メッセージZ 2000/9/20

キリストは怒りではなく、救いのために来るのです。
by H.A.アイアンサイド
 
(NOT WRATH BUT RAPTURE By H. A. IRONSIDE)


https://archive.org/details/ha-ironside-not-wrath-but-the-rapture/mode/2up


「大いなる苦難」ということばの意味すること?

新旧約聖書の両方に、神の聖霊は「人間の上にくる試みは神の怒りが注ぎ出ることを意味している」と話しています。
預言的に、注意深く聖書を学ぼうとする者は聖書を語ることに失敗してはいけません。
それは「大いなる苦難」--「ヤコブの苦難の時」--「来るべき試練(誘惑)の時」--「主の日」--またその他の言葉によっても知られています。
この特定の裁きの期間、神の人々のために通常の試練と、患難とをはっきりと区別しています。
これらはすべての時代(Dispensations)にあっての主題です。
そして、それは今日では神の教会に約束されていることです。

私たちの祝福された主は「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と言い、パウロは宣言して「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言いました。
すべての聖徒のために、パウロは「患難さえも喜んでいます」と言うことが出来ました。
サタンがこの世の神である限り、信じる者はこの地上にいるのなら、試験と苦難に直面します。
これは当然なことです。
世はすべて神の聖霊に反抗しています。

クリスチャンの試練は、クリスチャン自身が歩もうとする時、その妨害から生じます。
荒野を通って旅した、昔のイスラエルのようです。
そこには直接、敵の妨害がありました。


「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 3章12節


この時代にある神の子供(教会時代のクリスチャン)は決して神の怒りを体験することがないことが表されています。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人の手紙第一 5章9節


私たちは来るべき怒りからの、救出者であるイエスの来られるのを期待しています。
これはとても重要な根本原則であり、その時、大いなる苦難と教会との関係がはっきりとしてきます。
その時、怒りの鉢が邪悪なキリスト教とユダヤの背教に注ぎだされますが、多くの者がそのことを過去の出来事として教え、そしてある者たちはなおも、旧約聖書が大いなる苦難について言及しているのは、イスラエルの堕落の以降に外国の配下に苦しめられた時代にすべて成就したと教えています。
特にアンテオコス・ステファノスの時代のことだと言っており、その者はある個所では旧約聖書の反キリストと呼ばれています。
しかし、預言者の書を注意深く読んでゆくと、この試みの時とこのことが関係しなければならないと気付き、これらを新約聖書の宣言と比較してみると、そのことが絶対に支持できないことだと理解できます。
また、ある者はこの大いなる苦難が、血でまみれた2世紀の間、使徒パウロの死にあとに続いたローマ帝国の異教の下に迫害された時代のこと、もしくはローマ教皇の下にさらに恐ろしい迫害された暗い時代のどちらか一方を言及していると想像しています。
しかし、私たちの主イエスキリストご自身によってなされた証言はとてもはっきりとしており、明らかにこのような解釈を否定し、まだ来ていない未来の裁きの厳粛な時代であるとはっきりと表現しています。

神の教会、もしくは神の教会の一部分が悲痛と悲しみの時代の中に入るか、もしくは通り過ぎるでしょうか?
この質問正しく答えるために、大いなる苦難の性質と時について、注意深く数多くの聖書個所を考えることが、最初に必要な事となります。
最初に聖書がこの時代について明確に語っているのは申命記の4章26〜31節です。
まもなく、彼らの偉大な指導者は、自分の職務を辞めようとする時に、彼は主が来られる日まで、神によって眠りにつくためにネボ山に登りました。

「彼が彼らに神から離れることの愚さについて警告し、彼は人々に言いました。
私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。
あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。
そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。
主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。
しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。」
新改訳聖書 申命記4章26〜27節


これらの言葉は文字通り成就しました。
とても長い時代にわたって、イスラエルは国々の間を散らされましたが、20世紀に入り、彼らの多くはパレスチナに帰って来ました。
彼らの散らされた時代はいまだに終わってはいません。
神の聖なる律法を違反し、彼らが罪を犯したので彼らは散らされたのです。
28〜29節にてモーセが続けて言っています。

「あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。
そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。」
新改訳聖書 申命記4章28〜29節


この最後の節はいまだに成就していません。
明らかに、それはバビロンから復帰のことを言及していません。
その復帰とは、イスラエルが地のすべての国から戻ってくる時のことであり、国家としての最後の悔い改めが行わなければなりません。
この分散は、単にネブカネザルの時代に行われたことではなく、むしろ私たちの主イエス・キリストの十字架刑の40年後、エルサレムの破滅に続く、世界的な分散について言及しているのです。
決してイスラエルの人々が神にこころから立ち返った時代が始まっていません。
従って、イスラエルはいまだに彼らの国に戻されていません。

現在の動きでは、イスラエルは神に立ち返っていません。今は単に国として目覚めたのです。
今でも多くの者がパレスチナに戻るように導かれています。しかし、今もなお、彼らは不信仰の中にあるのです。
このような復帰は聖書の他の個所で予測されていますが、ここで、言及されていることではありません。
この状況は、このあとに続く節において示された、国家としての悔い改めという結果に導かれるでしょう。

「あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。
あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」
新改訳聖書 申命記4章30〜31節


私たちは苦難の来ることが、はっきりと最初に述べられているのをここで理解することができます。
確かに30節は「イスラエルの人々が通る長い悲しみ」について言及されていませんが、「後の日」にある苦難の期間を明確に設定されていることを言及しています。
この言葉は、イスラエルは神自身が回復される前に、終わりの日まで国家として神が取り扱うことを言及している預言を知っている者であれば、誰でも知っています。
、私たちが詩篇にたどり着くまで、この同じ時代について、他の個所でははっきりとは言及されていません。

詩篇の多くの個所は私たちにイスラエルが苦しみの時を通る経験をすることを教え、栄光の結果が何であるか私たちに教えています。
詩篇の証言は教理として扱うことを許していません。
私たちは預言者のいうことに耳を傾けましょう。
私たちは預言者イザヤの書から多くの個所を引用してみましょう。
私たちは二つのことについて考えてみましょう。
イザヤ書13章6〜13節では、主の怒りの日を、絵で見るように生き生きと描いています。

「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。
それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。
彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。
見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。
わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。
わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。
それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」
新改訳聖書 イザヤ書13章6〜13節


すべての預言者が至るところで「地」という言葉によって示しているのは、パレスチナの地、もしくは、地の上にある神の人々の家です。
「罪人たちをそこから根絶やしにする」
これは国家として通る苦難の一つの結果です。
背教者は滅ぼされますが、残りの者は主に立ち返ります。
私たちの主自身が、後に天の星と星座に現れ、その時明確に起きるべき超自然的な出来事があることに気付いてください。
太陽は暗くなり、月は光を放たなくなることをここで述べています。
私たちは再び彼らに理解することを願って、これらのことを念頭におきます。
単にイスラエルの人々がその日に罰せられるのではなく、裁きがプライドと傲慢のために世界の上に下されるのです。
これらの節は私たちの誇りとする文明の終わりをはっきりと描いています。
その時、神は文明の終わりをそのままにしてほっておかれます。
それらは今の世界にある悪が文明の終わりに向かって急いでいることを私たちに教えています。
それらは私たちに背教したイスラエルが耐えなければならないこと、不信仰な異邦人が患難を通り抜けなければならないことを語っているのです。

もし、ロシアの巨大な帝国に起こったことが、何であるか私たちが覚えているなら、私たちはこの預言が意味している箇所について知りたくなるでしょう。
長年の間、神のためだという、なんと腐敗した、そして偽りの告白の教会がそこに存在したのでした。
福音主義者はひどく迫害されていました。
イエスの名前を告白するこれらの罪と腐敗に答えるかのように神が旧体制を倒して、それに続いたひどい状況を許すまで誇りと傲慢は打ち勝っていました。
神の人々はひどく苦難の中で苦しみました。
しかし、神の怒りが注ぎだされましたが、その聖徒は神の怒りを知りませんでした。
今、イザヤ書17章4〜11節に戻って見ましょう。

「その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。
刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。
オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つが実りのある枝に残される。・・イスラエルの神、主の御告げ。・・
その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。
その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。
あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。 それで、あなたは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。
あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。」
新改訳聖書 イザヤ書17章4〜11節


4〜7節で私たちは後の日にあってイスラエルの残りの者を見つけます。
そして、8〜10節では、私たちは彼らがパレスチナの国の中で優勢な状態であることを知ります。
私たちはすでにすべてのことが終わりに向かって進んでいるのを見ました。
10節の預言に気をつけてください。
彼に反抗した長い年月ゆえに、ここでは神は人々に語りかけています。
これらの国は抜き去られます。
ちょうどイスラエルの大いなる苦難の日の前に、彼らは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさすのです。
最近、非常にたくさんのぶどうの植木が輸入され、パレスチナの土に植えられたという驚くべき事実があります。
現在、ユダヤ人指導者が長い試みの日がもう少しで終わることを知って、彼らの先祖の約束とおりに、もうすぐ乳と蜜の流れる土地になることを期待してイスラエル自身を祝っているのです。
神は「あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。」と言いました。
このことは誰への病と、そして誰へのいやしがたい痛みだと言っているのでしょうか?
この質問への答えは、私たちの前にある問題を解決するでしょう。
この一節では、神はイスラエルの背教と、神がイスラエルをどのように扱うか話していました。
私たちの祝福された主が地にいた時、パレスチナは国々の中で最も実りの多い国の一つでした。
歴史学者ヨセフスの報告している通り、エルサレムが包囲される前のガリラヤの通常の状態は、今ではほとんど信じられほどです。
その国はとても生産的であり、人口が密集していました。
しかし、イスラエルがこの訪れの時、そしてメシアとして拒絶された救い主と、イエスの権威を知らないのです。
神は人々を拒否して、彼らを投げ出して、彼らの土地を打ちました。
その時以後、パレスチナは偉大な砂漠のようになりました。
そこにはオアシスがないので、大きい人口を支えることができません。
その国の気候はさらに変わりました。
主な理由としてはレバノンの山々の広い森林は破壊されたのが原因とされています。
トルコ政府はその荒廃を単に助けました。
トルコでは、木を切った後に木を決して植えるようなことはしませんでした。
そして、最後の100年間は木に税金をかけたのです。
それは、人々がこの税を払うよりも、それらの果樹園と森林を切り倒した方がより安いことを見つけることであり、法外なことです。

もし私たちが預言のことばを持っていなかったなら、私たちが仮にイスラエルの最終的な祝福である新しい時代来ようとしていてもをそれを取り除くかもしれません。
しかし、私たちは神が明らかにしたものを学ぶので、私たちは貧しいユダヤ人が帰ってくるのを見て、私たちのこころが痛むのです。
彼らはこのことをわずかにも理解しています。
彼らの苦難の時はまだ来ていません。
彼らは彼らの父に拒否され、彼らがメシアを認める前にその苦難を通り過ぎなければならないことを、彼らはわずかに認識しているだけです。

今、私たちは預言者エレミヤに戻ります。
主がイスラエルとユダについて語られた言葉は次のとおりです。

まことに主はこう仰せられる。「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。
男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。
ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。
その日になると、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。
彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。
新改訳聖書 エレミヤ書30章4〜9節


この章とそして後に続く節を注意深く読んでゆくと、私たちは前に論じていた主題について、さらに優れた多くの詳細な事柄が与えられるでしょう。
私が特にここで強調することを望むのは、苦難の時代に対して、違った名前が与えられているということです。
それは確かに「ヤコブの苦難の時」と呼ばれ、私たちが心にはっきりとこの名前を持つことは大切なことなのです。

それは教会の苦悩の時ではありません。
私たちは現在、苦悩する時をたびたび持つことがあります。
地上に教会の証しが始まって以来、今まで私たちはずっと苦難を耐えてきました。
しかし、前例のない「ヤコブの苦難」と呼ばれる苦しみの時は、私たちが前に言及した節とはとても違っています。
もし、聖書を学ぶクリスチャンが、預言がユダヤ人、異邦人と神の教会に関わることを常に注意深く区別してするのなら、この全ての主題を解くことは難しくありません。
それは、この3つのはっきりした分類を混乱させることによって、聖書に反する多くの神学を、神の人々に押し付けているのです。
その時、彼らは、彼らの神、主にもう一度仕えるのです。
ダビデの真実の子は、イスラエルのメシアとして認められ、ダビデの王座に着座されます。
それはダビデは「最愛の者」を意味し、すでに父なる神は主イエスキリストを喜び、愛する御子として任命していたのです。
彼はダビデの子として拒否されました。
最初にイエスが来られたのは、恵みにあって来たのです。
しかし、二度目にはキリストは力と栄光に満ちて帰ってきます。イエスは強い特徴をもって、迎え入れられるのです。

私たちはエゼキエル書から多くの節を引用します。
エゼキエル書20章33〜38節について私たちは考えてみましょう。

「わたしは生きている、・・神である主の御告げ。・・わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。
わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。
わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。
わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。・・神である主の御告げ。・・
わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、
あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
新改訳聖書 エゼキエル書20章33〜38節


人々の上で注ぎだされる神の怒りの時は、イスラエルの神への回復の直前にイスラエルがクライマックスを経験するためであることを注意してください。
その時、神はイスラエルの中から反逆する者と罪を犯す者を一掃します。
その時、異邦人の土地からイスラエルの国の中へと、残りの者を取り戻し、イエスがイスラエルの羊飼いとしてご自身を彼らに知らせるのです。
これらの知識には、健全な解釈の可能性以外には、神の教会を言及することはありえません。
主は私たちに「主はなぜ苦悩の時をなぜ許可した」かを語りかけています。
それは神に反抗するイスラエルの者たちを裁くためであり、反抗するものから残りの者を引き離す時なのです。
キリストはその残りの者を羊飼いのむちの下を通り過ぎさせ、主は彼らを御自分の群れとして確認するのです。

ダニエル書は異邦人の時代の偉大な預言書です。
国々の支配下で、イスラエルの経験することを私たちに教えています。
私たちは注意して詳しくダニエル書12章1〜4節を引用してみましょう。

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」」
新改訳聖書 ダニエル書12章1〜4節


ダニエル書11章では、ペルシャ帝国の征服から、ちょうど終わりの時の直前にある二度目のメシアの来臨(地上再臨)まで、神が国々をどのように取り扱うかを驚くべき描写をもって私たちに教えています。
その日、このようにイスラエルが苦悩の時を通って行くことが、いままでありませんでした。
どのような結果がそこにあるのでしょうか?
神は言われます。
「しかし、その時、あなたの民(ダニエルの民、つまりイスラエル)で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
もしくは、これらの人々はよみがえるのです。
何世紀もの間、彼らは地のちりの中に眠リ続けています。
ある人たちはこれを文字通りにとるでしょう。
しかし、実際には、異邦人の間に散在しているイスラエルの現状を述べているのです。

しかし、この苦悩の時に、わずかにいる残りの者について述べています。
イスラエルは終わりない命に目覚めます。
またいくらかの背教者についても述べています。
イスラエルは終わりない侮辱と恥に目覚めるのです。
この苦難の時代は最後まで苦難の連続なのです。
明らかに、神の御霊は後の日の苦難についてモーセによって話されており、その定められた期間であるという見解があります。
小預言書の預言者はこの悩みの同じの恐ろしさを描写することに優れています。
しかし、私たちは二つの旧約聖書の引用によって、私たちは満足しなければなりません。
ヨエル書3章9〜11節に注意してください。

「諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。
あなたがたの鍬を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ。」と言わせよ。
回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。・・主よ。あなたの勇士たちを下してください。・・」
新改訳聖書 ヨエル書3章9〜11節


これは、イスラエルが不信仰のままで国に帰り、後の日、パレスチナの国に、大きな戦争をするためにやって来る異邦人へ神は呼びかけているのです。
主御自身が天の軍勢とともに、この国に下ってくる時まで、その恐ろしい戦争が続きます。
ここで任命されているのは「あなたの勇士たち」でありますが、この勇士とは誰のことを指しているのでしょうか?
私たちには、私たちを案内するものが他に何もないならば、私たちは、彼らを天使とみなすかもしれません。
疑うことなく、聖書が示す数の天使が、キリストの従者の中にいます。
私たちは過ぎた時代と、今の時代の聖徒がこれらの勇士であると、判断すべきであるとわかるのです。
その者は主によって捕らえ上げられ、この大いなる苦難が始まる前に栄光を受けたのです。

ゼカリヤ書の最後の章で大いなるハルマゲドンの決戦について述べています。
そして、最後に主の来られる直前に、エルサレムを包囲されることを語っています。

「見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書14章1〜4節


ここで私たちは私たちの主が現れる時の素晴らしい描写があります。
この節は、大いなる苦難がユダヤ人が体験してきた過去の経験について言及しているのではないことを証明しています。
教会もいまだ、このような苦しみは経験していません。
しかし、王国の準備と義をもって地全体を治めるために天からイエスキリストが現れる直前に、ヤコブの苦悩の時はあるのです。
旧約聖書から、私たちは後の日に、イスラエルの未来の歴史において、苦難が起きることを学びました。
人々はもっともユダヤ人の存在を感じるのでしょう。
しかし、すべての異邦人の国は背教化され、同様に苦悩をも共有するのです。
それはその時代には、驚くべきことが起こり、天と地の上においてしるしが始まリ、単なる神意による裁きの時ではではないことが解ります。
そして、人間は無理やり神を認めさせられ、神ご自身が彼らを怒りと憤りをもって取り扱うのです。
全て過ぎ去った苦難は単に自然なことであり、神の御心によるのです。
しかし、このときの苦難は超自然的な出来事によって特徴付けられ、人間は死を望むが、死は彼らから逃げ去り、彼らは生きる恐怖を味わうのです。
私たちはさらにこの苦難によって、イエスキリストが勇士たちとともに鉄の杖をもって治めるために帰ってこられ、その義に至るのを見出すのです。
試みの間、イスラエルの残りの者は国の背教した部分から引き離されます。そして彼らは主に悔い改めるために立ち返り、そしてイエスがくる時、メシアがイエスであることを認めます。
この残りの者が真実のイスラエルであり、神の所有する民なのです。
彼らにたいして、このように書かれています。

「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章26節


彼らは山上のひとつかみのとうもろこしです。
オリーブの落ち穂は最高の買い物です。
そしてついには、このように書かれている通りになるのです。

「芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」
新改訳聖書 イザヤ書27章6節


今、私たちは新約聖書に立ち返り、そして、もし私たちが悲痛と絶望的な悲しみのこの時代にいくらかのより優れた光を得るならば、理解できることなのです。

最初にマタイの福音書24章を見てください。
この御国の福音のある部分で、私たちの主が二度目に来られることを、この地上ですぐに打ち勝つ姿として描いています。
とはいえ、イエスの体、もしくは私たちの今知っているようなどのような証言も、教会について話されたとはっきり語ることをイエスはしていません。
この偉大な預言はより古い預言書と一致しており、奥義である黙示録の前に与えられました。

私たちの主は私たちにイエスが二度目に来られる直前に、イエスに執着し、彼の名前を愛する残りの者がパレスチナの国の中で輝く姿を明らかにしています。
15節の中で表わされてことは、特別な試みの時が始まることです。

「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)」
新改訳聖書 マタイによる福音書24章15節


これは私たちをダニエル章に戻し、大いなる苦難のスタート地点を明確にします。
彼はマタイによる福音書24章16〜29節の中で述べられています。

そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
死体のある所には、はげたかが集まります。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
新改訳聖書 マタイによる福音書24章16〜29節


特に注意してください。この個所は異邦人が責めてくることに関連していること以外は、すべてユダヤ人について書かれており、すべてがパレスチナの国で起こることが述べられているのです。
ここで、私たちは、主御自身によって「大いなる苦難」というはっきりとした名前をこの試みの時代に与えているのを知ります。
それはモーセからマラキに至る預言者たちがはっきりと、マタイによる福音書24章30〜31節に書かれている同じ時代を的確に語っているのです。
私たちはその個所を読んでみましょう。

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
新改訳聖書 マタイによる福音書24章30〜31節


このことは大いなる苦難が決して過去の出来事ではないことを容易に理解させます。
イスラエルが過去に経験した事に関係して、もしくはこれらが教会のために対して書かれているのではありません。
それはアンテオコス・ステファノスの下にイスラエルが苦しんだことを述べているのでなく、私たちの主が将来について話されたのです。
それはテトスとベスパシアの時代に彼らが苦しんだことについて述べたと言うことはできません。
これらの過去の経験は神の御子の来られて、クライマックスに達することはなかったのです。
それは教会が過去の経験してきたことに一致する可能性は完全に否定されることであり、異教徒の皇帝、もしくは教皇による迫害時代のことでもありません。
なぜなら、これら両方のことは、過去からいままで長い間、人の子はまだ来られていないからです。
イエスが来られることは大いなる苦難の終わりが来たことを明確にするでしょう。
私たちは単にまだ来ていない未来におきることだと結論づけ、私たちはそれがイスラエルの未来に起きなければならないことを聖書が示すと考えました。
それは教会のことではないのです。

聖徒は来ようとしている試練の時から守られるでしょうか?
私たちはマルコによる福音書と、ルカによる福音書と、マタイによる福音書で与えられる証言を比較して見ましょう。
私たちはマルコによる福音書13章14〜27節の中にある節が、マタイによる福音書の出来事とほとんど並んで書かれていることを知っています。
注意深く読んでみると、私たちがすでに読んだことを確認しているだけで、つまり大いなる苦難がまだ来ていないことだということです。そして、それが最後に人の子が力と偉大な栄光を持って雲に乗って来られると言うことです。
ルカによる福音書21章では、テトォオス将軍の下にエルサレムの崩壊させらえたことと、人の子が来ることの間にかなりの時間が経過しなければならないことは明らかです。
エルサレムの崩壊の預言は20〜24節の間に書かれています。

「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
新改訳聖書 マタイによる福音書21章20〜24節


特に気をつけることはそれが聖都の没落とパレスチナの荒廃の後に続いて起きることです。
エルサレムは異邦人の時が満ちるまで最後に国々に踏みつけられ、支配されます。
この「異邦人の時」という表現はエゼキエル書30章3節に同じような言葉が見つけられますが、聖書の中に他にどこにも見つけることは出来ません。

「その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。」
新改訳聖書 エゼキエル書30章3節


エゼキエルはイスラエルの上のネブカネネザルが勝ち誇り、イスラエルが助けを求めて「向きを変える力」について述べています。
エジプトとエチオピア。
異邦人の時はネブカネネザルから始まりました。
これらの国々は人の子の来られる時まで続きます。
人の子は石として来られ、巨大な石の像の足を打ち、ことごとく打ち砕いて、地の四隅へとちりをまき散らします。
その時、大きな山となって全土に満ちるのです。
その実際の状況の直前に起きることがルカによる福音書21章25〜27節で与えられています。

「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」
新改訳聖書 ルカによる福音書21章25〜27節


ここで言及されている超自然的なしるしは、大いなる苦難の間に起きることをすでに私たちは知りました。
一方では、26節に示される状態が人類の心の中にこれらの出来事が刻まれることを示しています。
この苦難の期間のクライマックスは天の力が揺り動かされる時にあります。
その時、人の子は王国を得るために、義をもって君臨するために雲に乗って降りていることがわかります。
注意深く多くの聖書個所を考えてみてください。
特に旧約聖書の預言において、私たちはどのように主が来られるかを考えてみましょう。
キリストはイスラエルの背教と反抗する異邦人世界を裁きとともにを打ちます。
彼らは主の御前で滅ぼされます。
もう一方、イスラエルの残り者は審判から免れただけではありません。
彼らは彼らが長い間捜し求めていた王とメシアを迎え入れるのです。
非常に多くの異邦人が獣を崇拝する者の上にある滅びから救われ、そして地の上に千年間、私たちの主の王国の中心を形作ります。
これは人の子が来るための予定された計画です。
この「人の子が来る」という言葉は、決してキリストの地上再臨のことであり、教会が目を向けることと教える特別な解釈ではありえません。
私たちの主がイスラエルに語った時、主がこの地上にあった時、主は何度もこの表現を使ったのです。

ヨハネによる福音書14章の中で、私たちの主は共観福音書において描かれていない、主の来られる様子を予告しました。
これは最初に明らかにされた言葉であり、私たちは新約聖書の中で一般的に空中再臨(rapture)と呼ばれていることについて言われていることを知っています。
この特別な状況は人の子が来ることと、いつも区別されています。
上記の事実を念頭において、今私たちは黙示録3章10〜11節に戻ります。
フィラデルフィアにある教会の御天使に手紙を書き送り、私たちの主は言いました。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」
新改訳聖書 黙示録3章10〜11節


これらの手紙は7つの教会に「今、あること」つまり、それは現在の時代全体において、地上にある神の教会の一般的な状態について示されたのです。
私たちの主が来るまで、これらの教会は道徳的な、そしてここで描かれている霊的な状態を見つけるのです。
これら7つの手紙は、ここに出てくる御使いの証言の最後まで、つまり使徒たちの時代から教会時代の七つの明確な期間の特徴的な個性(状態)を示しているのです。
この七つの手紙の中にある警告と奨励と約束は、時代を通し、すべて神の教会のためにあるのです。
本物であることを示された人たちについて述べられています。
その者はキリストのことばを守り、彼の名を拒みません。
そのことはわずかな真実なクリスチャンが言うことの出来るもっとも小さなことです。
この「地に住む」と言うことばはギリシャ語の「oikouomia」ということばが翻訳されています。
使徒たちの時代、ローマ帝国の支配下、そして預言の適切な活動範囲にある世界の部分と、すべての外国扱いされた野蛮と呼ばれていた人々から区別するために使われた言葉です。

特にこれらの裁きにさらされる人たちは「地に住む者」として確認されています。
この表現が黙示録で何度も繰り返し使われます。
注意深くこれらすべての節を考えてゆくと、彼らは単にこの地球に住んでいる者たちのことを指していないことを容易に解ります。
しかしこれらの者たちは天的な召しと、それらに基づく希望と、地の上にあるすべての慈愛を軽蔑しました。
別の言い方をすると、彼らはピリピ人への手紙3章で書かれていることと同じ者たちです。
彼らは「彼らの思いは地上のことだけ」だと言われているものたちであり、彼らは天的な召しを拒みました。
この約束はこの時代にある現実の信者にはっきりと宣言しています。
すなわち、真実な教会は来ようとしている試みの時から守られるのです。
クリスチャンたちの過ぎた歴史を通して暴かれた、たびたび起きる苦難の連続からは彼らは救われませんでした。
しかし、彼らはこの特別な時間からは守られるのです。
それは神の御霊がこの用語を使って話すことにより、明白にさせます。
クリスチャンはたいてい理解していると期待します。
試練の時とは、聖書の他の個所でたびたび話されている試みの時のことです。

訳者注)新改訳とKJVを比較してゆくと新改訳で「試練」という言葉が、KJVでは「trial」と「temptation」は二つの言葉で使い分けられています。

一例をあげると新改訳では「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章6〜7節


「さまざまの「試練」」と書かれているのが「temptation」、「信仰の「試練」」が「trial」。
ここでは外から来る苦難が「temptation」、神から来たものが「trial」とされています。
しかし、クリスチャンにとってすべての試練が神の許可にあって神から来ているのです。
ギリシャ原語では「temptation」「trial」ともに「
dokimion--テストする」という一つ単語が使われています。
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章36節


私たちはそのことについて旧約聖書で、さらに4つの福音書で何を、言っているのかを時々学ぶことがあるでしょう。
私たちは、書簡の中で試練の時を引用している個所について考えてみましょう。
テサロニケ人への手紙第一はパウロの書簡のうちもっとも初期のものです。
神の御霊は教会に教えるために守っておられます。
この手紙において、聖徒のために今にでも起こるべきキリストの再臨(二回目の来臨)を表わしています。
誰も神の御霊を探すこと無しに4章を読むことはできません。
神の御霊は、教会が私たちの主の帰りを毎日期待し続けて生きるように主張しています。
大いなる苦難の終わる日に人の子が来ることを本当に知らない限り、共観福音書で示されている人の子が来ることを、おそらく誰もそのことを毎日期待し続けて生きることは出来ないでしょう。
その結果、テサロニケ人への手紙の中で示されている主が来られる希望は、メシア王国の準備のために来られる期待と違わなければならない必要があるのです。
そして、述べられている節を注意深く考えてゆくと、このことをより明らかにするのに役立つはずです。
それは一方では主とともに彼らが来るのに対して、ここでは聖徒のために主が来られるのです。
書簡の1章の中でパウロはテサロニケ人たちの改心と、彼らが世界中に伝わった彼らの証しについて話しています。
そしてパウロは言っています。

「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章9〜10節


For they themselves shew of us what manner of entering in we had unto you, and how ye turned to God from idols to serve the living and true God;
And to wait for his Son from heaven, whom he raised from the dead, even Jesus, which delivered us from the wrath to come.
KJV =(The Revised Standard Version ): 1 Thessalonians

最後の(KJVの)文法節は、それはたいてい認められていることですが、使徒の書いたことを描写するには正確ではありません。
改訂標準訳聖書(The Revised Standard Version translates)では"Jesus who delivers us from the wrath to come."(来ようとしている怒りから私たちを開放する(引き渡す))となっていますが、J.N.ダービーは "Jesus, our Deliverer from the coming wrath,"(来ようとしている怒りから開放者、イエス)としています。
ヤング博士はとても明白に"Jesus who is rescuing us from the anger that is coming."(イエスは来ようとしている怒りから私たちを救おう(rescuing)としている)と訳しています

訳者注)ギリシャ語の救うは
ruomenon-原型ruomai は「救出する。自分のところへ引き寄せる。」という意味があります。

その要点は、単に永遠の怒りから私たちを開放するする者としてのイエスではないと言うことです。
しかし、すぐに地の上にあるすべてにある怒りから引き離すために来られるイエス私たちは見つけるのです。
このことは黙示録3章10節の約束に一致しています。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
新改訳聖書 黙示録3章10節


そして、このように教会が試みの時から守られるのです。
裁きの前に、主イエスは号令とともにご自身天から下って来られます。
キリストにある死者がよみがえり、そして生きている私たちは変えられます。
邪悪な場面の上に注ぎだされる怒りの前にイエスとともに捕らえ上げられます。

私たちが注意深く読んだので、私たちはすでに私たちの前であったことを心に留めて、テサロニケ人への手紙第二2章に今戻って見ましょう。
この手紙は使徒自身のために書かれたのか、そして特別な時にパウロが書いたこれらの者たちのために書いたのか、その両方に適切な答えがあります。
そのことを十分に考え、手紙全体から注意深く学び、はっきりと導く出せるということは確かな事実なのです。
主の来られることは、それを待つ特別な聖徒たちの思いと心において大きな地位を占めることは明白なことです。
彼らの中の何人かの者たちはこの主題に対して不安になり、彼らはすでに大いなる苦難に入ったと教えていました。
彼らは実際に彼らの上に主の日があると信じていました。

彼らは、使徒パウロが書いたとされる偽の手紙の使用してこの教えを実証しようと努力していました、この方法で行おうとした主犯者は、聖霊が彼らの考えているこれらのことを現したと宣言しました。
ゆえに聖徒は落ち着かず、聖徒たちが持っていた主が来られるという祝福された希望を失ってしまいました。
彼らはすでに大いなる苦難に入り、次に人の子が来ようしている出来事を信じ恐れていました。
1、2節を注意して見ましょう。

「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章1〜2節


訳者注」
"Now we beseech you, brethren, by the coming of our Lord Jesus Christ, and by our gathering together unto Him.
KJV =(The Revised Standard Version ): 2 Thessalonians 2:1
1節「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることによって、私たちが主のみもとに集められることによって、あなたがたにお願いすることがあります。」
KJVで"by"が使われている個所はギリシャ原語で「
uper」という単語が使用されています。これは辞書で「〜のために、〜に代わって、〜に関して」と訳されています。

改訂標準訳聖書(The Revised Standard Version)は「主の日がすでに来ている結果」を述べています。
最高の根拠である、聖書原本(写本)がこれを確証させます。
キリストの日と主の日は同じものではありません。
キリストの日とは、栄光の体を持ってキリストの裁きの座に立つ時のことを述べています。
しかし主の日とは、神の裁きが地の上に注ぎだされる時、キリストが王国を得るために降りてくる時のことを述べているのです。
使徒はこれらの信者に、以前書いた書簡のことを思い出させたのです。
彼らは主の日に目を向けていませんでした。
それは来ようとしている怒りから彼らを開放するために救い主が来られることを忘れていたからです。
彼はこれらの事実を考慮して彼らに「私たちの主イエスキリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して」について懇願しました。
私たちは悩むことも苦しむことにもなっていません。
苦しみの時の前に、来ようとしている主イエスキリストと私たちが彼とともに集められることが起こらなければなりません。
このことは今日にあって、私たちがはっきりと主張することです。
私たちは教会が大いなる苦難を通り抜けると信じてはいません。
私たち毎日、来ようとしている主イエスキリストと私たちが彼とともに集められることを期待しているのです。
このことは裁きの前に起こることです。
そのことが起こるまでは主の日は始まる事が出来ません。
巨大な街が義なる主権者に反抗すると予想します。
しかし、それらの街の中にはわずかに神の国の国民がいます。
彼らは真実な王に忠実な者たちで、彼らは残りの者が寝返ったため悲しみが覆います。
怒った君主と彼の巨大な軍隊が服従させるために、もしくは滅ぼすために来ようとしているという便りが届くでしょう。
当然、神の国の国民は心配し、悩みます。
彼らは軍隊の火にさらされることを望みません。
彼らはどうにか王への彼らの忠誠を宣言する言葉を得て、彼の考えを尋ね出そうとします。
その本営が山の上にあるとき、すべての神の国の国民は地上の王の保護下にある都市を去るように指図されます。
それは彼らを破壊から守るための特別なとりなしなのです。
すぐに軍隊の先頭は現れます。
軍隊はぞくぞくと到着し、不運な街を取り囲みます。
たくさんの巨大な大砲は離れた丘の上の有利な地点に置かれ、都市に砲撃する全ての準備は整えられました。
あらゆる種類のうわさはばらまかれています。
爆撃は今夜、もしくは明日、もしくはその翌日開始するでしょう。
神の国の国民は神経質になり、とても心配になります。
しかし、しばらくしてメッセージは彼らに届くのです。
「私はあなたにお願いします。、私の王が来て、山の上に旗を揚げ、あなたがたは王のみもとに集められます。
あなたはこれから起こることを知っているので悩んではいけません。」
そのメッセンジャーは彼らが壁の外で彼の元に安全に集められるまで、一つの砲弾も街に落ちないことを彼らに保証し、彼らの心は安静を取り戻します。
ある日、旗が上げられます。
騎兵隊が平野を疾走して来ます。
そして、同じ瞬間神の国の国民はあらかじめ決められたとおりに、街を去り、王としての主の騎兵隊によって直ちに守られます。
すぐに彼らは王のまわりに集められ、彼の足元にひれ伏し、彼らの忠実さを立証されます。
それから街への攻撃が始まるのです。
すべての人が実例を上げているように、私は一般に言われているように、このことだけが主が来る状態を十分に描いていないと認識しています。
しかし、それが少なくともこれらの開かれた個所の意味することを、使徒がはっきりと助けてくれるでしょう。

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章3節


その日とは、私たちが考えてきた試みと苦しみの時です。
しかし、背教が完全にはっきりと現れるまでそれは来ません。
神の教会がこの世ではあるかぎり完全な背教はありえません。
そこにキリストへの不誠実さとのキリストの真実の方法がたとえどのくらいあったとしても問題にはなりません。
私たちの主が宣言しています。

「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
新改訳聖書 マタイによる福音書16章18節


この御言葉の中に教会がある限り、教会は主の勝利に導かれています。
そこにそれぞれ背教者がいるかもしれません。
しかし、完全な背教はありえないのです。
だが、教会がキリストとともに捕らえられた時、すべては満ち、背教が到来するのです。
このような状態の外で、滅びの子が現われます。

「不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章3〜4節


これには恐ろしい特徴が見られ、その恐ろしい特色は最後の時に主要な行為者の一人として、新旧約聖書の中にうっすらと見えてきます。
この人物は憎むべき教皇政治が許された時代のことではなく、全体のシステムとして、もしくは過去のもしくは現在のローマ法王と関連付けることは論理的に可能ではありません。
だが、彼らの最悪の法王はすべてキリストの代理役を務めると告白するでしょう。
彼らはすべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものよりも自分自身を偉くしません。
しかし、その罪の人は絶対的に自分自身を神格化させた無神論者です。
彼は自分自身以外、神を認めません。
彼が権力の座につくことと明らかに聖なる所に立つ荒らす憎むべき者が結び付けられます。
ダニエルによって話され、大いなる苦難の真実なスタート地点として私たちの主によって述べられています。

テサロニケ人への手紙第二2章6〜10節で神の定めた時まで悪を完全に明らかにする引き止める者について私たちは話されています。

「あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章6〜10節


引き止める者とは、教会が空中再臨にて取り去られた後まで天国にいるサタンとだといういくつかの主帳があります。
他のある者たちは、これは秩序ある政治だと主帳し、秩序ある政治が勝つ限り、これらの出来事は起こる事が出来ないと主帳しています。
初期の教父たちは引き止める者がローマ帝国だと考えました。
そしてパウロは紙のうえに書く勇気がありませんでした。
それはまさに彼の心の中にあることで、現在の個人的な知識によって整理された間違った教えを告発するため、クリスチャンを訴えないようにしていたのです。
しかし、彼らはこの主題と知らなければならないので、彼が彼らといた時にそれをテサロニケ人へ与えたのです。
しかし、私たちは新約聖書にある、すべての他の書簡のようにこの手紙においても覚えておくべきです。
単にそれはその土地のクリスチャンのために書かれたのではなく、その時代(dispensation)全体の中にいるすべてのクリスチャンために述べられたものです。
したがって、6節は至る所にいるクリスチャンに述べられているのです。
そして、彼らが本当にこれらの聖書に精通しているならば、このことがわかるべきなのです。

「あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章6節


彼が聖書の次の言葉を読むように、すべてのクリスチャンは答えられるべきです。
「ただ一つ可能な答えは聖霊です。このように関係する、他に引き止めるどんな力がクリスチャンに考えられるでしょうか?」
そうです。新旧約聖書において、このことは神の聖霊の働きによる占有的な働きです。

「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」
新改訳聖書 詩篇76編10節


「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息(霊)が吹きまくっている。」
新改訳聖書 イザヤ書59章10節


聖霊は今日、教会で働いています。罪、義、そして裁きを世に宣告しています。
さらに、教会がここにある限り、私たちの主の約束ゆえに、教会の中で彼は存在し続けるのです。
「聖霊が来た時、聖霊はあなたに永遠にとどまるでしょう。」
それから、どのように聖霊はこの戦争から取り出されるのですか?
これはテサロニケ人への手紙第一4章が達成されることにより起こるのです。
主が来られるのとともに、私たちは空中で主に会うために取り上げられます。
これは神の教会を守るために、悩みの時への道を開く驚くべき出来事なのです。

再臨を取り扱う他の個所があります。
コリント人への手紙第一15章50〜58節で次のように述べられています。

「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章50〜58節


来たるべき王国の様子が二つあります。
天的であり、地上的であり、両方とも、天の御国と呼ばれてあります。
この過ぎた時代の聖徒は、王国の時代には地上で暮らしていません。
しかし、彼らの故郷の街は上にある新しいエルサレムです。
これは父の御国と呼ばれています。
私たちの主は宣言しています。

「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。」
新改訳聖書 マタイによる福音書13章43節


この地上の聖徒は、生まれつきの体を持ってこの世界で暮らします。
このことは人の子の王国として話されています。
天の御国について、使徒は次のように述べました。

「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章50節


御国の側につく天にあずかるすべての者は、その日栄光の体を持つでしょう。
あとに続く節において、これが成就される方法を私たちに与えています。

「私たちはみなが眠ってしまうのではなく(死んでしまうのでなく)、みな変えられるのです(もしくは変形させられます)。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章51節


このことは終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに起こります。
このラッパの音が終わると今の時代(dispensation)が終わり、死者は朽ちないものによみがえり、生きている者は変えられるのです。
これは私たちがテサロニケ人への手紙第一4章ですでに見たことと、正確に一致しています。
ある者たちは52節の終わりのラッパと、黙示録の七つのラッパと関係付けようと努力していますが、使徒が手紙を書いたとき、黙示録が存在してなく、その後何十年も存在していなかったことを覚えておかなければなりません。
したがって、黙示緑について何も述べることができません。
さらに、この終わりのラッパがテサロニケ人への手紙第一4章の神のラッパと同じものであることは完全に明白です。
そしてそれは、天使のラッパと全く違います。
この言葉は軍隊で使われていたようで、ローマの軍隊において大勢の者が動く時の信号として述べられています。
最初のラッパでテントはたたまれ、第二のラッパで彼らは一列に並び、終わりのラッパで彼らは離れて行進しました。
私たちは終わりのラッパを待っています。
その時、私たちは行進せずとも、飛ばなくてもよいのです。
しかし、主とともに空中に捕え上げられるのです。
そして、全地に来ようとしている誘惑の時から私たちは守られるのです。

どのような聖徒が大いなる苦難の中にいるのでしょうか?

神の御言葉によると、大いなる苦難の時代に地上に、わずかにながら聖徒を見つけることができます。
多くのこの聖徒たちは、他の者たちはこの時代全体を通して保護され、地の上に準備された王国に加えられている間、苦しみの殉教者と呼ばれます。
このために、かれらが必然的にキリストの体である教会のメンバーであると、当然のごとく結論付けることができます。
多くの者が教会をアダムから千年間の終わりまでの信仰の全家族に示された名前と考えています。
もし、人がこのように教会について考えるのなら、問題の答えが一つだけがあることがわかります。
「教会、もしくはその一部が大いなる苦難を通りぬけるでしょうか?」
たしかに信仰の家族の一員は悩みの時の間に大きな苦しみに耐えなければなりません。

すべて時代(dispensation)においてすべての神の子供たちが、共通して新しく生まれた者であることと、ペンテコステから空中再臨までのこの現在の時代だけに属したキリストの体の中に一員とされた聖徒と両者の違いを、もし誰かが聖書から明確に学ぶのならば、苦難の中にいる一部の聖徒を、苦難が始まる前に取り上げられた聖徒と、見分けることは難しいことではありません。
しかし、多くの信者たちがこの区別をはっきりと理解しておらず、その要点を考えることは十分に価値のあることです。
最初に注意して見てみましょう。
旧約聖書の預言はこの教会時代について述べていません。
もっとも不明瞭な事柄を別として....。(ダニエル書9章26節を例としているように。)
この時代は私たちの生きている時代です。
(この時代とは、ペンテコステから主の所有する者のために来られる時まで続いている時代です。)
モーセからマラキまで、聖書は主に一つの国、イスラエルについて書かれています(アモス書3章2節、申命記7章6節、詩篇147編19〜20節)。
それは国としての希望です。
すなわち、預言者が起こされること(申命記18章15節)、祭司(詩篇110編4節、ゼカリヤ書6章13節)、そして王(イザヤ書32章、詩篇2編6節)のことです。
この希望は民としての終わらない祝福をイスラエルにもたらします(詩篇132編11〜18節、イザヤ書35章10節、51章11節、61章7節)。
しかし、それは彼らが再び生まれた時、初めてもたらせることです(エゼキエル書36章24〜30節)。
異邦人はその祝福の分け前に預かります(イザヤ書56章6節、65章1節)。
教会はイスラエルと同じ立場ではなく、むしろ教会にイスラエルが支配されます(イザヤ書14章1〜3節、60章3〜5節、62章2〜3節)。
主(ヤハゥエ)の力とメシアの栄光の日に導く前に、預言者は「来られてイスラエルの贖う主」を期待せずに拒否することを預言しました(イザヤ書53章)。
結果的にイスラエルはわきに置かれました(ゼカリヤ書7章13〜14節)。
拒絶されたメシアが天において主(ヤハゥエ)の王座に着いている間(詩篇110編1節)、主は将来に至るまで人々が悔い改めるように従事しているのです(ホセア書5章15節)。
エレミヤ書30〜31章で宣言しているように、最終的にイスラエルはわきに置かれているのではありません。
しかし、神の恩恵による彼らの回復とパレスチナの土地の前に、イスラエル人は匹敵しようがない迫害と懲罰の短い時代を通り抜けなければなりません。
それを「ヤコブにも苦難の時」と呼んでいます(エレミヤ書30章7節)。
この時が終わる時、彼らは彼らの主として十字架につけた者を認める準備が出来るのです。
そして「ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆く」のです。(ゼカリヤ書12章10〜14節、13章6〜7節)。
彼らの悲しみの最も暗い時に、エルサレムが軍隊に囲まれ、彼らが恐ろしい苦しみの中にいる時に、彼は彼らの救出者、そして彼らの敵を滅ぼす者として現れます。
そしてその後、ダビデの倒れている仮庵を起こし、義の支配の到来を告げます。(ゼカリヤ書14章、アモス書9章8〜15節)

新約聖書において、私たちは多くの新しい知識が入ってきたことがわかります。

そしてそのことはこの世にあって、神の聖霊による、現在の働き無しでは説明がつかないことなのです。
ローマ人への手紙11章の中で、私たちは約束の木から自然の枝(イスラエル)が折られ、野生の枝(異邦人)は、彼らの場所に接がれます。
別の言い方をすると、国家的に示されたイスラエルの拒否は、前兆ではなく、恵みに道をゆずることです。
したがって、旧約聖書の預言の中にある異邦人への祝福は、このように恵みが彼らの最終的な祝福に反してないという証明として引用できるのです。
しかし、異邦人の中でこの特別な働きは永遠には続きません。
なぜなら、もし彼らが神のいつくしみの中にとどまっていなければ、彼らは切り倒され、再び自然の枝は接ぎ木されるのです。
神は今も働いておられ、彼の地上にいる民が「ロ・アミ」であり、彼によって認められてない時代のユダヤ人に告げられていません。
(ロ・アミ---ホセア書1章9節、「私の民ではない」という意味)

「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時まで」なのです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章25節

このことは「不思議なこと」の一つです。
そして「隠されていること」の一つです(申命記29章29節)。
それは今まで現されていなかったのです。
主イエスは、エルサレムの破壊の預言の中で荒廃の長い期間とそれに続くの異邦人の時代、そして彼は個人的に現れてそれを終わらせること(政治的な面から)を確かめています。
ルカによる福音書21章24節の記録です。

「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
新改訳聖書 ルカによる福音書21章24節


この節はダニエル書9章と関係があり、そこで私たちは70週の預言を見ます。
私たちは手短に要点をまとめてみましょう。
その時間の経過は、年の70週(すなわち490年)は「定められて」、あるいは「断たれて」であり、ダニエルの人々あるいはユダヤの国家に与えられました。
この期間が終わる前に6つの重要な出来事が起こります。
1、そむきをやめさせ...。
2、罪を終わらせ...。
3、咎を贖い...。
4、永遠の義をもたらし...。
5、幻と預言とを確証し...。
6、エルサレムの千年王国の神殿にある、もっとも神聖な場所、もしくは至聖所に油をそそぐ...。(エゼキエル書40〜48章参照)
70週は次の3つの不規則な期間に分割されます。
第一に7週または49年です。
第二に62週または434年です。
第三に1週または7年です。
最初の7週もしくは「苦しみの時代」にエルサレムの都市と壁が建て直されます。
その日を数え始める起点はネヘミヤ書の2章に見つけられ、その時「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令」があります。
その62週はそのあとすぐに続き、メシアが来て、終わっています。
この時代が終わり、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残りません。しかし、贖罪が作られたのです。
その時、エルサレムに今の長い隔たりの時間が来て、街は踏みつぶされるのです。
私たちの主が「世の終わりまで戦いがある」と預言しているように、最後の週に契約を確立する者が起きるまで街は破壊されています。
明らかに、この週はまだ起きていない未来のことです。
預言の時計は、カルバリで止まりました。
その時計は「異邦人が満ちる時が来る」まで、再び動き出していません。
現在は時間の限定されていない時代です。
69週と70週との間に導入された補足的な時代なのです。

「 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったか...。」
新改訳聖書 使徒による働き15章14節


神はユダヤ人にまいってしまいました。それでもユダヤ人と異邦人は等しい立場に立っているのです。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず...。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章22〜23節


両者がキリストにある信仰を通して救われたのです。
そして、このような者すべてが一つの体、教会のメンバーに創られたのです。
聖霊によって、両者とも天において主イエス・キリストに結びつくのです。(ローマ人への手紙16章25〜28節、コリント人への手紙第一12章、エペソ人への手紙4章、コロサイ人への手紙1章24〜29節参照)
これは、ペンテコステの日に聖霊のバプテスマから始まりました。
(使徒による働き2章1節、コリント人への手紙第一12章13節)
それは、主が来る時に完成します。
その時、永遠に主自身とともにいさせるために、彼の教会を呼び出すのです。
それはいつ起こるか知れない出来事なのです。
(テサロニケ人への手紙第一15章51〜54節、テサロニケ人への手紙第二2章1節)
それから、長い間延期された70週目はその過程をたどり始めます。
そして、そのダニエルの預言の完成は(その他のすべての千年王国の預言のように)完全に成就します。
贖いは69週目が満ちた後、不法によって作られました。
永遠の義は70週の終わりに持ち込まれます。
この短い期間に裁きの一つが行われます。
その裁きは背教したキリスト教界、イスラエル、その他の国々の上にあるのです。
平和の君に反逆したため、恐ろしい結果がそこにあるのです。

ヨハネの黙示録の4〜19章は全体的にその厳粛な出来事を描いています。
その聖徒は教会と同じように前の時代(dispensation)の者であり、彼らは24人の長老として天にてあがめられているのがわかります。
そして、この週の始まる時に子羊の血によって贖なわれた者なのです。(黙示緑5章)
彼らは終わりに主の栄光が現れる時に「主のことば」とともに「天の軍隊」として前を進みます。
この三年半はイスラエルが「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から」受ける時です。
新改訳聖書 イザヤ書40章2節

それはエレミヤ書30章7節とダニエル書12章1節にある「ヤコブの苦難の時」であり、マタイによる福音書24章と黙示緑7章14節にある「大いなる苦難の時」なのです。
その契約を破るのがダニエル書9章にある君主であり、獣であり、ローマ帝国の頭です。
その者は黙示緑11章36〜39節にある強情な王と同盟を結びます。
彼は預言にある反キリストです(ヨハネの手紙第一2章18節)。
その者はゼカリヤ書11章15〜17節にある愚かな(能なし)牧者です。彼はヨハネによる福音書5章43節に主イエスによって預言されているように主の名によって来るでしょう。
そして、彼はメシアとして大勢のユダヤ人から受け入れられるますが、残りのものとして主に認められている信仰的な集まりへの残酷な迫害者と変わるのです。(イザヤ書11章11節、エゼキエル書6章8節、黙示緑12章7節)
黙示緑7章の中で、私たちはイスラエルの全部族の中から144000人と許された異邦人の数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着ているのを読みました。

「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
新改訳聖書 黙示緑7章14節

ここで使われていることばが非常に似ていることを、多くの人々は天の集まりでは当然なこととして考え、ある者はそのことを驚きもしません。
それを私たちは後ほど新しいエルサレムでの聖徒たちと共に知るのです。
しかし、注意してこの章とイザヤ書49章を比較してゆくと、私たちの主の来て、天の日数が地の上にある日数に打ち勝つ日に、王国の中心をなす偉大な大勢の者がこの世界に設定されていることを明白にします。
別の言い方をすると、それはこの世界が天国のようになると述べているのです。

イザヤ書49章8〜13節で私たちは読みました。

「主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。
わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。
見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」
天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書49章8〜13節


復活、もしくは天のようなエルサレムへの植民について、ここに問題することは何もありません。
この預言全体は、来たるべき日にあって、地の彼らを通してイスラエルの復活と異邦人が祝福と関係しなければなりません。
10節のことばと黙示緑の7章16節はほとんど一致しています。
これらの聖徒たちはその時だれのことですか?
最初に、私たちは14万4千人のことを考えなければならなく、この集まりに関係していると推測しなければなりません。
ある者たちは黙示緑14章に関連していて、初穂である空中再臨のことを描いてるのだと言います。
そこでは14万4千人がシオンの山で小羊とともに立っているのを知ります。
現在、教えられていることは残された者たちが大いなる苦難を通らなければならなく、一方では選ばれた信者の集まりが大いなる苦難の前に空中再臨によって引き上げられるという事です。
この14万4千人は選ばれた集まりを代表していると思います。
この「数えきれぬほどの大ぜいの群衆」、つまり教会の大多数は大いなる苦難の火の中で清められると言っています。
しかし、聖書はそのような選択的な空中再臨を少しも主張していません。
神のことばは完全に明解です。

聖書からこれらのテキストを考えてみましょう。

「まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章23節


「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一4章17節


そこには、神の教会、キリストの身体がいくつかに分割されるためのヒントは存在しません。
全ての者はは恵みによって救われ、すべての者は差別されることはありません。

「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えて、、」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章12節


空中再臨は特別な忠実さの報酬として決して与えられているものではありません。
しかし、キリストの裁きの座に先立って起きることであり、そこでは私たちは報酬を受け取るためにすべての者が立つのです。
私たちは栄光の体をもって偉大な法廷に現れます。
もし特別な集まりだけが苦難の前に空中再臨にて取り上げられるのなら、これは真実ではありません。
さまざまな教派と組織が自分自身を14万4千人だと求めていることをは悲しいことなのです。
このことはセブンス・アドバンチスト教会と一致しており、これらの者は完全に神の戒めを守ろうとする者です。
ラッセルが主張しているのは、彼らは打ち勝つための特別に分けられており、神の性質に高められるのです。
ところが他の者たちは低い水準で救われるのです。
いろいろなペンテコステ派グループは聖霊でバプテスマされ、舌で話し、もしくは他の驚くべき賜物で特徴づけられる人たちがいると宣言しています。

しかし、事実は何でしょうか?
最初に私たちはまぼろし(黙示緑7章1〜3節)とそれから解釈(黙示緑7章4節)を持っています。
14万4千人はすべてイスラエルの子から出てきた部族です。
そして、教会が取り上げられられたあと、主に立ち返る残りの者を表わしています。
それはローマ人への手紙11章25節と一致しています。

「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時まで」、、
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章25節


なのです。

ダニエル書の中で、そして多くの預言書の中で私たちは大勢の中から区別される残りの者を見つけるのです。
彼らは賢明さを理解した者です。
彼らはヤハゥエの怒りの日の落ち穂です。
その者たちは自分の所有するものとして主によって認められるものです。
大いなる苦難の恐ろしい嵐が地の上に吹き荒れるのが許される前に、黙示緑14章の中で私たちは勝利の集まりとして彼らを見ます。
主はシオンの山に戻る時、私たちが小羊のボディガードと呼ばれるような集まりを形成し、この嵐の中から無傷で現れます。
彼らは証明された集まりであり、恵みのメッセージを決して聞くことなく、拒んだ非常に多くの人たちに王国の福音を運ぶのははっきりと解ることです。

「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。
彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。
わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする。」と主は仰せられる。」
新改訳聖書 イザヤ書66章18〜21節


ここで、私たちは地上に主の栄光の王国が設置される直前の大いなる苦難の時代に、神がイスラエルと異邦人の国々を恵みの中に取り扱うことを知っています。

私たちはダニエル書12章3節において語られています。

「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
新改訳聖書 ダニエル書12章3節


このことは、まだ来ていない苦難の時に彼らは証言されなければなりません。
しかし、ダニエルは私たちに語っています。

「しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
新改訳聖書 ダニエル書12章1節


彼らのもっとも暗い苦難と、もっとも深い悲しみの中に選ばれた者たちに起きることです。
その時、彼らの真中に主が帰って来るのです。
黙示緑7章にある14万4千人の者たちは、、

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」と言うのです。
新改訳聖書 ホセア書6章1節

ミカ書5章3節とイザヤ書66章8節に預言されているように、シオンのつらい陣痛は偉大な子供をもたらすのです。

「だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書66章8節


「一部がかたくなになった」ということは過ぎゆくはずです。
しかしホセア書3章4〜5節に書いてあるように「異邦人の完成のなる」時が来ます。

「それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。
その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。」
新改訳聖書 ホセア書3章4〜5節



これは、残りの民以外の者たちの、国全体しての真実な状態とは言えません
(ゼカリヤ書13章8〜9節、イザヤ書24章13節、またエゼキエル書20章31〜44節参照)
大勢の者が彼らの背教のために滅ぼされます。
残りの者が、国として認められ、後に、

「こうして、イスラエルはみな救われる」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章26節


のです。

ヤコブの子であることが、恵みの機会を確立しません。
ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、現在、真実を拒否する者はその時救われることができます。
マタイによる福音書21章の中で私たちは、主の来る時に、国々の民の裁きを知っています。
これは大きな白い御座の裁きと区別されています。
前者は千年王国の前であり、後者は千年王国の後に起こります。

私たちはこのように読みました。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」
新改訳聖書 マタイによる福音書25章31節


注意してください。最終的な裁きで死者からの言葉が上ってきません。
しかし、私たちは彼の前に集められた国々の民を見つけます。
また、分けられたのは主が「私の兄弟」と呼ぶ人々を、与えられた方法に従ってなされました。
ここで述べられているイスラエルの残りの者である「兄弟」とは、彼の肉に従う兄弟であることがはっきりとしてきます。
これらの者たちは彼らのために世界の基が置かれる前から準備されている王国の中に入れられ、これらの兄弟を受け取り、彼らのメッセージに心を留めた異邦人なのです。
これらは者が千年の王国を受け継ぐのです。


これらの者たちは獣のもとに迫害され、反キリストはその日、死者からよみがえり、その時主が王国を取るために降りてきます。
そして、このように最初の復活からの、最後の集まりを形成します。
その順番が黙示緑20章4〜6節で表わされていること気をつけてください。
最初にヨハネがこのように言っています。

「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた」
新改訳聖書 黙示緑20章4節前


これらは、疑う余地なく苦難の前に空中再臨の時に上げられた聖徒と認識できます。
それから、ヨハネはもう一つの集まりについて述べています。

「また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
新改訳聖書 黙示緑20章4節後


彼らは苦難の期間の殉教者です。
彼らは王国の側につき、天において彼らの受けるべき報酬を持っています。
私たちには救われていない者について、5節において語られています。

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。」
新改訳聖書 黙示緑20章5節


6節は、最初の復活に預かるさまざまな群れの中で、受けるべき報酬を持つすべての集まりを含んでいます。

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
新改訳聖書 黙示緑20章6節


しかし、彼らはキリストの体が現在、聖霊のバプテスマによって形作られているので、彼らはキリストの体のメンバーではありません。
旧約聖書の時代のように、彼らはそれぞれの個々に信じる者です。
大いなる苦しみの時代に、キリストの証人となることは、恵みをとおして可能とされるのです。
彼ら王国で共にし、素晴らしい方法で主の祝福を喜びます。
しかし、彼らはキリストの体に含まれてはいません。
それは未来のあらゆる時代を通してはっきりとした立場を持っています。

私たちの祝福された希望とは何ですか?

私たちはヨハネの福音書14章前半に記録されているイエスキリストの御言葉を十分に考え、教会の希望について、パウロの手紙から与えられた教えについて考えたので、そのことがだんだんとはっきりしてきました。
それは、キリストにあって死んでいる者を復活させ、生きている者の体を変え、父の家に彼自身のために彼らを取り上げることを、この時代にある信者が、主キリストが来る前に起きる長く連続した出来事の将来を見つめるためなのです。
もし誰かがローマ帝国の再興と破壊、半キリストの復活、そして大いなる苦難、それら栄光なる出来事の前に起こらなければならないことを想像できないのなら、この祝福された希望は常に差し迫っている出来事としては表わすことは出来ません。
いまだにそれらは私たちが見たように他の聖書個所ではっきりと示されていて、これらの状態が地球上に広がっている時、聖徒はそこにいるでしょう。
しかし、私は彼らが教会、キリストの体に属していないことはすでにはっきりしていると信じています。
それらは新約聖書の中に表わされ、私たちには、主が来るために二つの計画の事実にあることを知ります。
彼は彼の聖徒のために来ます。
これは大いなる苦難の前に起こる空中再臨です。
そして、主が主の恵みを拒否することを主張した人たちの上に裁きを行うために下ってくる時、主は主のすべての聖徒たちを明らかにします。
これは主がこの地上に主の栄光の王国を確立し、義にあって支配するためです。
別の言い方をすると、旧約聖書、そして四つの福音書とともに他の聖書個所の中ではっきりとこの地上に主の王国を確立するため二回来ることを預言しています。
同様に主に従う者にあって過ぎたすべての時代(dispensation)から、他の贖われたすべての聖徒たちの群れと同様に、主が来られる時に、主は主の王座を共にするために、主と共にいる花嫁を持つことは、過去の時代からおおい隠されている謎の一部なのです。
これは多く者によって空想的な解釈とみなされ、この見方は何度も試みられました。
ローマからの不名誉を拒むためにスペインのイエズス会修道士 (fontish Jesuits) によって始められ、たびたび未来的神学(futurist theory)と呼ばれました。
しかし実際、問題はイエズス会の著者にあったのです。
アルザーとリベラは単純に西暦3世紀までの何人かの教父によって、やや、もしくは完全に明るさを失ったこととして教えられたのです。
他の人たちは何度も、主が大いなる苦難の前に主御自身とともにあるために、そして聖徒を取り上げるために、今このときにでも来るかもしれないという貴重な真実の上に、悪魔主義的な教えの恥辱を付け加えようと試みました。
それは19世紀初期、エドワード・アーヴィングとその弟子たちによって教えられた幾つかの神学と結なろうと努力し続ける事です。
しかし、アーヴィングの教えを知っているすべての者はだれでも、これがどのように完全な偽りであるか見抜く事が出来ます。
長い間、おろそかにされた預言的な真実が再び注目されてきた時から、前に書いてきたように主が来ることについて二つの解釈が多くの混乱を招きました。
しかし、著名な聖書教師はすべて聖書個所を注意深く、そして神の前に祈りつつ十分に考えました。
その結果、キリストの体なる教会と、来たるべき時代の聖徒を区別して見ることに導かれたのです。
これらの聖徒は苦難の時に主の証人となり、明らかにされた王国で主とともに分かち合うのです。
より注意深くこれらの見解を、御言葉を通して聖霊に教えられた神により頼む人によって調べられてゆくと、これらの事柄が彼らによってよりはっきりと神の黙示録と調和がとれていることを見出たのです。
近年特に、第一次世界大戦を追って、後患難再臨説が再燃しました。
それはヤコブの苦難の時に起きる実際の状態の前触れとして動揺するほどの多くの出来事によってその大部分はもたらせられたのです。
訳者注)後患難再臨説---患難後にキリストが再臨する。もしくは教会が患難を通るという説。

独裁政治の復活は容易に理解力を与えます。
来ようとしている偉大な世界の支配者は自分の前進する道を造り、そして神御自身の代表として歓迎されます。
何千ものユダヤ人がパレスチナへの復帰し、その土地の復興に加わります。
預言の中で、そして私たちの主御自身によって確かに描写されている出来事への準備が進んでいます。
そして、それらは最後の日に起こるのです。
これらの多くの出来事とたくさんの他の出来事すべてを勝手に結論付け、彼らの拠りどころから何人かの愛しい兄弟を離れさせたと思います。
彼らは来ようとしている人の上にあることよりも、現在の出来事に注意を向け、その祝福された希望の基準を見失っています。
この効果は健全なものではありません。
それは、来たるべき救世主のかわりに、地上的な事でこころと思いを満たす結果になります。
そのことは多くの者が導かれ、おそらく彼らはすでに現在大いなる苦難の中に入っている、もしくは、おそらくその苦難の大部分を実際に通っていると考えています。
そして反キリストが現れ、その時オリーブ山に主が現実に降りてこられ、王国を設立させるのを待っています。
しかし、私たちの見ている状態自身が苦難の時を形成しているのは事実です。
そして、それが私たちの希望が近づいている現実に、ただ私たちを導くのです。
現在、どんな時にあっても、主は死者をよみがえらし、生きている人を変えるため天から降りてくるかもしれません。
そしてその時、背教したイスラエル、背教したキリスト教のために、新旧約聖書の両方は暗い時代が来ることが預言しています。
別の見方をすると、信仰の曇った多くの者は、一般的に部分的なものとして、もしくは初穂の空中再臨として知られているものです。
これは、しかし使徒パウロと私たちのの祝福された主御自身を通して与えられる聖霊の証言によってはっきりと否定されています。
救い主は天国の住民の中で差別を設けません。
この時、主はこのように言っています。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書14章2節


しかし、主はさらにペテロが回復しない限り、天の父の家で分け前がないことはほのめかしてはいません。
実際に私たちの主は御自身に、特にペテロに述べています。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書14章1節、もしくは14章27節


主は当然、彼の弟子の魂の回復のために、ある方法を持っていました。
(主が私たちすべて者のために行うように...。)
主は主自身のもののために来られる時、残される者がいることを何も話していません。

私たちはこのように読んでいます。
「キリストの再臨のときキリストに属している者です」
コリント人への手紙第一15章23節


私たちは彼らが「ずば抜けて信仰的」とも、舌でそれを話しているとも読んでいません。
単純に「キリストに属している者」なのです。

そして再び、テサロニケ人への手紙第一の中で私たちは「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられる」という記事を持っています。
そこにはクリスチャンの働きにおいて、成熟、未熟の区別は全くありません。
もし他の聖書個所で、主の来られる時の準備が何も出来ていない人たちがいることを示すと思える個所を引用してくるなら、注意深く文脈を調べてください。
そうすれば、それぞれ上げてきたことが大いなる苦難の終わりに人の子が来られることを述べていることが証明されるでしょう。
父の家で主自身といるために、この時代(dispensation)と過去の時代の聖徒たちを受け取り、守るために主が降りて下さるのではないのです。
したがって、「後患難再臨説、もしくは部分的な空中再臨(携挙)のことを神のことばにある神学は教えていない」と自信をもって断言することになります。
祝福された希望はクリスチャンが日々期待するべきであることは、完全に明らかにされたと思います。
そしてそれが、実現される前に起きなければならない確かな出来事ならば、期待することは出来ません。
さらに、私は現在と主が来られる時との間に私の考えられることは何でも置きました。
私は私の個人的な歩みとクリスチャンとしての経験を結びつけて、永遠の価値が何であるか見失っています。

「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章3節


信者のこころと思いを制御するのに有効な手段を私は何も知りません。
しかしそれは、主の一つの目標と目的は主御自身に清く分離して歩むことなのです。
今にも、主が私たちを贖うために来られ、そして父の家に私たちをつれてゆくと考え、自分自身を清く歩ませるためなのです。
ある人は確かにキリストの2度目の来臨に知的な見解を持ち、さらに前患難再臨説にも知的な見解を持つでしょう。
しかし、もし私がこの希望に捕らわれるのなら、それは個人的な敬虔が育たないという結果にはなりません。
訳者注)前患難再臨説---アイアンサイド氏が説いている説そのもの。患難前にキリストが再臨し、教会が患難の中を通らないという説、いや真実です。

その時、私たちは彼の聖徒のために主が来られる時を覚える必要があります。
その時、私たちはこの体にあって行った行いに応じて報酬があるのです。そして来るべき王国にある私たちの分け前が現されるのです。
ほとんどの未来主義者は、黙示録6〜19節の解釈において一致しており、私たちは大いなる苦難であると解釈しています。
その時、小羊の怒りと神の怒りが地にすむ者たちの上に注ぎだされ、サタンは天から投げ落とされます。
そして、悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒ります。
これらは大いなる苦難の状況です。
私たちはこれから来る怒りからの救出者としてのキリストを求めています。
私たちは象徴としての長老にどんな見解があろうとも、私たちは24人の人物として、もしくは天の祭司職全体を代表しているとして彼らを考えます。
この事に、心を留めるのなら、彼らは裁きが始まる前に冠を受けるのです。

これらの事実を考えて見ましょう。
小羊が七つの封印の巻物を受け取り、その封印を解くまでその苦難の時代は始まりません。
しかし、天に聖徒が冠をうけるのを見るまで小羊はその本を受け取りません。
いまだに聖徒でないものはだれも彼らの冠を受け取っていません。
もしくは、キリストの裁きの座が過ぎるまでに天の聖徒はそれらの冠を受けるでしょう。
使徒パウロは義の冠がキリストに、そしてキリストがその日に現れるのを、愛するすべての者に与えられるとはっきりと宣言しています。
この現れの日は、聖徒のために私たちの主が来るのを支持し、したがって教会の空中再臨(携挙)が終わるまで大いなる苦難が始まる可能性がないことは明白なのです。
言おうとしていることはより多くあります。
しかし、ここに問題を残しません。
神の民の霊的な裁きにについてテーマ全体を推薦し、その感じることはこの問題はより注意深く計りにかけられるべきだということです。
そのことはより、教会とキリストの体を明確にし、世界の上に注がれようとしている神の怒りの時に目を向けることではないのです。
しかし、悲しみの時代が始まる前に主御自身と私たちを引き上げるために来られる時に、日々目を向けて生きてゆくことなのです。
今まで書かれた真実と祝福された希望の力の中に生きることについて、日々聖書を研究することは私たちの特権となるでしょう。
私たちの祝福された希望である神、イエスキリストをほめたたえます。


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