メッセージXX 2002/12/31
福音とは何でしょう?
H.A.アイアンサイド
(WHAT IS THE GOSPEL?)
https://www.cobblestoneroadministry.org/Ironside_WhatistheGospel.html
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章1〜4節
私たちは福音の言葉を聞くことに多くの時間を費やすかもしれません。
人々は福音が真実だと話しますが、その福音が本当に何を語っているのか理解できずにいます。
福音とは何でしょうか?
私は最初に、「これは福音ではない」ことを示していきたいと思います。
A、福音は聖書を指しているのではありません。
福音という言葉は聖書を指すものではありません。
私はたびたび「福音とは何か、考えたことがありますか?」と尋ねることがあります。
多くの人は「福音は、聖書のことでしょう。聖書は神の言葉ですよね」と答えます。
確かに、聖書は神の言葉です。
また、聖書の中には確かに福音について多くのページが割かれていますが、聖書そのものが福音ではありません。
「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。
」
新改訳聖書 詩篇9編7節
これは聖書の中にある恐ろしい真実です。
しかし、福音ではありません。
「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章31節
これは聖書の中にある恐ろしい真実です。
しかし、それは福音ではありません。
福音とは英語で"good spell"「ゴスペル」と言います。
そして、古代英語で「良き報せ」「良き知らせ」を意味しています。
その原語はゴスペル(福音、ギリシャ語で"euangelion")と訳されていて、私たちは福音という言葉に置き換えて使っています。
まさにその意味は「良き知らせ」なのです。
福音とは罪人へと送られた神の「良き知らせ」なのです。
聖書には福音が含まれていますが、聖書自体が福音ではありません。
B、戒めが福音ではありません。
福音とは、人がどのような行動をするべきかを神が語っていることではありません。
福音とは何でしょうか?
私は少し前にこの質問をある人に尋ねました。
その人は次のように答えました。
「それは十戒であり、山上の説教であるはずです。
もし、人がこれらの戒めに従って生きるのなら、その人のすべてが正しいのです。」
それはよろしいでしょうか。
私はその人がそのように生きていると仮定してみましょう。
しかし、あなたはこのような戒めに従って生きている人を、誰か知っていますか?
十戒は罪深い人間が従順であることを要求しています。
堕落した被造物は、これまでこれらの戒めを守ったことがありません。
山上の説教は義を要求しています。
罪深い人間は、これまで義を得たことがありません。
律法は福音ではありません。
律法は福音とはまったく正反対のものです。
事実、律法は神によって与えられましたが、律法は人間に福音の必要性を教えています。
使徒パウロがユダヤ人改心者として、律法について語っています。
律法は私たちをキリストへと導いたのです。
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章24、25節
C、福音とは悔い改めることではありません。
福音のことを人間の犯してきた罪を穴埋めするための悔い改めとか、人間を良くする手段だとか思ってはいけません。
もしくは、人間を向上させるための過程でもありません。
たしかに人間にはこれらのことは必要なことであり、また目的かも知れません。
しかし、人間がこれらのことを実行しても、これが福音ではないのです。
ゆえに、福音は従順になるための良きアドバイスでもなく、信じるための良き知らせなのです。
また、福音を義務だとか、補正されるための手段、もしくはあなたの状態をより良くすること、また、過去のあなたの行うよりもより完全にあなたが振舞うことだとか言う人がいるかも知れませんが、そのようなことを考えて、失敗を犯すことのないようにしてください。
D、福音は世捨て人になることではありません。
福音はあなたが世を捨てることを要求することではありません。
また、あなたの罪に対して、悪い習慣に対して断念することでも、良い習慣を育むことでもありません。
あなたはこれらのことを行おうとするかもしれません。
しかし、それでも福音を信じようとはしません。
あなたが決して救われない、それがあなたの結果です。
新約聖書の中に福音は七つのことを語っています。
しかし、これらすべての他に、私は、今、述べられているこの祝福されたメッセージである、この事実の方へあなたの注意を向けさせなければなりません。
それは変わらない聖書の明確な事実によって示されていることなのです。
何度も繰り返し、私たちは新約聖書の中で福音を読むことができます。
そこにあるのが福音でしょうか?
福音ではないのでしょうか?
人々は私たちにたくさんの違った福音があると語っています。
しかし、本物は一つだけです。
ガラテア人への手紙にはこのように書かれています。
「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
新改訳聖書 ガラテア人への手紙1章6、7節
ある教師たちがガラテアに来て、別の福音を述べ伝え、人々がキリストから離れて
行ったのです。
この福音は完全に排他的です。
この福音は神が罪人に現したのです。
E、福音は宗教的に比較することではありません。
この世の学者たちは宗教比較の科学について語るでしょう。
そして、この学問は今日においてもっとも人気のある学問です。
私たちは今日、異教的な国々に行くこともしないし、彼らに語ることもしません。
それは彼らの持つ宗教が私たちの信仰に従っているように良いものだと教えられているからです。
そして、この違った宗教を勉強し、これらの宗教から良きものを取り入れ、兄弟として世界を一つのものとしての感覚を磨き、世界を導こうとし、この良き点をともに分け合おうともしているのです。
この時代において大学と学校では宗教比較学と呼ばれる学問を学んでいます。
彼らはいろいろな宗教組織の一つを他の宗教と比較しているのです。
確かにそこにはいろいろな宗教があり、比較できるでしょう。
しかし、福音はこれらの宗教の一つではありません。
この世のあらゆる宗教は比較、研究してもこれらの宗教は最低のものです。
これらの宗教は人間の救いを得ようと努力しています。
また、これらの宗教は異なった名前を持っているかも知れません。
そして、これらの宗教はそれぞれ違ったことを要求しているか知れません。
多くの者はこれらの宗教によって、自分の救いを得ようと努力し、神と言われるものに気に入られようとしています。
彼らの主張ははっきりと福音と対照的なものです。
なぜなら、福音はこれらの宗教に何かを語ったり、何かをすることではありません。
福音は邪悪な罪人が救われるために私たちに神が何をしてくださったか、神が私たちに語られた栄光あるメッセージなのです。
2、福音の七つの名称
A、御国の福音
私はこの御国の福音という単語を何か聖書の時代区分的な要素(dispensational)を考えずに使うことがあります。
クリスチャンは福音を信じて神の御国に生まれたことを信じることを通してのみ、祝福された真実に入ることが出来るのです。
私たちはこのように読んだのです。
「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章1〜3節
しかしながら、ニコデモであろうと、あなたであろうと自分自身で新しく生まれることはできません。
私たちは最初に生まれた時に何もせずに生まれてきました。
そのように、次に生まれる時も何もせずに生まれることが出来るのです。
それは、神の働きによらなければなりません。
そうです。福音を通して生まれてきたのです。
なぜ、この福音は御国の福音と呼ばれているのでしょうか?
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章3節
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章23節
これらのみことばは永遠に生きて、とどまり続けるものです。
そして、あなたに語られ、福音はあなたの中にとどまるのです。
どこにおいても、パウロとその仲間たちは出て行き、神の御国の福音を述べ伝えました。
そして、彼らは新生を語り、御国に入る唯一の方法を示したのです。
人は福音を信じることによらなければ、新しく生まれることができません。
それが御国の福音なのです。
B、神の福音
神が福音の源です。
神、御自身が福音なのです。
世にある宗教すべては、神の福音を示そうと努力してきましたが、誰も聖書にあるような福音を考え出した者はいません。
福音は神のみこころなのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章9、10節
ゆえに、ここに書かれていることが神の福音なのです。
神は私たちが福音を信じるように求めています。
神は福音の純粋さを求めています。
神の福音は罪人である私たちへの純粋なメッセージなのです。
神は福音を真実なものとして、受け取ることを求めているのです。
C、神の御子の福音
神の御子が福音でしょうか?
正確に言うのならば、御子が福音ではありません。
御子自身があらゆる場所に行き、福音を語りました。
しかしながら、イエス御自身が福音のテーマなのです。
使徒がこのように言っています。
「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき....。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙1章15〜16節
福音とは神の御子についての素晴らしいメッセージなのです。
何度も私は集会に行き、そこにいる者たちに私は「私は福音を聞きたい」と言いました。
私はそこでどんなことをどんな風に語っていいのか困り果てた聴衆と語り手をたちを見ました。
しかし、福音とは主イエスキリストのことです。
キリスト以外の福音はありません。
神の御子御自身が福音なのです。
D.キリストの福音
使徒ペテロが復活された主に約束されたペンテコステの日に語りました。
「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
新改訳聖書 使徒の働き2章36節
ペテロはイエスを油注がれた者として、神の右の座に着座された方として話しました。
福音とは復活されたキリストの福音です。
もし、キリストが復活されなければ、罪人のための福音ではありません。
「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章17節
この大きなニューヨークの福音伝道者は福音を無視し自分の主張をしています。
少なくとも、何年か前、イースターのメッセージの中でこのようなことが語られていました。
「キリストの体はいまだにシリアの墓の中で眠っています。
しかし、キリストの命はいまだに前進し続けています。」
これは福音ではありません。
私たちはキリストが死んだことを述べ伝えているのではありません。
私たちは生きているキリストを述べ伝えるのです。
キリストは御父の右の座であがめられ、キリストを信じるすべての者を救うために生きているのです。
なぜ、それぞれの家庭において、もしくは教会において、語られている福音には現実に十字架が語られていないことを知っています。
十字架はキリストが醜い十字架の上で暗い死を成したことを代表しています。
しかし、私たちはキリストの死なれたことだけを宣べ伝えているのではありません。
私たちは人間のために死なれたキリストだけを示そうとしているのではありません。
人間の罪の贖いを完成し、今も生きておられるキリストを宣べ伝えているのです。
キリストは神の右の座でほめたたえられ生きておられるのです。
「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章25節
E.神の恵みの福音
神の恵みを語るのならば、そこに人間の長所を語る場所はありません。
恵みは人間が自分の良き点を主張しようとも、すべてを払いのけます。
恵みでないのなら、裁き以外のどのような報いも人間の側には存在していません。
そこにあるのは恵みの福音です。
そして、恵みは価値とは程遠い者たちへの神の無代価の自由な愛情の注ぎ出しです。
まるで、水と油のようにまったく正反対の働きなのです。
「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章6節
私は人々がこのように言っているのを聞きました。
「あなたは恵みと働き、その両方によって歩まなければなりません。」
ある時、船の中に漕ぎ手と二人の神学者たちが乗っていました。
一人は信仰による救いを論じていましたが、もう一人は働きによる救いを論じていました。
漕ぎ手はその議論を聞いて、このように言いました。
「今の話を私に理解できるように話してください。
私の手にはこぎ手(オール)があります。
一つを信仰、もう一つを働きとしましょう。
一つのオールを引くのなら船は回ります。
もう一つを引くのなら船は反対側に回ります。
しかし、その両方を引きのなら、私は船をまっすぐに進ませて、川を渡ることが出来ます。
この例えを使い、私たちが信仰と働きのその両方をもって救われることを証ししようとする、多くの説教者たちを私は知っています。
もし、私たちがこのような漕ぎボートを使って天国に行くのならそうかもしれませんが、実際には違います。
私たちは羊飼いの肩に背負われて運ばれるのです。
この羊飼いは失われた羊を探すために来たのです。
羊飼いが失われた羊を見つけると彼の肩に乗せ、家に連れて帰るのです。
F、神の栄光の福音
私はその呼ばれかたが好きです。
主イエスキリストが神の栄光へと入ったことを表わすゆえに、この福音を神の栄光の福音と呼んでいるのです。
幕屋の垂れ幕は引き裂かれ、今、神の栄光が輝き出されました。
その時から、罪人のために栄光の道の宣言されたのです。
しかし、そこでは神の栄光で満ちることはありませんでした。
しかし、キリストが栄光をお受けになった後、失われた世へとこのメッセージが語らえ始められました。
G、永遠の福音
この福音は他のものに取って変わるようなことはありません。
この福音の前に他のものも来なかったし、後にも他のものが来る事はありません。
あるシカゴ大学の教授の一人は近いうちにイエスより偉大な教師が現れ、イエスに取って変わるようなことを数年前に本にしました。
その偉大な教師は後の時代において、文化的な人々の知識によりふさわしいメッセージを与えるとその教授は主張したのです。
どんなに多くの月日が流れたとしても、イエスよりも優れた教師が現れるわけがありません。
使徒パウロによって語られ、聖霊によってしるし(奇跡)とともに確かめられた福音よりも優れた福音が現れることはありません。
福音はこの邪悪な罪人を救うために何世紀のもの間語られて来たものなのです。
3、福音の宣言
では、福音の内容とはいったい何なのでしょうか?
私たちはここで正しく語ることが出来ます。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章1、2節
もし、あなたが心の中で福音を知識として知っているだけならば、もしく何かの教理に頼っているだけならば、あなたの心はまだたどり着いていないのです。
しかし、どこであろうとも人が真実の信仰を持ってこの福音を信じるのならば、その人々はこのメッセージを通して救われるのです。
何がそのすばらしい結果に至らせるのでしょう?
それは何と豊かな、何とも満ちた単純な物語です。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって..。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章3節
私はパウロがこのこれらの言葉を書いているように彼の心が揺り動かされているとは考えてはいません。
それはパウロが30年ほど昔に彼の記憶を戻しているからです。
その日のパウロの頭の中は主イエスキリストと彼に従う者たちへの憎しみで満ちて、ダマスコへの帰路を急いでいたのです。
サウロは地面を投げ出され、光が照らし、主の言われる声を聞いたのです。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
新改訳聖書 使徒の働き9章4節
そして、サウロは叫びました。
「主よ。あなたはどなたですか。」
新改訳聖書 使徒の働き9章5節
その声はこのように聞こえたのです。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
新改訳聖書 使徒の働き9章5節
その日、サウロは福音を学んだのです。
サウロはキリストが十字架の上で死なれ、その方が死から復活し、そして、栄光のうちに生きていることを学んだのです。
その瞬間、サウロの魂は救われたのです。
そして、タルソのサウロは使徒パウロへと変わったのです。
そして、今、パウロはこのように語るでしょう。
「私の受けたものが何かあなたに語ろうとしています。
それは私に起こった現実のことです。
もし、あなたがこの福音を信じるのなら、あなたの中に私の中に起きた事と同じことが起きる事を私は知っています。」
最初にこのように言いました。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、...。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章3、4節
注意して読んでください。
「聖書に従って」という表現があります。
神の計画において、福音とは決して新しいことではないからです。
この福音は旧約聖書の時代を通して預言されてきたことだからです。
あらゆる時代において来るべき救い主について宣べられいて、そこには福音の宣言がありました。
最初にエデンの園において、主は言われました。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
新改訳聖書 創世記3章15節
訳者注)「おまえ」とはへびのことであり、悪魔のことです。
また、女の子孫とは単数形であり、唯一、女(マリア)のみから生まれたキリストを表わしています。
キリストは悪魔の頭を踏み砕き、致命傷を与えますが、悪魔はキリストのかかとにかみつき傷を負わせます。
また、あらゆる場所において捧げられた犠牲は型(TYPE)としてキリストを表わしています。
また、幕屋において、後の神殿において描写されています。
そして、イザヤの宣言を私たちは知っています。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
」
新改訳聖書 イザヤ書53章5節
また、エレミヤによって語られました。
「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。
」
新改訳聖書 エレミヤ書23章6節
ゼカリヤの宣言を聞いてください。
「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。
」
新改訳聖書 ゼカリヤ書13章7節
旧約聖書の時代全体を通して、福音は預言されていました。
そして、キリストは来られた時、キリストとともに福音が来たのです。
キリストが死なれた時、キリストが葬られた時、そして、キリスト復活された時、福音は哀れな失われた世に十分に語りだされたのです。
よく読んで見て下さい。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと..。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章3節
もし、説教者がカリバリ山の上で身代わりで死なれたキリストを無視するのなら、
キリストについて何か良きことを語ったとしても彼は福音は語っていません。
A、キリストの死は彼の人生の終わりではない。
私がヴァージニアの教会で説教をしていた時、そこの牧師は祈りました。
「主よ、今夜みことばが語られたようにあなたの祝福をお与えになってください。
人々をキリストのいのちとともに愛の中に歩むように導いてください。」
私はその牧師に対して「座ってください。そのように神を侮辱しないで下さい」と言いたい気分になりました。
しかし、私は礼儀正しくありたいと思いましたので、私は立ち上がった時に戻って彼らに真理を与えようと思いました。
福音は人々にキリストのいのちとともに歩むことを求めていません。
もし、あなたの救いがあなたの行為に頼るのならば、あなたはあなたが地獄へ行くために何か良きところをチェックしているだけのことです。
あなたはあなた自身にあることによって救われることは決してありえません。
それはまったく不可能です。
しかし、福音の一番基礎的な、最初の話はキリストの身代わりの贖いから始まるのです。
キリストは人間自身の力によってどのように救われるかはまったく語っていません。
キリストはご自身の美しい生き方によって人間が救われるように来られたのでもありません。
キリストの死から離れて、哀れな罪人が救われることは決してありえません。
キリストは死ぬために来られたのです。
「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章19節
キリストイエスは御自身をすべての者のために贖い金となられたのです。
イエスは主の晩餐のときに言われました。
「感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章24、25節
そこで、もし、キリストの身代わりの死を無視をするのなら、そこには福音はありません。
しみなき神の御子の祝福の死を通して救われること以外に道がないのです。
ある者がこのように言いました。
「わたしはそのようなことは理解していない。」
これは恐るべき告白を作ることになります。
「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二4章3節
もし、あなたがこのことを理解していないのならば、もし、あなたがあなたの救いに他の方法が無いということを認めていないのならば、主キリストの死を通して救われるということを理解していないのならば、わたしはあなたに悲しい話をしなければなりません。
あなたはいまだに失われているのです。
私はあなたにただ審判の日に失われる危険性を述べているのではありません。
あなたが今、失われているのです。
しかし、神に感謝します。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節
キリストは失われた者を探すために十字架に向かったのです。
「このように深い水を渡るようなことは今まで聞いたことがありません。
このような犠牲はいままでありえませんでした。
主の通られた夜はなんと深い闇でしょうか?
キリストは失われた羊を探す前にこのような苦難を通られたのです。」
B、死の必要性
あなたが救われるために、キリストは死なれ、この暗い死の海に下って行きました。
失われた者を救うために、十字架の上で死なれた救い主によって捧げられた命を通して救われた人たちがより無関心に歩むことなど、あなたに考えることが出来るでしょうか?
キリストはあなたのために死なれたのです。
あなたはいままでキリストに信頼を置いた事が無いかもしれません。
あなたはキリストの所へ来たことも、キリストについて語ったことも無いかもしれません。
あなたは哀れな罪人でした。
失われた罪人でした。
滅びに向かっている邪悪な罪人です。
しかし、キリストがあなたのために死なれた時から、あなたはキリストをあなたの救い主として受け取ることができます。
キリストの死は現実にあったことです。
キリストは三日目の間、墓に葬られました。
キリストは死なれ、葬られました。
神がその事実を目撃したのです。
キリストは死んだふりをしていたのではありません。
主の命は死へと下って行ったのです。
神の定められた時が来るまで、主は三日間、日夜、死の深淵にいたのです。
死はキリストの犠牲を押さえつけることが出来ずに、キリストはこの死の深淵から離れたのです。
そして、福音の三つ目の指摘点がこれなのです。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと..。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章3節
これが福音なのです。
他に何も付け加えることが出来ません。
ある人たちがこのように言っています。
「よろしいでしょう。
しかし、私には悔い改めることができません。」
その通り、あなたは悔い改める必要があります。
しかし、悔い改めが福音ではありません。
「私はバプテスマを受けなければ救われないのでしょうか?」
もし、あなたがクリスチャンであればバプテスマを受けるべきです。
しかし、バプテスマが福音ではありません。
パウロは次のように言っています。
「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章17節
パウロは人々にバプテスマを授けました。
しかし、パウロはバプテスマが福音とは考えていません。
福音はパウロを通して世に至った偉大なメッセージなのです。
これはしっかりとした事実です。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと...。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章3、4節
4、福音の受理
福音を信じた結果を見てください。
2節に戻ると次のように書かれています。
「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章2節
これはもし、あなたが福音を信じるのなら、あなたは救われるということが記されているのです。
もし、あなたがキリストがあなたの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたということを信じるのなら、神はあなたが救われていると宣言しているのです。
あなたはそれを信じていますか?
誰も聖霊によらずに信じた者は誰もいません。
生まれつきの不信仰な人間の心を聖霊が支配し、この福音のメッセージに信頼を置いた時その救いが可能となるのです。
これは単なる知識の上の信頼ということではありません。
ある人がキリストが死なれ、葬られ、復活されたという事実を永遠の問題に上に置く準備を出来たとき、この救いが訪れるのです。
イエスは十字架の上で言われました。
「完了した。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章30節
救いの御業が完了したのです。
ある愛しいクリスチャンが昇天する時に、上を見上げこのように言いました。
「完了した。
私の永遠に向かいます。
私は私の命を生きているのではありません。
私は自分の死に対して死ぬのではありません。
もう一つの別の命があるのなら、もう一つの別の死があります。
私は永遠の問題すべてを神に賭けます。」
あなたはそのように言うことができますか?
信仰を持ってこのように言うことが出来ますか?
5、福音の拒否
福音を拒絶した人間について、聖書にはどのようなことが書かれているのでしょうか?
主イエスは弟子たちにこのように言われました。
「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」
新改訳聖書 マルコの福音書16章15、16節
信じるない者は裁きに定められ、罪に定められ、失われます。
あなたにもわかるように、福音へと私たちを追い込みました。
あなたは福音を信じているでしょうか?
あなたは福音に信頼を置いているでしょうか?
この福音にあなたの魂の問題を委ねていますか?
もしくは、何か他のものに信頼を置いているのでしょうか?
もし、あなたが死なれ、葬られ、よみがえったキリストに何か不足を感じているのなら、私はあなたにお願いします。
あなたが何か他のありもしない逃げ場にいるのなら、帰って来て下さい。
そして、今日、キリストに逃げて下さい。
「悔い改めて福音を信じなさい。」
新改訳聖書 マルコの福音書1章15節
みことばから離れないで下さい。
光からあなたの目を離さないで下さい。
哀れな罪人は心をかたくなにしてはいけません。
あなたは救われなければなりません。
今日という日に...。」
2002/12/31 終了