メッセージW1 2000/7/8
もし、あなたが悔い改めなければ
by H.A.アイアンサイド
Except Ye Repent
by Harry A. Ironside
初めに
1章 悔い改め、その性質と重要性
2章 悔い改めのための聖書
3章 バプテスマのヨハネの悔い改め
4章 キリストの悔い改めへの呼びかけ
5章 ペテロの働き
6章 パウロの働き
7章 悔い改めることのできない悔い改め
8章 死んだ行いからの悔い改め
9章 黙示録の中の悔い改め
10章 悔い改めない者たち
11章 神に悔い改めが必要でしょうか?
12章 もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
13章 悔い改めと赦し
14章 望みのない悔い改め
15章 町全体の悔い改め
16章 悔い改めを作り出すメッセージ
17章それでも悔い改めが必要なのです!
初めに
今日、多くの他の正統的と言われる集まり、断固して根本主義を貫くという集まりにおいて、悔い改めという教義を失ってしまいました。
そのことを特記すべきことを、私自身の心において充分に確信していました。
私は、心をこめてこの本を書きました。
神は目覚めた多くの神のしもべが悔い改めという教義を使うことに満足し、神の真実が与えられようと求めることは重要なことです。
そして、人は一つの場所に連れて来られ、そこで神は祝福にもってこれらの者たちと出会うことが出来ます。
キリストの元へ来るすべての者は失われた罪人は、その場所で自分の欠点を認め、神の最小の憐れみに絶対的に価値が無いところであり、彼の救いの力の新しい概念なのです。
この罪人はキリストの救いの贖罪の働きにあってただ、信頼しています。
そして、日々の生活において、罪の力に勝利する彼らのために内住し、聖霊にあって頼るのです。
ページは、私があちらこちらに行ったので、忙しい夏の間に書くことになりました。
ここで強調されるまさしくその真実を説教し、教えることを試みています。
本の大部分は他の約束からスピードを上げて移動している、プルマン式車両の列車の中で走り書きをしたものです。
もし、そこで時々考えの一貫性が欠如でしているように思えるのなら、私は文章の明白な欠陥がメッセージを受け取ることから読者を妨げないようにと希望します。
私は可能な限り、難しい状況の下で明確に示すことを努力しました。
私は文芸評論家のために、もしくは神学上の揚げ足取りのために書きませんでした。
しかし、神の意志を知ろうとするまじめな人たち、もしくはそれを行おうとする人たちに書いたのです。
そして、私はこの本をキリストに信頼する者に送ります。
その者は言いました。
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」
もし、魂を取り扱う現実の重要性のより深い感覚のわずかでも目覚めさせること出来るのなら、神は満足するでしょう。
私は感謝します。
ハリー A.アイアンサイド
第1章 悔い改め、その性質と重要性
より、カーライルが「醜いの時代」を表したように、私たちの時代がそのような時代であることがはっきりしてきました。
非現実性とまことしやかな口実は、生活の全ての分野において多く存在しています。
国内で、商売の上で、社会で、そして教会の地位の偽善は公然と行われているだけではなく、教会の集まりの中で容認され、ほとんどが昇進と成功のために、その必要が認められています。
そして、この真実は異端的宗教の中でだけ見られることではありません。
正統性はあさはかな教義主義者を持ち、その者は健全な教えのために残忍にも戦う準備をしています。
しかし、わずかに、もしくは明白な良心の咎め無しに、健全な生活を無視し、やりくりしているのです。
神の望むものは人間の内部にある真実です。
祝福された人間はいまだに「その者の霊の中には罪悪が見出していません。」
それは永遠に真実です
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」
新改訳聖書 箴言28章13節
自由によって宣言された救いは、場違いなことは決してありえません。
場違いであれば、主イエス・キリストに信頼を置くすべての者を支持することにメリットは存在しません。
しかし、義認は単に知識のプロセスではないことはいままで信仰において主帳してきたことです。
それは単に確かな歴史的事実に帰することでもなく、教義上の声明でもありません。
しかし、誠実、かつ純真な悔い改めが生じた罪の自覚から信仰は湧き出ます。
その自覚は神によって作られます。
そこにはディスペンセーショナル(摂理的なこと)はありません。
人とともにある神の方法は理解と解釈にあってこれらは重要であり、この真実を変えることが出来るのです。
誰も、恵みによることを除いていかなる摂理において決して救われることはありません。
どちらの犠牲の慣例も儀式礼拝も、あるいは律法の働きも神無しの義認のあらゆる方法をもっても決して救われることはありません。
悔い改めは恵みに反対ではなく、恵みの必要の容認です。
「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」」
新改訳聖書 マタイによる福音書 9章12、13節
この浅はかな時代の一つの大きな悩みは、私たちが言葉の意味を無くしてしまったことにあります。
その言葉が確実に正しくこのような意味で使われていることは多くなく、それがわかるまで私たちは彼らとやりとりを繰り返します。
二人の牧師が食料品店と牛乳屋の前を通り過ぎてゆきました。
そこには3つの大きなかごの中に卵を見せていました。
一つのバスケットには「新鮮な卵1ダース24セント」と明記してあり、二つ目には「とても新鮮な卵1ダース29セント」と明記してありました。
そして、3つ目を読んでみると「保証付きとても新鮮な卵1ダース34セント」と明記してありました。
「その食料品店にとって「新鮮」とは何を意味することでしょうか?」
このようにそれは多くの聖書の言葉は、私たちの信仰の祖先において不変の意味を持ちましたが、今日、落ちたコインのようにその価値を無くしています。
恵みは、まさしく恵まれるのに値しない人々への神にとって得することのないお気に入りなのです。
悔い改めとは、彼の失った状態、そして彼の恵みの必要の知識を罪人が認めることです。
いまだに、そこには昔の反律法主義者ような恵みを語る説教者を望んでいません。
それは恵みの自由を間違いだとすることになると、悔い改めの必要を非難しています。
同様に、人が病気と認めるための目的かも知れません。
その時、すべての彼の必要は医者の処方を基礎として、人は医者から助けと治療を求めます。
それを軽く説教することは、人間の罪深さと邪悪さの恐ろしい現実に取り入ることではありません。
「どこででもすべての人に悔い改め」を命じることは浅さかな改心の結果を得ます。
私たちは今日、口先だけの信仰者を無数に持ちます。その者は完全な生まれ変わりの証言を得ていません。
恵みによる救いの無駄口です。
彼らは、彼らの命において恵みを明らかにしません。
大胆に断言します。「彼らはただ信仰によって義とされています」が、しかし彼らは「行ないのない信仰は、死んでいる」ということを思い出すのに失敗しているのです。
そして、神の前にある信仰によって義とされることに矛盾を感じるように、働きによって義とされるということは人間の前には無視出来ないことです。
私たちはヤコブ書の3章を繰り返し読む必要があります。
その重大なメッセージは深く私たちの心の中に染込んでゆきます。
それは私たちの一生をコントロールするかもしれません。
真実にキリストを信じることが出来る者はいません。その者は最初に悔い改めません。
しかし、彼がその年月を過ごしてゆくので、彼はより神を知ります。
そして深くは悔い改めに至るのです。
キリストのしもべは言いました。
「私が言葉の意味を知る前に私は悔い改めました。
私はその悔い改めたときよりも多く悔い改めています。」
疑うこともなく、一つの大きな理由に何人かの熱心な福音説教者が大抵恐れていて、一般的に無視している言葉があります。
それは彼らの福音伝道にあって「悔い改め」と「悔い改めなさい」です。
聞き手がこれらの言葉を誤解し、一部の罪人にとって、何か称賛あることを意味するのではないかと考えて、条件付けて、彼らが恐れないかと福音説教者は心配しているのです。
しかし、そこにはより大きな目標はありません。
そこには、私の真実の状態にあるメリットを守ることは出来ません。
そこには、私の不健康な性質を認知して治療することも出来ません。
そして、悔い改めます。私たちはすぐに、とても必要なことです。
どのような悔い改めが必要でしょうか?
それは恐らく「どのような悔い改めが必要なのかを」注意深くさがすかも知れません。
そして、その時、簡単にどのようなことか気が付くことが出来ます。
それから、最初に、悔い改め(考えを変えること)は後悔(心悔やむこと)とが混乱します。
ゆえに、後悔は必ず悔い改めの中に登場するのです。
しかし、後悔は罪に対する単なる悲しみです。
後悔の量は人を救いに達成させることができません。
もう一方、後悔しない人は神の恵みを求めるようにと、神の御元に来ようとはしません。
しかし、神の御心に添う悲しみは.... 私たちは語ります。悔い改めの働きは決して後悔することではありません。
そこには罪のための悲しみはなく、その中に敬虔の要素を持っていません。
「世の悲しみは死をもたらします。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 7章10節
ペテロの悔い改めを私たちは前者と見ることが出来ます。
ユダの後悔(咎め)は後者と見ることが出来るでしょう。
人は「キリストのもとへ行きなさい」という要求されるその人の罪のための悲しみに、ある程度の量を感じるようにとは、どこにも勧められてはいません。
その時、神の霊が真実を適用します。
後悔が即効の結果です。そしてこの導きは悔い改めに至ります。しかし、それで困惑してはなりません。
これは、たましいの中にある神の働きです。
二番目に、後悔は悔い改めではありません。
後悔は悪い行いを贖うための何かの努力です。
後悔を決して人には行うことが出来ないのです。
この個所は悪を犯した仲間とある者と仲直りをすることを見つけるべきだという救いを述べているのではありません。
このようなみことばを神は行っているのではないのです。
ここでは、ローマカトリックの聖書翻訳は、ほとんど霊感を受けた翻訳として受け入れられていますが、これらの聖書は際立つ欺きを犯しています。
それは偉大なカトリックの高位聖職者の出版許可を得て持ってこられたものです。
欽定訳聖書の持つ「悔い改め(repent)」が、どこでもドウエー・ランス翻訳訳を読むと「後悔しなさい(Do
penance)となっています。
(以下この違いを注意して読むこと。)
そのような言い換えの許すことは出来ません。
それは翻訳ではありません。
それは神の明白な命令をローマカトリックの教義に置き換えているのです。
バプテスマのヨハネは「後悔しなさい。天の御国が近づいたから」とは叫んでいません。
私たちの主イエスも「神の国は近くなった。後悔して福音を信じなさい」、もしくは「あなたがたも後悔しないなら、みな同じように滅びます」とは言っていません。
使徒ペテロはペンテコステの日に、恐れる大勢の者には「後悔しなさい、そして改心しなさい」とは話かけてはいません。
使徒パウロはアテネの人に「どこででもすべての人に後悔を命じておられます」とは言っていません。
立派だと思われてきたギリシャ語学者は、いままでこれらの原本の翻訳と、多くの他の文例について考えてきたことはありません。
これに反して、悔い改めることが要求されています。
そして、悔い改めと後悔との間に非常におおきな違いがあるのです。
しかし、たとえそうでも、その者は真実に悔い改め、確実にその者が仲間にしたどのような不正をも正しくすることを求めていることを、私たちは忘れません。
しかしたとえ、彼がそれを知ったとしても、彼が神にした不正を決して補うことができないのです。
しかし、ここにキリストの贖いの働きが入る場所なのです。
偉大な罪過のためのいけにえとして、キリストはこう叫ぶことが出来ました。
「私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」
新改訳聖書 詩篇69章 4節
キリストの働きは不完全で、何か他に神の無限の裁きを満足させる必要あって、これに後悔を付け加えるようとは考えないでください。
三番目に、私たちの改善が悔い改めでないのを思い出させてください。
しかし、密接に関連し、拒絶しています。
新しい葉をひっくり返すことです。
それは良きもので悪い習慣に代えようとすることです。
悪の代わりに良い生活に挑戦することです。
すべてが悔い改めの結果ではないでしょう。
そして、それを決して混乱してはなりません。
改善は外見だけのの変更なのだけです。
悔い改めは、たましいの中の神の働きです。
最近、巨大なクリーブランド局から福音メッセージを放送出来ることは著者の特権でした。
彼は指定された時間、スタジオの中で待っている間、スポンサーの声は大きなスピーカーアナウンスが聞こえました。
「もし、あなたが何か時計を修理する必要があるならば、そのような修理会社へ行くべきです。」
従業員の一人が見上げて、そして叫びました。
「私は時計を修理する必要がありません。私が必要とするものは、腕時計そのものです。」
そのことは、私に優れた教科書を得ました。
救われていない人間が必要とするものは、彼の人生の補修ではありません。
彼は、完全に新しい生命を必要としています。
そしてそれは、第二の誕生によってのみ来ることが出来るのです。
改善は、修理する腕時計のようなものです。
悔い改めは、腕時計がないことを認めることのようなことです。
私は悔い改めということに付け加えておく必要があります。
その時、人々が言うように教会と連なることと同じであると考えられるべきでもなく、一つの信心の身分を引き受けることでもありません。
それは何もしていないのです。
その悔い改めとは、どんな悔い改めなのですか?
可能性ある限り、私はとても難解な、もしくは学者ぶった言葉を使うことを避けるようにしています。
それは私の書いていることは単純に学者のためではないからです。
しかし、リンカーンはこれらのことを心の中で言いました。
「神は、たくさんの一般的な人を考えなければならないのです。
イエスは彼らの多くのようになりました。」
したがって、可能のある限り、ギリシャ語、またはヘブル語を引用を避けることを私は望みます。
しかし、ここでそれがギリシアの言葉で悔い改め(metanoia)を示していることはとても必要なことです。
そしてそれは、私たちの英語の聖書での翻訳された「悔い改め」であって、文字通り心の変化を意味します。
これは、単純に古い概念の代わりに新しい考えを受け入れることではありません。
しかし、それは実際に人の内面的な態度の完全な反転を意味しています。
はっきりと、このことは私たちの前に重要な問題を作るのです。
自分自身の方へ、罪の方へ、神の方へ、キリストの方へのその者の態度を変えることが悔い改めことなのです。
そして、これは神の命令なのです。
ヨハネは絶望的な邪悪な堕落した収税人と罪人に説教するためにやって来ました。
「あなたの姿勢を変えなさい、天の御国が近づいたから。」
同じ命令は、傲慢な律法学者と律法尊重のパリサイ人のところへやって来ました。
「あなたの姿勢を変えなさい」そして、このように、彼らは救われるための恵みにあってキリストを受け取る準備をしようとするのです。
罪人のために救い主が叫んでいます。
「あなたの態度を変えることがなくては、あなたは同じように滅びます。」
(ルカによる福音書 13章3節参照)
そして、--彼らの希望ない問題、もしくは神に対する彼らの責任に直面して、--罪の免除を手に入れて、そしてすべてのことから義とされ、彼を信頼することによってこのように、すべてにおいて完璧な救い主、唯一なるキリストに直面して--どこに使徒たちが行こうとも、彼らは人間たちの上に、要求しています。
そしてこれらのものすごい現実に直面することは、完全にその人の心を変えることになります。
ゆえに、愛された人は喜び、空っぽの人生が馬鹿らしいことを見つけ、告白します。
彼のわがままは、彼の生まれつきの性質が腐っていることを表す情熱を嫌っていることを学びます。
自分を義とすることは、聖い神の目にあって有罪を宣告された罪人であることを見つけます。
神から隠れていた男は、彼の中に隠れ場所を見つけようとします。
キリストを拒否する者は、命と救いの罪人の必要を認識し、所有します。
どちらが最初でしょうか、悔い改め、それとも信仰?
私たちは聖書に中で読みました、
「悔い改めて福音を信じなさい。」
新改訳聖書 マルコによる福音書 1章15節
いまだに私たちは真実の信者に強く勧めています。
「悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」
新改訳聖書 黙示録 2章5節
親密な関係にある二つの事柄を、一方なしで片側だけを、あなたには持ちえないのです。
神を信じる人は悔い改めます。
福音が悔い改めたたましいに知らされた時、その者は信頼を主に置きます。
神学者は、これについて論争するかもしれません。
しかし、実際は聖霊が真実にしたがって、彼のたましいに悔い改めが生じるまで人は悔い改めることはしません。
福音を信じる人は誰もいません。そして、神の前にある罪人は貧しいので、彼が彼自身を裁くまで彼の所有している救いのその中で休みます。
そして、これは悔い改めなのです。
もし、私たちがその悔い改めを、私の罪深さと救い主の必要について、神の事柄として信じる一つの事柄であることを見つけるなら、それは私たちの助けになるでしょう。
そして、別に事柄は「私たちの救いのための絶対的な救い主」を信頼することです。
信仰の最初の解釈から離れては、おそらくそれらは真実な悔い改めではありません。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 11章6節
そして、このような悔い改めから離れては、そこには信仰による救いはないでしょう。
それでも、より深い神の恵みの私の理解はキリストにあって私の前に明白です。より激しく私は悔い改めるようになります。
それはその時、メフィボシェテはダビテによって示された神の慈愛を認識しました。
それで彼は叫びました。
「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」
新改訳聖書 サムエル記第二 9章8節
そして、それはいままでの自分の低い考えとキリストの高い考えに導かれた恵みのたましいの不安です。
そして、悔い改めの働きは信じる者の中で日々深められてゆきます。
「良心があなたを手間どらせることはありません。それとも適正だというのなら愚かな夢です。」
彼の要求は彼のためにあなたの必要を感じることで、すべて適正なことです。
これは彼があなたを与えます
それはたましいの昇る放射光です。
信じたばかりの恵みに目覚めた証言は、その者自身と、自分の努力と、たましいを縛り付ける罪の鎖から開放されるという切望にある不満です。
それは、悲しみと悲痛の確かな深みのある質問ではありません。しかし、単純に必要が認められ、承認されることであり、かくまわれるためにキリストに戻る者が導かれることです。
キリストに信頼する彼らは滅びることが出来ません。
彼の恵みがすべて私たちの罪の上に満ち溢れています。
そして、彼の十字架の上の贖いの働きは神のために限りなく貴重なことです。
それは十分にすべてが私たちの汚らわしい、そして罪過のためなのです。
第2章−悔い改めのための聖書
「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 5章 11節
もし、聖書にあるヨブ記の主要なテーマについて一言で尋ねられたならば、私は「悔い改め」と答えるでしょう。
創世記にあるような神の選び、出エジプト記にあるエジプトからの救出、レビ記にある聖別、民数記にある試練、申命記にある国家的聖化、ヨブ記は恐らく同じ人間の著者によって、そして同じ時に書かれたのでしょう。
その書は悔い改めについて際立っていることが書かれています。
私はすべての者がこのことについて同意しないことを知っています。
恐らく、この昔の出来事がもっとも際立った主題だとその者たちは主張するでしょう。
なぜ神を敬う者は苦しむのでしょうか?もしくは幾分これと似通っています。
確かに、聖書は神の力によってデザインされて、すべての時と永遠の大きな問題を解決します。
なぜなら、邪悪なものがしばしば保護されるといった苦悩に耐えるための義が「愛され、神のすべての知恵」によって許されることがあります。
しかし、そのすべての背景には、別のものがあり、更に深い問題があるのです。
それは神の聖い光によって照らされ自分自身を裁く必要と、最善な人間の心の中にある邪悪です。
そして、これが悔い改めなのです。
悔い改めの重要性と必要性をすべての人間に明確にするこのような方法の中に記されたテーマを説明するために、神はウズの土地の族長のヨブの場合を取り上げて、ついに彼に叫ばしたプロセスの詳しい説明の中に記し私たちに与えているのです。
「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
新改訳聖書 ヨブ記 42章 6節
神の方法と、私たちが生まれつきの方法で。従おうとする事と、どのくらい差があることなのでしょうか?
私が悔い改めに関する本を書かなければならないなり、この偉大なる主題を適切に説明するためのキャラクタが欲しかったのです。
私はヨブのとても個性的な(異なった)人を選ぼうと思いました。
もし、聖書を通してこのような実例を探すなら、私はおそらく非常に高められた、大いに祝福されたダビテについて考えるかもしれません。
しかし、彼は優柔不断でいい加減過ごした時に重大な罪に陥り、その後に激しく悔い改めました。
詩篇の51編の言葉で神の耳の中にささやいているように、彼は心からの悔い改めの涙ですすり泣き、自分自身を責めました。
それは、失敗した神の子供の悔い改めの伝統的な一節です。
もしくは、私はマナセを選ぶかもしれません。
彼はもっとも敬虔な父親の不信仰な息子です。
マナセの恐ろしい悪と口にできないほどの悪意は、卑しくもヒゼキヤの名を引きずり込みました。
そしてイスラエルの神の名誉に重大な恥辱をもたらしたのです。
だがマナセは最後に悔い改めに至り、神の前に自分自身を卑しめました。
それにもかかわらず最終的に、恥辱を与えられた父親の祈りは、ずっと以前から捧げられていたので、それは答えられ、恐らく彼は救われたと思います。
なんと真実な悔い改めた魂の素晴らしい描写でしょうか。
その描写は、彼が多様な違反を告白し、淫らな罪のために許しを求め、彼が神の王座の前に屈服したので彼に現れたのです。
もしくは、私は新約聖書に戻るでしょう。
そして、もう一度タルソのサウルの物語を語ることに努めます。
彼は本当に律法の前には非難すべきところがない者でした。
しかし、彼は彼の前に復活したキリストが現れるまで、神の教会のひどい迫害者でした。
彼はダマスコの路上で地に倒れて「天からの光」によって盲目され、泣いてその時、彼の間違いに確信しました。
「主よ。あなたはどなたですか。」
彼のその後の生涯は、彼の悔い改めと彼の痛恨の深さの真実が証明されています。
もしくは、聖書のページから、ヒッポのアウグスチヌス、もしくはアッシジのフランシス、或いはジョン・バニヤン、イグナティオス・ロワイア、ジョン・ニュートン、もしくの私たちの時代にあってはジェリー・マコーリー、そして多くの人たちの場合に見られるような世界の人の悔い改めを列挙し、歴史と伝記へと戻るでしょう。
それぞれこれらの人々は、その時神の臨在の中に連れて来られました。
私たちも生涯を通して、態度を変える必要性を持ちます。
しかし、いくらかの、もしくは、すべての悔い改めの必要性の実例がどのくらいあったでしょうか?
「はい、私たちはこのような人たちの悔い改めの必要性をはっきりと認識しています。」
彼らの並外れた不正、彼らの罪は多かったです。
彼らが彼らの魂の苦悩において後悔することは、正しくて適切なことでした。
「しかし、神に感謝し、私は彼らのようではないと言います。
私はこのような罪の深みの中に決して行くことはしなかったし、私はこのような悪行をこれまで明らかにしたことがありません。
私は、これまで正しくて適切であることを忘れてもいないし。
私は悔い改めを必要としていない人間です。」、
あなたは何もこれらの文字通りの言葉を使用したことがないと言うでしょうか?
そうではありません、それでもなおその魂は、言葉を勝手な感覚で自分自身で聞いてたびたび口にするでしょう、私は神の牧会者以外の多くの耳のある者に対して説得しているのです。
現在、私たちは私たちの聖書にあってこの古い本に帰る時、話そうとすることはもう何もありません。
私たちは神が最悪の者ではなく、最高の者を探したことが分かります。
そして、神が私たちに不思議な悲しい物語を語り、その良い人間がどのように悔い改めに至ったのかを示してします。
それはこのように「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」なのです。」
もし、ヨブという人間のキャラクタが悔い改めを必要としなければならないなら、私とあなたには何と言われるだろう。
私たちは無実さにおいて彼からとても遠く離れ、とてもひどい罪を犯しました。
私たちが神の栄光に到達することは本当にできることでしょうか
?
すべての人間の悔い改めの必要を示すためにこのような人間を選んだヤハゥエの知恵をそのときに、あなたには見ることが出来ないのですか?
その時、ヨブの場合を考えて見てください。
見たところ、裕福な東洋の族長です。
著しい天体崇拝はすでに古代の礼拝に変わって地位を得ていました。
覚えておくべきことがあります。
偶像崇拝は、純粋な一神教の下等な物神崇拝からの宗教の発展のステップではありません。
それは、言葉の変化というよりはローマ人への手紙の1節が私たちに示しています。
人間は生きている真実の神からこれらの意味のない偶像に戻り、神はあらゆる不潔な慣習に「彼らを引き渡されました。」
しかし、ヨブはこれらすべて逃がれていました。
彼の行いは完璧でした。彼のすべての道はまっすぐであり、神を崇め、不正を憎んでいました。
1章と2章において私たちは目に見えない世界が明らかにされていることに注目します。
神とサタンの間の会話の話題はヨブです。
サタンは一日中私たちの神の前に信者たちを非難する告発者です。
主はサタンに挑戦して、尋ねました。
「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
新改訳聖書 ヨブ記 1章8節
注意してください。神はヨブが聖徒、信仰の人、真実な神の子供であると十分に語っています。
罪人は悔い改めた時ではなく、聖徒が悔い改めた時にヨブ記が私たちに与えられたのです。
サタンは、ヨブの神の評価の誠実さを否定し、ヨブのことはくわしく宣言しています。
「ヨブは愛を行っておらず、自分自身のために神を崇拝している」と....。
しかし、神は悪魔の方法を受け取りました。
矛盾したことを証明するために、族長の所有しているすべてをもぎ取る事を悪魔に許可しました。
神を放棄する代わりに、ヨブは叫びます。
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
新改訳聖書 ヨブ記 1章21節
このようにサタンは破られましたが、サタンは容赦しませんでした。
彼はヨブが神を愛することをやめないので、彼とのかかわり合いを繰り返します。それはヨブが神を愛していたのではなく、本当はもっとも自分の命を愛していたからです。
彼はそのために神の恩恵に借りがあることを認識していました。
ヨブの体の上にサタンの堕落した手が置くための許可がサタンに与えられました。
そして、死は生きていることより実際に望ましかったのです。
ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれ、土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわっていたので、ヨブは恐怖の極みの中にいました。
ヨブの妻が彼に言い「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
ヨブは彼への偉大な心にも勝ち誇り叫びました「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
ヨブは火のような試練の中で神を賞賛しています。
サタンは敗北しました。
決して彼へ与えられた物のためではなく、自分自身のために、この人間は神に忠実であって、神を愛していているという事実を、主は明白にしました。
それは、すべてこの世の財産、自分自身の命より、神が多くの価値のある人を見いだすことは驚くべきことです。
このように最初の場面が終わり、サタンの挫折と敗北がありました。
続いて起きたことの中で、私たちはヨブが目に見えない世界で起こったことを、何を知らないと言うことを思い出す必要があります。
もし彼が知っていたなら、彼の友人たちが彼の性格に対してこれらの激しい非難を持って来た後に、続いて起きた深い困惑にヨブは決して入り込むことはなかったでしょう。
この本の次の部分では、神の計画の中にもう一つの目的を見ることが出来ます。
ヨブは良き人間でした。
彼は全き義を持っていることは、神御自身が知り、宣言していました。
結論からいうとそれは、単に彼は行った事だけではなく、十分に考えられる生まれつきの性質を持つ人間なのです。
一つのことは一人の性質を抑制するのです。
生まれつきの罪から自由であることとは完全に別です。
ヨブの生活は、他の者と同じくらい自分自身が罪深いことを明白に忘れていました。
けれども、神の恵みによって素晴らしく守られていたのです。
神はゆえに、この良き人間に悔い改めにをもたらすために考案しました。
彼の生活が非常に良く規定されていたとしても、ヨブの性質が悪であることを認識させるために彼に与えられたのです。
このように彼の所有物を彼に与えた者の慈愛を大きくさせました。
それは三人のヨブの友は、すべてヨブ自身のように重要です。
ヨブといっしょに贖うために来たのです。
それぞれがヨブのもつ明らか示された性格にある真理を証明しています。
テマン人エリファズは、明確に経験主義の人間でした。
自然なの律法の観察力が鋭い生徒は繰り返し「私の見るところでは....」と宣言しています。
シュアハ人ビルダデは典型的な伝統主義者です。
「さあ、先代の人に尋ねよ。」
ビルダデは「彼らは私達より賢く、彼らがあなたに教えるだろう。」と言っています。
ナアマ人ツォファルは冷たさです。
人の罪に対して神が計り与えた災難として考える、熱心な律法主義者です。
そして、ただ人間の宿命に従って憐れみが分け与えられるのです。
7日間、昼夜彼らは苦しんでいるヨブの回りに宿営しました。
それは彼らの深い悲しみと彼の意味深い言葉によりました。
したがって彼らは話さずに、非常に考えました。
なぜ、この災難は彼らの友人に起こったか?
それらが隠された罪に対する処罰以外に考えられたでしょうか?
それは、忠実な創造者である良き神が、好ましくないことによって、苦悩を与えることが出来るということを想像するでしょうか?
彼らの非難する目は沈黙を言い表わしています。。
それは彼らの唇が最初に話すことを拒否しているからです。
ヨブは彼らの目に耐えられませんでした。
彼の魂は彼らの意味している暗示の下で苦悩しました。それは彼が今まで隠されてきた邪悪のために悩んでいたからです。
ついに「ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」のです。
新改訳聖書 ヨブ記3章1節
そして、熱心に無実を宣言し、ヨブの友に同情を求めたのです。
その時、長い討論がやって来ました。
何度も、三人の友はヨブに偽善を負わせ、彼を子供のように甘やかし過ぎましたが、それは破滅に至りました。
不道徳な性格を持った隠された罪を神は取り扱っていたのです。
三人の友は、ヨブに重大な悪を告白して、ゆえに彼に憐れみを示す機会を与えてくださるように頼みました。
断固として、正直に、時には皮肉にもヨブは彼らに答え、彼らの告発を否定しました。
神にある彼の確信のため彼らは安心しましたが、ヨブがひどい困惑の中にあることを認めました。
ヨブはそれを十分に証明するために進んだのです。
もし、彼らの哲学が正しければ、ヨブを取り扱う神は不当でした。
ついにヨブの最後の言葉をきっかけに彼らは黙り込みました。
ヨブは彼らのすべての非難に出会い、彼の義を力強く断言しました。
3つの章(29〜30章)の中で、彼は「私は」「私に」「私の」そして「私自身」を189回使っています。
しかし、ヨブが主を見る前にこのことがありました。
エリフ、彼は黙って討論全体を聞いていた、若者です。
神を弁護する者にヨブへの挑戦が許されました。
見事な演説の中で、エリフは苦悩が単に刑罰のためにではなく、教育のためにも下されることを示しました。
彼は神の知恵を誉め称えました。
神は前もって懲らしめるべき理由を現す義務は持っていません。
そして、彼は悩む魂が賢いことを指摘しました。
その時、神に人間の推理を通して神の道がわかろうとするより、むしろ教えられるために神を待つことを要求したのです。
神は雷鳴によって話されたので、友達は驚きました。
それは鮮明な雷鳴による警報です。
それから、大きいつむじ風が荒野を横切り、近付いてきます。
主の声がヨブの魂に語ります。
人間の知恵によっては答えることができない問題の後で問題を定義しています。
神はヨブの行いに不義が存在する可能性を示すためのヨブを叱責します。
そして、神の知恵と威厳を感じ、族長の悩む魂を襲い、ヨブは叫びます。
「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」
新改訳聖書 ヨブ記40章4、5節
しかし、神は徹底的ではありません。
神は再び語ります。そして、神の偉大さと力、神の栄光と全知の感覚が、ヨブの魂の前にもたらせられました。
ヨブが神の聖さと義の新しい概念を得るべきことを、ヨブ自身が考えます。
ヨブは自分の小ささを強調します。
「主がなさったことの結末」(ヤコブ書5章11節)に最後に到着し、ヨブは叫びました。
「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
新改訳聖書 ヨブ記42章5、6節
私たちは残りのことを知り、それをここで詳しく述べる必要はありません。
主の偉大な目的は達成されたのです。
ヨブは、自分の心と自分自身に関して、そして神に関しての態度全体を変えました。
ちりの中に卑しめられて、彼は自分自身強く責め、主を誉め称えました。
そして、これは神が初めから計画していたことなのです。
そして、それはすべての者が何としてもたどり着かなければならないことであり、その者は彼の恵みによって救われた者なのです。
「あなたがそう私を喜ばすべきであるように、神、あなたが成してくださいます。それは私の知性ための暗さですが、私の心のためには輝きです。」
自己審判は祝福のための確かな前触れです。
そして、自己審判は神の聖霊によって細工された悔い改めの働きです。
第3章 バプテスマのヨハネの悔い改め
新約聖書は、悔い改めの呼びかけともに始まります。
バプテスマのヨハネの職務はその重要性を著しく強調することに捧げられていました。
主の道を備えるためにエリヤの霊と力において神によって送り出されたのです。
約束されたメシアを表面上は待ち、選ばれた民族であることで自慢し自分を義とする国民は、彼らの低い道徳の条件のゆえに、イエスが来るのを歓迎する準備をしていなかったのです。
ティシュベの時のように彼が予告されずに突然現れ、最初に荒野にて「イスラエルの見捨てられた者」に宣言する説教者でした。
それから、その他にはヨハネを探していた自分を義認する律法学者、パリサイ人、そしてサドカイ人には王国を受け入れる心の準備が必要でした。
ヨハネのメッセージは、意味の深いことばで要約されています。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
それは聖い光と神の正しさで彼らの心の罪と真実の状態に直面するための挑戦でした。
そして、私たちは彼の話を聞いている収税人と罪人が、神が罪の許しを与えられたことを覚え喜び、自分自身への裁きと罪の許しの必要を認めてバプテスマが施されたのです。
メッセージは洗礼の儀式に関係していました。
それは、明確に、罪の許しのためと、悔い改めのバプテスマであることが断言され、彼のバプテスマに従った人々に対して実際にこう言っています。
「この行為において、私自身の改心、私自身に対する新しい態度、私の罪と私の神とを宣言します。
私はふさわしくありません。そして、救いのためにヨハネに目を向けさせた神の無限の慈悲を私自身を割り当てます。
私の罪を許すためにヨハネにあって考えること、そして、王と天の御国での場所を受けとるために恵み深く私自身を取り扱うことなのです。」
私は、バプテスマを受けたすべての者が完全な目的に達したとは言えません。
しかし、私はここにその真実な趣旨を見出すのです。
もちろん、バプテスマは罪の許しを手に入れることは出来ません。
それはただ許される必要があることの通知でした。
これらのバプテスマは、彼らの負債を認めて、これらに目を留める負債者に例えられるかもしれません。
その時、私たちの主はへりくだり、自からを残りの者と同一視しバプテスマを受けました。いわば、彼らの言ったことを承認しています。それを宣言しているのです。
彼は、これらの受けるべきの神の王座のすべて義の要求を満たすことによって、これらのすべての責任を果たすための準備だったのです。
それは3年以上あとで彼は言ったのです。
「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 12章50節
ああ!その記録は十字架の上で早くも達成されたのです。
イエスは、彼らすべてのための血の苦悩に身を寄せなければならなかったのです。
先駆者ヨハネにとってこのことを言うことは簡単ではないことをどのくらい知るでしょうか?
しかし、ヨハネが偉大な真実に対して多少ながらの洞察力を持っていたのです。
そのイエスは、メシアだけでなく救い主がであることが彼のことばによって立証されているのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 1章29節
悔い改めの彼のバプテスマは、なだめの犠牲として、あらかじめ定められた子羊の供え物を通して罪の許されるということに意味がありました。
傲慢な自分を義とするリーダーにヨハネは言ったのです。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 3章7〜8節
したがって悔い改めのために必要の果実をもたらすのです。
そして、その時ヨハネは彼らに警告しています。アブラハムとの子孫であるからといって誰も救われることはなく。信仰による霊的な子孫だけが救われ、信仰の創始者の子供であることだけによるのです。
「悔い改めに必要な果実です。」
すなわち、生活を変えるには態度をかえることを立証しています。
そうでなければ、真実の悔い改めは存在しません。
それから、彼は宣言しました。
「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 3章10節
多く者がより知識によって改善しようとしていて、どのくらいかけ離れていることをしているのではないのでしょうか?
いくつかの現代のメッセージは「斧もすでに木の根元に置かれています。」という言葉中で要約されています。
悪い果物を切るのです。
木を刈り込んでください。
哲学と信仰の混合を散布してはいけません。
信仰による教育によって、論理的な文化による試みるような環境を可能なら変えるべきです。
木をその時良い果物を生産しているときは、すべてのことはよいのです。
悪い木には悔い改めはなく、第二の誕生のための場所も存在しません。
しかし、人間の考えがあったとしても、神の原則は不変のままです。
その果物はなぜ腐敗しているのでしょうか?
不健全な農園から良い果物を生産するために試みて実験する必要はありません。
「斧もすでに木の根元に置かれています。」
天の父が植え付ける新しいもののために道をゆずるために、悪い木を切り倒さなければなりません。
悔い改めは承認されるものであり、神のことばと霊によって更新されるまで、「私たちの心が希望のない性質」は神に見積もられており、解りきっていることなのです。
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 7章16節
それは果物ではなく、枝なのです。
木は切られなければなりません。
それを改善しようとする事は無駄な事です。
神自身、それをあきらめました。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」
新改訳聖書 エレミヤ書 17章9節
文字通り、それは修復されることがありません。
ゆえに、新しい心と新しい霊が必要なのです。
ヨハネがこのように主の道を用意したのです。
たとえ、彼が扱わなかったとしても、心の隠された悪と自分を裁く必要を示さなければなりませんでした。
それは、私と私の肉に良いものがないということを認めならないということです。
この要求は明白です。
貪欲な兵士は自分の賃金で満足しなさいという要求がされました。
収税人は決められた以上とってはならないのです。
ヘロデ王は、ヨハネを取引するために探しました。
ヘロデ王は、最悪の近親相姦と、放蕩の中で厳しい説教者の宣言を聞いたのです。
それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。
新改訳聖書 マタイによる福音書 14章4節
刑務所の独房とその後で死刑執行者の剣は、悔い改めの説教者の舌を封じるかもしれません。
しかし、彼の言葉は永遠に生きていて、時が終わるまで、わがままな者、自分を義とする者、貪欲な者、好色を非難しています。
彼らの不正を見渡し、怒っているが見逃してくれる神を、どうにかすれば買収できると彼らは想像しているのです。
バプテスマのヨハネは、「預言者の終わり」と記されています。
そして、確かに彼の職務は旧約聖書の偉大な預言者の中にあって最も重要な位置にあります。
私たちは、すでにエリヤと霊において私たちの主がヨハネとをどのように認識したかを見ました。
そして、質問するヨハネと弟子たちはマラキ書にあるエリヤの復帰ついての預言について混乱を起こしていました。
主の偉大で恐ろしい日の案内役をする前に、ヨハネに言及して救い主は答えています。
「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 11章14節
彼が来て、王国の言葉の耕地を開拓します。
いばらの中に種は蒔きません。(エレミヤ書 4章3節参照)
このように彼は「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」というものとして神に選ばれました。
(マタイによる福音書 3章3節参照)
彼のメッセージは地慣らし的メッセージでした。
これらのメッセージは神の計画が敏速に実行されるために、恵みによって「山は上がり、谷は沈みました」
ある意味では、彼の職務は再び繰り返すことのない独特なものでした。
同じ環境で起きない限り、決して繰り返すことはありません。
しかし、広い意味で同種のメッセージはいつも要求されます。
この要求は人間の心は決して変わることがないために、王は王の権威を認め、屈服する人々を捜し求めているのです。
それゆえに、いままでのおもなヨハネの主張は悔い改めの必要性であり、それは常に祝福に先行しなければならない魂の状態だということです。
エリサベツにあいさつに行ったマリヤのことばは、いつでも適用できるのでしょう。
「権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 1章52〜53節
これはヨハネによって宣言されたのと同じ地慣らし的教義です。
それは、使徒パウロの教義とも違いがありません。
それでも、人間の心は反抗するのです。
人は神の目には認めることが出来ない存在もしない名声をどのくらい誇っているのではないのでしょうか。?
上品な婦人に憤慨して尋ねられました。
「私は、私の指導者同様に救われなければならないのですか?」
「奥様」の答えは信仰的な答えでした、「あなたは、まったく救われてる必要がありません。
しかし、たしかに他の哀れな罪人と同様に基礎を置いているのなら、あなたはすでに救われているのです。」
何年も前、私は雄弁なフランスの福音主義者(パウロ J. ロイザックス)が叫ぶのを聞いて驚きました。
「ああ、罪人を見出すことにどのくらい熱心になれるだろうか!」
もし、私が「彼のために素晴らしいメッセージ」を与えることができ、その瞬間に彼の言っていることを明白にしました。
ただ罪人であることが他の者も同時に罪人だと知ることだからです。
人間の責任による信仰的なメッセージは、真実を目指し良心に帰ります。
悔い改めは聖書の中で宣言されている通り、私が邪悪な罪人であることを神の前に認めることなのです。
死が人に訪れることを除いては、悔い改めの場所に人が来るまで、天からのそれ以上の言葉は誰にも与えられません。
この真実は恵みの福音と和解する小さなステップではありません。
その後に、罪人には「神の恵みが真実である」ことを知る準備がされています。
そして、それを喜ぶのです。
「神が切望していた魂」が作られる驚くべき準備を大いに楽しむのです
ちょうど、その者が空腹かも知れませんが、認識はしません。
それは味に飽きているからです。
ですから、夕飯の時間を気には留めません。
その者は神の哀れみ深い用意と自分の失われた状態を感じていないために、死にかけているのです。
ゆえに恵みのメッセージを感謝することないのです。
悔い改めへの招きは、神によって作られるためにデザインされていて、魂の飢えが苦しんだ者を作り、来て、福音のごちそうのための目一杯の食欲をもつためなのです。
その人は、福音の物語に対して無関心であることから、軽蔑していたことから立ち返る必要性に気付き、このように目覚めるのです。
「完全な魂はハチの巣を嫌います。
しかし、空腹な魂にとって、すべてにがいことは、甘いのです。」
たびたび、福音説教者は、よい働きによって救いを得ることに希望がないことを熱心に語ることをよく聞きます。
その時、働きが全く悪い人について取り扱い、その人は永遠の命に価値を持たず、この神を信じない世界のことをただ気にかけているのです。
私たちは、豚の前に真珠を投げることについて警告されています。
このことは語られる福音において、十分に行うことは不可能なことでしょうか?
私たちは恵みの神のすべてをゆがめて伝えることほど、容易で簡単なことはありません。
その恵みは、いつの時代おいても人に人間の罪深さと罪を示すことを最初に見出し、恐ろしい病気を告白した人々に、治療を提供しているのです。
バプテスマのヨハネのような信仰的なメッセンジャーがもしそこに多くいるのなら、クリスチャンにリバイバルと失われた者への目覚めが来ると私は語ってきました。
そのメッセンジャーは容赦なく大声で叫び、厳粛に人々に罪を示し、悔い改めのために主の名によって彼らに問い掛けます。
思い出してください。自分を義とするものは神によって強く責められます。
しかし、自分自身を強く責めるものはキリストにあって義が完成されたことを見出します。
キリストはあなたの罪のために死にました。
そして、今御子として、救い主として神の右の座についたキリストを褒め称えます。
彼の証言を受ける全て者に罪の悔い改めと赦しを与えているのです。
「私は、私の罪を片づけるために働くように言われていません。
とても愚かで、弱く無力な私には出来ないのです。
私は祝福された真実を知っています。
たとえ、しかし私は堕落して滅びんでいるのです。キリストは私の罪のために苦しみました。はい!キリストはすべてを行ったのです。
悔い改めが「人が価値のあるとする経験」とは逆のものであることを知っています。
その告白には人間にはまったくメリットがありません。
もし、彼がすでに救われていると言うのならただ、私たちの主であるイエスキリストの功績によるのです。
この方によって「私自身のすべての代価が与えました。」
ここで魂のために足元を固める者は、自分の努力が自分の足を砂に埋めてしますことを認識するのです。
キリストだけが、私たちの救いの岩です。
第4章 キリストの悔い改めへの呼びかけ
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 1章17節
その恵みと真実の組み合わせに注意してください。
ある者たちは恵みを楽しみたいと言うのならば、人は事実に直面しなければなりません。
それらは確かに彼によって差し出された者は「恵みは、あなたの唇へ注がれます」と言うことが出来、それ以上により強く迫る悔い改めへの要求は決してありえないのです。
その瞬間から、ヨハネは語り始めました。
ヨハネはイエスキリストの前触れであり、このように語りました「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
これらに激しい厳粛さがここにあります。
神は地に降りて、御子にあって話しました。
キリストは愛に満ちた心と、罪によって破滅した傷ついた人間への哀れみを持って来ました。
しかし、キリストは人間に仕えたのです。
キリストは彼らに彼らの悲しいありさまを徹底的に語らなければならなかったのです。
彼は、恵みの香油を彼らのこころへ注ぐ前に、彼は彼らの罪と彼らの邪悪を認めさせるために彼らに要求しなければなりませんでした。
神は、現実を備えていなければなりません。
キリストは、不法の上に輝やくことを拒否します。
ヨハネが救い主の愛を明らかにする前に、彼は新しい姿勢、完全なる転換に、自己審判を主張しているのです。
この原則の取り決めは、4福音書の中で完全な一致があります。
共観福音書において、悔い改めが要求されています。
ヨハネの福音書において、信じることが強調されています。
ある者たちはは一部に不一致また、矛盾があると考えています。
しかし、私たちが、ヨハネが共観福音書の著者が書いた後、何年もたってからヨハネの福音書を書いたことを思い出す必要があります。
そして、ヨハネの福音書には「イエスがキリストであり、神の子であり、そして、信じることによって彼の名によって私たちが命を持つことが出来る」ことを示す見解によってはっきりとしたテーマとして存在します。
ヨハネは、単にすでによく歩かれた土台の上を旅していません。
ヨハネはむしろ初期の記録に追加して、このように「神は神の子について与えた証言に対して信頼をさせること」を付け加えています。
ヨハネが信仰の重要性を強調していますが、悔い改めの職務を無視するようなことはしていません。
これに反して、ヨハネは悔い改めた魂に真実の光、すべての人間に向けられた光として、キリストを信頼することによって、、永遠のいのちを受け取るという救いの単純性を示しています。
このように人間の堕落した状態と、神の方へ、自分自身の方へのすべての態度を変える必要性をはっきりと語っています。
このような人間が失われているという現実を語るためであり、キリストに対する信仰によって救われるためです。
しかしはそれ自体にどんなに真実であり、祝福されていたとしても、その者にはにとって何も意味もありません。
それは、大渦巻に飲み込まれようとしていることを理解していない者に、救命具を投げるようなことです。
その人が自分の危険が知ったとき始めて、提供されている救いの方法を認めるようになるのです。
その時に共観福音書のメッセージが人の魂の上に深い印象を作るのです。
その人は、キリストの中にある信仰によってのみ、永遠の命と許しの宣言を受けるの準備ができるのです。
「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」ということ、そして、彼らがシロアムで塔の落が落ちて多くの者が殺されたことを報告した時、イエスは、厳粛に宣言しました。
イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
新改訳聖書 ルカによる福音書 13章2〜3節
偶然に、暴力によって、人は死にます。
それとも私たちが言うように自然に死んでゆくのでしょうか。
彼らが悔い改めて神に立ち返らない限り、彼らの運命は同じものをたどります。
そして、そのことは不正に対して神の裁きの事例を警告しているので、私たちは言及してきたいくつかの出来事についても恐らく考えることになるでしょう。
しかし、神の聖い目は、すべての心を見分け、そして、彼ら自身の側にではなく、神の側につくすべての者に呼びかけます。
これらのことが行われるまで、信仰を守ることはありえません。
これは、恵みの制限ではありません。
それに恵みに道をゆずることです。
そして、恵みを覚えることです。
悔い改めは、自動的に作り上げられてゆく地位ではありません。
それは、信仰的なことばの説教によって生じた聖霊が織り込まれた働きなのです。
どのくらい、今日「あなたがたが悔い改めないなら。」と聞くことが出来るでしょうか。
その時、私たちの主が明らかにされた日のことを見て、イエスは宣言しました。
「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 12章41節
イエスは、悔い改めている魂のために、恵みがこのように働くことをいっそう明確にすることができたはずです。
そして、聖霊の導きに反抗して、彼のこころはかたくなになり、彼には慈悲なし、単に裁きであるだけなのです。
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 11章20節
そして、彼らが悔い改めませんので、イエスは彼らの破滅を預言しました。
ベツサイダ、コラジン、カペナウムは荒廃して今日はありません。
にもかかわらず与えられた証言はこのような性格を持っていました。
「「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」と書かれていますが、これらの町の人は悔い改めなかったのです。
これらのガリラヤの都市の石は、今日、長い間ちりの中で叫んでいます。
「悔い改めて、福音を信じてください。」
なんと、聞く耳と理解する心は少ないのではないのでしょうか!
それは、正統的な神学者によって驚きともにたびたび注目されてきたことです。
福音の証言が非難の余地がなく正確な多くの教養ある説教者は、決心者に会うことがあまりありませんが、熱心であるけれど明白な福音を宣言するとは思えない伝道者の方が人々の失われた状態の真実を男にも女にも示し、熱心に悔い改めの必要性を強調し、数百もの魂を勝ち取っているのを見ます。
それはサム・ジョーンズも、D.L.ムーディも、ジプシー.スミスも、ビリー.サンディも、W.P.ニコルソンも、メル.トロッタもそうであり、もっとたくさんの人がそうでした。
説明はこれだけではありません。
人が真実に神の面前で彼らの罪に直面する時、彼らの目覚めた、警告された良心は、彼らがイエスを追求する完全な心ための神の恵みであり、わずかな通告にすばやく応じるようになるのです?
神は無知にあることの誉れ、もしくは半分の福音を賞賛してません。
疑うことなく、救いの明白な完全な声明はただ十字架に架けられ、復活した信仰によってのみであり、誉め称えられたキリストが悔い改めへの呼びかけを要求しています。
彼らは全ての疑いと自分自身の混乱から自由となる真実を求めて、長い間手探りでなければならないことよりも、信仰の改心はよりよく確立されるのです。
とりわけ福音伝道者は若い日よりも、晩年に恵みのよりよい理解に彼ら自身がたどり着くことを言っています。
しかし、それにも関わらずこれらの若い日に罪から義へのそして、サタンの力から神への多くの立ち返る素晴らしい実を得ています。
昔の世界中至る所で最初に広まられた3福音書において、その問いかけはユダヤ人と異邦人の前に出てゆき、悔い改めない魂は神に気に入れられることは無いと主帳しています。
そして、それは驚くことにそれほどに重要なことではありませんでした。
その時のクリスチャンの証言はよく知られてように、甘く、尊い光、命、愛についての表明はヨハネの福音書の中に与えられています。
もちろん、主の実際の証言の中で「恵みと真実」は混合されており、引き離されることは決してないのです。
我々の主は、魂の支配者、勝利者です。
そして、イエス自身についての知識に至るまで、私たちは仲間を勝ち取る時に、私たちは神に用いられることがあるのです。
私たちは人間の弱さが許す限り、彼の道を学ぶ、そして、彼の方法をまねようとします。
その方法は簡単です。その者は金持ちの若い支配者に宣言し走って、このように尋ねるでしょう。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 19章16節
何もすることはありません。
「ただ信じてください、そして、生きてください。」
彼は行いました。そしてそれは真実でした。
しかし、イエスはそう言いませんでした。
その代わりに、イエスは律法の厳しい教訓を扱うことによって青年の良心を徹底的に調査することを引き受けたのです。
そしてイエスは彼をテストしました。
ただ現実の信仰だけが彼を導きました。
あなたはひとつのことに欠けているのです。
それは何でしょうか?
青年は救い主の必要をこれまで認識していなかったからです。
自己満足で独り善がりによって、彼は正直に自分の長所を誇っていました。
そして、そのテストとは「あなたの持っている者を売りなさい。そして、貧しい人に与えなさい」というものでした。
人間の長所が理由で救いを得ることが出来なかったのです。
しかし、それは青年のこころに隠された悪と必要な哀れみを彼に必要であることをを示し、明らかにすることを意図してました。
イエスが罪によっておおわれたサマリアの女の命のおおいを取れるまで、イエスは彼女に生きている水を与えませんでした。
「先生。あなたは預言者だと思います。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 4章19節
これは「私は私が罪人であると認めます。」と同じこと言っているのです
そして、彼女が救い主としてのイエスを信じたあとの彼女自身の証言でした。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 4章29節
ラザフォード氏は、いままでに罪のために失望した夜を過ごしたと告白する信者があまりにも少ないことを、彼の生きている時に不満を漏らしました。
もし、ここでその時、真実なら、それは、今日、二倍に真実です。
私たちの主が罪人といっしょに食事をしたと、反対し不平を言っている律法主義者に答えた時、イエスはルカによる福音書の15章の三部作のたとえ話を関連付けて話しています。
そこで、私たちは、三部作のたとえ話全体が罪人の救いに関係しているのを見出します。
救い主は迷った羊を探しています。
光をもつ女性は、聖霊の働きを表していて、銀の失われた一枚を探しています。
それは、失われた者が悔い改める時、天国にあるすべての者は喜ぶのです。
熱心な父は放蕩息子の帰りを歓迎しています。
それは、恩知らずな若者が我に返ったとき、彼は、邪悪で愚かさゆえに自分自身を裁く立場を取ったという事実を私たちは見落としてはいけないのです。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 15章20節
父は門の上で恐れと心配の中で、息子のドアのベルを鳴らしことやノックしてくるのを待ってはいませんでした。
しかし、もう一方息子が豚の中に下にいる間は、父は息子に許しのキスの提供は出来ません。
悔い改めて息子が心の中で告白のことばを持って帰途についたとき、父は息子に急いで会いました。
これはすべての恵みを曇らすころになるでしょうか?
いいえ違います。
むしろそれを誇張し、それを誉め称えています。
それは価値のない罪人が彼らの恐ろしい状態を認め、確認し、神が受けるに値しない好意を示すにあたって喜びを見出すためです。
ルカによる福音書7章で涙を流す売春婦はイエスの足元にひざまつきました。そして彼女の涙で足を洗い、彼女の女性の栄光である髪で足を乾かしました。それは他に何も出来なかったからです。
イエスは信仰によって救われるための悔い改めと関連付けています。
彼女が罪を嘆き悲しみ、キリストの清さに照らして彼女の不潔な生活を判断したので、後悔の涙は、彼女の心の深い悲しみを語っています。
イエスの恵みの言葉は「この女の多くの罪は赦されています」なのです。
彼女がイエスの証言を信じるよりもすぐには彼女の耳に聞こえることはなく、彼女は去って行き清くなったことをことを知ったのです。
真実にイエスは、まだ彼女の罪のために死んでいませんでした。
しかし、信仰は地の上で許すことの出来る力を持った唯一の救い主としての信仰を彼女は得ました。
彼女が泣いたこと、彼の足を彼女が洗ったこと、彼女の屈辱には、それらは賞賛に値するものは何もありません。
受けるべき功績はすべてはイエスのものです。
イエスの発言は別の人物に言ったようです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
彼女のすべての不法を許し、永遠に彼女のこころを勝ち取ったのです。
「それは、あなたのの悔い改めの涙、祈りではありません。
それはイエスにあってその時、血が魂を贖うのです。」
あなたの重大な不法の目録は一度に脱ぎ捨てられるのです。
クラウバックスのバーナードが死の床で祈っている修道士に彼の利点について話していました。
英語に翻訳されたことばが意味するラテン語で「聖いイエス、あなたの傷は、私の利点です。」と彼は叫んだのです。
悔い改めている人は、ただそれだけのことを話すのです。
そして私たちの主は「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と話します。」
迷子の失われた羊を取り戻した時に、すべての聖徒と天使は善羊飼いとともに喜び、魂に本当の価値があることを彼らはその時、知るのです。
第5章 ペテロの働き
この地上にて主イエスキリストが働いていた時代に、イエスの言葉を述べ伝えるためにイスラエルの国の至る所に12使徒たちを送りました。
イエスは明らかに12使徒たちに洗礼者ヨハネが説き、彼が宣言した同じメッセージを強調するよう命令したのです。
私たちにはマルコによる福音書 6章12節にこのように書かれているのです。
「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、・・・。」
新改訳聖書 マルコによる福音書 6章12節
イエスが罪を償い、栄光ある復活のあとで
イエスが、11使徒に全世界へ出て行き、すべての国々へキリストの福音を知らせるために任命をした時、私たちはふたたび同じ厳粛な真実を強調しているのを見つけます。
私たちはルカによる福音書24章46節にイエスが彼らに言ったことを読みました。
「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」
新改訳聖書 ルカによる福音書24章46〜47節
幕は裂かれ、そして古い摂理(時代)は終わりました。
イエスの死による勝利は、新しい真理を導入し、しかし人間の悔い改める要求は撤廃されてはいません。
神の恵みの福音は、片側だけにこの要求を求めてなく、ほんの少しも妥協するようなことはないのです。
もし、人が罪の許しを受け取ろうとするのなら、神と罪の問題の方へ態度を変えなければなりません。
真に許しは信仰によるのです。
しかし、悔い改めなしに信仰は有り得ないし、信仰なしに悔い改めも有り得ません。
なんと神は悔い改めと信仰を結びつけ、離れたままにはしません。
私たちは事実上すべてが用意されています。
それゆえに私たちは使徒の働きを読むとき、悔い改るために多くのページが与えられているのを知ります。
たいてい私たちは、使徒ための「使徒の働き」としてこの本のことを話します。
しかし、28章の細かく見てゆくと、二人の使徒の働きについて大きくページが占められていることがわかります。
その二人の使徒は十二使徒の一人であるペテロと、神の言葉である聖書を完成させた異邦人への使徒であるパウロなのです。
他の使徒たちについてはほとんどは名前さえも触れることがないのです。
私はこの時のペテロの説教の中に、悔い改めについての個所を見出すことをお勧めします。
偉大なペンテコステの章の中に私たちは12人の代表として語るペテロを見つけます。
この時すでにマッテヤは彼らと共に数えられ、多数の敬虔な人たちとユダヤ人、天の下にあるすべての国から入ってきた改宗者たちに演説しています。
驚くほど鮮明に聖霊の力と鋭さで、ペテロはペンテコステの日の重要な出来事と、ヨエル書の預言された最後の日に聖霊が下るという約束を関連付けています。
ペテロは、ヨエルの預言がちょうどその時文字どおりに果たされたとは言っているのではありません。
彼は預言者によってなされた預言と同じ力が現されたことについて説明しているのです。
「これがそうです」とペテロは宣言しているのです。
「この力、この聖霊の注ぎ、この神の現れ、このことがヨエルが話したことと同じだと言っているのです。
その時、ペテロはイスラエルの一部の者が長い年月待ちわびた後に、メシアの前もってされた預言の中に正確な一致があることを示し約束しているのです。
しかし、ユダヤ人はイエスを退けるときに彼ら自身の聖書を成就したのです。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」
新改訳聖書 使徒による働き 2章23〜24節
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことです。
しかし、それにも関わらず彼らは彼に逆らって手を伸ばし、彼らは彼の名誉を汚し,大変な罪を犯しました。
それゆえ、神がイエスに栄光を与えて、彼らを目撃者として任命したのです。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
新改訳聖書 使徒による働き 2章36節
この宣言は彼らに鋭く刺激的な思いをもたらし、「弟子たちの心に刺された」のです。
彼らが犯した罪の恐ろしさが彼らに現われ、立っていた恐ろしい立場を彼らは認識したのです。
「どのようにして彼らは、自分自身をこれから救い出すことができるでしょうか?。」
言い換えると、両刃の剣のような神の持つ多くの裁かれる罪過、どんな瞬間においても恐ろしい復習に落ちやすく罪過から彼らはどのように自分自身を切り離すことが出来るでしょうか?
彼らはペテロと他の使徒とそこにいた人たちおよびその仲間たちに言いました。
「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」という問題とピリピ人看守の質問を混合させないでください。
だれが尋ねたのでしょうか。
「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」
彼は神を信じない異邦人でした。
彼は彼の失っている立場を感じて突然に目覚め、不幸せな状態から熱心に救いを捜し求めたのです。
彼らはイスラエル人であり、契約の人でした。
彼らはメシアを期待して探し求めていたのです。
ペテロは彼らにメシアが来て、そして去ったことを示しました。
選ばれた国は、メシアに拒絶した人たちによって形成されていました。それゆえ、神は彼らを非難の下に民族を置いたのです。
神の正しい政治とは神の最高の怒りをもってイスラエルを訪ねることなのです。
同様にパウルも後でテサロニケ人の手紙の中に説明しています。
もしこのことが人間の目をさませたのなら、滅びから逃れるためのペテロの証言は十分に信じることができたでしょう。
その滅びは彼らの責任だったでしょうか?
罪ある国民の罪過から自分自身を切り離すのに彼らは何をすればよいのですか?
その答えは明確で、はっきりしたことなのです。
そこでペテロは彼らに答えました。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
新改訳聖書 使徒による働き 2章38〜39節
確かにすべてことは、私たちが予想するようにはっきりしていて完全に適していることです。
なぜならばペテロは神の力により直接語られたメッセンジャーです。
その悔い改めの要求はペテロの言葉を通して語られたのです。「あなたの態度を変えなさい。」
その国民はイエスに反抗しました。
あなたはイエスを受け取らなければならない。
その国民は彼を十字架につけました。
あなたはイエスを王位につけなければならない。
あなたの悔い改めはイエスの名によって授けられるバプテスマによって証しされなければならない。
これを行うことによって、あなたの祖先がモーセを認めたのと同様に、あなた自身がメシアを認めることになるのです。
「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、 」
新改訳聖書 コリント人の手紙第一 10章1〜2節
バプテスマのヨハネの目的は罪の許しでした。
したがって、バプテスマには救われるという利点はありませんでした。
その利点は彼らの告白にあったのです。
政治的に、いやそれ以上にキリストと彼らをこのように同一視することにより、キリストを拒絶した国の中で彼らは彼らのいるべき場所から出て行ったのです。
これがはっきりと彼の言っている事は次の節に現れてています。
「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。」
新改訳聖書 使徒による働き 2章40節
イスラエルは、彼ら自身を彼らの罪から救うことができないのです。
ただキリストの血のみがそのことができるのです。
もし、イスラエルが主の油注がれた者を拒んだという国であることを信仰と悔い改めにあって認めたのなら、国民に差し迫る滅びから彼ら自身を救うことが出来たのです。
イエスが十字架に行く前に言いました。
「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 23章38節
ペテロのメッセージを信じた人たちは、荒れ果てた家を出て、ペテロの非難を身につけてペテロの前へ行くはずなのです。
そして、この責任と祝福はその日メッセージを聞いた者のためにだけあるのではありません。
それは、今もなお全世界のすべて信じているユダヤ人の責任なのです。
そして広い意味で遠く離れているすべて異邦人のためです。
私たちはエペソ人への手紙の中で学びました。
遠く離れていた私たちも一度、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ人への手紙 2章13節参照)
イスラエルであろうと国としても、悔い改めた人は世を裁きから、世から拒絶されたキリストへと方向を変えたのです。
もし方向を変えたのなら、救い主としての主イエスを告白し苦しむことでしょうが、彼は永遠の祝福を見つけるのです。
「使徒による働き」の3章で、私たちは素晴らしいもう一つの場面に出会います。
宮の前の美しの門の前に座った生まれつき足のきかない男を癒した後、驚き、あきれた人々がみないっせいにソロモンの廊という回廊でペテロのメッセージを聞きました。
再び、メシアの来たという同じ物語を語りました。
それはメシアはただ拒絶され、殺され、神はこのメシアであるイエスを死者の中からよみがえらせたことをです。
誰の名によって、彼らの面前で手足の不自由な乞食に完全な体を与えたられたのでしょうか。
霊感を与えられた使徒は宣言し続けました。
彼らは無知ゆえに恐ろしいことをしましたが、彼らが血の復讐者から逃げることのできる、逃れるの町がありました。
場面は盛り上がり彼は叫びました
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」
新改訳聖書 使徒による働き 3章19〜21節
ここに注意してください。
ここでペテロが、いずれ全ての人に救いがあるとは宣言していません。
万人救済説論者と他の教師と同様に私たちを信じてください。
これらは絶対的、普遍的回復がここで預言されているのではありません。
彼が宣言したことは、預言者が話した万物の回復でした。
その制限を越えて彼は何も行っていません。
この回復は将来起こる事であり、イスラエルの悔い改めに依存しているのです。
彼らが主に向きを変えるとき、イスラエルの健康は守られ、あらゆるの国の間で知られるのです。
しかし、ペテロはこの日、その後に国がたどろうとしている道程とメシアの約束された再臨を視野にいれて、悔い改めて、改心するように彼の聞き手に要求しました。
それはあたかも彼が命令するかのように「驚くべき命の御子の方にあなたの態度を変えなさい。」と言ったのです
御顔の方へ正しく振り返り、この問題の答える国民の代表者は反対の立場を取っているのです。
その時、キリストと呼ばれるイエスに何をするのでしょうか。
熱心に彼の死を要求し、イエスから遠く離れて、彼を除け! 彼を除けと叫んでいます。
彼から立ち返る代わりに、このように立ち返ることによって、彼らは罪の赦しを受け取り、イエスを歓迎する準備ができるのです。彼は力と栄光で戻ってくるのです。
これは現代、滅びかけているユダヤ人の確かな態度なのです。
彼らの叫び声が聞こえました。
「バラバでなくこの人!」イエスは人々の宣告を反対にしたのです。
ペテロの職務全体にわたって、私たちは同じく重要な記録を見出だします。
あらゆるところでペテロがは復活したキリストを誉め称えることばでメッセージをしています。そして主が送られたものを拒否したこれらの大変な邪悪な人々を家に帰そうとしているのです。
それは彼らがこれらの不正から遠ざかり、主が彼らに戻るためです。
いつも、ペテロの自分自身を裁くための要求は調和しないことは語ってはいません。
それは彼らが罪の認め、感謝するためです。
なぜならば、救いの唯一の手段は主イエスに対する個人的な信仰だからです。
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
新改訳聖書 使徒による働き 4章11〜12節
確かに正しいことではありません。
考え深い読者は、悔い改めにある記録されている結論から免れることはできません。一方では悔い改めは賞賛に値する感覚でもありません。
それにもかかわらず信仰を守るためへの前提条件なのです。
人間本来の性質を持つ悔い改めない人間は、適切な信仰にある福音メッセージを得て、主イエスを彼自身の個人的な救い主と認めることは決して出来ることではないのです。
なぜ、福音のメッセンジャーは今日悔い改めを勧めることを人に求めるのをためらうのですか?
もし、それが神の恵みの反することならば、ペテロの任務がいまだに充分明らかにされてはいません。
私は最初の手紙で彼の霊感を与えた抗議者に思い出させます。
彼は、はっきりと私たちにそれを書いた理由を話しています。
「私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。」
新改訳聖書 ペテロ第一の手紙 5章12節
どのように行うか、ローマ人への手紙 5章2節でこれと違ったパウロの証言があります。
「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章2節
もし他の目的に基づいて、ペテロが割礼のある者への使徒だったら。福音にはユダヤ人と異邦人との間に区別があるのです。
私は事実を示します。コーネリアスの家でペテロの前に異邦人聴衆がいました。
その時彼は肉にあるユダヤ人の同朋に語っていて、彼のメッセージは、イスラエルが裁きを受けることからの、直接的な分離の呼びかける時を除いて、全く同じ性格をもっているのです。
それは福音を信じるための責任が、とてもストレスのあることだからです。
しかし彼は宣言しています。
「イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒による働き 10章42〜43節
疑う余地なく、コーネリアスの態度が明らかに証言しています。
彼は真実に悔い改めのグループについて言及しているのです。
そして、すぐに福音は彼らのこころにおいて足がかりを見つけるのです。
彼らはことばを信じて、キリストの体への聖霊によってバプテスマされ、神の子としての聖霊の印を押されます。
この推測が正しいことは、ペテロが後ほどユダヤ人の偏見にある妨害に会い、割礼を受けてない異邦人のところへ行った理由(11:3)を説明するときに、ユダヤの仲間たちによって言われたことから立証されています。
「そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。」
新改訳聖書 使徒による働き 11章2〜3節
ペテロの仲間が全体の物語を聞いたとき、
「「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。」
新改訳聖書 使徒による働き 11章18節
これは、コーネリアスと彼の友人が信仰のことばを受けるために準備をされていたことを説明しているのです。
すぐにユダヤ人の悔い改めについてよりよく知る者によって声明がなされました。
ユダヤ人は神との契約関係の中にいて、その契約を破ったので悔い改めることができるのです。
しかし、異邦人にはユダヤ人のような関係がありませんでした。
彼らは、死んだ罪人です。
ゆえに、彼らが神の中に生まれなければ彼らは悔い改めることができないのです。
これは無知な説明のえり好みで、ばかげていて危険でもありません。
ペテロが説教した異邦人には、命にある悔い改めが与えられました。
彼らは命を受けとらず、悔い改めようとしたのです
しかし、説教されたことばを通して、彼らは態度を変え、福音は信じられました。
他の異邦人のように、彼らは「偶像から神に向きを変えて、キリストに対する信仰によって救われたのです。
どのように私たちが見たものが、すなわち、聖書の一般的な教えであると確認できるでしょうか。
その悔い改めとは、功績のある行為、または興奮した気質、または感情的な経験ことではありません。
しかし、魂を救うことの出来る植え付けられた柔和な言葉を受ける前に起こる、罪と神の前で明らかに得られる新しい態度なのです。
神が命に悔い改めを与えるのです、しかし、私たちは、聖書を聞くことによって自分自身に信仰が来るように悔い改めも来ると言うでしょう。
ゆえに、人は素直にその言葉に注意する責任に出会い、心と良心において働こうとするのです。
それは彼自身が悔い改めによって終わり、ただキリストの完成された働きにある信仰によってのみ魂に導かれるのです。そしてただで恵みによって自由に救われるのです。
ユダヤ人、異邦人に関わらず神の御前によって死んだ罪人であると言っているのです。
したがって、死んだ罪人は悔い改めることができません。
それは裁きであり、実際的な死である人間の死の性質を誤解することです。
救われていない人は、人間性と習慣性によって罪を犯しているアダムと同一視され、罪過と罪において死んだものとして神に見られています。
罪が彼を神から引き離したので、彼は霊的に死んでいます。
しかし、実際には罪人は生きています。
神は理性的な人格にてご自身を明確にしており、被造物の責任が神にあるのです。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
新改訳聖書 イザヤ書 1章18節
前の節にて教えられていることは、悔い改めが必要であるとする働きを前面に持って来ようとする態度を明確にした後で、恵みの言葉を示すことです。
罪人が悔い改めることは、死者への呼びかけとおなじことです。
それは説教者の必修義務であり、行われることです。そしてそれは服従するための人間の責任です。
私にはこの現実を認める長年の問題があります。この問題はこの議論に関わりがあり、神の主権と人間の責任に関係しています。
しかし、なぜ、誰かが説明しようとしているのでしょうか。それは理解している人間自身が理解している量をはるかに超えてしまうことなのです。
神は言われました。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
新改訳聖書 イザヤ書 55章8〜9節
聖書は、明らかに神が支配者であることと「みこころによりご計画のままをみな実現される方」について教えています。(新改訳聖書 エペソ人への手紙 1章11節参照)
それは明確に責任ある被造物として示されていて、その人は、自分に立ち返る力を使って主の要求にこたえる選択の力を持っているのです。
「立ち返れ、....なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」
新改訳聖書 エゼキエル書 33章11節
「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」
新改訳聖書 ヨシュア記 25章15節
「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
新改訳聖書 黙示録 22章17節
イエスの証言を拒否した人々に救い主は悲しくも言われました。
「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 5章40節
神が恵みを選ぶ真実は、人間の責任と争うことは出来ません。
気付いている、重要な現実的な方法についてムーディ氏は率直に言いました。
「選ばれた人は誰でも決意します。
選ばれていない人は誰も決意しません。」
神学者がそれをより明らかにすることができたでしょうか?
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章20節
罪贖われた魂の便りは増します。
誰も聞こえることを知らない深み。
誰がその幅と長さが計ることができるでしょうか?
その栄光の上で、私の魂に永遠に住まいます。
第6章 パウロの働き
偉大な使徒パウロの異邦人への手紙は何の助けもなく、彼の「私の福音」、「私の説いている福音」という特有な言葉に表れています。
「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 1章 11〜12節
それは明確な天から啓示であり、その時、パウロは神によって使徒職を受けたのです。
それでも、彼はペテロに会いにエルサレムに上ってゆきました。
そして、パウロはペテロと他の12使徒たちに親しく相談を持ち掛けたのです。
その相談とは彼の説いている異邦人への福音です。
私たちは彼らが今、神を認めていて、他に何も付け加えていないことを話しました。
しかし、パウロとバルナバに交わりの右手を置き、彼らが国々に福音を説き続けたので、神の恵みによって彼らに推薦しました。
現実にはっきりしている合意を得て、このように言っています。
「ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 2章 7〜8節
それは「割礼ための福音」と「割礼をうけていない人の福音」の内容とは違うので、いくつかの争いがあり、このペテロとの和解は意味が持ちませんでした。
パウロはペテロに非難し宣言しました。
それはパウロの福音は一つであるという宣言を無視することになるからです。
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 1章8〜9節
パウロはそれ以外の福音を知りませんでした。
そのとき、律法と恵みの混合物が教えられていたのです。
彼は宣言しました。
「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 1章7節
なぜ、そのときペテロの福音とパウロの福音の間に違いがあったのでしょうか。
それは多数の教義にあるのではなく、学び方の違いにあるのです。
パウロは福音を次のように理解しています。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 15章1〜5節
私たちがすでに見ているように、これはまさしくペテロと他の者たちが始めから宣言したいたものなのです。
最近、悔い改めが割礼者への福音との間に関係があるという印刷物に気がつきました。しかしパウロの無割礼者への福音は悔い改めと関係している個所はどこにもありません。
その人の宣言は表面的には違いを承認しましたが、私はすぐに調べる事を提案しました。
それはその人が私たちにあやふや言葉を並べているので、 その人は重大なテーマを持つ事となりました。
私たちが悔い改めを説明し、その人が考え方を変えることがもっとも確実な方法なのです。
ある時。彼はその時、自分を義とする偏見のあるパリサイ人であり、ナザレのイエスの名に反逆するために何をすべきかを実際に考えていました。
しかし、その瞬間すべては変わったのです。
彼は天から挑戦的な声の宣言を聞きました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
彼の考えは打ち砕かれました、そして罪を自覚し、彼は『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。』と叫びました。
それは心から悔い改めている人の質問です。彼はすべての態度を変えました。
その時、彼はナザレのイエスに福音に反対している事は、神に反抗して戦っていることだと認識したのです。
彼の魂の中で働いていた深い働きは新しい命と行動において明白になったのです。
私たちは、すぐにかつて破壊者であった彼が信仰を説いているのを見ます。
聖書の中で私たちはこれ以上はっきりした悔い改めの証拠を持つことはありません。
そして、パウロの改心はすべての人のためのモデルとなりました。
そのことは、パウロが使徒であったすべての時代にあって、ユダヤ人と異邦人に宣言されたものであり、彼にとって現実となったのです。
パウロは実際に「悔い改め」と「悔い改めなさい」という言葉を必ず使っているということはないし、恐らく彼は意識して使用していないのです。
彼のメッセージには、彼らの道を考慮して、聞き手の心を動かすという性格があります。
彼らの道は、罪を神の前に差し出す事、立場をなくしてしまった事、そして神の救いのために信仰を自分自身に役立てる事です。
そのとき、パウロはアテネのマースヒルに立ち、都市に住む知識人に演説し、まさに私たちが求めているこの言葉を使ったのです。
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
新改訳聖書 使徒による働き 17章30〜31節
ピリピ人看守にはパウロはこのようなメッセージはしませんでした。
なぜなら、このメッセージは人間のすべての姿勢は彼の魂の中ですでに作り出された悔い改めを示しています。
それゆえ、ピリピ人看守ためには、罪を持つすべての罪人同様に、単純な言葉が示されました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
新改訳聖書 使徒による働き 16章31節
しかし、アレオパゴスの高ぶる人、見下す人、嘲笑する人には混じり気のない純粋な恵みのメッセージの準備は出来ていませんでした。
彼らは、神の前に彼らの真実の地位を認識する必要がありました。
ですから、彼らへの要求は「あなた方の考えを変えなさい!
神の声を聞いて、悔い改めなさい。」
魂の賢明な商人であるパウロの例によりも優れた実例はありません。
休耕中の土地は良き福音の種の準備をする前に開拓されなければなりません。
この道徳的な要求は、エペソのいるバプテスマのヨハネの弟子の小さなグループに出会うときに使徒たちに鮮明に現れます。
彼が示したのは新しい摂理(時代)の完全な福音の要求への前触れとなりました。
そして、この原則は至るところで現れているのです。
「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。
「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。
そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」
新改訳聖書 使徒による働き 19章1〜6節
しかし、彼らが救われようとする問いかけの悔い改めは人間は絶え間ない努力を求めるでしょう。
ですから、もっと積極的に証拠は引用してみましょう。
私たちは「使徒による働き20章」で「パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。」ことを読みました。
彼らにパウロはパウロがそして彼らにあっての彼の働きについて、使徒としてだいたいの性質を語りました。
「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
新改訳聖書 使徒による働き 20章20〜21節
これらのパウロのメッセージが異邦人には「悔い改めのための場所がない」のです。そのことを考えて宣言していることを誰かが想像してみてください。
そうです、その悔い改めはユダヤ人のためであり、異邦人のためではありません。
訳者注1)
「ユダヤ人」と「神に対する悔い改め」、「ギリシャ人」と「私たちの主イエスに対する信仰」が対になっていることに注意してください。
つまり、「ユダヤ人」には「神に対する悔い改め」が必要であって、「ギリシャ人」と「私たちの主イエスに対する信仰が必要であることを意図している。
diamarturomenov(はっきりと主張したのです) ioudaioiv((ユダヤ人) te kai(そして) ellhsin(異邦人) thn eiv ton yeon metanoian((神に対する悔い改め) kai(そして) pistin thn eiv ton kurion hmwn ihsoun(私たちの主イエスに対する信仰))
(ギリシャ語)
Testifying both to the Jews, and also to
the Greeks, repentance toward God, and faith
toward our Lord Jesus Christ.
(KJV)
注2)「ユダヤ人にもギリシヤ人」の「にも」というのは「te kai 」という言葉を使っており、ユダヤ人、そしてギリシャ人にもと訳されるべきです。ユダヤ人がメインです。)
パウロは与えられた事実にあって悔い改めと信仰をいっしょにして不調和なことは何も示していません。
神に対する新しい姿勢は、パウロが提供している個人的な救済者への信頼に至ることなのです。
神の無限の聖さの光の中に自分自身を見つけ、福音を信じてキリストにある休息を見つけるまで、彼が平和ではありえないのです。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章1節
パウロはアグリッパ王の前で見事に釈明しています。
パウロがどのように復活したイエスに会い、仕える者、また証人として受け入れられたのか、そして、どのように主がパウロをこの民族の目を開かせるためにパウロを送ったのかがわかります。
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」
新改訳聖書 使徒による働き 26章18節
これはすべての福音の説教者のためのモデルです。
私たちの最初の仕事は人間の目を開かせて彼らを闇から光へと立ち返らすことなのです。
しかし、多くの者が救い主としてキリストを必要としていることさえ、認識してはいないのです。
よい機会と言われるものへの警告がここにあります。
生活することを心の中心に置くことは、富と名声を求める傾向があり、世の無益な喜びを経験した後にそれらをむさぶるように探すようになります。
彼らは最も重大な事柄のためには何も気にするようなことをせずに、彼らは軽率にもそれらのことを遂行するのです。
彼らは罪と危険が何かを悟るための、刺激と警報によった目覚めのためのメッセージが必要なのです。
説教者の最も甘い福音が成し遂げられるまで、その宣言は、最も無関心な事柄になりました。
またそのような者たちにとっては、エゼキエルのように最高の主の預言者にもなるのです。
「彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。
あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。」
新改訳聖書 エゼキエル書 33章31〜32節
恋の歌は音楽に合わせたよき祈りです。
「マクシェエー」は彼の霊の歌の中で多くの経験を十分に表しています。
「私はかつて恵みと神にあってよそ者でした。
私は私の危険を知りませんでした。
私は私の主を知りませんでした。
友が木の上でキリストために大喜びで話したにもかかわらず・・・。
エホバ・チェドケムは私にとって何でもなかったのです。」
それはキリストにある神の義が彼自身にとって利益となることを熱心に願ったのは、自由な恵みの時に、現実の状態の感覚に彼が目覚めたときだけのことでした。
私たちの使徒は天的な考えによって素直に、今までにこの命令に従ったことをエペソの長老に告げています。
私たちは使徒による働き 26章20節でこのことを読みます。
「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」
新改訳聖書 使徒による働き 26章20節
誤りはここにはありませんか?
いいえ、誤りはありません。
これは恵みの使徒で有り得るでしょうか?
また、誰に話しているのでしょうか。
疑いなく、彼がローマ人の手紙、エペソ人の手紙で述べられている、根本的な原則を否定しているのではないでしょうか?
彼は病人がその恐ろしい病気が直らないことを認識し、確認することの重要性を述べているのです。
人間が助けることの出来るのは、偉大な医者の技術に、信仰において自分自身を向けるせようとすることだけです。
(訳者注、ここの個所はユダヤ人によって訴えられ、アグリッパ王に弁明しているのであって、これは純粋な伝道ではなく、聞き手であるユダヤ人の目を考慮して語っています。また、この前にパウロは頭をそり、身の清めを行っており(ユダヤ教的儀式)、ユダヤ教と福音との分離が出来ていない者たち、及びユダヤ人クリスチャンへのアプローチなのです。(決して好ましい方法とは思えない。))
そういうわけで、彼は神の治療法に関しての真実を開く前に、人間の絶望的な状態についておよそローマ人への手紙の3つの章にて解明しています。
また、エペソ人への手紙2章の要求も同じもので、何の混乱もなく、完全なる調和をもっています。
実際により深くこのひとつのことを二つの偉大な基本的な手紙から学ぶのであれば、否定することは何もなく、それぞれの立場から罪人をより確かに見るようになります。
ローマ人への手紙の中で人間は肉であり、有罪な罪人と見られていることが書かれています。
人間は光に反抗して罪を犯すので許しがないのです。
そして、神の義の裁きでさらされ、立たされるのです。
同様に1章では無知な異教徒。
2章1〜16節では教養ある哲学者。
または2章にあるはっきりしない状態にある律法的なユダヤ人。
そこにどのような違いがあるでしょうか。
すべての人が罪を犯しました。
そして、神の栄光に達しないのです。
それにもかかわらず、神は哀れみをもって人間に尋ねています。
彼にある良き確証を日々与えてくださいます。
すべてが悔い改めに至るように設計されています。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 2章4節
ああしかし!生まれつきの心の汚なさ、罪深さは、その人の長所にでもなく、ここで、黙示録の16章11節にある彼の怒りによって目覚めさせられるのです。
「そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」
ヨハネの黙示録 16章11節
それゆえに伝道の愚かさは必要とされています。
神の真実は聖霊の働きの力の中に宣言されます。
もし反抗せずに悔い改めに至るのなら、訓練されます。
そういうわけで使徒がローマ人への手紙の次の部分で書かれているように、栄光ある恵みの福音に開かれる前に、明確に人間の失われた状態を述べているのです。
エペソ人への手紙には人間が道徳的、霊的に死んだ者と見なされています。
神に対して霊的に生きること無しに、人間は十分に生きることができます。
その人は霊的に死の状態からキリストと共に生き返されます。
それは人間の価値感からかけ離れているのです。
しかし、言葉を通して私たちは知り、この新しい命は与えられました。
そして、その言葉ははじめは殺しますが、その時生かします。
バニヤンの天路暦程の巡礼者は聖書を読み出すまで自分の背中にある重荷に気が付きませんでした。
より読んでゆくと自分の救われるための哀れな願いが返ってくるまで重荷はますます重たくなり、狭き門に導かれました。
そこで新しい誕生について話されました。
それでもなお、彼は、空っぽの十字架(墓)を見るまで完成された救いを見つけられませんでした。
しかし、空っぽの十字架(墓)を見た時、彼は本当に賛美することが出来たのです。
「祝福された十字架、祝福された墓。
祝福よりも私のために恥辱を受けた方です。
叫ぼうじゃありませんか。
「信じて!信じてください!!」
人間のために必要を感じることは愚かなことです。
キリストへの決断へとせきたてる前にパウロよりも深く掘り起こす必要はありません。
彼の例は、魂が救われることを見ることを切望し、真実に確立した他の人によって模倣とされたかったのです。
テモテへの最後の手紙においてパウロは偽の教師について警告しています。
そして若い説教者を強く勧めています。
偽の教師との議論に無駄な時間を費やさず、忠実に彼が福音を宣言することを強く促しています。
それは彼の敵対者が態度を変えることに神に期待して使う言葉です。
テモテ第二の手紙 2章24節に記されているパウロの薦めに注意してください。
「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。
それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」
新改訳聖書 テモテ第二の手紙 2章24〜25節
再び、私たちは後悔に苦しみが伴うと考え、悔い改めには価値がないと連想することがありますが、実にそれは神の聖霊によってのみ内に作られた価値ある状態なのです。
何人かの者は反対意見を申し立てるかもしれません。
その時、あなたは彼らが悔い改めるようにと人に話しました。
神がご自身へと彼らを導く場所にその改心を作ります。
そのこと無しには、彼らが悔い改めることが出来ないことをあなたはすでによく知っているはずです。
これは、本当に有効な反対意見なのですか?
それは、同様に信じるための真実なのではありませんか?
人間に「福音を信じる」ことを命じられませんでしたか?
彼らにはキリストに対する信仰を働かせる責任はないでしょうか?
それでも、私たちは信仰が救いと関連している他のすべてと同じぐらい、神の贈り物であることを確かに知っているのです。
どんな感覚が真実なのでしょうか?
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 10章17節
もし、人間がキリストが彼らに送った報告を聞くことを拒絶すれば、彼らはこれらの罪の中に死ななければならないのです。
彼は「聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」と言いました。
新改訳聖書 イザヤ書 55章3節
福音の信仰的なメッセージ、および人間の哀れな状態への断固たる宣言は、「私たちの主イエス・キリストへの信仰と神への悔い改め」を作られるように設計されているのです。
もし、人間が聞いたことを拒むのであれば、イスラエルのように「いつも聖霊に反抗しているのです。」
彼らは心の硬さのゆえに断念し、それゆえに裁かなければなりません。
しかし、それらが証言を受け取る場合、彼らの魂の中に得ている働き(信じる)を行うことなのです。というのは「命」は言葉の中にあるからです。
それは、天に上げられ、そして呪われ、木の上で罪人のために死なれたキリストを見ることよりも悔い改めは計算されており、悔い改めが作られることがすべての人間に要求されているのです。
いまここで、私たちが十字架の光に照らされ、私たちの罪過を理解することが出来ます。
もっとはっきりと理解すべきです!
「私の代価が非常に大きく、失った地位はなんと汚れたものでしょうか!」
ある時、ジョンニュートンが「人が木に吊るされているのを見た」と言いました。それは私のプライドのためであり、傲慢な気持ちは抑えられ、私は救い主の足元にひれ伏し、崇拝するようになりました。
十字架にかけられたキリストは信じるものにとって、神の力、神の知恵です。
もし人が十字架のメッセージを聞くならば、もっとも高慢な心を打ち破るのです。
ああ!外部から福音を耳で聞くことは可能ですが、本当の福音の物語を聞く事は決してことはないのです。
また、それはキリストを持たない人がメッセージを受け入れずに説教者のことを賞賛し、喝采し、物語を伝えることさえも可能なことなのです。
ゆえに、神にある絶え間ない信頼が必要なのであり、人の知恵に心が引かれてはいけません。
そして、それは聖霊と力の現れとなるのです。
私たちの聞き手のための要求は次のとおりです。
「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」
新改訳聖書 コリント人への手紙 第一 2章4〜5節
ある人は人間の雄弁さを非難することはしません。
というのもアポロは雄弁で聖書に通じていました。
しかし、私たちは雄弁さが力ではないことを覚えなければいけません。
それは唇に祭壇からの燃えた炭が触れた者であり、人を悔い改めるように導く道を説教する用意が出来た者なのです。
パウロは、生まれつきの能力が神の聖霊の邪魔になるかもしれないと実際に恐れ、彼は聞き手が神の言葉を信じるように本来の説得力を自制しました。
演説家としての彼の個人的な魅力によってではなく、バプテスマのヨハネのように彼は次のように語ることが出来たのです。
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章30節
第7章 悔い改めることのできない悔い改め
生まれつきの性質と悔い改めの重要性についての論議をしてゆく中で、神の子供たちが、悔い改めのきっかけ持つという現実を見落としたために、大きな失敗をすることがあるでしょう。
なぜならば、すべての聖徒が罪人だということを忘れてはいけないからです。
これは、奇妙な逆説であるようですが、聖書と経験は、その真実を証言しています。
信じる人は神とともにより親密に歩み、よりアダムに属する人間性の治らない腐敗をその人は認識するのです。
新しい誕生は人間性の変化ではなく、聖別は段階的なプロセスでもありませんが、それによってこの人間性は浄化されるのです。
新しい誕生は、全く新しい人間性の伝授です。
そして、実際的に聖別は聖霊が内に住むことによって作り出されるのです。
このように神の言葉の力によって洗され、キリストへの一致された完全な人間性へと連れて行かれます。
聖霊の力によって、クリスチャンは生まれ、古い性質は死のある場所に維持されています。
しかし、私たちが行なう肉の弱さを通して、何度も肯定し失敗します。
私たちがキリストから離れて私たちの心の目を離すならば、何度も失敗をするのです。
それゆえに、日々そして絶え間なく、自分を裁くことを必要としています。
私たちは真実な悔い改めの本当の意味を知ったのです。
失敗は個人と同様に集まりにもあるでしょう。
ここでは、集団的な悔い改めを要求しています。
旧約の時代に神は、イスラエルとユダに彼の預言者を送り出しました。
それらの罪を人々に示し、彼らを国家の悔い改めに呼びかけるためです。
同様に、新約聖書において、失敗と罪がそれらの証言を傷つけた時に、神は悔い改めを教会に呼びかけています。
私たちが別々の章において聖書の区分を調査します。
現在においては、私は私とともに考える読者にコリントにある神の教会について尋ねます。
どんな賜物にも欠けるところがない教会の信者の属するこの集まりのために書かれた、パウロの最初の手紙から私たちは学ぶことが出来ます。
すばらしい行動と熱意によって特徴づけられる教会でしたが、悲しくも、党派心によって分裂していました。
人間のリーダーは、他の人に対立して不当に誉め称えられ、分派主義は広まっていました。
これは、今日のように名称によってぶつかり合い実際は分離に至ってませんが、この複数の集まりは矛盾する同じ考え方を持つ一派でした。
異端的な考えは多く、キリストは名を汚されていました。
我々は、それだけでは驚きません。それがすべてのこの肉欲と世俗的なことが跡に続いています。その邪悪な道徳に対する、明らかに無関心な考えを教会の中で見つけます。
彼らの中の1人は、おそらくすこしは認められた人格を持ち、礼儀正しく律法を誇示していたでしょう。
しかし、彼は自分の父の妻との近親相姦の関係に入りました。
すなわち義理の母親とです。
このように、神の恵みを淫らなことに変えてしまいました。
しかし、恵みの原則によって開放され、特別な申し立てを立てて彼の悪い生活が許されたのです。
しかし、一かたまりの生地の中にあるパン種の様に、伝染病は教会中に広がってゆきました。
他の者も、この不道徳な例によって汚染されてゆきました。
クリスチャンの道徳律に対する重大な一つの違反としての問題に対処する代わりに、コリント人は現実に彼らの寛容を歓び、有害な実行者は主の神聖なテーブルで懲戒なく座るのを許したのです。
それは、思い切った行動にでるしかない状態でした。しかし、盲目な者がキリストの体のメンバーであり、キリストの体への頭に与えられる侮辱なのです。それは彼らがそのことのためにに祈りもしないし、そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうともしないからです。
今日、同じような影響を及ぼした多くの教会があるのではないでしょうか?
それは、多くの場所で悲しい真実でしょうが、規律が神の家で実際には知られていないのです?
姦通者、大酒飲み、盗む者、不敬虔な罪人と冒涜者は、クリスチャン教会の会員資格を保持して、聖餐式儀式に出席することを問題視せず、聖徒の集まりを汚すのを許したのです?
主な理由は福音によっては救いに達することがますます難しくなっているからではないでしょうかか?
それがどんな人でもキリストを拒絶する理由として差し出しますが、しっかりした理由でない限り、これらの偽善者があらゆる場所で悔い改める道へのつまずきであることは、事実でないでしょうか?
悔い改めのためにどのような必要が教会の外への呼びかけなのでしょうか。世と同じでよいのでしょうか!
罪深い状態が優勢になっているニュースを伝わった時、使徒パウロの手紙はコリントに届きました。
彼は、それらの地方の集まりにおける問題を裁くために彼らに問いかけ抗議の怒っている手紙を書きました。
そして、彼らの中から邪悪な人格を片づけることによって古いパン種を外へと一掃としようとしたのです。
おそらく、親友とその他の者が、彼を保護することを試みる人に関連したのでしょう。
しかし、一時しのぎをすることはあってはなりません。
この悪は、延命行為の余地がないのです。
何かを、すぐにそのライ病の状態の教会をきれいするために行われなければなりません。
私たちが第二の手紙を参照するとき、私たちは最初の書簡を受け取った後に、直ちに何か行われたことを学んで安心します.。
彼の集まりの一部の自分を義とするの者以外において、その者は除名されました。
それは集まり全体においてわずかな者たちが、神に屈服して、悪に対するこれらの無関心の前に罪深さを所有していたからです。
そして、彼らは長い時間を大目に見ていました、ある程度の段階で秩序の全体の違反をけしかけて、彼ら自身を裁いたのです。
これらの動きとその結果に関連している使徒の活動的な言葉を読むことは、心が動かされます。
第2章は彼らへの熱い思いにて始まります。
そして、彼らに、彼がこの問題にどれくらい深く関与したかを示し、そして、なんて熱く、信仰において彼自身の子供をとがめる義務を彼が見つけたのです。
彼は、冷たい、法律のことしか考えない裁判官ではありえませんでした。
彼は、失意の一つの父として書き、彼の心配は重大でした。彼はより深刻になろうとはせずに、そこには癒しを求めていました。
彼は非常にその手紙を送ることを悔むという真剣な悩みを持つまで、決して、最初の手紙から進みませんでした。
しかし、彼が彼らの良い要素を得たことを知って喜び、固く決心してそのようにしたのです。
違反者は訓戒され、強情にも邪悪な関係を終わらせるのに気が進まないと分かると、彼は地方教会の交わりの外に置かれました。
外の場所では今、彼は真実の道徳のらい病人として元の仲間によって避けら、その時彼の感覚が戻ってきたのです。
彼は、文字通り自分の邪悪な道に対する悲しみで動揺し、罪深い生活をやめて、神の前に再び正直に歩くという真実の悔い改めを明らかにしたのです。
その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。
新改訳聖書 コリント人への手紙 第二 2章6〜8節
キリストの代表として彼らに確信させます。
私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。
もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
新改訳聖書 コリント人への手紙 第二 2章9〜10節
教会懲戒は、いつも罪人の回復が見えているようにしなければなりません。
それは、非難されることから自由に教会の信用を守るための、また主の名誉を維持するための単なる問題ではありえません。
本当の目的は、誤った道に行った人の回復なのです。
私たちはたびたびこのことを忘れます!
我々も、適当な規律処置をとることができずに悪を許します、また私たちは堂々と自分を義とします。
それは私たちが、罪人に問いかけられて悔い改めの証言を見出すことを心配するかわりに、訓戒の目指す者から遠く離れていているのです。
私たちは、彼に交わりを戻すのです。
この方法が、これらのコリント人の魂の中に神の霊によって導かれたことが、7章の中で明白にされています。
私たちが9〜12節で読んだ、使徒の言葉に注意してください。
今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。
ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行なった人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。
新改訳聖書 コリント人への手紙 第二 7章9〜12節
パウロの手紙を読むことによって引き起こさせられた、現実の状態の中に私たちに与える全てことは、何という鋭い洞察力ではないでしょうか。
そして、何と彼らの悔い改めの現実を強調することではないでしょうか。
実際、私たちは、それぞれの言葉の重さをもっと測り、注意深く言葉の強い表現を学びます。
心とこれらの幼いクリスチャンの良心において作り出される自己吟味の深さを私たちが理解することにより効果があります。
彼らは、確かに神の言葉を聞いて、徹底的に見出した態度の結果生じた、完全な方向転換なのです。
以前の章の中で、我々が罪の告白と、私たちがコリント人第二の手紙の7章10節で参照した悔い改めとの間の区別を指摘しようとしていました。
我々により詳しくは言及してみましょう。
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」と私たちはいうでしょう。
悪に道に従うという恐ろしい結果のため、単に良心のとがめる世の悲しみより優れていて、この悲しみは神の聖霊によって作り出されているのです。
罪の告白という忠実な人格が愛している神を深く悲しませたことを知るときに、彼が上記のすべてのことを望むことの喜びを感じるのです。
この語句が実際どのように使われたか注意して見ましょう。
「彼らが神を添って分け隔てられた後に、彼らが彼の家を汚した罪とみなして神の考えに立ち返ったので、彼らは悲しんだのです。」
「どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。」とパウロは叫びました。
イスラエル人のように彼らはこれらの家の中にあらゆる発酵したパンのかけらがある可能性を注意して探すでしょうが、彼らはそれを捨てて、主の祝宴を正しく保つのです。
そして、彼らはもっとも注意深くこの問題の中にパン種を探します。
それを人の霊の中にそれを適用し、神の目に適するもっとも適した者になるのです。
「弁明。」(あなた自身を清くすること)。
今まで、彼らは暗に罪を許していました、このように、罪と主の名前を関連づけて、彼らの間でこれらの罪を許し続けることにより、主の住まい場所を汚しました。
彼の家は神の集まりのためにあります。
そして、「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、」と、主が言いました。
もし、イエスが教会のまん中で慈悲深い存在を明らかにするならば、イエスは、聖でありと真実です。そして、私たちの中にイエスがくつろぎを感じるように私たちがふるまうのが、私たちの責任なのです。
私たちはここでこのようにすべてのひどい罪や失敗をもっていません。
そして、なぜ教会の証言が説明されているのでしょうか、これらの教会はたいてい無力で、ほとんど何もキリストに失われた勝利の方法は完成されてはいないのです?
「憤り!」
私たちはエペソ人への手紙4章26節で「怒っても、罪を犯してはなりません。」ということを読みました。
この命令を批評して老いた厳格者が書きました。
「私は罪以外の怒るという決心ゆえに、罪のみに怒っています。」
罪の重大さはコリント人の考えに印象づけました。コリントの信者がこれらを、今完全な嫌悪と憎悪を見て、これらを述べました。
彼らは、以前にこのように弱くそれらを許しましたが、それはある方法、もしくは他の方法に関わる小さな問題にすぎないのです。
罪の低い考えが、神の聖めと正しさの低い考えから来ます。
罪は光の中に見えます。彼の魂は怒りと恐怖で満ちています。
そして、それは特定の人達に逆らった憤りでありません、
しかし、罪に対して私達が私達自身に対してこれまで軽く考えてきたのです。
「恐れ!」
私達は人の恐怖にもたらす罠に対して警告します。
もう一方では、主の恐れは、悪とすべての悪い方法を憎むのです。
尊敬のこもった、盲目的でない恐れはこれらの聖徒達に把握されました。
「主を恐れることは知識の初めである。」
新改訳聖書 箴言 1章7節
それゆえに、彼らは今、愚かさ、不法から離れようとし、そして、家をきれいにするのです。
私達が言うように、神がこれらの集まりの中で神を賞賛することを要求されているのです。
「慕う心!」 (熱心)
別の訳文で、「はい、なんと強いあこがれなのだろう!」
「神の意志を行ないたいという熱望。」を意味します。
これが見つかる時、彼は間違いなく、彼の心を知り、正しく案内するのです。
「熱意!」
このことは彼はこのように言う事が出来ましたが、彼らは見習いませんでした。
「それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし」
新改訳聖書 詩編 69章9節
霊的な責任に対する不注意は最も彼の見解において不愉快で、良いことにおいて熱心に影響されることは、推薦でき、神を満足させます。
「処罰の断行」
それは、彼らが復讐を哀れな男と主の名よって不名誉を連れてきた彼の罪ある情人にぶつけることに熱中していたのではありません。
彼らが求めた違反者への報復は、神は彼の使徒を使い指揮したのです。
彼が許されるために次のように言われています。
「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙 第一 5章5節
それは決して執念深くはない愛でした。
それは彼との間で分けられました。
ただ彼の不正の中で彼を励ますことが妥協となって承認され、それらのクリスチャンの交わりと証言によって破滅の原因となったのです。
それを追い出し、立ち返るのです。それは世の中に邪悪なことが存在しているからです。
彼は、堕落した恐ろしい状態を認識することができる場所にいました。
サタンのふるいの中のペテロの様にふるいにかけられます。
もみ殻は復活する小麦から最後は引き離されます。
このようにすべてことは、この問題においてはっきりと彼ら自身で承認されました。
それらの悔い改めは深くて真実です。そして、それらの行動はそれを明らかにしています。
ああ、もし同じようなの悔い改めが今日私達の教会の特色となるのならば、回復と祝福することで彼が失われた世を支配し、目覚めの中で、神はいまだに何を行う必要があるのでしょうか。
その悔い改めの方向付けの第一歩は、誤りがない神の言葉に照らし、彼らが至る所で打ち勝つときにある、私達の外側の状態です。
その言葉の上に裁きを設定する代わりに、私達は私達を裁きましょう。
悔い改められないために悔い改めが生じ、神の御心に添った悲しみを次に作り出します。
確かにその多くの祈りにある、回復の時が来ます。
そして、他に人がにそのことについて討論します。
しかし、それは私たちのところにて捜すことができません。
「我たちのこの方法を探索し、試みてください。
そして、主にもう一度かえってください。」
私達は、彼が私達に語らない限り、祝福を期待することができません
昔のイスラエルに関しては、
わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。
新改訳聖書 ホセア書 8章12節
昔の神の人々の歴史において、我々は神の言葉が忘れられた多くの暗い日々について読みました。
主の家は無視され、エホバの崇拝は偶像崇拝に置き換えられました。
しかし、何度も、神は神の民に回復を与えました。
すべての例が、これは神の言葉への復帰ために効果的です。
そこには回復がありえませんでしたが、神の言葉は個人のそして国家を悔い改めを作り出しました。
これらのことは、私たちが学ぶために書かれました。
私たちは、心の教訓のために、そして私たちの罪を犯し、罪を裁き、悪い道を告白して恵みを頂くのです。
そして、主に再び戻ります。
その者が「哀れみによって大いに喜ぶ」のです、そして、悔い改めた教会の叫び声を聞くのを待っています。
第8章 死んだ行いからの悔い改め
著しく、困難な一節は背教に対して警告しています。
ヘブル人への手紙 6章は私たちに重大な注意を要求を与える、注意を引く表現であります。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、.....」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章1節
ギリシャ語直訳「ゆえに、始めのキリストの言葉を行かせて(離れて)、.....」
この聖句は私たちに完全な福音の啓示の中にある差し迫る要求が強く迫ってきます。
律法は何もすることが出来ませんでしたが、「完全」と呼ばれました。
私たちは「.......死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、」が対象的な言葉であることを知ります。
ギリシャ語直訳「.....死んでいる働き、神にある信仰、」(v.1).
それは私たちが再びこの土台に横たわらないようにとは勧められてはいません。
私たちは始めの原則を無効とすることを要求しており、新しい重要なことを推し進めることが目的とすることを前提としています。
神の真理は今までだんだんと人間に与えているが、後の真理は先に行ったものを不要なものにはしていません。
その意味するところはは「始めのキリストの言葉」にあります。
私は、正しい律法と預言者の証言であり、彼らすべての働きの最後である、バプテスマのヨハネのことだと理解しています。
そして、教師である肉を持った私たちの神ご自身がそれに加えています。
これらはすべては後の啓示が基づく土台を構成します。
これら3つの句の中に与えられる土台が特に注意を引きます。
一方に加えられたいることはすでに述べていますが、ある期間に契約されたことであることを私は言いたいのです。
私たちは「バプテスマの教義、手を置く儀式」そして三番目に「死者の復活、永遠の裁きを」持っています。
そして、神の民イスラエルに、そして、世界に広く、神のもっとも初期のメッセージの一部が作り上げられたその中で、この6つの原則は取り扱われているのです。
ここでいうバプテスマとはクリスチャンのいう(教会で行う)バプテスマを意味していません。
それはユダヤ人に示された肉の清めへの聖別の儀式です。
手を置く儀式は幾人かの人が想像したように牧会者の牧会授任の儀式ではなく、
犠牲のいけにえの上に供え物と提供者を同一視するために手を置くことです。
このように、信者が私たちが祝福を受けている神イエス・キリストための完成された御業にある信仰をより理解することに意義があるのです。
これはイサク・ワッツによって美しく表され、彼はこの時このように書いています。
「私の信仰は、 あなたの祝福された頭の上にその手を置くだろう。
私は悔い改め、私は立ちそこで私の罪を認めます。」
死者の復活、および永遠の裁きはすべて聖書によって教えられています。
パウロはそれがイスラエルの希望の一部だとして言及しています。
そして、それを信じているいるゆえに、パウロは立ち上がって強く責めています。
「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」
新改訳聖書 使徒の働き 24章15節
クリスチャンが真実に教えられているのなら、私たちは興味ある進歩を遂げていて、私の読者に思い出させることは、ほとんど必要ないでしょう。
とはいえ、私たちは4福音書とパウロ書簡の中で 私たちは裁きである第二の復活とは区別され、最初の復活である死者からの復活を学ぶことができます。
しかし、今、私たちは、言及されたこの二重の三部作で教義の最初の組み合わせを考えるために戻ります。
ここで、私たちは、聖書の他の個所と同様に要求していることは「最初に信仰に従って悔い改めなさい」ことに注意してください。
私たちは、すでにパウルが「神の御前にそして、私たちの主イエス・キリストへの信仰への悔い改め」を説いたことを確認しました。
これこそ、クリスチャンへの完璧なメッセージです。
ヘブル人の悔い改めはこのような要求からではありません。
では何からくるのでしょうか?
ヘブル人のあらゆる律法尊重主義者はすべての確信を死んだ行いに置くのです。(作者注、直接的には律法の儀式の行いを指す。)
聖書の中で私たちには3種類の行いがあると書かれています。
良い行い、悪い行い、死んだ行いです。
良い行いとは私たちに内在している聖霊が分け与えたもので、新しい命の実です。
救われていないすべての者のために私たちは読みます。
「義人はいない。ひとりもいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章10節
それに反してキリストの弟子は人間はこれらの良き行いに出会い、歩みことと話すことを強く勧めて、天にいる彼らの父をほめたたえます。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 2章10節
賛美歌著者はそれにふさわしく宣言しています。
「私の魂を救うために私の神の働き、私は働かない。
でも、神の愛する御子のために私は奴隷のように働きたい。」
良い行いは命のための働きです。
神を満足させる行いと喜びの両方を
神ご自身によって、神を満足させる行いと喜びの両方を
私たちの働きの中に織り込まれました。
悪い働きとは悔い改めない人間による邪悪な道です。
彼らの悪い生まれつきの性質は外側の行動によく現れていて、神から遠く離れ、悪い実を単に運び続けているのです。
彼らはイエスを憎んでいます。それは彼らの行いが悪かったからです。
「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章19節
彼は罪に汚染された泉から汚れた水が沸くように心にあるすべてが源になることを見るのです。
優れた決心、矯正を試みること、敬虔な意志は彼の性質を変えることはできません。
預言者は言っています。
「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。
わたしは、彼らを、荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす。」
新改訳聖書 エレミア書 13章23〜24節
問題は人間の性質を変えるための努力に深く関係しています。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」
新改訳聖書 エレミア書 17章9節
罪人が新しい心を理解するときまで、罪人の働きは単にいつも悪いことに傾くのです。
しかし、私たちのテキストで、私たちは「死んだ行い」について学びました。
この表現によって意味されるものは、普段私たちが考えたり、話したりして言葉の意味とは違います。
死んだ行いとは律法の行いを示しています。
人間であろうと聖徒であろうと、律法に服従することによって神の救いを得ようとすることは、生まれつきの性質を持つ人間にとって無駄な努力なのです。
しかし、それは人間自身が罪と罪過の中に死んでいるので、神によって自分自身で見ることになるのです。
人間が永遠の命と救いを受けるのに値する義を造り出そうとする試みは、死んだ行いと同じように見なされます。
神が宣言した律法を示した時。
モーセは、「律法による義を行う人は、その義によって生きる」と書いています。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 10章5節
しかし、だれもこの神聖な律法を守ることの出来た人を見つけることは出来ません。
そして、律法に違反に対する刑罰は死でした。
「罪人の魂は死ぬでしょう。」
この刑の刑罰は、すべての人間に承認されています。
「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章19〜20節
これは、神自身が宣言したものですが、真実として受け入れる者がかほとんどありません。
「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 10章3節
しかし、肉にあるイスラエルにあっては真実でした。
彼らの所有する義の解決(キリストの十字架の御業)を試みることを主張するまで、人間が全く失われた状態のについての神の御言葉の厳粛な証言を無視する、何百万もの異邦人と同じく真実なものとなるからです。
神を怒らせることを鎮めることが彼らに出来るとを信じて、敵によって欺むかれたのです。
イザヤは私たちに言っています。
「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」
新改訳聖書 イザヤ書 64章6節
それはちょうど人の外見に働くこの試みで、律法による義です。
それは神の言葉のが支配している「死んだ行い」です。
それでは死んだ行いによる悔い改めとはそのときに何を意味するのでしょうか。
それは自分自身を一新によって変える(change)することです。
それにより、有罪と宣告された罪人が人間の努力によって神をなだめることが出来ると言う考えを捨てて、神の御言葉のとおりに宣言されたとおりの悪を確認することなのです。
彼は正しく帰ったのです。
自分自身のありもしない可能性に頼るのではなく、救済者である神が提供している哀れみを求めて、人は神の救いへと立ち帰るのです。
旧約聖書の時代、義とされる手段としてではなく、服従のためのテストとして、律法の規約は形式と儀式とともに与えられました。
その律法は現在も真実に律法の義の要求であり、その律法はすでに一新されているこれらの者たちにおいて唯一満たされているのです。
神は決して人々を救う方法に二つの道を準備していません。
ただ、違った方法(stewardships)、摂理(dispensations)を持ち、それぞれの時代に命の基準として、神の人々に約束しているのです。
律法を守ることや犠牲を奉によらず、砕かれた、悔いた心は神に受け入れられました。
「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
新改訳聖書 詩篇 51章16〜17節
すべての目に見える形、合法的な努力は信仰から離れていて、それは死んだ行いなのです。
これらは、預言者が絶えず悔い改めへと叫んでいたことなのです。
個人的な経験は読者の心を印象づけることを明らかに、また助けることができるでしょう。
ある時、田舎の教会でメッセージをすることを頼まれました。
私は親切な、熱心な人によって行われているバイブルクラスを担当しました。
その人は聖書の知識に通じていましたが、痛ましいほどに制限されていました。
私はディスカッションの時間にてその人へ質問を試みてみました。
「イエスキリストがこの世界に来られ、私たちの罪のため、神が私たちを買い戻すために十字架につく前は人々をどのように救っていましたか?
恥ずかしながら婦人は答えました。
「モーセの律法を守ることによってです。」
「正解です」
教師は言いました。
「もし、神の律法を守ったら、彼らは永遠の命を得たでしょう。」
誰も異議は唱えませんでした。
私は「ガラテア人への手紙3章11節によって、その時、何を得られますか」と尋ねなければなりませんでした。
「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 3章11節
そして、同じ章の21節で再び私たちは話します。
とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 3章21節
「これらは論争は後にして。」
さらに多くのことが語りました。
「律法の命令を行う事ができる前に聖い命を持たなければならないことを明白に示しました。そして、律法を守ることによっては誰も自分の義をを主張出来ないのです。
その時、教会の指導者は困惑しましたが、彼は愛想よく答えました。
「私は訪れた来た先生が正しいと思います。
私たちはこれらの節を見落としてきました。
誰がキリストの来られる前に、人々を救う事の出来る方法を示す事が出来ましたか?。
別の人が思い切って訪ねました。
私は動物を捧げることにことによるのではないと思います。
もし彼らが律法を破るなら 彼らの違反は罪のための捧げ物を運んでくることによっては償うことはできるでしょうか?
このことは実際に教会の指導者を満足させました。
「私はそれが完全な計画によったのではないでしょうか?」と彼は宣言したのでした。
私は再びテーマを持ちました。
あなたはヘブル人への手紙10章4節に書かれてる厳粛な言葉によって何を理解しますか。
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章4節
それは雄牛とやぎの血が罪を遠ざける可能性があると思いますか。
率直に彼は認めました。
「難しいことです。そんなときは、どのようにしてよいか答えてください。先生。」
答えとして、私はすべての時代に、罪人が悔い改めたときに神に立ち返り神の言葉を信じた時に、人間が救われることを示し努めてきました。
アブラハムはその際立った例です。
「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 4章3節
そして、ダビテに示された罪の許しは認められ、そして罪は覆われました。
そのときに一つが詩篇の32篇に表されており、ダビテの有罪を認める前に神と神の恵みに信頼を置いたのです。
彼らは、私たちがキリスト・イエス・キリストの償う働きによるものであるのと同じように真実に救われたのです。
ただ、私たちが十字架を後方に見ているのと同様に彼ら前方に(これから起こる事として)十字架を見ていたのです。
ローマ人への手紙 3章24〜26節にはっきり表されています。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章24〜26節
私は言いました。
「この時、パウロの義にあって、当然、イエスを信じている自分のことについて弁明しています。」
25節に使われている表現の御言葉をしっているすべての注意深い生徒にこのことを私は指摘しました。
「今までに犯されて来た罪」とは、キリストが死なれる(十字架)以前に多くの時代において信者によって犯された罪を指しているのであり、私たちが信じる前の犯されてきた罪のことを言及しているのはありません。
ローマ人への手紙には十字架が過去の時代においては「なだめの供え物として、公にお示しになりました」と表現され、現在において十字架の働きが、次の節において「今の時にご自身の義を現わすためである」と宣言されています。
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章25〜26節
それはイエスに対する信仰を通して神を恐れない罪人を義認することにあるのです。
それは小さい仲間が喜びながらこの真理を理解し、どのくらい熱心になったかは言うまでもなく大変面白いことでした。
死んだ行い、それは肉の働きです。
しかし、この働きは神の救いを得るという目的を持っています。
旧約の時代の神の救いとは十戒を絶対的に守るという努力と律法の儀式のすべての要求をみたそうとすることでした。
しかし、もし人間が自分自身の命を持っていないなら、彼の働きは死んでいて神には受け入れられないのです。
実際に、彼は律法の行為によって救いの勝利を試みようとすることは愚かだと認めることで、死んだ行いからの悔い改めになるです。
すべて死んだ行いから、彼は清められる必要があるのです。
それは、彼の数々の犯してきた不正との改心と同じぐらい、死んだ行いからの改心は真実なことなのです。
そして、すべてが十字架の上にて提供されました。
ヘブル人への手紙9章13節に書かれています。
「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 9章13〜14節
このことは、タルソのサウルに明らかにされた福音で、そのことは彼を使徒パウロに変えたのです。
彼の死んだ行いについてピリピ人への手紙3章4〜6節に列挙されています。
「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 3章4〜6節
しかし、これらのことから彼は悔い改め、自己からキリストへと戻り、義と認められるということにすべての確信を得たのです。
パウロはこう叫ぶ事ができました。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 3章7節
ムーディとサンキィがイギリスにて活発的に福音伝道をしていた時、サンキィがすばらしい賛美歌を使ってその答えを出しています。
「私が救われるためには何をしなければならないか?」
大切な事も小さな事も何もない。
罪人にはなにも出来ない。
イエスキリストが死んで、すべてを行いました。昔に....。
そのとき、キリストは神の高い王座から身をかがめ死んでくださいました。
すべてが完全にされました。
イエスの叫び声を聞きましたか?」
それは本当に完成され、イエスは罪人の一人にかぞえられました。
すべてあなたに必要なことなのです。
私に尋ねてくれませんか?
キリストの働きの単純な信仰によってたどり着くまで、何かをしなければならないという働きは、致命的な問題なのです。それを行う事は死で終わるのです。
あなたの死に至るような行いをイエスの足元に投げ投じてください。
キリストの中にだけ祝福があるのです。
祝福を完成してください。
有名な随筆家、ジェームス・アンソニ・フロードはこの賛美を「全く不道徳」と宣言しています。
彼にとって、救いの計画は道徳的な行動の場所から離れることではないとしました。
彼は間違っています。
それはその時人間が死んだ行いから悔い改め、神に祝福された御子の贖罪の働きに支えられた、これらの神への信仰を置くことです。
それはすでに彼らがキリストの中に生き、そして良き働きのこれらの方法を明らかにすることで、
その良き働きは、受け取られた新しい性質が伝達されたきた結果であり、その時彼らは上から生まれました、そしてそのように天に上られたキリストを長として立て上げられた新しい創造による仲間が作られたのです。
「私は何かしなければならないか?しばしば尋ねられました。
手に入れるべき永遠の命、人間は切望してそれを大変なことだろうと考える。
時にはこれを彼は得るかも知れない。
しかし、すべての仕事は完了しています。
それは神が計画し、神が知られるようにした神の御子によって提供されることを、神がはっきりと示しました。
彼が彼の上に置いた罪人の罪、そのときに約束の日が来ました。
そして、こぼされたカルバリのその血によって
私たちのすべての罪を取り去ります。
幸せな人はキリストの十字架にあってすべての肉の終わりを見た人です。そして、その者はあらゆる人間の価値を断念するのです。
すべてこのような種類のまた、記述された死んだ行いからの回復から立ち返り、
イエス・キリストの完成した働きにあって全くの休息を得るのです。
それは完成しました。
瀕死の聖徒は度々、それに付け加えられて行きます。
私は私の永遠を飾ります。
その時、肉のすべての確信をあきらめる事を意味します。
その認識は私が私の堕落した地位を取り戻すために一つのことを行うことでも出来ません。
死んだ罪人としては私は神が支持する事の一つもすることが出来ないのです。
私の祈り、私の涙、私の施し
すべては救いの利益に関するものは何の意味しないです。
私は失なわれていて、救い主が必要です。
私は病気であって、医者が必要です。
私は破産して、親類の買戻人が必要なのです。
私は死んでいて、復活と命が必要です。
すべて私の必要としてキリストを見つけました。
その他すべてのものを無価値なものとするために...。
第9章 黙示録の中の悔い改め
イエス・キリストのヨハネの黙示録は、ふさわしく聖書の巻を終えます。
人とすべての神の方法を頂点に到達させ、それは現在の世とこれから来る時代の両方に与え、また、善と悪の間にある長い対立の永遠の問題を私たちの前に運んできます。
それは再び来る救世主の声が天から聞こえるまでであり、、その声は人類への主の最後のことばです。
空中に主に会うために御自分の者を取り戻され集めます。キリストの偉大な力を得る準備の合図は、私たちの神の及びキリストの王国のためなのです。
それは十分に、悔い改めへのもっとも緊迫した招きを含んでいます。
実際、悔い改めの要求が、7つの教会への手紙の中の7回であることがわかります。
悔い改めることない裁きゆえに、キリストの栄光を受け取ることを拒否しているのです。
昔から、クリスチャンたちは、比較的ヨハネの黙示録に多くの注意を払ってきました。
私たちの時代にあっての聖書研究の偉大な回復の結果でありながら、それほど明白にはなってはいません。
現在の難しい時と差し迫った将来の明白ないくつかの光を少しでも説明し、見つけようと熱心に努力するために、牧会者及び多くの人たちは、現在も黙示録を学んでいるのです。
多くの人が7つの教会に与えられた手紙が、単に神が直接与えられたメッセージではないことを理解していません。
ヨハネの時代の名前通りの教会へ、文字通りに適用されるでしょう。
しかし、これらの中に預言的な意味が隠されているのです。
地上にある証しとして、使徒の時代から終わりの時代まで、すばらしい方法で教会の状態を説明しているのです。
しかし、このことはすべての者に同意されているわけではありませんが、とても、はっきりとしていることです。
これらの手紙の中で、主が私たちにあらゆる地位、もしくは状態の診断し、キリストの教会はクリスチャンの時代を通していつも存在していることを知ります。
私たちは、エペソが完全に正統的な教会であること知ります。その最初の愛の新鮮さを残し衰えたのです。
スミルナは、苦しんでいる一つの教会であり、迫害、貧乏にもかかわらずキリストへ忠実な教会でした。
ペルガモは、世的な教会であり、いまだに、教義上影響を与えつづけています。
多くことが習慣において妥協的であり、いい加減に扱われています。
テアテラでは、迷信及そして、全体的に不道徳は優勢です、とても小さな集まりが守られており、深い悲しみにおおわれています。しかし、この教会を効果的に治療することは出来ません。
サルデスは、冷たくて及び形式的です、
聖い生き方をしている幾人かの証しでは、いまだにわずかな汚れのない衣服を見つけることが出来ます。
フィラデルフィアは真実に聖書的教会であり、そして、主の権威が支配され、イエスの名前が崇められています。
従って、証しと信仰は神の真実を守ることにより明白にされ、その扉は閉ざされることはありません
ラオデキヤは、なまぬるくて、自由主義です。
その一員は、永遠の真実に対して無責任な行動をとり、彼らのまん中でキリストを持つふりをしますが、彼は実際にドアの外側で訪れているのです。
今、これらの全ての教会に主の声が来て、宣言します。「わたしは、あなたの行ないを知っている。」
それぞれの手紙の要求が同じであることは注目するところです。
最初に、主は言及される教会の霊的な状態に適している特別ないくつかの方法を提示します。
二番目に、キリストはその特別な集まりの地位のキリスト御自身による識別力を与えます。
三番目に、それぞれの事例で応じて特別な勧告または警告があります。
四番目に、私たちは打ち勝つための約束及び勧告に耳を傾けます。
とはいえ、最初の3つの要求の中で最後の約束を聞くために要求されています。
それは四番目とは反対のものであります。
これが神聖な理由があることは明白です。
しかし、それは現在、私たちを引き止める必要はありません。
七通の手紙の五番目において、私たちは悔い改めるための勧告であることがわかります。
スミルナとフィラデルフィアはともに非難がありません、彼らに与えられるそのような命令がないのです。
とはいえ、他の五つの教会に言われることに私たちは注意深く注目します。
初めの愛から離れてしまったため、エペソの教会は非難されています。
この教会はその根本的な警戒心を誇りだと思い、広く認められた証拠を持っています。
しかし、標準的な教理に対する優れた熱意があるなら、聖霊の愛がわずかにでも現われしかありませんでした。
それは主が正しい教義にあって喜びことを想像して、間違いを悲しみ、欠けた愛を取り消します。
冷えた、硬い、信条への批判的に専念すること。
直されるべきです。
兄弟愛的な親切と、思いやりのあるキリストのような聖霊が無いために決して作られることはありません。
私たちはが訓戒を得ます。
「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
新改訳聖書 黙示録 2章5節
なんと感動的であり、厳粛な言葉でしょうか!
それは、魂を失っているクリスチャンの質問ではありません。
現在、キリストのための証しを失う危険にさらされていますが、かつては大胆に証言していた教会なのです。
単なる教理上の正しさは、十分に明るく福音の光を燃えさせ続けさせることはできません。
神の愛が神の聖霊によって私たちのこころへ流れ出ます、それは私たちの言葉は別の言葉といっしょに語っているからです。
詩人、エマスンがかつて言いました。「あなたはなんと大きく語るのでしょう。私は、あなたが言うことを聞くことができません。」
そして、矛盾しています。
キリストを中心としていない教会によって、世がそのメッセージを馬鹿にして進路を変えるようなります。
それは、主による悔い改めの要求です。
より以上に、単に考えの変化であることはキリストが「初めの行ないをしなさい。」と言い加えているので明白となります。
キリストは、自分を満足させる高慢から、彼らが初期の時代の愛と熱心さまで進路を変えさせるでしょう。
その時、彼自身が彼らの魂とキリストの愛ゆえに価値があるのです。
他の者が彼を知ろうとしているゆえに彼らが骨折って苦しむことができたのです。
私たちに今日ある多く者が同じ要求を求めています。そして、新たな態度でない限り、その警告に結び付けられます。
悔い改めて告白し、主に戻らない限り、彼は燭台を取り去るでしょう。また、暗い世界で彼を見出さない限り私たちは役には立たないです。
ペルガモの教会の状態は、さらにより悪いのです。
明らかに悪いことが大目に見られ、罪深い結びつきが形づくられていたためです。そこでは彼らが奉仕と呼んでいたゆえの侮辱なのです。
再び、悔い改める必要があります。(悔い改めるという言葉に注意してください。)
だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
新改訳聖書 黙示録 2章16節
悔い改めなさい、もしそうしないなら「私はあなたを敵として戦います。」
主の者であると自称した人々の中には、この重大な不正が裁かずにいるほど、主は寛容ではありえなかったのです。
彼は彼らの中で聖別され、主の近くに来ます。
罪の中で生きることは主に嫌がられ、その間恵みによって救いを誇るためです。
主の口の剣は、彼のことばであります。
この言葉は間違いなく、罪深い道の中を歩いている、その間にすべての人に対して信仰的だと見せ掛けを作るのです。
今日、何かこのようなメッセージをもっと必要だと感じることがありましたか?
サタンの王座の上に立つ、多くは教会ではありません。キリストへの分離される必要を感じることなく、世に座っているのです?
昔のバラムは、バラクにそれを教えました、
彼が彼の仕える邪悪なモアブ及びイスラエルとの間の分離の壁を壊すことができるならば、彼らの仕える神は、彼らが主に戻ってくる時に、罰せなければならなくなります。
バアル・ペオルの邪悪は、バラムが呪う事を出来なかったことを完成させました。
主の人々に対して主が味方をしなければならない時、確かにそれは真剣な問題なのです。
しかし、主は主のの聖徒において罪を許すことを拒否しています。
確かに、私たちはすべての悔い改めるの要求に心にとめる必要があるのです。
私たちテアテラ教会を考え、方向を変える時、私たちは大変重大な状態と、大変な衝撃的な不正に直面し、私たちは本当の神の教会として当然のごとくに認めることをためらいます。
主はこのように言及しています。
それは彼の名前がついていて、彼が世の代表に選ばれていると自称しました。
それでも、邪悪な平凡な礼儀のレベル以下であった習慣を許しました。
もう一方、この教会は、かつて非常に高い要求の愛と献身によって特徴づけられました。そして、忠実な残りの者が、その堕落した状態を嘆き悲しみ、そしてその人は完全な腐敗から保護している塩気がありました。
現在、こういう教会は多く存在はしていないでしょう?
最もひどい種類の悪が知られている実例における実績で、クリスチャンの集まりでは大目に見ることは真実でありえるでしょうか? らい病人の家をきれいにすることを試みることは出来ません。
たびたび富と著名なことが犯罪者を保護し、見た目では彼らを扱うことを不可能にし、家族全体がはずかしめられ、教会は実際に分裂します。
しかし、絶望的な病気は徹底的な治療を必要としています。
神の声は悔い改めるまで問い続けています。
罪深い習慣に対する姿勢が変わるまで、祝福することができないのです。
テアテラには制限のない最も不愉快きわまる種類の不道徳がありました。
異教徒の自然崇拝者のばか騒ぎの放蕩ようで、それは偽りの敬虔の見せかけの下でたびたび行われていました。
その邪悪な王女イゼベルは、イスラエルに彼女の憎むべきフェニキアの偶像崇拝を持ってきて、エホバの誤った礼拝に偶像崇拝を融合させました、
それは教会にそっと入ったきたことの象徴として使われています。
質が落ちた、不快な行動はこのようにキリストの御名に結びつけられました。
それはここまで来たのです。
この堕落の提案者は絶え間ない、断固な立場を取るので、主はこう言われます。
「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」
新改訳聖書 黙示録 2章21〜22節
最後のことばは、それでも希望があったことを示します。
キリストは、彼らを拒絶するようなことはしませんでした。
しかし、祝福と回復は、悔い改めを条件にしていました。
驚くべき方法は、深く悲み、憤る神の聖霊の辛抱強さです。
今日、もし教会がそうならば神の問い掛けを心にとめ、悔い改めてください。
そして、聖書に照らして正直にすべての邪悪なことに直面して、悔い改めてください
聖書の光に照らしてすべての邪悪なことに正直に直面してください。
これらは来るでしょう。
そして、私たちにはわかるのです。
力を無くした世にあるキリストの証人の命ある集まりにもう一度、回復と復興を作ります。
サルデスでの教会では私たちはとても違う状況が優勢になっているのを見ます。
そこで、外見上すべては正しいです。
いかなる種類の邪悪な習慣も寛大に扱わられていてどのような暗示もありません。
全ては冷たくて形式的です。
それは、霊的な死の尊厳に値することです。
それでも、一時はこの教会がキリストに熱烈な献身で燃えていたときがあったは明白なのです。
「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
新改訳聖書 黙示録 3章3節
真実の光で明るく光っている場所に回復の日または改革の時に、人は設立される多くの教会について考え、メンバーは強い熱意とエネルギーによって印がつけられます。
それは、苦労ゆえに祝福された地方教会に、その中核を作るのです。
しかし、徐々に全ては変わりました。
形式は、生きている力に代わりました。
冷たさは、昔の霊的な熱情に代わりました。
教育上説教は、古い日の聖書の説教を置き換えました。
かつて、明白に他の魂のために深い関心があった所で、独りよがりの自己満足は現在支配をしています。
それは福音主義と活発な福音伝道者の昔の砦は、神へ帰るすばらしい変化なのです。
悔い改めは空虚な祈りのための空間を再び満たします
そして、神が天の窓を開けなければならなくなるまで、霊によって壊された彼らの祈りのためにひざを教会へ運ばせ、不毛な荒れ地を復活させるために、生気を与える雨を注ぎ、世がキリストの聖霊の活発な動きを再び見ることを与えるのです。
「私の働きを生き返らせてください、神よ!死の眠りを乱してください。
主よ!あなたのの全能の息によって、燃えさしを急いでいぶしてください。」
そのような回復が、おおいに必要です、
しかし、単純に真実の悔い改めの結果として、回復を来させることができるのです。
フィラデルフィアの教会では主は欠点を見つけていません。
キリストはその忠実について賞賛し、高い報酬を約束しています。
それで、悔い改めるへの問いかけがないスミルナの教会への手紙の場合のように私たちはここで見つけることが出来るのです。
しかし、それはなまぬるいラオデキアでは違ってきます。
別の人がそれ述べています。
「なまぬるい状態は、熱のある風邪の途中ではありません。しかし、風邪には熱があるのです」 (ラッセル・エリオット in
A Last Message)
そして、これはたびたび行われています。
さらに、その中に落ちるのが簡単なことなのです。
私たちのほとんどは、その真実を認識します、
単に私たちの弱い点と多くの祈り、そして神の言葉に魂を養う必要の絶え間ない意識がある所で、霊的な熱情は維持されるのです。
個人の献身が怠られるならば、私たちはすぐになまぬるくなってしまい、教会自身のメンバーが全くそれをしているのです。
ラオデキア人たちは、それらの状況は、何かのとがめのために呼びましたことを知る余地もありませんでした。
ホセアの時代のイスラエルの様に言うことができます。
「他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない。」
新改訳聖書 ホセア書 7章9節
サムソンのように強さは過ぎ去っても、彼らは理解できない。
知らぬ間に始まる事に逆戻りします。それはなにかの大きな失敗が彼がとがめ、刺激する前に心と自覚において神から離れることなのです。
それゆえに、いつも注意深くしていることが必要なのです。
神との交わりをより信じる人は、いつも満足しているでしょう。
豊かな自慢し、良き物と必要とするものは何でも増やします。
まだずっと、主は実際にすべての悲しい欠乏を見つけ、信仰が不可欠である事を作ります。
キリストは恵みにて、御自身に強情な心を引き出すために試みと苦悩を送り出します。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
新改訳聖書 黙示録 3章19節
中途半端な処置を行っていません。
罪悪を拠点まで跡をたどる努力は、悲しい不正を働く者の方へとの正しい態度を取ることを肯定しなければいけません。
なぜならば、彼はドアの外で立っています。そして印をつけます。
それは、単に個人のドアではなく、教会のドアなのです?
ノックと交わりの回復を捜しています。
ドアは、悔い改めによって唯一の掛け金を外されます; それは、他のいかなる方法でも開けることができないのです。
誇りと傲慢がそこに長くあり、キリストは外にとどまり語るのです。
「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
新改訳聖書 イザヤ書 66章2節
キリストは神を恐れる、真実に執着する人々に詳しく述べることを喜びとしています。しかし、彼が遠く離れて誇るのを知っています。
イエスは感動的に彼の弟子たちに話しかけています。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 14章23節
ここで「住みます」と翻訳した言葉は2節の中のその翻訳された「マンション」と同じものであることはたびたび示されることです。
彼は、私たちにの永続的の場所を用意するために栄光に帰ります。
同時に、父と子は今でもこの荒野の世界にいる間、心の回復において永続的な場所を見つけることを喜びます。
ああ、ドアの外で彼を恥をかき続けます。
私は、新郎のように歌を叫び歌います。
私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」
新改訳聖書 雅歌 5章2節
しかし、私たちが冷たく眠らなければ、それともかろうじて起きているのであれば、彼に明白な地位を与えないために説得力のない言い訳を見つけるのです。
「ゆえに、熱心に悔い改めてください。」
私たちが知っているときより、状況は悪くなっています。
無気力と眠い状態は私たちの感受性を鈍らせました。
時は近づいています。
世の終わりは近付いています。
それでも私たちは無関心でなまぬるいです。
悔い改めに価値があるならば、すぐに来なければなりません。
もう一方、それはあまりに近づいています。
そして、彼はテアテラ同様に私たちにの言うのです
「私は悔い改める場所を彼女に与えました、そして、彼女は悔い改めませんでした。」
ああ、いまだに神が真実に後悔している教会で行なわれるべきことは
彼女の魅力的な主に忠実に愛して輝やくことです!
サンディー氏は、最近の価値観に向かった風変わりな福音主義者です。
その人は、情熱をさめる際に別のものと結びつき、その意図で建て上げている熱烈な教会で、活発に走っている無神論者を良く知るための生き生きとした物語を詳しく話すのに用いられています。
彼を観察している隣人はふざけて叫びました。
「これはあなたへの新しい出来事です!私は一度もあなたが教会に以前行っていたのを見たことがありませんでした。」
この無神論者は答えました。「初めてなのです。私は教会が燃えているのをみるのは。」
彼らがキリストのみのために燃えていて、失われた者に勝つ取るために熱意で燃えているならば、どのくらい神の人々にへ引き寄せられるか誰がわかることが出来るのでしょうか?
「私たちの、昔のあなたの人々に見られたことのような聖い欲求を燃やし、あなたの愛を評価しました、あなたの顔を忍耐して待つ間こころは燃えていました。」
なまぬるい教会は、無力な教会であります。
救われていない人の証言は価値があると信じさせるようにするためには何もありません。
しかし、キリストに対する熱心な愛によって特徴づけられる教会、そして、失われた者の後に最も邪悪なものへの印象をすることに精力的に手を伸ばすこと、それを無視するのは難しいことです。
そのとき、教会は自分自身を悔い改めて、神に好ましくなりなさいという命令に心にとめます。
私たちは、たくさんの祭壇に群がっている悔い改めた罪人を見ることを予想するでしょう。
第10章 悔い改めない者たち。
私たちは聖書にあって何度も、明確に神の創造の驚異を人間に話されたことを述べます。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
新改訳聖書 詩篇19章1〜3節
自然界自体が現在も、美しいものがたくさんありますが、あるものは口で言い表すことが出来ないほど恐ろしく、悔い改めるべき罪人を連れてくるのにふさわしい場所ではありません。
全世界に存在する不思議は、どんな考え深い知性によってでも確信するべきなのです。それはこの驚くべき仕掛けのその後ろには、創造者と制御している主人の手があり、すべての知的存在は忠誠をつくす義務があります。
しかし、ある事は、より多くの罪人の誇り高い精神を抑制する必要があり、服従への傲慢な意志を曲げてしまいます。
そして、ここに聖霊の働きが入り、神を信じない魂の良心に力において働きます。
神の良きものが人を悔い改めに導くために考られているその間、私たちはその導きを見ます。また、その良き恩恵を経験しますが、人間は最後には終わり無き廃墟に至る下り坂に進んで、より遠く漂うのです。
もっとも小さな感謝は、日々神の良き物を受け取る事の出来ますが、彼らの集まりに感謝する人々にこのことを説明する事は困難な事実の一つです。そして、それには1万の異なる道があります。
いまでも、すべて良き物を与える方を完全に無視し、このことを忘れています。
「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 1章17節
私たちは、ゆえに驚く必要はありません、一方では単に自然の災難または、失敗として多くをみなすことによって神の裁きを表現しています。
彼らが人を恐れ、恐怖と心配で満たし彼ら自身の中に悔い改めを作ります。
それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。
新改訳聖書 ルカによる福音書 21章10〜11篇
海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その人の住むすべての場所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います
新改訳聖書 ルカによる福音書 21章25〜26篇
それでも、罪と神の救いに帰らないゆえに悔い改めを明示していません。
昔もそうでした。
預言者アモスは、その背教の時代にあるイスラエルの恐ろしい状況の目立つ描写を私たちにを与えます。
しかし、飢饉の恐怖、忌まわしい伝染病、そして、火、嵐と地震によって作られた破壊、このような全てが、悔い改めを作り出すことができるというわけではありません。
この点について、私たちはより慎重にアモス書4章6〜12節読まなければなりません。
わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。
二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。
新改訳聖書 アモス書 4章6〜12節
最後の日に、目に見えるキリスト教会と言われる者たちに訪れる預言と比べると、それほどは厳しいものではありません。しかし、これらの裁きは同じような特徴を持ってます。
その時、違反が完全にやって来ます。
そしてその日に、ちょうど神が長い苦しみをテアテラの前へ与えました。
神は「悔い改めるために彼女の場所を与えました」、そして、彼女は3回以上悔い改めました。
私たちは、宣言される同じことが苦難時代の悲しみを経験した人々に関係していることがわかります。
私たちがヨハネの黙示録の第3章の後で、私たちは一連の見方を持っています。それらは悪の軍隊とこれらの義との間にある長い戦いの時代の頂点が最も視覚的に示されているのです。
たびたび、それを疑い半分信じません。罪に勝利しましたが決して獲得されず、彼らがいた時より闇の力はいっそう強くなりました。
しかし、信仰は竜と惑わされた従者の上に子羊と主人の勝利を楽しみにすることができました。
見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。
新改訳聖書 イザヤ書 32章1節
しかり、水が非常に深く地を覆うように義が地を覆うでしょう。
しかしその時の前に、最後の素晴らしい闘いが来ます。
そして、その時天から神と子羊の怒りが明らかにされ、いままでなかったような悪魔の激怒は地の上で明らかにされます。
もし、彼らが神の王国へ反対する高慢な方法を主張するならば、力に反抗するこの活動的な崩壊の渦に見舞われる邪悪な人は、言い表せない苦痛で苦しまなければなりません。
しかし、すべて彼らが忍耐するという要求が彼らの心に働く悔い改めに失敗します。
とはいえ、人は黙示録の第9章を解釈します。
疑いもなく、口では言えないほど悪い状況の兆しであり、しばらくは地の上にいきあたります。
人間に恐ろしい現実的な精神的苦しみを負い、非常に多くの戦いが破壊に導くでしょう。
20〜21節の厳粛な言葉に注意してください。
「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」
新改訳聖書 黙示録 9章20〜21節
この二つの節に2回、悔い改めが述べられています。
偉大な希望を普遍主義者の主唱者はたいていは主張しています。
すべての刑罰は救済するためであり、最後に神は、現在の神の恵みを拒絶する全てに徹底的に苦しみを与えます。
この一節は、そのような惑わせる夢には何の役も立ちません。
彼らは裁きの恐怖を忍耐するために描かれていますが、これらの罪を告白し、神の赦しを求めるために連れてこられませんでした。
それらにかかわらず、彼らは神に対して彼ら自身を堅くなにして、これらの不道徳で邪悪な行動を行い続けます。
それでも、多くの人々に苦しみはとても有益な影響を及ぼしたことを否定できないし、この立場の間違いは証明されることはありません。
その時、忍耐できない環境と協力する神の恵みは、個人的な必要の意識に至らせます。その意識は神にふさわしいとは言えませんが神の好意によるのです。
そして、神に信頼することは自分自身を見つけるという逆の状態が発生することを可能にし、苦しむことは悔い改めを作り出すために使われるのです。
しかし、この場合において、より心が硬くなになりがちです。ちょうど粘土を硬くする太陽がロウをやわらかくするのと同じです。
私たちはすでに黙示録16章10〜11節の中ですでに同様な節を読んでいます。
「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」
新改訳聖書 黙示録 16章10〜11節
私たちはそれを見て悔い改めを作り出す代わりに、最も苦い苦悶があるのを知ります
悔い改めを作り出す代わりに、単にそれらの罪において人間を堅くなにし、実際には彼らは神を敬わず、これらの罪の無法さを増し加えています。
彼らの罪深い方法は、苦しみにある自分自身を巻き込んでいるのです。
何度も、私たちはこの原則が実際の生活において例証されるのを見ました。
歴史を学んだ事のある人は、戦争、飢饉にあった、過去の時代を思い出します。
悪疫はすべての国の10分の1を支配しました。生存者のほとんどは肉体的に健康であるというよりはむしろ精神的に悪くなったのです。
17、18世紀にパリの伝染病について人は考えます。
恐怖が民衆を占領しました。それでも、神に立ち返るのではなく、そして、いろいろな邪悪な不節制に飛び込む狂乱の市民、これまでに現在の危険を忘れる人たちを助けるために悪評なことに夢中になったのです。
わずかな人たちが神を追求しました。伝染病が悔い改めに導いている神の声である事を認めるのであれば、それはただ彼らの心において神の恵みが働いているのです。
今では、科学が適切な公衆衛生設備と害虫の絶滅によって黄熱、コレラと腺ペストのような恐ろしい訪れを克服する可能性を示しました。
しかし、創造主の美点が被造物のよってはっきりと知られ、多数の者が感謝すべきであることをしないで、自分自身で病気と物理的な苦しみから守るために、実際に信仰をあざけり、主の言葉を軽蔑するのです。
それが科学的な知識を増加させたと仮定することは知的な創造者の概念および、支配する神性を不必要にしました。すべて不合理ではありませんでした。
よく立証されたことわざには「その存在には永遠に続くの傾向があります」と言います。
聖書はこの世界を頑迷で神に和解させまいとする人たちの永遠の運命に関係することを示しています。
私たちがそれを熟考するとともに、これらを考慮しなければならない場所を持つべきあることを私たちは容易に理解するかもしれません。
私たちはすべて、死と呼ばれる大きな変化の中で何かが清められていると信じたいのです。ついには、すべての人間が祝福を与えられる展望に達成し、純粋で聖くなり、すべての地球のしみを清められ、唯一の永遠の正義との交わりに向くということをです。
しかし、聖書は明らかに反対だとを宣言をしています。
そこで、私たちは永遠に時間を過ごす人たちの状態に従った、死に至る2つの道と2つの運命のその後について知ります。
主イエスキリストが言いいました。
「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 8章24節
そして21節で断言しています。
「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 8章21節
黙示録14章23節で私たちは読みます。
また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」
新改訳聖書 黙示録 14章23節
ここではっきりと対比してください。
それらの罪の中の何人かは死にます。
他の人は主にあって死にます。
これらの罪によって決して死ぬことのない人たちはキリストの所へ行きます、
主にあって死ぬ人たちは休みに加わえられ、キリストへの献身に対して報いられます。
そこでは、清められているかということではなく、最初に悔い改めに分類されているかによるのでです。
そして、彼らは地上では拒まれていましたが、救い主キリストに立ち返るのです。
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
新改訳聖書 黙示録 22章11節
確かに二重の立場が与えられます。
死の代わって、継続的な試練に導かれています
私たちはそれがむしろ永遠の救いの状態よりも、失われたものに置いていることを見つけます。
特徴はその後も変わりません。
義は義にとどまり、不正は不正にとどまり、聖徒なものは永遠に聖なるものにとどまるのです。
汚いものは、永遠に汚されています。
そして、それには理由があります。
救われた者は、その時祝福された私たちの神の子、主イエスキリストと完全に同じ姿にされます。
その間、恵みのメッセージを心にとめずに自分で拒絶することによって救いを拒否した者は悔い改めるすべての可能性の外にいるので、彼らの罪において頑なにされました。
「行いを蒔く者は習慣を収穫します、習慣を蒔く者は性格を収穫します、性格を蒔く者は御心を収穫します。」
金持ちとラザロの私たちの主の物語はいくつかの比喩一つのように扱われました。
それは、他の話のようではなく、全てが文字通りに解釈されるのです。
多くの人々は、その中で現実の物語を見るのです、目に見えない世界を記述する時、比喩的な言語は部分的には使用されます。
とはいえ、現実を取るでしょう。厳粛に「大きな淵」と地獄からパラダイスまで、またはパラダイスから地獄まで進むことによって無感覚の永遠を想像します。恐ろしい暗示のままです。
それは、よこしまな人々が何か苦しんでも、別の世界で彼らが彼らの罪の悔い改めに導いて、神にとって好ましくなろうとすることは確かに不可能であることをを教えようとしているのです。
そして、死後、主の言葉によって神を受ける時、地上にて悔い改めずに死んだ者が罪を清め、浄化させることが完成できるという、持つだけ無駄な希望はそこにはありません。主がすべての聞き手に印象づけるすばらしいレッスンは、今この場で悔い改めることの重要性です。
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』
新改訳聖書 ルカによる福音書 16章31篇
そして、人間が現在神の恵みを拒むならば、キリストの血を踏みにじって歩き、聖霊に歯向かっているのです。
神ご自身が明白に描れている事意外、いかなる考えを持ちません。
現在、活動している悔い改めた頑な罪人を連れて来ること以外は何も手段がないのです。
キリストを拒否する老人たちのわずかな者たちのためにこのことを説明しました。
彼らは神のことを説明することを求める前に悔い改めました。
政府機関の病院、刑務所、そして、他の公共機関の中で多く働いた者は誰もいません。
そこで彼は大きな番号を持った白髪の頭の罪人と連絡を取らなければなりませんでした。
彼は永遠の事柄について彼らを取り扱いことが非常に難しいので、どのように認識させるか考え、失敗をする事さえもありました。
いくつかの不敬な言葉をはく老人にキリストについて話そうとする際、向こう見ずな私を呪ったので私の静脈の血が凍結させるよう思いをしました。
あってはならないのですが、私は人間の唇から放たれた豪雨のように降り注ぐ邪悪な言葉を聞き、その時にこのように公然と神に対する憎しみとすべての聖いものへの屈辱の表れを持ちました。
その人は罪の中にある長年の忍耐強さが心を堅くなにしたと認識が出来なくて、熱い鉄のように良心を焼いて無感覚にしたのです。それでより良いすべての望みが外見上は離れて過ぎて行ったのです。
これらの考慮してみても、私たちはどのくらい真面目である必要があるでしょうか。
私たちはキリストを知り、現在失敗し、努力した後で、私たち自身が模索するのです。
恵みの日が長引く間、主イエスの救いの知識のゆえに、人は悔い改めに来るでしょう。そしてかわるがわる、私たちは他の者のためのキリストのメッセンジャーとなるです。
しかし、もし私たちがこれを行うのなら、私たちは賢い福音主義者であるのにちがいないのです。
「単純な福音」ともに眠った、心休まらずにいる悔い改めない罪人に、それらのすばらしい必要を示すための場所は、治療を与えることを試みる前にはないのです。
私たちが以前の章において気づいた様に、エレミヤへ神が言いました。
「まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」
新改訳聖書 エレミア書 4章3節
私たちが人が切望して叫んでいるのを聞くならば、神の真実の鋤の刃で、堅いこころを開拓する必要があるのです。
「私は、救われるために何を行わなければなりませんか?」
彼らが失われた状況を見る時、彼らは恵みで提供される救いを認める準備ができているのです。
これは、牧師職である私たちの祖先が「律法の説教」と呼んでいます。
それは、彼らの聞き手である魂への、神の義の命令を応用するのです。その要求とは「戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」ということです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 7章13篇
私たちは彼らの中の数人よりも、おそらく「神の恵みの摂理」のより十分な理解を持つでしょう。彼らが行った厳格な説教と同様に私たちがいわゆる「明確な福音説教」によって、良き結果を得るのです。
私たちは信仰よってのみ、聖書の真実を正当化し、教義を表現することだけに心が占めやすいものなのです。それは信仰に対する多くの無関心または、他の神秘的なメッセージを受け入れないためであり、私たちが助けを希望していることに実際には失敗しているのです。
決して神を賞賛するために人間の責任を主張するのを恐れないでください。
そして、彼の素晴らしい失敗の事実の良心を納得させます。
罪の意識がない所で、恵みの感謝がありません。
溶かれていないしっくいでは塗れません。
同様に急いであなたがローマ人への手紙3章21節にたどり着く事はありません。それはあなたが前章の中の人類すべてのためのすばらしい告発について軽々しく、軽率に通り過ぎているからです。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章21篇
そこにはマリアのことばで意味する世界があります。
「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 1章53節
「聖徒の中の彼の受け継ぐの栄光の富」を認める者は、「貧しい霊において」です。
私たちの主御自身が私たちに話されました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。.....わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
そして、私たちはただ彼らの罪深さの意識があらゆるすばらしい医者の技術を利用し、導くことを確信しているのです。
私は、これが人間が確かな魂の問題、もしくは罪のためにただ多大な悔い改めを感じることが彼らが救われることができる前に、通り過ぎなければならないことを意味していないとすでに言いました。
しかし、それは刑罰を免れた罪を犯したその人間を意味し、そしてその人は神を忘れています。その者は彼の恵みをあざ笑いました。また、彼らの架空の義を信頼してました。
彼らが、無償で提供される救いを熱望するように態度が変わるまで、神の言葉と聖霊を通して連れて来られるべきなのです。
ある福音主義者は説教の時に、軽率な若者と等しくあざ笑い、しゃべりまくった不注意な若い女性に注目しました。
最後に熱心過ぎるけどほとんどの知恵がない「個人的な働き手」は入口で少女を止めて尋ねました、「イエスを今夜を信じますか?」
飛び上がって、彼女は返事をしました、「私は信じます。」
彼は、よく知られているヨハネによる福音書の3章16節を彼女を向けました。
そして、彼女にそれを読んで聞かせました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16節
「あなたは、それを信じますか?」と彼は問いました。
「確かにそれを信じます」とすばやく答えました。
「その時、あなたは見ていませんが。神はあなたが永遠の生活を持つと言っています?」
「確かに私は持っていると思います」
彼女は無関心に答えてドアを通り過ぎました。
若い働き手に知識によって福音主義者が急いで元気づけました。
それは「お嬢さん?今夜、平和を見つけたのです。」と言ったことです。
「平和!」説教者を叫びました。
「彼女は、これまでに問題を見つけましたか?」
それはよい質問でした。
非常に多くの人々は、悪く導かれた人によって偽ものの平和を話します。その人はダビデが意味したことを知りません。彼が叫びました。
「死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった」
新改訳聖書 詩篇 116章3節
それは問題ある魂がキリストに来て休みを得る事です。
即時の決定に勧めるべきことはなんて重要でしょうか。彼が神の聖霊に抵抗して戦うことをしないようにしなければいけません。
彼らはついに頑なな心が降参した場所にたどり着き、そして「悔い改めの場所がどこにもないことを見つけます」。
涙と共にそれを捜します。
それは、神が悔い改めを与えることを拒否するということでありません、
しかし、それは安定した状況を変えようすることがあまりに遅い時に、そこに時が来るのです。
第11章−神に悔い改めが必要でしょうか?
イスラエルの民がモアブの平野で宿営した時、エホバが彼らを取扱った歴史の中で、恐らくイスラエルを呪うためにバラムによって引き起こされ、バラクが奮闘した物語ほど心を動かす物語はないでしょう。
もし聖霊によって、バラムがイスラエルを呪うことを試みることを妨げられていなければ、不正な報いを愛する不信仰な預言者は、邪悪な王の要請に応じたがってのでしょう。
ついに、彼は明白に無能さゆえにモアブに呼ばれ、イスラエルを呪う代わりに祝福しました。
そして、バラクが怒る態度を示す中で、イスラエルのの栄光の未来を預言し、敬虔な感謝によって神の聖徒たちの心は動かされたのです。
これは注目すべき言葉です。
「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。
見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。」
新改訳聖書 民数記 23章19〜20節
これは確かに驚くべき宣言であります。
その時だけ、神がどんな人々でも無条件の契約に加わると私たちに話しかけ、その後、ご自分の言葉を取り消すことはしません。
そして、神はアブラハムと明確に同じ様な契約を確立しました。
これは、律法を与える前です。
彼らが持ったのはこの約束の契約の一部で、彼らはこの約束の維持しておくのに失敗しました。
ほんの数日前、私たちはバアルペオルの恐ろしい罪について読みました。
律法に基づいて、イスラエルはすべてを失い、神ご自身がその契約を廃止しました。
しかし、アブラハムとの彼の契約は、純粋な恵みでした。
アブラハムは単に契約している当事者です。
たとえどんなにイスラエルが失敗を持っても、神は神の約束を破ることができません。
約束された種によって神の恵みの態度はそれぞれの時代を通して主張されています。
身を避けるために神に向く者の心はなんていう慰めなのでしょうか。
「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 11章29節
ローマ人への手紙のディスペンセーショナル項目全体を注意深く読んでみると、9、10章そして11章にて私たちは神がイスラエルを過去・現在・未来において別々に取扱うことを知ることにより、二重に理解することが出来るのです。
いまだにそれは風変わりであり、盲目な心でいくら読んでも、聖霊が示そうとする真実を得ることに失敗してしまうのです。
つい最近、救いに関してのトラクトが私に郵送されてきました。
作者は過去の時代を示そうとし、さらに「使徒による働き」の本のはじめにあるペンテコステの秩序」と彼は呼んでいました。
悔い改めを説教をする場所を持ち、その時福音はすでに知らされていましたが、本当に独特の福音は、パウロの後年に示され、どのような悔い改めの要素も持ちませんでした。
そして、彼の驚くべき理論を証明するために上の言葉を導き、証明する聖句を引用します.
神の賜物と召命とは変わることがありません。(KJV直訳:神の賜物と召命とは悔い改めなしです。---ギリシャ原語も同様です。)
彼がこの節に与えた解釈は、現在、神が恵みによって要求される信者たちのために救いを与えるという、主権者の慈悲のみによったのです。
そして、彼らの側にはどんな悔い改めの要素も完全にないのです。
私の読者は叫ぶでしょうか、ほとんど信じられない無知ゆえなのです?
それでも、私は他に同様に愚かなことを肯定するのを聞きました。
それは、十分良き人あっても、どのくらい注意深く、聖書のテキストを読むべ良いかを示すでしょう。
使徒たちの議論は水晶のように鮮明です。
神はアブラハムに確定した約束をしました。
イスラエルは、律法の働きによる祝福を求めて失敗し、彼らは地上ですべてを失ったのです。
一時的に国家は上記のどちらかに置かれ、イスラエルがとても誇りとしている聖書の真実に意味していることを部分的に見えなくしてしまったのです。
一方、神は異邦人の方への恵みは積極的です。そして信じる全て者を救うのです。
国家が契約の場所であることは長くはありませんでしたが、同様に神が現在、個人的にユダヤ人を救っています。
やがて、イスラエルが主に向きを変える時、イスラエルは再び自分自身のオリーブの木に接ぎ木され、祝福に満たされます。
それは、「神が贈り物を与えて、祝福する約束をする時、神は自分自身を決してくつがえすことはしない」ということによらなければ証明されません。
神は態度を変えません。なぜならば神の賜物と召命とは悔い改めなしです。
それはバラムの宣言と同じようです。
「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
新改訳聖書 民数記 23章19節
「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
しかし、このような時に私たちは聖書の創世記6章5〜7節のことを言うでしょう。
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
新改訳聖書 創世記 6章5〜7節
ここでは神は明確に悔い改めると言い、人間に対する神の態度は完全に変わります。
長く苦悩している哀れみを代え、神は当然の裁きで行います、
洪水で人類を滅ぼし、ノアの大洪水以前の世界の腐敗と暴力を消し、これらを除いてノアとノアの家族は箱舟で救われました。
ここの矛盾があるでしょうか?
創世記と民数記は、他のことを対照的に教えているでしょうか?
私たちはこれらが教えてないと確信するです。
第一に、私達は同じ人間の著者、モーセが2冊の本、両方を書いたことを覚える必要があります。
次に、神はモーセの後にいました。
聖霊によって動かされた人間の作家は話したのです。
ゆえに、私たちはどんな間違いも、誤った結論もありえないということを知っているのです。
説明はこれだけではありません。
そして、なされた約束、あるいは与えられる恵みの契約にて行なわれたのではなく、罪深い人類への神の態度にて行なわれたのです。
イスラエルは、最も嫌な性質の悪に飛び込んだのです。
大いに、神ご自身がイスラエルを嫌ったのです。
神はイスラエルへの行動を変えて、彼らの堕落と腐敗の中を生きて彼らを守る代わりに彼らを滅ぼしたのです。
たびたび、神はこのように罪深い国と個人を扱います。
しかし、そこでは神の誓われた言葉はを与えられましたが神は決して悔い改めていません。
「主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。」
新改訳聖書 マラキ書 3章6節
なんとすばらしい恵みでしょうか、これらの言葉の中で際立つます。
神の人々のあらゆるわがままが、神の知性を変えられるわけでありません。
かつて、神は約束を与え、また神がイスラエルとの契約に加わった時に、神はイスラエルへの態度を変える要因となったのです。
このように唯一の聖い方が罪深い国を祝福することができるのです。それはキリストよって、彼の贖いの働きによるのです。
そして、キリストご自身が関わり、新しい契約の仲裁者になったのです。
神は宣言しています。
「主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
新改訳聖書 詩篇 110章4節
このように私たちの祝福の主は律法の働きよりも「より安全な契約」を確立されました。
キリストは神の目的の人間です。
誰が、彼のものが天の王座の前の全て人々に代表され
そして、神のすべての約束にある者であり、「しかり、アーメン」と唱えられます。
私たちの主イエスキリストは、「神の人格の正確な表現」(新改訳聖書1章3節(文字通りの表現です)
ゆえに、父の御前にあるいは、人類の前にあるキリストの態度の中にどのような悔い改めも私達は見つけられないことを驚きはしません。
何年も前にホーレスブッシュネル、イエスの人格において、敬虔さとイエスの名を告白するすべての者との間にある、重要な違いがあることに注意をうながしました。
ゆえに、私たちがイエスの前に悔い改める前に屈服して重大な不正を告白し、イエスのところへ行くのです。
それはたとえ話の中で収税人がたどり着いたことです。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と収税人は胸をたたいて言いました。
新改訳聖書 ルカによる福音書 18章13節
なだめは筋違いになりました。
魂の我々の姿勢は、なお彼のように同じものでなければならないのです。
私達は受けるのに値ないことを告白し、キリストにおいてその人は、我々の罪のためのなだめであることを信じてたどりつくのです。
私たちが神の前にこの立場を受けるまで、父親ように、私たちは本当に彼を知ること、そしてキリストのとの交わることが出来ないのです。
しかし、イエスの敬虔さは全く違う基礎の上にあるのです。
彼は考え、言葉で、行為にて神、または人間に反抗して罪を決して白状することはしませんでした。
イエスが他の者に祈ることを教えて、、
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 6章12節
だが、イエスはこのような言葉の用途を彼らと決して結び付けることをしませんでした。
イエスが決して誰ともいっしょに祈ることを見出さないという驚くべき事実ほど、私たちとイエスとの間の相違点をより明確にすることは現実に何もないのです。
神と信者が交わる前に、私たちのもっとも祝福されたいくつかの経験は、敬虔にそして悔い改めて降伏する時に楽しみ、同時に互いに私たちの必要を認め、私たちの共通な罪を告白するのです。
しかし、イエスはこのような経験は一切持ちません。
彼らとは別に、イエスは他の人のために祈願しました。それはイエスとの結びつきが私たちとは違うからです。
イエスは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」であったからです。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 1章14節
そして、イエスは成人した子として祈りましたが今までずっと父のふところを住まいとしているのです。
ゆえに、イエスは御自身の罪、あるいは、欠点のため1粒の涙も流しません。それはイエスは罪を持たないからです。
彼は、他の人の罪のために泣きました。御自身の罪のためには決して泣きませんでした。
イエスの立場は「悔い改めの威勢のひとつもない敬虔」であり、再びブッシュネルを引用します。
イエスは赦しを決して捜さず、恵みの必要を決して持ち合わせていませんでした。
なぜならば、イエスはいままで外見も内部も完全に汚れがなく、しみのない神の子羊です。
そしてイエスは私たちの贖いのために、神にあってしみがなく、ご自身を提供するために世界に来たのです。
もし、イエスの聖い人間性と私たちの貧しい、堕落した、罪深い性質とを引き離している巨大な隔たりをぜんぜん感じていないのなら、彼らに注意深くこれらのことを計りにかけるべきです。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章8節
イエスはすべてのことに乏しいという証拠を与えるために、最もにがい敵対者に明確に挑戦したのです。
「あなたのどの罪が私を確信させるでしょうか?」
いままでイエスの生活において、人格もしくは裁きにあっての欠点を指摘することが、この挑戦に答えるためにはひとつの効果もありませんでした。
彼は、何も取り消すことがありませんでした。
「すみませんでした。」とイエスが言ったことがありませんでした。
イエスは犯されたいかなる攻撃にもついて謝罪するような事がありませんでした。
「わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」とイエスが言うことができました。
「これはイエスは私たちの罪に償いをすることに適した完全な人格なのです。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 5章21節
私たちの「救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは」真実なのです。
新改訳聖書 へブル人への手紙 2章10節
イエスの性質にはあらゆる点で完全でした。
幼年期から十字架への死に至るまでイエスは聖なる者でした。
イエスが私たちの救い主ならば、イエスは苦しみによってキリストの名称を獲得しなければなりませんでした。
ただこの意識のみがイエスを完成したと言わせることが出来たのです。
イエスが父の意志に基づき、聖なる服従にてこの場面を歩いたように「従順を学び」仕える者の態度を取ることに価値があることを命令を常に発しています。
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」とイエスは言いました。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 6章38節
そして、このような喜び、イエスの完全な祈りを父が得たので、天が2回開けて宣言しました。
「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」
新改訳聖書 マルコによる福音書 9章7節
確かに、私達は愛を賛美することでよりイエスの並ぶものがない完全性を熟考し、その身の低さは灰とチリの中にあるヨブのように、私たちの罪を告白し、悔い改め、私たちはイエスの前にて身を屈服させられます。
それは、知恵の啓示であり、その場所へとヨブにもたらしたのは神の尊厳でした。
私たちはキリストの愛とキリストの中にある聖い出会いを見るので、私たちはより多くの謙遜を求めるでしょうか。
イエスにあって「哀れみと真実は共に出会い、義と平和は、お互いに口付けしています。」
私たちの罪深さとキリストの神聖な愛を他の者は何も明らかにはしないのですが、キリストの十字架は明らかにしています。
イエスの比類ない真実な恵みとこれらの罪人たちの嘆願にあって言い表され、イエスの前に悔い改めるすべての者が屈服し、永遠に救われるのがイエスの目的であることを今まで私たちはどのように疑えば良いでしょうか。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章32節
イエスは全てを知っていて、私たちはしかりです。すべてを私たちは絶えずそうするでしょう。
キリスト御自身の中に私たちを置く時、私たちの方へとイエスの態度を悔い改め、もしくは変更するための方法はいままでイエスが原因となりうることは何もないのです。
イエスを疑うことは謙遜でありません。イエスがついに天国に私たちを本当に連れてゆくにもかかわらず驚異に思います。
これに反して、疑うことは徹底して信じることはできません。
「神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
新改訳聖書 民数記 23章19節
「神は人ではないのでうそをつくことができない。また御子が人ではないので悔い改めることができない」と知っているので約束を破ることがないので安らかに休み、信仰は神が言ったことへのその保証となります。
イエスが私たち信仰者としての罪に無関心ではないのは真実なのです。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 12章6節
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
新改訳聖書 黙示録 3章19節
しかし、イエスは決して私たちを捨てることはしません。
とはいえ激しく、イエスは私たちがイエスの言葉に故意に従わないことを主張するならば、私たちを懲らしめをうけることでしょう。
イエスが誤っている信仰者を扱う原則は詩篇において明らかに示されています。
「わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。
わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。
わたしは彼の子孫をいつまでも、彼の王座を天の日数のように、続かせよう。
もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたしの定めのうちを歩かないならば、
また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、
わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。
しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。
わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。
わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。
彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。」
新改訳聖書 詩篇 89章27〜36節
神はイエスに信頼を置く者に栄光の全てを受けると御子に約束しました。
強情ならばならば神はは彼らを訓練します。
しかし、神は決して彼らを捨てられません。
信じる者全てのために永遠の罪の問題は、十字架の血はすべて精算済です。
パウロの大喜びの言葉を聞きましょう。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章38〜39節
それは何でしょうか?今あるものも、後に来るものもどちらでもありません
それは何でしょうか?命も死もどちらも含みません。
神がイエスキリストにある恵みの目的は決して悔い改めないことがありません。強固な言葉が私たちに保証することが出来たのです。?
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」
新改訳聖書 創世記 6章5〜6節
そして、神が洪水の裁きで人間を滅ぼす決意をした時
私たちはこのことを見る必要があります。
その後、神の忍耐と共に、ソドムとゴモラと低地の町々の堕落した住民に終わりに来たした。
「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
新改訳聖書 創世記 18章21節
(別の聖書的な判断を使うとアブラハムの前に現れたのは「人となった神」(アウソロフィズム)なのです。)
神は7つの偉大で強力な国にカナンを提供しました。しかし、アモリ人への審査がついに満ちたので彼らを滅ぼすためにイスラエルの軍隊を使いました。
全世界の道徳の支配者のように、神は懲らしめるために使う1つの国を持ち、その他に、時によってかわるがわる罰する人々を使ったのです。
しかし、破壊した国々と同じように邪悪な、もしくはより悪くイスラエルがなっていったのです。
すべてのこのような場合において「主は人間を作ったことを悔い改めました」と言われるでしょう。それとも、主は確かな祝福を人間に惜しまず与えられることを許すでしょうか。
しかし、神が誓われた伝えられた祝福の言葉を提供する時、神は決して悔い改めません。
神の約束は取り消すことが出来ません。
それは神御自身が基礎であり、人間が値つけすることは出来ないからです。
ホセア書は感動する小さな書簡です。
神はイスラエルへの裁きを定めた後でさえ、イスラエルを思い続け描写しているのです。
彼らを低地の町々、邪悪のために滅ぼされるソドムとゴモラに例えることが出来ます。
「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」
新改訳聖書 ホセア書 11章8〜9節
これにはもっとも心が動かされます。
神は神の人々の預言された審判に関しては悔い改めるように描かれ、祝福を約束する時は決して悔い改めていません。
神は悔い改めるでしょう。つまり、もし彼らが神の方へ態度を変えるなら神の態度は彼らの方へ変えるでしょう。
それは魂の深みを奮起させるのに十分なことです。
でも、イスラエルの一部は何の反応がなく、裁きは自然の経過をたどらなければならなかったのです。
しかし、将来の栄光の回復の約束を持ちます。
さらに、拒絶された国家すべてが、祝福された神の御顔を個人的に探し求め、栄光の蘇りにある分け前を受けるのです。
それで、神はホセア書13章14節にある丁寧な確信を与えています。
「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」
新改訳聖書 ホセア書 13章14節
すべての時代において、恵みの確立した目的を無効に、また変える場所を得ることは決してないでしょう。
悔い改めは神の目からおおい隠されているのでしょうか。万が一にもそれはありえません。
神は自分自身を取り戻す方へ態度を変えるのです。
神の愛は変わりません。頂上よりも高く、深みより深く、真実と忠実さは死のように強いのです。
第12章−もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
へブル人への手紙の著者は神にあって私たちにはペテロ第二の手紙の中にそのヒントがあると私は信じています。
ペテロは「私たちの愛する兄弟パウロ」によって、ユダヤ人クリスチャンへと書かれる手紙のことを述べています。
「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」
新改訳聖書 ペテロ第二の手紙 3章16節
私たちはペテロの特別な職務は割礼者へのものであり、ペテロは異邦人の間へと国外離散しているユダヤ人クリスチャンへと手紙を送っていると学びました。
それゆえに、ヘブル人クリスチャンへと送られているパウロ書簡は他にはないので、引用される節の中に引用されるのはヘブル人への手紙でなければなりません。
確かに、このヘブル人への手紙の記事よりも、難しい内容を含む他の手紙は新約聖書の中にはありません。
6章の前半分と10章の後半分ほど、これらの節は考えられていない、十分に教えられたいない聖徒によって、誤解されてきたものはありません。
背教に対する警告が教えていることは本当に恐ろしいことなのです。
真実にキリストを愛する者たちが赦しがたい罪を犯したと想像し、再び神の子を十字架に付けたことにより、哀れみの範囲を超えて彼ら自身でその罪に定めました。
この恐ろしい考えという王座の上で彼らは自信をなくし、これらの考えが彼らの意識をつかみ、その意識のために今、彼らは希望をなくしました。
そして、その希望のない状態によって、彼らの罪が彼らの心に刻み付けられ、彼らは恐れ、彼らには「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と言わなければならなくなったのです。
さまざまな解釈、また説明を試みることは問題の論争の提供するだけで、神を敬う人がこれらの適切な適用することについて、大きく意見が異なっています。
広く主題に入ることなく、これら両方の厳粛な警告の中に何か関係することがあるか、現実に理解しようします。
私たちはこの警告にに結びつこうとし、それは、それは好ましいことだと考えます。
ヘブル人への手紙6章1〜13節の正確な意味を注意深く読みとってください。
段落はいくぶん長いのですが、もし私達が正しくその重要性を理解するならば、すべてを理解することは必要なことなのです。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、.....」
いています。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章1〜13節
前の章において、私達はすでに1〜3節を見ました。
そこで、私たちは「キリストについての初歩の教え」を見ました。
欄外の翻訳をよむと「キリストの始まることば」であり、準備、もしくは以前のディスペンセーション(時代区分主義)を根本主義的な教えを述べています。
この考え方から離れては、真実のクリスチャン教義として聖書を理解することは現実には不可能なことだと考えます。
「成熟」という言葉はここでは「経験」するということを述べているのではありません。
むしろ、過ぎた時代の根本主義的な教えに取って代わる、良く教えられたクリスチャンのための、新約聖書の教えを具体的に表わしています。
これらのヘブル人の改宗者、もしくは見かけ上の改宗者、福音メッセージを通して改心された者たちの傾向は、完全な理解と現在の真実の感謝に移ることの代わりに、旧約聖書の儀式習慣と部分的な啓示に切望して戻ることでした。
背教の可能性に対して手紙を通しての警告がなされ、そこでは実在していません。そしてよりすぐれた新しい契約(成熟)へと「進もう」と勧めているのです。古い契約が劣っているからです。
4〜6節の厳粛な記事を調べる前に、私たちは9〜13節の項目の終わりの部分を考えてみましょう。
ヘブル人への手紙の著者はヘブル人たちに霊的な怠慢と無関心が伴う危険性について警告しています。
しかし、パウロは彼らの真実な救いである最終的な結末についての質問はしていません。
しかし、その後で4〜8節で描かれている背教者の望みを失った状態の前に、パウロは言っています。
「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章9節
これは最も重要なことです。
これらの言葉が本当に何を意味することでしょうか。
本当に救われていないのなら、4節と5節の中でこのようなことは言及されないでしょう。彼らは確かにすべてのことに合格しているだろうと私たちに述べているのです。
注意深く述べて見ましょう。
それは知性の混乱から救うことになります。
その他の5つの記事はすべては、上記の節が教えていることを述べています。
しかし、彼らが、必ずしも救れているというわけではありません。
彼らは恐らく全員が真実なのでしょう。それでも彼らの魂はキリストの外に留まっています。
救われた聖い命の証拠は下記の節に与えられています。
そこには主自身の現実の祈りと彼の病む人々のための利己的でない思いやりが、これらの改心したヘブル人に見ることができます。
はっきりとした教義のただ受けるだけではありません。
どのように真実なのでしょうか。
それは生きている救い主の中にある現実の信頼であり、彼らは新しい創造物として創られたのです。
そして彼らの外見の歩みは、内部の変化したことを証明しています。
神は義なる唯一の方です。アブラハムの肉の子孫の信者たちの国家を裁く日に、すべてを見逃すとは限らないです。
パウロが、最後には信仰を捨てた者たちの中に不真実な教師たちがいる可能性を警告した時でさえ、彼はキリストの中にある真実な休みを得ているすべての者たちに、心の中にある彼らの改心の純粋性について、疑問を残すようなことはしていません。
しかし、彼は彼らの救いの希望の根本を十分に注意深く調べようとしているのです。
もしこれが現在、はっきりしているならば、もう一度戻って警告を読んでください。
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章4〜6節
ここで述べられた人たちは誰でしたか?
9節によれば彼らは救われた人々ではありませんでした。
別の言い方をすると、彼らは神のことばと聖霊によって再び生まれていませんでした。
その時彼らはどのような人でしたか?
答えははっきりしています。
その者たちはクリスチャンになったという告白をし、彼らは新しい、そして恵みある働きの超自然的な特徴(使徒の時代の聖霊の働き)を多く、目撃しました。
しかし、彼らは実際にはキリストを知りませんでした。BR> その者たちは、奇跡を信じた主の日(使徒の時代)の者たちのようですが、彼らは彼らに働きかけた方を知らないのです。
彼らの過去に何がありましたか?
5つの記事があります。
最初に彼らは物分りが良かったのです。
福音を説教を考えて聞く者すべてが真実なのです。
彼はかつてよそ者でしたが、光によって彼に与えられたのです。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
新改訳聖書 詩篇 119章130節
しかし、不幸な多くの者が光の中に歩むことを拒否しましたが、彼らは物分りがよかったのです。
そして、私たちはヨハネの手紙第一1章7節でそれを学びます。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章7節
それがあなたが歩むべき道ではないことが解かるはずです。
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 5章8節
神の真実な力は光の中を歩む人を明らかにしています。その表明は避けることが出来ません。もしくは炎が激しく明らかにし、彼らは立ち返るでしょう。
「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章5節
光に直面し、光をはいて歩き、その人は輝く光から哀れみの椅子に降りかけられた血を学びます。
その人はその輝きをもはや恐れずに、その人の存在の深みに神を捜します。血がこのようにすべての邪悪を暴くことを知ります。
これはただ物分りがいいと言うこととはぜんぜん違うことなのです。
次に彼らは天からの賜物の味を知りました。
現在、私たちは主イエス御自身がこの贈り物だと考えます。
父なる神は私たちの罪のためのなだめの供え物を与えたにもかかわらず、私たちは永遠の命がはっきりとした神の贈り物を要求したと考えます。
それは多くの者が驚くべき現実によってしばらくの間は大いに感銘することははっきりしています。
神は御子を世に与えるほどに世を愛し、御子を信じる者すべてに永遠の命を与えるでしょう。
それなのに、イエスのの名を信じる全ての者に生命を与えるために天国から降りたきた生きているパンを彼らが決して真実に食べることをしません。
味わうことと食べることはまったく別のことなのです。
一度キリストを認めると思われたおびただしい人の数があります。しかし彼らが本当は決してイエスを知らずにいたことはその後、証明されます。イエスを知るものは永遠の生命を持っています。
3番目に彼らは「聖霊にあずかる者」なのです。
確かにこれは現実をなのです。
いったい、誰が聖霊にあずかる者で、救わていないでしょうか?
答えは ― バラムにあります。
そして、ユダもいます。
二人とも失っています。
神の聖霊は、聖霊の働きの中で主権者です。
いまだ、聖霊はだれもキリストに無理やり降参させ従わせていません。
だが、聖霊の慈悲深さは、彼らの心を思いやることから離れては何も行いません。
多分、聖霊の罪を自覚させる力の多くを人は体験するでしょう。
聖霊がキリストの貴重さを描く結果、深く心が奮起します。
なのに聖霊の求愛を退け、聖霊のメッセージを心にとめるのを拒否するのです。
私たちがこれらの背教者が聖霊によってこれまでに改心したとか、印が押されたとか、あるいは、油を注がれたとか、洗礼を施されたとか、満たされたとか話していない点に注意してください。
彼らは単純に聖霊の力に預かる者となっただけ、真実に主を知り続けることはしませんでした。
バラムは悲しい例です。
彼は聖霊の力を感じたのです。
しかし、「不義の報酬を愛しました」。たとえ彼らに実行することは許されなかったとしてもバラムの目的の基礎は悔い改めていないのです。
聖霊の力の中にとどまる、ユダの働きの奇跡もそうではないでしょうか?
見かけ上はユダは行いました。なぜならば12使徒すべてはどのように悪魔が彼らに服従するのかを話したからです。
しかし、私たちの主は宣言しています。
「彼は悪魔です」
そして、私たちはユダが自殺して死んだと伝えられ、自分の場所へ行きました。
第4番目に彼らは「 神のすばらしいみことば」を味わいました。
これは、彼らに関する霊感を与えられた著者によって表された最初の記事と同じものです。
それでも、それは同じ繰り返しではありません。
彼らは説教される言葉を聞き、聖霊は彼らに訴えたのです。
彼らはそれが必要であると感じました。
しかし彼らがその貴重さを味わったけれども、生きている信仰でそれを食べようとはしなかったのです。
そして最後に彼らは「後にやがて来る世の力とを味わいました」。
初期のクリスチャンメッセージの確証するために主によって提供された奇跡的なしるしの引用があります。
来るべき時代(千年王国)には奇跡は平凡なことです。
この恵みのディスペンセーションの初めに、彼らはその人間が神の言葉を拒絶するために赦しがないという神の要求が私たちの哀れみ深い神によって提供されました。
そして、これらのヘブル人たちに多くのしるしと驚きが見られ、一時の間、少なくとも、彼らは知的に新しい教義の真実の確信しました。
しかし、その真実には心に受け入れられてはいませんでした。
預言者、力強い言葉と行為において、彼らは大いにイエスを知っていました。
彼ら自身に神の権威に与えることによっては、彼らはイエスを救い主、主としては知らなかったのです。
私たちの主が地上にある間、彼らがイエスが働いた奇跡が見た時、彼を信じた一時的に従う者が多くいましたが、その後戻ってイエスとともにもはや歩もうとする者はいませんでした。
現実の救われているという立証は継続することです。
私たちは私たちの心に十分に挑戦してみましょう。
私たちは彼らよりも良い(悪い?)状態にいるからです。BR> 形式主義者と偽善者は四方八方にたくさんいるからです。
もし私たちがイエスを信頼に告白するだけで、私たちはイエスを愛しますか?
私たちの命にあるイエスの栄光を捜しますか?
空虚な告白では誰も救えません。
試練にあった時、これらのヘブル人はユダヤ教に戻りました。
主イエスの名のために合格するために、徹底的に要求され苦しむクリスチャンがいました。
はっきりしていることは、彼らには合格する覚悟が出来ていませんでした。
それで、彼らは彼らの後ろにあるキリスト信仰を捨てて、ユダヤ教に再び陥りました。
その中で、彼らは神が彼らに救いを十分に与えることができるというあらゆる証言を拒絶しました。
彼は彼の蓄えに何も隠していません。
神が御子において話した時、神はあらゆるみこころを話しました。
その証言を受理することをはっきりと意図的に拒絶した人々のためには、神はそれ以上何も言いませんでした。
彼らをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
彼らは明らかに反抗的にも、神を殺す者の側に立ちました。
「彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章6節
私たちは、もし彼らが最後まで罪を持っていたのなら、彼らが救われることを神が拒むとは話されていません。
それを述べましたが、パウロは許しを探しました。
私たちはすべての光、すべての知識に対して罪を犯されたと話します。
神は彼らの前に置かれたこと以上は何も有していないのです。
神の聖霊は彼らを見放しました。そして悔い改めのための日に進むのです。
それは、神はもし彼らが悔い改めても、「彼らの叫び声に心にとめることを拒む」ということではありません。
しかし、神は彼らが拒まないと知っています。
彼らは頑くな心、無感覚な良心を抑制せずにしました。
私達がすでに見た個所の終わりにある力強い言葉の前に、7、8節に続くたとえがあります。
土地の二つの構想は比べられています。
それぞれの畑において土は同様です。
同じ太陽が両方とも彼らを照らします。
彼らは、同じふる雨を吸い込んで活力を与えられます。
しかし、収穫の時ひとつはすばらしい収穫を作り出し、それは農夫の心に喜びとなります。
もうひとつは焼かれるためにいばらやあざみなどを生えさせます。
何が違いを作りのですか?
一つはよい種が蒔かれました、しかし他方では蒔かれませんでした。
応用は簡単です。
2人の少年は並んで成長します。
彼らは同じユダヤ人集会に出席します。
後に二人ともキリスト信仰の影響を受けます。
彼らは同じ集会に出席します。
彼らは同じ説教を聞きます。
彼らは同じしるしと神の聖霊によって作られた驚異を見ます。
彼らは二人とも聖霊の罪の自覚する力を感じます。
彼らは同じようににイエスの名を信じると告白します。
二人ともバプテスマを受けます。
二人とも主の晩餐に預かります。
しかし、その時火のような迫害が幼い教会に対して起こり、一人は卑劣にも主張を捨てますが、もう一人はしっかり岩に立ちます。
一人は正直な心に良い種を受けました。
もう一人はただ口だけのの告白をしたのです。
もう一人は単なる知識として、キリスト信仰を感情的に知る事に基づいてただ口だけの告白をしたのです。
それは、ヘブル人への手紙10章26〜35節に書かれているのと同じ事です。
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。
あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章26〜35節
ここでも、節の終わりの一部で、ヘブル人手紙のの著者が書いているのは、彼らの信仰は現実的に保証されていることです。
彼は何もつまずくためにはこのような強い言葉を使用しません。
キリストにあって最も弱い幼な子はキリストにおいて守られています。
神の力で照らされた、これらのヘブル人は個人的にだけでなく病んで我慢し、彼らは他人の手で強くなりました。
彼らが断固として圧迫するならば、彼らの報酬は確かでした、
もし、彼らが永遠に保証される天にある家を持ったことを知るのなら、彼らが硬く立つならば報酬も確かでした。
注意深くもう一度、32〜36節を読んでください。
そして、恵みによる救い、礼拝の報いを思い出してください。
その時、前の節の警告に注意してください。
もちろん、背教は傲慢な罪です。
それはキリストの真実よる明確な知識を得た後にキリストを見捨てます。
昔の動物の血よりも価値のない粗末な、もしくは聖くない事によって、神が彼らを祝福から除外できると見ることが出来るという原則の上に、キリストの貴重な血を価値を勘定し、彼らの足の下で神の子を故意に踏みつけました。
神は何を行うことができますで、神の恵みを拒むこのように人たちのために?
彼らは神の愛する思いやりを拒否します。
ゆえに、彼らは神の怒りを知っていなければなりません。
彼らのヘブル人はこのように言うでしょう。
「さらにキリストの教えは天から来ています。同じように、ユダヤ教も真実です。
もし私達がイエスから離れても、私たちは神から離れることはしません。
もし私たちがカルバリを拒むならば、私たちも神殿の犠げものに戻ることができます。』、しかし、答えはいいえです。
「罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章26節
イエスに信頼するすべての者の代価として、彼自身をしみのない捧げ物としてすべての型を神の御子が果たした時以来、やぎと雄羊の犠牲は神は現在持つことは出来ないのです。
敵は滅ぼさなければならないという燃え立つ憤りと、自分自身恐ろしい裁きにあるとみなすことを暴く、唯一の罪のための神の捧げ物から方向を変えてキリストを拒絶するのです。
このようにキリストがメシアであり、救い主と知っていると告白する集まりが多くありますが、今日、常にいくつもの集まりが本物ではなかったのです。
12章において、いくぶん違う立場から警告は繰り返されます。
15〜17節を注意して読んでください。
「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 12章15〜17節
エサウは、恵みの契約についての完全な知識を持った人のはっきりとした実例です。
しかし、苦しんでいた時に、主の祝福よりも個人的な慰めに、高い価値を置いたのです。
彼の愚かな物差しで見ていたことを最後に気づく時、彼は泣いて、彼が一度は安く手放した祝福を願いましたが、あまりに遅かったです。
彼の父はヤコブに祝福をしましたが、悔い改めることができませんでした。
厳粛な言葉によって意味されることが私にはわかります。
「彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 12章17節
それは、彼自身が、初めから持っていた軽率さと、冒涜から悔い改めることが出来ない結果であり、彼の父の知性においても、悔い改めの場所を見つけることが出来なかったのです。
しかし、ヤコブは実施したのです。イサクはその時、アブラハムの祝福は年の若い子に与えられることが神の意志であることを知っていたからです。
このレッスンは重大なものです。
神に関することは軽率に扱われません。
一時は軽蔑される哀れみは後になってむなしく捜されるでしょう。
私たちに、今日、要求される間、まじめに、現実的な義務があります。
「時は本当に来ます。死によって終わりが本当に来ます。近づいています。
近くに引き寄せること。
罪人です。弱り果てたあなたは取るに足らない者です?
時と死はあなたに訴えています。
第13章−悔い改めと赦し
罪を犯している兄弟への、私たちの姿勢について、聖書が何を教えているか、私たちが注意深く考えるのならば、神の赦しの方法と時についても、私たちは教えられるのです。
これらの学びは、神が純粋な恵みの原則の上にて罪の軽減を与える間に、私たちの前で何度も語られ、このことは新たな強調されることなのです。BR>
そして、その恵みは、私たちの主キリストの働きが完成されたことに基づいています。
その時、御子を信頼する罪人に、神によって今、すでに弁明されたことを根拠に、十字架の上のキリストの義を提供されました。
それでも、この赦しは悔い改めない罪人には与えられません。
神の心はすでにすべての人間の方へ向いていますが、神はすべての者の上にある神の赦しの恵みを強制することはありません。
その瞬間に、恐れている罪人が神のところへ来ます、彼は完全失われていて、神にふさわしくないので、自分自身を裁き、罪を持ち、そのことにより自分自身を裁きます。
このように、悔い改めの結果、その者はイエスキリストによる平和を語ります。
罪人は無償で信じ、私のために救い主が死んだと言うことが出来ます。要点を言うと血の贖いにより神の平和を作ったと言うことが出来ます。
このように赦される者は、その時、その者に対して罪を犯す人たちをも、赦すことを要求されています。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 6章12節
この祈りは、失われた罪人が言うべき祈りでありません。
それは弟子の叫び声です。
私たちは永遠に赦されています。
それでも、信じる者は神の子供であり、過ちを犯します。ゆえに日々の赦しが必要なのです。
しかし、時には、その者は生活と歩みにおいて、すべてが罪深いことを容認してしまい、聖霊を深く悲しませます。
そして、キリストにあって、神がその人を赦すので、その者は赦すように勧めらているのです。
誤ちを犯す兄弟に対して、恵みを示すことを拒否する者は、背中にむちを受けなければなりません。
これは強く、ペテロが主張していることであり、疑いなく他の使徒たちによっても理解されていることです。
彼らはこのことすべての代弁者であり、そのペテロが質問しています。
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 18章21節
ペテロが言った7の数字は霊的な意味があり、不思議な完全数です、しかしペテロは新しい造られた子として特徴つけられる、恵みの完全性をどのくらい表現しているでしょうか?
イエスの答えには理解力があり、興味をそそります。
それは私たちが同朋である罪人たちを扱う時、そのことは赦すべき限界以上を表し、私たちの前に働く私たちの父なる神の無限の哀れみの確かさを提示しています。
「イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 18章22節
これは、マタイによる福音書の中で説明されていることです。
そして、このあとすぐに、私たちは赦されない僕のたとえ話でこのことを知ります。
その者自身は赦されましたが、主の召使いに哀れみを見せることを拒否して、神の家の政治的な赦しを得るために、彼は獄吏に引き渡されるとわかりました。
もし、そのあとでふさわしくない振舞をするのなら、取り消されることもあります。
この点では、永遠の赦しとは全く違います。
マタイによる福音書は赦しの範囲を与えています。
しかし、私たちには、このような恵みの受取人でありながら、罪を犯している兄弟の態度については何も話されてはいません。
私たちがルカによる福音書に17章3〜4節を戻る時に、私たちはこの赦しが与えられるための条件を学びます。
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
仮に、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 17章3〜4節
クリスチャンの赦しは、悪に対する無関心によって混乱してはいけません。
罪を犯す兄弟は、彼の利益のために戒告されることになっています。
「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。」
新改訳聖書 レビ記 19章17節
悪い行為を無視し、悪い行為をする者に対して注意を払わずにいることは、単純に簡単なことですが、これは神の道ではありません。
その者自身が神の子供であり、模範者なのです。
神は彼らに罪を痛感させます。
このように、良心を刺激して、必要の意識をつくろうとしています。
彼らが罪を意識するまでには、赦されるのための、あるいは真実の自己審判のために、どんな願いもそこにはないのです。
罪ある者が自分の罪に意識した時、
「そして悔い改めれば、赦しなさい。」とイエスが言い加えています。
再び、私たちの前に何度もこの議論が来たことを私が強調してみましょう。
悔い改めには価値が何もありません。
それは、真実の現状はただ認知することです。
これが無視されてる限り、犯罪者は赦しを求めません。
彼があるがままの罪を告白して、正直に自分の状態に直面する時、彼の罪は赦されるのです。
しかし、すべてがこの範囲内で行われます。
そして、多くの場合において、このような恵みははっきりされなければならないことです。
それは私達が4節を読んだようなことは、たいていが信じがたいことです。
「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 17章4節
もし、私たちのすべての個人的な罪深さと、失敗において、私たちはこの寛容さをもって赦すのならば、私たちの神の恵みはどのくらい無限の広さを持つのでしょうか?
神は「私は悔い改めます。」と言うところまでくる者たちに、惜しまず与えますことを期待しています。
神の哀れみを回復させるためには限界はありません。
私たちはこれらすべてのことにおいて神に制限させたいと思っていないでしょうか?
私たちが口には出さずに私たちの心ににおいて言わないでしょうか。
「私はたびたび失敗しています。
私は何度も罪を犯しました。
私は、過去に神に愛されたお気に入りだと思っていましたが、私自身がそれに値しないと解った時、再び赦されるために神のところへ来たことを恥ずかしく思うのです。」
しかし、もしあなた自身に価値があると証明するならば、その時神の赦しは恵みではありません。
キリストに価値があるゆえに神は赦すのです。
神はただ罪を犯している子供が言うのを待っています。「私は悔い改めます。」と....
その時、それは私たちが認めている神の聖い名を汚すことと気づき、何度も神に回復して頂く必要が私たちにあるのです。
私たちの他人に対する姿勢は哀れみ深いべきです。
私は御父との現実の交わりをほとんどないことを知る、それら多くの神の信愛する子供たちを説得します。
それはただ不正な思いを胸に抱くからです。
現実に、もしくは想像しますがその者は赦されません。
「何て言う事だろう!」と誰かが叫ぶかもしれません。
もし彼がどれくらいひどく私を傷つけたかあなたが知れば、あなたは私が彼を赦すことが出来ないことに驚くはしないでしょう。
もし彼が私についてそんなに悪く話さずに、またそんなに悪いことをしないのであれば赦すのが簡単です。
しかし、罪はなんと恐ろしいことでしょうか
完全な恵みの子供のためには、なんとこれは馬鹿げた奇妙なことなのではないでしょうか!
どうしてでしょうか、もしあなたが悪くなければ、赦すどんな根拠もありません。
あなたが罪を犯されたので、あなたが犯罪者に神の恵みを示すために要求されることがあるのです。
おそらく、私たちはこの問題の別の側面についてもっと考えるべきです。
私は悪を行った人でしょうか?
そして、私は悔い改めることを拒否しているのでしょうか?
その時、私は赦しを期待するどんな権利も持っていません。そして、私の御父自身が私が心の底から「私は、悔い改めます。」と言うまで赦すことはないのです。
いいえそれは違います、私が神に与えたものは神を傷つけることでした。
それは神が私が悔い改めるまで交わりと称賛を私が試みることを受け取ることができないのです。
「救い主は言いました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」」
新改訳聖書 マタイによる福音書 5章23〜24節
これは、すべての時代(神の秩序)において不変の原則であり、いまだに何度も無視されていることです。
神の聖徒の集まりの多くで、同朋もいれば、姉妹たちもいます。そして、長い間にお互いの仲が悪くなりました。
罪は年老いても決して死なないことを忘れました。
彼らは長年にわたって行われた無知な不正を探しました。
それぞれ他人の方へ、神の方へと罪と罪過が告白されていないので、お互いにキリストを忘れた姿勢で自分自身を弁護しました。
彼らは神の祭壇へ異なった火を捧げ、神は神の家で彼らが捧げる礼拝と神の奉仕のために外見は与えられる金銭を受け取ります。
しかし、神はどれをも持ちません。
神にとってはすべての憎悪であります。
神はは重大な不正を見るより純粋な目で見ます。
彼の近くに来る者は聖別されるでしょう。
イエスは言います。「「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 9章13節
その時、不正は正しくされます。
罪が告白される時、
悔い改めの涙が礼儀正しく口の賛美に代わる時、神は神の祭壇、そして与える捧げ物を受け入れます。
「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」
新改訳聖書 イザヤ書 61章3節
私たちは回復の必要について話します、私たちは回復を歌にします、私たちは回復を祈ります。
しかし、天では私たちの頭のようにいい加減であってはいけません。
私達が、もし償うことを喜んでするのなら、回復と祝福している明日を持つことができます。
「ゆえに、熱心に悔い改めてください。」
実際的に別の例証すると、記述された回復について私についての目と耳で確認される十分に証明される話です。
恐らく、それは教訓的に教えられたので、それ以上のことを試みることよりもはっきりと、私たちに主張されたのです。
集まりにおいては無名であるべきです。なぜならいくつかの人たちが今でも霊的な飢えと不足がそこに長い期間住んでいることを述べているからです。
数年前に教会は偉大な目ざめの時はそこで生まれました。。
その時、神の聖霊は力強く働き、数百の悔い改めをもたらし、神にある平和を見つけました。
聖霊の愛の中に一緒に結び付けられ、その者たちはその地区全体で生まれた多くの実を持つことにより、証明される集まりでした。
宣教師は隣接した地域に、そして十分に遠い場所に福音を運ぶために炎の心と炎の舌で彼らの中から出て行てゆき、福音を語りました。
しかし、すべては遠い昔のことです。
教会の堕落された場所を嘆き悲しんだ小さい集まりは神の前に叫び、時には、神に渇いた伝統に活力を与えてほしいと懇願することを必要としていました。
そして、その者たちを除いて、ただ同じ人々が規則的に行われた集会へ参加するだけで、すべては形式的で命がありませんでした。
しかし、それから、疑いもなく彼らの祈りに答えられたのです。
回復(リバイバル)の真実の霊がいつも不在だったことはすぐに明白になったとしても、遠まわしに「回復のための礼拝」と呼ばれることのために忠実な二人の神の人が彼らの真中に来たのです。
それにもかかわらず、わずか3週間の間、群衆はもっとも大きな建物に群がったのです。そこでは心から歌ったり、はっきりと説得力のある説教がされました。
それでも、福音主義者が神との和解を人に弁明し、忠実にキリストに失うものに打ち勝とうと努力しましたが、そこにはっきりとした改心はありませんでした。
ついには、どうしようもない状態になり、精神的に圧迫されて、これから先、これ以上の説教が出来ないと述べられました。
しかし、そのかわりにその日、断食と祈りが行われました。
他人と交わるためには、必要に応じて神御自身が、彼らにある妨害と隔たりを明らかにしました。
神には不可能はないということ知った、その日の礼拝について述べてみましょう。
個人的なの告白と神に向かって叫ぶ多くの方法が、堕落された聖徒とキリストを信じない者の目覚めの回復の中で神の手を明らかにするのです。
その夜集会で、建物は混雑していました、
しかし、どんな挨拶もありませんでした。
次々と祈ってゆきます。
何人かは霊にあってひどく苦しんでいました。神の力がその中にあるからです。
突然、厳粛な沈黙の終わりを告げ、大きな泣き声によって壊れられました。
そして、実力者、教会の長老は彼の足元に登り、「同胞よ!」と彼は叫びました、「私が祝福を妨げていたのです。私はこの集まりの中でつまづきの石です。」
その時、彼は長い間、一時は彼の親友であった仲間の長老に対して、彼がその心の中に胸に抱いた悪意と憎悪を持ったことを率直に告白したのです。
彼は主張したわずかな土地を騙し取られたとする所有地の境界線に関する議論がそこには存在してました。
口論は苦さの増大に導きました。
争いは何ヶ月にも及び、最後に問題が法廷の中に置かれた時、それは兄弟に対しての憎悪で満ちたの心で彼のもとから去りました。
建物の前をつかつかと歩き、彼は自分の手をこの男に提示しました。同様に彼のの足元に上り、涙ながらに、あなたよりむしろ私が悪い者ですと断言しました。
彼らは一緒に話者の演壇の足元に進んで、彼らの罪を告白して、お互いを赦し合い、お互いのひざの上に倒れました。
おびただしい群衆に対する効果は驚異的でした。
それは、その町での恵みの強い働きの始まり、良き結果がその後、何年も認められました。
深い確信の下に多くの者が存在していました。しかし、価値のないこれらの2人の指導者の行為によってつまずき、残った者たちの面前ですぐに加わるべき実例となりました。
そして、広大なホールは悔い改めた人の叫び声が響き、導かれた人たちの喜ばしい歌は神の救いで喜びました。
二人の人のためにとても長い間、他の方法に立ち、彼らの命は不毛であり、新しい回復の経験は実がならず、そして、有益な彼らの昔の霊的な熱情が帰って来ました。
これはどんな想像上の話ではなく、私は説得され、多くの場所では同様なのでしょう。
もし、お互いに、神によって取り扱われ、まったく正直であるなら、さらに優れた祝福があります。
たびたび、私が議論される問題を聞いたことを持ってください、
主の再臨の前に偉大な世界的な別の回復の可能性があるでしょうか?
いくつか私達は終わりの時代があまりに近いことを主張し、あらゆる種類の出来事を予想します。
彼らがそれを指摘するので、他の人はよりのんきです。
それは、私たちの主イエスキリストと私たちの彼とともにある集められる事が来る前に、1人の最後の力強い彼の恵みの証人を与え、神の哀れみによって維持されるでしょう。
つまり、結局のところ、私たちは世界的な回復に関して賛否を議論する必要性がありません。
私たちは私たち自身の個々の命の中、そして私たちの地方の集まりでの回復についてむしろ関わるべきです。
そして確かに、これを探し求めることは決して遅くはありません。
神はこれまで悔い改めている心の叫び声を聞いて、祝福のシャワーを与えるのを待っています。そこでは、神の言葉に従う必要と準備が認められるのです。
障害は私たちの側に全てあります。けして神ではありません。
私たちはとても信じられないほど素晴らしく、とても自己満足に、とてもわずかに神の側において、私たちの真実の状態について働いているのです。
哀願者たちは詩篇作者ともに叫び悔い改めたようには、私たちは神のところへ行かないべきです。
「あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。?」
新改訳聖書 詩篇 85章6節
その時、すべて知られている罪は告白され、裁かれるようにと、すべての疑いとともに投げられるのです。
私たちは、言葉の真実を証しします。
「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」
新改訳聖書 ネヘミヤ書 8章10節
そして、このように私たちは彼を喜び、そして、彼は私たちにあって喜びます。
私たちは彼の親愛を他の人に推薦して、神の足元に導かれた貧しい罪人に付け加えられた喜びを持つのです。
「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」
新改訳聖書 哀歌 3章40節
神は哀れみ深く待っています。
たとえ、私たちが戻ってあらゆるものも持ったとしても、私たちは神から神のものを合法的に奪い取ります。
イエスは言っています。
「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・
すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。」
新改訳聖書 マラキ書 3章10〜12節
なんと、イスラエルのために文字通り成就します。
彼らが最後に彼の状態に会う時に、もし、私たちに神に神の正しい立場を与えていないなら、私達はその場に霊的に加わるでしょう。
そして、彼のサーチングライトが、それを私たちに明らかにするので、私たちの心と命にあるあらゆる邪悪な事が、固く確実に取り扱われるのです。
第14章−望みのない悔い改め
ユダの悲劇は、間違いなく人間の罪と背信の物語であり、これまでに記録された最も悲しいものです。
彼の教えを聞いて、彼が働いた力の働きを見て、彼の命の神の力による完全な聖めをよく見て、その者が3年以上イエスの親密な友人、弟子として選ばれた仲間でだったのです。
それなのに、信じられないと思われますがイエスの裏切り者になったのです。
だが、それらの記録は神の神聖な言葉の中に立ち、それは永遠に刻まれています。
「ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」
新約聖書 使徒による働き 1章25節
彼がケリオテの人間であったこと以外に私たちにはユダの若い日について何事も知らされていません。
イスカリオテの意味は本当はこれなのです。
ケリオテは、ハゾルの近くに位置するユダヤの都市でした。
特にガラテヤの残りの十二人のようではなかったので私たちはこのことから学ぶことができます。
彼はユダヤ人であって、北の漁師と村人の雑多な群れと彼とともに使徒の集まりが構成されたこと以上に、たぶん文化と洗練された尺度を持っていたでしょう。
他の人の様に、悔い改めてバプテストのメッセージに答えることが神の要求される服従の最初に認められる行為でした。
バプテスマのヨハネによって洗礼を施されて、収税人と罪人が神を証しした時、ユダは彼らの間で自分の居場所を得ました。
彼は裁きの神的な川に降りて、自分自身が悔いている罪人と認め、イスラエルの贖いをすぐに見つけることを教え、意味した儀式に従いました。
私たちには判ることの出来ませんが、ユダの生活において、なんとユダの隠れた考えが、本当に真剣に彼の危機を招いたのです。
しかし、私たちはユダの役職が空いたために、ペテロが空いた役職を指名することを要求した時に、ヨハネの弟子として始めた時の事を思い出させました。
「ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
新約聖書 使徒による働き 1章21〜22節
ユダについてのいろんな推測がありますが、必要な推測は使徒自身がすでに答えていて、使徒たちはヨハネのバプテスマから彼の恐ろしい裏切りまですでに知っていたことです。
私たちは、十二人の中の一人である彼の召しについて詳しいことは少しも判りませんが、これと同じく真実な仲間の数人の他の者がいます。
実際、ただアンドレとペテロ 、ヨハネ とユダ、ピリピとナタナエルと収税人のマタイの場合だけ、どのように彼らが選ばれ、群れに数え入れられるようになったか直接の情報が与えられています。
それは十二人のリストはそれぞれの福音書の中で注目されています。
(マタイによる福音書 10章2〜4節、マルコによる福音書 3章14〜19節 ルカによる福音書 6章13〜16節)
彼の名前は最後にあります。そしてそれぞれの場合注意することは「イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。」という言葉が加えられていて、ルカは「イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである」とはっきり言っています。
なんと恐ろしい職務が彼の永遠のために準備されていたのではないのでしょうか。ユダの不正が知られる前に、彼は他の者によってこのように評価されていたのです。
単に、ユダが巡回する伝道者のこの小さい群れの会計係であったと言うことは非常に必要な事です。このことは毎日のパンのためのメッセージに応じた人たちの恩恵に依存しています。
彼は「金入れを預かっていました」、そしてヨハネは私たちに話しています。
彼は「その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」と言っています
この言葉は彼が共用の資金の一部を着服していたことを意味します。
それなのに彼は信頼されていましたが、それ以上にイエスは人間の中にあるすべてことを知っていました。
イエスには、人間の証言を必要としていません。
ユダが悪を行った時代をイエスはじっと耐えました。その時ゲハジのように、ユダは証拠を包み隠さていると思いました。
それだけでなくユダは使徒たちの会計係をしており、特に彼は配給係の尊敬すべき地位を持っていました。
それは彼が貧しい者に職務を任命されたからです。
機会を狙って、イエスが弟子たちと一緒の最後の過ぎ越しの祭りを食べている時、ユダの言葉を求め、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」とユダが現実に言及したことを疑ってはいません。
裏切り者が夜遅くに出て行ったので、弟子たちはユダが主の命令で「貧しい人々に何か施しをするように言われた」と考えました。
ユダが十二人の中の一人として出て行った時、どの程度彼は誠実だったでしょうか。
彼らは人間が悔い改めなければならないことを説教し、王の現れを準備していました。
私たちは彼が言うことを模索することはできません。そのことは私たちには何の役も立たないことです。
その時、ユダは残りの者とともに大喜びして宣言しました。「悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
習得者が悪霊どもに命じた時、彼は疑い、もしくは身震いしましたがこのためには喜んではいません。
むしろ彼らの名が天に記されたことほうが、実際には素晴らしいことなのです。
ド・クィンシー、マリエ・コルレリ、そして他の文学者たちはユダを弁護することを確立しようと努めました。さらに好意でしたが、失望している英雄を作ろうと試みさえした。
彼らはさらに進み裏切りをほのめかすました。
全ての後、裏切りの明確な行為でないとしました。
しかし、単に悪く考えていても、善意の努力だとしても、イエスが定めた道を約束された出来事のために生きていた人なのです。
イスカリオテは正直に信じたとしても、彼の謙遜と優柔不断が彼をゆっくりと捕らました。
それはイエス御自身の知恵と従順に対して意義を問い掛けているので、このような推理は不合理で冒涜に近いです。
そしてイエスは常に父の喜びであり、いつも父を満足させるそれらのことを行っていました。
ユダはキリストのための真実の愛を決して持つことはありませんでした。
非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼの出来事は完全にそれを明らかにしています。
マリアにとって、何がイエスのためよい事なのかわかりませんでした。それで彼女は女性の宝である「非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼ」を取って、それを壊して、そしてイエスの頭に注ぎました。それはイエスの埋葬のために彼女の信仰の深い感謝だとイエスは言いました。
それは多分、彼女がイエスの足元に座る間に学んだことなのです。
しかし、ユダにとって、そして多かれ少なかれ彼によって影響を与えられた他の人たちにとっては、これは明らかに完全な無駄遣いでした。
彼の冷静な計算では香油がもし売られるしたなら300デナリをもたらしたでしょう。
それはローマ人兵士、もしくは平凡に人間が働いた一年間の賃金です。
抜け目なく、それがもし貧しい人たちに与えられたなら、たくさんの人間の窮乏を和らげるかもしれないと言った時、ユダはイエスのために無駄にされるとほのめかしたのです。
ユダは実に自分の終わりのために非常に大きな金額を得るその消費方法を計算していました。
このような人間は、下心がある不正な聖職者の手にある手見近な道具でなることがわかります。
ユダのうずうずしている手のひらは、ユダが30枚の銀のために、彼らの手に主を売ることを簡単に同意してしまいます。
ユダはこのことに関してゼカリヤの預言を思い出したでしょうか、それは欲深さによって盲目になっているか、非常に感覚がなくなっているからです。
もし、ユダがいままで預言者たちを知っているのであれば、預言者たちの言葉は彼の記憶から出ているのです。
特に、さらにユダが詩篇において確かな預言的な一節を果たしました。ユダは恐らく無意識にこれらを成し遂げたのです。
「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 13章18節
すべての者がテーブルの周りに集められた時、ユダの完ぺきな自己制御と個性の隠しきれない変化の欠如していることに注意してください。
そして、イエスは彼らの仲間のうちの一人は、イエスを裏切らなければなりませんことを彼らに知らせました。
ユダが冷たく尋ねられて、「先生。まさか私のことではないでしょう。」と答えました。
そこには、咎める良心のどんな気配もありません。
さらに主は従来通り動かされることなく、ユダにわいろと恵みへの選択項目を与えるように仕向けたのです。
ユダはその愛の祝宴から立ち上がって、そして外に出て行きました?そしてそれは夜でした。
それだけでなく肉のままの性質において夜でした。
それは暗いのです。
ユダの魂の暗い夜です。
今後永久に安らぐことはありません。
ユダは永遠に背中を光の方へ向けるのです。
サタンは、確かに彼に入ったのです。
ユダは不従順の子において精力的に働く霊の支配下でした。
キリストの言葉は意味を含んでいます。
「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 6章70節
それは、はっきりした1つの方法は神に自分自身を明渡して、そして聖霊によって満たされ、そして支配されることも出来、もう一つの方法は暗闇の権威に自分自身を委ねて悪魔自身制御されることも出来るのです。
このようなことはユダとともにありました。
それはこのようにユダといっしょでした。
ユダがかつて知っていた良心のあらゆる咎めも今終わりました。
ユダの胸の中にいままでに保たれた支配された心にある、イエスのためのあらゆる誠意ある敬意も、今、永遠に息が止められました。
彼がこれまでに体験したどんなにか優しい心も、今極めて頑固な心に変えられました。
彼は最も完全な感覚で罪の下で売られました。
すべてその恐ろしい計画に彼のよこしまな陰謀が実行されるまで、今ユダのために引き返すことがなかったのです。
策略的な祭司から金を受け取ること、
暴徒をゲッセマネの陰へ案内すること、
厚かましく、大胆に前で叫び歩いてイエスに導きました。
「先生。お元気で。」
彼が偽善的な口づけをイエスの頬にしっかりしたのです?
これらがすべて語る無感覚な良心を持った心は、不正な行いの中で頑なになりました。
さらにユダに、目ざめが最後に来たのです。
その時、イエスを虐待し、強く責めている彼らを許した救い主がどのくらい従順なのかを見ました。ユダの感覚は揺れ動いたのです。
それにもかかわらず、神に帰ることはなく、自分の犯した誤りを悔やんだのです。
私はマタイ自身に語った物語よりもうまく語ることは出来ません。
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。
新約聖書 マタイによる福音書 27章3〜8節
ユダは悔い改めたのですが、彼は赦されていません、そして彼は結局、祝福の場所を見つけることがなく、さらに彼が絶望して自殺してたのです。
私たちの主の言葉は、このようなどんな結末も赦していません。
その時、イエスが公にユダについて話しました。「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
これは、別の世界で彼には救いのどんな可能性をも否定しています。
ユダの罪の意識の無法さにもかかわらず、彼がこれまでにパラダイスの喜びに達していたのなら、生まれる来たことは彼の喜びだったでしょう。
現実に、聖霊は神の細心の思いとで言葉を選び出しています。
ここに私たちが考えている「悔い改め」とは全く違う言葉が使用されています。
それはmetanoia(考えを変える)ではなく、metamellornai(関心を変える)なのであり、罪と自分と神の方への新しい態度を伴うところの考えの変化ではありません。
しかし、後になって気が付いてみると、悔い改める(遺憾を表す)こと、もしくは良心が咎めめることになるのです。
もっとも凶悪な犯罪者である投獄された何千もの囚人はこのより低い意識で悔い改めるのです。
彼らが今、律法の罰則を従って違反を犯していなかったなら、彼らは多くを受け取ったでしょう。
けれども、彼らは神に今まで屈服したこともなかったし、神に罪を告白もしませんでした。
ユダと同様です。
彼は、冷淡な祭司に自分の愚行と不正を認めましたが、祭司は軽蔑して返事をしました。「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」
そしてその時、祭司たちは彼らの足元に投げられた「汚れたお金」の使い方は非常に形式的に正しかったのです。
けれど、ユダは彼の罪に関連している神による1つの言葉、もしくは、命への悔い改めの1つの証拠のないままで、永遠に進んだのです。
自分を責める思いは、神の方への悔い改めではありません。
それは、赦しも罪の減免ももたらしません。
それが、主の言葉の絶える事ない拒絶の道の恐ろしい結果あり、それが永遠に失われたチャンスに対する激しい悲しみと軽蔑される恵みの苦悩において、魂を去るとき良心のどんな変化も働きもなく、永遠に清められることなく残されるのです。
それがユダの歴史と関連しており、私たちのために重要になってくるのです。
それは、神の真実と恵みにあって、不正をする全ての者への神の警告信号なのです。
神の啓示に対して無責任な行動をとることは致命的です。
その恐ろしい結果が永遠に留まるのです。
受け入れやすく気軽な哲学があります。
今日の流行の多くが「人間は死後、悔い改めて汚れが取り除るという希望を与えられる。」というものです。
人生の終わりの時が、彼らに来ようとしている裁きを述べても、問題にさえしてくれません。
しかしユダの場合、この全ての答えが否定しています。
ユダとの何年にも及ぶ親密な付き合いの中での彼が神の子の唇からこれまでに聞いた何事も、後悔している裏切り者に希望の一筋の光を与えませんでした。その時彼は最後に彼の行った恐ろしい間違いの何か恐ろしいことに気づき始めていたのです。
彼の悲惨な絶望においても、ユダは神に戻って来ませんでした。神からより遠く離れようとして、急いで世から自殺して出てゆきました。
いくらか、彼らが階上の部屋でペテロによって与えられたユダの死と、マタイの報告との相違点を見つけたことを気がします。
しかし、この2節は簡単に結びつきます。
ユダは、首を吊りました、
恐らく、とても小さな区画の土地が銀30片で祭司によって購入されたのでしょう。
木の大枝からぶら下がったロープがおそらく、外れて結ばれたとユダは地面に落ちました。
彼の腹部を裂けて、その結果「はらわたが全部飛び出してしまった。」のです。
恐ろしい場面を描くことは簡単なことです。
十二人と一緒に数えられた人のなんという人生の終わりでしょうか。
けれど、なんという終わりない永遠の叫びへの口では言えないほど恐ろしい挿入でしょうか!
今日、ユダはどこにいますか。
彼が時代を通して存在しています。
ユダが裏切った者の顔、イエスが死んだ十字架の風景を見ることはけしてありませんでした。
しかし、記憶は彼の魂を清くしません。
悔い改めの犠牲によって、永遠が過ぎてゆくのでますます痛烈にならなければなりません。
けれど、彼のとてつもない愚行によって自分自身を巻き込んだ不幸のによる、間違った意識の上で神は何も行いません。彼は今までこの基礎によるもので望みを失った悔い改めです。
バイロンは書きました。
「放浪者が、永遠の海の上にいます。
放浪者の船が航海を続けるます。
そして、決して錨をおろしことはありません。」
イスカリオテでないユダがこのように述べています。
「自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。」
新約聖書 ユダの手紙 1章13節
恵みがただで提供され悔い改めることが定められている間に、悔い改めにあって神に立ち返ることを拒否する者たちは、すべての希望を逃してしまいました。
彼らは永遠に彼らの乗るべき軌道から外れた星のようになるでしょう。
正しくの太陽のまわりで回るように創造された彼らは自分の意志の接線の上には存在していないのです。
そして、キリストの愛の強制する力が外の暗闇の中に深く深く投げ込もうとするのです。
彼らが拒んだものからより遠く、今まで進んできました。そしてその人の慈悲を彼らは拒んだのです。
それは、切迫した描写であります。
神はこのように言うでしょう
神は罪を軽くあしらう人間は持ちないと、しかし神の願いはすべての者が神に立ち返り、生きることなのです。
それは、私たちが前に何を見たかについて直面し私たちにもたらし、その特徴が永遠性の傾向があるのです。
たとえ、彼らの行動が苦悩と悲哀を引き起こすと認識するとしても、人間は変わりたいというすべての願望を失い、非常に確定した道に慣れています。
地獄自身は最後には自分自身で選ぶ状態であり、永遠にそうなのです。
彼ら自身の意志によって、彼らは幸福と祝福するの社会に不適当にします。
さらに、彼らは新しい命が分け与えられる機会を拒絶しました。
第二の誕生による性質は神に適しています。
彼らは神の社会にある家にいるからです。
そして、そこには彼らの前には何もありませんがこのように書かれています。
「そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。」
新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1章9〜10節
神が愛であること、彼が罪人の死望まないことは真実です。しかし、すべてにおいてそうではないのです。神に立ち返り、そして命を得てください。
それは等しく真実で、神は光です。
そして、裁かれずにいない、告白されていない罪は彼の栄光の炎を耐えることができません、
しかし、それ自身が暗さ段階を捜さなければなりません。
失われた者について書かれています。「彼らは永遠の刑罰に入るでしょう。」
その意識の中では「部分的には彼らの自から裁きを選んだこと」を意味します。
光に留まる事が不向きな吸血コウモリと夜の他の悪い被造物の様に、アルタモントの異教徒の様に彼らは神からの隠れ場所を探します。
それは、その時滅びかけていて、叫んでいたと報告される者でした。「あなたは不敬な者です。それなのに神は寛大なのです。地獄自身が隠れ家です。もし、私があなたの顔からおおい隠すとしても。」
人間は罪を犯すことができます、ホイッティアが非常に適切なことを言っています。「彼らは立ち返る意思がありません。」
彼らのためには、終りがない悔い改めがあるのです。
しかし、、神の側には、真実の悔い改めがないのです。
したがって、今後、永遠に希望がないのです
第15章−町全体の悔い改め
悔い改めがはっきりと独立した働きであるであるい一方、私たちはいまだに神の言葉を必要としています。
それは、私たちがすでに見てきたように教会は悔い改めの上に建てられています。
そして、私たちはマタイによる福音書12章41節、そして、ルカによる福音書11章32節の主の御言葉から学ぶことができます。
それは町の悔い改めです。
「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」
新改訳聖書 マタイによる福音書12章41節
これはものすごいことを暗示していています。 そこでは、神に立ち返らせるために、キリストは多くの驚くべき奇跡を行い、それらの町はキリストに対して多くの失敗をしたのです。
イエスは宣言しました。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。」
新改訳聖書 ルカによる福音書10章13節
この一節は、シャロットブロンテと彼女の才能のある姉妹の過敏な魂に、知恵と無秩序によって、大変な悩みを引き起こしました。
もし、ツロとシドンがこのような状況の下で悔い改めるなら、なぜ、愛なる神は、その不信仰ゆえの破壊から救われるために、同じような証しを与えなかったのでしょうか?
もちろん、そこに答えがあります。
これらの古代の町の人間は、男女問わず、最後には裁かれます。単に光を拒絶したからです。
それは彼らが神の知識を土台として歩まず、また、その知識を持っていないからです。
しかし、私達は神の見解において、聖書から、町には責任があり、実在したことを学びました。
これらの町が神の言葉に従い、神の真理の中を歩み責任があると神が考えているからです。
キリストの伝道者がどのくらいここで働いていたのかが問題に上がってきますが、大事なことは、彼らがここで働く町の罪について彼ら自身が心配すべきでということです。
そして、彼らはその時代の悪に反抗して、どのくらい大きな声を上げればよいでしょうか?
神はその時、権威ある者としてに、忍耐されたのです。
多くの説教者が、福音を解き明かすことに、そして罪人に悔い改めを呼びかけることに自分自身を閉じ込めてしまうことが、神の僕である基本と考えています。
しかし、主は主自身の方法と時で、その町の不義を取り扱うのです。
社会を正しく導くことが範囲外、もしくはその力のないことを、牧師と福音主義者たちが主張することが最高のことだと考えています。
それでも、悪と結びついたこれらの時代と世代にあって、国家的な、そして市民的な事件にあって頑固として悪に反抗して、あるキリストの名誉ある僕たちの努力によって、神は驚くべき方法によって、確かに時代に記されているのです。
サボナローラのフィレンツェ、ジュネーブのカルバン、エルフルトのルター、エジンバラのノックス、ロンドンとすべてのイングランドのウエズレー、そして、彼らが生きた時代の重大な不正に断固として反対した同じ心の人の群によって、義のために発揮された影響について考えて見てください。
それには「よこしまな人々は逃げます、その時だれも追跡しません」と書かれています。
しかし、私たちはH・パーク・ハースト博士をよく知っています。
特別な罪の恐れを、彼は主張していました。
彼は元気よく叫びました。
「しかし、義が彼らを追いかける時、彼らはより速く進むのです。」
昔の預言者は、イスラエルの邪悪な行いを自覚することを呼びかけるために、そして神を知る準備を勧めるために、町と民族と国家の上に、彼らは神によって置かれたのです。
私たちが解かっているように、救い主はこのように町の中で働かれました。
そして、イエスの悔い改めないエルサレムの嘆きほど悲しいものは他にはありません。
「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
言われた。おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
新改訳聖書 ルカによる福音書19章41〜44節
マタイによる福音書23章37〜39節に記録されているイエスの熱のこもった叫び声と結びつけてください。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
新改訳聖書 マタイによる福音書23章37〜39節
イエスのこの町の状態を理解することなしに、この一節をはっきりと読むことができなかったはずです。
それは個人的な救いを必要としているだけではなく、交わりのある集まりとして、イエスは人々を慕いました。
それは、もし彼らが神の御言葉を聞き、悔い改めるだけでなく、地上を祝福するからです。
私たちの多く者にとって、ニネベの悔い改めの物語は、ヨナと海の怪物の奇跡のよりはるかに素晴らしいはずです。
他で聞いたことがないので、後者の方が人々にとって興味を引きます。
しかし、それは逆に一般的な人間の知識としては信じがたいことです。
もう一方、ニネベの物語は、私たちにとって、すべての人間の歴史の中で、神の類のない偉大さを見つけることができます。
ニネベの場合のように、私たちは喜んで悔い改めた町を愛するでしょうか?
もし、それが神の言葉で書かれていなければ、私たちの主御自身によって非常にはっきりと確証付けられなければなりません。(さらにヨナの経験の場合には)私たちはそれを信用することにためらうでしょう。
しかし、聖書のページに厳粛に記録されました。
このおびただしい記録は、神はもはや寛大に扱うことができなく、このようにすべての者を生まれつきの性質にある不信心と不正に引き渡されました。
そして、すぐに来ようとしている滅びを知らせるために預言者を送り出したのです。
平地の町の場合、その悪臭は天に届きました。
神は、地上からニネベを抹消するでしょう。
けれども主の言葉は、彼らが単に自分自身を認めて悔い改めてゆくだけではなく、納得がいくように国王と議会一人一人の心の家に帰っていったのです。
それでも、神はすべての町に同じことを行うと呼びかけました。
しかし、その結果は、信仰の回復においてこの史上に例を見ません。
市民全体は、主の前で荒布と灰の中に打ち倒され、彼らの罪と哀れみを求める声で嘆きました。
そして、その結果、神は聞かれ、彼らは許されたでしょうか?
多くのヨナの嫌気に...
ヨナは民全体のための救いよりも、彼の預言者としての名声により関わりがあるのです。
おそらく、イタリア、サボナローラとフローレンスの物語の世俗的な歴史がこのことにもっとも近いことでしょう。
熱のこもった修道士は、好色と放縦とフィレンツェ人の神を信じないおごりに最も深い関心を向けました。
彼は町に対して痛烈に非難し、もしどんな悔い改めもないのなら、天からの恐ろしい裁きが来ることで脅迫をして、一斉にすべての民衆を動かしたのです。
主に、聖書の最後の厳粛な個所からメッセージを導き、彼は黙示録を毎月毎月、デェオノの場所で解説するように説教しました。
そこで描かれている裁きの恐ろしい情景、人々が不正な行動を繰り返し、進路を変えない限りフィレンツェ人とすべてのイタリア人に彼らの罪が満たされようとしていることを宣言したのです。
貴族、商人と労働者は同様に神の言葉と神の召しの力を感じ、彼らに金の宝をもたらしました。
売るために、もしくは、貧しい者と貧しい者への救援のために配られるように、宝石、そして、芸術品、そして、神の足元である公共の広場にそれらは積まれました。
罪と神の許しを求めを告白し、罪を悔いている嘆願者で教会は混雑しました。
少なくとも一時は、町は大規模に、その不法から一掃されました、そして、人々は彼らの生活の中で、地の欲望と喜びの中に生きる代わりに彼らの財産で、神を誉め称える責任を認識したのです。
サボナローラは、堕落した聖職者に対する憎しみのために、最後に火刑で殺されたのは真実です。
それは主のバプテスマを共有し、主の悲しみの限りを共にすることでした。
サボナローラは疑う余地がなく、彼の世代にあって最もクリスチャン的な人でした。
そして、サボナローラの先生が、サボナローラが真実の証人であったので苦しみ、ゆえにサボナローラも苦しんだのです。
サボナローラの持っていた言葉は本当に預言的でした。
「クリスチャンの生活は、善を行って悪に苦しむ本質があります。」
サボナローラを苦痛に定めた時代が過ぎた後の教会では、その実に優れた使徒の一人としてサボナローラに敬意を表しました。
昔のイスラエルの様に、父は彼を殺し、子供は彼の墓を建てます。
それがいままでのこの変わりやすい世界なのです。
ジュネーブのカルバンの外見的の悔い改めは、もう一つの言葉の力の勧めが記されています?
その時、市民の生活の影響を与えるために、信仰に満ちていたと宣言していましたか?
不幸にも、多くの旧約聖書個所に適用され、すべてが律法的に扱われました。そして大部分の人たちが、現実にすべてのことにふさわしかったのです。
カルビンはびっくりするような失敗をいくつも犯したのです。
セルベトゥスの時のように、彼は世から忘れられるようなことはありませんでした。
世界は彼の決して許しません。
しかし、彼の影響力が完全に義と真実の側にあり、このために彼は永遠に覚えられ、永遠に星のように輝いています。
マコーレーはメソジスト派のリバイバルが無政府状態と革命の恐怖から、イギリスを救ったと宣言しました。
それでも、ウエズレー(メソジスト)は、福音説教と悔い改めのための罪人への呼びかけという、偉大な働きをしたのです。
そのメッセージは、彼らの熱心さによって、ロンドンと英国の他の大都市を奮起させました。
そして、実際に十分な神への改心の結果がないところでさえ、神は現在の邪悪さを恥じる人たちを作り、教会と政府にあって彼らを赦し、国家の修復に結びつき、無数の数えきれない祝福に至りました。
ジョナサンエドワーズの明快な悔い改めへの呼びかけと、神にある信仰は、今考えらえているよりも、多くの活発なアメリカの力を生じませました。
彼は人間の心の中に主の恐れを置き、そして、これは主に共和国の父の特徴を形作りました。
国家間の恐ろしい戦争の後、D.L.ムーディの声は、国中で、そして、海に渡って聞かれ、刺激し、励まし、大事に守った命のすべてを失った何千という者に霊的な救いをもたらしています。
シカゴの報告は最も際立っており、もっとも市民がこの時代にあって評価しています。彼の影響力は大都市において素晴らしくただ驚くべきものです。
そして、彼の声は死において静まり返りましたが、それから後の時代に認められ、「彼は死んでからも語り」、そして彼の影響力は今日に至っても、生きている時よりも偉大なものとなったのいるのです。
彼の気に入っている教科書は「神のみこころの行いは永遠にとどまる」とあり、彼が死んでからその真実はますます明らかになりました。
これらの人たちを注意深く見ていると、有名なリストに加えられようとする名前以外にも多くの者がいます。
政治的な口論を混ぜるような事はせずに、恐れずに、そして、しつこく罪を非難し、人間に悔い改めを命じ、また、死後に裁きに直面すること、イエスキリストを誉め称えられる唯一の救世主であることについて聖書を忠実に説教して、力の働きをしました。
そして、イエスを公に慕う、すべての者のためにはこれらことは最高の実例となりました。
そして、見た目の形式と儀式の主張は、神の怒りを満足させることは出来ません。
そこには真実の自己審判がなければなりません。
完全に神に仕えるために、偶像から神へ立ち返り、天から神の御子が来るのを待つのです。
このように納得のいくメッセージは、市民の関係において生活と浄化に改善の結果を作り出します。
その時、良心に結ばれ、そしてみこころは恵みによって心奪われます。主に立ち返り、神と心の決意はくっつきます。
すべての他の望ましい結果は、すぐに彼ら自身が明らかにします。
すべての土地のすべての町において何が必要なのか、単に新しい事ですか、それとも町的な改善ですか?
しかし義のメッセージは神の言葉を宣言し、叫びます「このように主は聖なるお方です」恐れやえこひいきなどありません。
キリストの十字架の光にあってその時代の問題を忠実に取り扱います。
長い間、聖職者は、金持ちたちの献金がなくならないようにし、その悪が暴露するのを恐れていました。それは酒の販売にかかわることで、憎悪と堕落の恐怖の働きが、無慈悲にも利用されていました。
そのことに対して、はっきりと悪に対して恐れ、叫び、また容赦などありませんでした。
彼らが怒らないように、おそらく、直接的に、もしくは間接的に、彼らの収入の一部分ですが、何人かの者がその多くの収入源として引き出しました。
世は、単にその者たちを軽蔑し、実際に、外見の効果の貧しさを保護するために傲慢さで試み、良心も無く、へつらっている者と見なしました。
彼らは裕福な者にごまをする者です。
聖職者の扇動する違う者たちの手によって、露骨に、巻き込まれた社会の修復ために、神を否定する計画を主張します。
もし、成功したのならすぐに神の教会自身が崩壊します。それは卑劣なことです。
大抵これらの人は救われてはいません。
さらに彼らは再び生まれるふりもしません。
彼らの場所は、もしどこかにあるのなら、それは演説台です。教会の説教台ではありません。
彼らは自分の発言によって堕落しているのです。
それは私たちの時代に、多くの教会にあって、驚くべきしるしの一つです。
社会が単にいい加減になったために、現在の不満が覆されてため、共産主義的な宣伝と同様に非聖書的な考えが多くの教会において語れています。
しかし、そこには慰めはありません。
そのことは私たちの時代において驚くべきしるしです。
共産主義者たちは、彼らの胸の中にある毒に隠れ、これら十字架の敵に育てられ、公然と神に、キリストに、教会に敵対しているのです。
もし、彼らを激しく扱わないのであれば、最後に死に渡すためにとげを指されるだけなのです。
本当のクリスチャンとは真実な友であり、その人は働く人を常に知っています。
そのことは常に喜びを提供し、それは単に命においてのみ起こることではありません。
しかし、それは命において来るものなのです。
これらの富を使う金持ちに同朋を祝福し、満ち足りることと平和の道に貧しい者を案内することを熱心に勧めます。
受け取られた福音は、世が今まで見た唯一の現実の同朋を作り出します。
人の心を動かす、彼の口先だけの理論がいかに力が無いのかが分かり、失望したトルストイは、悲しく叫びました。「私は兄弟がなくて決して兄弟愛がないことを理解しました」と。
これは私たちのキリストを信じない多くの社会改善者が決して持つことの出来ない偉大な秘密です。
牧会者はどこにおいてもそのことを認識します。
彼らは表裏から働きを試みるのをやめて、逆の働きをすぐに開始します。
そこでは個人の改心が無い限り、社会の改心は決してありません。
それゆえに私たちの主は、天的の誕生について強調します。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章3節
この王国は、多くの宗教のリーダーが私たちに信じさせていることではありません。
単に、それは人間の社会の理想的な状態です。
それは、主イエスキリストを個人的な救い主として受け取り、悔い改めた罪人として神の前に自分自身の身を低くした者たちの集まりです。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 1章23〜25節
すべての神が油を注がれた説教者に宣言します。
スポルジョンは3つの秘訣を呼びかけます。
交配、改心、そして罪の贖い、そして私達は再び見る望みがあります。
単に個人的ではなく、社会全体に悔い改めをもたらしました。
最後に私たちは、私たちの聖書と私たちのひざをかがめることに戻る必要があるのです。
祈りましょう!長い間、確立されていない教会の必要のために。
そこには彼らを維持するための十分な霊的な熱情がなく、いろいろな娯楽が彼らの場所にて代用されていました。
神の言葉に正当な場所を与え、牧会者と人々を批判して、裁きの座に座るのをやめてください。
そして、聖職者と人々に批判して、それに裁きに座るのをやめさせてください。
そのかわりに聖なる光で聖書に信頼を注意深く学んでください。
私たちの過去の罪と失敗を告白し、すべての知られている悪を片付け、御言葉に照らして、私たちの生活の仕方を厳しく裁くべきです。
その時、私たちの現在の偶像崇拝の上に久しく引き渡した町へ悔い改めを与え、私達は恵み深い神を期待します。
私たちの現在の偶像崇拝の上に久しく引き渡した町へ悔い改めを与え、そこから再び主の御前から活性の時を再びもたらします。
その時、私達は恵み深い神を期待します。
時代は暗いのです。
必要はさしせまっています。
人間は、罪の中にあって私たちに関しては死にかかっています。
福音は今でも救いに至る神の力です。
さあ!忠実な説教をするのです。
そして、それは昔から働きをさせています。
他には何も、同じ魅力的な力を持っていません。
それとも、男も、婦人も、子供も疲れた心と、問題ある魂に、快活にアピールをするのです。
彼らは私たちは偉大さに安らぐのです。
このすさまじい必要性は、御言葉を語るすべての説教者への挑戦でなければならないのです。
第16章−悔い改めを作り出すメッセージ
もし私が誰かに感激を与えるならば、私は「悔い改め」に価値のあると考えると私はかつて書きましたが、私の魂の中には感激を表わすことは完全にできませんでした。
それでも、私は人に神の救いが与えられることを適用する前に、自分の努力によって人間の中に悔い改め作らなければなりませんと言いながら、別に、聖霊による働きによって悔い改めが作られ、私の希望として私自身が清くあることを求めると言いました。
しかしながら、それはすべての魂が、キリストによる救いを得るように導かれることを示しています。
その方法が、使徒パウロによって述べられ、その重要な語られるべきメッセージははっきりと語られているのです。
彼はユダヤ人とギリシヤ人にも「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」の必要性を宣言しました。
新改訳聖書 使徒による働き20章21節
この神の要求によって、私たちは「滅び行く世界への福音」が与えるために、求める者に伝える義務が存在するのです。
救われる魂を作り出すために、より計算されたメッセージを調べ、考えます。
他の言い方をすると、どんなメッセージが私たちの聞き手に悔い改めの必要をもたらすかです?
そして、もっとも適切な質問に答えることを試みようとするのですが、私に最初に、大変望ましい結果を望む原因が、一定の期間、「悔い改め」によるのではないことを語ろうとしています。
四分の一の人たちが「悔い改め」そして「悔い改める」という言葉に愛着を持っていますが、彼らは適切に理解していません。
私たちの聞き手がそろって、私たちを誤解するだろうという可能性があるので、悔い改めを説明することを彼らに多くの言葉を使って勧めます。
彼らは自分たちの努力によらなければならないと考えますが。それは、彼ら自身が神に受け入れられる立場を得ることが出来るという考えを持っているからです。
これは真実ではありません。すべての聖書にある神のみことばには書かれていません。
聖書を教える説教者はよく知っています。
しかし、他の言い方では、この言葉の使い方について、神経質になりすぎて、賢い方法とは言えません。
私たちは聖書に大変精通しています。
そして、聖霊御自身が、すべての時代(ディスペンセーション)において使っていることです。
バプテスマのヨハネと私たちの主、12人の使徒たちとパウロは人間が悔い改めるべきであり、悔い改めるための働きがあることを説教しています。
いまだに、人間の側に何か良いことがあるという考えはそこにはありません。
明らかに、ある期間使われれ、以後もその言葉が存在していたので、その適用を誤まっています。
しかし、いわゆるクリスチャンの存在する時代の中で、あらゆる偽りの組織の利益のために、聖書の表現を曲解されずにいたことはありません。
このような言葉、甦り、義とされる、聖別、それ自身が十分に救いの言葉なのです。
すべてが悲しく誤用され、そして非聖書的教義は彼らによって建てられてました。
私たちはゆえに、彼らの使う用語、表現を捨てます。
私たちはどちらかと言うと、正しい方法としては、これらの言葉を使わないように努めるべきです。
私たちが可能な限り、これらの意味を明確にし、そうすれば間違った結論は避けることができるでしょう。
それで、この場合には私たちは結果が欲しいのです。
どのくらい優れれば、人間はこれらの失われた状態を見ることができるでしょうか?
ゆえに、神の祝福された御子にあって、無償で提供される神の救いの必要を感じます。
ひとつの同じ宣教方法で語ることに、私たちが同意するに至るようにメッセージに努力します。
したがって、メッセージはいつも同じでなければなりません。
神は人間の失われた状態のための1つの治療方法を持ちます、それは神の恵みの福音です。
しかし、これを示す方法は、語る人々の心の状態と立場によって異なっています。
このようにパウロはいくらかの者を救おうとするためにあらゆる方法によって、すべての人にあらゆることをしたのです。
そして、「使徒による働き」中に記録されているいくつかの説教を慎重に分析してゆくと、どのように違う真実が、違う場合に宣言されるかを私たちに示しています。
しかし、ひとつの事柄は、これらはすべてを語っています。。
それぞれの場合、キリストが上げられ、キリストの命、死、復活、栄光の来臨、個人的、そして救いのためのキリストの力がはっきりと示しています。
アテネにあるマースヒルのパウロの説教の見てみると、1つだけの例外があります。
しかし、私たちはパウロが最後の機会を持つ前に、彼をバカにした群衆によって中断されたのを思い出す必要があります。
彼は、理論的に始め、静かに考慮して、試みて、唯一な神性を証明しました。
そして異教徒の人々に言及するために偶像崇拝の罪を強調しました。
そうして彼らに罪と愚さを認識させようとしたのです。
その時、パウロは神を知らせました。
神の忍耐ある恵みを持って、「そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
新改訳聖書 使徒による働き 17章30、31節
パウロにはこれらの者たちに、より多く主イエスを語る準備が出来ています。
そして、神をどのように、唯一の救い主としてイエスを任命したかを示しました。
死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言いました。
新改訳聖書 使徒による働き 17章32節
そして、彼らは軽蔑して離れて帰りました。
このように、おそらく永遠に、神の恵みの福音を聞く機会を失ないました。
すべてのその美しさと力の中に表明されています。
ペテロの説教の中で、ペンテコステで、そして足の不自由な人間を癒やした時に、救い主を拒絶した彼らの恐ろしい罪を、直接、家でユダヤの聞き手にもたらすことが出来ました。
神は誰を送ったのでしょうか?
昔の預言者に一致する悔い改めは、彼らの重大な不正から離れ、彼らが立ち返ることにより祝福され、救われることです。
偉大な力にあって、パウロはイエスについての責任を彼らに迫りました。その責任を彼らはかわす事が出来ません。
それぞれの場合において、確信が多くの聞く者を得ました。
そして、彼らはキリストを拒絶した大きな罪に悔い改め、イエスの名によるバプテスマによって、主、救い主として、彼らはすぐに信じたことを、彼と彼ら自身が認識したのです。
コーネリアスの家では、紹介の方法はいくぶん違っています。
ここではペテロは異邦人の集まりについて述べています。
それでも、この集まりはイスラエルに対する希望を全く熟知しているユダヤ人に接触し交わりました。
彼らはイエスについて聞いていました。。
そしてどのように取り扱いべきかを、彼は彼自身の国によって知らされていました。
ペテロはあらゆるの純真さと明るさにあって、すべての祝福されるということは、どのようにイエスに依存しているかを示しました。
彼は驚くべき命の物語を記述しています。
彼の犠牲の死と、墓に対する彼の勝利、、栄光のメッセージによって全てをクライマックスに達しました。
イエスについては「預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」と証しています。」
新改訳聖書 使徒による働き 10章43節
その時から、彼が話していた聞き手の心は真実に応答していました。
彼が彼らこの宣言をした時、一斉にメッセージと聖霊の印を受け取り、キリストの体にバプテスマされました。
悔い改めがこのように述べられていないことは真実です。しかしそれははっきりと意味している事があります。
他のすべてから帰ってくるこれら異邦人はキリストだけに信頼を置くことになるからです。
アンテオケにあるピシデヤでのユダヤ人集会では、、パウロは同じような概要を適用し、驚くべき結果がありました。
それは、今日、福音を語るために努力する全ての者のためのモデルとなる説教です。
驚くべき、もしくは、本来のどんな努力もありません。雄弁も、飾った身振りの試みもありません。
聴衆の承認を得る、生まれつきの欲求のための仲介などしません。
厳粛に、公正に、まじめに、彼はイエスの物語を語り、イエスだけにイエスの中にある救いのすべての希望を最後に示しました。
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」
新改訳聖書 使徒による働き 13章38〜39節
もし、彼らが恵みのメッセージを拒否するならば、その時、彼らの上に降りかかって来る裁きの厳粛な警告とともに、パウロの話は幕を閉じました。
その都市全体は、不思議な説教者のメッセージによってかき回されたように見えました。
それは異邦人たちが、次の安息日、彼らのために大事な部分を、もう一度話してくれるように、願ったからです。
そして、起こるべき結果は、多く者が改心し、使徒と彼の仲間によって、その都市の中で教会が設立され、彼らは次に進みました。
宣教の方法が非常に単純ですが、このような力を伴わなければならないことは注目すべきことです。
しかし、説教者が真実に神を敬う人間であって、神に対する恐れを求め、聖霊が確信を作り、そして悔い改めに導きの中に言葉を使うことによって、彼らの必要のためにすべて十分な答えられ、彼の人格、彼の働き?キリスト?がその時与えられ?これらの必要を聞き手に示します。
ローマ人への手紙。
単に説教だけでなく、訓戒だけでもなく、それは聖書にある私たちに与えられるクリスチャン・メッセージとして十分に表されています。
この手紙の真実は、私たちが説教するというよりも、むしろ福音が教えられることです。
そして、はっきりと理解するために、罪人の救いのためではなく、聖徒を清くするための福音が示されています。
全体でして、もしくは、一部の中で、彼らの主であり、救い主である主イエスの中に悔い改め、信じるために導かれた多数の人たちに、すでに、神はこの福音を使いました。
この望ましい結果を作り出すために説教をする者は、自分自身の魂を満たすより優れた説教は出来ません。
そして、そこに示される時、彼の心は真実で満たされているのです。
4世紀のアウグスチヌスと16世紀でのルターは、どのくらいこの手紙のためにその責任を持ったことでしょうか!
それは、新約聖書神学の基礎と改革の戦場でした。
大主教代理シュタウピッツがこの重要な節「義人は信仰によって生きる。」に注目した修道士マーティン時代を生み出した時代から、まじめな若い聖職者の混迷した霊のために開かれ、そして始まりました。
彼は導かれ、彼は自分の義を信じることは愚かであり、福音によって明らかにされる神の義にある安らぎの祝福を見つけたのです。
これは、決して悔い改められることのない、本当の悔い改めでした。
この章の始まりは霊感に導かれた著者が全人類にもたらしたのです。
それは法廷にて、全ては罪人が神の前に有罪であることが証明されています。
無知な異邦人は救い主を拒絶したためには裁かれません。彼らは何も聞いていないからです。
しかし、異邦人もすでに失われていて邪悪です。それは彼らが罪を持っていて、裁かれるからです。
神はこれらの罪とともに惜しげもなくこの章を取り扱われ、そしてすべての者が信仰的な伝道者になるための実例とさせます。
第二章の最初の部分は、彼はより教養のある偽善と不正を暴いています。
哲学的な分類にある者が、彼らの多く乱暴で野蛮な仲間を咎めて、軽蔑しました。
その一方では、神の側において、実に嫌らしく、下劣な邪悪のために彼ら自身が奴隷なのです。
その時、彼は信心的なユダヤ人を見ます。
律法を自慢にして、アブラハムの子孫であることを誇っています。
その一方では、その生活は彼を通して、神の名が異邦人の間で汚されていました。
彼は、人間の功績、もしくは、正当な働きの理由で何も、これまでに救世を達成することを望むことができませんことを決定的に示します。
「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 10章12節
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章23節
「義人はいない。ひとりもいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章10節
律法が示しているのは命のためのテストです。
しかし、それは死と有罪判決の牧会であることを証明しています。
不従順によって、すべてが裁きの下に来ました。
将来的な改革は何も過去を償うことができません。
全世界が神の前に有罪です。
その時、人間の絶望的な状態のために、神の準備された設定が必要となってきます。
「しかし、今は、」すべての人間の証明された不義の上に?
「律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章21〜22節
このように、ソクラテスを困らせた問題は500年後に答えられました。
困ってしまい、彼は叫びました。「それは多分、プラトン、それは神が罪の許すことが出来るからです、しかし私はどのように許されるのか分かりません」
キリストの身代わりの贖罪は、神にある義の基礎にしています。「こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 3章26節
なぜなら、悔やむことだけの空しい時間に自分を置いたとしても、良心が動かされることはなく、悔い改めを作ることは出来ません。
しかしその時、それは信じる万人のための、救いの神の活動的な福音が必要なのです。
これは、あらゆる過去の時代の真実のように、私たちの非現実で、あら捜しをするような時代のためのメッセージです。
人間は時代を変える新しい福音について話します。
しかし、昔のカルヴァリの物語が、今に至るまで、罪人になぜ必要になるでしょうか?
そして、キリストは義人を招くために来たのではありません。罪人が悔い改めるために来たのです。
彼らはイエスの十字架の光の中に自分自身を見つけるまで、どのように失われ、滅んだかを決して認識せずにいます。
それを多くの者が目撃するに至っています。
「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」と、何も驚かずにパウロも宣言しました。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 2章2節
古い賛美歌は義を語っています。
「私は他のいかなる議論も必要ではありません。私は他のいかなる弁解も欲しくはありません。
イエスが死んだこと、そして私のイエスがために死んだことで十分です。」
このように、それは救い主と神のための祈りによって、ヨーロッパの半分が燃えている状態に、ルターの福音が置かれました。
このようにホワイトフィールド、エドワーズとウェスレーの激しいメッセージがあります。
18世紀が閉じようとしている時、偉大なる目覚め時代を生きる数え切れない多くの者が変えられました。
このような物語があります。
ジェレミア・メネリーと彼の仲間によって、生きている力が語られました。
1859〜60年の偉大なるリバイバルによってアイルランドとスコットランドを揺るがされたのです。
このようにカウグウェーとフィニーの召しがありました。そしてドワイト・L・ムーディのあと、アメリカと英国で19世紀の大変な素晴らしい訪れがあり、一万の悔い改める者が起こされました。
また、ルベン・A・トーリー、J・ウィルバー・チャップマンと他の熱心な支持者の集まりの力強い福音はオーストラリア、ニュージーランド、英国、そして20世紀の初期のアメリカの隅々まで行き渡りました。
同様にその説教者のプリンス、チャールズ・H・スポルジョンの燃え上がるような宣言があります。
この時代に関しては、世界全体が完全に非常に多くの人のために、ペンによって、彼のロンドンにある説教壇から言葉をもって語られました。
「そして、それ以上私はなにを語る必要があるでしょうか?
私にはそれ以上語ることはありません。」
マンホール、A・C・ディクソン、ジプシー・スミス、ビリー・サンデー、メル・トロッター、スティーヴンズ兄弟、モルデカイ・ハム、そして、神の同じ心の人々の記録によって人間の罪深さとキリストの贖いの働きによる、神の偉大な救いの力にあることが示されました。
そうして悔い改めに無数の人が動かされたのです。
救世軍は驚くべき成功をしました。
生活の斬新さを探すことは大変邪悪なことです。
その時、彼らはキリストにはっきりと罪人であることを理解し、立ち返ったのです。
間違いなく、注意深く道理に基づくことから離れた神学は、教養がある話法にて説教されますが、そこには安らぐことはできません。
そして、驚くべき恵み、それは救い主が来てすべての者に救いを供給します、そしてキリストの血の中に清くされてことを見つけます。
その人は魂の勝利者でなのです。
この壮大な古い福音書から、非常にうぬぼれた現代的な考え方と称され、おもしろくもない幼稚なものにまでに背を向けるようになる者が、なんと哀れなことかを考えるべきです。
そして、彼らの心の目から悔い改めの涙が落ちるのを、いままで見ること無しにその後何年も語りつづけることに満足することはありません。
「私は、救われるために何をしななければなりませんか?」
福音に戻るのです。同胞よ!
もし、これらの時代にあって神の人のようであったら!
その人は多くの者を義に立ち返らせたでしょう。
あなたは悔い改めに人間をもたらし、彼らを天に導くことになります。
これは、社会的に仕える福音の代わる結果として終わりことはありません。
社会的に仕える福音は本当に、まったく福音ではなく、キリストの十字架に効果がないと試みることです。
私はこれを言うために、私たちの奮闘している非常に多くの同朋の下に、環境をよくするために努力する善意に、中傷を浴びせるチャンスを言おうとしているのではありません。
あらゆるところで純粋な福音が、人間の心の中に与えられるべき場所を見つけることができます。
その結果を見出すのなら、社会環境をも改善します。
愛によって恵みを受けると、私たちの主イエス・キリストの教えの中に示された恵みは、救われていない人にはそれで十分です。
人間は光の中で行うことを恥と思っています。
彼らは恥も知らずに闇の中で行っています。
従って、それがどこで受け取られても、福音は多くの社会の悪を抑制し、生活環境を改善します。
それは昔、パウロと彼の仲間に言ったことです。
ある都市に入った時「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。」
この堕落された世による問題は、世の側が悪いから起きたことです。
それは要求が、正しい側にあるので逆に立ち返る必要があるのです。
そして20世紀の伝道と福音的証言は栄光的な現実を実例しています。
それは十字架の物語の後に、文明がいつも追いかけてきています。
そして、人間がお互いにより優しさを学び、彼らの仲間の幸せについて関連していて、その時、彼らに与えられた聖霊によって彼らの心の中に広く放たれる神の愛なのです。
今日、地位を得るために、「偉大な思想家」として福音を迎える者が多くいます
それは国家の社会的な再生を私たちが探し、私たちが多くの個人的な救いについて興味がないからです。
その結果、私たちの任務に偽りになり、悲しく重点が置き誤られた実例となっています。
永遠のために人間が作られたのです。
彼は数年は地の上にいます、しかし対照的な瞬間が来ます。死後の世界に待ち受けています。
それはあらゆる個々のために、とても重要なことです。
彼は彼を作った創造者の方へ正しく優先しなければならないか?
他の言葉をもって神を義とするのですか?
その時、すべての他の必要なことをフォローするのですか?
私は救世軍で創立者であるウィリアム・ブースの聞いたことを思い出します。
その時、彼は「もっとも暗いイギリス」を試みました。
まさに、その現実の目的は社会状態の改善ではないのです。
しかし、最初に、そして真っ先に悔い改めた人々をもたらしたのです。
彼らの魂は救われたはずです。
私は彼の目で輝いたのを思い出すことができます。
彼が叫んで言いました。その高貴な振る舞いは彼の指揮した姿をもたらしました。
「スラム街の堕落と不潔から人間を取ります。彼のボロは上品な上着へ変えます。
シティターミナルの息がつまるような悪臭から、田舎のきれいな空気の中のこぎれいな小さなコテージへ彼を引っ越させます。
彼を経済的にも立たせ、彼は自分自身と家族のために適切な生活が送ることが出来るように彼を置きます。
そして、その時彼は自分の罪の中で死にます。
救われてなく、そして最後に永遠に失われます。
私、そして誰かのためにそれを試みても、本当に価値の無いことです。」
神に対する経験には「今ある命の約束と、来ようとしている命の約束」があります。
しかし、唯一の方法が「神に対する経験」にあります。それは罪人が悔い改め、そしてキリストに提供された福音の救いを受け取り、神に立ち返ることによるのです。
したがって、私たちの衰退した時代のために叫ぶ必要があります。
それは真実のリバイバルためには、流行おくれ、そしてキリストを中心とする聖書の語っています。
神の昇天された御子による義の中に、神が世を裁く時代が来ることを見つめ、あらゆるところで悔い改めへ、すべての人間に要求されています。
第17章−それでも悔い改めが必要なのです!
さて、この最後の章の講義がする時が来ました。
多くの人が感じていることは、上がってきた、そして、解決された最初の質問が何であるべきか、
「結論として、罪人に悔い改めは望ましいことなのか?」なのです。
その時代の人間的な考えの多くの通り、一般的に悔い改めたと言われる人間に求めらているあらゆることが、本当の悔い改めの機会とはなりません。
実際、「そのような者は「人の生まれつきの尊厳と賞賛価値」を認めることに失敗し、それを示し、行う者だと」だと私たちに言います。
進化論者は、野獣のような祖先の底知れぬふかさから、人間は現在の高い地位まで努力して至ったという誇りを示しています。
いくらかの罪の呼ばれるものは、だが徐々に征服されてきた動物の特性だと言います。
それは恐らく、彼らが望むことであり、将来長く引き続かれることでしょう。
何事も悔い改めさせるために、このすばらしい被造物を考えだしたわけではありません。
確かに神の向上の進展にはなりませんでした。
もし、彼が自分のことを「惨めな罪人」として強く責めるのなら、彼の栄光の遺産(進化論)に感謝することに失敗するのです。彼はすべての時代の子です。
原型の小さなかけら(アメーバのような生物)から、20世紀の天才的な教養ある威厳まで、彼にはとても長い時代があります。
彼はかつて悔い改めではないと言われることを、悔い改めるべきでしょうか?
すべての堕落が、上向きの堕落になることを、彼は知らないのでしょうか?
それは絶え間ない、迷信と無知による努力ではないのでしょうか?そして、彼の現在の高い地位は不健全な環境ではないでしょうか?
面と向かって侮辱する悔い改めに向かう悔い改めと働きのために彼に命じています。
それから、そこには広範囲に受け入れられているいろいろな宗教的なカルトが、高く褒め称えられるための支持を与えている者がいます。
すべてが神の表明ではなく、人間の主張を基礎にしています。
それは聖書が言う罪は単に「人知の誤り」だということです。
人間が認識している適切な神の存在は、これまで「創造者と調和」があるかもしれない、ということです。
そこで、彼らは自信をもって宣言しています。イエスが「わたしと父とは一つです。」ということを行ったからです。
ゆえに「神性と人間の霊の一致する本質をすべて論証することが、私たちには可能である」と私たちに語ります。
しかし、もしこれがそうならば、これらには悔い改めの場所はありません。
悔い改めとはなんでしょうか?
私は神と共に一つなのでしょうか?
確かではありませんが、これらの多くの教師が彼らの約束事について彼ら自身の中で争っています。
彼らのすべての主張は命の小道と平和への道で、それは無知のために悪に見えます。
そして、真実と良いことを一人で独占しているのです。
好きな言葉は「あなたを罪に定めません」です。
そして、これらのシステムに熱中する者は自覚して、それとも無意識のうちに、精神的に、高い道徳に登るために、そしてクゥエ(フランスの心理学者)方式の変わらない繰り返しの意味する論理的な水準に自分自身を建て上げようとします。
「毎日、あらゆる点で、私はより良く、より良くなってゆきます。」
もちろん、この手の論議は、単に別の形で古い、そしてとてもなじみ深い自力的な哲学なのです。
もし、彼らの心が何か性質を持ち、そして彼らが彼らの上に努力して、勤勉に自分自身を良くするために挑戦し続けるので多くを行うのです。
たびたび、私たちはそれが「悔い改めよ」と叫ぶことが品位を落とし、過小評価することになると語りました。
私たちはむしろ「前進せよ!」と大声で叫ぶべきです。
そして、うしろのものを忘れ、将来に用意された更に優れたことへ前進するのです。
ピリピ人への手紙の中で使徒パウロはこれ(上記の哲学)を私たちに語ったでしょうか?
答えは「彼はしてません」。
彼がかつてキリストの復活の姿に出会い、悔い改めるまで、どのように肉的宗教を誇っていたのかを、彼が彼自身私たちに手紙の中で語っています。
パウロはすべての利益をちり、あくたとみなす要求が彼とキリストにおいて明らかにされています。
これから先は、パウロは生死にかからわずこれを誇張したでしょう。
彼は今、後ろのものを忘れることが出来、そして彼方にある聖い期待である前にあるものにたどり着くことが出来たのです。
今世紀近くの歴史の中で世界はこの不思議な哲学の泉を飲んでいました。
そして、ある者はこれまで考えてきました。
もし、彼らのすべてが真実だったら、私たちは人類に偉大なる進歩を見るようになるのです。
その戦争がすべての戦争を終わりになるはずでした。
これから先は民主主義のための安全な世界作るようになっていました。
しかし、帝国主義の鉄と支配のための共産主義の粘土が戦っているので、国々はいまだに混乱しているのです。
エチオピア人大虐殺の恐怖、ロシアのボリシェヴィキの政策(ソ連共産主義)の言いようのない残虐行為、スペインでの血生臭い紛争、中国で今でも優勢な絶望的な状態、いわゆる文化的な世界の至る所にて、不吉な前兆と共に階級闘争は来ています。
国家は、それらの救済が保証されると考えられている理想主義を実現するところではありません。
いいえ、人は神のようではありません。
人は無限の心と一致していません。
人は偉大ではなく、英雄的な姿で時代を支配しません。
罪深い被造物は高い天の前に、自分自身を卑しめるまで、平和の道を決して見いださず、悔い改め、あらゆる邪悪を告白します。
そして、キリストの十字架、そして二重の救いである神の聖霊を見つけます。
キリストによることにのみ適応された言葉の力に従って、第二の誕生を作り、そしてイエスキリストを主と信じるすべての者に彼らの救いのために内住して下さっています。
これらのシステムの賢い用途の中にどんな価値があったとしても、応用心理学、精神医学と倫理的な文化は、これをもたらしません。
心の状態が確かに戦闘状態である限り、彼らは人間の心を変えるために、もしくは新しい命を作るためにまったく力をなくしているのです。
精神医学と精神衛生と称される最近の巻でのJ・R・オリバー氏は読む良い価値があります。
率直に言うと、結論はすべてあらゆる人間の必要は「神の精神科医、唯一偉大な魂の医者」によって最高な出会いが出来るということです。
彼は正しく宣言しています。それはもし私達が彼を知らずに、そして彼と共に歩んでいなければ、すべての精神科学の本、道徳神学、結婚と避妊、すべての規制することをすべて十分に意味した法律は、人間と国家という悪い欲望を抑制するための試みであり、提案なのです。
しかし、私たちに与えられた道徳と霊的健康のために必要であったすべてのことを、キリストが見いだしたためにそれらを安全に放棄されることができたのです。
悔い改めるために偉大なる医者であるイエスに立ち返るためなのです。
彼は治すために来たのでしょうか?良くなりませんでしたか?失望しませんでしたか?
彼のメッセージはこれら自分の道を失った人たちのためでした。
彼の敵があざけりと屈辱で彼のことを言ったことは、祝福される真実であり、永遠の賞賛に至る理由なのです。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 15章2節
しかし、長い間人間は自分自身と彼らの態度を義とすることを試み主帳しました。そして、彼らは神の有罪判決の下にいるのです。
神に関係して神が叫んでいます。
「「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。」それは神の声が叫んだのです」。
「神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。」
新改訳聖書 ヨブ記 33章14〜30節を参照
私たちは詩篇の76章10節において語られます。
「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」
それはもう一つの言い方ですべての明白な罪は、神の永遠の目的の外で働く時に仕えるでしょう。
彼が他の場合に達成したことより、許された人は意識してより高い場所に向上します。
私たちの罪は暗い背景であって、神の恵みの光る宝石をさらによく輝かせるのです
最初の地上のパラダイスにおいて、堕落する前のアダムが神を知っているよりも、罪人を許される神を私たちはより良く知っています。
それは天で非常に優れた喜びを作ります。
それは礼拝される小羊の贖いと彼を賛美する歌を歌うからです。
御自身の血で私たちの罪から私たちを洗う目的のゆえに、小羊はほふられたのです。
その驚くべき聖歌隊の歌声は、キリスト御自身より他の功績に帰するものは一つもないのです。
最近の本の中の一つに反対している表現があります。
その著者は彼ら自身が哀れな罪人であることを習慣的に認めることに挑戦しています。
そして、行うべきことを行わずに、行わずにいるべきものを行っていたことを確認しました。
それはある評判のよい会社の中で信用される場所にいる時、彼らがあえてこのように軽蔑されるような事を言うために勇気がいるということです。
そして、もし、このような言葉は人と人の間では適切ではなければ、それは人間と神の間でも適切ではないということを意味してと言うのです。
人は、これの誤りを見る「深い思想家」である必要はありません。
彼の想定上の能力と信頼によって、人は会社に雇われます。
しかし、人間の基準は、聖書から示されているそれらのものから遠く離れています。
義は、私たちの仲間によって私たちのつきあいの中に強調されます。
聖めは、その時神との関係において来ます。
人間の生活が表面上は礼儀よく、正しくても、心は堕落し、聖くないでしょう。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
新改訳聖書 第一サムエル記 16章7節
神は隠された部分にある真実を要求します。
その心にある純粋さは神を見るでしょう。
したがって新しい誕生が絶対に必要です。
それらは霊的な妄想ではありえません。
生まれつきの人間の心はあらゆる汚れと憎しみにある鳥の巣のようです。
すべての種類の悪はそれらの前から来ます。
救われていない人間の心は現実の天国を理解することは出来ません。
彼の中にある無知のため、彼の理解は暗いです。
彼が神の証言を受け入れる時、彼は悔い改めの場所を得ます。そして、それは神が彼に恵みを取り戻す素晴らしさを明らかにすることができる態度なのです。
他のどんな方法も有罪の人間を神と和解させることは出来ません。
その者は誇り高い人から遠く離れていて、すべての絶望した、そして悔い改めた心には近いのです。
もし、これらのページがあらゆる心配した者の手、悩んだ魂に入るのであれば、平和を方法を見つけるために望み、神の義をまじめに求めるでしょう。
さあ、このような者に私は勧めます
すべての努力するためにが起き上がって「神をすぐに信じてください!」
その人に尋ねます。あなたは救い主が死なれるほどの罪人であり、それは救いのためにただキリストにあってのみ真実なのです。
イエスの言葉は明白で単純に答えています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 5章24節
この言葉を聞くこと、それは神の証言を受け取ること、そしてこれは本質的に悔い改めなのです。
その言葉をはねつけた者がそのメッセージに屈服する時、たとえそれを彼に語ったとしても、彼は失われて、破滅いるのであって、彼にはどんな正しさも持っていません。
彼は彼自身の価値のない考えから立ち返り、その代わりに主の証言を受け入れるべきです。
それはこのような者が十字架を表したために聖霊を喜ばせるのです。
キリストが唯一の信仰の最高の対象として甦られ、そして賞賛されます。
彼を信頼する者は、永遠に全ての有罪宣告から自由にされます。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章18節
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章1節
これは彼の良心を言い表したのではなく、決して彼を再び罪に定めるためでもありません。
もし、そうならば真実ではないからです。
彼がより近く主のために生きると、それだけ彼の良心がいっそう感じやすくなります。
しかし、それは罪人が裁きに立つことになり、神が彼をもはや見ないことを意味するることになります。
しかし、彼はこれから先、子供として、天の家族のメンバーとして数えられます。
父の最愛の人、キリストの中に受け入れられます。
この祝福された関係において、彼は決して悔い改めを必要としませんでした。
それは聖霊によって、彼に表された真実の言葉の光の中に自分自身を裁くために、日々彼は問いかけられます。
そして、彼は神の心と反対の事を学ぶ何事においても悔い改めるためなのです。
その一方、彼は父の懲らしめのむちを知らなければならないです。
「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 11章31〜32節
彼が言うことに、これが見えます。
「だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
新改訳聖書 黙示録 3章19節
しかし、私はこれらの批評を結論を出さなければなりません。
私はこれ以上の言葉は必要としません。
けれども、あらゆる地位を得る、聖書の光の中で私は注意深く調査するために、多くの時間がかけることを望みます。
すべての問題の結論は単純にこれです。
悔い改めは、単に望ましいことではありません。、
しかし、それは命令であり、すべて重要なことです。
それは別として、罪人でなければ救われることはありません。
神御自身がすべての人に、あらゆる所で悔い改めを命じています。
私たちの主イエスが宣言しています。
「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 13章5節
「キリストが誰のために死なれたのか」すべてを忠実に説教しようとすることを、無視し続けることはとても危険なことなのです。
そして、その時、人間は十字架の光の中に彼ら自身の信仰と裁きの中にメッセージを受け取ります。
彼らはすべての天が喜びで響き渡るということを知るかもしれない。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 15章10節
天にある称賛される群集は、他の人よりも聖くも、自分自身がどんな賢さの中にあったからではなく、悔い改めた罪人なのです。
彼らは「その衣を小羊の血で洗って、白くした」者なのです。
キリストだけが誉め称えられます価値のある人です。
すべて者はただキリストの功績によらなければ、決して救われることはありません。