁解を持ち出し、悔い改めという人の責任を取り除こうと試みるでしょう。
彼らは私たちに悔い改めが必要ないと説得しようとしています。
それは人に対して悔い改めること、信じることを求めるにあたって健全なことではありません。
人が自分自身では何もできないということを見てください。
しかし、それが問題なのです。
私たちが使徒のアテネにおけるメッセージから選び取ったみことばが教えていることは何でしょうか?
パウロは真実を語ったのでしょうか?
パウロの信仰は健全だったのでしょうか?
パウロは教理的に十分に満足していたのでしょうか?
パウロはその時、はっきりともっとも強調した方法を使って宣言しています。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

なぜ、誰か立ち返ってこのことを言うことができないのですか?
なぜ、神の命令に従おうとする責任を否定するようなことをあえてしようとするのですか?
もし、そうならば、この者たちはどこにいるのでしょうか?
それはとても危険な基礎の上にいるのです。
もし、神がすべての人に悔い改めを命じているのなら、それを拒む者には哀しむことでしょう。
そして、この哀しみ人たちは自分たちだけではなく、多くの人に悔い改める必要のなさを教えるのです。

私たちは新約聖書の光の中にある、偉大で実践的な問題を吟味することに時間を捧げてみたいと思います。
私たちは私たちの主と弟子たちが人々に悔い改めを要求しているかどうか見てみましょう。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

マタイの福音書の3章で私たちはこのように読みました。

「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

新改訳聖書 マタイの福音書3章1、2節

それはおそらく、バプテスマのヨハネは自分自身がイスラエルに対して特別な存在であることを言っているのでしょう。
このイスラエルの民は旧約の神との交わりを受け入れている民です。
そしてここにある節が悔い改めが継続し、不変的に必要であることを証明し、提示していると言うことは出来ません。
私たちは人に悔い改めの必要を説くためにユダヤ人であるか、異邦人であるかかかわらずにこの節を単に引用してくるでしょう。
この節は新約聖書において、罪人に悔い改めを要求してくる最初の悔い改めの声なのです。
では、ここにある悔い改めのためにバプテスマは正しいのでしょうか?
それとも間違っているのでしょうか?
バプテスマのヨハネが悔い改めを要求した時、彼は健全な教理の領域を侵したのでしょうか?
バプテスマのヨハネが語り、彼らが悔い改めることができるのだと思い込んで人々を導き、そして人々をだますためにヨハネがバプテスマを必要としたのだとして、私たちの時代のある神学者たちはこのバプテスマを無視してしました。
私たちはバプテスマに対する答えを聞かなければなりません。
しかし、私たちは悔い改めのメッセージに対する根拠として考えるのならば、バプテスマのヨハネよりも優れた実例を持っています。
マタイの福音書4章ではこのように書かれています。

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
新改訳聖書 マタイの福音書4章17節

あえて誰かが遠回りして、神のメッセンジャーに対して「私たちは悔い改めることができません。
私たちにはそのような力がありません。
私たちにはそのように答えることができません。」と言うでしょうか?
人々は論議し、理屈をこね、そして神学を語るでしょう。
そして、ここで私たちの前に置かれた生きた記録に出会います。
そして、どこにおいても人間が悔い改めが出来るかという問題をどのような方向から論議することなしに、イエスは民に悔い改めを要求しました。
イエスは人にその責任を説教しています。
イエスは人が自分自身で、自分の方法で、自分の罪を告白し、ちりと灰の中で悔い改めことを判断し、それを要求し、命令しています。

そこは罪人のためにある悔い改める唯一の真実な場所です。
そして、もし、罪人が神の恵みの悔い改めの場所を受け取ることを拒むのなら、神のさばきの現われを受け取るように強要されるでしょう。
神のさばきが現われた時、悔い改めてもすでに遅いのです。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

使徒の働きの最初を読むのなら、私たちはペンテコステの日におけるペテロのメッセージを聞く特権を持つことが出来ます。
このメッセージはいままでこの世界で語られたどのメッセージよりも実のあるメッセージとなりました。
3000人というたましいが救われた栄光ある結果がそこにあったからです。
ペテロは何を語ったんでしょうか?
ペテロはキリストを語り、すべての人に悔い改めを語ったのです。
その通り、割礼者に対する偉大な使徒は神の御前にある真実な後悔したこころ(キリストを十字架に架けてしまったという後悔)に自己審判を下すように、悔い改めを主張したのです。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

新改訳聖書 使徒の働き2章38節

そして、その後「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
新改訳聖書 使徒の働き3章19節

ペテロが人々に対して、悔い改めと改心を求めたのは正しいことでしょうか?
彼らは何もすることはできません。
私たちはペテロの答えを聞かなければなりません。
それは確かな答えです。
ペテロのメッセージは聖霊の力とともに語られ、それは確かな答えです。
聖霊はそれを保証し、それだけで十分なはずです。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

すべての者が神から拒絶され、悲しまなければなりません。
私たちはすでに異邦人の幸いなる使徒、神の教会に偉大な教師のメッセージについて述べてきました。
使徒自身、自分のエペソにおける職務について述べています。
そこで長老である聞き手に宣言しています。

「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。
人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」

新改訳聖書 使徒の働き20章20、21節

同様にパウロのアグリッパに対する鋭いメッセージにおいても、パウロは語っています。

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」
新改訳聖書 使徒の働き26章19、20節

このように、私たちは聖書から引き出された証拠、そのものを持っています。
私たちは変わることのない、そして、永続的に続く、悔い改めの必要性が証明され、決して否定することは出来ないのです。

「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

これは避けることのできない事実です。
人々がなぜこの悔い改めを無視してしまったか考えてみてください。
罪人が神へ悔い改め、立ち返る責任を否定する神学のシステムは健全ではありません。
罪人は悔い改めに出会う必要性があります。
しかし、私たちはそれを無視してしまいました。
しかし、その間違いさえも必要だったのでしょう。
私たちはこの悔い改めのというテーマに戻ることができたからです。
悔い改めた強盗の実例は、ペテロの重要な宣言をとてもよく描写しています。

「悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
新改訳聖書 使徒の働き3章19節

その私たちに対する教えは明確、かつ有効な方法です。
真実な悔い改めと改心の意味は二つの目的があり、ほとんど理解されていません。
偽の教えによって悲しくも曇ってしまったのです。
人のこころは悪い結果が起こると、神の方へと傾く傾向があります。
その時、そのこころは片側に傾き、その葛藤しやすいのこころの傾向によって、偽の神学に傾きやすいという習慣があるのです。
その道徳的な効果はたましいに何か恐れるを生じさせるでしょう。
このように、人々のこころに悔い改めが生じ、神へ立ち返るための福音メッセージが必要となるのです。
人々は何かを読んだり、祈ったり、宗教的な集まりや、儀式に目を向けたり、このようなものを行う必要を考えるでしょう。
彼らは自分が裁かれる立場であるということの代わりに、このようなことを行うことにこころが占領されてしまうようになります。
自分自身を行いによって義とする、その悪い神学の影響力との混合は致命的な失敗で終わります。
これらは尊い命に対して、盲目な、そして惨めな結果へと導く、根源となります。
そして、神の真実に対して致命的なダメージを与えることになります。
また、自分を義とするという服には様々な形があるということに気が付くことはとても素晴らしいことです。
実際、これらの形はいろいろな形を持ち、ほとんどそれが何なのか認識されることはありません。
時々、それはとてもみじめに見え、そしてとてずうずうしく悪と危険性をはっきりと示されるかもしれません。
反対に宗教的な体験と呼ばれる言い回しと衣装をまとうことを想像するかもしれません。
しかし、これらの行為によって自分自身がたびたび占領されてしまう結果となることを知っています。
また、その他の場合にも言えることですが、古くさい形式的な組織的神学自身が現わしていることは、たましいのつまずきの石であり、神の啓示を墓の中に隠してしまうようなことなのです。

悔い改めとは何でしょうか?
それは完全に自分の過去と歩んできた道を自分でさばくという偉大な要素の一つです。
それは自分を義とするという考え全体を完全に打ち壊すということはであり、自分が邪悪な者であり、滅び行く破産者であることを発見することです。
それは自分が堕落していること、邪悪で危険な者であることを理解し、こころと良心の上に神の聖霊とみことばの偉大な行動によって造り出される感覚です。
それは罪のゆえに心から悲しむことであり、罪自身を心から嫌うことです。
本当の悔い改めには他の特徴と要素が含まれているのは真実なことです。
そこには神について、世について、自分自身について自分の態度の変化があります。
そして、さらにそこには働きの深さと熱意にはさまざまな段階とあります。
しかし、悔い改めた強盗の物語に触れる時に、悔い改めに表わされている深く重要な特徴に対して、私たちは自分自身を押さえつけるのです。
それは一言でいうのであれば、自己審判という言葉に表わされるでしょう。
これは常に主張されなければならない事柄です。
現在のメッセージと教えにおいて多くが失われた悲しい見解であり、私たちは大いに恐れるべきことなのです。
もし、私たちが福音を単純に簡単に語ろうと努力をするならば、神が「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」ということを忘れてしまう危険の中にいることを覚えておくべきです。
新改訳聖書 使徒の働き17章30節

罪人は自分が罪人であること、邪悪な、そう地獄に行くべき罪人であることを感じなければなりません。
罪人は神の側から見て罪が恐ろしいものであることを感じなければなりません。
そう、恐ろしいのです。
罪はキリストの死をもって贖われなければならないのです。
そう、恐ろしいのです。
すべての死ぬ者は赦されることなく、必ず地獄に行く者です。
火といおうの燃える決して終わることのない永遠の火と闇の中で過ごさなければならない者なのです。

ここでは悔い改めには何のメリットもないことを知るべきです。
悔い改めは何かを立て上げたり、自慢することではないのです。
もし、そこで私たちの救い、義、もしくは私たちが神に受け入れられたということを土台にして悔い改めを求めようとするのなら、私たちは尋ねて見ようと思います。
もし、良心が破産状態ならその人に対する信頼を持つことができるでしょうか?
もしくは、そのような状態において、将来の運命を基礎を形成することができるでしょうか?
いいえ、読者のみなさん!
悔い改め、それはとても深く、強く形成されているのです。
しかし、悔い改めは私たちへの赦しの土台とは関係していません。
どうして、私たちは赦しを土台としての罪悪感を感じることができるのですか?
どうして、自分がおぼれているという感覚が、救命ボートのとともにその人を救うことができますか?
どうして、炎の上にある家の中にいる人の苦しみが、非難道具とともに働きその人を救うこと出来ますか?
その人はこの燃えている大きな家から出てこなければ逃げることはできません。

十字架に架けられた強盗の場合を見てみましょう。
強盗の言葉に耳を傾けてください。

「おまえは神をも恐れないのか。
おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」

新改訳聖書 ルカの福音書23章40、41節

ここに正しい悔い改めの強調点があります。
強盗は自分が裁かれるということを正しく理解していました。
強盗はただ「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」とだけ答えました。
ここに何か強盗に賞賛されるべきメリットがあったでしょうか!
ありえません!
これは彼自身が自分にさばきを下したのです。
自分の方法で、自分を罪の意識によって有罪判決を下したのです。
これは正しいことです。
これは彼のたましいにある聖霊の働きの実であり、この実によって彼は神の救いを認めることが可能となったのです。
このことは神への改心の確かな前兆となり、自分を有罪判決を下したという承認となりました。
そして、何よりも確かなことは、神の御前において自分の義を差し出すようなことはしなかったということです。
しかし、罪の意識したからといって、義の土台を形成することは不可能な事です。
それでも、そこには深く、よりよい方法で悔い改めが必要なのです。
すきが耕地を開拓し、深くあぜを掘り、堕落していない種は蒔かれ、根を伸ばします。
私たちはたましいに深くすきが入り、誰かが不平を漏らしたということを聞いたことがありません。
いいえ、私たちはより確信するでしょう。
私たちはより深く、自分が道徳的に破滅状態であることを知るようにと導かれるでしょう。
そして、すべての者に、すべて信じる者に、イエスキリストを信じる信仰による神の義の必要性をより確信するのです。
それでも、悔い改めが何かあれこれと行うことではないことを理解されてはいないでしょう。
強盗には何かしたでしょうか?
強盗は何か出来たでしょうか?
強盗の手足は動かすことが出来ません?
しかし、強盗には真実な悔い改めが出来たのです。
この強盗は悔い改めた強盗として歴史のページに残されています。
その通り、彼は悔い改めたのです。
そして、この強盗の悔い改めは誤ることなく自己審判を強調し、表現しているのです。

私たちはこのようであるべきです。
おそかれ、早かれ、ここにはさばきが下されなければなりません。
さばかれるのなら、早ければ、早いほど良いのです。
より深く、より良く。
そして、その時、何をすれば良いのでしょうか?
何が神の目的でしょうか?
「悔い改めなさい、そして改心しなさい!」
「悔い改めなさい、神に立ち返りなさい!」
美しい目的がそこにあるのです。
それは確信と改心です。
それは自分を見つけるということであり、自分が全滅であることを知ることです。
そして、神を見つけるということは、神の治療法を見つけることです。
それは自分自身を有罪であることを知り、神を義とすることです。
そして、自分が空であることを知り、キリストには満ちていることを見つけることです。

それは「わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう(KJV直訳:わたしがあなたを滅ぼす。しかし、あなたの救いは私にある。)」というみことばを適応し、そこにある力を学ぶことです。

そして、どのようにこの悔い改めが要約されているのでしょうか?
それはこの強盗の記録に含まれているのです。
すぐにこの強盗は自分の横で十字架に架けられた幸いな方に立ち返ることよりも、先に自分が有罪であると理解していることを表現します。
そして、この素晴らしい証しをしています。

「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章41節

ここにこの強盗はこの世界全体に対して、反論したのです。
強盗は祭司長、長老、律法学者と対立したのです。
彼らは犯罪者としてこの聖い方を引き渡し、宣言しました。

「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章30節

しかし、死ぬ直前の強盗は宣言しています。

「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章41節

このように、この強盗はしみなき人間性を持つ主イエスキリストを前にして、はっきりとしたこの明確な証言をしています。
彼は「この敬虔の奥義」の土台に置かれている壮大な真実を語り、自分の邪悪性からしみなきキリストへ立ち返っているのです。

「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

新改訳聖書 テモテ第一の手紙3章16節

そして、彼は栄光の主を十字架に架けた恐ろしい失敗を世に語っています。
この証言は良い働きだったのではないのでしょうか?
はい、その通り真実です。
誰もが出来る最高の働きです。
十分に、はっきりと、強くキリストを証言しています。
それは、どんな人間をも神に捧げることの出来ない、神の子供たちだけに許された最も満足できる、香ばしい香りの立つ礼拝です。
非常に多くの人たちが施すことに興味を持ち、慈善行為をするために、大陸を渡り歩くでしょう。
彼らは人生を宗教組織のために安易に働かせて過ごしています。
すべてこれらのことは満足されていますが、小さなゴミのように置かれています。
しかし、これらのことを、心からの、純粋な、聖霊の教える神の愛するこの証言であるこの一つのみことばと比較してしてください。
この哀れな強盗は何もすることはできなかったし、何も与えることはできなかったのです。
それでも、彼には最も豊かな、最高の権利を楽しむことが許されたのです。
それは多くのどんな人間にも楽しむことができる特権です。
その特権とはキリストを証しするということです。
しかし、もし、私たちがキリストを証しするのであれば、世全体はキリストを捨てます。
キリストの弟子の一人がキリストを否定した時、他の一人はキリストを売り、他の者たちすべてはキリストを捨てたのです。
キリストを証しすることこれが礼拝なのです。
礼拝と働き、天において記録され、記憶されることであり、れっきとした働きです。
その時、人間の才能と哀れみ深さを誇りとした記念碑は消え失せ、永遠の忘却の中に沈み込んでしまいます。
しかし、それは私たちは、死が定められた悪人の口から学ぶ、さらなるレッスンを持つことが出来るのです。
それだけではなく、彼は輝く、幸いなる主イエスキリストの証言をしています。
彼にとって、同様にキリストは主であり、王なのです。
そして、とても自然な見解なのですが、まさにこの瞬間に、この場面の真ん中で、彼は主としてキリストを認めただけでなく、王としての権威を認めただけではありません。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章42節

このことについて考えてみましょう。
その主張すべき考えの一つに、悔い改める前、この強盗は十字架で苦しむ救い主をののしっていました。
今、彼はキリストを主として、王として所有しているのです。
真実に、これは神の働きです。
確かにこのことは現実に改心した証拠であり、真実に神に立ち返ったのです。

「私を思い出してください。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章42節

この三つの結びついた金の鎖はなんと口にも言い表すことのできない尊いものなのでしょうか!
哀れな価値のない、邪悪な、地獄へ行くべき「私」を、この言葉「思い出してください」によって神の救い主と結びつけることは、なんと愛しいことではないでしょうか!
ここに永遠の命があるのです。
救い主と罪人は終わることのない永遠の救いに結び合わされています。
それは単純に出来ることではないでしょう。
人々は働きを、感覚を、体験を語るでしょう。
しかし、ここで神の単純さ、そして、神の目的にあって現わされた問題をここに提示することができます。

私たちはこの「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」という言葉の中に本物の悔い改めの持つ最初の実を知るでしょう。
新改訳聖書 ルカの福音書23章41節
単純ながら、力強いこの発言の中に霊的な改心の甘い結果を見ることができます。

「私を思い出してください。」
新改訳聖書 ルカの福音書23章42節

「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
新改訳聖書 使徒の働き3章19節

「悔い改めて神に立ち返り」
新改訳聖書 使徒の働き26章20節


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