メッセージTT 2002/5/15

キリスト教信仰(Christianity)とは何でしょうか?
ピリピ人への手紙 3章 by C.H.マッキントッシュ
(Christianity : What Is It?. Philippians 3)


私たちは聖書をどんな時代、状況においても、すべての要求に満たす、教会を導くものとして、最高の、完全な導き手として維持しようと努力しています。
私たちは今、神の優れた、道徳的なすばらしさ表現しようとキリスト教的信仰とは何かを、聖書の良く知られた箇所から説明し、考えてみようと思います。
そして、聖書自身がキリスト教と呼ばれるそのものであることを、そして、何か、特別な組織的に教えられた神学ではなく、私たちが読者にキリスト教信仰(Christianity)とは何かを推論してゆこうと思います。
今、ここでいうキリスト教信仰とは何か特別な人間の持つ信仰心ではなく、もしくはこれらの宗教的な立場を欲しがることではありません。
私たちは深くこのことに感謝します。
私たちはこれらの宗教的な組織、もしくは人間的に守られるためにこれらの組織に入ってはならないということを覚えておくべきです。
人間はこれらの神学において間違いを犯し、人間的な考えにおいて失敗します。
しかし、聖書とキリスト教的信仰は揺るがされることがなく、揺りがされることができません。
これは言葉にならない哀れみです。
誰が適切に宣べることができるでしょうか?
神学的な、そしてその道徳枠の完全な標準は備えられているということは、私たちが感謝していると言い切れませんがこのことがすばらしい特権となるのです。
私たちの所有する標準、それは祝福された神です。
聖書の中に、そしてキリスト教信仰の中に、聖書は私たちの目の前に広げられています。
人はこれらの信仰告白と呼ばれる信条を誤るかも知れません。
そして、これらの信条に伴う行為は失敗に終わるかも知れません。
しかし、いまだに聖書は聖書なのです。
いまだにキリスト教信仰(Christianity)はキリスト教信仰なのです。

今、私たちはピリピ人への手紙3章にて真実なるクリスチャンのモデルが私たちに与えられていると信じています。
そして、このモデルはすべてのクリスチャンに形作られています。
人は聖霊によって、ここにこの注意を提示し、このように言うことができました。
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章17節

もしくは、これは使徒として私たちのために、もしくは特に優れた賜物を受けたものとして、もしくはことばにならないほどの啓示を見る特権を持ったものとして語っているのではありません。
それはパウロ、使徒として、器としての賜物が与えられた者としてではありません。
この章の17節にて、私たちは聞きました。
これはクリスチャンとしてのパウロのことを言っているのです。
私たちは使徒としてのパウロの輝くべき履歴を追うことが出来ません。
私たちは第三の天まで引き上げられたパウロの後を追うことが出来ません。
しかし、私たちはこの世にあって、クリスチャンとして歩んだパウロの足跡を追うことが出来るのです。
そして、それは私たちのためであり、それはこの章の中で私たちは十分に味わうことのできることなのです。
これは単に歩むべき足跡だというのではありません。
これは私たちにとってスタート地点であり、ゴールだとも言えるのです。
もう一度私たちは考えて見ましょう。
最初に、これは私たちがクリスチャンの立つべき位置です。
次にクリスチャンの目的です。
三つ目にクリスチャンの希望です。
もし、神の聖霊が私たちに教えるのなら、
わずかな間ですが、私たちは最も重要な、そして最も興味深い位置に立ち止まることになります。
最初の点について言うのであれば、クリスチャンとして立つと言うことです。
この点について、この章から二つのことが言われています。
私たちはクリスチャンの立つ位置について話しているのではなく、それが何であるかを話しているのでもありません。
もし、そこに神の御前において自分の義を自慢することのできる者がいままでいたのなら、その人はパウロです。
パウロは「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。
きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」
と言うことができました。
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章4〜6節
これはパウロの誇ることのできた驚くべき義の一覧です。
人が肉を誇る仕組みを可能な限り、すべての事柄において表現したものです。
誰もタルソのサウルより優れている者はいません。
彼は純潔なユダヤ人であり、正しいユダヤ人組織に属する者でした。
歩みにおいてはケチの付けようがなく、激しいほどの熱心さと断固とした神への献身の思いがありました。
サウロはその原則に基づき、教会を迫害したのです。
彼はユダヤ人として、このユダヤ教の基礎が神の教会の新しい摂理によって攻撃されていると見たのです。
ユダヤ教とキリスト信仰が同じ土台、同じ考えの上に共存することは完全に不可能です。
ユダヤ人と異邦人はユダヤ教組織において完全に分離されているということは特記すべき事柄です。
後者のキリスト信仰において、この両者が一つの体に結合されたということも特記すべき事柄です。
ユダヤ教はこの両者の間に立つ壁を継続させようとしました。
キリスト信仰はこの壁を完全に廃止したのです。
それゆえ、サウロは熱心なユダヤ人として、神の教会を激しく迫害しなければならなかったのです。
「また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙1章14節
これがサウロのこのような宗教心を持っていたのです。
この高い目標に彼は達しており、達しようとしていたのです。
サウロは肉における自分の義(古い創造における義)を高く建てあげるためにあらゆる手段を尽くしました。

神の栄光の義の輝きの中に、自分自身が持つ律法の義を放り出してしまうまで、パウロにはこの義の魅力を持つことが許していました。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章7節
おそらく、私は主イエスキリストの優れた知識のゆえにすべてのことを損だと考えるでしょう。
私はキリストのゆえに私はすべてのことを失うことを苦痛と覚え、またそのように考えています。
しかし、それらはちり、あくたなのです。
私はキリスト得るために、そして、キリストにあって見つけるために...私の中には律法も義も正しいものなど何も持っていません。
しかし、私の持つ義はキリストを信じる信仰を通して与えられる、信仰による神の義なのです。
私たちはこの節から与えられる、すばらしく優れたことがあることがあることに心を留めなければなりません。
それは赦されるために邪悪な罪人がキリストの血のところへ行くということを言っているのではありません。
むしろ、それは律法主義者を追い出すことになるでしょう。
より優れたものを見つけたゆえに、自分の義をゴミとして歩むのです。
私たちはパウロが罪人であるということを強調して言う必要はありません。
パウロが自分を「罪人のかしら」と言っています。
しかし、もちろん、パウロ自身が尊いキリストの血のところへ行き、そこで赦し、平安を得て、神に受け入れられたのです。
このことは新約聖書の中にある多くの節にはっきりと私たちに教えられていることです。
しかし、この章の中で私たちにこのことを教えているのではありません。
パウロは自分の罪について話しているのではなく、むしろ彼が得たものです。
罪人としてのパウロが何か必要なもので満たされていたということではありません。
しかし、彼は人として、肉にある人として、古い創造にある人として、ユダヤ人として、律法主義者として、自分の利点で満たされていたのです。
しかし、真実に、最高の祝福は、パウロが自分の罪を十字架に持っていったことです。
神の罪の捧げものの血はこれらの罪を洗い去りました。
しかし、私たちはこの章の中で言われていることが、別のことが語られていると知ることができます。
私たちは律法主義者が自分の持つ義から振り落とされてしまったことを見ることができます。
その義は栄光あるキリストの復活と対照的に、自分の義が価値のないものとして、不必要なものとして見ることができたのです。
キリストこそがクリスチャンの義であり、新しい創造に属しています。
パウロは悲しむべき罪を持っていましたが、同時にキリストの義を誇っていたのです。
パウロは自分の良心に罪の咎めを感じていましたが、同時に彼の顔には勝利が輝いていました。
パウロははっきりと恥じていましたが、同時にはっきりと栄光に輝いていました。

しかし、ピリピ人への手紙3章には特別な点が示されています。
4〜8節において、パウロは罪人としてではなく、罪の赦しを得た者として、自分の邪悪さを晴らされた者として、恥を覆われた者として、また、律法主義者が自分の義を捨てた者として、律法学者が自分の栄誉を投げ出した者として、そして、自分の無益な栄光を放棄して者として、自分自身を描いているのです。
それは単純にパウロは真実な栄光、不滅の勝利、そして、誉れ高き、勝利に満ちたキリストの人格において終わりなき義を見つけることができたからです。
それは単にパウロのことだけではなく、すべての罪人には義が必要だからです。
実際、パウロ自身には義など持ち得ていなかったのです。
しかし、パリサイ人であったパウロは、キリストにあってパウロに現わされた義を選んだのです。
それは他の何ものよりも、無限な、栄光に満ちたことだったからです。
疑うことなく、このことは他の罪人と同様に罪人としてのパウロに必要なことでした。
その義は神の御前に立つことのできる義です。

しかし、それは今、私たちが読むこの章の中で私たちに教えられていることではありません。
私たちは読者がこのポイントを十分に理解しているかとても心配しています。
それは私の罪がキリストのところへ持っていかれているかという問題ではありません。
しかし、キリストの美徳は私をキリストのところへ引き寄せます。
真実に私は罪を持ち、私はキリストを必要としています。
たとえ、もし、私が義を持っていたとしても、私は自分の義を投げ出すでしょう。
そして、私は喜んでキリストの中に自分自身を隠すのです。
そのことは何か自分自身に義を持つということは肯定的に自分自身を失うことであり、キリストの中に私のために備えられた栄光ある義が恵みをもって提供されているということを見つけるためなのです。

エデンの園にいるアダムのようです。
彼は裸でした。
そして、彼は彼自身のために腰のおおいを作りました。
しかし、アダムはその腰のおおいを付けることによって彼自身は失われていたのです。
その後に神はアダムのために皮の衣を作りました。
その皮の衣はアダムの作った腰のおおいよりも確かによりよい方法だったでしょう。
アダムを考えるように、そしてパウロを考えるように、そして、聖書のページに記録されている神の御名によって呼ばれているすべての聖徒について考えるように、それは神の義の中に立つよりよい方法なのです。
これらの方法は律法の働きによる人間の義に立つことよりも信仰によって立つことなのです。
これは単に私たちの罪が取り除かれたという哀れみというだけではなく、神の提供する罪の治療方法なのです。
私たちの義は取り除かれました。
そして、その代わりに神の現してくださった義を受け取ったのです。
その時、このように私たちはキリストの中に立つクリスチャンの立場を見ることが出来ます。
「キリストの中にある者と認められ...。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章9節
これがクリスチャンの立場です。
これ以下ということはありません。
これより低いということもありません。
これと違っているということもありません。
キリストの中にある集まり、もしくは律法の中にある集まり、そして、何かの儀式の中にある集まりというのでもありません。
いいえ、「キリストの中にある者と認められる」ということです。
これはキリスト信仰(Christianity)に備えられているべき立場です。
もし、このことに手を加えるのなら、キリスト信仰とはまったく違うものになります。
その違う信仰は古代主義的な信仰、もしくは中世のカトリック的な信仰、もしくは現在主義的な信仰の中にも存在してます。
もし、「キリストの中にある者と認められる」ということと違う信仰があるのであれば、確かに言えることは、新約聖書の中に認めることのできないことです。
ゆえに、私たちは熱心に読者に勧め、私たちの示した最初のポイントを良く見てください。
キリストの中に私たちが立っているということです。
キリストが私たちの義なのです。
キリストは十字架に掛けられ、復活されました。
そして、栄光に満ちたキリストは誉れを受けたのです。
その通り、キリストが私たちの義なのです。
キリストの中に認められるというのが適切なクリスチャンの立場なのです。
それはユダヤ教でも、カトリック教会でもありません。。
もしくはそのほかの主義でも、どこかの教会の教会員になることでも、教団やグループに所属することでもありません。
それはキリストの中にあるということです。
これは実際的なキリスト信仰の偉大な土台なのです。
一言でいうのであれば、これがクリスチャンの立場なのです。

次に私たちは次の場所を見てみましょう。
それはクリスチャンの目的です。
ここ再び、キリスト信仰は私たちをキリストへと閉じ込めてしまいます。
「私は、キリストと....知って...。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章10節
これは真実なクリスチャンの呼吸です。
もし、クリスチャンの立場が「キリストの中にある者と認められる」ことにより置かれるのなら、その時、キリストを知るのです。
これこそがクリスチャンの適切な目的と言えます。
古代の哲学者は心酔者のように常に何かを聞いていることがモットーでした。
その才なるモットーは「自分自身を知れ」でした。
キリスト信仰は常に最高のモットーを持っています。
ここにその最高の誉れべき目的が示されています。
それはキリストを知ることだと私たちに語られています。
それはキリストが私たちの目的となること、キリストをじっと見つめることに執着することなのです。

これです。
これだけがクリスチャンの目的なのです。
何か、他の目的を持つのであれば、キリスト信仰ではありません。
ああ!残念ながらクリスチャンは他の目的を持っています。
そして、他に目的を持つことがクリスチャンにとって尊い目的だとなぜ私たちは言うのでしょうか?
このテキストを読むのなら、ここに私はキリスト信仰とはこれだと記しました。
他にクリスチャンの歩み道はないのです。
私たちは読者の見方を取り上げてみたいと欲する者です。
この問題は少なくとも何が問題だと言うことではありません。
もし、キリストでないというのなら、それはキリスト信仰ではありません。

訳者コメント:
多くの教会の看板は信仰とはキリストを見ることだと言うでしょう。
表向きは聖書信仰だと言うでしょう。
しかし、中身が違うのです。
まったく、違う信仰を持っているのです。
そして、多くの神学がありますが、残念ながらすべての神学が真実ではありません。
まず、理知的に、文字通りに読むことが大切です。
その上で大切なのはキリストを見ているかです。
(聖書には矛盾がありません。)
何も、概念無しに聖書を読む時(なんて多くの人たちが概念を先に聖書を読み込むのでしょうか!)、教えられた神学にたどり着くか、そして、キリストにたどり着くかです。
福音書におけるキリストの謙遜さ、無条件な哀れみ、そして、律法主義者たちへの怒り、十字架への道、何て多くの教えがキリストの歩みから離れてしまったのでしょうか!

「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章3節

真実なクリスチャンの願望はこれらのみことばによって具体化され教えられてきました。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章10〜11節
私の願望はこの世にあって何かを得ることことではなく、お金を得ることでもなく、高い地位を得ることでもなく、私の家族を大きくすることでもなく、私の名を広めることでもなく、偉大な人として、金持ちとして、人気のある者として見られることでもありません。
いいえ!
私の願望はこれらの中の何かを達成することではありません。
それはおそらく人のためになることかもしれませんが、このような目的が達成されたからといって、何も優れたことはないのです。
しかし、クリスチャンはキリストを得たのです。
ここには大きな違いが生じます。
自分の義としてキリストを知らない者が十分な良き働きをするかも知れません。
彼は自分自身のために義を働き、産み出すことができ、最高の働きをするでしょう。
しかし、彼は復活されたキリストの中に立っていないのです。
人は自分の努力によっては義は生じることはないというのは実に公平な考えです。
しかし、その人は実際には失われています。
これは今、考えられている問題において最も正確な出来事です。
しかし、この問題の言おうとしていることは、ここで何が有害がを問うことではありません。
クリスチャンの目的が何かと言うことです。
それを確かめることはとても良いことです。
私たちはキリストから目を離したり、いくつかの低いレベルの目的に目が据えられているという事実がクリスチャンの中に広まっているという現実に出会うかもしれません。
また、私たちはこれらのは低いトーンにて語られる現実をあてにして歩むかもしれません。
これらの目的は単なる世の人として、生まれながらの人として、もしくは古い創造と人の目的としては賞賛に値することかもしれません。
しかし、クリスチャンはこのようであってはいけません。
クリスチャンはこの世には属していないからです。
クリスチャンはこの世の中には存在しているのですが、この世に属していないのです。
私たちの幸いなる主は言っています。
「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章14節
「私たちの国籍は天にあります。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章20節
そして、私たちがキリストよりも何かレベルの低い目的を、私たち自身のためにそこに差し出したとしても決して満足することはないでしょう。
おそらく、その問題は人の置かれた立場がどこであるかを問いているのではないのです。
目的となるその人は単なるゴミ拾いであるか、もしくは君主です。
もしくは、その人はこれら二つの極端な事柄の間にどちらにも付けずに立っているだけです。
それでも、キリストはその人にとって現実であり、実際に唯一の目的なのです。
その人の目的、それはその人の置かれた立場ではありません。
それはその人に与えられた、その人の性格だと言うことができ、今、パウロの唯一の目的はキリストだということです。
パウロがそこに腰を据えたかどうかではなく、彼が旅行したかでもありません。
もしくは彼が福音を語ったかどうかではなく、彼が枝を集めたかでもありません。
彼が教会の基礎を植えたかどうかではなく、彼が天幕を作ったかでもありません。
キリストがパウロの目的だったのです。
夜であろうと、昼であろうと、家にいようと、外国にいようと、海に出ようと、陸にいようと、一人でいようと、仲間といようと、公の場にいようと、個人的に場所にいようと、パウロはこのように言うことができました。
「ただ、この一事に励んでいます。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章13節
そして、このことはパウロが働く使徒、第三の天まで昇った聖徒であるというだけではなく、彼は生きて、行ない、歩んだクリスチャンとして私たちは思い起こすことができるのです。
彼はこれらのみことばによって私たちに言及しています。
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章17節
私たちはこのこと以外の何か小さなことに満足してきたのではないでしょうか?
真実!私たちは悲しくも失敗してしまいます。
しかし、今、私たちは私たちの前に置かれた真実なる目的を常に守ってゆこうではありませんか!
パウロを手本として、フットボール選手の学生に例えることができます。
彼の目はフットボールのゴールラインに釘付けにされ、それを見守ることにより成功することを期待しているのです。
彼は最後に書かれた線を見る傾向があり、前に書かれた線を見ることよりも次の線を見ることは悪い結果を生じることになります。
このようなことは、私たちの場合にも言えることがあります。
私たちは幸いな、完全なゴールラインから目を離してしまうのです。
そして、私たち自身を見始めてしまうのです。
私たち自身から作り出される生産物を、そして、私たちの性格を、私たちの興味を、私たちの評判を見てしまうのです。
そして、私たちはキリスト信仰が現わす、さらにキリスト御自身に現われているこの目的に対して確実に目を据えようとする代わりに、ここでは私たちは何が私たちの持つ一貫した原則なのかを、そして告白、立場なのかを考え始めてみましょう。
しかし、ある人は言うかもしれません。
「どこで、私たちはこのことを見つけることができますか?」
いいでしょう、もし、ここでクリスチャンのランク付けがあり、その高いランクのクリスチャンの人たちによってこの目的が理解できるのだと教えているのであれば、今、この時にあって、それは難しいことになります。
しかし、私たちはピリピ人への手紙3章の中でそれを見つけることができます。
これで私たちは十分なはずです。
私たちはここで真実なるキリスト教信仰の模範を持つことができます。
さあ、私たちはそこだけに狙いを定め、進もうではありませんか!
もし、私たちが私たちのこころが他の事柄の後を進もうとするのなら、これらのものを裁く必要があります。
私たちは私たちの進もうとする線とゴールラインを比べてみようではありませんか!
そして、私たちが見本とする忠実な標本を熱心になって探そうではありませんか!
このように、私たちは絶え間ない失敗をなき悲しまなければならないかもしれません。
私たちは常に適切な目的で占められ続けられるべきです。
そして、このように私たちの性格が形成されてゆくのです。
ゆえに、この目的は決して忘れ去られることはありません。
このようにこのクリスチャンの目的は性格を形成するからです。
もし、お金が私の目的なら、私の性格は貪欲な性格になるでしょう。
もし、力なら、私は野心的です。
もし、本ならば、私は文学的になります。
もし、キリストなら、私はクリスチャンです。
ここにある問題は命とか、救いの問題ではありません。
実際のキリスト信仰(キリスト教信仰)という問題です。
もし、私たちが単純にクリスチャンとして定義するために尋ねるのなら、私たちはすぐに答えるでしょう。
クリスチャンという人間はキリストを目的とした人間です。
もっとも単純な答えです。
もし、私たちがこのようにその力を知るのであれば、多くの者たちに言いたいのです。
今日という日に、この地上にあって、健全な、そして活発にキリストの弟子としてのより自分自身を現わそうではありませんか!
私たちは前に置かれたこのクリスチャンの目的はこの広く、そして重要な目的ですが、軽率に見え、不完全な下絵に見えるかもしれません。
これらはクリスチャンの希望の上に引かれた、一本もしくは二本の線とともにあると言えるかもしれません。
私たちはこのテーマを閉じようとしています。
しかし、これが三番目のそして、最後のポイントなのです。
これは他の二つの事柄ように性格付けられた方法として、この章の中に現わされていることなのです。
クリスチャンの立場はキリストの中に認められるものなのです。
クリスチャンの目的はキリストを知ることなのです。
クリスチャンの希望はキリストのようになることです。
これら三つはなんと美しく完全な連なっているのではないでしょうか
私が私の目的としてキリストを願望すると、すぐに私は私の義のとしてキリストの中に私を見つけるでしょう。
そして、より私はキリストを知るようになるのです。
より、熱心にキリストのようになることを切望するようになるのです。
私がキリストのものとしてキリストに出会う時、この希望は現実であるということが理解できるのです。
完全な義を、そして完全な目的を持っています。
私はよりこのことを持とうとしています。
しかし、多くの事柄は私の目的であるこのキリストの出会うという目的を妨げるように思われますが、私は期待しながらもそれを待ちわびているのです。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章20〜21節

今、これらの事柄を連ねて書いています。
私たちは真実のキリスト教信仰を完成された見解としてこれを得たのです。
私たちは言及されている三つのどれかを詳しく述べようと試みることはできません。
なぜならば、そのことを真実に言うのであれば、それぞれのポイントを十分に取り扱うだけで本一冊分の分量が要求されるからです。
しかし、私たちは読者に読者自身のためにこの驚くべきテーマを追求することを求めてゆきたいのです。
クリスチャンの上にあるすべての欠点と矛盾点の上に読者は登って来て下さい。
この章における私たちの見解を現わすために、模範とされた人間の命と性格において証明された、キリスト教信仰の道徳的な素晴らしい標準に目を向けてください。
おそらく、読者のこころにこのような言葉があるかもしれません。
「多くの人たちが彼らが行ったように行っています。
私について言うのであれば、このような素晴らしい人たちが行ったことを見るだけでは私のこころは満足しません。
私はこれらの人たちから目を遠ざけてしまいましょう。
私はしっかりとキリスト自身の上に目を据えたいのです。
私の義として、私の目的として、私の希望として、キリストの中に私の喜びを見つけたのです。」
このようにこの著者と読者は実践してゆきたいと思います。
キリストを目的として....。

2002/5/23 終了


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