メッセージTT 2002/7/7

ヨハネの福音書注解 by ウォーレン.W.ワーズビー
(A Suggested Outline of John)


ヨハネの福音書注解の前置き

1、このヨハネの福音書のテーマ

A、重要な節
ヨハネの福音書 20章30〜31節
「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」


ヨハネの福音書のテーマはイエス・キリストが神の御子であることです。
この福音書はキリストの公生涯におけるしるしを取り扱っています。
この奇跡はイエスが神であることを証明しています。
これらの奇跡は信頼できる目撃者(キリストの弟子、もしくは他の多くの者たち)によって証明され、信じるに値するものです。
ヨハネは主としてイエス・キリストを信じ、キリストの御名を通して新しい命を受け取り者たちを求めています。

B、他の福音書との比較
最初の他の3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれています。
マタイ、マルコ、そしてルカは同じような方法でキリストの生涯を見ていますが、互いに強調点があります。
*マタイのの福音書はユダヤ人の王とイエス・キリストを描いています。
*マルコの福音書は仕える者として、ローマ人へとイエス・キリストを示しています。
*ルカの福音書は人の子として、ギリシャ人へとイエス・キリストを見せています。
*ヨハネの福音書は神の御子として、世界全体にイエス・キリストを現わしています。
最初の他の3つの福音書はキリストの生涯における主な出来事を取り扱っていますが、ヨハネは霊的な見地からこれらの出来事を取り扱っています。
ヨハネは他の福音著者には強調できない真実を深く、現わそうとしました。
実例として、5000人の給食についてすべての福音書の著者が記録していますが、ヨハネだけが福音書の6章において命のパンの偉大なる奇跡の意味をキリストの説教を通して私たちに与えているのです。
これはなぜヨハネが「奇跡」(miracle)という言葉を使わずに「しるし」(sign)という言葉を使ったのかその理由がここにあり、そのしるしである奇跡は霊的なメッセージを導き運ぶための手段であることが解かります。

C、キーワード
あなたがヨハネの福音書を読むときにこれらの言葉を繰り返し読んでください。
「命」、「信じる」、「光とやみ」、「真理」、「証言」、「世」、「栄光」、「受け取る」、「父」、「来る」、「永遠」。
これらのキーワードは福音のメッセージを要約しています。

II、ヨハネの福音書の中のキリスト
ヨハネはキリストの人格と同様にその働きのも強調しています。
ヨハネはイエス御自身が自分のことについて語ったこと、そして自分の職務について、様々なキリストの説教を報告しています。
*キリストの主張は七つの「私はある」という言葉に現わされている事に注意してください。

「わたしがいのちのパンです。」6章35節、41節、48節、51節
「わたしは、世の光です。」8章12節、9章5節
「わたしは羊の門です。」10章7節、9節
「わたしは、良い牧者です。」10章11節、14節
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」11章25節
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」14章6節
「わたしはぶどうの木〜です。」15章1節、5節

もちろん、これらはキリストの神性を表わしていることばです。
神の名前は「わたしはある」だからです。出エジプト記3章14節
キリストが自分自身のことを「わたしはある」として使っている他の場合に注意してください。

「女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。
その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです(わたしはある)。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書4章25、26節

「イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか(わたしはある)、」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章28節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです(わたしはある)。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章58節

「そのことが起こったときに、わたしがその人である(わたしはある)ことをあなたがたが信じるためです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章19節

「彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。
イエスは彼らに「それはわたしです(わたしはある)。」と言われた。
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
イエスが彼らに、「それはわたしです(わたしはある)。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書18章5、6節

あなたがこのことを知り、ヨハネの福音書を読むときに、キリストはまさに神の御子として来られたことを理解できるでしょう。

V、多くの奇跡がヨハネの福音書の中にキリスト行ったしるしが記されており、ヨハネはキリストの神性の証拠として7つのしるしを選んでいます。
(21章の中に8つ目のしるしが記されていますが、それは弟子たちだけに、そしてこの福音書の終わりを閉じるために形成された箇所である。)
これらの7つのしるしは特別な目的のために与えられたものである。
(4章54節では「またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである」と記されていることに注意してください。)
これらの多くは救いとは何かを描写するために与えられたのです。
そして、最初の三つのしるしはどのように罪人に救いが至ったのかを示す目的があったのです。

*1、水をぶどう酒に変える 2章1〜11節--みことばによって救いに至ること。
*2、王室の役人の息子の癒し 4章46〜54節--信仰によって救われること。
*3、病人の癒し 5章1〜9節--恵みによる救い
残り四つのしるしは、どのように信じる者の中に救いの結果が示されたかを示しています。
5000人の給食は6章の中にある命のパンの説教の土台となりました。
*4、5000人の給食 6章1〜14節--救いは人々を満足(贖罪)へと至らせます。
*5、嵐を静める 6章16〜21節--救いは平和に至らせる。
*6、盲人のいやし 9章1〜7節--救いは光へと至らせる。
*7、ラザロの復活 11章38〜45節--救いはいのちに至らせる。
もちろん、それぞれのしるしはキリストの神性を現しています。

「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章20節

「父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章36節

これらのしるしはキリストの説教を聞く、そして出会いの機会として同様に用いられました。
キリストの行ったしるしのゆえにニコデモはキリストの所へやって来ました。
病人の癒し(5章1〜9節)は5章10〜47節にある説教へと導きました。
5000人の給食は6章にある命のパンの説教の土台となりました。
癒された盲人の追放は良い羊飼いの説教を導きました。
しかしこの良き羊飼いは誰をも追放するようなことはしません。(10章)

IV、ヨハネの福音書の中で信者と不信者は福音書の一つの主要テーマになっています。
信仰と不信仰の間には衝突があります。
ヨハネはイスラエルの一部の拒絶が始まったことを示しています。
彼らはキリストを十字架に架け、拒絶の最高点に達するのです。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章11節

この福音書を通して、不信者の中に頑なさがより成長してゆき、あなたはその証拠を受け取ることをユダヤ人が拒絶してゆくことを見ることが出来ます。
その反面、キリストの弟子、貴族、そして、その家族、サマリヤ人、病人、盲人などの小さな集まりがキリストを受け入れてゆくのです。
これと同じ状況が今日においても見ることができます。
この世の多くがキリストを信じようとはしません。
しかし、どこにおいてもあなたは神の御子としてキリストを受け取り、証人として信じる人々を見ることができます。
5章において、キリストは安息日に盲人を癒したしるしの後で、ユダヤ人がキリストと討論をし始めたというアウトラインをあなたは注意して見るべきです。
7章から12章を通して、この対立がより激しくなってゆくことがわかるはずです。
あらゆる時にユダヤ人たちはキリストを捕まえ、もしくは石打ちにしようと試みているのです。
そのクライマックスは18章から19章の中に見られ、彼らはキリストを捕まえ、十字架に架けるのです。

ここには三つの危機的な出来事がヨハネの福音書の中に記されています。
(1)6章66〜71節において、多くの者がキリストが王になって欲しいと思った後で、キリストから離れ去ってゆきました。
(2)12章12〜50節において、人々はキリストを信じることを拒みます。
そして、
(3)19章13〜22節において、彼らはキリストを十字架に架けるのです。
最初の危機とは、多くの者がキリストが王になって欲しいと願いました。
しかし、彼らはキリストから離れ去ってゆきました。
2番目に彼らはキリストを王として歓迎しますが、後に拒みます。
そして、三つ目の危機とは彼らは「カイザルのほかには、私たちに王はありません」と叫ぶのです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章15節

キリストが道なのです。
しかし、彼らはキリストとともに歩くことはしませんでした。
キリストが真理なのです。
しかし、彼らはキリストを信じることをしませんでした。
キリストが命なのです。
しかし、彼らはキリストを殺しました。


ヨハネの福音書 1章

ヨハネの福音書のテーマはイエスが神の御子であることです。
「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書20章30〜31節

そして、この最初の章において、ヨハネは自分が言おうとしているその主張を証明しています。
あなたがこの素晴らしい章を読むように、何の助けなしにキリストが神の御子であることを知ることが出来ます。
ゆえにキリストが働いた御業、そして、ヨハネが個人的に知り、宣言しているようにキリストが誰であるかを、その御名と称号を認めるように至らせているのです。

T、キリストの御名は彼が神の御子である証明です。
A、キリストはことばです。

私たちの心と思いが私たちの言葉によって表現される様に、キリストは神の心と思いを表現しました。
「わたしを見た者は、父を見たのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章9節
言葉は手紙を構成しています。
そして、キリストは「アルファであり、オメガである」方です。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録22章13節

キリストは神の愛を私たちへと伝えたのです。
創世記の1章の中で、神は神のことばを通してすべての被造物を創造されました。
そしてコロサイ人への手紙1章16節、ペテロの手紙第二3章5節においても、この言葉はキリストであることを示しています。

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章16節

「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって...。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章5節

もう一方の見方をするのであれば、自然と歴史を通して神の存在の一部を知ることができます。
そして、キリストが神の御子であることを聖書を通して十分に知ることができるのです。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章1、2節

キリストは恵みと真理をもたらした言葉として知ることができます。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節

「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章17節
しかし、もし、人々がキリストを受け取らないのであれば、同じこの言葉である方が怒りと裁きへと人々を至らせるのです。

「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録19章13節
聖書とは神のことばを書いたものです。
そして、キリストは生きておられ、神のことばが受肉されたのです。

B、キリストは光です。
ヨハネの福音書1章4〜13節

神の創世記1章における最初の創造の御業は光を創造でした。
命には光が必要なゆえです。
イエスは真実な光であり、すべての光の根源であり、光の起源です。
ヨハネの福音書の中で、あなたは光(神、永遠の命)とやみ(悪魔、永遠の死)との対立を見ることが出来ます。
このことは1章5節の中で示されています。

「光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章5節

「光はやみの中に輝いている(現在時制)。
やみはこれを捕らえることができなかった(もしくは理解することができなかった。」
直訳 ヨハネの福音書1章5節

次の箇所に注意してください。
「そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。
その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章19〜21節

「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章12節

「わたしは光として世に来ました。
わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章46節

コリント人への手紙第二4章3〜6節にやみである罪人の心の中へと輝く、光の入口としての救いが描写されています。

「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二4章3〜6節

C、キリストは神の御子です。
ヨハネの福音書1章15〜18節、30〜34節、49節)

キリストは神の御子であるということは、ユダヤ人がキリストを迫害しようとしたした要因となりました。

「わたしと父とは一つです。」ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
イエスは彼らに答えられた。
「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。
そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
ユダヤ人たちはイエスに答えた。
「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。
冒涜のためです。
あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
イエスは彼らに答えられた。
「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章30〜36節

ヨハネの福音書の中で七人の人物がキリストを神の御子と呼んでいることに注意してください。

1、バプテスマのヨハネ
「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章34節

2、ナタナエル
「ナタナエルは答えた。
「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章49節

3、ペテロ
「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章69節
訳者注)"You are the Christ, the Son of the living God."(NKJV)
直訳 「あなたはキリスト、生きている神の御子です。」
新改訳の訳の方が正しい直訳です。


4、癒された盲人
「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。
「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。
「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。
「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章35〜38節

5、マルタ
「彼女はイエスに言った。
「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章27節

6、トマス
「トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章28節

7、使徒ヨハネ
「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書 20章30〜31節

罪人はキリストが神の御子であることを信じることなしに救われることはありません。

D、キリストはメシアです。
ヨハネの福音書 1章19〜28節(35〜42節)
「キリスト」は、メシア(油注がれた者)を意味します。
ユダヤ人たちはメシアが現われることを期待していました。
ユダヤ人たちはこのことをヨハネに質問したのです。
サマリア人たちでさえ、イエスをキリストだと考えました。
多くのユダヤ人たちはイエスをメシアだと告白する者たちを、シナゴーグから追い出しました。

「すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章22節

E、キリストは神の小羊です。
ヨハネの福音書 1章29節(35〜36節)
ヨハネはイサクの質問の答えを告知しています。

「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
新改訳聖書 創世記22章7節

旧約聖書の歴史の中には多くのほふられた羊がありました。
しかし、キリストは唯一、一つの神の小羊です。
幕屋、もしくは神殿において、ほふられた羊の血は罪を覆いました。
しかし、キリストの血は罪を完全に取り去るのです。

「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章1〜4節

この小羊は旧約聖書の時代イスラエルのためだけに捧げられたものです。
しかし、キリストは全世界のための罪のために死なれたのです。

F、キリストはイスラエルの王です。
ヨハネの福音書 1章43〜49節

イスラエルの人々はローマの支配に疲れ果て、王を欲しがっていました。
イエスがイスラエルの者たちに給食を与えた時、彼らはイエスに王にしたかったのです。

「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章15節

しかし、後にイスラエルの人たちは彼から離れてゆきます。
イエスは自分自身をイスラエルの王としてご自身を現わしています。
「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。
そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章12、13節

しかし、祭司長は言いました。
「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章15節

G、キリストは人の子です。

この人の子という名称はダニエル書7章にある記述で、ユダヤ人なら誰でも神のことを記述していることを知っていました。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

新改訳聖書 ダニエル書7章13、14節

ユダヤ人たちの質問はヨハネの福音書12章34節にあることに注意してください。

「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。
その人の子とはだれですか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章34節

キリストはヨハネの福音書1章54節で創世記28章10〜17節にある「ヤコブのはしご」をほのめかしています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章54節

「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。
一つのはしごが地に向けて立てられている。
その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

新改訳聖書 創世記28章14節

キリストは地と天の間にある「神のはしご」です。
神を人に現わし、人を神の元へと連れてゆくのです。

B、キリストは人に救いを与えます。

キリストは自分の所有する世に来られたのに、自分の所有する民(ユダヤ人)はキリストを受け取りませんでした。
罪人がキリストを信頼するその時、救いは無料のプレゼントです。
「信じる」と「受け取る」は同じことを表現しています。
新しく生まれるということは人の血、もしくは肉、もしくは人の思いによって起きるのではありません。
ただ、神から起きるのです。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節

C、キリストは神の現われです。
キリストは神の恵みと神の真実の現われです。
モーセは律法を与えましたが、罪とその罪の結果である裁きを招きました。
キリストは真実であるその罪の贖いを現わしました。
律法はキリストへと導いたのです。

D、キリストは聖霊でバプテスマを授けます。
(ヨハネの福音書1章33節)
私たちはこの章の中で三位一体の神を見ることができます。

御父、御子
「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節
「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章18節

そして、聖霊
「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
私もこの方を知りませんでした。
しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。
『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
私はそれを見たのです。
それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章32〜34節

聖霊が下ることにより、ヨハネにイエスがキリストである確認をさせました。
そして、今日において、聖霊が私たちの目を開けることなしに、私たちは真実にキリストを見ることはできません。

E、キリストは本質的な人の知識を持っています。
(ヨハネの福音書1章42節、47〜48節)
キリストはペテロとナタナエル自身よりも彼らのことを良く知っていました。
神だけが人々の心を見ることが出来たのです。

「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。
なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである」

新改訳聖書 ヨハネの福音書2章23〜25節

F、キリストは罪を赦します。
(ヨハネの福音書1章29節)
この地上で誰も人の罪を取り去ることはできません。

G、キリストは天国への道を開き、キリスト自身が天への道なのです。
(ヨハネの福音書1章50〜51節)
創世記のヤコブのように、罪人は罪の夜にあって住むべき家を離れています。
しかし、キリストは私たちのために天の栄光を現わしと天への道を開き、天へと私たちを入れるのです。
キリストは神の「栄光への階段」です。

V、ヨハネが使う証言(証し)という言葉はヨハネの福音書の中で何度も使われていますが、この証言(証し)という言葉にこそキリストが神の御子であるということが証明されているのです。

「この人はあかしのために来た。
光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
彼は光ではなかった。
ただ光についてあかしするために来たのである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章7、8節

「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。
「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。
私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章15節

「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章28節

「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。
わたしについて証言する方がほかにあるのです。
その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。
--中略--
しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。
父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。
あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章31〜37節

「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章18節

「あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章27節

「イエスは彼に答えられた。
「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。
しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書18章23節

この聖書の証言は信頼できるものです。
それは彼らはキリストと個人的な接触があったからです。
彼らは人から何も得たものはなく、キリストの証言によって多くの得たのです。
(彼らがそのために苦しんだのは事実です。)
彼らがうそをついたという証拠は何処にもありません。
彼らの証言は今日、法廷に持ち込んでみましょう。
これらの証人は次の通りです。

A、バプテスマのヨハネ

「この人はあかしのために来た。
光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章7節

「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。
「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。
私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章15節

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章29節

「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。
わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章33〜35節

B、使徒ヨハネ
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節

C、旧約時代の預言者たち
おそらく、ピリピがナタナエルを見つけた時、ナタナエルはモーセの書を読んでいたのでしょう。

「私が『私のあとから来る人がある。
その方は私にまさる方である。
私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章30節

「彼はナタナエルを見つけて言った。
「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章45節

D、聖霊
「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。
『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。
それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章33、34節

E、アンドレ
アンドレは魂の勝利者です。
彼の勝利は地元にて始まったのです。

「イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章40、41節

F、ピリピ
ピリピは神のことばによって自分の証言を支持しています。
そのすべての証言が神のことばという賢い手段によってなされています。

「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章45節

G、ナタナエル
「ナタナエルは答えた。
「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章49節

ヨハネとナタナエルはバプテスマのヨハネという説教者を通して救われました。
ペテロはアンドレの個人的な働きによってキリストを見つけました。
ピリピは個人的にキリストによって召されました。
そして、ナタナエルは聖書の言葉とピリピの働きによってキリストを見つけました。
神は神の御子へと人々を至らせるために違った人々、そして状況を使います。
キリストは無限の多様性を持った神です。


ヨハネの福音書 2章


あるいくつかの教会では、イエスが子供だったころ奇跡を行ったという偽りを教えています。
しかし、ヨハネの福音書2章11節の中で水をぶどう酒に変えたのがイエスの奇跡の始めであるとはっきりと述べています。
ヨハネはイエスが神である証拠を述べるためにこれらのしるしを心の中に記録していました。
それは人々がキリストを信じ、救われるためです。
私たちはこのディスペンセーショナル・レッスン(聖書を時代区分して理解する方法)を学ぶためにこの最初の奇跡を三つの方向から学ぶことができるでしょう。
ここにイスラエルの失敗、そして、教理的レッスン(どのように罪人が救われるか?)、また、どのようにキリストに仕えることができるのか実際的なレッスンを学ぶことができます。

1、ディスペンセーショナル・レッスンはイスラエルの失敗を教えています。
(ヨハネの福音書2章1〜12節)
イスラエルは自分たちのために来られたメシアを知らなかったのです。
「ヨハネは答えて言った。
「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章26節
この婚礼の祝いはイスラエルの国家の描写です。
人々が提供したぶどう酒は飲み尽くされました。
そして、この婚礼の祝いを助けるためにイスラエルのメシアはそこに立っていたのです。
六つの石の水がめこの婚礼の祝いを清めるために使われていました。
(マルコの福音書7章3節参照)
しかし、このユダヤの儀式は霊的に破滅した国を助けることはできませんでした。
ぶどう酒がなくなった時、そこには喜びも希望もありませんでした。
(ぶどう酒は旧約聖書の中で喜びの象徴です。
詩篇104編15節、そして士師記9章13節を見てください。)
イスラエルの人々は外面的には儀式を持っていました。
しかし、これらの儀式の中には満足させるものは何もなかったのです。
キリストはある日、このイスラエルに喜びを与えるでしょう。
(イザヤ書54章、ホセア書2章参照)
その時、ぶどう酒は満ち溢れ、キリストの栄光は現れます。
(ヨハネの福音書2章11節参照)
その日が来ていなかったので、このようにキリストは言わなければなりませんでした。
「わたしの時はまだ来ていません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書2章4節
イスラエルの国はキリストを拒みました。
キリストが栄光と力を持って来られるその日まで彼らはキリストを受け取ることはしません。

2、教理的レッスン(どのように罪人が救われるか?)

もし、あなたがヨハネの福音書を手短に紹介するのであれば、あなたは七つのしるしを通してどのように罪人が救われるかを語ることができるはずであり、キリストの生涯全体から教えられることです。
そして、特にこの最初の奇跡は神のみことばを通して救いに至ることを私たちに教えています。
この象徴的な点に注意してください。

A、乾いた人たち

これは今日にあって、この失われた世界を描写しているのではないでしょうか?
この人たちはこの世の喜びを飲み欲していたいます。
しかし、誰も個人的には満足してはいないのです。
彼らは何によって満たされてようとしていたのでしょうか?
結論から言えば、彼らのぶどう酒のたるは空っぽになってしまったのです。

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書4章13〜14節

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書7章37〜38節

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。
金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」」

新改訳聖書 イザヤ書55章1節

「渇く者は来なさい。
いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」

新改訳聖書 黙示録22章17節

B、空っぽの水がめ
人間のかたくなな、からっぽのこころを表しています。
神のみことばは人間を器と比較して表しています。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙4章7節

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。
また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。
すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

新改訳聖書 テモテ人への手紙第二2章20〜21節

人のこころは見かけは魅力的に見えることもあります。
しかし、神の奇跡の働くことがなければ、神は人のこころを空っぽで、無益なものとして見ているのです。

C、満たされた水
水は聖書の中で、神のみことばによって「洗われる」ということをイメージしています。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章26節

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章3節

すべてのしもべが空っぽの石がめを水で満たそうとしています。
しかし、それらは神のしもべがみことばを信じない心で満たされようと努力しているようです。
魂を救うことは私たちの仕事ではありません。
私たちの仕事はみことばを人々に与えることであり、救いの奇跡をキリストに行わせることなのです。

D、水をぶどう酒に変える
罪人の心がみことばで満たされた時、キリストは奇跡を行うことが出来、喜びに至ります。
使徒の働き8章26〜40節にて、ピリピはエチオピア人をみことばで満たしました。
そして、その時、その人は信じ、救いの奇跡が起きたのです。
エチオピア人は喜びに満たされて帰路につきました。

「律法はモーセによって与えられ...。」と書かれたいるのに注意してください。
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章17節
旧約の時代においては水が血に変えられました。

「主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。
あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。
そうすれば、それは血となる。」

新改訳聖書 出エジプト記7章19節

しかし、キリストは水をぶどう酒に変えました。
そのことはすべてのことをキリストが恵みと喜びに変えることを表しています。
ぶどう酒は聖霊を象徴しています。

「また、酒に酔ってはいけません。
そこには放蕩があるからです。
御霊に満たされなさい。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙5章18節

E、三日目

これはキリストが三日目に死者の中からよみがえったという復活の予兆です。
1章43節に「その翌日」とありますが、一章においてヨハネが書いた日から四日目ということになります。
一日目--19〜28節
二日目--29〜34説
三日目--35〜42説
四日目--43〜53説
ヨハネが新しい創造(コリント人への手紙第二5章17節)の最初の週を、おそらく、創世記の1章を意識して書いたのでしょう。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章17節

F、最初のしるし

救いとは最初の奇跡です。
なぜならば、その人が救われたあと、神はご自身のためにもう一つ別の奇跡を行います。
その奇跡とは神の栄光を帰すという奇跡を私たちは経験するのです。

3、実際的なレッスンA--どのようにキリストに仕えるか?

キリストに仕えるすべての者によってマリアの言葉は吟味されなければなりません。
「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書2章5節

これらの石がめに水を満たすことはしもべにとって愚かなことに思えたかも知れません。
しかし、神は大きなことを混乱させるために愚かなことを使うのです。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章27節

もし、私たちが人が救われたいと思うのなら、私たちはキリストに従い、神のみことばをを人に与えなければなりません。
娯楽、レクリエーションを人に与えたとしても魂は救われません。
しかし、みことばを語り、教えるのなら人は救われるのです。
もし、私たちがそのことにわずかにでも携わることができるのなら、キリストはそのすべてを行ってくださるのです。
しもべはそのぶどう酒がどこから来たのかを知っていました。
しかし、祝宴に招かれていた多くの人たちはそのぶどう酒がどこから来たのか知りませんでした。
人がキリストに仕える時、そのしもべとはしためはキリストの秘密を知ります。
私たちはキリストのしもべであり、友人なのです。
そして、キリストは私たちに彼が何をしたかを話してくれます。

「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」
新改訳聖書 アモス書3章7節

「花嫁を迎える者は花婿です。
そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。
それで、私もその喜びで満たされているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章29節

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。
しもべは主人のすることを知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。
なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書15章15節

このもっとも偉大と呼ばれる祝宴の上座に招かれるよりもキリストの奇跡をともに分け合うことが、キリストの謙遜なしもべとしてもっともふさわしいことなのです。
私たちはキリストに仕えるあらゆる機会(時が良くても悪くても)を用いることができます。
キリストはこの婚宴の席に神の御栄光を現したのです。


ヨハネの福音書 3章

この3章はヨハネの福音書の中でもっとも重要な箇所と言う事が出来るでしょう。
それは新しく生まれるというテーマを実際に扱っているからです。
いくつかの一般的な教会のメンバーはこのテーマについて混乱しています。
このような教会組織のリーダーたちはまるでニコデモのように見えることもあります。
彼らは新しく生まれるという考えさえ持っていません。

1、新しく生まれるという必要性

A、神の御国を見る(経験する)ために必要である。

「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章3節
ニコデモは道徳的な人であり、宗教的な人であり、ユダヤ人の教師のリーダでした。
しかし、ニコデモは新しく生まれるという真理について理解していませんでした。
罪深い肉の思いによってはこの霊的な真理は理解されることはありません。
ニコデモは「夜、イエスのもとに来て言った」と書かれています。
象徴的な意味では彼は「救われていない人間」を取ることができます。
ニコデモは霊的に闇の中にいるのです。

「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙4章18節

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二4章6節

宗教的であることと道徳的であることは人間にとって天国に適応することではありません。
ニコデモは新しく生まれなければなりませんでした。
彼はもう一度(上から)生まれなければならなかったのです。
そして、彼は霊的なことと肉体的なことを混乱させていました。

「ニコデモは言った。
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。
もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章4節

ニコデモは新しく生まれるということを肉体的に考えていたのです。
しかし、キリストは霊的に生まれるということを語っていたのです。
私たちすべては罪の中に生まれた者です。
私たちの最初の誕生の結果、私たちはアダムの子孫として生まれてきました。
それは私たちが神の怒りと不従順の中に生まれてきたことを意味しています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節

教育、宗教の熱心さ、もしくは戒律は古い性質を変えることは出来ません。
私たちは神から新しい性質を受け取らなければなりません。

B、新生は神の御国にはいるために必要です。

イエスはここで「神の御国」という言葉を地上にある政治的な王国を指していませんでした。
パウロはローマ人への手紙14章17節で神の御国について説明しています。

「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙14章17節

罪人がキリストに信頼を置く時、その者は男女を問わず、神の御国、もしくは神の家族に入れられたのです。
ニコデモの多くのユダヤ人の友人たちのように、ニコデモのユダヤ人として生まれてきました。
そして、律法に従って生活をし、神に満足されようとしていました。
「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。
「まむしのすえたち。
だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。
あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」

新改訳聖書 マタイの福音書3章7〜10節

「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。
あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」 イエスは彼らに答えられた。
--中略--
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。
しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。
--中略--
彼らは答えて言った。
「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。
「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章33〜39節

創世記3章においてアダムが罪を犯して以来、すべての人はパラダイスの外で生まれました。
新しく生まれた者だけが神の御国に入れるのです。

2、新しく生まれた者の性質(ヨハネの福音書3章6〜13節)

A、新しい誕生は霊的な誕生です。
(ヨハネの福音書3章6〜7節)

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章6〜7節
肉で生まれた者は肉(古い性質)です。
肉は常に肉です。
そして、神の怒りの下にあります。
霊で生まれた者は霊です。
そして、霊は永遠です。
新しい性質についてペテロの手紙第二1章4節に記されています。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。
それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章4節
あなたは霊的な誕生を物理的な方法によって得ることはできません。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章5節

なぜ、5節に水によって生まれると書かれているのでしょうか?
この水を物理的なものとして適応したいゆえにバプテスマを意味しているのだろうと解釈しますが、この水は文字通りの水を意味しているのではありません。
バプテスマという行為が決して霊的な誕生に至らせるのではありません。
ヨハネの福音書1章11〜13節、そして6章63節を再び読んでみましょう。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章11〜13節

「いのちを与えるのは御霊です。
肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章63節

水によって生まれるということは水のバプテスマを述べているのではありません。
バプテスマは聖書の中で、「死」を表しているのであって、誕生を意味しているのではありません。

「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章3節

もし、バプテスマが救いのために必要なものであるならば、旧約聖書に出てくる者たちは誰も救われることはありません。
律法の下にはバプテスマは存在していません。

偉大なる使徒がヘブル人への手紙11章の中で信仰によってすべての者が救われることを語っています。
救いは働きによるのではありません。
バプテスマを施すという行為は人の働きです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章8〜10節

キリストは救いのために来られたのです。
バプテスマを施すために来たのでありません。

「イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、...。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章2節

もし、バプテスマが永遠の命のために必要なのであれば、パウロはなぜもっと多くの人にバプテスマを施すことを喜びとしなかったのでしょうか?

「あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。
私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。
それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。
私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。
キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章13〜17節

これらのことは何を意味しているのでしょうか?

*神の霊
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章6節
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章63節

*神のことば
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章23節
「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。
私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」

新改訳聖書 ヤコブの手紙1章18節

5節にある「水」は物理的な誕生を述べています。
(すべての赤ん坊は水によって生まれたのです。)
そのことをニコデモは4節の中で話しています。
人が新しく生まれる時、神の霊は神のことばを使い、人が信じる時に信仰を創り出し、新しい性質を分け与えるのです。
聖霊は他の人にみことばを述べ伝えるとき普通はクリスチャンを使います。
しかし、聖霊が命を分け与えるのです。

「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。
この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一4章15節

B、新生は不思議な誕生です。

誰も風を説明することができません。
そして、誰も聖霊の働きを説明することはできません。
聖霊とクリスチャンは風のようです。
聖霊の働きによって新しくされなければ真理を知ることができないことをニコデモは律法の中で教えられていました。
エゼキエル書37章にそのことが描かれています。

C、新生とは現実に生まれることです。

多くのことが不思議でしょうが、現実なのです。
イエスは新生が幻想でないことをニコデモに確信させました。
新生は現実の出来事です。
もし、人がキリストのことばを信ぜずにキリストを受け取らないのならば、誰であろうと新生がどのように現実であるか、そしてどのように素晴らしい事なのかを発見することはできません。

3、新生の基礎(3章14〜21節)

A、キリストが死ななければならないこと(14〜17節)

キリストは再びニコデモに旧約聖書から述べています。
民数記21章の青銅の蛇について語っています。
蛇はユダヤ人たちに噛み付き、彼らを殺したのです。
モーセは青銅の蛇を作り、この問題について彼らに奇妙な予想もつかない解答を与えました。
信仰をもってこの蛇を見上げた時、ユダヤ人たちは癒されたのです。
同じような方法をとって、キリストは私たちのための罪とされたのです。
この罪は私たちを殺します。
信仰をもってキリストを見て、私たちは救われたのです。
青銅は裁きを象徴的に表しています。
そして、キリストは十字架の上に上げられた時、キリストは裁きを経験したのです。
キリストは人が新しく生まれることが出来る前に死なれたのです。
キリストの死は命をもたらしました。
イエスはこの逆説から真理を提示したのです。

B、 罪人は信じる必要があります。

キリストを信じる信仰とは救いの唯一の手段です。
民数記21章にあるモーセへの神の命令はモーセに蛇を殺せ、傷に薬を塗れ、ユダヤ人をかまれることから保護をするように試みるような命令ではありませんでした。
この命令はモーセが青銅の蛇を高く上げ、人々に信仰によって見上げるように語ることでした。
見上げないことは裁きを意味しました。
信仰は救いを意味しています。
ヨハネはここで1章4〜13節に戻り、象徴的な光と命、闇と死を示しています。
罪人たちは単純に闇の中を生きていて、闇を愛しています。
そして光が来るのを拒みます。
光は彼らの罪を示し、罪を赦すことができます。

4、新生についての混乱(3章22〜36節)

25節はこのようにも翻訳することができます。
「それで、ヨハネの弟子たちとユダヤ人との間できよめの儀式について論議した。」(強調して翻訳して)
このユダヤ人は、その後いまだに真理を追い続けているニコデモだったでしょうか?
今日において多くの人々のように、おそらくニコデモはバプテスマと宗教的な儀式について混乱していたでしょう。
おそらく、ニコデモは水によって生まれるということをバプテスマ、もしくはいくつかのユダヤ人のきよめの儀式のことを意味していたと考えたのでしょう。
バプテスマのヨハネがどのようにユダヤ人たちにキリストを指し示したかを思い出してください。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章29節

もし、バプテスマが救いのために必要であるならば、聖書にバプテスマが救いに必要であると書かれているはずです。
しかし、何も言われていません。
その代わりに信じることが強調されています。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章36節

これはニコデモが闇から出て、ついに新しく生まれたクリスチャンになったことの証明です。
ヨハネの福音書3章において、ニコデモが闇の混乱の中にいることを見ることができます。
ヨハネの福音書7章45〜53節の中で、私たちはニコデモが確信を得て、公平に聞くことができ、キリストを受け取っています。

「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書7章45〜52節

そして、19章38〜42節の中で、私たちはニコデモがキリストにあって光の告白の中にいることを知り、率直に認識をできます。

「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書19章38〜42節


ヨハネの福音書 4章

この章の中に二つの項目があります。
1)サマリアの女へのキリストの伝道(4章1〜42節)、そして2)王室の役人へのキリストの奇跡。
両方の奇跡ともその体験は一つのことを教えています。
それはともに罪深い女は改心し、、王室の役人のいやしは距離が離れていたのにかかわらず癒されたという素晴らしき奇跡なのです。

1、サマリアの女へのキリストの伝道(4章1〜43節)
サマリヤ人はユダヤ人と異邦人の混血であり、ユダヤ人によって追放されるべき者と考えられ、軽蔑されていました。
サマリアにおいてサマリア人はユダヤ人にひけをとらない自分たちの宗教組織を持っていて、メシアが来られるのを待っていました。
イエスは「サマリヤを通って行かなければならなかった」のです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章4節

神はこの罪深い女がキリストに出会い、キリストの中に命の水を見つけるように計画しておられるからです。
このキリストとの出会いにおいて、私たちはこの女がキリストを信じるにあたり、いくつかの違った段階を見ることができます。

A、「あなたはユダヤ人なのに...。」(1〜9節)

ユダヤ人の祭司が女性に何かをお願いすること、特にサマリア人にお願いすることはこの女ににとって驚くべきことでした。
彼女はイエスについて、乾いたユダヤ人としてのこと以上のことは何も知りませんでした。
罪人はキリストに対して盲目です。
そして、罪人は永遠の事柄以上に今の命についてより興味を持ち、この命の水を欲しがっているのです。

B、「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。」(10〜15節)
10節において、イエスは彼女に「二つの知らない事柄」について語っています。
神の賜物(救い)、そしてこの女に示された救い主とはいったい誰かということです。
イエスは生きている水について語っています。
--命の水--しかし、この女はこの水を文字通りの水として理解したのです。
この女は典型的な罪人です。
物理的な水と霊的な水を完全に混乱させています。
ニコデモはキリストの話した物理的な誕生(3章4節)について考え、さらに弟子たちはキリストが霊的な食べ物(4章31〜34節)について話したことを考えました。

ルカの福音書16章19〜31節の現実の話の中でそれはよりはっきりしてきます。
地上にある物理的な喜びを追い求めた金持ちは、ハデスの中で乾ききっている自分を見つけました。
イエスは命の水が心から湧き出てくることを約束しました。
そして、その水は私たちを常に新たにし満足を与えます。
この女はさらに混乱し、この水を求めました。
それは浅さかな感情的な反応にすぎません。

C、あなたは預言者だと思います。」(16〜24節)
この女は混乱しながらも命の水に興味があることを示しました。
そして、彼女は自分の罪と直面するのです。
キリストは彼女に命令します。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章16節
この命令は彼女の良心を目覚めさせ、彼女が自分の罪に無理やりにでも直面させるという目的がありました。
誰も、自分の罪を隠すものは救われることがありません。
彼女がいかに話の内容を変えようと努力したかを読み取ってください。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」

新改訳聖書 箴言28章13節

今日の悔い改めない罪人のようです。
彼女は別の信仰に対して論議を始めたのです。
私たちはどこで礼拝すべきか?
どのような信仰がただしいのか?
イエスは御父を知るという重要な事柄を指摘しました。
そして、おそらくこのことは救いを通してのみ、御父を知ることができるのでしょう。
それがユダヤ人ための救いです。
イエスは彼女と顔をつき合わせています。
この女は罪人です。
彼女は満足することを求めています。
そして、彼女の持つ信仰のむなしさを知っていました。

D、「この方がキリストなのでしょうか。」(25〜42節)

今、この女の目はキリストと、キリストのみことばの権威に対して開かれました。
彼女はキリストを信頼し、救われたのです。
彼女の信仰は町の人々に対して公言された証言によって証明されます。
町の人々はキリストを信じるために集まって来たのです。
そして、彼らも彼を信用しに来ました。
この女が連れてきた者たちは信じました。
そしてその決定的な証しに心を留めてください。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。
自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書4章42節

この章において、その弟子たちの振る舞いに注意することは非常に面白いことです。
彼らはそれでも霊的な食物よりも物質的な食物を心配していました。
キリストは疲れ、乾いていました。(6節)
そして、たしかに空腹だったのです。
しかし、イエスは物質的なゆとりよりも霊的な問題をここに置いたのです。
いっぽう、弟子たちは食物を買いに出かけました。
(それは良いことです。)
そのいっぽうキリストは魂を勝利しました。
弟子たちはサマリアに来て、おそらくこのように言ったでしょう。
「私たちは決してここでは何も勝ち取らない。
ここにいる人たちはかたくなな心を持っている。
そして、私たちの民族の敵だ!」
しかし、キリストは収穫のために白く広がった畑を見ることを彼らに語ったのです。
キリストは神の民のすべての者が収穫の畑で働けなければならないことを思い起こさせたのです。
ある物は蒔き、ある者は刈り取るのです。
神は利益を得させる方だからです。

「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。
あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章5〜9節

私たちはキリストが魂を勝ち取る者の手本として歩んだことを知っています。
キリストは個人的な偏見、もしくはキリストを邪魔するために必要な物理的な存在を許してはおられません。
キリストはこの女性と親しみやすい方法で出会い、彼女に対して強制的に決断を迫ったいません。
賢く方法を使って、キリストは会話と言葉を使い彼女の心を導きました。
キリストは個人的に、そして救いの方法をやさしく示したのです。
キリストは共通した話題、そして、目の前にある水を永遠の命の描写として話すことによって、彼女の態度を捕らえたのです。
(同様な方法を使って、キリストはニコデモが訪れたその夜に、風について話したのです。)
キリストは罪について話すのを避けるようなことはしませんでした。
彼女と顔を合わせて彼女の必要について話したのです。

2、キリストの王室の役人への奇跡(4章43〜54節)

この奇跡はヨハネの福音書の中にある7つの奇跡の2つ目の奇跡です。
これらの奇跡は人が救われるということと、従うということの結果について示しています。
(ヨハネの手紙の注解の導入部分を参照にしてください。)
最初の二つのしるしが、ガリラヤのカナで起こりました。
水がぶどう酒に変わることは、みことばを通して救われるということを描写しています。
この章において、王室の役人に息子が癒されるということは救いが信仰によることを示しています。

この章において、王室の役人に息子が癒されるということは救いが信仰によることを示しています。
この章の中の息子の治癒は、救済が信仰のそばにあることを示します。
この息子はカペナウムで死にそうな状態でした。
カナからおよそ17マイル離れています。
王室の役人は自分といっしょに息子の所へ来ることを望みました。
それは彼がこれだけ離れてこの息子を癒してくれるとは信じていなかったからです。
ヨハネの福音書11章21節ではマルタも同様な反応をしています。

「マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章21節

イエスはこの役人と一緒には行きませんでした。
その代わりにこのような言葉を与えました。
「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章50節

この役人が家に帰るのにわずか3〜4時間しかかからないはずです。
しかし、51、52節を見てみるとこのような記述があります。

「彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書4章51、52節

それはこの役人がイエスにあってからまだ、まる一日カナにいたことを示しています。
その息子はすでに午後1時(ユダヤの7時)に癒されていたのです。
父はその次の日に家に到着したのです。
それは実際の信仰とはキリストの言葉によることの証明です。
しかし、この役人は何が起こるかを確認するために家に急いで帰ることをしなかったのです。
これは私たちが神のみことばに私たちの信仰を置くことによって救われるということを表現しています。
私たちはこのように言うことができます。
「キリストがそのように言われました。
私はそのことばを信じ、そのことが解決されたことを知ります。」
この王室の役人は明らかにカナにとどまりました。
何らかの仕事があったのかも知れません。
しかし、自分の家に着いたのは翌日でした。

それでも、この役人はこのように言うことができたはずです。
「望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし」た。と...。
新改訳聖書 ローマ人への手紙15章13節
それはキリストのみことばだけに信頼を置いたからです。
この役人は自分のしもべが息子が直ったことを告げても驚いてはいません。
彼はただ彼らにいつ癒されたかを聞き、キリストがこの言葉を語った時間と比較したのです。
その結果、この役人の家族はキリストを信じました。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章17節

イエスは48節において、なぜ人々が信じないのか基本的な理由を述べています。
それは彼らは単にしるしと驚くべき体験をしたいからです。
「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章48節

悪魔は人々をだます目的でしるしと不思議を行うことができることをこころにとめておくべくです。
「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。
なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」

新改訳聖書 テサロニケ人の手紙第二2章9〜10節

もし、あなたの救いの基礎を感覚に、もしくは夢に、幻想に、声に、暗示に、もしくは肉的な証しに頼るのならば、あなたは信仰は危険な土台の上にいるのです。
私たちの与えられた永遠の命の確信とは単にみことばに信頼を置くことです。

「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。
御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。
神を信じない者は、神を偽り者とするのです。
神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章9〜13節


ヨハネの福音書 5章


他のいろいろなヨハネの福音書の箇所で、私たちは「しるし」が土台となっているメッセージがあることを知りました。(5章17〜47節参照)

1、しるし

救いは恵みによります。(5章1〜16節参照)

どのように人が救われるかを示すために三つの「しるし」が行われています。
最初の「しるし」は水がぶどう酒に変わることにより、救いは神のみことばを通してなされるということが示されました。
二つ目の「しるし」は王室の役人の息子が癒されることにより救いは信仰によることが示されました。
三つ目の奇跡によって救いが恵みによることが実証されたのです。
この男は哀れな状態の中にいました。
その理由はこの男の過去の罪によるものであることがイエスの証言によって理解することができます。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章14節

この男は悩む人々に囲まれていました。
これらすべての人々は救われていない悲しい状態を表現しています。
彼らは弱い者(ローマ5章6節)、盲人(正しく歩くことができない者--エペソ2章1〜3節)、足なえ、やせ衰えた者、希望もなく何かが起きることを期待する者(エペソ2章12節)たちでした。
もし、御使いがこの池に来たときにこの水の中に彼らが入ることができたのなら、彼らは癒されたのです。
しかし、彼らにはその池にたどり着くだけの力がありませんでした。
まさに現在の罪人たちの姿を表現しています。
もし、人が律法を完全に守ることができたのなら人は救われることができます。
「ベテスダの池」において働かれる神の働きを見てください。
「ベテスダ」の意味は「恵みの家」を意味しています。
そして、この意味はこの一人の男のために意味されたのです。
「恵み」とはどのような意味があるでしょう。
それはこれらの受けるに値しない者たちに与えることを意味しています。
イエスはそこにいるいろいろな病気の人々を見ました。
しかし、イエスは一人の人を選び、癒したのです。
この男は他の誰よりも受けるに値しない者でした。
しかし、神は彼を選んだのです。
これは救いの美しい描写と言えます。
そして、それはどのように卑しい私たちが「キリスト」にあって選ばれたかを知ることができます。
それは私たちに何か良い点があったからではなく、神の恵みによるのです。

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章4節
キリストが5章21節の中で何と言われたでしょうか?
それがここで適応されます。

「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章21節

キリストはすぐにでも命を与えることのできる方です。
私たちの側には神の恵みを表現することができません。

「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙9章14〜16節

しかし、もし、救いが神の恵みによらないのなら、私たちは救われることはありません。

「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。
また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。
アーメン。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙11章32〜36節

さまざまな他の箇所を注意してください。
ここには五つの回廊があります。
5という数字は聖書の中で恵みを表現している数字です。
この池は羊の門の近くにあり、羊は捧げものについて語っています。
神の子ひつじは神の御前で殺され、罪人たちの上に注がれました。
キリストは安息日に彼を癒やしました。そして、律法が癒す力など持っていないことを証明したのです。
私たちは律法を守ることによっては救われません。
キリストはご自身によってこの男を癒しました。
それは救いがキリストによってのみ行われることを表しているのです。
7節を見るとこの男は不満を言っています。

「池の中に私を入れてくれる人がいません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章7節

大勢の人がこの男を助けることができませんでした。
彼らはイエスが行ったようなことをすることはできません。
失われた罪人には必要を与えることができません。
しかし、この男には癒される必要があったのです。
この男は宮に行き、おそらくそこで礼拝を捧げたことでしょう。
そして、おおやけにキリストが病人を癒したのを目撃したでしょう。
この男が救われるためにキリストを信頼したという証拠はどこにもありません。
イエスが安息日に癒しを行った時、宗教的リーダから憎しみと反対が起こり始めました。
この衝突によって憎しみが増大し、最終的にキリストを十字架に付けてしまったのです。

2、メッセージ

キリストは御父と等しい方です。(5章17〜47節)

A、キリストは三つの方面から御父と等しい方です。(17〜47節)

安息日にその男を癒すということはユダヤ人の習慣と対照的なことです。
ユダヤ人はキリストを律法を破るものとして迫害しました。
キリストのメッセージの最初の部分で、御自身が三つの方面から御父と等しい方であることを示しました。

(1)働きにおいて等しい

創世記3章においてアダムが罪を犯した時、御父の安息が破られていること。
この時から、神は失われた者を探し、救うために働いておられるのです。
キリストが個人的な御父を知り、現わすことを可能であることをキリストは宣言しています。
キリストの働き(奇跡)は御父から来ます。
その奇跡は死者をもよみがえらせます。

(2)裁きにおいて等しい。(22節)

神はすべての裁きを御子に委ねました。
これは御父と御子が等しいことを表現しています。
それは神だけが人の罪ゆえに人を裁くことができるからです。
27節も同様に見てください。

(3)誉れにおいて等しい。(23節)

滅びに向かおうしている者は、神だけが誉れを受けるべきだということを、あえて人々に尋ねようとはしません。
人々はキリストに対して無知です。
キリストの要求は神を礼拝すべきだということさえ誤解されています。

B、三つの方面から見た復活。

(1)今日における死んだ罪人の復活(24〜27節)
このことは霊的な復活と罪人がみことばを聞き、信じた時に起こる事を述べています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節

その男によってキリストが実際に死んだ人間を癒すということを示しています。
みことばを聞き、信じ、その時、彼は体の中に新しい命を得たのです。
キリストは御自身の中に命を持っています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節

ゆえにキリストは命なのです。
そして、三つの方面からキリストは他の者に命を得させることができるのです。

(2)永遠の命への復活(28〜29節)

これはクリスチャンの未来に起こる復活を示されており、テサロニケ人への手紙第一4章13〜18節、コリント人への手紙第一15章51〜58節に書かれている出来事です。
聖書は「general judgment」と呼ばれる普遍的な裁きと同様に「general resurrection」と呼ばれる普遍的な復活を教えていません。
この命の復活は黙示録20章4〜6節にある最初の復活と同じ意味を持ちます。

「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。
そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。
これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」

新改訳聖書 黙示録20章4〜6節

黙示録20章11〜15節において描写されており、神は新しい天と地を造られる前に起きることです。
キリストを拒む者すべてが裁かれます。
もし、天国を見ることを拒むのならば、彼らは地獄に行くことを同意することになります。
地獄は「第二の死」と呼ばれ、神からの分離です。

「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
新改訳聖書 黙示録20章4節

クリスチャンで白い御座の裁きに立つ者はいません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節

C、三つの方面から見たキリストの神性の証し(30〜47節)

(1)バプテスマのヨハネ(30〜35節)

人々はバプテスマのヨハネの言う事を聞き、ヨハネの働きを喜びました。
しかし、ヨハネと彼のメッセージを拒みました。
1章15〜34節と3章27〜36節まで読んでください。
どのようにヨハネが人々にキリストが誰であるかを示したか見ることができます。

(2)キリストの働き(36節)

ニコデモでさえキリストの奇跡を見て、キリストが神から来た者であることを認めました。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章2節

(3)みことばに父が語られていること(37〜47節)

旧約聖書では父が御子のことを証言しています。
ユダヤ人は聖書を読んで、自分たちがどのようにしたら救われるかを考え、捜し求めました。
しかし、彼らは霊的に盲目であるため見つけることはできません。
モーセはキリストのことを書き、ユダヤ人たちがさばきにあることを訴えています。

彼らはみことばを拒否しました。
「また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章38節

彼らは神のもとへ行きません。
「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章40節

彼らは神に対する愛がありません。
「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章42節

彼らはキリストを受け取りません。
「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章43節

彼らは神からの栄誉を求めずに人からの栄誉を求めました。
「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めない。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章44節

彼らはキリストの言葉を聞こうとはしません。
「しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章47節

驚くに値することはありません。
彼らは単に信じてもなく、救われてもいないからです。


ヨハネの福音書 6章

1、しるし(6章1〜21節)

最初の三つのしるし(奇跡)はどのようにして人が救われるかを例示しているものです。
みことばによって、もしくは信仰によって、もしくは恵みによって人は救われるのです。
4つ目にしるし(5000人の給食)は心の中にある内側の必要を救いは満足させることができるかを私たちに示しています。
イエスは命のパンです。
この「しるし」は同様に私たちに主の救いはただ恵みによってのみ与えられることを思い出させます。
神は福音のメッセージを人に伝えるのに人間の言葉や説明を用います。
イエスは弟子たちにパンと魚を与えました。
そして、彼らはそれを人々に分け与えたのです。
パウロはローマ人への手紙10章14節でこのようにたずねています。

「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章14節

もし、ヨハネの福音書6章9節の小さな少年のように、私たちがこの少年のことを語るのであれば、少年は必要を受け入れ、パンと魚を差出し、主はそれを使い、他の多くの者を祝福することができたのです。
ヨハネの福音書の最後の4つのしるしは救いの結果を描写しています。

*5000人の給食(6章1〜14節)--救いは満足に至る。
*嵐を静める(6章15〜21節)--救いは平和をもたらす。
*盲人の癒し(9章1〜7節)--救いは光をもたらす。
*死者ラザロの復活(11章34〜46節)--救いは命に至る。

イエスは欲望を満たそうとするだけの人たちのための王になろうとしているのではありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章26節

イエスは群集を解散させ、弟子たちを湖のむこうへと送りました。
イエスは嵐が来ようとしていることを十分に知っていました。
まさに今日の教会を表現しています。
私たちは悪魔の嵐に対して苦労を重ねています。
しかし、私たちの主はその日、平和は至ることを山の上で祈りました。
キリストが船の上にいる時、船は奇跡的にその目的地に着くのです。
救いは心の中に平和を至らせます。
平和は神とともにあります。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙5章1節

神は平和の神だからです。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章4〜7節

2、説教(6章22〜65節)

22〜31節の中に、イエスの教えが述べられています。
人々は食べることに興味を持っていました。
そして、人々は湖を越えてカペナウムにキリストを追いかけてゆきました。
彼らはユダヤ人の会堂でキリストと出会いました。

「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章59節

キリストは浅さかな、肉的な動機を明らかにしました。
そして、人々は信仰によって救われるということが何かということについて無知です。
30節を見てください。
ユダヤ人たちはイエスに挑戦しています。

「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。
どのようなことをなさいますか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章30節

ユダヤ人たちは出エジプト記16章にある天からのマナように、イエスにしるしを要求しました。

「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章31節

そして、イエスは自分が語ろうとしているメッセージのためにこのマナを土台として彼らに語りました。
このメッセージを三つに分けることができます。
それぞれが群集から来る反応に応じて語られていることです。

A、イエスは御自身を現わしました。
命のパン(32〜40節)
このことはイエスが神の御子であるということを強調した主張です。

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章33節

キリストは天から来た神のパンである人格であることを示しているのです。
モーセのようにユダヤ人に対してだけでなく、世全体にキリストは命を与えるのです。
その方法はこの命のパンのところへ来て、それを手にし、受け取ることなのです。
そして、この命のパンは今日においてだけではなく、復活の未来においても命を与えるものなのです。
キリストの神聖を否定したユダヤ人たちの反応に注意してください。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
彼らは言った。
「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。
どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章41、42節

イエスは神が自分の父だと言いました。
しかし、ユダヤ人たちは「ヨセフ」はイエスの父と言っています。
それはマナをイエスキリストを比較した面白い表現です。

(1)マナは夜のうちに天からやって来ました。
キリストは人々が闇の中にいるときに天からやって来ました。

(2)マナは露の上に降って来ました。
キリストが来た方法は、神の御霊によって生まれるという方法をとって来ました。。

(3)マナは地によって汚されることがありませんでした。
キリストは罪なき方です。
罪人たちと分離されています。

(4)マナは小さく、丸く、そして白いものです。
それはキリストの謙遜さ、永遠性、純潔さを表現していました。

(5)マナの味は甘かった。
キリストに信頼する者に対して、キリストは甘い存在です。

(6)マナは摘み、食べなければなりませんでした。
キリストは信仰によって受け取り、自分のものとしなければなりませんでした。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章12、13節

(7)マナは無料の贈り物でした。
キリストは神の世に対する無料の贈り物です。

(8)マナのあるところにはすべての者が満足しました。
キリストはすべての者を満足させます。

(9)もし、あなたがマナを拾わなければ、あなたはマナを踏みつけて歩くことになります。
もし、あなたがキリストを受け取らなければ、あなたはキリストを踏みつけて歩くことになります。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
--中略--
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章26〜29節
(10)マナは荒野の食べ物です。
キリストは天国への荒野の旅を続ける、旅人の食べ物です。

B、キリストは救いの手順を明らかにしています。(43〜52節)
失われた罪人は神を求めることはしません。
救いは神とともに始めなければなりません。

「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章11節

神はどのように人々をキリストのほうへ導こう(選ばれた)としているのでしょうか?
神はみことばを使います。

「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章45節

導かれた(選ばれた)人たちによって、キリストが何を教えようとしているのかをテサロニケ人への手紙第二2章13〜14節を読むとき、このことが明らかになります。

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。
主に愛されている兄弟たち。
神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。
ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」

新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章13〜14節

地上のパンを食べるということはしばらくの間、命を維持することができます。
しかし、その人は何をしようとも最終的には死ぬのです。
霊的なパンであるキリストを受け取るという事は永遠の命を得ることになります。
キリストはこの世の人たちのために御自身の肉をお与えになることを51節においてはっきりと宣言しています。

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章51節

これを聞いてユダヤ人たち怒りました。

「ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章52節

それは人間の肉を食べるということは、ユダヤ人の律法に反していたからです。
ニコデモのように、彼らは肉的なことと霊的なことを混同させていたからです。

C、キリストは救いの力を現わしました。

キリストの肉を食することによって、もしくはキリストの血を飲むことによって何を教えようとしているのでしょうか?
イエスは文字通りのことを話しているのではありません。
63節においてイエスははっきりと語っています。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章63節

何が命を与えるのでしょうか?

「いのちを与えるのは御霊です。---中略---わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章63節

他の言い方をすれば、人がキリストの肉を食べ、キリストの血を飲むのなら、キリストを分かち合い、キリストを受け取ることなのです。
聖霊によって教えられた通りにみことばを受け取った結果です。
キリストは主の晩餐のパンと杯について、もしくは他の宗教的な儀式について話されたのではありません。
主の晩餐はまだ行われていません。
イエスが主の晩餐を行われたとき、彼ははっきりとこの晩餐は覚えられることを語りました。
主の晩餐は命を与えるものではありません。

もし人がパンを食べ、ぶどう酒を飲むことによって永遠の命を受け取ると言うのなら、その人は救いにおいて神の恵みを否定することになります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章8、9節

イエスは生きている神のことばです。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章1〜4節

そして、イエスは私たちのために肉となられた方です。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節

聖書は書かれた言葉です。
そして、聖書はイエスについて語っています。
聖書自身も聖書について語っています。
ともに聖なるものであると語っています。

「それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
新改訳聖書 ルカの福音書1章35節

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二3章15節

ともに真実です。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節

「あなたのみことばは真理です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章17節

ともに光です。

「わたしは、世の光です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章12節

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
新改訳聖書 詩篇119編105節

ともに命を与えます。

「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章21節

「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」
新改訳聖書 詩篇119編93節

ともに新しい誕生を創造します。

「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章18節

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章23節

ともに神の力です。

「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章24節

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章16節

結論は明白です。
あなたが心の中にみことばを受け取る時、あなたはキリストを受け取ったのです。
私たちは神のみことばを分け与えらたことにより、キリストの肉を食べたのです。
イエスは51節で言っています。

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章51節

そしてマタイの福音書4章4節でイエスは言っています。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
新改訳聖書 マタイの福音書4章4節

ペテロのイエスの説教が何を意味しているのかはっきりと理解しました。
ゆえにヨハネの福音書6章6節でこのように言っています。

「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章68節

人々はこの教えに憤慨し、キリストに従おうとはしませんでした。

「これはひどいことばだ。
そんなことをだれが聞いておられようか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章60節

この事件はヨハネの福音書の中の大きな危機だと言えるでしょう。

3、ふるい(6章66〜71節)

「「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章70節

神のみことばはキリストとして明らかにされています。
みことばの真実は偽りと聖別されています。
群集は体のためのパンを望んでいました。
たましいのための命のパンを拒んでいたからです。
ペテロと十人の弟子たちはキリストにあって信仰を保とうと決心していました。
弟子たちの信仰は神のみことばを聞くことによって始まったのです。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスととも歩かなかった。
そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章66、67節

(注意:66節にある「弟子」という言葉は12弟子のことを述べているのではあり
ません。
群集の中のキリストに従うものを指しています。)


ヨハネの福音書 7章

私たちは今、二つ目の区分に入ります。
混乱(衝突)の期間です。
ユダヤ人のリーダたちはイエスのしるしとその説教を聴きました。
今、彼らはキリストに反抗しているのです、
ユダヤ人たちの反抗についてこれらの節をチェックしてみてください。

「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章1節

「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章19節

もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章23節

「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書7章32節

「その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章44節

「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章6節

「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章37節

「ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章48節

「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章59節

「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章22節

「彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章34節

「彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章20節

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章31〜33節

「そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章39節

「弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章8節

「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章16節

「 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
---中略---
そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。
---中略---
さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章46〜57節

「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章10節

1、祭りの前

1、疑い(7章〜9節)

神殿の祭りは7の月の15日間守られて、8の月まで続きました。
(レビ記23章34〜44節、申命記16章13〜16節、民数記23章12〜40
節を参照)
その祭りはイスラエルの民が荒野をさまよっていた時、仮の小屋で暮らしていた時のことを覚えることです。
出エジプト記23章16節では同様に収穫の祭りについて示しています。
この祭りは三つの祭りの一つですべてのユダヤ人の男は毎年参加することが求めていました。

ここにいるイエスの兄弟たちとはイエスにとって半分兄弟であり、半分姉妹です。
それはヨセフによって生まれた、マリアの子供だからです。
イエスはマリアの初子でした。
そのことはマリアに他の子供がいたことを示しています。

「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」
新改訳聖書 ルカの福音書2章6、7節
同様にマルコの福音書3章31〜35節、マタイの福音書13章55〜56節も参照にしてください。

マリアの永遠の処女性を教えるために、ここにいる兄弟たちのことを主の「従兄弟」と決して言われることはありません。
イエスの兄弟たちはこの時、イエスを信じていません。
使徒の働き1章14節を見るならば、イエスの復活の後で彼らは信じたのです。

「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」
新改訳聖書 使徒の働き1章14節

詩篇の69編8、9節を見るならば彼らが信じないこと。そして、マリアが他の兄弟たちを生むことを証明しています。
「私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。」

新改訳聖書 詩篇の69編8、9節

キリストの人生は神の計画に従って歩んでいるのです。
救われていない人々は救われることを望む者として、イエスのところへ行き来することができます。
しかし、神の子供に対しては必ず、神は御元に導くのです。
キリストの兄弟たちがユダヤ人の祭りを後で、救い主であるイエスから離れてしまいました。
何と悲しいことではないでしょうか!

2、祭りの中で

5000人の給食(7章10〜36節)、足なえの男への癒し(5章1〜9節、7章23節)を話し合ってみてください。
群衆の興味ある行動を見ることができます。
それはイエスが安息日に足なえの男を癒したからであり、ユダヤ人たちはそれゆえにイエスは神から来たのではないと言っています。
彼らはこのように言い、イエスを殺そうとさえしています。

「あなたは悪霊につかれています。
だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書7章20節

しかし、神の時があり、その準備がなされていなかったからである。

「イエスの時が、まだ来ていなかったからである」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章30節

ユダヤ人たちがいえすについて論争していたように、彼らはそれぞれ5つの出来事について論争しました。

A、イエスの人格(10〜13節)

ある人たちは「「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた」と記されています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章12節

なぜ、ユダヤ人たちは迷っていたのでしょうか?
その理由はユダヤ人の指導者を恐れていたからでした。
箴言29章25節につぎのような警告があります。

「人を恐れるとわなにかかる。」
新改訳聖書 箴言29章25節

キリストの人格はユダヤ人たちが最終的に捕まえてしまわなければならないほどに罪なき方でした。
ユダヤ人たちはイエスに対して偽りの目撃者を立てなければなりませんでした。
ピラト、ユダ、さらにローマの兵隊でさえ、イエスの無欠性を語っています。

B、イエスの教え(14〜18節)

ユダヤ人たちはキリストの霊的な知識について驚きました。
それはイエスはユダヤ人の学校にも、またラビとして学んだことがなかったからです。
キリストの教えは天から来たものです。
人の教えは「闇」の教えです。
パウロは「知識」(科学)と呼ばれる偽りについて警告しています。

「テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。
そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。」

新改訳聖書 テモテの手紙第一6章20節

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」
新改訳聖書 コロサイ人の手紙2章8節

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章17節

また、ヨハネの福音書7章17節をこのようにも読むことができます。
「神のみこころを行なおうとする秘訣は、喜んで従うことです。」
F・W・ロバートソンは言っています。
「従うことは霊的な知識の器官としての働きをなすものです。」

C、イエスの働き(19〜24節)

ユダヤ人たちは安息日に行われたイエスの働きを訴えることにより自分たちは律法を守っているようなふりをしていました。
しかし、彼らは自分たちが尊んでいた律法とは反対にイエスを殺すことを願っていたのです。
キリストに反対し、そのみとばを拒否するものたちはなんと矛盾していることではないでしょうか!
ユダヤ人男性は安息日に割礼を受けることができます。
しかし、安息日であろうと、なかろうと彼らは人を癒すことはできません。
今日において多くの者がユダヤ人のようです。
多くの者が浅さかな考えを持ち、外見によってさばきます。
このような者たちのことを真実だと言うことはできません。

D、イエスはどこからきたのか(25〜31節)

27節に書かれていることは42節に対する矛盾ではありません。

「けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。
しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書7章27節

「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章42節

ユダヤ人たちはメシアがどこで生まれるかを知っていました。
しかし、ユダヤ人たちは超自然的に神の御業によって生まれることを知りませんでした。

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。
そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

新改訳聖書 イザヤ書7章14節

言い方を変えるのであれば、イエスはどこから来たのかその知識を持っていなかったのです。

「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。
しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書7章28節

福音書の記事は処女マリアからイエスが生まれたことを記録しています。
しかし、ユダヤ人たちはこのことを信じていなかったのです。
ヨハネの福音書8章14節を見るならば、ユダヤ人たちはイエスは罪の中に生まれたと言って攻撃しています。

「彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章14節

おそらく、ヨセフと結婚する前のマリアの状態について人々がこのように言っていたのでしょう。
28〜29節まで見てください。
イエスははっきりと御自分がどこから来たのかを宣言しています。

「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。
「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。
わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。
なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章28〜29節

E、イエスの警告(32〜36節)

33節においてキリストは「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」と言われています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章33節

その「しばらくの間」とは約6ヶ月続きました。
イザヤ書55章6節にはこのように書かれています。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」
新改訳聖書 イザヤ書55章6節

人々が主を求めることは大変重要なことです。
今日、多くの失われた罪人たちがキリストを拒んでいます。
そして、明日という日にキリストを求めるでしょう。
しかし、キリストは彼らから去ってゆくでしょう。

「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。
わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。
それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。
わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。」

新改訳聖書 箴言1章24〜28節

ユダヤ人たちは霊的に無知でした。
そして、ユダヤ人たちはイエスが国々に散らされたユダヤ人たちについて話していると考えました。
それは、ユダヤ人たちが真理に従うことを喜びとしていなかったからです。
彼らは真理について知ることができません。
ユダヤ人たちはキリストと論じていながらも、自分たちの魂を失っていることに気がつきませんでした。

3、祭りの最後の日

7日間の最後の部分は「祭り(儀式)の終わりの大いなる日」と呼ばれていました。
8日目は「聖なる会合」の一つです。

「八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。」
新改訳聖書 レビ記23章36節

「八日目にあなたがたはきよめの集会を開かなければならない。
どんな労役の仕事もしてはならない。」

新改訳聖書 民数記29章35節

祭りの毎朝、捧げものを捧げる時、祭司はシロアムの池より神殿へ運ばれ、金の器に水を注ぎ込まれます。
この記念すべき素晴らしき水の注ぎだしは、荒野において神がユダヤ人たちに水を注ぎだされたことを記念しています。
この七日目は「大いなるホザナ」そして、祭りのクライマックスとして知られています。

イエスが叫んだ時、何が起きなければならなかったか、少し想像してみましょう。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章37節

キリストは水の湧き出る岩です。

「主はモーセに仰せられた。
「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。
あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。
民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」

新改訳聖書 出エジプト記17章5、6節

「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。
というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。
その岩とはキリストです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一10章4節

キリストが十字架の上で打たれたのは、命の御霊が乾いた罪人を救い、満足させるためでした。
(ヨハネの福音書13章1〜17節 15章3節参照)

この飲み水ヨハネの福音書7章37、38節で言われているように神の御霊を表しています。
この神の恵み深い招待を受け入れる変わりに人々は討論していました。
そして、そこに「分けられる」という真理が現れています。
ある者たちはイエスを信じました。
また、ある人たちはイエスを拒みました。
(マタイの福音書10章31〜39節 ルカの福音書12章51、52節参照)
兵士たちはイエスを逮捕することはできませんでした。
イエスが兵士たちの心をつかんでいたからです。

「その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章44節

ユダヤ人の指導者たちはキリストを拒んでいました。
ユダヤ人の指導者たちに従う他の者たちに対して、悪い模範となり、彼らも救いの扉を閉めてしまったのです。

「しかし、忌わしいものだ。
偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」

新改訳聖書 マタイの福音書23章13節

ニコデモが再びこの場面に出てきます。
そして、この時、私たちはキリストの法的な権利を主張するニコデモの姿を見ることができます。
ヨハネの福音書3章において、彼は混乱の暗闇の中にいました。
しかし、ここで彼は確信の夜明けを経験しているのです。
彼はキリストに公平なチャンスを与えようとしているのです。
このことから考えられることは、ニコデモは真理を学んだということです。
みことばに従うという喜びは神の真理に学ぶ秘訣なのです。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章17節

ヨハネの福音書19章において、私たちはニコデモが告白の光の中にいることを知ります。
はっきりとニコデモ自身がキリストとともにいることが確認できます。
どのように彼がこの決断に至ったのでしょうか?
彼はみことばを学び、彼に教えられたことを神に求めたのです。
議員たちは彼に「調べてみなさい」と尋ねました。
ニコデモはその通りに調べていたのです。
その者は神のみことばを読み、従ったのです。
そして、闇の中から出され、神の驚くべき光の中に入れられるのです。


ヨハネの福音書 8章

この章はユダヤ人の指導者と対立するキリストを描いいます。
そして、この対立における一連の大切な対比が表現されています。

1、光と闇(8章1〜20節)

律法学者とパリサイ人はこの姦淫の場で捕えられたひとりの女を裁いてもらいために、神殿の献金箱のある所(20節)におられたキリストのところへ連れてゆきました。
彼らの動機はイエスを試みるためでした(6節)。
そして、イエスを窮地に追い込むためでした。
もし、イエスがこの女を自由にするのであれば、イエスがモーセの律法を犯すことになります。

「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」
新改訳聖書 レビ記20章10節

「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。
あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。」

新改訳聖書 申命記22章22節

もし、イエスが彼女を石打にするのなら、イエスは罪を赦すという主張ができなくなります。

アーサー・ピンクはキリストが地面に指で2回書かれたことが、律法が2枚の石板に神の指で律法が書かれたことを思い出させると指摘しています。

「モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。
すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。
その字は神の字であって、その板に刻まれていた。」

新改訳聖書 出エジプト記32章15、16節

「主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。」
新改訳聖書 出エジプト記34章1節

ユダヤ人は罪を犯し、モーセは最初の石板を地面に打ち投げて壊してしまいました。
しかし、神は彼らの罪を赦し、犠牲の血を提供し、彼らには別の石板が与えられたのです。
キリストはこの女のためにも死なれ、この女を赦すことができたのです。

12節における偉大な「私は〜である」(I AM)というイエスの言明がこの出来事のあとに続きます。
世の光として、キリストは神を主張したのです。
神は光だからです。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章5節

闇は死、無知、そして罪について語っています。
光は命、知識、そして聖さについて語っています。
光は罪を責めます。

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
---中略---
たとい自分の心が責めてもです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章17〜20節

失われた罪人は闇の中を生きているのです。
そして、失われた罪人は永遠をも闇の中を生きるのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節

「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。
もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙4章17〜19節

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
光の子どもらしく歩みなさい。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙5章8節

ユダヤ人たちはキリストに従うところか、宮においてキリストと討論しました。

2、天国と地(8章21〜30節)

二つの誕生があります。
一つは神の聖霊によって上から再び生まれることであり、もう一つは世から肉の誕生です。
そして、そこには死に向かう二つの道があります。
罪人は自分の罪のために死にます。
クリスチャンも主にあって死にます。

「また私は、天からこう言っている声を聞いた。
「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」」

新改訳聖書 黙示録14章13節

しかし、イエスキリストに信仰を置く者は違います。
イエスはユダヤ人たちに自分が天から来たことを語りました。
父がイエスを送り、父がイエスに教え、父がイエスとともにいたのです。

「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。
しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章26節

「イエスは言われた。
「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章28節

「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。
わたしをひとり残されることはありません。
わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章29節

父なる神はキリストが十字架の上で私たちの罪となられたその時だけ御自分の御子を御捨てになりました。
28節において、キリストは「上げてしまう」とという表現を使っています。
それはもちろん十字架のことを言っています。
イエスはヨハネの福音書3章14〜16節においてニコデモに述べていることを、ヨハネの福音書12章32〜34節において、再び語っているのです。

3、自由人と奴隷(8章31〜40節)

ユダヤ人たちの信じていたことは警告されていました。
彼らは自分たちの信仰深さによって信仰を証明しようとしていたのです。
キリストに信仰を置く者は神の子供の一人です。
そして、真実の生きているみことばと知識にとどまる者は真実な御国の弟子になることができます。
キリストは霊的な意味において、物理的な意味ではなく、もしくは政治的な意味でもなく、束縛と自由について語っています。
失われた罪人は欲望と罪に対して、悪魔に対して、世に対して奴隷の状態です。

「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」
新改訳聖書 テトスの手紙3章3節

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節

キリストにあって真実を受け取ることにより、奴隷は自由の身となることができます。
イエスの敵はもちろん、自分たちの人間的な利点をアピールしてきました。

『われわれの先祖はアブラハムだ。』
新改訳聖書 マタイの福音書3章9節

彼らはバプテスマのヨハネに対しても同じ事を言いました。
イエスはアブラハムの肉的な意味においての子孫と霊的な意味おいての子孫の違いについて語っています。

「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。
しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。
わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章37節

「彼らは答えて言った。
「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。
「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章39節

パウロはローマ人への手紙2章28〜29節、4章9〜12節、そして9章6節、同様にガラテア人への手紙4章22〜29節において同じような違いについて語っています。
人々がイエスを拒んだのは肉的なことと霊的なことが混乱していたからです。
イエスはニコデモに霊的な誕生について語りました。
イエスは決して肉的な誕生については語っていないのです。

「ニコデモは言った。
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。
もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章4節

キリストはサマリアの女に永遠の命(生きている水)を提供しました。
イエスは決して物理的な水について語っているのではありません。
救いは霊的な経験です。
肉的な誕生は霊的な誕生とは関係がありません。

5、神の子供と悪魔の子供(8章41〜47節)

聖書は4つの違った種類の霊的な子供について語っています。
私たちは怒りの子供としての性質を持って生まれてきました。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章3節

私たちは私たちの責任が問われる時を過ごしながらも、意図的に罪を犯し続けます。
私たちは不従順の子供だったのです。

「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章2節

私たちがキリストに信仰を置いた時、私たちは神の子供となったのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章12節

しかし、最終的に救いを拒み、自分を義とした(悪魔の置き換え)者は悪魔の子供なのです。
マタイの福音書13章24〜30節、36〜43節を見てください。
悪魔の子供たちは偽のクリスチャンとして描かれています。

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。
「天の御国は、こういう人にたとえることができます。
ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。
『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。
『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

新改訳聖書 マタイの福音書13章24〜30節

イエスは悪魔の子供たちの特徴を指摘しています。

A、彼らは、神のみことばに道を譲ろうとはしません。

「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。
しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章37節

B、彼らは血肉、人間の生まれながらの働きに信頼を置きます。

「彼らは答えて言った。
「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。
「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章39節

C、彼らはキリストを憎み、キリストを殺そうとしています。
悪魔は人殺しです。
悪魔の子供たちは悪魔をまねようとしています。

「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章40節

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。
悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。
彼のうちには真理がないからです。
彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。
なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章44節

D、彼らはキリスト、もしくはキリストに関することを愛していません。

「イエスは言われた。
「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章42節

E、彼らはみことばを理解していません。
悪魔が彼らを盲目にしたのです。

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。
それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章43節

F、彼らは真実よりもうそつきとうそを愛します。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章44節

G、彼らは神のみことばを聞こうとはしません。
彼らはみことばを憎んでいます。

「神から出た者は、神のことばに聞き従います。
ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章47節

覚えなければならないことがあります。
彼らは悪魔の子供たちは決して「醜い、不道徳な人たち」ではなかったのです。
彼らは宗教的な人たちであり自分を義とし、キリストを拒んだ者たちなのです。
今日、多くの人たちが悪魔によって騙されています。
彼らが真実に救われていないとか、天国に行けないとは思いませんが、彼らには外見は敬虔に見えるでしょうが、福音の力に欠けています。

5、栄誉と不名誉(8章48〜59節)

神は神の御子に栄誉を与えました。
しかし、自分を義とする者たちはキリストに不名誉を与えました。
彼らはイエスをサマリア人と呼ぶことによって、そして、イエスが悪魔にとりつけれていると訴えることにより、言葉を使ってイエスに不名誉を与えました。
ユダヤ人はサマリア人のことを「地のかす」だと呼んでいました。
イエスは彼らにアブラハムはご自分の日を見て喜んだと語りました。
どのようにアブラハムはキリストの日を見たのでしょうか?
信仰によってです。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
信仰によって、彼は---中略---
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。
---中略---
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
---中略---
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章8〜16節

アブラハムがその子イサクを祭壇に捧げた時、彼はキリストの贖いの御業を理解していました。(創世記22章)
神は多くの奥義を神の友アブラハムと共有しました。
アブラハムの信仰と従順のゆえです。
(創世記18章16〜22節)

神のみことばの光が輝く時、人々はみことばを受け入れ、救われなければなりません。
しかし、人々はみことばを拒み、失われるのです。
どのようにこれらの信仰深いユダヤ人たちがキリストを憎み、キリストを殺そうと試みたのかを知ってください。
それは彼らが実際に悪魔の子供である証明です。
悪魔は人殺しです。
イエスはヤハウェエなる神を主張しこのように言いました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章58節

「神はモーセに仰せられた。
「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。
「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。
『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

新改訳聖書 出エジプト記3章14節

次のヨハネの福音書8章24節に注目してください。

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章24節

「わたしのこと」というのは『わたしはある』と同じ表現です。

訳者注)私はある。
原語のギリシャ語では"egw eimi"となります。
英語で言うのなら"I AM"、主語と動詞です。
上の24節を強調して訳すのあれば、「もしあなたがたが、「わたしがある」ということを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」となります。


また、28節を見るのであればこのように書かれています。

「イエスは言われた。
「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章28節

訳者注)同じように28節を強調して訳すのあれば、「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、「わたしがある」ということを知るようになります。」となります。

悪魔のうそはイエスキリストが神の御子ではないということです。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。
御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章22節

「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。
それは反キリストの霊です。
あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章2、3節

神の御子に不名誉を与えながら、神に栄誉を帰することは不可能です。

「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章23節


ヨハネの福音書 9章

キリストの神性を証しするために、ヨハネの福音書の中で7つの奇跡の記録のうち6番目の奇跡がこの章の中で記されています。
最初の3つのしるしは人がどのようにして救われるかです。
みことば(水をぶどう酒に変えた)によって、信仰(役人の息子のいやし)によって、そして、恵み(足なえの人のいやし)によってです。
終わりの4つのしるしは救いの結果です。
満足(5000人の給食)、平和(嵐を静める)、光(盲人のいやし)、そして命(ラザロの復活)です。

1、回復(9章1〜7節)

A、男は失われた罪人の性質を表しています。

(1)この男は盲人でした。

「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙4章18節

「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二4章3〜6節

これらの人々は救われていません。
たとえ、ニコデモのような知識を持った人であろうと、霊的なことを決して見ることも無ければ、理解することもありません。

(2)この男はこじきでした。
神の側から見るので救われていない者は哀れです。
たとえ、この世で金持ちであっても哀れな者なのです。
多くの者たちは自分の必要を満たすために何かをこじきの様に求めています。

(3)この男には助けがありませんでした。
この男は自分自身で自分をいやすことはできませんでした。
他の人も彼をいやすことはできません。

B、このいやしはキリストがどのように罪人を救うのかを示しています。

(1)キリストは恵みにあってこの男のところへ行きました。
キリストはこの男のそばを通りました。
それは安息日であり、また、イエスはこの男が彼に頼ると知っていたからです。

「ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章14節

その一方弟子たちはどうしてこの男が盲人になったのか、その理由を論争していました。
イエスはその男のためにあることをしました。

(2)イエスはこの男を痛みを与えました。
泥のかたまりは目を刺激を与えたことでしょう。
この泥がどのように感じたか想像してみてください。
しかし、彼の目に入ったこの泥は洗う必要があることに気づかせました。
それは語られたメッセージとまさに一致していることです。
痛みを感じる罪人は、自分たちの罪について何かをしなければならないという願望を持っています。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。
私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。」

新改訳聖書 使徒の働き2章37節

(3)キリストは御自分の力をもってその男をいやしました。
その男はみことばに従うことによってキリストにある信仰を証明しました。
今日の「宗教心」は救いの代わりをこの男に提供しようとしています。
しかし、キリストだけが罪の闇と地獄の火から罪人を救い出すことができるのです。

(4)このいやしは神の栄光をほめ称えました。
すべての真実な改心は神の栄光ためだけにあります。

「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章6節

「それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙1章12節

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。
これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙1章14節

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章8〜10節

(5)いやしは他の人々によってはっきりと認められるものです。
この男の両親、隣人はこの男の人生が変わったことをはっきりと見ました。
再び生まれる時、それは他の人に何かが違ったことを認めさせます。

2、論争(9章8〜34節)

宗教的指導者はキリストを大胆に告白する者は誰でもシナゴーグから追い出すことを公表していました。

「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章22節

このことは、もちろん、友人や家族を失うことであり、ユダヤ教としてのすべての特権を失うことでした。
ユダヤ人たちが驚くべきいやしについて彼らに尋ねた時、遠まわしな言い方をしたのはその特権を失いたくないからです。
11節にあるこの息子の単純な告白はキリストをほめたたえています。

「彼は答えた。
「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。
それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章11節

たとえ、この時、この男が実際「イエスという方」が誰かはっきりと知らない時であってもこのようにほめたたえていたのです。

パリサイ人たちはイエスが神ではないと言う事によってキリストを攻撃していました。
「すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章16節

彼らはキリストを罪人と呼んでいました。
「そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。
「神に栄光を帰しなさい。
私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章24節

その息子はパリサイ人に自分の知っていること、示されたことを語りました。
彼にはパリサイ人のことが愚かなことを考えているしか思えませんでした。

「彼は答えて言った。
「これは、驚きました。
あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。
しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。
しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章30〜32節

単純な信仰を持つクリスチャンは救われていない教養のある神学者より霊的な真実を知っています。
(詩篇119編97〜104節を参照)

最終的な結果を見てください。
彼らはこの男をシナゴーグから追い出しました。
この息子にとって告白を隠し、このような論争をさけることは簡単でした。
しかし、彼は恐れることなく自分の立つべき土台の上に立ったのです。
彼は自分の人生において今までと違ったキリストに出会いました。
彼はキリストを否定することはできなかったのです。
すべての者がキリストと出会い、キリストに信頼し、大胆にキリストを知るようになります。

3、この男の告白(9章35〜41節)

この男はこの時はっきりとすべてを理解していませんでした。
しかし、この男にとって最も安全な場所とはユダヤ人の囲いの外にいることでした。
ユダヤ人はこの男を外に追い出しました。
しかし、キリストはこの男をパウロのように受け入れ、捕まえたのです。

「どうか犬に気をつけてください。
悪い働き人に気をつけてください。
肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
---中略---
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章2〜9節

この男は自分の宗教をなくしました。
しかし、彼は救いと天国に行ける方法を手に入れたのです。

どのようにこの男がキリストの知識において成長したのかを注意深く見てください。
(1)「イエスという方が...。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章11節
この男がキリストによっていやされたということをすべて知った時の告白です。

(2)「あの方は預言者です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章17節
パリサイ人たちが彼に尋ねた時、彼がイエスのことをこのように呼んでいました。

(3)もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章33節
彼がイエスをキリストであると認めた時の告白です。

(4)イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。
「主よ。その方はどなたでしょうか。
私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。
「あなたはその方を見たのです。
あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。
「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

新改訳聖書 ヨハネの福音書9章35〜38節

これが彼の結論でした。

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。
いよいよ輝きを増して真昼となる。」

新改訳聖書 箴言4章18節

この男の成長は光において成長し、箴言のみことばがこのことを証明しています。
クリスチャンはこころの中に光を持つのです。

「「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二4章3〜6節

そして、クリスチャンは世の光なのです。

「あなたがたは、世界の光です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章14節

この男は光の中を歩んでいます。

「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章4節

この男は光の実を生じます。

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
光の子どもらしく歩みなさい。
――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――」

新改訳聖書 エペソ人への手紙5章8、9節

この男の告白である「主よ。私は信じます」ということばはこの男の人生における転換点となりました。

この同じ光がもう一人の者を盲目することができます。
パリサイ人たちは自分たちが見えることを主張していたでしょう。
ゆえに、彼らの罪は宣言されました。
それは彼らがこれらの証拠を拒否し、キリストを受け取ろうとはしなかったからです。
福音はそれぞれ違ったこころから、それぞれ違った反応を起こします。
盲目の罪人は真実を受け取り、見ることができます。
自分を義とする宗教的な人たちは真実を拒み、より霊的に盲目になってゆきます。
光を拒むということは非常に危険なことなのです。


ヨハネの福音書 10章

この章に最初半分に書かれている出来事(1〜21節)は9章34節にある男が追い出された直後に起きたことが書かれています。
また、後半分に書かれている出来事(22〜42節)はその2、3ヶ月後に起きた出来事が書かれています。
この章全体は羊飼いと羊が象徴的に結び付けられ描かれています。

1、説明(1〜6節)
最初の6節は羊飼いと羊の関係が描写されています。
この6節はたとえ話と呼ばれるかもしれません。
しかし、比喩と呼んだほうが、むしろ良いでしょう。
キリストは人々に羊飼いと羊の振るまいがどのようなものであるかを思い出させています。
この章の後でイエスはより直接この比喩を適応させようとしています。
中東の羊の群れの囲いは非常に単純ものでした。
この囲いは石垣によって出来ており、おそらく高さは10フィート、そして、開かれた場所は出入り口として使われていました。
村の羊飼いは夕方にこの囲いに彼らの羊を連れてゆき、見張り役に羊の世話を任せます。
朝になるとそれぞれの羊飼いが自分の羊を呼びます。
羊は自分の羊飼いを知っているので、その声を聞くとこの囲いから出てきます。
見張り役(もしくは羊飼いの一人かもしれません)囲いの開いた場所で寝ています。
ですから、実際にこの囲いの門になっているのです。
羊飼いを通ることなしに囲いの中に入ったり、囲いから離れることは出来ません。
キリストはこの門を通って入ってくる真実な羊飼いであると自分を指摘しています。

「「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章1、2節

自分の羊を名前で呼びます。
そして、羊は自分の羊飼いを認識します。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。
彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章3節

羊飼いは自分の羊を導きます。
そして、羊は自分の羊飼いの後をついてゆきます。

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。
すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。
かえって、その人から逃げ出します。
その人たちの声を知らないからです。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章4、5節

偽の羊飼いとよそ者は盗人で強盗です。
彼らは何か巧妙な方法を使って囲いの中に入ってゆきますが、羊は彼らを認識せず、後をついてゆこうともしません。

2、説明(7〜21節)

A、門(7〜10節)

イエスキリストは門です。
そして、羊の出入りを導きます。
9章における盲人は偽の羊飼いによって追い出されました。
それは彼がイエスを信じたからです。
しかし、彼はキリストによって新しい囲いの中に入れられたのです。
神学者アーサーピンクはこの章の中で本当は三つの門があることを指摘しています。
私たちはこの説明が十分に教えていることを理解するためにこれらの門を見分けなければなりません。

(1)羊の囲いに入る門
ここにある羊の門は天国ではありません。
これはイスラエル国家のことを表してします。
キリストは聖書に現わされた方法を通してイスラエルへ来たのです。
見張り役(バプテスマのヨハネ)はキリストのために門を開いたのです。

(2)羊の門
この門は現在の囲いから人々を導き出す門です。
この場合、ユダヤ教のことです。
キリストは古い宗教システムの捨て、新しい命を見つけるためにさまざまな道を開きました。

(3)救いの門(9節)
羊はこの門を出入りのために使います
これらはクリスチャンの特権について語っているのです。
彼らは永遠の命を持ち、神のみことばの牧草を楽しんでいるのです。
悪魔は偽の教師(盗人で強盗)を通して、羊を盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするのです。
しかし、キリストは羊にあふれるほどの命を与え、羊をいたわるのです。

B、羊飼い(11〜15節)

ここで羊と関係を持たないパリサイ人(雇われ人)と良き羊飼いイエスキリストとを対比させています。
敵が来ると雇われ人は逃げ、自分を守ろうとするでしょう。
しかし、キリストは喜んで羊のために命を与えるのです。

「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。」
新改訳聖書 使徒の働き20章29節

キリストは良き羊飼いとして十字架の上で御自分の命を与えました。
(詩篇22編参照)
そして、偉大なる羊飼いとして、キリストは御自分の羊をいたわるのです。

「永遠の契約の血による羊の大牧者」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章20節

そして、キリストは羊飼いの長です。
キリストは御自分の羊のために栄光をもって再び来られるのです。
(詩篇24編参照)

「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章4節

18節において、キリストは御自分の死と復活の両方について話しています。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです。
わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章18節

C、群れ(16〜21節)

他の羊とは異邦人のことです。
彼らはユダヤ人の囲いには属していません。
イエスは彼らを連れて来なければなりません。
そして、キリストは御自分の声を通してこれを行います。
それはみことばです。
使徒の働きの10章で起きたことを私たちは見てみましょう。
ペテロは異邦人の方へ行き、みことばを語りました。
彼らは信じ、救われました。
16節ではこのように読むことが出来ます。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊(異邦人)があります。
わたしはそれをも導かなければなりません。
彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ(教会)、ひとりの牧者(キリスト)となるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章16節

教会はキリストを信じるユダヤ人と異邦人のために建て上げられました。
この教会は一つの体であり、一つの群れであり、共通した霊的な命なのです。
(エペソ人への手紙2章11〜22節、3章1〜13節、4章1〜5節参照)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわしご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり....。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章14、15節

キリストは羊のために命を捨てる良き羊飼いです。
(旧約聖書においては羊が羊飼いのために死んだのです。)
キリストはみことばを通して呼びかけています
この御言葉を聞いて信じた者は門を通して進みます。
彼らの宗教という群れから出てゆき、キリストの真実なる群れに入るのです。
この群れは教会です。

3、適用(10章22〜42節)

2、3ヶ月過ぎてもユダヤ人たちはイエスの言われたことについて論争していました。
キリストは彼らが自分の群れに属していないことを指摘しました。
それは彼らが信じていないことを示しています。
イエスはここで真実なクリスチャン、キリストの羊についての美しい描写を与えています。

(1)彼らはキリストの声を聞きます。
それは彼らがイエスの声を聞き、それに応答することを意味しています。
救われていない者は聖書に対してわずかに関心示すかもしれませんが、興味を持つことはありません。
真実なる羊はみことばによって生きているのです。

(2)彼らはキリストを知り、知られています。
彼らは偽の羊飼いには従いません。

「わたしは良い牧者です。
わたしはわたしのものを知っています。
また、わたしのものは、わたしを知っています。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章14節

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。
またわたしは彼らを知っています。
そして彼らはわたしについて来ます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章27節

たとえ自分が教会員と言う人であろうと、
また、ある人は宗教組織から逃れ他の宗教組織に行くかもしれません。
もしくはカルト組織から他の組織に真理と言われるものを求めて逃れるでしょう。
たとえどんな宗教組織に属していたとしても、キリストの声を聞き分けなければ彼らが真実な羊とは言えません。

(3)彼らはキリストの後をついてゆきます。
それは従順について語られているのです。
もし、男であろうと女であろうとずっと強情でいるのなら、誰もキリストの羊の一匹であるための要求を求められる人はいません。
それは大胆な不従順であり、キリストの羊になるために信じることを拒んでいるのです。
まさにここに偽の羊飼いがいます。
ここにいるやぎを羊のところへ行かせようと試みています。
ある日、キリストは彼らにこのように言われました。

「わたしはあなたがたを全然知らない。」
新改訳聖書 マタイの福音書7章23節

(4)彼らは永遠の命を持ち、永遠に安全です。
28節と29節において、キリストにある真実なクリスチャンに対して素晴らしい安全が宣言されています。
私たちは永遠の命を持っています。
この命の長さは決して、私たちが罪を犯さなかった期間の長さと同じ長さの命ではありません。
私たちはキリストのいやしと父なる神の手の中にいるのです。
キリストの羊に対して永遠の安全の二重の保障がなされているのです。
私たちは父なる神の御子へのプレゼントです。
父は御子からプレゼントを取り返すようなことはしません。
羊はクリスチャンの美しい表現です。
羊はきれいな動物です。
クリスチャンは非難すべきところがなく、無傷なものであるべきです。
羊はすぐにどこかにいなくなってしまいます。
私たちもそうなのです。
羊には羊飼いの保護、導き、そして食べ物が必要なのです。
そして、私たちにはキリストの霊的な守り、日々の導き、そして、霊的な食べ物が必要なのです。
羊は有益な、生産的な家畜です。
真実なクリスチャンもそうなのです。
最後に羊はささげものに使われました。
そして、クリスチャンは喜んで自分自身を生きたささげものとしてキリストに捧げるのです。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙12章1節

ユダヤ人たちはキリストを殺そうと試みることによって自分たちの不信仰を証明しました。
キリストは詩篇の82編6節を引用することによって彼らを拒んだのです。

「わたしは言った。
「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」

新改訳聖書 詩篇の82編6節

もし、ヤハウェが地上の裁判官を神々と呼んだのであれば、その時、たしかにイエスは自分自身を神の御子と呼べるのです。
イエスは自分を不必要な危険の中に置かないように気をつけました。
キリストはこの場面から離れたのです。
多くの者たちはキリストの所に来て、キリストを信じました。
信仰によって、門を通ったのです。
ユダヤ教という群れを出たのです。
そして、自由を、永遠の命を、キリストだけが与えることができるのです。


ヨハネの福音書 11章

この章の中に7番目の奇跡がヨハネによって記録されています。
ここで私たちは死者の中からの復活として救いが描写されていることを見ることができます。
死者に命が与えられているのです。
あなたのコンゴルダンスを使って、ヨハネが命という言葉をどのくらい使っているか調べてみてください。
ヨハネはこの言葉を36回使っています。
ラザロの復活は7つの方法によって、失われた罪人の救いを現わしています。
私たちにはこれら一つ一つをはっきりと調べてみる必要性があるのです。

1、ラザロは死にました。(11章14節)
救われていない人は病気ではありません。
男であろうと、女であろうと彼らは霊的に死んでいるのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節

「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章13節

人が肉体的に死ぬ時、彼女はどのような食べ物であろうと、温度であろうと、苦痛であろうと何の反応もしません。
人が霊的に死ぬ時、彼は霊的な事柄に何の反応もしません。
彼女のこころに聖霊の働きが始まるまで、彼女は神に、聖書に、クリスチャンに、もしくは教会に興味を持ちません。

神はアダムに不従順が死をもたらすことを警告しました。

「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である主は、人に命じて仰せられた。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」」

新改訳聖書 創世記2章15〜17節

肉体的な死(体からたましいが分離される)、そして霊的な死(神からたましいが分離されるという二つの死です。

黙示録20章14節では地獄を第二の死と呼んでいます。
それは永遠の死です。

「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。
これが第二の死である。」

新改訳聖書 黙示録20章14節

罪人の死は神の定めれた方法であり、どのような教育も、薬も、道徳も、もしくは宗教も役にはたちません。
罪人に必要なのはキリストにある新しい命です。

2、ラザロの体は腐っていました。(11章39節)

福音書の中で主御自身のことは別として、ここでは三つの復活が記録されています。
キリストは死んでしまった12歳の女の子をよみがえらせました。
(ルカの福音書8章49〜56節参照)
また、死んで数時間たった若者をよみがえらせました。
(ルカの福音書7章11〜17節参照)
そして、死んで墓に入れられ4日間たった年寄りをもよみがえらせたのです。(ヨハネの福音書11章)

(1)少女
子供も罪人です。
しかし、まだ大胆な腐敗ははじまっていません。

(2)青年
青年も罪人です。
外見の腐敗が始まったことを示しています。

(3)年寄り
大人は罪人です。
はっきりと外見が腐っていることを示しています。

これら三つの点が腐っていることを指摘することができます。
ある人が他の人に比べてより死んでいると言うことはできません。
ただ、腐っている度合いが違うということがあります。
これは今日における真実な罪人の姿を表しているのかもしれません?
道徳的な教会員はどや街に住む人のように腐ってはいません。
しかし、死んでいるとことはありえるのです。

3、ラザロはよみがえり、命を得ました。(11章41〜44節)

二人の姉妹である、ユダヤ人の友人は唯一、同情し、泣いていました。
その思いはキリストを必要とし、ラザロに命を与えることが出来たのです。
どのようにキリストはラザロに命を与えることが出来たでしょうか?
それはみことばの力によってです。

これが以上の三人の人たちすべてをキリストが復活させた方法です。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。
―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章4〜6節

なぜキリストはラザロをよみがえらせたのでしょうか?
それはキリストがラザロを愛していたからです。

「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章5節

「そこで、ユダヤ人たちは言った。
「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章36節

そして、神の栄光を輝かせるためなのです。

「イエスはこれを聞いて、言われた。
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
神の子がそれによって栄光を受けるためです。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章4節

これがキリストがラザロを救った理由です。
私たちは死に、地獄に行く値のある者です。
しかし、神の偉大な愛のゆえに、神は私たちを救ってくださったのです。
(エペソ人への手紙1章3〜14節、2章1〜10節参照)

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。
これは神の豊かな恵みによることです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙1章7節

救いとは規則を守ることではないことをこころにとめてください。
救いとは命です。
(ヨハネの福音書3章14〜21節、36節、5章24節 10章10節 ヨハネの手紙第一5章10〜13節参照)

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章36節

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章11〜13節

この命とはイエスキリストのことです。
罪人が死んだ(霊的に)時、神の御子の声(みことば)を聞き、信じます。
彼らには永遠の命が与えられます。
みことばを拒むということは永遠の死を意味します。

4、ラザロは自由にされました。(11章44節)

「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章44節

ラザロの手足は縛れていました。
彼自身では自由になることはできません。
クリスチャンは古い命という「死者に巻く包帯」によって縛られてはいません。
クリスチャンは新しい命の自由の中を歩むことが出来るのです。
コロサイ人の手紙3章1〜17節まで読んで、クリスチャンがどのようにこの古い包帯を脱いで、新しい命である恵みの衣を着たのかを学んでください。

「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章9、10節

クリスチャンが古い命の事柄を、自分のところへ持ってくることは大変哀れな証言となります。

5、ラザロは他の者に対して証しとなりました。(11章45節)

「イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章45節

ヨハネの福音書の11章45節、そして12章9〜11節、そして17節を読むならば、ラザロがこの地方において大変な騒動を起こしたことを知ることが出来ます。
人々はラザロを見て、キリストを信じました。
現実に、ラザロが歩いていることが奇跡だったのです。
まさにすべてのクリスチャンが歩んでいることが奇跡なのです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙6章4節

イエスだけではなく、ラザロを見ようと非常に多くの群集がシュロの主日に集まって来たのです。
12章10、11節を見るならば、私たちは人々がイエスを信じた理由としてラザロが取り上げられているのを知ることができます。
クリスチャンにはこのような証言が特権として、また義務として持つことができます。

「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章11、12節

6、ラザロはキリストと交わりを持つ者とされました。(12章1〜2節)

「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。
そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。
そしてマルタは給仕していた。
ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章1〜2節

12章1〜2節を読むならば、私たちはラザロがキリストとともにテーブルに座っているを知ることができます。
祭りをキリストともに過ごしたのです。
これはクリスチャンのいるべき当然の場所なのです。

「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。
―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章5、6節

キリストと共に時を過ごすことにより、キリストの哀れみと愛に対する感謝をラザロは表していたのです。
ラザロはイエスのみことばから学び、キリスト共に歩む新しい力(証の力)を受け取っていました。
救いの奇跡は私たちに永遠の命を与えます。
そして、私たちは霊的な命にあって成長するために、日々、キリストともに交わりを持たなければなりません。
非常に興味深いことが記されています。
クリスチャンの命がどのようなものか、ベタニアの家族全体がそれを証明しています。
マリアはイエスの足元にいます。
イエスのみことばを聞くというレッスンの結果です。

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」

新改訳聖書 ルカの福音書10章38〜39節

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章32節

「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章3節

マルサは奉仕者を描いています。
マルサはキリストのために何かを忙しくすることを見つけようとしています。
ラザロは、日々、他の人をキリストに導くという証し人を描いているでしょう。
この三つの人たちは実際のクリスチャンの生活の中になければならないことです。
礼拝(マリア)、働き(マルサ)、そして歩み(ラザロ)

7、ラザロは迫害されました。(12章10〜11節)
ユダヤ人はラザロを嫌いました。
それは他の者にキリストが神であることを確信させたからです。
多くの大祭司は復活を信じないサドカイ人でした。
ラザロは生きていることはサドカイ人たち間違っているという証明となったのです。
祭司職は神によっても辞職させられなかったでしょう。
彼らはきっとラザロのために、カルバリの丘の上にもう一本十字架を追加しようとしたのかも知れません。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二3章12節

悪魔は神のためになされた証言である生きている奇跡をつぶそうと戦っています。


ヨハネの福音書 12章

1、キリストとのその友(12章1〜11節)
ユダヤ人指導者たちはキリストを殺そうと計画を立てていました。

「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章53節

「さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章57節

イエスの仲間たちはベタニアの祭りにあってキリストをほめたたえました。
マルコの福音書14章3節によるとそれがシモンの家であることが示されています。

「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」
新改訳聖書 マルコの福音書14章3節

はっきりとらい病人をイエスがいやされたことが記されています。
マルサは食事のために仕えていました。
彼女がこのことを経験する以前は彼女には悩みや挫折心もなかったはずです。

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません。」」

新改訳聖書 ルカの福音書10章38〜42節

マルタはキリストに自分の生き方を制御させるその秘訣を学びました。
以前に述べられているように、マルサはキリストの働き人として表現されています。(福音書において、彼女は常にイエスの足元にいます。)
マリアは礼拝者として表現されています。
そして、ラザロは私たちの歩み、証し人として表現されているのです。
マリヤの使った香油は普通の労働者、何年分のかの賃金の価値があります。
マリアはこの香油をキリストに塗り、彼女のキリストへの愛を示したのです。

人が死ぬ前に他の人々にその愛を示すということは非常に優れていることです。
マリアは自分の兄弟であるラザロが死んだ時、この香油を使うことができました。
しかし、ここではキリストのためにマリアは仕え、最高の愛を示したのです。
いつであろうとクリスチャンはキリストへの愛を示すことができます。
そして、どこであろうとも必ず、不満をもらす批評家もいるものです。
ユダのこころは正しくありませんでした。
彼の唇は悪意に満ちていました。
キリストがどのようにマリアをかばったかを見てください。

「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。
それは、義なるイエス・キリストです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節

もし、神が私たちを愛しておられるのに、私たちの対して立ち向かうのならどのようなことになるでしょうか?
(ゼカリヤ書3章を見てください。
悪魔はヨシュアを訴えていますが、主がヨシュアを守っています。)
マリアの献身的な行動は私たちが見習うべき行動なのです。
彼女は自分の出来る最高のことをしました。
彼女は惜しみもなく与えました。
彼女は批判されても与えました。
彼女は愛情を込めて与えました。
キリストは彼女の礼拝の姿をほめています。
そして、キリストは悪魔の攻撃からマリアを守っています。

「すると、イエスは言われた。
「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。
わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」

新改訳聖書 マルコの福音書14章6節

2、イエスと異邦人(12章12〜36節)
キリストの誕生の時、異邦人は西の国からやってきました。
そして、今、キリストの死にあって異邦人が再びやって来ています。
なぜ、ヨハネはこの点において彼らのことを述べているのでしょうか?
それは王が今、イスラエルによって拒絶されたからです。
ユダヤ人たちは言いました。

「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
新改訳聖書 マタイの福音書12章38節

「ピリピ」とはギリシャ語の名前です。
来訪者はイエスに会わせて欲しいとピリピのところへやってきました。
そして、この問題をアンデレのところへ持ってきたのです。
いつも、アンデレは誰かをイエスのところへ連れてゆきます。
アンデレこそがたましいの勝利者としての実例なのです!

「ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。
「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章40〜42節

「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章8、9節

「ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章22節

キリストが自分が十字架に上げられることを述べた時、彼は異邦人のことを述べています。
マタイの福音書10章5節、そして15章24節にあって、キリストは異邦人を避けること弟子たちに教えています。

「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。
「異邦人の道に行ってはいけません。
サマリヤ人の町にはいってはいけません。」」

新改訳聖書 マタイの福音書10章5節

「しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。」
新改訳聖書 マタイの福音書15章24節

しかし、今、キリストは十字架を通して救われることを異邦人にも語っているのです。
キリストは一粒に小麦であり、死ななければ実をならすことはできません。
そして、イエスはこの世に救われるチャンスを与えたのです。
キリストはすべての人々(ユダヤ人と異邦人)の上に上げられなければなりませんでした。
そうするのならば、キリストはすべての人々を自分のところへ引き寄せることができるのです。

「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章32節

これは例外なく、すべての人々が救われることを言っているのではありません。
どのような人も人種にかかわりなく救われることを言っているのです。
キリストは再び「時」について述べています。

「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章23節

「『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。
いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章27節

キリストは最初に2章4節においてこのことを述べています。

「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書2章4節

そして、再び7章30節、13章1節、そして17章1節においてこの「時」について述べています。

「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書7章30節

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章1節

「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。
「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章1節

この時とは御自身の死の「時」です。
しかし、キリストはこの時を栄光の時と読んでいます。
26節において、キリストが「誰でも」と言って招待をしています。

「わたしに仕えるというのなら、その人(誰でも)はわたしについて来なさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章26節

その土台のレベルは十字架上のイエスに足よりも低いのです。
ユダヤ人も異邦人も何か特別な利点などありません。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、...。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章23節

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙3章10〜12節

「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章32節

3、キリストとユダヤ人(12章37〜50節)
キリストの公生涯における働きにおける最後の言葉は救いのチャンスを進んで通り過ぎようとする者たちに対する警告でした。
このクライマックスに注意してください。

「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章36節

この節の後で、使徒ヨハネはなぜキリストが身を隠したのか、なぜユダヤ人たちはイエスを訴えようとしていたのかを説明しています。
それはユダヤ人たちがイエスを拒むことが証明され始めたからです。
光はすでに輝いていました。
しかし、ユダヤ人たちは信じ、光に従うことを拒んだからです。
37〜41節までを注意して読んでみてください。
キリストの言葉を繰り返し拒むことの恐ろしい結果が待っていました。

「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。
また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。
それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章37〜41節

(1)彼らは信じませんでした(37節)。
たとえ、彼らが神の御子である証拠を見ても信じることはありません。
(2)彼らは信じることができませんでした(39節)。
それは、彼らの心がかたくなであり、彼らの目が見えなかったからです。
(3)それゆえ、神は「彼らが信じることができなかった」(39節)と言われました。
イザヤ書53章1節においてユダヤ人たちの不信仰が、そしてイザヤ書6章10節いにおいてはユダヤ人たちのかたくなな心が預言されていました。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現われたのか。」

新改訳聖書 イザヤ書53章1節

「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

新改訳聖書 イザヤ書6章10節

ヨハネの福音書12章40節において、イザヤ書の6章10節が引用されています。
ここではキリストを拒み続けるこれらの者たちに目を神が盲目にし、心をかたくなにしたことが宣言されています。
聖書の中でこの節は7回語られており、それぞれにおいてさばきが語られています。
*イザヤ書6章10節
*マタイの福音書13章14節
*マルコの福音書4章12節
*ルカの福音書8章10節
*ヨハネの福音書12章40節
*使徒の働き28章26節
*ローマ人への手紙11章8節

それは彼らが霊的なチャンスをいつでも得ることができると考えないように、繰り返し救われていない者たちの心に警告をしているのです。

「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章36節

「主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。」

新改訳聖書 イザヤ書55章6節

私たちはかつてヨハネが光と闇の間の衝突について書いていることに注意してください。
光は救い、聖さ、命の象徴です。
闇は罪のさばき、罪、死を表しています。
ヨハネは4つの違った種類の闇について語っています。

(1)こころの闇(ヨハネの福音書1章5〜8節、26節)
罪人のこころは悪魔によって盲目にされています。
彼らは霊的な真実を見ることはできません。

「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
---中略---
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二4章3〜6節

(2)道徳的な闇(ヨハネの福音書3章18〜21節)
救われていない者は罪を愛し、光を憎みます。

(3)さばきの闇(ヨハネの福音書12章35〜36節)
もし、人々が光に従わないのであれば、神は彼らに闇を送り、キリストは彼らから隠れます。

(4)永遠の闇(ヨハネの福音書12章46節)
闇にとどまることの意味することは永遠の地獄の中で生きることを意味しています。
42〜50節において、ヨハネはキリスト御自身を提示し、なぜ人々が光を拒む理由を示しています。
ある人はキリストを恐れて拒みました。

「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。
ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。
会堂から追放されないためであった。
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章42、43節

黙示録21章8節に地獄にどのような人たちが行くのかそのリストがあります。
そのリストの最初には恐れる者(おくびょう者)があります。
「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。」
新改訳聖書 黙示録21章8節

48節において、キリストは神のみことばを拒むことは罪のさばきに至ることを宣言しています。
救いはみことばから来るのです。

「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節

そして、今日において聖書は、人々がさばきについてのみことばを拒むという証言をしています。
この章においてキリストの公生涯のヨハネの記録を閉じています。
この章を厳粛に受けとめるべきです。
私たちは霊的なチャンスを軽率に扱ってはいけないことを思い出すべきです。
光は常に輝いているわけではありません。
キリストはいつの日かキリストの救い、みことばに無関心な者たちから身を隠されるでしょう。
箴言の1章20〜30節はこころにとめておくべき警告です。


ヨハネの福音書13章

1章11〜12節、そして12章36節と13章1節を比較してください。
私たちの学ぶ中でヨハネの福音書の新しい区分に入ったということがあなたにもわかるでしょう。

「この方(キリスト)はご自分のくに(もしくはこの世界)に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章11節

今、私たちはキリストの一般的に知られている職務から離れて、キリストがイスラエルのメシアとして、そして、御自分の弟子たちを集めるために来られたということに注目してみましょう、
13章から16章まで、キリストは2階の間において御自分の死と御自分の昇天後の弟子たちの働きのために彼らへの教えが記録されています。
13章においては、すべてのクリスチャンに適応できる3つの重要なレッスンが含まれています。

1、謙遜のレッスン(13章1〜5節)
イエスは足を洗いました。
これは謙遜と仕えるという実例を私たちに示して下さったのです。

「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章4、5節

中東の国々では客人の足を洗う仕事は奴隷のする仕事でした。
ここでキリストは奴隷の立場を取っています。
13〜16節においてキリストは弟子たちのはっきりとこのことを示しました。
もし、彼らの主であり、先生が彼らの足を洗ったのなら、彼らも謙遜に他人の足を洗い、互いに仕えるべきなのです。
このことは12人の弟子たちのこころを打ったことでしょう。
彼らはまさにこの夕方に誰が一番偉いかを論争していたからです。

「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
すると、イエスは彼らに言われた。
「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
だが、あなたがたは、それではいけません。
あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。
また、治める人は仕える人のようでありなさい。」

新改訳聖書 ルカの福音書22章24〜26節

1〜5節におけるキリストの行動はキリストがこの地上に来るために天を去ったその目的が何かを表しています。
キリストは御自身の王座から立ち上がり、御自身の栄光を脇に置き、しもべの姿を取り、御自身を謙遜にし、十字架に掛かってくださったからです。
ピリピ人への手紙2章5〜11節において、キリストの美しい歩みが説明されています。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章5〜9節

キリストは贖いの御業を完成されました。
キリストは御自身の王座の外着を着て、着座されたのです。

「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章12節

キリストの復活、栄光の昇天、父の右の座の王座に座られたことを前もって示されたのです。
ペテロにはこの謙遜のレッスンが必要でした。
ペテロはペテロ人の手紙第一5章5、6節でこのように書いています。

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。
神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

新改訳聖書 ペテロ人の手紙第一5章5、6節

上の節を注意深く読んでください。
今日において、とても多くのクリスチャンが謙遜を学ぶために、互いに認識しあい、立場と必要を認めあうために励むことが必要です。
神はプライドを持つものに抵抗し、謙遜な者に恵みを与えます。

2、聖めのレッスン(13章6〜17節)
8節における、ペテロに対するキリストのことばは重要です。

「ペテロはイエスに言った。
「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章8節

キリストとの結合と交わりとは違います。
ペテロは信仰によって、キリストのものとして結合されていました。
しかし、罪は主との交わりを壊しました。
単なる交わりと子としての交わりとは違います。
私たちがキリストとの交わりの中に、そして、キリストの存在と力の中にとどまっているのは、単に私たちが私たち自身を清く歩ませるためなのです。
10節において、洗うと清くすることの重要な違いを示しています。
この節を文字通りに読んでください。

「イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。
全身きよいのです。
あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章10節

東の国々の人々は公衆浴場を使っていました。
人々は汚い道を歩くので、彼らの足は汚くなりました。
家に着くと、彼らには別の風呂は必要ありません。
彼らはただ足を洗う場所が必要だったのです。
そのようにそれはクリスチャンの歩みを示しています。
私たちが救われた時、私たちのすべてが洗われたのです。

「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。
しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一6章9〜11節

「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
新改訳聖書 テトス人の手紙3章5節

私たちが日々の罪を主に告白する時、主は私たちの足を洗い、私たちの歩みを清めてくださるのです。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章7〜9節

ユダヤ人祭司が任命される時、彼らは体すべてを洗うのです。
このことは私たちは一度、すべてが洗われたことを描写しています。

「アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。」
新改訳聖書 出エジプト記29章4節

しかし、神は同様に彼らの手と足を日々洗うために洗盤をも用意してくださっているのです。
今日において、キリストは水のみことばを通して御自分の教会を洗っておられるのです。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章26〜27節

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章3節

私たちが日々みことばを読みます。
聖霊が私たちのこころを探ることをお許しなっています。
そして、私たちは自分の罪を告白し、私たちの足を清め、私たちは光の中を歩みます。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章12節

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
新改訳聖書 詩篇119章9節

このレッスンは救いを「得る」とか「失う」とかを言っているのではありません。
それはキリストにある共有、交わりの重要な問題です。
多くのクリスチャンたちが9節にあるペテロのように同じ失敗を繰り返しています。
誰もが自分の足を洗ってもらいたいと願うでしょう。
しかし、その時、多くのクリスチャンたちが体全体を洗って(救って)もらうように願うのです。

3、偽善のレッスン
ユダは二階の部屋にいました。
ユダはキリストに属しているふりをしていました。
10〜11節において、キリストは弟子たちの一人が救われていないことをはっきりと示しました。

「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章11節

他の弟子たちがユダが偽者であることが理解できなったほど、ユダの詐欺は成功していたのです。
キリストは詩篇の41編9節を引用し、自分が裏切られることを示しました。

「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」
新改訳聖書 詩篇41章9節

キリストはちょうどユダの足を洗ったところです。
今、ユダはキリストに対してかかとを上げたのです。
さらに十字架上のキリストの死は悪魔を打ち負かせました。
悪魔はユダを自分の道具として使ったのです。

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、...。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章2節

「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章27節

最初に悪魔はこころにその考えを植えました。
その時、悪魔はその人の中でその人の命を制御し始めるのです。
キリストは不信者に対してつまづきから弟子たちを守るために、弟子たちにこの節を語っています。

「わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。
そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章19節

クリスチャンはある出来事によって敗北だと感じることによって勇気を無くしてしまうことがあるでしょう。
しかし、クリスチャンはみことばを信じ、みことばが簡単に私たちの勇気をなくさせてしまうようなことはありません。
21節において、キリストは大胆にも、弟子たちの一人が自分を裏切ることを語っています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章21節

実際、これはユダに対する最終的な警告となりました。
キリストはユダの足を洗い、ユダに対してみことばを引用し、今、はっきりと警告しています。
これらはキリストがユダに対して、彼のこころの方向を変えるチャンスを与えているのです。
ヨハネはイエスの胸元にいました。
(最後の晩餐の時、イエスのすぐ横)
ヨハネはイエスの言おうとすることを知り、それをペテロに伝えました。
しかし、主のみことばの意味をはっきりと理解した人々は誰もいませんでした。

「席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章28節

キリストと親密な交わりを持つものが、キリストの語ることを理解できることは非常に興味深いことです。

ユダがパン切れを受け取った時、ユダは最終的に悪魔に従ってしまいました。
ユダは悪魔の子だったのです。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。
悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。
彼のうちには真理がないからです。
彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。
なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書8章44節

聖霊のように、悪魔は人間のからだを通して働いています。
悪魔はユダのからだの中に入ったのです。
そして、こころを悪魔に引き渡したのです。

「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章30節

夜は闇であり、ユダのこころが闇であることを現わしています。
これは闇の力の時であることを事実を示しています。

「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。
しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」

新改訳聖書 ルカの福音書22章53節

ユダのような人物は危険です。
マルコの福音書14章21節においてイエスはこのようなことを言いました。

「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。
しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。
そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

新改訳聖書 マルコの福音書14章21節

ユダはクリスチャンのようなふりをしていたでしょう。
彼は罪を楽しんでいました。
彼は救いを脱ぎ去りました。
このような人は最後に「自分が生まれてこなかったほうがよかった」と言うのです。
ユダにはいくつか不思議なことがあります。
しかし、はっきりしていることもあります。
ユダはキリストを裏切る時、慎重にこの選択をしたのです。
ヨハネの福音書6章66〜71節において、キリストはユダのことを悪魔といって警告しました。

「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章70節

ペテロは「私たちは信じている」と言っています。
ですから、ユダも救われているとペテロは考えたのでしょう。
ユダが部屋を離れた後、イエスはペテロにイエスがなそうとしている試練と失敗について警告しています。
ペテロは他の人の罪を見つけることを願っていたからです。

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。
「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。
「主よ。それはだれですか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章23〜25節

今、ペテロは自分の罪に直面しているのです。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
新改訳聖書 マタイの福音書7章1節

ペテロの自慢はペテロが自分のこころの中を理解していないことによって示されました。
自分を過信するはクリスチャンの歩みにおいて、危険なことです。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章36節

ペテロにはキリストに従うことを言いました。
おそらく、前もってペテロはキリストのために死ぬことを預言していたのでしょう。

「まことに、まことに、あなたに告げます。
あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。
こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書21章18、19節

「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章14節


ヨハネの福音書14章

なぜ、弟子たちのこころは悩んだのでしょうか?
キリストは弟子たちに自分が彼らから離れてゆくことを御語りになりました。
彼らの中の一人は裏切り者でした。
また、ペテロはキリストに対して失敗者となりました。
このことは疑うことなく、弟子たちをかき乱しました。
それはペテロが彼らのリーダとも言える存在だったからです。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」
イエスは答えられた。
「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
ペテロはイエスに言った。
「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。
あなたのためにはいのちも捨てます。」 イエスは答えられた。
「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章36〜38節

イエス御自身が内側に重荷を背負っておられました。

「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章21節

もちろん、イエスの問題は弟子たちのような問題ではありません。
この章において、キリストは弟子たちを慰め、そして、静かに弟子たちのこころを静めました。
キリストは彼らになぜ、自分が弟子たちから離れてゆくのか、また、なぜ、父の御元に行くのか、その理由を5つ語りました。

1、彼らのために場所を備えに行く。

キリストは天国が現実の場所であることをお語りになりました。
単にこころの状態ではありません。
キリストは天国を父の住む愛しい家として描写しています。
場所(KJVではMansions=マンション)は実際に住む場所を示しており、天にある私たちの永遠の家について話しておられるのです。
天国とは準備された人々のための準備された場所です。
イエスは大工でした。

「この人は大工ではありませんか。」
新改訳聖書 マルコの福音書6章3節

キリストは大工として、キリストを信じるすべての者のために天国の家を建てているのです。
そして、キリストは御自身の民を受け取るために帰って来られるのです。
後に、パウロはテサロニケ人への手紙第一4章13〜18節において、この約束をより詳しくこの約束を述べています。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一4章13〜17節


「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章8節

キリストは地上に残り、御自分の民のために天的な家を準備することは出来ませんでした。
どのように罪人たちが天国に行く希望を持ち続けることが出来たでしょうか?
キリストを通してです!
ルカの福音書15章11〜24節を読んでください。
ヨハネの福音書14章6節に関連して、放蕩息子の話があります。
失われた者として(ルカの福音書15章24節)、救いの方法を知らない無知な者として(しかし、我に返る時までその方法を知らなかった--ルカの福音書15章17節)、そして死んだ者として(ルカの福音書15章24節)、罪人が描かれています。
しかし、息子は父のもとに帰ったのです。

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章20節

彼は失われていました。
しかし、キリストが道なのです。
彼は無知でした。
しかし、キリストが真実なのです。
彼は(霊的に)死んでいました。
しかし、キリストが命なのです。
そして、息子は悔い改め、帰った時、彼は父の家にたどり着いたのです。

2、彼らに父を現わしました。

ピリポは自分の目について悩みを持っていたようです。
彼は見たかったのです。
ヨハネの福音書1章46節に最初の言葉を見てください。

「ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章46節

ピリポはヨハネの福音書6章において、大きな群集を見ました。
そして、キリストがこの群集を満腹させることができないと思っていたようです。

「ピリポはイエスに答えた。
「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章7節

ギリシャ人はピリポのところへ来て言いました。

「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。
イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章20、21節

御子(イエス)と会うことは御父と同じであることをイエスははっきりと言いました。
7節にあるキリストの約束はこれです。

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。
しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書14章7節

キリストをより知るために、キリストのところへくることは父と会うことと同じである。
御父を信仰によって私たちは見ているのです。

3、彼らに赦された、特権と祈り(14章12〜14節)

キリストが弟子たちとともにいる間、キリストは彼らにその必要をお与えになりました。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。
求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書16章23、24節

今、キリストは天に帰ってゆきます。
キリストは彼らにその祈りの特権をお与えになりました。
キリストは祈りの答えがあるという約束をしました。
それは御父の栄光が現わされるためです。
キリストの御名にあって祈ることはキリストの栄光のために祈ることを意味します。
キリスト自身が願うと思われることは何であっても尋ねるべきです。
12節において「さらに大きなわざ」について話されています。
それは使徒の働きにおいて記録されているように、弟子たちが経験した素晴らしい奇跡との祝福について述べています。

「 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」
新改訳聖書 マルコの福音書16章20節

「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章4節

それは今日において、私たちを通して働かれるキリストの働きです。
それは単に私たちが「器」にすぎないということを理解したうえでの「おおきなわざ」なのです。
それに対して、神であるキリストは肉体をとられ働かれたのです。

4、聖霊が送られることについて

キリストはこれからの章において、聖霊について多くを語っています。
ここでキリストは聖霊を助け主(慰め主)と呼んでいます。
文字通り言うのであれば「あなたを助けるためにあなたとともに立っておられる方」を意味します。
「もうひとり」ということばは「同じような種類の方」という意味であり、キリストが神であるように聖霊も神であることを示しています。
キリストは同様に「真理の御霊」と呼んでいます。
聖霊はみことばを使い、罪人に確信させ、聖徒を導きます。
そして、神のみことばは真理です。

「真理によって彼らを聖め別ってください。
あなたのみことばは真理です。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章17節

世は決して聖霊を受け取りません。
それは信仰に応答し、聖霊は来るからです。
キリストが18節において「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」と語っています。
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章18節

その時、キリストは何を意味してこのようなことを言ったのか多くの議論があります。
文字通り時制を強調し読むのなら「わたしは、あなたがたのところに戻って来る(現在時制)」と言っているのです。
この発言の意味はおそらく、多くのことを含んでいると考えられます。
キリストは復活後、使徒たちのところへ帰ってきました。
また、キリストは聖霊を通して、弟子たちのところへ帰ってきたとも言えます。
そして、未来において、天へクリスチャンたちを連れてゆくために帰ってきます。
21〜26節において、弟子たちとの深い交わりについて語っています。
弟子たちは聖霊を通して、父とそして御子との交わりを持っています。
弟子たちは自分たちが孤児(文字通りの意味は慰め無し)にされると思いました。
しかし、現実にはイエスが御父のところへ言った時、聖徒たちと彼らの救い主との間に深い交わりが可能となりました。
この交わりはみことばに対する従順、そしてみことばに対する愛が含まれています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章21節

「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章24節

それは聖霊の働きによる教えであることをも含んでいます。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章26節

クリスチャンはみことばを学ぶ時間を持ちます。
生きたみことばが働く時、御父と御子との交わりを満足し、親密な交わりを楽しむことができます。
キリストへの愛はここで話されているように浅さかな感情ではありません。
それは聖霊の力によってみことばを愛し、従うことを意味しています。
14章1〜3節において、イエスは御父と御子と住まいを持つために天に迎え入れられる聖徒について話しました。
しかし、ここでは聖霊について語っているのであって、聖徒たちを迎え入れるために御父と御子が来られることを語っているのではありません。

5、キリストとの平安(14章27〜31節)

弟子たちには平安が必要でした。
平安とはキリストが世のものを与えるのではありません。
もしくは、世の与える方法を与えるのでもありません。
世の与える平安は、浅さかであり、満足することがなく、そして一時的です。
反面、キリストの平安はこころに深くやすらぎを与え、常に満足を与え、永遠にとどまるでしょう。
世は外面的には平安を与えるでしょう。
キリストの平安はこころの中に住むのです。
心理学者はこころの平安について話します。
しかし、キリストはキリストの死、復活、そして昇天を通して、神との平安を語っています。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章1節

ピリピ人への手紙4章4〜9節において言われていることは、クリスチャンが神との平安を持てることについて語られています。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章6、7節

キリストの地上の歩みの日にあってこのように述べられました。

「父はわたしよりも偉大な方だからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章28節

しかし、神の御子は御父と同等なる方です。
御子は人間のからだをお持ちになりました。
イエスは御父への従順をお持ちなりました。
御父はキリストにみことばとその働きをお与えになったのです。

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。
わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書14章10節

「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章24節

キリストは十字架の上で死なれ、天に帰ってゆくことにより、悪魔を打ち破ったのです。
悪魔は混乱と不安の張本人です。

弟子たちがキリストの死が悲劇や失敗だと考えないように、キリストは31節において十字架が御父への愛の証明であることを保障しました。
キリストが死なれたのは御父の命令だったゆえです。
そして、キリストは御父のみこころのために来られたのです。
あなたがこの章を見直す時に、どのようにキリストが混乱する弟子たちを慰めようと気づかいされているか気がついてください。
これらの慰めのみことばが今日、私たちのためにあります。
信仰によってこれらのことを主張してください。


ヨハネの福音書15章

ヨハネの福音書14章は次のことばで終わっています。

「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章31節

この節は次の2章が、ゲッセマネの園に行く途上において語られたことであることを示しています。
キリストがぶどうと枝のたとえを語ったのは、おそらくキリストと弟子たちが、いくつかのぶどう園のそば、もしくはぶどう園の中を通って行ったか、もしく神殿にある金のぶどうの飾りを見てこれらのことを語ったのでしょう。
この章は3つの項目に分けることができます。
*たとえ話(15章1〜11節)
*命令(15章12〜17節)
*警告(15章18〜27節)

1、たとえ話(15章1〜11節)

たとえ話が必ず何かを教えていなければなりません。
しかし、何においても適応すれば良いというのは間違った考えであることを覚えておくべきです。
たとえ話が教えているのは一つの真実です。
そして、たとえ話があらゆる方面から語ることが出来るというのは、陥りやすい間違いへの最初の一歩です。
たとえ話の中でキリストが教えようとしている主題は、キリストにとどまる者は実を結ぶという重要な真実です。
この「実」ということばは6回使われています。
そして、「とどまる」ということばは少なくとも15回使われています。
(必ずしも、同じことばが「とどまる」とは翻訳されていません。)
この教えにおける重要な点は交わりです。
子としての父との関係ではありません。
6節のことばが、もし、クリスチャンが実を結ぶことに失敗するのなら、
クリスチャンが救いをなくす、もしくは燃える地獄の中に入ることを証明するために使われます。
それはこのたとえ話の教えていることをねじっています。

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章6節

まず、最初に言える事はヨハネの福音書10章27〜29節などの他の箇所で教えられていることと、はっきりと矛盾していることです。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。
だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章28〜29節

さらにキリストが6節において話している枝は投げ捨てられた後に、枯れています。
キリストにとどまるということは、私たち自身が私たちの救いを守るということを意味していません。
キリストのみことばを聞き、祈り、キリストに従って生きるいること、そして、私たちがキリストのみことばを通して清められて生きてゆくことを意味しています。
クリスチャンはキリストにとどまることに失敗します。
使いものにならない枝。もしくは塩気をなくした塩のように利益のないものになります。
コリント人への手紙第一3章15節で教えられていることは、私たちの働きが火によって味付けされているということです。

「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章15節

クリスチャンは神が与えた賜物と機会を使うことに失敗します。
クリスチャンはこれらのものをなくしてしまうことがあります。

「だから、聞き方に注意しなさい。
というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」

新改訳聖書 ルカの福音書8章18節

「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第二8節

ぶどうの枝はクリスチャンがキリストと継ぎ合わされれ、キリストのいのちを分け合うということ教えています。
私たちがキリストの中にとどまるので、キリストのいのちが私たちを通して流れ出て、実を結ばせるのです。
肉にあるクリスチャンが働きの結果を得ることは可能です。
しかし、霊的なクリスチャンだけが実を結び続けるのです。
実りの多い枝は「刈り込み」されることに注意してください。
(3節にある「きよい」ということばと同じことばです。)
そのようにして、実りの多い枝はより多くの実を結ぶのです。
神はみことばを通して、私たちを清めます。
私たちを懲らしめ、より多くの実を結ばせます。
献身的なクリスチャンはたびたび苦しみを通ることがあります。
それがなぜなのか、私たちは考えますが、その答えの助けがここにあります。
クリスチャンたちが単に実を結ぶ者から、より多くの実を結ぶ者(2節)になり、たくさんの実を結ぶ者(8節)になってゆきます。
それは彼らが御父の栄光を現わすからです。
そのいのちがとどまっている証拠として、救い主の愛を感じることが出来ます(9節)。
神のみことばに従順です(10節)。
祈りに答えられます(7節)。
そして、喜びます(11節)。

2、命令(15章12〜17節)

私たちが互いに愛し合うことこれは11番目の戒めということができます。
たしかにキリストの中にとどまる者は他のクリスチャンとともに進むでしょう。
兄弟への愛は弟子である「しるし」となります。
今、イエスは弟子たちのことを「兄弟」と呼んでいます。
キリストの十字架上の死は弟子たちへの愛の証拠となりました。
今、弟子たちは神の子供たちを愛すること、友を互いに愛し、互いに助けることによって神への愛を証明されるのです。
私たちが求めるキリストに対する従順は奴隷としてではなく、友としてです。
それは私たちがキリストの友であり、私たちがキリストの内にとどまっているからです。
私たちは神のみこころを知り、互いにその思いを共有するのです。
私たちはアブラハムが神の友であることを思い出すべきです。
神はソドムに対する神の計画をアブラハムに知らせました。

3、警告(15章18〜27節)

兄弟に対する愛から、キリストは世に対して決別します。
なぜ、世はクリスチャンを憎むのでしょうか?

(1)世は最初にキリストを憎んだからです。
そして、私たちはキリストに属しているからです。

「兄弟たち。
世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章13節

(2)もはや、私たちは世に属していないからです。

「彼らはこの世の者です。
ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。
神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章5、6節

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。
しかし、世は彼らを憎みました。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章14節

(3)世はキリストのことばを拒んだからです。

「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。
もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。
もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書15章20節

(4)世は御父を知らないからです。

「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章3節

(5)世の罪がキリストによって暴露されるからです。

もちろん、「世」によってというのは、社会の組織全体がキリストと御父に反抗していることを意味しています。
社会は確かに人々のために、そして、組織のために作りあげられています。
しかし、その哲学と目的はクリスチャンに反対するために存在しているのです。
世の君は悪魔であり、キリストの敵です。

「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章30節

その反面、クリスチャンは肉体的には世にいますが、霊的には世のためにいるのではありません。
昔の実例として船と水が適応できると思います。
水の中にある船には何の問題もありません。
しかし、船の中に水がある時は、注意すべきです。
クリスチャンは世的になることができます。
そして、ロトのようにだんだんと世的になってゆきます。
最初に世との交わりがあるかもしれません。
しかし、世を愛してしまうのです。。

「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」

新改訳聖書 ヤコブの手紙4章4節

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。
もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章15〜17節

そして、最終的には世と一致してしますのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙12章2節

私たちが生きてゆく中で何をするにしても、神の愛を楽しむことから私たちを守ることは、神のみこころをこの世で行うことであり、同時に、この世を脱ぎ去ることなのです。
私たちがこの世のために生きようとすることはキリストの十字架を否定することになります。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章14節

世はキリストを憎んでいます。
どのようにしたらクリスチャンが世を愛することが出来るでしょうか?
22〜24節において、キリストは基本的な原則を置きました。
それは啓示を知ることは責任に至る(応答がある)ということです。

「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。」


新改訳聖書 ヨハネの福音書15章22〜24節

キリストのことばと働きは神のみこころ、そして人々の罪を啓示しています。
人間には弁解の余地がありません。
ユダヤ人と異邦人はキリストを憎み、十字架に付けることにおいて結びついたのは事実です。
それは人々が神の前に罪人であり、邪悪な者でしかないことを証明しています。
弟子を励ますために、キリストは詩篇69編4節を引用しました。

「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章25節

このみことばは私たちを強め、励ますことばです。
キリストは同様に聖霊の職務のも、彼らに約束しています。
聖霊の働きはキリストの証をさせ、キリストを示すことなのです。

キリストはみことばを通して、そして、良き働きを通してこのことを行っているのです。
クリスチャンは聖霊の力において働いているのです。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書5章16節

聖霊はクリスチャンを告白させ、他のものにも証をさせます。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章26〜27節

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

新改訳聖書 使徒の働き1章8節

要約するならば、この章の最初の区分(1〜11節)で主はクリスチャンのキリストとの交わりについて取り扱っていることに注意してください。
12〜17節においては、クリスチャンと他のクリスチャンたちのとの交わりに焦点を置いています。
18〜27節において、クリスチャンと世との関係について語られています。
私たちと救い主との関係が最初に現わされていることに注意してください。
それは、もし、キリストの中にとどまるのなら、私たちは兄弟を愛し、世が私たちを憎んだとしても私たちが勝利を得るゆえなのです。


ヨハネの福音書16章

弟子たちはキリストがなぜ彼らから離れなければならなかったのか、その理由を理解することはできませんでした。
キリストは彼らに自分が御父のところへ帰ることを示しました。
そして、そのことによりより大きな祝福を可能にしたのです。
聖霊が来られるのです。
クリスチャンのいのちは肉の力によって生きてはいません。
もし、私たちが生きるのなら、キリストの栄光のために生き、神の聖霊が必要なのです。
私たちの主はクリスチャンを通して、どのように聖霊が働かれるのかを説明しています。

1、聖霊は世に罪を認めさせます。(16章1〜11節)

世はクリスチャンの友ではありません。
キリストは弟子たちに迫害が来ることを警告しました。
迫害が来た時、彼らはつまづき、失敗しました。
まだ改心していない時のパウロは、2節において語られているような人物でした
まさに良き実例となっています。

「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章2節

その理由はキリストは弟子たちには語っていません。
この事実はすぐにやって来ました。
しかし、キリストが彼らとともにいて、キリストが彼らを守るのです。
今、キリストが弟子たちから離れてゆきます。
キリストは弟子たちにみことばを与え、彼らを励ましています。
もちろん、キリストは彼らに迫害について話しておられます。

「義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

新改訳聖書 マタイの福音書5章10〜12節

しかし、キリストは誰(宗教的な人たち)から、なぜ(世の無知と憎しみ)、迫害されるかについては説明していません。
今、キリストははっきりと聖霊の働きについて説明しています。
聖霊は世の中において、教会を通して働かれるのです。
聖霊が世にあって、また、世に対して罪を告発しているのは事実です。
現実に、キリストは世にあって、王として支配しています。
しかし、世はキリストを十字架に架けました。
聖霊が失われた世に人々のところへ来たのではないことを覚えておくべきです。
そう、神の人々のところへ来たのです。

「その方は、真理の御霊です。
世はその方を受け入れることができません。
世はその方を見もせず、知りもしないからです。
しかし、あなたがたはその方を知っています。
その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書14章17節

神の聖霊がここにおられます。
おそろしい人類の罪を思い出させます。
聖霊によって示される罪を三方向から見ることができます。

A、罪について。(9節)

「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章9節

これは信じていない人たちの罪です。
聖霊は世にある個人の罪を告発しているのではありません。
良心が一人々々の罪を告発しています。

「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。
おりを見て、また呼び出そう。」と言った。」

新改訳聖書 使徒の働き24章24、25節

もしくは、キリストが世にあって一人々々の罪を告発しているのです。
罪は信じていない人たちのたましいを告発しています。
そして、キリストを拒むのです。

「御子を信じる者はさばかれない。
信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章18〜20節

B、義について。(10節)

「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章10節

この義は不義とは違うということに注意してください。
これは失われたたましいの罪です。
キリストは聖霊がこの世の罪を告発することについて語っています。
個人的にも適応できるかもしれませんが、ここでは信じていない者を個人的に責めているのではありません。
聖霊は世にあってキリストの義を現わしています。
今、キリストは父のところへと帰って行きました。
その反面、キリストは律法を破る者と罪人、そして、同様に偽者を告発しています。
しかし、聖霊は御父が御子を復活させたこと、そして、御父はキリスト受け取り天に帰っていったことを世にあって証明し、現わしています。

C、さばきについて(11節)

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章11節

この「さばき」と「やがて来る審判」(使徒の働き24章25節)とを一緒にしてはいけません。
キリストがここで話しているのは十字架における過去のさばきであって「未来のさばき」ではありません。
キリストが話しているのは悪魔と世がさばかれるということを話しているのです。

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章31節

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章15節

世にあって聖霊は悪魔の敗北とすでにさばかれたことを証明し、表わしているのです。
それでも、悪魔はこの世を制御しているのです。
あなたはこれら三つのさばきを信じていない人たちへ個人的に適応させようとするかもしれません。
聖霊はクリスチャンの証しを用いて、みことばが救われていない人たちの罪を自覚させます。
罪人に必要なのは義なのです。
罪人は現実に悪魔に属しているのです。
罪人は失われているのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節

聖霊無しには救いはありません。
聖霊が罪を認めさせるのです。
ゆえに聖霊が失われたたましいへとみことばを使うのです。

2、聖霊はクリスチャンを教える(16章12〜15節)

弟子たちは自分たちの無知を感じなければなりませんでした。
キリストは聖霊の働きにおける教えを説明することによって彼らに確信を与えています。
キリストは次の章において述べています。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章26節

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章26節

また、13節において「御霊は自分から語るのではなく」と述べられていますが、聖霊が御自身の態度について、もしくは御自身の要求について決して話すことが無いことを意味しているのではありません。
聖霊は聖書を書きました。
聖書のページの中には、聖霊の何百もの言及が書かれています。
先の節の意味していることは、聖霊は自分自身を喜ばすようなことを教えず、御父と御子から教えられた通りに導いているということです。
聖霊はみことばから私たちに真理を教えます。
そして、実践し、キリストをほめたたえます。
ギー・キングはキリストに栄光を帰す、三つの方法について提示しています。
(1)聖霊のキリストについての本を書きました。
(2)聖霊はキリストに似たクリスチャンを造ります。
(3)聖霊はキリストのための花嫁を探します。
どんなクリスチャンであっても、キリストの前に身をかがめるのなら、聖霊によって教えていただくことができるのです。
詩篇119編97〜104節まで読むのなら、神はどのように謙遜なクリスチャンに対して教えることが出来るかが書かれています。

「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。
これが一日中、私の思いとなっています。
あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。
それはとこしえに、私のものだからです。
私は私のすべての師よりも悟りがあります。
それはあなたのさとしが私の思いだからです。
私は老人よりもわきまえがあります。
それは、私があなたの戒めを守っているからです。
私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。
あなたのことばを守るためです。
私はあなたの定めから離れませんでした。
それは、あなたが私を教えられたからです。
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。
私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。
それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。」

新改訳聖書 詩篇119編97〜104節

みことばを学び、みことばを実践して生きたいという思いはより多く考えることは、年齢の問題でも、敬虔、もしくは教育の問題でもありません。

3、聖霊はクリスチャンを勇気付けます。(16章16〜22節)

弟子たちはキリストが彼らから離れて行こうとされていたので、大きなつまずきに会い、勇気をなくしてしまいました。
16節はおかしな話のように思われます。

「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。
しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書16章16節

また、キリストは「わたいが去ってゆくから、あなたは再びわたしと会うのです」とも言っているようにも思われます。
二つの意味がここにあります。
最初にキリストの復活後、弟子たちは再びキリストと会うということです。
そして、聖霊が来て、彼らの中に住んだ時、弟子たちは同様にキリストと会うという意味です。

キリストは子供の誕生とキリストの苦難の出来事とを比較しています。
苦しみの後に喜びが続くのです。
イザヤ書53章11節ではこのように述べられています。

「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」

新改訳聖書 イザヤ書53章11節

弟子たちは泣き、嘆きました。
しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変えられたのです。
今日。私たちは悲しみと苦しみの中にいます。
しかし、キリストが帰ってくるとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるのです。
キリストの与える喜びを世は取り去ることは出来ません。

4、聖霊はクリスチャンの祈りを助けます。

「その日には」ということばが23節にありますが、おそらく聖霊が来られ、聖霊の働きが弟子たちの間で始めれる日のことを言っているのでしょう。
キリストが地上にいる間、弟子たちはキリストに問題を問いかけたり、必要を個人的に話したりすることが習慣となっていました。
キリストが天に帰る時、キリストは弟子たちの祈りにおいて彼らを助けるために、もしくは、個人的に御父への祈りを教えるために聖霊をお送りになりました。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。
なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章26、27節

聖書における祈りは、御子を通して、そして、聖霊を通しての御父への祈りです。
キリストが私たちのために父に願い求める必要はありません。
それは御父が喜んで私たちの願いに答えてくれるからです。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。
わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書16章26、27節

祈りとはものすごい特権です。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書14章13、14節

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書15章7節

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書15章16節

みことばを通して聖霊に教えられることが許されたクリスチャンであるならば、その人の祈りの歩みは祈りにおいて成長し、みことばとともに進むのです。
ユダの手紙20節で次のような命令が私たちにされています。

「あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り...。」
新改訳聖書 ユダの手紙20節

今日において、とても多くの者が肉において祈っています。
神のみこころではないことを祈っているのです。
(ヤコブの手紙4章1〜10節まで見てください。)
私たちの重荷のために祈る者の願いを聖霊の教えられるように祈ることは素晴らしいことです。

パウロは次のように祈っています。
「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。
次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙9章1〜3節

聖霊は御父のみこころを知っています。
聖霊は神が私たちに何を与えたがっているのかを知り、私たちを導いているのです。
よく言われることですが、祈りとは神に反逆する思いを乗りきることではありません。
神の喜びを知り、手に入れることです。
弟子たちの証言はキリストのこころを喜ばしたはずです。
しかし、キリストは彼らが失敗をすることを警告しました。

「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章32節

御父は最後に十字架の上でキリストを見捨てるのです。
「勇敢でありなさい」と主は言われましたがどんな祝福が待っているのでしょうか?
キリストはすぐにでも逮捕され、十字架に付けられようとしているのです。
それでも、キリストは自分に従う者たちに平和と喜びを与えようとしているのです。
キリストは弟子たちに勝利を約束しています。

「わたしはすでに世に勝ったのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章33節

聖霊は私たちの人生において特別な職務を持っています。
私たちは聖霊の方法を持つために聖霊に従うべきでしょうか?


ヨハネの福音書17章

ある人はこの章を適切に「ヨハネの福音書における至聖所」と名付けました。
私たちは御父と話す御子の会話を聞くという特権に預かりました。
あなたはこの章において語られる真実を黙想し、多くの日々を過ごすことができます。
しかし、ここで私たちは単に要点に触れることのみが許されているのです。

1、キリストは御自身のために祈りました。(17章1〜5節)
ここにいくつかの章において、最も大きなテーマはキリストが救いの御業を終えたということです。
2章4節のおいて、ヨハネは何度も「時」について述べています。

「わたしの時はまだ来ていません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書2章4節

あなたのコンコルダンスを使ってあなた自身のためにこれらの節に使われていることばを追いかけてみてください。

「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章4節

救いの御業とは何でしょうか?
それは「地上であなたの栄光を現わしました」ということです。
キリストは常に父の栄光を現わすという目的を持って十字架を見上げていました。
パウロも同様に十字架における栄光を見ていました。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章14節

キリストは御自身が地上に来られたのは死ぬためであり、その時、御子はその栄光をかえりみず、御父の栄光で再び満たされるのことを祈っていました。
(ピリピ人への手紙2章1〜12節参照)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章6〜11節

キリストの栄光が地に満ちたという時がただ一度だけありました。
それは山上の変貌のときです。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節

「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。
この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。
「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章16〜18節

ヨハネの福音書17章2節にある「お与えになった」ということばに注意してください。
(1)父は御子に人類すべてに対する権威をお与えになりました。
(2)御子は御父が御子に与えた者たちに永遠の命を与えました。
ヨハネの福音書17章における貴重な真実の一つとして、それぞれのクリスチャンに御父の御子への愛が与えられているということです。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章37節

これは私たちが表現することのできない不思議です。
しかし、そのことゆえに私たちは神に感謝します。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章29節

このみことばの意味は私たちの救いが保障されているということです。
なぜなら、御父は私たちを御子から取り上げてしまうようなことはしないからです。

「あなたの御名を明らかにしました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章6節

この宣言はヨハネの福音書におけるキリストの「私はある」という宣言に関係しています。
神の御名は「私はある」です。
そして、キリストは神が私たちにその存在の必要性をはっきりと現わしています。
空腹な者に対してキリストは「いのちのパン」であると言っています。
失われた者に対して「わたしは道」であると言っています。
盲目な者に対して「わたしは世の光」だと言っています。

2、キリストは弟子たちのために祈りました。(17章6〜19節)
このキーポイントは聖別です。
つまり、世と弟子たちの関係です。
イエスは言われました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章14節

そして、17節において、私たちが聖別されたという宣言がなされています。
みことばを通して、神の方へと分けられたのです。

「真理によって彼らを聖め別ってください。
あなたのみことばは真理です。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章17節

聖別は罪無き完全を意味しているのではありません。
もし、そうだったら罪無き方が「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます」とは言えなかったはずです。
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章19節

クリスチャンの聖別はみことばによって日々成長することを言うのであって、その結果、クリスチャンはより世から離れ、御父の方へと分けられてゆくのです。

キリストは御父に弟子たちを守ってくださるように言いました。
この要求は弟子たちが救いを失ってしまう可能性を述べているのではありません。
この完全な要求に注意してください。

「あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章11節

15節において彼らが悪い者から守られるように願っています。

「悪い者から守ってくださるようにお願いします。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章15節

キリストが肉体において弟子たちとともにいた時、キリストは彼らを守ることができました。
世から離され、こころと目的において結び合わされていたのです。
今、キリストは天に帰ろうとしています。
キリストは弟子たちを守ってくださるように御父に願っているのです。
ある人が、クリスチャンが自分自身と救いを無くすことの出来る証明になると言いました。
しかし、注意深く読むのなら、まさにその逆を言っているのです。
イエスは言いました。
「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章12節

これは、ユダが弟子であったが、信じていないことを示しています。
「ただ」ということばが他の弟子たちとユダが違う者であったことを示しています。
11節において、キリストははっきりと「わたしのものはみなあなた(御父)のもの」と宣言しています。
ユダがはっきりと失われた時から、ユダは御子に与えられた者に属していないことがはっきりしたのです。

多くの人たちがユダが救いを失ったと教えています。
それはユダが救いを持っていたというペテロと同じ誤解をすることになります。
ユダは救いを持っていなかったのです。

「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たち(12弟子)がだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章68節

クリスチャンはこの世の者ではありません。
しかし、クリスチャンはこの世にあって、キリストを証するのです。
私たちはみことばを通して私たちの生き方(いのち)が清められ、守られるのです。

キリストは実際に私たちをキリストの働きをするために世に送っているのです。
何という責任でしょうか!

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章18節

3、キリストは教会のために祈りました。

ここにある大きな主題は栄光化です。

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章22節

キリストは「これからわたしは彼らに与えよう」とは言っていません。
それは神の御計画にあって、クリスチャンはすでに栄光を持っているからです。

「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章30節

これはクリスチャンの持つ永遠の保障に対する別の証明となります。
私たちは神にかかわることにおいてすでに栄光を持っているのです。
キリストは私たちがキリストとともにキリストの栄光を見るように祈りました。
コロサイ人への手紙8章3節において、私たちはキリストの栄光を分かち合うことについて宣言されています。

「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙8章3節

ローマ人への手紙8章18節において、私たちにはキリストの栄光が啓示されると約束されています。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章18節

キリストは同じように御自分の教会と結び合わされることについて祈っています。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章21節

ここに「結び合わされる(霊とこころにおいて)」ということと「似たものになる」ということについて大きな違いがあります。
キリストは地上の教会が一つに属しているとは決して祈っていません。

教会という組織の合併は組織において「似た」ものになるかも知れません。
しかし、彼らは「結び合わされる」という点において保証されることはありません。
「結び合わされる」ということはいのちの中から現れます。
決して、外から来る圧力によっては得られません。
その一方、真実なるクリスチャンはまったく違った派閥にいるということも出来ます。
彼らは真実なる教会の一部なのです。
そのからだなる教会はキリストです。
しかし、それでもクリスチャンは他のクリスチャンを愛するべきです。
クリスチャンにとって、愛するということと比較するのなら、これらの問題は小さな問題です。
愛は福音の真実を世に確信させることができるでしょう。
そして、その愛によって霊的に結び合わされることは可能です。
死んだあらゆるクリスチャンは天に行きます。
それはキリストが祈りによって、またその祈りの御父の答えによって証明されます。

「父よ。お願いします。
あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章24節

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。
わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。
しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書11章41、42節

26節において、キリストはさらに御父が現わされることを約束しています。
それは聖霊を通して、キリストが弟子たちに与えられたものです。

「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。
また、これからも知らせます。
それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章26節

キリストは同じように私たちが日々の生活において御父の愛を楽しむように願っています。

「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章23節

私たちは次のようにこの祈りの主要部分を要約することができるでしょう。
1〜5節のおいて、イエスは救いと永遠のいのちの保証を強調しています。

「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章2節

6〜9節のおいて、イエスは聖別について説明しています。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。
しかし、世は彼らを憎みました。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章14節

20〜26節のおいて、イエスは栄光について焦点を置いています。

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章22節

これらの贈り物はクリスチャンの過去、現在、未来をすべてに適応され、保証されています。

祈りにおいて、クリスチャンが永遠の保証されたという素晴らしい確信があることに注意してください。

(1)クリスチャンは御父の御子への贈り物であり、御子への贈り物を父は取り返すということは有り得ないのです。
(2)キリストは御働きを終えられたのです。
キリストが働きを完成されたということは、クリスチャンは決して救いを失わないということです。
(3)キリストの地上にある御自分の者たちを守り、今日においても同様に守り続けることができます。
それは弟子たちにとっても、私たちにとっても同じ救い主だからです。
(4)キリストは最終的に私たちが天に行くことを知っています。
それはキリストがすでに私たちに栄光をお与えになっているからです。
(5)キリストは私たちが天にいるように祈りました。
御父はいつも御子の祈りを聞いておられます。


ヨハネの福音書18章

イエスは、イエスの敵と会うためにこの祈りの場所を去りました。
「ケデロンの川」は私たちにダビデ王のことを思い出させます。
ダビデは自分の友と家族から裏切られて逃亡生活をし、同じ水域を通り抜けたのです。
(サムエル記第二15章参照)

1、逮捕(18章1〜14節)
イエスはユダとその一団に引き渡されました。
イエスは何が起きるのかを十分に知っておられるからです。

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ...。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章2、3節

「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。
イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書6章6節

イエスは常にご自分が何をすべきかを知っていました。
それは、イエスは常に父のみこころを知っておられたからです。
この逮捕が園で起きたことは非常に興味深いことです。
キリストは最後のアダムです。

「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章45節

キリストは園において、敵と会い、勝利を得ました。
しかし、最初のアダムは園にあって敵と会いましたが、失敗をしてしまいました。
アダムは隠れました。
しかし、キリストは大胆にも御自身を現わしました。
ユダは敵とともに立っていました。

「釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。」
新改訳聖書 使徒の働き4章23節

人々はいつも自分のこころのある場所へと向かいます。
ユダはこころの中に悪魔を持っていました。
そして、悪魔の群集とともに立っていたのです。
イエスが「わたしはある(それはわたしです)」と神の御名を叫んだ時に、どのくらいこの群集が驚いたか想像してみてください。

「それはわたしです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章6節

同じ御名がクリスチャンを救い、また失われた者たちを罪に定めるのです。

「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章6節

「イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章8節

イエスは弟子たちを去らせるように言いました。
それは弟子たちがこの争いの中に陥らないようにしたかったからです。

イエスはすでに弟子たちが散らされることについて語っています。
しかし、ペテロは残ることを望み、戦い、そしてそのために危険の中に入ってゆきました。
ペテロはみことばに従い、ついてゆこうとしたのです。

「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章32節

9節は17章12節を引用しています。
そこではイエスは弟子たちの救いについて話しています。

「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。
彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。
それは、聖書が成就するためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章12節

「それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章9節

ここでイエスは肉体の守りについて語っています。
このようにキリストは二つの方法で、私たちを守ってくださるのです。
イエスは私たちのたましいを救いの中に保護し、私たちのからだを守ってくださいます。
贖いの日のために聖霊によって私たちを封印してくださっているのです。

「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。
これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙1章13、14節

ペテロは剣を使うことにあたって、イエスに不従順であり、まったく言われたことを聞いていませんでした。
キリストには私たちの守りは必要ありません。
私たちが悪魔に対して使う武器は霊的な武器です。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二10章4〜6節

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙6章12節

ペテロは悪い武器を、悪い動機で、悪い目的のために使い、悪い結果に到達しました。
何という素晴らしいことでしょうか!
イエスはマルコスをいやし、ペテロに加えられるべき危害から守ったのです。

「するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。」
新改訳聖書 ルカの福音書22章51節

このままであったなら、もう一本のカリバリの十字架があったでしょう。
ペテロは神の時が来る前にともに十字架に架けられたかもしれません。

2、否定(18章15〜27節)
今、キリストはペテロに焦点を置いています。
ペテロの情熱は悲しくも衰えてゆくのを私たちは見ることができます。
階上の部屋において、ペテロは三回、真実な者として最後まで残ることを自慢気に話していました。

「すると、ペテロがイエスに答えて言った。
「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」」

新改訳聖書 マタイの福音書26章33節

「ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」」
新改訳聖書 マタイの福音書26章35節

「ペテロはイエスに言った。
「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。
あなたのためにはいのちも捨てます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書13章37節

園において、ペテロが祈っていなければならない時に、彼は三回寝てしまいました。
(マルコの福音書14章32〜41節まで参照)
ペテロは三回イエスを否定しました。
そして、21章においてペテロは三回キリストへの愛を告白しました。
階上の部屋において、ペテロは悪魔のわなにはまってしまいました。
(ルカの福音書22章31〜34節まで参照)
園において、ペテロは肉の弱さに負けてしまいました。
そして、今、ペテロは祭司の家の中庭で世の圧力に降参してしまいました。
見て、祈るということはなんと重要なことではないでしょうか!
15節において、名の知れない弟子が誰だか私たちは知ることができません。
おそらく、それはニコデモか、アリマタヤのヨセフだと思われます。

たびたび、ヨハネは「もうひとりの弟子」(20章3節)という代名詞を使います。
また、ヨハネが大祭司と仲が良かったとは思われません。
(使徒の働き4章1〜3節参照)
この弟子が誰であったにせよ、彼はペテロのためにドアを開き、ペテロを罪に導いてしまったのです。
18節を見ると「寒かった」と書かれています。
ペテロは火のそばに座っていました。
しかし、ルカの福音書22章44節を見ると、その夜、キリストは祈りながら汗をかいていたと書かれています。

「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」
新改訳聖書 ルカの福音書22章44節

ペテロは霊的においても、肉体的においても寒かったのです。
彼は敵の火にあたって自分自身を暖めなければならなかったのです。
今、ペテロは「悪者のはかりごとに歩み」、そして、罪人たちの道に立って」いるのです。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」
新改訳聖書 詩篇1編1節

まさにペテロはあざける者の座に着いているのです。
その反面、キリストは苦しんでいました。
ペテロは暖まり、すべてにおいてキリストともに苦しみを分かち合おうとはしていません。

3、拒否(18章28〜40節)

その時代において、イスラエルの国がどのくらい堕落していたかを示す大祭司として、二人の人を確認することができます。
アンナスとカヤパは神殿における商売仲間であり、二度の宮清めのためにイエスを憎んでいました。
多くの者が法的な側面からキリストを訴えていました。。
その夜をキリストを犯罪人にでっち上げるために準備をしたのです。
法廷において偽の証人を立てました。
縛られている間は、裁判官は囚人を虐待することが許されていました。
法廷は訴えることを許し、弁護することを許しませんでした。
秘密の法廷の後、狡猾な宗教的なリーダはピラトのところにイエスに死の宣告をするために連れて行きました。

彼らは汚されないように異邦人の庭には入ろうとはしませんでした。
しかし、彼らはためらわずに無実の人間に死を宣告したのです。
18章33節から19節15節にわたって、私たちはピラトの臆病で、ためらったゆえの悲しい記録について読むことができます。
少なくとも、ピラトは7回官邸からユダヤ人のところへ出てゆきました。
ピラトは和解を試みていたのです。
ピラトがキリストを十字架に架けたのは、彼が臆病だったからです。

「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章15節

そうです。ピラトは臆病だったのです。
なんと多くの罪人たちが人々を恐れ、人々の喜ばせることを求め、地獄に落ちてゆくのでしょうか?

キリストはピラトに「わたしの国はこの世のものではありません」という説明をし、御国の霊的な特長について説明していますが実際の王国として説明していません。
ユダヤ人たちはキリストを受け入れ、キリストは地上の王国を建て上げるはずでした。
しかし、ユダヤ人たちがキリストを拒みました。
ですから、キリストは人々のこころの中にある霊的な性質の説明のみをしているのです。

ある日、キリストは帰って来られ、地上にキリストの御国を建て上げます。
私たちは本当にその日を待ち望んでいるでしょうか!
(もちろん、クリスチャンとしては空中再臨を待ち望んでいます。)
ピラトの質問は「真理とは何ですか」です。
それはすでに多くの哲学者たちが尋ねてきたことです。
14章6節において、イエスは答えています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節

17章17節において、語られています。

「あなたのみことばは真理です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章17節

ヨハネの手紙第一5章6節において宣言されています。

「御霊は真理だからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章6節

聖霊とみことばはキリストが真実であると示しています。
この世は霊的な問題が起きたとき、間違った選択をします。
暴徒はいのちの君よりも人殺しを選びました。
彼は法を建てた者よりも、法を破った者を選んだのです。
ユダヤ人たちは真実のメシアを拒絶しました。
しかし、その日、彼らは悪魔の偽のメシアを受け入れるのです。
それは反キリストです。

「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。
ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書5章43節

人々はキリストをそれぞれ異なった理由をもって拒みます。
ユダは悪魔のことばを聞いてキリストを拒絶しました。
ピラトは世のことばを聞いてキリストを拒絶しました。
ヘロデは肉に従いました。
ピラトは「私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています」と言いました。
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章39節

しかし、ピラトは宗教的習慣を知っていながら、キリストを知らないのです。
多くの人々が今日おいて、ピラトのようです。
宗教的な儀式のための休日、習慣を守ろうとしますが、世の救い主に対しては無知です。
拒絶の結果は永遠のさばきです。
しかし、信仰は永遠のいのちです。
すべての者が決断しなければなりません。


ヨハネの福音書19章

1、キリストへのあざけり(19章1〜22節)

おそらく、ピラトはイエスをむち打つことにより(これは違法です)、ユダヤ人のこころを動かし、彼らがイエスを解放するのではないかと考えたのでしょう。
しかし、ユダヤ人のこころはかたくなで、彼らはイエスを殺すことを決断していました。

「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。
それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書12章40節

ピラトは兵士たちがキリストをあざけるのを不法にも許しました。
兵士たちはキリストにあざけりの冠、王服、王位を与えました。
この場面と黙示録19章1〜21節と比較してみてください。
キリストにすべてのひざがかがめています。
ユダヤ人たちはユダヤ人たちの律法を破った者としてキリストを訴えました。
それはキリストが自分は神であると主張したからです。

「ユダヤ人たちはイエスに答えた。
「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。
冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章33節

このような訴えがあったとしても、キリストのメッセージと奇跡はキリストが神であることを証明していました。
しかし、かたくなこころを持つ罪人たちはこの証明を考え、受け入れることを拒否しました。
ユダヤ人たちはキリストを殺すことにこころを傾けました。
なぜ、キリストはピラトの質問に答えなかったのでしょうか?

「しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章9節

その一つには、ピラトはすでに聞いた真実に従いませんでした。
ピラトは10節においてなされた自慢は、現実には自分への有罪宣告となりました。

「そこで、ピラトはイエスに言った。
「あなたは私に話さないのですか。
私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書19章10節

もし、ピラトにキリストを釈放する権威を持ち、イエスが無罪であることを知っていたのなら、ピラトは囚人である者を自由の身にしなければなりませんでした。

「ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。
「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。
あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書19章4節

キリストはすべての権威は神から来ることをピラトに思い出させ、ピラトを非難しました。

「存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙13章1節

「わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。
わたしによって、支配者たちは支配する。
高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。」

新改訳聖書 箴言8章15、16節

ピラトは神の特別な目的を成就させるために神の御手の中にあったのです。
しかし、それでもピラトは決断と罪において責任がありました。

「人の子は、定められたとおりに去って行きます。
しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」

新改訳聖書 ルカの福音書22章22節

イエスは言われました。
「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。
ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書19章11節

これはユダのことではなく、カヤパのことを言っています。
ユダヤ人たちは叫びました。
「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章15節

6章15節において、ユダヤ人たちはキリストを王にしたがっています。
そして12章13節において、ユダヤ人たちはキリストを王として歓迎しました。
そして、今、彼らはキリストを拒んでいるのです。

「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章15節

「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章13節

このことはヨハネの福音書における三度目の危機です。
ピラトの最後のことばとして、彼はキリストを十字架に架ける為の名目を書きました。

「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章19節

ローマの囚人が首の回りにプラカードとしてその訴えをつけることは習慣的に行われていました。
しかし、この訴えである罪状が十字架の上のキリストの頭の上に掲げれたのです。
キリストの罪状は自分自身を王としたことです。
この三つの言語で書かれた罪状は、その当時、人間の住む大きな三つの地域を現わしています。
宗教(ヘブル語)、哲学と文化(ギリシャ語)、法律(ラテン語)
その罪状書きは人類の罪を現わしています。
ゆえに、この罪状書きはこの世の三つに区分される国々がキリストを死に渡したのです。
宗教、哲学、法律は失われた罪人を救うことができません。
しかし、同時にこの罪状書きは人類への愛を現わし、この世全体のための救いを宣言しています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節

「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙1章24節

そして、神の義によって神の律法が成就されました。
悔い改めた強盗はこの罪状書きを読み、キリストを信じ、救われたのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙1章18節

2、キリストの十字架

ヨハネは十字架上からのキリストのことば7つのみを記録しました。
継ぎ目のないキリストの上着を使って兵士たちが賭け事をしたこと、酸いぶどう酒が与えられたこと、そして一本の骨が折られることなくわき腹を刺されたこと、聖書のことばが注意深く成就したことに注意してください。

「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
新改訳聖書 詩篇22編18節

「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
新改訳聖書 詩篇69編21節

「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」
新改訳聖書 詩篇34編20節

「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。
---中略---
またその骨を折ってはならない。」

新改訳聖書 出エジプト記12章43〜46節

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書12章10節

37節がゼカリヤ書12章10節が成就したと言っていないことに注意してください。
12章10節は「自分たちが突き刺した(過去)」と言っています。
彼らは「わたしを仰ぎ見」ます。
それは未来に起こることです、
キリストは栄光をもってこの地上に再臨されるのです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。
すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」

新改訳聖書 黙示録1章7節

神の手によって、細かい点まで十字架について預言されていました。
ヨハネに母マリアを引き取らせることにより、キリストは地上的な家族の結びつきを断ちました。
キリストはマリアのことだけではなく、そのすべての出来事さえも支配していました。

マリアは十字架のところに来ました。
マリアの沈黙はイエスが神の御子であることの証拠です。
マリアの一つのことばによってイエスを守ることができたかもしれません。
なぜなら、マリアはイエスが誰だか知っていたからです。
私たちはマリアの献身の思いを賞賛して覚えます。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

新改訳聖書 ルカの福音書2章34〜35節

結論から言うのであれば、イエスを生んだ母より誰がその子供のことを知ることが出来るでしょうか?

「わたしは渇く」ということばは肉体的、そして霊的な苦しみの両方を語っています。
それは私たちの罪のために地獄の苦しみをキリストが受けていたゆえです。
「完了した」ということばはギリシャ語で"tetelestai"です。
そのことばは一般的によく使われることばで商人によって使われることばです。
その意味は「料金はすべて払われた」という意味です。
羊飼いと祭司がささげものの準備ができ、完全な羊を見つけた時、そのことばを使うのです。
そうです。
キリストは神の完全な子羊として死なれたのです。
彼らの仕事が完了した時、しもべはこのことばを使い、彼らの先生に報告するのです。
キリストは従順なしもべです。
御父に与えられたしごとを終わらせました。
キリストは喜んで自分のいのちを引き渡したのです。
キリストは自分のとものために自分のいのちを捨てたのです。

3、キリストの葬り(19章31〜42節)

ユダヤ人は自分たちの犯した罪に対する哀れみ、もしくはその恐ろしさについて興味など持っていませんでした。
ユダヤ人たちはただ、安息日に関する律法を守りたいだけでした。
兵士たちがキリストの死を早めるために足を折らないようにしたのは、キリストがすでに死んでいたという事実を証明しています。
血と水は救いについての二つの側面を描写しています。
罪のための贖いの血と罪のしみを流しさる水です。
血は義について、そして、水は聖別について語っています。

二つのものは常にともに進まなければならないものです。
キリスト血も信頼する救われたこれらの者たちは、この世界を見渡す前に清い生き方をするはずです。
35節から、ヨハネが自分の家にマリアをおいて、十字架に近づいてきたと推測します。

「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章35節

キリストとともにいることはマリアに気をかけることよりも大切なことでした。
私たちがヨハネの福音書においてマリアを最初に見つけました。
マリアは喜ばしき結婚披露宴に出席していました。
(ヨハネの福音書2章1〜11節)

マリアが最後に出てくるのは、イエスの恐ろしい処刑の場面です。
神はサンヘドリンのメンバーであるニコデモとヨセフにイエスのからだを葬る準備をさせました。
イザヤ書53章9節にこのように約束されていました。

「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。」
新改訳聖書 イザヤ書53章9節

この場面はヨハネの福音書の中でニコデモについての三回目、そして、最後の言及です。
この最後の場面において、彼が光の告白の中に力強く歩み出ていることを私たちは見ることができます。
(ヨハネの福音書3章と見比べてください。)
ニコデモとヨセフはキリストが死なれ、どのように、どこでキリストが死ぬのかを聖書から学び、知っていました。
ニコデモとヨセフは埋葬の準備をしました。
おそらく、キリストが十字架の上にいた時、香料を墓の中に隠しておいたのでしょう。
ヨセフは自分自身のためにこの墓を作らなかったはずです。
それは、裕福な者は犯罪人が処刑される場所の近くに埋葬されたくは無いからです。
おそらく、ヨセフはすばやくイエスのからだを葬ることに配慮し、カリバリの近くに墓を確保したのでしょう。
私たちはどのように神はヨセフとニコデモを用いて、神の目的を達成させたかを見ることができます。
ゆえに、私たちはヨセフを隠れた弟子として批判するべきではありません。
彼らの信仰は隠されることなく知られていました。
彼らはイエスのからだを持ち去ろうとしたユダヤ人たちから、そのからだを守ったのです。
ヨセフとニコデモが死んだイエスのからだに触った時、過越しの祭りのために自分自身を清めることに失敗し、死人に触り汚れてしまいました。
しかし、彼らはそのことに気をかけていません。
彼らはまことの神の子羊自身を信じるために来たからです。
神の子羊は世の罪のために御自身のいのちを与えました。
地上でのキリストの働きは終わったのです。
そして、キリストは安息日に休んだのです。


ヨハネの福音書20章

この章ではキリストの三つの過去における復活(キリストの現われ)について書かれています。
それぞれの現われは生きているそれぞれに関係する人々に違った結果をもたらしました。

1、マリアは主を見た(20章1〜18節)

キリストはマグダラのマリアにとりついた7つの悪霊を追い出し、マリアはこころから主を愛しました。
マリアは誰かがキリストのからだを盗んだのではないかと極端に走り、そして混乱し、失望していました。
マリアはペテロとヨハネのところへこのことを知らせるために急ぎました、
そして、彼らは墓のところへすぐに行きました。
なぜ、ヨハネはペテロを追い抜いたのでしょうか?

「ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章4節

おそらく、ヨハネの方がペテロより若かったのでしょう。
ここに同様に霊的なレッスンがあります。
まだ、ペテロはキリストへの思いが再確認されていませんでした。
ゆえに、まだペテロには霊的な力が足りなかったのです。
主を待つ者たちについて、イザヤ書40章31節においてこのように書かれています。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
新改訳聖書 イザヤ書40章31節

ペテロは主のところへ急ぎましたが、主には不従順だったのです。
ペテロの罪はペテロの足に表れたのです。
(ヨハネの福音書20章4節)
そして、目にも現われ、主を確認できなかったのです。

「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書21章7節

また、くちびるにも現われ主を否定しました。
また、こころの熱さにも現われました。

「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章32節

彼らは墓の中で何を見たのでしょうか?
彼らはからだの形をした埋葬用の布を見ました。
しかし、からだはそこにはありませんでした。
その埋葬用の布は空っぽの「まゆ」のようになっていました。
顔の上にあったタオルのような布は丁寧にそれだけで置かれていました。
それは墓泥棒にあった場面ではありません。
「まゆ」のような埋葬用の布の中からからだだけ盗むような泥棒はいません。
もし、死体を盗むのなら布を破って、ぐちゃぐちゃにしなければなりません。
埋葬用の布と墓自体を通り抜け、イエスは力と栄光をもってよみがえったのです。
8節は私たちに語っています。
彼らは自分たちの見たことゆえにキリストの復活を信じたのです。
後に、彼らは個人的にキリストを出会い、旧約聖書の言われていることを信じたのです。
ここに、霊的な問題が生じた時に、あなたが頼ることのできる三つの事柄が証されています。

(1)神が世にあって世にあって与えたものがあります。
(2)それはみことばです。
(3)そして、個人的なクリスチャンとしての経験です。

どのようにキリストを現実のものとして知ることが出来るでしょうか?
その人は他の人たちのいのち(生活)において、その証を見ることができます。
そのひとはみことばを読むことができ、そして、もし、キリストを信じるのなら、その人は個人的にキリストを経験するのです。
10節に注意してください。
彼らはキリストの復活を主張すること無しに家に帰っています。

「それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章10節

単なる知識による証言は人々を変えることできません。
私たちは個人的にキリストと会わなければならないのです。
それがマリアに起きたのです。
マリアはキリストと会い、ともに過ごしました。
何回も、彼女は報いを受けたのです。

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」
新改訳聖書 箴言8章17節

彼女は墓の中で二人の御使いを見ました。
(ルカの福音書では二人の人と呼んでいます。)
彼女の嘆きは取り去られ、彼女は慰めを受けたのです。
12節における御使いの描写は至聖所における「贖いのふた」(哀れみの座)(the mercy seat)を思い出させます。

「また、純金の『贖いのふた』を作る。
長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。
ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。」

新改訳聖書 出エジプト記25章17〜19節

復活されたキリストは、今、天において、贖いのふた(哀れみの座)に座っているのです。
マリアは御使いから振り返り、キリストを探しました。
彼女は御使いを見ることよりも、むしろキリストのからだを求めました。
彼女は実際にキリストを見ました。
しかし、彼女の目は曇っていて、キリストを確認することは出来ませんでした。
15節にある「思って言った」というひとつのことばに彼女のすべての悲しみが表現されています。
今日おいて、多くのクリスチャンがすべての真実を単に「思って」仮定しているだけで惨めな状態にあります。
イエスが彼女の名前を呼んだとき、彼女はイエスを認識しました。
イエスは御自分の者を名前で呼んでいます。
彼らは彼の声を知っています。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。
彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。
すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書10章3〜4節

「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」
新改訳聖書 イザヤ書43章1節

17節においてそのことを示しています。
復活の朝早く、キリストは御父へとキリストの完了した御業を現わすために天へと昇られたことを示しています。

「イエスは彼女に言われた。
「わたしにすがりついていてはいけません。
わたしはまだ父のもとに上っていないからです。
わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書20章17節

その昇天はレビ記23章1〜14節において、ささげものの型として成就したことが論議されています。
次の安息日の翌日、初穂の束は揺り動かされました。

「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙15章23節

マリアはキリストと出会うことにより、彼女をキリストを宣べ伝える者としたのです。

2、弟子たちはキリストを見た。(20章19〜25節)

二回、週の初めの日についてすでに述べられています。

「さて、週の初めの日に...。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章1節

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章19節

これは日曜日のことであり、土曜日ではありません。
土曜日とはユダヤ人の安息日であり、週の7番目の日のことです。
安息日とは、6日間働いた後に休む日のことであり、律法の時代に属している日のことです。
日曜日を主の日とするのは、週の最初の日であり、働き出す前の週の最初に主を覚え、安らぐことを教えています。
私たちが神の恵みを覚える日です。
キリストは栄光あるからだを持っておられ、鍵がされた扉を通って来られました。
そこで恐れていた人たちは平安を持つことができました。
二回、平和についてキリストが語っていることに注意してください。

「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。
「平安があなたがたにあるように。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書20章19節

「イエスはもう一度、彼らに言われた。
「平安があなたがたにあるように。
父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」」

新改訳聖書 ヨハネの福音書20章21節

最初の平安は神とともにある平安です。
この平安は十字架の上でささげられたキリストのささげものが基礎になっています。
ここでなぜ、キリストは彼らに彼の手とわき腹を見せたのでしょうか?
二つ目の平安は神の平安です。
神が私たちとともにいてくださることが基礎になっています。
(ピリピ人への手紙4章参照)

キリストは彼らに世界に出て行き、御父の使わされた者として出てゆくように言われました。

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。
あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章15〜18節

私たちの主が彼らに息を吹きかけました。

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書20章22〜23節

私たちは創世記2章7節にあることを思い出します。
神はアダムに息を吹き込んだのです。

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生きものとなった。」

新改訳聖書 創世記2章7節

そして、同様にテモテの手紙第二3章16節にはこのように書かれています。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二3章16節

ここにある「霊感」という意味は「神の息」という意味です。
この行動は人格的であり、個人的です。
また、霊的な力を与え、彼らが自分の職務を遂行するために必要な力を与えます。
ペンテコステの日に聖霊が来られた時、彼らに団結し、礼拝と証のための力が内から働き出ました。
23節にある「赦す」力ということばは今日のクリスチャンに与えられたことばではありません。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章23節

この場面以外において、私たちが福音を罪人たちに与える時に、罪を赦すということを適応してはいけません。
新約聖書の中において、使徒が罪を赦すという実例は一つもありません。

ペテロ(使徒の働き10章43節)、そして、パウロ(使徒の働き13章38節)においてもキリストの権威に基づいて話されています。

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒の働き10章43節

「ですから、兄弟たち。
あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」

新改訳聖書 使徒の働き13章38節

弟子たちが特別な権威を持っていたことについて、疑う点はまったくありません。
しかし、この場面において語られている赦しが今日のクリスチャンに適応はできません。

3、トマスは主を見た。(20章26〜31節)

トマスは最初の集まりに参加していませんでした。
私たちが地方教会の集まりに参加していないときに、私たち自身においても多くの間違いを犯すことがあります。
トマスの言い分は25節に書かれている通りです。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章25節

彼はデマスと呼ばれていました。
その意味は「双子」という意味です。
今日においても、トマスに似た多くの者がいます。
次の主日に、弟子たちがともに集まっていると、イエスが彼らのところに再び現われ、トマスに説明しました。
イエスは、なんと寛大な愛をトマスに見せたのではないでしょうか!
トマスは主を見て、「何か証明して欲しい」などという要求をすっかり忘れてしまいました。
トマスの証言は私たちをゾクゾクさせるでしょう。

「私の主。私の神。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書20章28節

キリストの傷を見ることによって、トマスはキリストのこころを得ました。
キリストはここであなたとわたしが同じ確信と同じ祝福を持つことができることを宣言しています。
それはあなたもわたしもこれら信じる者たちは、いまだにキリストで会っていないのです。

あなたはこれら三回のキリストの現われを検討するならば、それぞれ違った結果に至ったことを知ることができます。
マリアにおける問題は、彼女はキリストへの愛を持っていたことです。
マリアはキリストを見逃し、墓においてキリストのからだの面倒をみたかったのです。

弟子たちにおける問題は彼らにおける希望の問題でした。
彼らは部屋の中に閉じこもり、恐れて隠れていたのです。
トマスにおける問題は信仰の問題でした。
トマスは証拠を見ない限り、信じようとはしませんでした。

今日においても、イエスキリストは生きています。
ゆえに、私たちの信仰は安全です。

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章17節

わたしたちはキリストの死者の中からの復活によって、生きている希望を持っています。
コリント人への手紙第一15章19節においてこのように言われています。

「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章19節

30、31節において、ヨハネは福音の目的について宣べています。
もし、罪人が信じるのなら、キリストを通して永遠のいのちを持つということです。
あなたがこの福音を読んでいるように、あなたは多くの人々が福音を信じ、永遠のいのちを受け取ったのを見ています。

(1)ナタナエル(1章50節)
(2)ナタナエルの弟子(2章11節)
(3)サマリアの人たち(4章39節)
(4)王室の役人(4章50節)
(5)盲人(9章39節)
(6)マルタ(11章27節)
(7)死者の中から復活したラザロを見たユダヤ人たち(12章11節)
(8)トマス(20章28節)
これら、すべての人たちが同じ証言をしています。
「私は信じる」と...。


ヨハネの福音書21章

この最後の章において、キリストを私たちの礼拝の主として、また、罪人の友として見ることができます。
この章がないならば、ペテロと主の間に何が起きたのか、そして、ペテロの不従順が本当に主の前に取り扱われたかどうかを疑問に思うかもしれません。

1、失敗の夜(21章1〜3節)

ペテロは漁に戻るのは、ペテロが目的をなくしてしまったからです。
この場面のあらゆることが失敗を語っています。
(1)暗さの中を歩んでいます。
彼らが光の中を歩んでいないことを示しています。
(2)彼らには直接の主のことばがありません。
(3)彼らの努力は失敗に終わりました。
(4)キリストが彼らに現れたとき、彼らはキリストを認識していません。
彼らの霊的な視野は暗かったことを示しています。
ペテロは軽はずみな決断をした時、道に迷った他の6人を導いていました。
悲劇は悪い影響を与えました。
私たちはキリストにとどまり、みことばに従う時に神が私たちを祝福してくださるということをこころの中に覚えておく必要があります。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章5節

とても多くのクリスチャンが物事を楽観的に考えるでしょう。
しかし、非聖書的な行動は単に無駄な時間であり、無益なことにエネルギーを注ぐことになります。
私たちは短気には注意しましょう。
主からの指示を待つことは良いことです。
その時、役に立たない活動において私たちが必要とされるより、キリストを感謝するほうがまさっているのです。

2、決心の朝(21章4〜17節)

キリストがこの場面から離れる時、光が輝き始めました。
キリストは岸から彼らに教え、弟子たちは大きな魚の群れを捕まえたのです。
この数分のキリストにあって制御された働きによって、彼らは一晩中の肉的な働きよりも大きな結果を得ることができました。

ルカの福音書5章において、ペテロの生涯始まった時のことと、この奇跡を比較することは面白いことです。

ルカの福音書5章 ヨハネの福音書21章
その夜の不漁に続く出来事でした。 その夜の不漁に続く出来事でした。
魚の正確な数はわかりません。 魚の数は153匹です。
網は破れ始めました。 網は破れていません。
キリストは船から教えられています。 キリストは岸から教えています。


ある人たちはルカの福音書5章の出来事が今日における教会の姿を描写していると見ています。
また、ヨハネの福音書21章の出来事がキリストが来られる時代の終わりの時代における教会の姿を描写していると見ています。
今日、私たちは福音の網を投げています。
しかし、たびたびこの網を破ってしまうことがあります。
そこで私たちは失敗を味わい、私たちは現実にどのくらいのたましい救われているかを知ることはできません。
しかし、キリストが来られる時、私たちは救われたたましいの正確な数を知ることができます。
そして、誰も失われることはありません。
今日、働きにおいて、多くの船と漁師がいるでしょう。
しかし、キリストが来られる時、私たちは一つの教会と一つの福音の網の中にあるすべての贖われた者たちを見ることができます。
この章において、魚を捕まえること意外に、実際にはもっとたくさんの奇跡があります。
ペテロには網を引き上げる時、さまざまな奇跡的な力が与えられました。
7人の人が引き上げることができなかったのです。

「イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書21章6節

「シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書21章11節

網が破れなかったというのは驚くべきことです。
炭火と調理された朝食は奇跡的に与えられたものです。
この場面全体はペテロの良心が目覚め、ペテロの目が開かれたことを教えています。
魚を漁はペテロのすべてを捨てて主に従うという過去の決心を思い出させます。
炭火はペテロがキリストを否認したということを思い起こさせます。

「寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章18節

ガリラヤ湖という位置はキリストとともに過ごしたさまざまな過去を思い出させるでしょう。
5000人の給食、水の上を歩いたこと、魚を硬貨とともに釣った事、嵐を静めたことなど...。

それはペテロは公に三回キリストを否定しましたが、ペテロはそれを認めなければならなかったのです。
ペテロが自分の罪を扱う前にキリストがペテロを食べさせたことに注意してください。
どのくらい、主が私たちを最初に祝福してくださったのでしょうか!
それはペテロのキリストへの愛が問題になってきます。
もし、人が実際にキリストを愛するのなら、その人のいのちは献身的に捧げれるようになります。
キリストがペテロに新しい職務を与えていることに注意してください。
ペテロは今、羊飼い(牧師)です。
別の面から見るのであれば彼は漁師です。
(ペテロの手紙第一5章参照)
ペテロは今、羊と子羊を飼う羊飼いです。
彼は羊たちに神のみことばをもって養わなければなりません。
また、すべてのクリスチャンは真実なる漁師になることを期待すべきです。
真実なるたましいの勝利者です。
ある人たちは群れの羊を飼うという特別な職務を得たものとして「牧師」と呼ばれるかもしれません。
失われた者たちを勝ち取るために何が良いことでしょうか。
もし、そこに教会がなければ、彼らは養われることも、気にかけられることもありません。

3、決心の日(21章18〜25節)

子としての交わり(救われたこと)と弟子としての交わり(キリストに従う)という間には大きな違いがあります。
すべてのクリスチャンが弟子であるというわけではありません。
ペテロが罪を犯した時、ペテロは子としての交わりを失ったわけではありません。
しかし、ペテロは弟子としての歩みから落ちてしまったのです。
キリストがペテロに対して、「わたしに従うなさい」と繰り返して要求されている理由がここにあります。
キリストはペテロにも十字架と直面させようとします。
それはペテロ自身もその日、キリストを十字架に架けたことを教えています。

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書21章18節


「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。 」

新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章12〜14節

あなたはかつて、ペテロが十字架からキリストを守ろうと試みた事を思い出す時、この命令を新しい意味を持って受け取ることができます。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 」
新改訳聖書 マタイの福音書16章24〜25節

ペテロは今、悲劇的な失敗をしようとしています。
ペテロは再び、目をキリストから離し、他の人に目を向けようとしています。
この場合、ヨハネです。
もし、わたしたちがキリストに従おうとするのなら、わたしたちがわたしたちの目をただキリストだけに向けなければなりません。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章2節

わたしたちの集まりには何も無いということです、そしてキリストがどのように他の働き人を導くかです。
ローマ人への手紙14章を見るのなら、どのようにわたしたちが他のクリスチャンたちと結びつくべきかが教えられています。
ヨハネはこの福音書をわたしたちに確信させることによって閉じようとしています。
この世はキリストのいのちについて書かれたすべてを本とすることはできません。
この四つの福音書はキリストの生涯というよりも、むしろ四つの強調点によって書かれた四つのイエスの肖像がです。
キリストのいのちについてすべてを記録することは不可能だとヨハネも言っています。
ヨハネの福音書21章のこの場面において、ペテロはキリストを迎え入れようとはしていません。
自分の罪を告白し、愛を断言しましたが、使徒の働き1章において、再びペテロについて読むことはありません。
のちにペテロが主の前に正しい者となった時、神はペテロを用いたのです。
キリストはキリストに従うこれらの者たちを祝福し、用いることができるのです。

2002/10/12 終了


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