メッセージY 2000/9/11

キリストとともに死に、キリストとともによみがえる。 by J.N.ダービー
(Dead with Christ, Risen with Christ by J.N.Darby)

コロサイ人への手紙 2章20節、3章1節 


もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。

新改訳聖書 コロサイ人への手紙 2章20〜21節

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
新改訳聖書 コロサイ人への手紙 3章1節

クリスチャンの復活した命には2つの事柄があらわれています。
それはここにある死と天に関心をしめすということです。
使徒は「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしている」と書いています。
新改訳聖書 コロサイ人への手紙 2章20節
「世の幼稚な教え」と言う表現には大きな意味があります。
罪だけではなく、人間の生まれつきの宗教心からも私たちは死んだのです。
ユダヤ人はこの宗教心を持ちました。
それは神の養われたことです。
しかし、それは良い実をもたらしさずに「酸いブドウだけ」を作り出しました。

もし、私たちが今、私たちが復活したことを見出さなければ、私たちは神のために生まれつきの人間性を養うことになります。
神、御自身がすでにこのことを試みました。
神はイザヤ書の中で「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」と言っています。
新改訳聖書 イザヤ書 5章4節
しかし、今でも人間はそれをしようとしています。今でも生まれつきの人間性にある宗教心を養おうと努力しています。
そして、罪人を天に導きますが、実際には死に導いているのです。
私たちは死んで、よみがえりました。
それは単純に天的なことです。

この中に、実際に私たちは罪に対して今も生きている力を見ることができます。
それを死と見なすことができます。
しかし、私たちは「罪に対しては死んだ」という原則に進むことができます。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 6章11節
私たちは私たちが死んだということを発見し、そして見つけることにより、祝福された特権を得ることができます。
私たちは新しい命を持っています。
キリストはキリストの取るべき地位を得ました。
そして、死と復活によって、その場所にキリストが置かれたのです。
そこに私たちもいっしょにいて、キリストもともにいるのです。
それは全く、別の命なのです。
そしてこの命自体が働く場所を持っており、そこで愛が働くのです。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章5節
復活した命は、世の力によって駆り立てられることがなく、世の出来事にこころをとめることがありません。

クリスチャンには新しい原動力があります。
もし、わたしがキリストに心動かされること無しに世を生きるのであれば、私は「気が狂っているか、あなたはキリストとともによみがえった」と言うでしょう。
ああ!もし私たちが狂人なら一致するとはありません。
世にあるすべての原動力は決して新しい性質に触れることはありません。
あなたが世と友情を結ぶことができると思いますか?
富を求めることができますか、それとも名誉、それとも力?人を動かすその原動力は、世に対して何の効力も発揮されません。

私たちが天から得られたものではない原動力を持つのなら、悩みが起きるでしょう。
私が私自身を見い出すときはいつも、もしくは別の時、もしくは困難な時、私はたしかに天から得られてはいない働きにより何かの目的を持ちます。
それらは常に目の片側の視力を低下させる傾向があります。

私たちがキリストにある命の知識を最初に受け取った時、私たちはそれを理解しました。
私たちは簡単に他のすべてことが「ちりあくた」(ピリピ人への手紙3章8節)と認めますが、その時、視力が低下するのです。
私たちはもう一度、行いに対して古い原動力を得ることになります。
しかし、私たちは少しずつそのことを理解しないようになってゆきます。
私はそのことについて何の注意もせずいると、この原動力により多くの事が始まります。
人々は「そこにどんな害があるのか!」と言うかもしれません。
そこにはまさしく視力が低下している傾向があるのです。
しかし、そのことについて考えるのならば「私は天的なことを考えていなかった」ということを示すことが出来ます。
「あなたは初めの愛から離れてしまった。」
新改訳聖書 黙示録 2章4節
それは大きな罪の中にいることではありませんが、ここでその衰えをその聖なる事柄が明らかにするのです。
恵みの感じられなくなった時、私たちは実際に衰えてゆきます。
私たちの原動力が神の中になければなりません。
時々、努力は、行為、働き、そして「(聖書の)実践」へと圧迫するでしょう。
それは十分な恵みが語られる以前に言われていることです。
今、私たちは実際に衰えてゆきます。あなたは「(聖書の)実践」することを語らなければなりません。
何が私たちの心に圧迫してくるでしょう。
恵みです-始めの恵みです。
それは恵みです。それは律法ではありません。それは魂を回復させるでしょう。
どこで恵みが感じられなくなるのでしょうか。
同時に私たちの良心も鈍感になるのです。
そしてその時、激しく私たちの心に恵みが押し迫ってきます。
その時、良心が恵みの要求を通した働きの中に置かれるです。
それは律法ではありません。
そして、それらに「(聖書の)実践」が詳細に現れてくるのです。

私たちは2つの過ちのどちらにでも堕落する可能性があります。
実を語るため(実を結ぶためではなく)、もしくは実を語ることを楽をするためにです。
その時、確かなことは、私たちが以前の律法主義的なことを考えることによって、私たちの上に影響があるということです。

私たちは恵みを詳しく述べることによっては、戻ろうとはしません。
キリストはすべてのことにおいて偉大な原動力です。
そして、私たちは細かい治療をするために、キリストにあって復活の知識の中に目覚めなければなりません。
ここに素晴らしい真実と、素晴らしい自由があります。

これとは別に、とても重要なポイントは、私たちの歩みの調和と霊です。
神にある確信と、霊の穏やかさは聖徒に似合います。
それゆえに、私たちは神とともにくつろぐにちがいありません。

これがキリストとともに歩む中にある影響力なのです。
主がいままで私たちの前に置かれたことは、いつも主を尊敬し、謙遜に、穏やかに、くつろぎ、そして喜んで歩むことです。
もし私が私の不慣れなところへゆくのなら、私は大きな家の中で実際にそれを行うために、私はたくさんの親切を示すそうとするでしょう。
だが、私のくつろぎは家の外に出て、感じました。
私は外に出てうれしかったのです。
私はその家で私がもう一方の他のことを感じるように導かれました。
その魂は単に自分自身のために神にある喜んでいるのではなく、そのことによって家の中の調和を外にもたらしたのです。
それは神にある喜びがあるために、心配がなくなります。
そのことは非常にたくさん別の問題が起き、そして証明されることによって平安を得るのです。
そこには少しの不安もありません。
それがたとえ何であろうと、神にとどまるのなら、私たちはあらゆる状況の中で霊の静けさをもたらしているのです。

もし、人がキリストとともに復活したならば、もし、彼がそこに住むのなら、そのことはそのこと自身に示されます。
私たちは回りの変化を恐れないでしょう。
私たちは、ばかげた無感動と無関心にではなく、主への生きた愛と力の働きにあって、生きるべきです。
私がキリストにとどまる一つの大きな証拠は、穏やかさです。
他に上げられる証拠は服従にある信頼です。
私はその信頼を持っています。そして、私は続けるのです。

それ自身が父ととの交わりと関係しており、御子イエスキリストとの交わりです。
単に喜んでいるのではありません。父と御子の考えにあることなのです。
聖霊は祝福された三位一体の三位格であり、神の事柄へと慈愛とともに加わる私たちの力です。
「御子を愛する父」-このように彼の最愛の御子の方への父の感覚にて認識することです。
私たちの正しい場所は、私たちが私たちのこころを満たし、小さいこととしてこの世を去ったことを認めるでしょう。
もっとも小さく、栄光の広大さの中に、そしてそれは世界の前にあるのです。


INDEXに戻る⇒