メッセージXX 2003/1/17
よみがえられた救い主のチャレンジ
by C.H.マッキントッシュ
(A Risen Saviour's Challenge : Luke 24 )
ルカによる福音書24章
私たちの主が墓の中に置かれた間、イスラエルにおいて贖いが成されたことを見た多くの者たちに対して、この瞬間が闇と荒廃に満ちた期間であることが証明されなければなりませんでした。
それは重たい雲の上に湧き出た明確、かつ、力強い、そして、穏やかな信仰を要求しています。
その雲は神の人々の視界上にはっきりと見えていましたが、この試練のときに誰もこのような信仰を見せる者はいませんでした。
私たちはこの時のあらゆる人たちの状態を描写しているかのごとくに、エマオに向かう二人の弟子を取り上げることができます。
たとえ例外がいたとしても、神の愛する聖者である御子を三日三晩の間、この地上あって私たちの愛する主を心の中に置いていた者がいてもよいはずです。
彼らのすべての理解は荒廃しきっていました。
「そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
」
新改訳聖書 ルカの福音書24章14〜16節
彼らの思いはこのような状況に囲まれていました。
すべての希望は過ぎ去ったかのように思われました。
彼らが育ててきた浅はかな希望は吹き飛ばされました。
この場面は暗い影で曇っています。
彼らの哀れな心は悲しいものがあります。
しかし、注目すべきことがあります。
彼らのうなだれた霊的状態に復活された主はチャレンジしているのです。
「イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章17節
確かにこの質問は愛する弟子たちにとって、理屈にかないながらも重たいものでした。
また、この質問は彼らの理解において、その求める要求に対して的をついた考えられたものでした。
これは彼らがこの時に何を欲しがっていたのか、また、神が与える永遠の、そして、変わることのない真実にとどまる代わりにどのような状態であったのかを正確に表現するものでした。
聖書ははっきりと、十分に、彼らがその声だけを聞いていたことを表現しています。
しかし、彼らは聖書の中に記された永遠の聖霊のはっきりとした証言を聞く代わりに彼らの思いは目に見える行動とその影響力に完全に支配されていました。
キリストご自身が話されたみことばの永遠の岩の上に堅く立つ代わりに、命の海の嵐のうねりの真ん中でもがき苦しんでいるのです。
一言で言うのなら、この時、死の力と彼らのこころの思いは同じ深みにあったのです。
彼らの心が悲しく、暗い交わりの中にいたとしても何の不思議もありません。
しかしながら、これらの出来事はあなたと私において、この時、この瞬間に起きる出来事において働く力について説明しているのではありません。
私たちは目には見えませんが永遠の光の中を信仰を持って生きているのです。
そのように、私たちは復活された救い主を信じ、知る信仰を告白しているのです。
この復活された主を信じる者はともに死に、ともによみがえったのです。
そして、この信じる者たちの中に聖霊が内住され、聖霊は私たちが沈むことや落ち込むこませようとはしません。
では、私たちにとって、このような復活された救い主のチャレンジは必要ないのでしょうか?
それは特に大切なこととは言えませんが、私たちの愛する主は私たちの心にこの問題を置く時があります。
「イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
」
新改訳聖書 ルカの福音書24章17節
これは私たちが私たちの方法でともに集まり、ともに交わりを持ち、話し合っている時にたびたび起きことなのです。
それはどんなことであり、何がそのようにさせるのでしょうか?
おそらく、私たちの取り囲む重たい状況、天気、この国の展望、商売の行き先、私たちの乏しい健康、生活の収支、またあらゆる事に支配され、ともに消沈してふさぎ込んでしまうでしょう。
つまり、正常な日常生活すべてがそのようにさせるのです。
その通りに私たちの霊的な目はこのようなものに縛られてしまうことがあります。
そして、私たちは私たちの側にある神の優しい忠実な信仰を持つ方の祝福の知識を知ろうとはしません。
イエスは私たちのさすらうこころを示し、力強い質問を問いかけてきます。
「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章17節
私たちはこのことから何を考えますか?
これは私たちの考えに要求していることがあるのです。
私たちは信仰の力の下を生きる代わりに、状況という力と圧力の下に私たちの思いを置いてしまう傾向を持っているのです。
私たちはキリストの中にいるという輝く祝福という現実にとどまる代わりに、このような状況に囲まれ、占領されてしまうのです。
そして、その結果は何でしょうか?
私たちの状況を少しでも良くすることでしょうか?
それとも、私たちはこれらの状況の中にあって憂うつにふさぎこみながらも、私たちの期待を輝かせることが出来るのでしょうか?
決して、これは小さい階段を上ることではありません。
その時、何が起きるでしょうか?
その時、単純に私たちは私たち自身の哀れさと私たちの陰気な交わりを作ることになります。
そして、何よりも悪いことはキリストに誉れを帰せずに、悪党呼ばわりさえします。
クリスチャンは日々の生活の中でいかに多くの自分の気質、マナー、見かけ、そして、態度がそこにあることを忘れています。
私たちは主の栄光と私たちの日々の態度が親密に結びついていることを忘れています。
私たちは自分の子供たちやしもべたちをどのように見るかによって、家の主人がどのような人物かを判断することを知っています。
それは社会通念上当たり前のことなのです。
もし、私たちが哀れな、意気消沈した子供を見たのなら、その父親は陰気な、激しく、身勝手な人だと思わないでしょうか?
もし、その家のしもべが、力を無くし、働き過ぎなら、その主人は人でなしで、何でも押し付ける気質のある人だと考えることができます。
たいてい、あなたは簡単にその家の人たちの感じ、態度、接し方によって家の主がどのような人が想像することができます。
私たちは神の家の一員としてどのくらい熱心であればよいのでしょうか?
その熱心さは私たちの感じ、態度、接し方によって神がどのような方か正しく印象付けることができます。
もし、この世の人たちが--実際に生活の中でこれらの人たちと日々細かく接触を持つことがありますが--もし、彼らが私たちを付き合いづらい、気難しい、意気消沈した者と見るのなら
この世の人たちと実際に生活の中で日々細かく接触を持つことがあります。
もし、彼らが私たちを付き合いづらい、気難しい、意気消沈した者と見るのなら、その暮らし方においても悲観的に不満を持った者としてうわさを聞くでしょう。
もし、この世の人たちが私たちが自分の問題で縛られているのを見たのでなら、私たちが他の者たちのように険しい、苦しむ契約事しか頭にないのなら、彼らは私たちを低い賃金で、重労働を負わされたしもべのように、貧民のように見るでしょう。
彼らは私たちが天におられる方を父とも、教師とも呼んでいる方がどんな方かどのように想像するでしょうか?
私たちはこのようなことを日常的に言われることを嫌い、離れようではありませんか!
ふさわしい歩みを求め、日々このような告白が必要なのです。
真実に歩むにあたって、自分の良心の言うままの生活、こころに変化を持たない生活、また、今のありきたりの生活から離れる必要があります。
そして、たくさんの考えの往来もあるでしょう。
私たちは死んで、よみがえったことを知っています。
かし、私たちに私たちの人柄について、関係において、興味において、何かが起きた時、私たちはすぐに私たちにとても小さいのですが貴重な真理である力が示されたかを知るのです。
主は私たちにこれらの事柄をまじめに、熱心に考える心に必要な恵みを与えるのです。
そこにはおそらく実際のクリスチャンとして、日々の生活において、より信仰的に歩み、私たちが神である御父、そして、主であり救い主であるイエスキリストの素晴らしさを賛美し、表現してゆくためにこの恵みをに与えるのです。
そして、実際に生活全体において、その人の性格において、またその行動において純粋な信仰とは何か、その標本として恵みは私たちの行動にも現れてきます。
私たちは皆、復活された主の現してくださったものをより理解するようになるでしょう。
私たちの敵は私たちのこころに重く味付けし、また、同時に私たちのこころは周りにある環境に影響を受けるでしょう。
しかし、このようなものをもって敵が私たちに闇の力によって戦いを仕組んできますが、私たちは完全な答えをもって勝利を得るのです。
神は御自身の無限の哀れみをもって、それをイエスのゆえに御許しになります。
ルカの福音書24章は霊感に満ちた、とても魅力のある箇所として読むことは不可能なことです。
また、私たちが復活された救い主の声として、現れとしての回復の力とあえて読もうとして心を打たれようとすることも不可能なことです。
私たちは疑いと当惑、恐れと落胆の中であちこちへと散らされた親愛なる弟子たちを見ることができます。
ある者たちは墓へと走って行きました。
また、ある者たちは墓からやってきました。
ある者たちエマオへと向かっていました。
そして、ある者たちはエルサレムで群れを作って集まり、さまざまな状況、状態の中にいました。
しかし、イエスの声とその現れを理解し、そこにいたすべての者に勇気付けをしたのです。
そして、すべての者が礼拝において、愛において、その賞賛において、キリストの祝福された人格を中心に集まって来たのです。
ここにいるすべての者の心と思いの状態にイエスが出会うために表現しようのない力がそこに存在していたのです。
それはこのように過去において働き、今もこのように働き、このように働かなければならないのです。
キリストの尊い御名に祝福と賛美がありますように...。
そこにある力は私たちの困難を解き明かす復活された救い主の現れの力なのです。
私たちの当惑を打ち壊し、私たちの恐れを静めます。
私たちの重荷を軽くし、私たちの涙を乾かします。
私たちの必要を満たし、私たちの思いに平安を与え、私たちの心の願いを満足させます。
イエスよ!
あなたで十分なはずです。
私の心と思いは満たされました。
彼らの命、悩んだ魂を静めます。
その恐れは追い払われました。
二人の弟子が今書かれた何かを証明するためにエマオに向かっています。
私たちが彼らの強烈な言葉から何か判断することができるでしょうか?
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章32節
その通り、ここに深く貴重な奥義があります。
「道々お話しになっている間」、「聖書を説明してくださった間」とは何と尊い時でしょうか!
なんと高度な交わり、なんと愛しき働き!
よみがえられた救い主はその驚くべきみことばと威厳ある聖書の説明によって彼らの心を回復させました。
何という影響力、何という必要な結果ではないでしょうか!
この二人の旅人はすぐに彼らの仲間を見つけるためにエルサレムに戻りました。
他の道を通ることは不可能でした。
もし、私たちがよみがえられた救い主を見ることを失ったのなら、私たちは確かに私たちの仲間から離れ、私たちの所有する何かによって占められてしまいます。
何に心が占められてしまうのでしょうか?
私たち自身の道を追求すること、それは寒く、死に満ちた、暗く、そして、自己中心です。
しかし、言い換えれば、私たちがキリストの存在に現実に気がついたのなら、その時、私たちは聖書を通し、キリストの声を聞くのです。
そして、キリストの愛、力、そして、その甘さを感じるのです。
私たちの心はキリストの尊い愛の働きによって、生活においても偉大な影響を受けるのです。
その時、私たちは真実なる愛の交わりの中に導き出され、私たちの兄弟に対しても興味を持つでしょう。
そして、私たちはたましいに深い喜びに満ち、兄弟たちと交わりを持つために強い願望を持つのです。
私たちが堅い原則として霊的な悩みを心に置くかもしれません。
しかし、それは復活された主の与えてくださった主の息の中にいながら、孤立して、もしくは独立して、そして断片的に分かれて、このような悩みの中にいることは不可能です。
この救い主の愛しい存在がいかに必要なものか、このことは私たちの心を和らげるでしょう。
そして、これはキリストに属するずべての者に対して、愛ある影響力の流れを注ぎだすことができるのです。
私たちは私たちに与えられたこの章を追求しましょう。
「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると...。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章33節
おそらく、この二人はエマオで何か仕事のために出かけて行ったのでしょう。
しかしながら、彼らに与えられた祝福は今、最高の目的を持っています。
彼らはすぐにエルサレムに戻って行き、11人の弟子たちが集まっている場所を見つけ、復活された主が現れたことを二人は彼らに言いました。
そしてシモンにも現れたのです。
そして、彼らは路上で何があったかを話し、そしてパンが割いて、シモンは何が起きたかを知ったのです。
そして、彼らがこのように話していると、彼らの真ん中にイエス御自身が立って「平安があなたがたにあるように」と言われました。
そして、彼らはすぐに信じることはなかったのです。
「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
」
新改訳聖書 ルカの福音書24章37節
彼らは恐れ、怖がりました。
彼らは霊を見たと思ったからです。
彼らにはよみがえられた救い主のチャレンジが必要だったのです。
ゆえに彼らのこの場面に至ったのです。
それは、彼らの恐れを静め、そののしおれた霊的状態を起こすためです。
そして、彼らには復活された方としての存在の力を理解することが必要だったのです。
そこにいた者たちにはエマオから来た二人の兄弟によって、主が本当に復活されたという断言が必要だったのです。
しかし、いまだ彼らには主が現れてなく、彼らは復活された方を知りませんでした。
主はこの彼らの心をかきたてることばをもって、彼らの心にチャレンジしました。
「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章38、39節
そして、イエスはこのように話したとき、実際に手と足を彼らにお見せになったのです。
「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。
それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
」
新改訳聖書 ルカの福音書24章41〜43節
なんと、親しい愛ではないでしょうか!
彼らの弱さと必要に対する、恵みを持って扱われた謙遜!
彼らの不信仰と愚かなに対して、彼らの感覚の鈍さに立ち入ろうとする哀れみ!
恵み深い救い主!
誰かこの方を愛することをせずにいられるのですか?
誰かこの方に信頼しないのですか?
あなたとともに心全体が夢中になるでしょう。
あなたにとって祝福となる礼拝へとこころを捧げ、命全体が満たされるしょう。
私たちのうちにあるすべてのエネルギーに従う思いが与えられるはずです。
私たちすべての者が持つべき、また、愛するべき主の祭壇に理にかなった礼拝を捧げることができます。
これらの許された、そして、続けられるべき目的としての結論が、永遠の御霊の働きがここにあるのです。
しかし、この短いテーマを閉じる前に特別な興味ある価値あるポイントを指摘してみたいと思います。
私たちに求められた態度があります。
これは書かれたみことばに記された、復活された救い主の方法です。
主は聖書を信じるのに鈍感な、二人の旅行者を叱ったのです。
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。
」
新改訳聖書 ルカの福音書24章44節
同様に、エルサレムにいる11人の弟子たちと残りの者にも問いかけました。
すぐには、イエスは誰も満足されることはありませんでした。
イエスは神の聖書と同じ権威をもって彼らの状態を見ていたのです。
「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたは、これらのことの証人です。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章45〜48節
この事実は現在のこの瞬間にあってもっとも深く重要な事柄です。
私たちはあらゆる場所なされているクリスチャンの告白を聞いて納得しています。
そして、彼らは主のみことばの最高の要求について心が動かされたのです。
それは彼らの良心が絶対的な権威を従い、力が形作られ、完全に歩み全体、人格、行為に至るまですべてが動かされたのです。
それは恐れかもしれません。
大いなる恐れです。
信仰と道徳の神の支配を得るための証をする者たちのこころから、神のことばとしての聖書の権威が早くも失い続けているのです。
私たちはたびたび、私たちの耳に聞こえてくるスローガンを聞くことがありません。
「聖書だけがプロテスタント教会の信仰告白です。」
もし、このことが実際に真実なモットーならば、疑うことなく、この瞬間においても真実です。
わずかながら、比較してみるのならば、これらの者たちはとてもレベルの高い認めらる告白を土台にしていると言えるでしょう。
そして、よりわずかな者たちがこのことを実際に理解しています。
しかし、ずべての者が、信仰、もしくは、生活においての細かい点において、教会において、家族において、仕事において、そして、私たちの道徳的な面においても、私たちの個人的な歩みにおいても、絶対的な権威に従っているでしょうか?
それは神としての、道徳的な、栄光ある宣言としてなされた命令です。
これを語らえた事実として受け取るとき、確かな栄光にもって高められます。
また、書かれた神のみことばである聖書は実際の価値を持ちます。
公の働きを成される前に、私たちの礼拝すべき方である主によって三回も語られた事実です。
主の敵である悪魔と戦おうとする時に、まさに、天に上られようとしている時に、主の愛する者たちの耳に響いていたことでしょう。
その通り、書かれた聖書は私たちの神の教師、主の愛すべき宣言なのです。
主はいままでみことばに従ってきたのです。
主はすべての事柄について神の権威に心から無条件に従うことを私たちに教えているのです。
主は最初から、終わりまでそのために生きていたのです。
主はみことばに従って歩んでいたのです。
みことば無しには決して何も行いませんでした。
主はみことば無しに、何も考えなかったし、問題ともしませんでした。
理解もしなければ、推測もしませんでした。
加えもしなければ、取り去ることもしませんでした。
また、何かに資格をも与えませんでした。
その通り。
主は従ったのです。
主は、御父の永遠の御子です。
主御自身が永遠にすべてを祝福されたのです。
主が人となられ、聖書の中に生きておられ、すべてを支配し続けて歩んでおられたのです。
主は御自身のたましいを彼らに食物としてお与えになりました。
その原料と基礎は主の歩まれた驚くべき働きです。
主の完全な歩み、それこそが神の権威なのです。
主はすべてにおいて偉大な模範者です。
私たちは主の祝福された足跡に従うでしょう。
私たちは、私たち自身を、私たちの方法で、私たちの習慣で、私たちの交わりで、聖書を事実であるか確かめることができます。
あらゆることを心全体で拒み、誰か意見に振り回され問題ともせずにいるのなら、照らされる光に至ることはないでしょう。
私たちは何十万もの場合を十分に考え、納得しなければなりません。
私たちのこころに喜びに満ちた態度へと導かれるために、主によって訴えられた要求が増し加わってゆくことは最初に示した通りです。
これは主のみことばが十分に与えられ、絶対的な権威を持つ事が許された結果なのです。
主のために積極的に働くことは人間の論争と議論は打ち消します。
これらの者たちは聖書自身から何も与えられることはありません。
私たちの主主イエスキリストはいままで通りに恵みを与え続けています。
その時、人はここにある論争を不必要なものとするでしょう。
神のみことばを理解するには実際に何が必要なのでしょうか。
神のみことばは私たちに個人的な平和と、私たちが個人的な歩みをするための権威を持つための基礎なのです。
私たち皆がそのようなものであるべきなのです。
2002/12/31 終了