メッセージZZ 2003/2/24

キリストの働き 
by アルノ・C・ギャバライン
(THE WORK OF CHRIST  By Arno C. Gaebelein)


始めに
すべての被造物は神の御子によって、そして、御子のために創られたことを神のみことばははっきりと語っています。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章3節

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章16節

罪が入って来た時、この完全な被造物は破壊されました。
人が堕落したとき、すべての被造物はすべての被造物も堕落したことが聖書によって説明されています。
ですから、贖いの働きが必要となったのです。
神の被造物はこの働きをなしたことも、なすこともできません。
ただ、神の御子だけが、創造者自身がこの偉大な働きを引き受け、神の賛美と栄光を達成することができたのです。
神の御子はこの偉大な働きをなすためにこの地上に現れ、人の形を取られたのです。

A、キリストの三つの側面

神の御子の働きは三つの方向から見ることができます。
一つは過去の働き、もう一つは現在の働き、そしてこれからかつて現された未来の働きです。
キリストの働きとその奉仕はキリストが王国が引き渡される時、すべてが終了し、神がすべてのすべてとなられます。

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章24〜28節

キリストの働きにおける三つの側面は預言された三つの側面と一致しています。

祭司と王

このことは教会にとって特別な意味を持ちます。
エペソ人への手紙25〜27節で私たちは次のように読みました。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 」

新改訳聖書 エペソ人への手紙5章25〜27節

これはキリストの過去の働きです。
この働き以来、キリストは水の洗いによって教会を聖別しています。
それは将来、栄光ある教会をキリスト御自身のために、キリスト御自身によって現すためなのです。
私たちは三つの側面から主の働きによって過去において救われ、現在救われていて、さらに将来、救われるのです。
また、このキリストの三つの側面を持つ働きはイスラエルの人たちにとっても重要なものなのです。

「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章51、52節

現在、この時代のおいてもキリストの地上の民(イスラエル)は決して捨てられていません。
彼らは奇跡的に地上において維持され、彼らは維持され続け、キリスト御自身のゆえに分けられ存在しているのです。
そして、未来にキリストはユダヤ人たちの贖う者として現れ、自分の所有する者として彼らを買い取るのです。
キリストはヤコブから不敬を締め出すのです。
そして、私たちたちは同様に、被造物、地上の国々、悪魔の支配という関係において、キリストの働きとの関係に付け加えられます。
この短い文章はキリストの働きにおける三つの側面を区別して考える重要性を示しています。
無知なクリスチャンはそのキリストの真実なる概念を混乱しているはずです。
その者は神のみことばを理解できない者であり、解決も無く、クリスチャンの経験において哀れな者です。
クリスチャンと告白する本当に多くの者たちの現在の状態はこのようなのです。
十字架の上で完了されたキリストの働きが何であるか理解できない多くの者たちがいます。
この無知のために、これらのクリスチャンは彼らのために神が何を行ったのか知ろうと努力しています。
どのくらい多くの者たちがキリストにある間違った立場を取っているのでしょうか?
そして、キリストの祭司としての働きを間違って理解しているのではないでしょうか?
将来あるキリストの王として働きの側面は偉大なものですが、もし、間違って理解しているのであればそこに大きな混乱が生じます。
ゆえに、私たちの持つテーマは重要なものなのです。
しかし、神の人々でさえこれらの真実を正確に理解していません。
そして、この真実にとどまり続ける必要があり、聖霊の力を通してこれらの真実を理解することが出来るのです。
これは私たちが生きて行く上で絶対不可欠な現実なのです。


1.過去におけるキリストの働き

過去におけるキリストの働きは、キリストが受肉された時に完成されました。
キリストがカリバリの十字架の上で死なれた時にその働きは終わったのです。
したがって、私たちは私たちの信仰の基礎のすべてを考える時、その働きを一番最初に熟考しなければなりません。

1、神の御子の働きは旧約聖書において預言され、型として示されています。
2、神の御子が受肉されたのです。
3、キリストの十字架の働きは受肉によって何かが完成されたのです。
神は神の御子の働きを前もって知らせていました。
これは偉大なテーマであり、強調されるべき必要の一つです。

また、これらの型と預言は違った方法によって示されました。
最初に、地上において何度も超自然的な方法をもって現れたことについて私たちは述べることができます。
この現れはまさに、神の御子としての存在でした。
罪が入ってきた時すぐに、失われた者たちを見出そうとしてこの場面にこの方は現れたのです。
この方御自身がこの約束について知らせています。
女の子孫が蛇の頭に傷を負わせるのです。
このことは創世記3章15節に説明されています。
神の御子の受肉、十字架上の購い、そして、神の敵に対する圧倒敵な勝利。
その時、神は裸の被造物に皮の上着を作り、着させることによってこの勝利を表したのです。
神のみことばの始めに、神が行おうとしている祝福された贖いの働きがどのようなものかを私たちは知ることができるのです。

ヤハゥエの現れ

そうです、同じヤハゥエは、アブラハムに見える姿に現れたのです。
ヤハゥエは旅行者として、二人の御使いを連れて来ました。
ヤハゥエはアブラハムの目前で食事をし、アブラハムは主として礼拝し、向かい入れました。
その存在は神の御子以外に考えようがありません。
この同じ神の御子がエマオに向かう旅行者である二人の弟子たちに復活し、現れ、また別の時に蜂の巣と魚の一片を食べて御自身の存在を現しました。
アブラハムにヤハゥエが現れた時に、アブラハムはこの主であるヤハゥエに願い出ました。
ヤハゥエがアブラハムを訪ねた後にソドムとゴモラの上に火と硫黄が天から降り注いだのです。
ヤハゥエは裁きを実行に移したのです。
ペヌエルにおいて主と格闘した不思議な人物として、ヤハゥエはヤコブにも現れました。
後にヤコブはこの人物を「私を贖われた御使い」(創世記48章16節)と呼んでいます。
繰り返し、私たちはこの方を「主の御使い」として読むことがあります。
この主の御使いは被造物である御使いを指しているのではありません。
モーセはこの方を燃える柴の中に見ました。
そして、この方の声を聞いたのです。
しかしながら、モーセは主の御使いとしてこの方と話し、この方は御自身をヤハゥエとして現したのです。
モーセはその時、その御名をヤハゥエとして認識しました。
また、この方は荒野においてイスラエルの中に住み、栄光の雲の中に御自身を現しました。
ヤハゥエはイスラエルを導き、イスラエルの必要を満たしました。
そして、ヤハゥエはイスラエルを裁き、彼らの敵を倒しました。
ヨシュアに対しては「主の軍の将」として御自身を現わし、存在をはっきりとさせました。
マノアと彼の妻はこの方を会い、この方が捧げ物の煙と火の中に天へと昇って行くのを目撃しました。
イザヤ、エゼキエル、そして、ダニエルはこの方の栄光をじっと見ていました。
これらすべての目撃は、地上に現れた神の御子の偉大な現われの予型であり、キリストの働きを知るために必要な出来事だったのです。
彼は力と栄光において御自身を現し、謙遜に人として現われて下さったのです。

もう一つのキリストの働きの予型

旧約聖書に記録されている、すべての神が与えた制度と歴史的な出来事はキリストの働きを予型しています。
そして、旧約聖書に記録されている出来事は、キリストが受肉される予告、もしくは前もって受肉されて現れた歴史なのです。
レビの祭司制度における捧げ物を捧げる制度全体は、多くの方法をもって示されたおおいなる神の小羊のあがないの働きがどのようなものかを前もって予型したものなのです。
それぞれの捧げ物と犠牲は十字架の上におけるキリストの働きを違った方面から現したものであり、キリストの聖さ、しみ無き人間性を現しています。
キリストの苦しみと失われた罪人のために示されたこれらの意味はこのように知られていました。

アベルの捧げた最初の羊から、最後に捧げられた羊、つまり真実なる神の最高の子羊であるキリストが十字架の上で死なれるまで、何千もの子羊、雄牛、ヤギが捧げられました。
しかし、キリストが十字架の上で言われた「完了した」と言われたことを私たちは決して忘れてはいけません。
数え切れないほどの獣の群れがほふられ、すべてが一つの偉大なる捧げ物であるカルバリの十字架を型として表しているのです。
すべての幕屋が詳細にキリストの人格をあらゆる方法をもって表しています。
これらはすべてキリストの素晴らしさ、そして、キリストの働きを表しているのです。
そして、何か他に言えることがあるとすれば私たちは歴史的な出来事を言うことができます。
過越しの祭り、紅海を通過したこと、荒野において青銅のヘビが上げられたことなどが挙げられます。
そして、私たちはイサク、ヨセフ、ダビテ、また他の人たちのようにこれらの人たちがした経験をも付け加えることもできます。
すべてがキリストの苦しみとそれに続く栄光を表しているのです。

直接なされた預言

より多くのキリストについて直接なされた預言が、キリストの働きを違った方面から宣言されています。
キリストが人として現れたこと、また、キリストがどこで、どのように生まれたか、キリストの歩み、キリストのなされた働き、キリストの奇跡、すべてがくり返して預言者たちによってなされています。
それ以上に、罪を贖う者としての苦しみ、王としての栄光に関連して非常に多くの事柄が前もって預言されているのです。
しかしながら、キリストの苦しみの詳細な場面については省略されていますが、感謝すべきことに詩編の22編にはその苦しみの実例として描かれています。
その通り、十字架上のキリストの死はユダヤ人に知られていることです。
イスラエルほど、キリストの死についての預言が一致した国はないのです。
その時代において、十字架という方法は人間を死に至らせることができたローマにおいて発明されたもっとも残虐な方法なのです。

さらに詩篇において、神の霊感によって与えられた完全といえる描写があります。
詩篇の書かれた時代、十字架のという死刑方法は知られていないことでした。
私たちは詩篇において、キリストの手と足が釘打たれたこと、骨々は外れ、渇きは頂点に達したことを読みました。
しかしながら、これらの預言はユダヤ人に無視されたのです。
そして、私たちはキリストの復活にたどり着きます。
キリストは神として現れ、再び来られます。
義の王として、御国を建て上げます。
これらの栄光は預言者たちによって前もって語られていたことです。

旧約聖書の霊感

私たちは旧約聖書の前もってなされた型、そして、前もってなされた預言の事実を強調します。
その理由は、この最後の時代において、非常に多くの人たちがキリスト教社会に否定する者たちが起きるからです。
これらの人たちは旧約聖書の霊感を強く否定する者たちです。
この者たちは私たちの持つべき人間の主張としては、語られた素晴らしい預言だというですが、彼らがこれらのことを神話として語るのなら、旧約聖書の霊感に汚名を着せることになります。
そして、これらの預言がメシアについて語っていないと宣言するのです。
そうです。
これらのことが聖書に書かれ、前もって示された預言であることを否定するのです。
「神は神の御子キリストの働きについて、預言者たちを通して語っていない。」
このように旧約聖書においてなされた神の奥義を否定するのです。
しかし、神によって書かれた聖書は神の御子を否定する者に対して防衛線を張っています。

「 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」

新改訳聖書 ペテロの手紙第二 2章1節

この節はこの終わりの時代において、背教化されたキリスト教社会の一面を現しているのです。
このキリスト教社会とは反キリストの社会です。
この否定は神によって書かれたみことばを無視し続けるでしょう。
高等批評と呼ばれるかもしれませんが、サタンのパン種はキリスト教社会に存在する組織化された神学だということができます。
そして、さらに罪の人として現れる反キリストを受け取る、形だけのクリスチャンと呼ばれる人たちの宗教比較という形で現れでしょう。
しかしながら、旧約聖書の中にある、この調和のとれたおどろくべき預言としての型を信じることは賢いクリスチャンを作ることになります。
また、邪悪な者たちによってこれらのことが神話だと語られるのです。
この者たちは神の奥義をよって与えられたことを信じるのに値しない者たちなのです。

2、神の御子の受肉

ここで、今、私たちは偉大な真実であり、事実である神の御子の受肉に戻って見たいと思います。
神の御子が地上に人の形を取り、受肉され現れる時、そうです。その預言された時が満ちたのです。
次のみことばを読んでみてください。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。 」

新改訳聖書 ヨハネの福音書1章1、2節

この方はにくとなって地上に住まわれました。
この方は神から来た者です。
自分自身を無にし、人間のような姿で、しもべの形になられたのです。
その受肉は深い不思議で満ちています。
その深さは人間の理解によっては決して理解できるものではありません。
私たちは深い尊敬の霊をもって近づかなければなりません。

「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
新改訳聖書 出エジプト記3章5節

ルカの福音書の最初の章において、処女になされた神の受肉の告知についての記録を私たちは知っています。
彼女は神の側から好ましい者だったからです。
彼女は家の中に座っていました。
おそらく、神への黙想の祈りの中にあったのでしょう。
天使ガブリエルが彼女に現れ、神の王座からのメッセージを受け取りました。
かつて、ガブリエルからこのようなメッセージがなされたことがあったでしょうか?
それはかつて、ダニエルの祈りに答えらるための職務のためにガブリエルが用いられたことがありました。
しかし、処女マリアへの職務はさらに偉大です。

受肉の告知

私たちはルカの福音書1章35節を読みました。

御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
新改訳聖書 ルカの福音書1章35節

キリストの受肉に対して、ここで二つの偉大な声明がなされています。
まず、最初に「聖霊があなたの上に臨み」と書かれています。
マタイの福音書で私たちはこの声明のはっきりとしたその意味を知りました。

「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 」

新改訳聖書 マタイの福音書1章20節

したがって、キリストの人間としての性質は聖霊の創造的な働きによって処女マリアに中で創られたものなのです。
それだけではありません。
キリストには罪がありません。
絶対的に聖い方です。
それはキリストは聖霊によって身ごもった方だからです。
二つ目の声明はこれです。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 」
新改訳聖書 ルカの福音書1章35節

これは最初の声明の真理に対する内容の繰り返しではありません。
もし、これが聖霊を意味しているのなら、私たちは受肉したキリストの御父が聖霊であると結論付けなければならないでしょう。
上の声明の後半で私たちは「それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」と書かれているのを読んでいます。
その高き方の力を聖霊の力とは言っていません。
その力は神の御子の力以外何者でもありません。
永遠の神の御子、その方は神です。
キリストを覆った力はキリスト御自身と結びついたことを意味しています。
処女マリアの中に聖霊によって、人としての性質が造られ結びついたのです。
キリストは「聖なる者」と呼ばれています。
キリストは全体的に新しいのですが、存在としては人か?神か?分類しきれない存在なのです。
それから、私たちはもう一度「聖なる者、神の子と呼ばれます」とは言っていますがはっきりと神の子だとは言っていません。
このようにキリストはいままで「キリストの受肉はキリストを神の子としたわけではありません。
「神の子と呼ばれます」なのです。
神が肉の中に宿ったことを証明しています。
これらを注意すべきことを付け加えることにより、もしくは違った試みによって多くの時を費やすことができました。
これらのことは大きな不思議がそこにあることを知るかもしれません。
しかし、私たちはこのような不思議を説明しようと試みるのなら、悪い教えや神学を作ろうと試みることになります。
しかし、このようなことはすべて時間の浪費です。
だれも、キリストの受肉の深さを推測できるものはいません。
もしくは、誰も神の人の素晴らしい人格を十分に理解できる者もいません。
キリストの受肉は誰も解決できない大いなる不思議です。
私たちはこのことを思索するよりも、神のみことばの単純な宣言にとどまるのがより良い事となるのです。
あるアメリカの政治家はかつてこのようにたずねました。
「あなたはどのようにイエスキリストが神と人の両方でありえたことを理解することができましたか?」
人は大いに思索し「いいえ、私は理解することはできません」と答えました。
そして、もし、私ができるのならば、私は私の救い主としてキリストを知ることをためらうかもしれません。
それは、キリストが私よりもはるかに偉大な方だからです。
このことはまさしく真実なことです。
喜びとともに、感謝なこころで私は神の聖いみことばの中に記された偉大な奥義を信じます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節

神の御子は天にある栄光を残して、この地上に降りてきたのです。
キリストは御自身を無にして、被造物の形をとったのです。
しかし、これは邪悪な神学が教えているように「神性放棄」を支持しているのではありません。
キリストは御自身の神格を「空」にしたのです。
マリアの胸元にいた子供であった方は、いままで父のふところにいたのです。
もう一度、詩篇22編のことばを聞いて見てください。

「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。 」
新改訳聖書 詩篇22編9、10節

いままで、このように真実に満ちた言葉をどんな人の子に言うことが出来たでしょうか?
ベツレヘムに生まれた子供だけがこのように言われることが出来ました。

福音の土台

受肉は福音全体の偉大な土台です。
受肉に何の意味もなければ、福音にも意味がありません。
希望も無ければ、神もありません。
この真実を否定する人は、クリスチャンとして何の正しさも持っていません。
この偉大な土台を否定されることはないでしょう。
この真実は私たちの時代において、宣言され、広く伝えられているからです。
人々はこれらの真実を信じます。
この偉大な知識は前の時代よりも、優れた知識であり、前の時代には奥義として示されていました。
奇跡です。
この奇跡には受肉が含まれていて、なおも否定されています。
そして、この否定は異端者の側から否定されているのだけではありません。
この否定はキリスト教と呼ばれる宗教の教師たちから告白されています。
私たちは「ニューセオロギー」と呼ばれている、レジナルド・キャンベルと彼に従うもの者たちについて述べて見ようと思います。
現在の多くの福音主義を唱える説教者たちは、現在のアメリカの間で福音的な者だと思っていますが、感謝なことに彼の罪についてヨハネの手紙第2、7節の光の中で、彼のかすかな異端的な考えついての結論の答えが述べられています。

「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第二 7節

そこにあるのは反キリストの組織です。
それは、クリスチャンサイエンスという名で知られています。
哲学的と言うこともできますが、単純に悪魔的な考えが存在します。
神の奥義に反対し、肉を通してキリストが来られたことを否定しています。
科学と健康(Science and Health)という本は私たちの霊感が示す通り、邪悪な本です。
上から来たものではなく、地上のものです。
彼らの考えによれば、処女マリアは神の思いを考えていました。
そこに神の考えを、彼女に彼女の考えとしてイエスの名を付けるように与えたということです。
そして、イエスは神との関係において生まれた子供であることを主張しています。
このような考えがはびこることは、この邪悪な終わりの日においてクリスチャンたちに対して慰めとなることでしょう。
彼らはキリストについての教えに敵対しています。
このような教えは主の来られる直前に起きることなのです。
キリストの人格、働きは聖書において預言されています。
この終わりの時代は今、私たちの上にあります。
このように否定するものたちは減りはしません。
逆に増えてゆくのです。

受肉の目的

はたして、受肉の目的とはいったい何でしょうか?
受肉によって神が見える形で現れ、人に知られたのです。
主イエスキリストは神が見える形で現れた姿なのです。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章18節

そのように御父が御子を宣言されたのです。
御父とともにいる者として、主イエスキリストがこのように言うことができました。

「わたしを見た者は、父を見たのである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章9節

神の性質はキリストの受肉を通して人に知られたのです。
私たちは神の聖さをキリストの人生を見て知ることができます。
キリストは御父の栄光のためにこの地上に生きたのです。
キリストは全能の神を明らかにしたのです。
キリストは人の中に何があり、何を考えているのかを知っていました。
キリストは風に命令し、水をぶどう酒に変え、自然を制御する力を示すことにより、神の力を現しました。
また、キリストは病気、悪魔、そして死をも支配していることを現して下さったのです。
そして、キリストは神の哀れみ、愛を明らかにしました。
神の御子の受肉によって、神のみことばが人間に至ったのです。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」

新改訳聖書 へブル人への手紙1章1、2節

キリストは律法と預言者たちを確証させました。
ゆえに、旧約聖書へのあらゆる批判は神の御子に対する権威と誤りのない絶対性に対して攻撃をすることになります。
キリストは同様に神のみこころをも現し、御父と永遠の命があるという現実、そして、罪の刑罰をも現したのです。
さらに、キリストは未来に起きる出来事をも預言しました。
キリスト御自身にかかわること、王国に関すること、この時代の終わりに御自身が目に見える姿で来られることなどです。
受肉はイスラエルの民の祭司として、キリストの働きを期待させるのに必要な出来事でした。
キリストは十字架の死と復活の後に、哀れみ深い、完成された大祭司になられたのです。
これが現在のキリストの姿です。
キリストは肉と血を持たれたことを、へブル人への手紙2章で私たちは読みました。
しかし、キリストには罪はありませんでしたが、私たちと同じようにすべての試みを味わられました。
キリストは私たちの弱さと助けの必要性を感じ、それに触れられ、この試みを苦しまれたのです。
このようにキリストは苦しみを受け、今、大祭司として存在しています。
次にキリストは人として、最後のアダムであり、教会のかしらであり、新しい創造のかしらであり、さらにすべての、多くの事柄にキリストの受肉は必要だったのです。
何が受肉によって完成されなかったのでしょうか?
しかしながら、神の御子の受肉には大きな目的があります。
それはキリストの贖いの働きです。
この偉大な働きのゆえに、キリストはこの地上に来られたのです。
キリストは御父の栄光を現し、律法を成就させた、この公生涯の後、彼は助け手として神の右の座で弁護をしておられます。
このように偉大なキリストの贖いの働きが続けられ、成就されるのです。
バプテスマのヨハネは手短なことばの中で神の御子がこの働きをするためにも来られたことを述べています。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章29節

罪は訴えられ、この方法によって除き去られるのです。
罪の贖罪はなされなければなりません。
捧げものは栄光ある聖い神へと捧げられ、満足されたのです。
同様に、神への賞賛は、神の義をも満足されたのです。
神との平和はなされなければなりません。

多くの罪の代価と十分過ぎるほどの罪の刑罰は支払われ、キリストは贖いへと至りました。
受肉自身、驚くべきことですが、人間の姿を取ることは神の御子としてはふさわしくない屈辱だったのです。
キリストの祝福された生涯、キリストの愛すべきことば、そう、命と平和に満ちたことば、すべてが愛と哀れみの行動、しかし、これらの事柄がこの贖いを完成させることはできませんでした。
受肉は神を人へと至らせる行為です。
しかし、決して人を聖い神へと戻すことではありません。
受肉は罪を終わらせることもできません。
そして、神の義を可能とすることもありません。
神の義は正しい方法をもって、堕落した、失われた者へと哀れみを示すものなのです。
贖いの偉大な働きは十字架上のキリストの死によってのみ可能なことなのです。
そのためにキリストが来られたのです。
キリストは御自身という犠牲によって罪を取り除いたのです。
命の権威と君主が来られたのは、多くのさまざまな者に御自身の命を与えるためだったのです。
良き羊飼いが現れたのは、羊に御自身の命を与えるためだったのです。
キリストの死によってのみ、この贖いの偉大な働きをなすことができたのです。

3、十字架上のキリストの働きによって、何が完成されたのか?

今、私たちはキリストの十字架上の働きによって、何が完成されたのか考えてみましょう。
しかし、誰がこのすべてのテーマの中で、このテーマの価値について話すことができるでしょうか?
誰が十字架上の神の御子の死という厳粛な、そして、幸いな事実にについて理解することができるでしょうか?
どんな言葉が、どんなペンがこの悲しみを描くことできるでしょうか?
これは栄光ある真実であり、まさにその方がふさわしくない死を通して死なれ、神は死を知らぬ方でありながら、キリストは死を味わったのです。
キリストは罪無き方でありながら、私たちの罪のとなられたのです。
どんな人の考えが、この素晴らしい十字架で死なれたキリストの働きの結論を想像することをできたでしょうか?
あるクリスチャンが十字架の死について話していました。
この十字架の上でキリストの働きは完成され、この死についてこれ以上する必要がないほどに彼らは十分に知りつくしていました。
しかし、彼らはより深くその真理を求めていることを私たちに語ってきます。
それ以上に彼らは十字架の上で死なれた神の御子の死よりも深い真理がないことを知っています。
理解できない深さがここにあります。
私たちは十字架に戻らなければなりません。
それでも、私たちは常に新しいものを学んでいます。
私たちの前にやがて来ようとしている、言葉にできないほどの栄光とより大きな栄光があります。
キリストの十字架と神の小羊は決して赦されることのできない世の罪を取り去りました。
しかし、私たちは十字架の死がキリストにとって、神のとって何の価値があったのかを知ることは出来ないのです。

キリストは私たちのために罪となられました。

へブル人への手紙10章において、私たちは毎年、毎年、繰り返して捧げられる捧げられることを読みました。
これらの捧げものによっては罪を取り除くことはできません。
ですから、神の御子が現れ、偉大な宣言をしたのです。
キリストは世に来られ、このように言われました。

「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。 」

新改訳聖書 へブル人への手紙10章5、6節

準備された(造られた)からだは受肉の事実を再び私たちに語っています。
その準備されたからだは聖いからだです。
汚れていないからだです。
罪の住んでいない、死の要求のないからだです。
しかし、キリストがそのからだを得たとき、このように言われました。

「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」

新改訳聖書 へブル人への手紙10章7節

そして、10節において私たちはこのように読むことができます。

「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 」

新改訳聖書 へブル人への手紙10章10節

このみこころは神のみこころであり、地の基が置かれる前から存在していたのです。
永遠の御霊を通して、キリストは神の御前に罪無き方として御自身を捧げていたのです。
神の小羊、この方はしみも汚れもない方です。
キリストの尊い血は十字架の上で流され、この贖いを得たのです。
このことはキリストにとってどんな意味があったのでしょうか?
キリストは神として、真実な人なのです。
キリストはここでは完全に聖い者であり、いつも神を喜ばし、神のみこころを行っていたです。
そう、キリストの来られたその意味は、キリストを送られた神のみこころを行い、それを飲みほすことにあったのです。
罪は神を汚す恐ろしいものでした。
さらに、キリストは聖い神として、罪を嫌い、嫌いつづけているのです。
そして、キリストはこのように私たちのために罪となられました。
キリストは邪悪な罪人の立場を取り、神の裁きのすべての波とうねりをお受けになり、その怒りはキリストの上を通りすぎてゆきました。
そのようにキリストは神の怒りの杯を最後の一滴まで飲みほしたのです。

キリストの苦しみの四つの側面

キリスト御自身において

キリストがゲッセマネの園に近づく前に、キリストの霊は悩んでいました。
私たちはキリストがこのように言ったのを知っています。

「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章27節

キリストは十字架の方を見たのです。
なぜ、キリストは園の中で苦しんだのでしょうか?
なぜ、キリストは血のしずくのような汗を流したのでしょうか?
なぜ、キリストは繰り返し祈ったのでしょうか?

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
新改訳聖書 マタイの福音書26章39節

ゲッセマネの苦しみを書いた書物がどのくらいキリストの惨めさを書くことができたでしょうか?
キリストの死、彼を十字架で殺そうとする悪魔の試み、そして、悪魔を恐れていたのなら、多くのことは書かれたでしょう。
しかし、キリストは御自身において恐れがあったのです。
罪の無い方が罪になろうとしていたからです。
神の聖い方の中に、なんという苦しみが造られたのでしょうか?
罪を嫌う神の御前で、キリストはこの苦しみすべてを受け取り、罪人の立場を取ったのです。
私たちの有限な哀れな思いにおいては理解できないことです。
キリストは人からの苦しみを受けました。

キリストの苦しみは預言されていました。

邪悪な罪人が自分自身を喜ばしい犠牲の上に至らせた時、すべての不義と堕落した思いと無慈悲は、幸いなる神の御子の上に至り、人のすべての罪を持ち去ったのです。
ムチ打ち、乱打、あざけり、つばを吐かれ、キリストはひどい恥を受けました。
十字架の嘆きは侮辱そのものです。
敏感なからだはそれらの侮辱に震えたのにちがいありません。
キリストは悪魔からの苦しみを受けたのです、
キリストは悪魔からの試みを受けたのです。
悪魔はすべてを成し、何もやり残したことはありません。
なんと驚くべきことではないでしょうか!
キリストには十字架に行き、罪人の立場を取り、死ぬこと達成しなければなりません。
悪魔は力と知恵とをもって、この目的を邪魔しようとしたのです。
しかし、悪魔は十字架に行くこの目的を防ぎきれませんでした。
キリストは自分自身を犠牲とした時、悪魔は自分の憎しみと悪意をすべてキリストの上に置いたのです。
悪魔はこの恐ろしい働きをするのに、人間を使い、悪魔の軍隊は疑うことなくこの働きを成しました。
イザヤ書ではこのように歌われています。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
新改訳聖書 イザヤ書53章7節

しかし、すべてが偉大な出来事なのです。
キリストは神からの苦しみを受けたのです。
呼吸を静かにして、私たちはこのことについて話さなければなりません。
十字架の上の偉大な働きは至聖所の働きなのです。
神の御子の贖いの働きは理解できないほどの不思議なのです。
この暗闇によって、十字架は覆い隠され、呪われた木の上の祝福された苦しみがありました。
そこでキリストは悲しみの叫びをあげています。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
新改訳聖書 マタイの福音書27章46節

この苦しみは神の小羊として、罪人の代わりとして、恐ろしい苦しみとして知られるようになりました。
キリストは聖い神の御手からの苦しみを耐えられ、その苦しみの御手によって打たれたのです。
あなたは詩篇22編の叫びが十字架の上の最初の叫びであることに気がついたでしょうか?
人はまったく異なる方法でキリストの苦しみを書いています。
福音書において、神の知恵による霊感は、この苦しみどのような苦しみかは直接、描かれてはいません。
肉体的な苦しみ、人間がどのように神の御子に対してムチ打ちをしたか、容赦無いローマが半殺しと呼んだ十字架刑のいまいましい様子が詳細には記されていません。
しかし、詩篇の中においてはすでに描写されていたのです。
どのように神の御子の幸いなる御手に釘が打たれたか、その手は多くの罪を背負った罪人たち、そして病気に犯されたからだをやさしく癒した手です。
十字架の苦しみとその哀れな御姿は、すでに詩篇において人によって描写されていたのです。
さまざまなあざける者たちと闇がこの場面を覆っています。
この場面の最後に彼の叫びが宣言されています。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
新改訳聖書 詩篇22章1節

しかし、偉大な預言を通して、聖霊はこの深い苦しみの叫びを最初に記しています。
なぜでしょうか?
それはこの偉大な贖いの働き、贖罪の働き、罪を持ち去り、裁きを神の怒りを耐えているをしている時の間に、一度だけ、すべてを成就したからです。
この同じ詩篇の中で、私たちは悪魔の力を与えられた人間たちが働いていることを読みました。
しかし、人間がキリストを死に渡すことはできません。

聖書はこのように書いています。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

新改訳聖書 イザヤ書53章6節

神は彼に嘆きを置きました。

「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。 」
新改訳聖書 詩篇42章7節

「あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。 」
新改訳聖書 詩篇38章2節

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。
あなたの激しい憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を悩ましておられます。」

新改訳聖書 詩篇88章6、7節

「私は若いころから悩み、そして死にひんしています。私はあなたの恐ろしさに耐えてきて、心が乱れています。
あなたの燃える怒りが私の上を越え、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。 」

新改訳聖書 詩篇88章15、16節

これらのみことばは神の御子に対して何を語っているのでしょうか?
誰が神の御子の悲しみと悩みを語り出すことができでしょうか?
私たちは払われた膨大な代価を十分に見つけ出すことはできません。
十字架の死は真実に語られ、十字架だけで完璧に語られているのです。
十字架の死は決して繰り返すことはありません。
それは永遠に有効なことだからです。
ゆえに繰り返す必要がないからです。
この贖いは終わったのです。
この偉大な働きはキリストが来られ、キリストが行い、完成したのです。

「完了した。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章30節

このようにキリストが十字架の上で話されたと言うことは、すべてが行われたということを私たちに確信させます。
神殿の幕が裂け、墓から聖徒がよみがえったと聖書は私たちに語っています。
では、この祝福なる働きにおいて、何が完了したのでしょうか?
私たちは曇ったガラスを見ているように、十分にそのことを理解することはできません。
しかし、そのことを知ったとき、ついに私たちは神の現してくださった真理にたどり着くことができます。
キリストはその姿になって現れ、キリストの栄光を受け継ぎ、私たちはその栄光なる姿を分かち合うものとなったのです。
罪と死はもはや私たちを支配することはなく、新しい天と地は現実のものとして私たちはこれを得るのです。
その時、私たちがキリストが成された仕事をより知ることになるのです。
すべてが、私たちの持つすべての者が、キリストのものであり、キリストのものとされるのです。
そして、そのすべての者がキリストの十字架にその祝福の根源を持つのです。
キリストはすべての者のための死なれたのです。
キリストはすべての者のために御自身を代価として支払ってくださったのです。
キリストはすべてのあらゆる人のために死を味わったのです。
キリストは全世界のための贖罪となられました。
その意味はキリストの働きはすべての罪人に有効だということですが、この全世界の罪のためでも、もしくは全世界が救われるという意味ではありません。
そのことを正しく理解した上でキリストはすべての者のために死なれたのです。
福音は失われた者と邪悪な罪人のために語られたのです。
キリストは不信仰な者のために死なれたのです。
「だれでも」、もしくは「信じる者はだれでも」というのが恵みによる福音の尊い立場であり、十字架の上で御業を完了されたキリストから響いてくるものなのです。
キリストを信じるすべての者と、主イエスキリストを自分の救い主と信じ、受け入れた者は十字架の上に自分の罪を持って行ったのです。
キリストを受け入れた一人一人の罪人は十字架を振り返り、このように言うことができます。
「キリストは私を愛し、キリストは私のために御自身を捧げ、彼は私の借金は払われた。」
キリストは十字架の上で御自身のからだをもって私の罪を十字架に持って行かせました。
キリストはあらゆる人のために死を味わったのです。
キリストは私の立場を取って下さりました。
キリストは私の代わりだったのです。
キリストは私のために死を味わられたのです。
今日において、万人救済説、ラジャーホープ、ミレニアムダウニズムのような多くの悪が教えられています。
これらはキリストの贖いが正しく理解されないゆえの間違いなのです。
このキリストの捧げものという贖いは神の側で行われたことであり、神が捧げた行為です。
また、この捧げものは世全体のための捧げものでなのですが、決して世全体が救われたということを意味しているのではありません。
キリストは多くの人の罪を持ち去ったのですが、すべての人の罪を持ち去ったのではありません。
キリストはこのようにキリストを信じる者だけのの罪の身代わりに十字架の上で死なれたのです。
救い主として、私たちの代わりとしてキリストを信じる私たちたちには何が出来るでしょうか?
私たちは多くの聖書個所でこの問題の答えを読むことができます。
しかし、私たちはその答えを簡単に手短に述べることができるのです。
それは十字架の上でキリストの働きが終了したという説明を、すべてのキリストを信じる罪人は分かち合いことができます。
私たちは完全な義を持っているのです。
私たちのすべての罪は取り去られました。
これらの罪は十字架の上でキリストが死なれたことによって、罪は取り去られ、代価は払われたからです。
神の御子、イエスキリストの血は私たちのすべての罪を清めました。
すべての贖いの御業は正しく、永遠に解決されたのです。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章33、34節

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章1節

私たちは完全な神との平和を持ちます。
平和はキリストの血にあって作られたのです。
この平和は決して撤回されることはありません。
私たちは主イエスキリストを通して神との平和を持っています。
キリストは私たちの平和です。
多くのクリスチャンたちが神との平和を自分たちの歩みと礼拝に頼ることだと考えています。
もし、このクリスチャンたちが罪を犯したのなら、神との平和を失い、神の前に立つことが出来ないと考えています。
もし、彼らの信仰が回復しなければ、この者たちは永遠に失われたことになるのです。
しかし、神との平和は私たちの歩みと礼拝によるのではありません。
神との平和を土台は、私たちには何もすることができないし、これからも何もできないことです。
十字架の上で行われたキリストの贖いにあって、神は私たちのために何をしてくださったのでしょうか?
その時、私たちは完全に受け入れられ、神の前に立っているのです。
私たちは完全に神に近づき、接触することができるのです。
私たちはキリストによって神に近いものとされました。
もうこれ以上、罪のゆえの良心の咎めを感じる必要はありません。
私たちはキリストにあって完全に除去され、清められ、神の現して現実の前に立つことが出来るのです。
キリストにある者として神に近づくことが出来るのです。
十字架の上で成されたキリストの祝福された働きは古い人を終わらせたのです。
私たちは世に対して死んだのです。
私たち自身に対して、罪に対して、律法に対して死んだのです。
古い人はキリストともに十字架に架けられました。

「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章14節

これは十字架上からなされたメッセージです。
私たちは闇の力から救われ、永遠に引き継がれる完全な立場を持つのです。
これらのことに付け加えることほど、不確かなことはありません。
私たちは救いを持ち、救われ、永遠に安全なのです。
そして、私たちは神の御子を持ち、神の相続財産を持ち、聖霊が住まわれることにより保証されているのです。
それはキリストが十字架の上で御業を完了されたからです。
そして、私たちは十字架の上で成された御業は、キリストが教会を愛し、自分自身を教会に与えたということを付け加えることができます。
しかし、ここで言わんとしているのはキリストはイスラエルのために死なれたということです。
イスラエルの残りの民である彼らはその日、不法とわざわいから助け出されます。
民数記のバラムの語ったことのようです。

「ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、主は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。 」
新改訳聖書 民数記23章21節

最後にうめきをあげる被造物は滅びの束縛から自由にされ。神の御子の祝福という特権に至るのです。
それはキリストが十字架の上で血を流された結果なのです。
天と地にあるすべてのことが(地の下にあることではありません)、キリストの十字架の死の力にあって和解するのです。
そうです。
あなたはもはや、あなた自身のものではないのです。

私たちは思い出すべきです。
私たちは代価を持って、キリストの血を通して贖われ、和解させられたのです。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 」
新改訳聖書 コリント人への手紙6章20節

キリストの血を通して、私たちの立場はもはや死んでいるのです。
キリストを信じる者はすでに死んだのです。
私たちは律法に対して、世に対して、罪に対して死んだのです。
しかし、私たちは実際には生きているのでしょうか?
死んだ者として歩み、行動をしているのでしょうか?
本当に罪に対して死んで、神に対して生きた者なのでしょうか?
神の子供であっても肉に従って歩んでいるのならば、実際には十字架の上で完成された幸いなる御業の力と価値を否定することになります。
今、キリストの十字架を私たちの言葉と行いによって、私たちは歩みの中で誉め称えてゆこうではありませんか?

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。 」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章14節


2、現在におけるキリストの働き

主イエスキリストの偉大なる働き、神のみこころにかなう愛される御子、キリストは御自身を捧げることにより、罪を取り除きました。
キリストはこの働きを為すために来られたのです。
この完成された十字架の働きこそが現在と、さらに未来におけるキリストの働きの土台なのです。
神の御前にしみ一つ無い永遠の霊を通して御自身を捧げた、唯一聖い方の働きの価値と値段は誰が見積もることができるでしょうか!
キリストは御自身の十字架によってこの贖いを手に入れたのです。
キリストは現在の働きにおいて、さらにそれ以上に未来の働きにおいて、この偉大な贖いの働きの結果を手に入れたのです。
キリストの現在、そして未来の働きについて、クリスチャンたちの考えに多くの混乱があります。
主の語られた多くの言葉が地上を支配する王の王、主の主としての言葉です。
これらのことを主張するする者たちは天において、キリストはダビテの王座に着座していると主張します。
この教えによれば、教会はキリストの王国です。
そして、この王国はキリストの霊的な支配によって、徐々に拡張し、世界全体がキリストの王国に入ってゆくのです。
この教え、すべてが間違っています。
主イエスキリストはこの地上を支配します。
キリストは栄光の御国を持ち、この地上に義と平和が実現されます。
その時、地上の王国はキリストの支配を受け入れることになります。
しかし、その時はまだ来ていないのです。
この支配はキリストが目に見える姿で来られる時に成就されるのです。
その時、キリストはもう一つの側面を持つ人としてこの地上を支配することを人々に要求します。
キリストの現在の働きには別の側面を持っているのです。

1、キリストの現在、栄光のからだを持っています。

私たちの祝福された主は十字架の上でからだを持ったのです。
そうです。
キリストは受肉されたのです。
しかし、そのからだは死にました。
そのからだはキリストにとって唯一、死ぬことの出来た部分でした。
そのからだは人によって、辱めを受け、ムチ打たれ、十字架の上で釘打たれました。
しかし、そのからだは廃れてしまったことを見ることはできません。
キリストは死者の中からよみがえられたのです。
神の偉大なる力はキリストを死者の中からよみがえらさせ、その墓は開かれました。
そして、神の偉大なる力はキリストに至り、信じる私たちに至っているのです。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章19節

「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 」
新改訳聖書 ペテロ人の手紙第一1章21節

もし、私が主イエスキリストの復活について教えるのなら、私は二つのことを説明したいと思います。
最初に、キリストは実際に現れたということです。
それは疑うことの出来ない事実です。
キリストは実際に死んだのです。
キリストのからだは死んだのです。
しかし、そのからだは復活し、次の立場を取られたのです。
これらすべては、キリストの復活についての重要な意味を持っています。
使徒パウロはコリント人への手紙第一のこの偉大なる章で書いています。

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。 」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章18、19節

別の言い方をするのであれば、もし、墓の中で三日間横たわっていたキリストのからだが墓から出てこなければどうなったでしょうか?
墓の中でからだを取られたキリストはそこにいないのです。
キリストは十字架の上で死なれ、その死は他の人間の死より多くの意味を持っていたからです。
もし、キリストが死なれただけならば、私たちの罪を拭い去ることも、私たちの邪悪な良心も清めることが出来ないのです。
さらに、無条件にキリストを信じる者には滅びることはありません。
キリストは死者の中からよみがえったのです。
このことについて疑う余地はありません。
また、この答えについては単純に答えられるものでもありません。

キリストのからだは物理的な復活です。
キリストの死者の中からの復活はキリストの激しい叫びと涙の祈りに対する神の答えです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
新改訳聖書 へブル人への手紙5章27節

この祈りはゲッセマネの園で起きたのです。
過ぎ越しの週の最初の日の朝、キリストの祈りと涙の答えが神から来ました。
キリストの死者の中からの復活は十字架の上でキリストの勝利の叫び「完了した」に対する神の「アーメン」でした。
死者の中からの復活によって、十字架の上のキリストの働きを神の印を押したのです。
神はキリストの働きについて証言しています。
この証言とは神の聖さと義のよって証言され、完全に成就されたされたのです。
罪に捕われた者たちは罪から解放されました。
それは神の永遠の義が神の御子キリストの払われた罪の代価によって、支持され、満足されたからです。
さらに神の御前において、その石は取り除かれ、この働きが神を喜ばすものであることを証言したのです。
神は三日目になるのを待ちきれないように思えます。
人の目に隠されていた至聖所の幕が神の手によって引き裂かれました。
神はその幕を上から下まで引き裂いたのです。
それによって、聖い神が人に対して、もっとも完成された祝福を訪れたことを示しました。
神の示した至聖所には人は近づくことはできす。
神ともに住まうことも、神に愛される事も不可能でした。
これはキリストの払われた代価によって、人に至ったものです。
罪人は恵みによって救われ、キリストの血によって聖所に入れられたのです。
今、新しい、命への道が示されました。
さて、ではどのように神は墓の前に来ることが出来たのでしょうか?
それはすでに宣言されているように、キリストの復活はからだをもってなされたのです。
このからだは朽ち果てることはありません。
キリストは墓の中に肉体のからだを残した包帯を置いて行きました。
キリストのからだは幻想ではなく、現実的な触れるからだでした。
キリストの手足には釘のあとがありました。
わき腹にはやりで刺されたあとがありました。
キリストは弟子たちの真中に現れて、そのからだと手足、わき腹を示しました。
また、別の時に恐れた弟子たちに言ったのです。

「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
新改訳聖書 ルカの福音書24章39節

しかしながら、喜びのゆえか彼らは肉をもってよみがえられた主を信じることは出来ませんでした。
キリストは形ある肉を持ってよみがえったことを蜂の巣、魚の一切れを食べることによって証明したのです。
このからだは同様に栄光あるからだなのです。
このようなからだを、私たちは受けるのです。
その日、私たちの恥辱なからだは、同じ祝福の栄光あるからだに変えられるのです。
このからだは贖われるのです。
イエスにあって眠ってしまったしまった者たち同様に私たちも待っているのです。
私たちは天へと通りぬけて行くのです。
この栄光あるからだをもってキリストはこの地上を離れ、天に入られたのです。
なんと素晴らしい場面ではないでしょうか!
キリストは上げられ、弟子たちの見ている前から姿を消したあと何が起きなければならなかったのでしょうか?
弟子たちは見たのです。
キリストが上げられ、同じ主キリストが栄光の雲に引き上げられ、その雲の中に、天に入ったのです。
そこにある天は人間の目に追いかけることはできません。
天に入場するとはなんという勝利でしょうか?
その勝利はすでになされたのです。
おそらく、もっとも強大な主天使がキリストと伴い入場したのでしょう。
罪に対して、死に対して、墓に対して、悪魔に対して、勝利したのです。

「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。 」
新改訳聖書 詩篇47編5節

そして、主は勝利を持って帰ってくるのです。
主が帰って来られる時、主は力強い天使たちを伴って帰ってくるのです。
キリストが高く昇ったので、現在、天にキリスト以外に素晴らしいと言える御使いはいないかも知れません。
そして、人としてのイエスキリストはこの世界を通りぬけて昇っていった時、この世界を一時的に支配する邪悪な悪魔は震え、恐れながら、おののきました。
この世界はいまだに空中の支配者である力の君主、悪魔の支配化にあります。
栄光に満ちた人、キリストはより高く昇って行きました。
何をも、キリストの前進を引き止めることはできません。
神の強大な力はキリストを引き上げたのです。
キリストは第二の天を通りすぎました。
そこにはキリストの偉大なる力によって造られた素晴らしい星たちがありました。
燃える太陽の周りを回る星たちはキリストの力の偉大さを表現しています。
キリストはさらに天使たちに伴われ、その天使たちはキリストの苦しみ、死、そして、復活をも目撃していていたのです。
ついに、天使たちが休まなければならない場所にたどり着きました。
主天使たちでさえ「聖なる、聖なる、聖なる方」と言って顔を覆うのです。
そこが神の栄光ある王座が立つ第三の天なのです。
そこに進むことが出来るのは唯一、栄光ある人だけです。
キリストはキリストの神、そして、私たちの神、キリストの父、そして、私たちの父の御前へすぐにその姿を現わし、高く昇ったのです。
神御自身の声によってこのように言われています。

「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」
新改訳聖書 ルカの福音書20章43節

神の一人子である方が、永遠の住まいに入られる時に、そして、神が御自身と同じように罪人の贖い主として栄光に入る方を見る時に、何がされなければならなかったでしょうか?
もっとも高い場所は十字架の上で死なれたキリストに与えられたのです。
その場所は、すべての権威よりも、力よりも高く、力強く、そして、支配され、そして、すべての名の付くものに名前を与えた方です。
ここではキリストは今、栄光の中にある人です。
もう一度、言わせてください。
主イエスキリストは今、もっとも高い天において、物質的な肉体をもっておられるのです。
すべての事柄が、このキリストによって依存し、存在しているのです。
もし、もっとも高き場所におけるキリストの肉体の復活、そして、物質的な存在が否定されるのならば、キリストの現在の働きと未来の働きは不可能なことになり、私たちの喜びであり、平和であるあらゆる慰めは奪い取られることになります。
そして、もし、そうならば、十字架の上でなされたキリストの贖いの働きは私たちに何の意味も持たなくなります。

根本的な真実の否定

キリストが天において肉体を持っているという根本的な真実が今の信仰から離れた世において、何度も否定されてきました。
これらの教えは、キリストの復活は霊的なものであり、キリストはみことばにおいて生きているという主張です。
私たちの幸いなる主の文字通りの復活、そして天におけるキリストの存在の否定は、とても広く述べられるようになりました。
下記における三つの組織は特にこのことを否定しています。

ユニタリズム(Unitarianism)---一元説

この派は組織としてはとても小さいものですが、このパンだねはキリスト教世界全体を大きく膨らませています。
すべての聖書を批判する者たち、新しい神学、自由主義神学、これらのものは私たちの幸いなる主の神性、キリストの受肉、死者の中からの復活をターゲットにしています。
これらはユニタリズムのパンだねです。
イギリス、そして海外のユニタリアン教会では今年も恒例の、年に一度の集まりを持っていますが、この司会者がこのように言っています。
「熱心な、そして、まじめな人は、一度はこのまっすぐな正統的な教えを述べ伝えるために身を捧げ、説教をすることに専念されたと思います。
この教えこそが福音であり、三世代、もしくは四世代前の福音よりもさらに優れたものです。
そして、今、この福音が私たちに贈られ、私たちに広くこころにとどめるものなのです。

クリスチャン・サイエンス

この新しい科学と呼ばれるものは決して新しいものではありません。
これは悪魔の力によるリバイバルです。
古代のグノーシス主義の再来です。
信仰のあらゆるものを否定し、これらのものをあらゆる聖徒たちに伝えています。
肉体を持った復活、そして栄光において肉体を持って存在されるキリストを否定するには優れた組織ということができるでしょう。
まさに悪魔の傑作です。
クリスチャンたちの告白に並ぶほどの成長は著しいものというほかありません。
彼らは決して救われたものではなく、彼らの知識は神を満足させることはありません。
これは迷いによるわずかな失敗と言えるものではありません。
彼らは福音を否定する者、そして、神のみことばにう反抗するものとして、より強力になり成長しつづけるでしょう。

ミレニアムダウニズム(エホバの証人)

これは上記とは別に、大きく、また知れ渡った組織と言うことができます。
クリスチャンサイエンスというよりも、その組織において光の御使いとして、より悪魔の存在を知ることができます。
これは「クリスチャンの食物」として、そして、「聖書研究」という名として与えられ、彼らの中でどんな場所においても見ることができます。
これは何を現しているのでしょうか?
それはキリストの人格、神格に関するさまざまな邪悪な神学の混合体です。
これらの神学はユニテリアン、そして、クリスチャンサイエンスのように私たちの主の絶対的な神性を否定しています。
彼らの牧者ラッセルは自著の本の中で、肉体を持って復活されたキリストを否定しています。
これらの組織の中で主のからだについて一致していることは、主のからだは自然界で気体になった、もしくはどこかの墓の中に置かれていることを主張しています。
もちろん、このことは天において、キリストがからだを持って存在されていることを否定しています。
このことについて考えて見てください。
もし、主のからだが自然界で気体になったというのなら次のみことばによる宣言はどうなるのでしょうか?

「キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」
新改訳聖書 使徒の働き2章31節

2、現在におけるキリストの働き

今、キリストはどのような働きをしているのでしょうか?
栄光の中にある人間として、栄光と誉れが与えられた人間として、キリストは今、働いているのです。
キリストは今、すべてのものを神から引き継ぐ者として存在しています。
キリストは今、すべてのものを支え、すべてのものはキリストによって成り立っているのです。
この大きな宇宙、数え切れない星たち、そして、太陽、すべてがキリストの支配の中にあり、キリストが制御しているのです。
すべてがキリストのために存在しているのです。
人が堕落した時から、人間はこの宇宙の不思議な深さを追求しようと試みています。
科学者たちは望遠鏡を使い、被造物がなぜ存在するようになったのかその知識に得ようと努力しています。
これは人間が失われた結果です。
しかし、このような科学者たちの発見は私たちを驚かすのです。
しかし、何度もこの宇宙の深さに没頭した失われた科学者たちが神の真実を立証するに至るのを知るのです。
この被造物は神のみことばの現われによって神が与えたものであることを彼らは知るのです。
天は驚くべきすばらしさを持っています。
そして、さらに私たちは天文学者たちのこの偉大な宇宙に対する大きな問題の答えに出会います。
「私たちは知ることはできない。」
ある日、突然、私たちはおろかな堕落した人間によって得られた知識よりも優れた、偉大な宇宙についての知識を知るようになったのです。
しかし、この宇宙は今、栄光の人の手の中にとどまっているのです。
キリストはこの宇宙の中心的太陽であり、キリストを中心に宇宙は回っているのです。
私たちは私たちの周りに大きな空間があることを知りますが、私たちの体に対して、どのような働きがあったか知ることはできません。
私たちはこのような体を持つまでにどのような変化があったのか知ることはできません。
しかし、私たちはすべてがキリストの御手の中にあることを知っています。
すべてがキリストのコントロールの中にあることを知っています。
私たちは同様に天使、天の軍勢についても考えなければなりません。
キリストは受難の後、天使よりも優れた者となりました。

「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。 」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章4節

この地上の世界の上には何があるのでしょうか?
目に見えない霊の世界?
誰がそのように話しているのですか?
しかし、そのように言う彼らもキリストのコントロールの中にあるのです。
どのようにキリストは地上にいるキリストの人々に提供し、扱ってゆく中においても、不信仰な者たちを送り、用いているのでしょうか?
そして、どのように目に見えない神の怒りの下にある敵の働きと悪魔の悪い働きを抑制しているのでしょうか?
私たちは十分には知りうることはありません。
しかし、御使いについてはこのように言われています。

「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。 」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章14節

このことは、そして他の多くの場所においても同じことが言えますが、私たちには十分には現されてはいません。
私たちから多くのことが隠されています。
同様にキリストの現在の働きにおいても同じことが言えます。
私たちは主がいかに偉大で、素晴らしい方であるかをより新しく理解し、私たちの主が究極的に高い方であることをより知るべきことを述べています。
しかし、そこに栄光の中で、私たちの現在の主の働きを見ることができます。
このことはキリストのみことばの中にはっきりと現されています。
まず、最初に言えることはキリストは神と人の間に立つ調停者で、世に対してみことばはこのように語っているのです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」

新改訳聖書 テモテへの手紙第二2章5、6節

このような仲介者と働きとは別に、キリストは今、御自分の命を与えた者たちのために仕えておられるのです。
個人的な信仰を通して、キリストを救い主として受け入れた者たちに対して、今も働いておられるのです。

「主はご自分に属する者を知っておられる。」

「主はご自分に属する者を知っておられる。」
これは慰めと励ましを与える祝福です。
この御言葉は恐れと不信仰を永遠に追い出すものです。
主こそが、唯一、至聖所に座っておられる方であり、主は私たちを個人的に知っているのです。
主は私たちが存在する前からずっと知っておられた方です。
主は私たちを地の基が置かれる前から見ておられた方です。
主は私たちが私たちの罪の中をさまよっていた時のことさえ知っています。
主の愛しい目はその時の私たちを追いかけていました。
主は愛をんもって私たちを探し、主御自身のところへと私たちを至らせたのです。
主は私たちにご自分の命を与え、私たちの中に住んでくださいました。
すべての者が信じている罪人とも言えるでしょう。
恵みによって救われたのです。
今はクリスチャンは主とともに、一つ霊となったのです。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章27節

主は私たちをそれぞれの名で呼びます。
羊飼いのように御自分の羊を呼ぶのです。
そして、主は彼らを知っています。
なんと驚くべき、私たちの心へと届く哀れみではないでしょうか?
主は一人一人の名前を知っています。
主は私たちが試練の中にあっても、困難や誘惑の中にある時も私たちの状況をよく知っています。
主は私たちに衝突があっても、涙もよく知っています。

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。」
新改訳聖書 ヨブ記23章10節

これは非常に尊い真理です。

詩篇32編のでそむきが赦された者への哀れみに満ちた言葉を見つけることが出来ます。
その者は罪がおおわれた者です。

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は...。」
新改訳聖書 詩篇32章1節

また、このような聖句をも知っています。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」
新改訳聖書 詩篇32章8節

ここにある目は、この宇宙の深さを測ることができます。
あらゆる惑星からも目を離していません。
その目は休むことも、眠ることもありません。
この目は私たちの上にとどまるのです。
主の思いは私たちのことでいっぱいです。
何億ものクリスチャンたちが生きて、そして、死んでゆきました。
彼らはこの地上での生活を終えて、今、主とともに天にいるのです。
彼ら一人一人に主は心をとめられていたのです。
主の愛する目は多くの殉教者の上にありました。
主は拷問に苦しむ貧しい聖徒たちを知り、そして、見ていました。
彼ら聖徒たちは死ぬために飢えを味わされ、地下牢へと連れて行かれ、苦労に苦しみが加えられました。
また、彼らは火で焼かれ、野生の獣の前に連れてゆかれましたが、主の目は彼らの上にあったのです。
主はこのような聖徒たちに仕え、働いておられたのです。
そのように主は静かに働いています。
さあ、今、私たちはいくつかの聖書箇所に戻り、この事実をあらわにしましょう。
主が私たちのために、いきておられることを...。

ローマ人への手紙5章10節で私たちはこのように読みました。

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章10節

私たちが救われることによって、救われたいのちにどんな価値がもたらされたのでしょうか?
ある人たちは主キリストイエスの十字架以前にすでに、私たちが救いに適応された者になったと言います。
つまり、すでに私たちは十字架を知る前にすでに義とされ、完全な命を持ち、救いの力の中へと入れられたということを主張しています。
もし、これが事実なら、キリストの死なしに、この救いは私たちの側にもあるということになります。
しかし、これは明らかな間違いです。
この節で語っている「いのち」は、神の御前において今、キリストが生きているという命です。
これは神の敵であった時に私たちが神の御子の死によって神と和解させられたということを言っているのです。
(つまり、主を信じていない者が、信じる者になったという単純な意味です。)
そして、今、和解しているのです
そして、それ以上に、今、私たちはキリストのいのちによって救われているのです。
私たちが救われたのはキリストの十字架を信じる信仰によったのですが、救いへと導かれたのはキリストのいのち(働き)によったのです。
今、私たちは救われ、私たちの側には何もないことを知り、主の前に身を伏せるのです。

ローマ人への手紙8章34節には次のように書かれています。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章34節

復活されたキリストが神の右の座に座り、私たちのためにとりなしています。
ローマ人への手紙だけが、キリストの贖った人たちのためにとりなしてくださるキリストの今の働きにを現しているのではありません。
ヘブル人への手紙9章を読んでください。

「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章24節

そして7章24、25節を読んでください。

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章24、25節

しかし、注意してください。
これは救われていない、罪の中に生きている者たちに言っているのではないからです。
救われていない者たちはキリストのものではなく、ここでいう救いを分かちあうことはないからです。
主は救われていない世界の仲介者ではないからです。
キリストは大祭司としての祈りの中で最初にこの真実を宣言しています。

「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章9節

また、このことは旧約聖書の中においても前もって示されたことなのです。
大祭司の衣服は美しく、栄光に満ち、二つのしまめのうが肩がけの上に。そして。12個の石が胸当ての上にありました。
肩かけの上にある二つのしまめのう、そして、胸当ての上にある12個の石の上にはいくつかの名前が彫られていました。
ここにある名はエジプト人の名前ではなく、エブス人、アモリ族またはヒッタイト人でもなく、イスラエル12部族の名前が彫られていました。
私たちのもっとも高きところにおられる大祭司の肩かけは、型としてキリストの愛と力を示しており、この愛は私たちへと注がれています。
キリストの胸はキリストの愛を表現しています。
私たちはキリストが私たちのために神の御前で、力と愛とも目的として働いていることを知ります。
そのように、イスラエルの名前が高価な石の上に彫られているという事実は、同様に私たちの大祭司の胸当てにも彫られていることを表しています。
もし、書かれたものだったら、それは消されるかも知れません。
しかし、この名は彫られたものであり、消されることはありません。
これは私たちへの救いの保証であり、幸いなる真実を私たちに語っているのです。

キリストの祭司職

ヘブル人への手紙にある他の節において、私たちのために働く、現在の主の祭司としての働きが幸いにも詳細に記されています。

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章17、18節

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章14〜16節

最初の節はなざめについて語られています。
キリストは私たちの罪となられたのです。
4章から私たちに語られていることは、どのようにキリストが地上において、この大きな公の職務に適応されたを語っています。
罪はありませんでしたが、キリストは地上におられる時に私たちと同じように試みに会いました。
キリストの中には罪がないので、試みに会う必要はありませんでした。
しかし、試みに会われたのです。
キリストは試みの中を歩み、困難な人、苦しむ人だったのです。
罪はありませんでしたが、この世にあって神に頼って歩むことがキリストの目的だったのです。
キリストはこの地上において、起こりうる種類の苦しみを知りました。
今、キリストは私たちの悲しみや試みの中を歩んで来られたので、哀れみ深い、忠実な大祭司であることができるのです。
キリストは地上にある私たちの衝突や困難の中にあって、私たちを同情することができます。
しかし、キリストは肉に対しての仲裁はしませn。
キリストは罪に対して同情することは出来ないからです。
聖所における恵み深い、壊されることのない仲介によって、この地上でも一人一人の歩みを支えているのです。
キリストの苦しみ、試みを受けたこと、これはキリストの仲裁者としての努めの基礎となっています。
キリストは耐える力を与えます。
もし、ここで仲介者がいないのであれば、私たちは倒れてしまっているでしょう。
何度も、神の人々は問題や、困難、損失、死別を恐れます。
これらの問題はいつかは来るものなのです。
もし、私の子供が取られたらどのように私は立っていることができるでしょうか?
もしくは私の愛する妻が取られたらどうするでしょうか?
もしくは、私の健康が損なわれたのなら?
おそらく、私の仕事、収入がなくなったら、私はクリスチャンとして立っていることが出来るでしょうか?
何度も、私たちは私たちの上に望もうとするに恐れを感じます。
愛する者は取られ、墓の中に入れられます。
健康は衰え、収入は止まります。
その満ち足りた生活の代わりに貧しさが襲います。
しかし、試みとともに、損失とともに、これらすべてのものの上に来る強さがあります。
この苦しみ以上に、現実の喜び、主への賛美がそこにあるのです。
それはここに偉大なる大祭司が生き、そして、仲介されているからです。
この大祭司は愛と力の哀れみの中ですべてのことを知っておられるのです。
キリストは愛しい御腕の中に試みた問題の中にいる私たちを捕らえてくださるのです。
どのような状況の下にあっても、キリストは神の御前において私たちの代表であって、私たちは神に感謝を捧げるのです。

悪魔とともに私たちには誘惑があり、そして、論争があります。
その的は私たちに対して、非常に力強く、知的です。
悪魔は自分の領域を広げる方法を知っています。
悪魔の策略はもっとも巧妙です。
もし、サタンがやりたい放題になったなら、この地上にいる神の人々を完全に滅ぼすことができます。
もし、私たちが自分の強さに頼ろうとするのなら、私たちはすぐに落ちてしまうでしょう。
しかし、主は知っておられるのです。
邪悪な霊たちが私たちを見ているように、主は敵を見ています。
ペテロの場合を見てみましょう。
神はこの古い蛇を見ていました。
主が御自身の方法でペテロの前にこの蛇を動かしたのです。
サタンがペテロに罠をかけようとしていたずるかしこい計画を主は知っていました。
ユダの場合、主は彼に入りはしましたが、弟子として完全には所有しませんでした。
それはユダが新しく生まれていなかったからです。
主はぺテロが信仰から徹底的に落とし、後に絶望の中に落とそうと急いでいるサタンの策略を知っていました。
しかし、サタンは主がそこにいることを考えに入れていなかったのです。
主はこの計画がまだ実行に移される前に、ペテロのために祈り、ペテロの信仰は倒れませんでした。
このことはよく表現していると思います。
ペテロが主を否定し、倒れました。
しかし、主の恵みによる仲介によってこれらすべての失敗からペテロは守られたのです。
これは私たちの場合においても、同じことが言えます。
主は私たちの敵が近づく前に私たちのために祈られたのです。
そして、どのような衝突の中においても、そして、時よりつまづき、倒れることがあるかもしれませんが、私たちは勝利を得ることが出来ます。
主は私たちの偉大な羊飼いです。
主はわがたましいをよみがえさせるのです。
誰も知ることのない栄光ある私たちの主の尊い働きであるこの祝福を、どのくらい私たちは味わうことができるでしょうか?
私たちへ来ようとしている幸いなる現れとは何でしょうか?
その時になれば、私たちが主が仲介されたという事実が何であるか知るようになります。
その時になれば、私たちは自分の人生を振り返り、すべての神の聖徒、そして、私たちのために完成された主イエスキリストの仲介とは何だったのか見ることになります。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章14節

現在における、キリストの大祭司としての働きをもう一つの側面から見ることができます。

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章15節

私たちの礼拝、私たちの賛美、そして、私たちの祈り、私たちの神、父なる神、主イエスキリストへの願い、すべてが未完了です。
しかし、私たちはキリストによって神に紹介されていて、私たちは神に近づくことができるのです。
私たちはキリストを根拠にして神のこころを喜ばすことができるのです。

キリストの弁護

ここで、神の人々のために神の御前において、栄光に満ちた二つ目のキリストの働きの側面を見ることができます。
キリストは御父とともに弁護者です。
あるクリスチャンたちはキリストの祭司のとしての働きと弁護者としての働きが一つ、もしくは同じだと考えています。
しかし、それは違います。
キリストの弁護者としての働きの目的は回復を目的としているからです。
ヨハネの手紙第一の中で、私たちは現在のキリストの働きの一つの側面についてこのように読みました。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節

この章において神の子として知られた私たちの素晴らしい特権について書かれています。
私たちは御父と御子イエスキリストとの交わりの中にいます。
この交わりとはどのような意味を持つのでしょうか?
御父との交わりとは、私たちが御子イエスキリストとの交わりいる喜びの中にあるものです。
御子は御父の喜びであり、私たちは御父が御子をいかに愛しているか、その愛を分かち合うのです。
御子は御父を知っており、御子は御父の現われです。
そして、私たちはその交わりの中に入れられました。
御子との交わりとは御父との交わりを喜ぶことです。
実際にこの権利をもって喜ぶ状態が、御父とのそして御子との交わりです。
この交わりはキリストが光の中を歩むように私たちも光の中を歩むことなのです。
私たちが罪の中を歩まないという幸いなる事実について書かれています。
罪は私たちから救いを奪い取ることはできません。
しかし、交わりの楽しみを台無しにします。
私たちが罪の中を歩まないというのはクリスチャンの標準です。
そして、もし、私たちが常に幸いなる交わりの中を歩むということは、恵みを私たちにもたらすのです。
私たちは罪の中を歩みません。

しかし、いつもこのような場合だけではありません。
私たちは罪を犯してしまいます。
罪を犯してしまった時、私たちには幸いなる現われが与えられています。

「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節

なんと感謝すべきでしょうか!
私たちは「もし、誰かが悔い改めるのならば…。」と言うべきではありません。
私たちの弁護者としての主の仲介は個人的です。
悔い改めにおいても、私たちが自分たちのためにどうしたら良いか尋ねる時もすべてが個人的に行われるのです。
私たちに向けられたキリストの愛の心の中において恵みが働き、私たちは回復するのです。
そして、私たちは元のキリストの交わりの場所に戻されるのです。
クリスチャンが地上で罪を犯したその時、私たちの上に弁護者として働くのです。
聖霊も同様に私たちの上に働きます。
聖霊は私たちにみことばを適応させ、確信させ、洗うのです。
水、つまりみことばによって洗うのです。
その時、私たちの側から告白が生じ、回復が完成されるのです。
ここで注意して欲しいのは「御父とともに弁護してくださる」ではなく、「御父の御前」と言っています。
それは家族としての問題です。
父はここで何もしていないかもしれませんが、神の御子を通して、御自身のところへ罪を犯し、悔い改めた私たちを連れてゆき、そして、私たちを愛しているのです。
地上で罪を犯した神の子供に対して怒るという考えは、哀れみ深い神のみこころによる神の御子であるキリストの持つ特権に預っています。
そして、ここにもう一つの理由を見出すことができます。
なぜ、兄弟を訴えるサタンの弁護者として、キリストは働くのでしょうか?
サタンはいまだに、神の御前に近づいてきます。
教会が取り上げられ空中で主と出会う日が来ます。
その日サタンは天を追い出されるのです。

「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

新改訳聖書 黙示録12章9、10節

なぜ、彼が地に投げ落とされたのでしょうか?
それはサタンが日夜、神の御前で神の人々を訴えていたからです。
弁護者はここでサタンを非難していました。
すべての攻撃は、罪を犯した神の子供たちに対するものでした。
主イエスキリストは、贖罪をなしたという事実ですべてを満たしたのです。
キリストはこの子供たちのために死なれたのです。哀れみ
キリストは失敗もしなければ、落胆もしません。
そして、私たちの祭司としての御自身の働きをもって、哀れみ深い、忠実な大祭司として、そして、私たちの弁護者として、天に昇り、働き続けているのです。
イザヤ書の中でキリストの話されていることばを見つけることができます。

「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。」
新改訳聖書 イザヤ書42章4節

祭司として、弁護者として、キリストの現在の働きを私たちによく適応するかもしれませんが、私たちはこの祭司の働きに失敗がないことを覚えておくべきです。
神の子供を守ること、支えること、必要な時に聖所から助けを出すこと、キリストの持つ働きには決して失敗はありえません。
また、弁護者として、落胆することもありません。
私たちの人生において、古い性質に属する失敗があります。
私たちは惨めで、時より立ち止まってしまうでしょう。
しかし、キリストは御自身の罪を犯した哀れな御自身の民に今も仕え続けているのです。

あるクリスチャンは根本的な福音の教理を信じることができません。
この福音は神の子供が永遠のいのちを持ち、決して失われることがないというものです。
もし、神の子供の誰かがが再び失われ、もっとも弱く、神の手から奪い取ることが容易に出来るのなら、現在におけるキリストの働きも、同様に十字架の上で完了された働きも失敗だったと言うほかありません。
しかし、私たちにはキリストが残した、ヨハネの福音書17章における偉大なる大祭司の祈りがあります。
ここでキリストは御父へ祈りを捧げ、御父は彼の言うことを常に聞いています。
キリストの所有とされた者は守られるのです。

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章11節

教会のためのキリストの働き

キリストの現在の働きについて、もう一つの側面があります。
それはキリストが教会のために何をしたかです。
私たちはそれが何を意味しているのか手短に話すことはできません。
しかし、キリストは栄光をもって、教会のかしらとなられたということができます。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章23節

すべての信じる罪人は教会のメンバーなのです。
復活された主御自身がそのからだに新しいメンバーを加えています。
キリストはそれぞれのメンバーをキリストを喜ぶものとしてこのからだの各所に置きました。
一人一人のメンバーがキリストによって直接導かれるのです。
そして、キリストがこのからだに賜物を送りました。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 」

新改訳聖書 エペソ人への手紙4章11〜13節

このようにキリストは御自身のからだをこの栄光から建て上げています。
そのからだは完成されます。
その時、私たちはキリストの満ち満ちた身たけに達します。
それが達成されるとき、私たちはこの方をキリストとして見ます。
このキリストの現在の働きは御自身の民、キリストの共同相続人のためであり、この時、終了します。
このクリスチャンたちは自分の歩み、そして、自分の奉仕に自分の救いを賭けているのです。
その時、この荒野から御父の安全な家に帰ったことに痛感し、もはやそこでは、キリストの力を切望することも、私たちを支えるための愛も必要ではありません。
もはや、涙を流すことも、こころを静めるために痛みや苦しみも、そして必要な時の必要な助けも必要ではありません。
すべてが過ぎ去ったのです。
そして、キリストが弁護者として、職務を働かせる必要もそこにはありません。
それは私たちがすでに、罪の働きの結果から永遠に救い出されたからです。
そして、からだ全体が、たましいが、霊が聖別されます。
その時、罪を犯すことが不可能になります。
なんと幸せな、栄光の日々が来ようとしています。

3、キリストの現われ、そして実質的な結果

クリスチャン生活においての働き
主イエスキリストは私たちとともに栄光を分かち合うのは事実です。
そして、キリストにある栄光に満ちた聖い歩みの中に渡したちを導いているのも事実です。
その愛しい目は決して私たちからそらされる事はありません。
もし、私たちが私たちの歩みにおいてどのような力が働いているのか、常にこころにとめておくことができるなら、どのくらい多くのことが何もせずに残されているのではないでしょうか?
そして、どのくらい多くの言葉が語らえていないのでしょうか?
どのくらい、しなくてもよい多くのことをしているのではないでしょうか?
もし、私たちの上に個人的に神の目が注がれているということを常に意識しているのなら、私たちの行動は決まってくるはずなのです。
キリストは神の御前に私たちを代表しています。
そして、私たちは人々の前にキリストを代表しているのです。
クリスチャンは自分たちの代表がキリストであることをはっきりすべきであると要求されています。
キリストの賛美と栄光を現す人生は、天における幸いなる彼の仲介と存在を通して実現されているのです。
真実なるクリスチャンの人生はキリストの人格と働きに満たされた心において、より頼むことが求まられているのです。
キリストは私たちの心に働かれるために天に上り、仕えておられるのです。
そして、聖霊の力を通して働いています。
今、私たちは主の働きの価値を知るものとして歩んでいます。
地上に、私たちは生きている間、キリストは私たちのために常に幸いなる働きを続けているのです。
私たちはキリストに仕え、キリストに頼って歩んでいます。
また、私たちがこのキリストの働きを認識して歩む時、どんな喜びがそこにあるのでしょうか?
そして、どのようにすればキリストを悲しませるような歩みから遠ざかった歩むことが出来るでしょうか?

祈る者への励まし

私たちは危険とこの時代を支配するすべての悪き事柄に囲まれて生きています。
そして、主の愛が私たちに興味を示しているという事実は幸いなる事実です。
ですから、私たちの祈りの生活の中で、私たちはおおいに主の励ましを必要としています。
もし、主が私たちの周りの起きる最も小さい問題に至るすべてのことに興味を持っているのなら、私たちは主の元に進み、語ることができるのです。
しかし、このような問題のために祈ること無しに、もしくは、主がこの問題を解決して下さると確信しないままならば、私たちはこれらすべての問題を主の御手の中に残すことになり、私たちはこのような状態で主の元に行くべきではないとあるクリスチャンたちが語っています。
しかし、聖書はまったく反対のことを語ってます。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章6節

神は私たちが神に話しかけることを喜んでいます。
ヨハネの弟子たちのように、私たちは神の元にすすみ、神に話しかけることができます。
神の耳はいつも聞かれているのです。
もし、主の奉仕の中で私たちが疲れ、悩んでしまうのなら、主が同じ疲れを知っているゆえに、私たちは主に話しかけることができます。
もし、空腹ならば、もしくは休む場所さえないのなら、主はこの苦しみを知っているゆえに、私たちはこの苦しみの意味がどのようなことを教えているのかを尋ねることができます。
もし、孤独があり、私たちの最高の奉仕が誤解されて、もしくは、敵の炎のような矢が私たちに向けられたのら、私たちはこれがどのようなことか主に話すことができます。
これらすべてのことは、私たちに実際に起きるべきことです。
しかしながら、聖霊によって実際に私たちは導かれているのです。

恐れからの救出

すべての恐れと心配からクリスチャンは救い出されなければなりません。
私たちは神の不注意だと言うかもしれません。
何も神には不注意などありません。
心配など何もありません。
恐れとは不信仰の子供の歩みです。
もし、私たちの心の目が栄光の人をじっと見ているのなら、そして、もし、神の御手の中ですべてのことを信仰を働かせるのあれば心配などありません。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章28節

恐れと心配は主を訴えるでしょう。
マルサは多くの奉仕は行っていた時、主にこのように言いました。

「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」
新改訳聖書 ルカの福音書10章40節

あらゆる時において、私たちは心配という道を取ってしまいます。
私たちは主が働いていないことを前提に働いてしまいます。
しかし、主は働いておられます。
主は私たちを信仰において休息を与、御自身がすべてを担ってくださるのです。

主の働きの共有

結論として言えることは、主の幸いなる御働きを私たちが共有し、担うことを主が赦してくださっていることを私たちは忘れてはいけません。
その反面、主は私たちのために祈り、私たちは互いに、そしてすべての聖徒たちのために祈ることができます。
主は私たちの仲裁者であり、私たちは互いに仲裁することができます。
主は私たちの足を洗ってくださりました。
型として、みことばによって洗われることを教えています。
そして、私たちは互いの足を洗うのです。
主は私たちの重荷を荷い、どうように私たちは互いの重荷を荷うことが勧められています。
主は赦すものであり、回復者です。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章13節


3、キリストの未来の働き

主イエスキリストはこの地上において御業を完了させました。
御父が彼にその御業をなさせたのです。
主は今、からだを持って最も高い天に存在し、御父の王座を占めています。
そして、祭司として、王として、主の民のために働いておられるのです。
御国と王としての栄光は、キリストのものなのです。
ゆえに、キリストは王として働きをしています。
旧約聖書においてキリストの過去の働きは神の聖霊によって前もって語られ、祭司としての働きは型として預言されてしました。
キリストの王としての働きと、キリストの栄光ある御国は同様に神のみことばの目的として来るのです。

預言者の預言

キリストの王としての働きはガブリエルによって処女マリアに宣告されました。

「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

新改訳聖書 ルカの福音書1章32、33節

このメッセージはキリストが父ダビデの王座に着かなければならないというメッセージと一致しています。
キリストは王国を支配し、キリストの物としなければならないのです。
しかし、このことは多くの時代にわたり、神の預言者たちがメシアが来られると宣言したことであり、天国のことを言っているのではありません。
預言のみことば全体のクライマックスは、王とその御国が目に見えて実現することであり、キリストはこの地上にそのすべてを受け取るのです。
これは栄光に満ちた場面です、
しかし、これはキリストが人に軽蔑され、拒まれた結果であり、過去と現在の暗い時代を通り過ぎた結果、星のように輝く栄光を御受けになられるのです。
これらは信仰の目さえも圧倒し、希望と勇気へと奮起させられるでしょう。
王としてのキリストに関係する個所を少し引用してみましょう。

「「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 」

新改訳聖書 詩篇2篇6〜8節

「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。」

新改訳聖書 詩篇9篇8節

「地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。」

新改訳聖書 詩篇22篇27、28節

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」

新改訳聖書 詩篇24篇9、10節

「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。
まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。
国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。」

新改訳聖書 詩篇47篇1〜3節

「神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。」
新改訳聖書 詩篇72篇1節

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。 」
新改訳聖書 詩篇72篇11節

「彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。」
新改訳聖書 詩篇72篇17節

「わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。」
新改訳聖書 詩篇89篇27節

「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」
新改訳聖書 イザヤ書32章1節

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」
新改訳聖書 エレミヤ書23章5節

「残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 」

新改訳聖書 ダニエル書7章13、14節

「彼にこう言え。「万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。
彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書6章12、13節

「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書14章9節

これら多くの預言は王としての主キリストを語っており、キリストの王国について語られているという多くの証拠となるでしょう。
この栄光の王国は神の聖徒たちによって同じように描写されています。
彼らは神の聖霊から語らえたことばをそのまま語ったのです。
しかし、まだ成就されていません。
主イエスキリストが十字架の上で苦しんだとき以来、これらの預言は成就したでしょうか?
これらは栄光にあって御父の御前にキリストは入って以来、何か成就したでしょうか?
キリストは今、王として、権威ある者として支配し働いているでしょうか?
義の、平和の、力の、そして栄光の地上の王国は本当に約束されたのでしょうか?
これらの疑問はこの神の預言書を読んだらすぐに沸いてくるに違いありません。
これらが成就したということは否定されなければなりません。
約束された王国は、まだキリストは御受けになっていません。
今、この地上に、栄光と力に満ちた王国は存在していません。

新約聖書の証言

新約聖書には、私たちの主はこの地上を治める王ではないという完成された証拠で満ちています。
そのキリストが王としての支配はそのさらに未来に起こることなのです。
主イエスキリストが王として、教会を支配するという考えがあります。
旧約聖書の王として栄光ある王国を支配するという預言は、教会において霊的に成就したという考えです。
残念ながら、乏しい発想です。
聖書の中でどこにも教会が王国(御国)と呼ばれている個所はありません。
また、どこにも主イエスが教会の王と呼ばれている個所もありません。
キリストは教会のかしらであり、からだです。
新約聖書ではまだ王国を見ていません。

ルカの福音書19章11〜28章を見るのであれば、主はこの地上を離れたのは、御国を受け取るためであり、天に帰るためでした。
キリストは御父の御座を着きました。
しかし、この場所は永遠にいる場所ではありません。
キリストはご自分の場所を持っているのです。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」

新改訳聖書 マタイの福音書25章31章

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。 」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章12、13章

「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章7、8章

国がキリストに仕えるのではありません。
この世界がこの時代におけるキリストの御国ではありません。
この世界はキリストのものになり、天では多くの声が響きこのように言うのです。

「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
新改訳聖書 黙示録11章15章

しかし、これは未来の出来事です。
七番目の御使いがラッパを吹く鳴らす時、天が開け、王の王としてのキリストが現れ、多くの群集が声を上げるのです。
黙示録19章11〜16章を参考にしてください。
その時、キリストは国々をご自分が引き継ぐ物として受け取るのです。

1)どのようにキリストは未来の働きをはじめるのでしょうか?

テサロニケ人への手紙第一4章15〜18節において、キリストの未来の働きの始まりが明らかにされています。
この聖書個所には旧約聖書では知られていない、偉大な、そして、唯一なる現われが含まれています。
主は弟子たちに約束をお与えになりました。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
新約聖書 ヨハネの福音書14章3節

キリストはこの福音書の中でこの最も尊い約束を守る方法が何であるかは語っていません。
テサロニケ人への手紙第一のこの個所では、主がご自分の民のために来られるその内容が詳細に描かれています。
キリストの約束はキリスト御自身が天から歓声とともに下られてくるというものです。
その時、キリストは十字架の上の御業を完成されます。
キリストは大声を上げて叫ばれたのです。
「完了した」と言われました。
--ギリシャ原語では"Telestei"
そして、復活された方として、愛する弟子と会った時、このように言われました。

「おはよう。」
新改訳聖書 マタイの福音書28章9節

--KJVでは"All Hail!"、ギリシャ原語では"Cbairete"、つまり、「すべてがうまくいきました(万歳)」という意味。
これは復活された方としての声です。
勝利と喜びに満ちた声なのです。
キリストが昇天された時、このような声が上がりました。

「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。」
新改訳聖書 詩篇47編5節

テサロニケ人への手紙第一4章16節では、キリストは歓声とともに下って来ると私たちに語っています。
キリストは栄光をもって、天を通りすぎ昇天されました。
そして、父なる神の御前に現れたのです。
ある日、キリストは御自分の座っておられる神の御座から立ちあがります。
キリストは高き、偉大なる神の右の座を離れ、第三の天から下ってきます。
それ以上に、キリストは昇るのではなく、天から下って来られるのです。
キリストは御自分の聖徒たちと出会うのです。
その場所はオリーブ山ではありません。
また、エルサレムでも、また、地上のどのような場所でもありません。
その場所は空中です。
私たちは繰り返し言いますが、これは奥義(現われ)です。
旧約聖書の預言者たちの言葉には出てこない事柄です。
また、主御自身がこの地上の歩みの中で、十分に語らえたこともありません。
キリストが歓声の中を下られてくることはキリストにあって死んだ者の復活に続き起きることで、この奥義が含まれるこの節と一致しています。
すべての神の聖徒たちは墓の中から肉体を持ってよみがえります。
その時。この歓声は聞かれ、義を持って死んだ者たち、キリストに属する者はよみがえり、その時に生きているの者たちは捕らえられ、これらすべての者たちは空中で主と出会うのです。
ある者たちのために、私たちは付け加えましょう。
すべて、主イエスキリストを救い主として受け入れた者たちは永遠のいのち、神の聖霊を受け取ります。
キリストに属する者の祝福の希望とその行き先は次の通りです。

「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一4章17節

ある人たちの教えによると、この空中再臨はある必要を満たした人のみが分け合うことのできる祝福だと教えます。
しかし、どのようなことがあっても、このような教えは成り立ちません。
私たちの奉仕、苦しみ、聖別、もしくはどのような働きにおいても、このような素晴らしい出来事を受けるのにふさわしい働きなど何もありません。
恵みが私たちのためにすべてを成したのです。
コリント人への手紙第一15章51節で私たちはこのように読みました。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章51節

この「みな」ということばは何と言おうと「みな」なのです。
キリストが来られるとき「みな」が変えられるのです。
これはデスペンショナルな(時代区分主義)知識だと言うかも知れませんが、聖書のみことばに従い私たちは個人的に主を待つのです。
それはキリストの尊い血による贖いの値が、すべてのキリストに属する者を、取り上げ、空中で主と出会うという素晴らしい特権に預かる十分な値を持っているとことを、私たちは知っているからです。
多くの仲間たちが、死んだ聖徒たちが死者の中からよみがえり、取り上げられた瞬間にキリストと出会うのです。
このことのヒントをヨハネの福音書11章25、26節のみことばからひろうことができます。

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるの(復活)です。また、(私が来る時に)生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません(生きている信者は変えられる)。このことを信じますか。」 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章25、26節

おそらく、私たちはキリストに「はい!信じています」と答えるでしょう。
しかし、私たちはこの素晴らしい出来事の詳細のすべてを知ることはないでしょう。
この出来事は突然来るのです。
そして、私たちはこの栄光に満ちた出来事が来ることを日々待ちつづけ、その主の約束を信じているのです。
これが教会の祝福された望みです。
ゆえに私たちはこの日が来ることを待つように言われています。
キリストがさばきの働きを始める前に、患難時代に、この地上において神の怒りが起きる最後の場面があります。
この時、栄光の王としてキリストは帰って来ます。
キリストは御自分の血のゆえにすべてを相続されるのです。
その前にキリストは空中に来られ、御自分の贖われた者たちと共同相続人となるのです。
これがキリストの未来の働きに関係した最初の出来事です。

キリストのさばきの座

すべてのさばきは主イエスキリストによってなされます。

「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章22節

今に至るまで、キリストは誰をもさばいていません。
そして、キリストにある人々は受けるべき冠も受けていないし、奉仕と信仰の報いを受けていません。
主の現れにおいて聖徒たちが集められたすぐ後に、キリストのさばきの座がその後に続きます。

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙14章10節

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。 」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章10節

このさばきの座には救われていない人は誰も出席することはありません。
彼らは死からの復活に預かっていないからです。
別の、言い方をすれば、彼らのからだはまばたきの瞬間にそのからだは変えられていないからです。
このさばきは、ただクリスチャンだけに関係のあることです。
また、このさばきはいかであろうと、救われた者の永遠の救いを決定付けるものではありません。
救いは主イエスキリストを信じたときに決定されたのです。
ヨハネの福音書5章24節において、私たちの主のことばがすべてをはっきりとさせています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章24節

そのように、死からいのちに移されたのです。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章1節

キリストの未来の働きにおける最初のさばきの時に、神の人々の働きの奉仕は主イエスによって扱われます。
私たちはコリント人へ手紙第一4章5節において読みました。

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」
新改訳聖書 コリント人へ手紙第一4章5節

さばきの座において、すべてのことが明らかにされます。
クリスチャンの歩みの中で告白されていない罪は光の中に至り、隠されたことは覆い隠されることはありません。
その時、クリスチャンの働きが明らかにされます。

「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一 3章12〜15節

この時は神の人々が報酬と冠を受ける時です。
その時、使徒たち、忠実な殉教者、自分自身を捧げた伝道者、そして、神のしもべ、彼らは自分の働きの賞賛と報いを受け取るのです。
このさばきの座とはキリストの賞賛の席なのです。
忠実なテサロニケの教会への手紙に使徒の見解として次のようなことが書かれています。

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」

新改訳聖書 テサロニケ人へ手紙第一2章19、20節

そして、使徒ヨハネがこのように勧めています。

「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たち(使徒と教師)が信頼を持ち(確信し)、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章28節

キリストにあるクリスチャンは救われ、永遠のいのちを持っています。
しかし、すべての者が報いを受けるわけではありません。
彼らの働きはさばきの火によって焼かれます。
彼らには何も残りません。
彼らの働きは木であり、そして、わらだったのです。
彼らは報い無しになるのです。
その反面、骨折って働き、仕えた忠実な聖徒たち、彼らはキリストの足跡に従って歩んだ者たちはこの報いを受け取るのです。
その時、聖徒は何も知らないということはありえません。
この時、キリストのさばきの座に関することすべてが成就します。
キリストは御自分の聖徒たちを父の家へと導き、彼らはキリストの栄光を見ることになります。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章24節

キリストは御自身のために教会を現します。

「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章27節

キリストはキリストの教会を現します。

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」

新改訳聖書 ユダの手紙24節

2)地上に関するキリストの未来の働き

神の聖徒たちがこの地上から取り去られ、空中で主と会う時、いろいろな出来事が起きます。
私たちは短く説明することができます。
主イエスキリストは天からこの働きを始めます。
この地上では多くの者が恐ろしさを感じることでしょう。
キリストは多くのさばきをもってこの世界を取り扱います。
黙示録から私たちは学ぶことができます。

「すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録5章5節

この黙示録はこの地上に定められたさばき、そして、背教に対するさばきを語っています。
小羊はこの封印の書を開き、彼はそれぞれに描写されている出来事である封印を解いてゆきます。
このさばきにおいてキリストの働きがあるのです。
黙示録8章の中で、金の香炉を持って祭壇のところに立った御使いをみることができます。

「それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。」

新改訳聖書 黙示録8章5、6節

この最初の御使いは主イエスキリストです。
聖書の中で御使いということばは使わされた者と言う意味で必ずしも、被造物を指していません。
キリストは地の上に神の怒りとさばきの火を下します。
キリストによって使わされたラッパをもった七人の御使いがさばきをこの地上に下します。
その時、別の鉢のさばきをもった七人の御使いが神の怒りを注ぎ出します。
私たちはこれらすべてのさばきがどのように区別されるのか判断することはできないでしょう。
これらのことは人間には理解できないでしょう。
また、人間は何を意味しているのか、義をもって主がこの地上をさばく時に何が起きるのか、そのすべてを正確に理解することはできないでしょう。

イスラエルと多くの国々

イスラエルと多くの国々は上記に書かれたさばきを通りぬけるのです。
背教化したキリスト教界(教会ではありません)、神が拒み、キリストが拒否したキリスト教界はパロのようにさばきによってこころをかたくなにします。
彼らは悔い改めようとはしません。
むしろ、強い欺きを信じ、自分を偉大な者とする罪の人を受け入れるのです。
ユダヤ人たちは部分的ではありますが、自分たちの国で回復されるでしょう。
ユダヤ人たちの国は患難時代の真ん中にいます。
そして、彼らはこの患難を激しい形で感じるのです。
一部の背教化したユダヤ人たちは偽のキリストを礼拝します。
ゆえに、彼らにこれらの正しいさばきが訪れるのです。
しかし、同様に神の残りの民、つまり信仰を持つユダヤ人たちは神のみことばを信じ、王国と王を待望するのです。
この信仰を持つユダヤ人たちは苦しみますが、救われるのです。
彼らは最後の王のメッセンジャーであり、御国の福音をもう一度宣言するのです。
そして、この地上に終りが来る前に、彼らはすべての国々に証言します。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 」
新改訳聖書 マタイの福音書24章14節

国々は義を学ぶのです。

「私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。」
新改訳聖書 イザヤ書26章9節

救いの働きはさばきの七年間の間に進みます。
黙示録7章9〜17節を見てください。
非常に多くの人々が、だれも数え切れないほどの人たちが、すべての国々が、多くの人種が、民が、多くの言語が、この大きな患難時代の外にいます。
彼らの衣はキリストの血によって白く洗われたのです。
彼らはユダヤ人の残りの民によって語られた最後の証言を聞き、信じたのです。
異邦人の国々は御国の福音は受け入れたのです。
その反面、背教化したキリスト教世界は締め出されます。
彼らは真実の愛を受け入れずに、不義を喜んだのです。
(テサロニケ人への手紙第二2章参照)

キリストの栄光ある現れ

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」

新改訳聖書 マタイの福音書24章29、30節

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
新改訳聖書 黙示録1章7節

「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」

新改訳聖書 黙示録19章11〜16節

栄光に満ちた王としてのキリスト

「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章4節

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。」
新改訳聖書 テサロニケ人へ手紙第一1章10節

なんとすばらしい光景ではないでしょうか!
その時、キリストは多くの子供たちを連れて栄光に入るのです。
すべての者が同じ姿に変えられます。

キリストのさばきの働き

「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書14章4節

「わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書14章2節

彼らの指導者である獣は、罪の人であり、反キリストです。
彼はこの町の中で恐ろしい働きをするのです。
イスラエルの残りの民は大きな苦しみの中にいます。
その時、彼らは祈り、救いを見ます。
そして、王が来ると、彼らは救いに至るのです。
その日、彼らは喜びのゆえに叫び、このように言います。

「その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
新改訳聖書 イザヤ25章9節

彼らはかつて拒否した方を歓迎するのです。

「あなたがたに告げます。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」」

新改訳聖書 マタイの福音書23章39節

キリストはこれらの国々に対して戦うのです。
ハルマゲドンの大きな戦いが起きるのです。

「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。」
新改訳聖書 黙示録19章19節

そして、この反抗者たちはとつぜん、こなごなに壊されてしまうのです。

「すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者(反キリスト)も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」
新改訳聖書 黙示録19章20節

キリストの王座における働き

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 」
新改訳聖書 マタイの福音書25章31節

すべての目はキリストを見るでしょう。
キリストは王の王として、栄光ある威厳をもって現われるのです。
キリストの栄光は天を覆います。

「その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。 」

新改訳聖書 ハバクク書3章3節

キリストを否定したすべての舌は永遠に黙らせられます。
キリストは個人的に、目に見える形で来られるのは二回目となります。
そして、今回は栄光をもって王位に着き、キリストの神性を誰も否定することはできなくなります。
キリストの受肉、そして、キリストが地上で、栄光をもってこの働きを成就します。
もはや、だれも否定し続けることはできません。
キリストの栄王ある現われは、すべての敵を静かにさせます。
キリストを拒絶した結果と、この地上の王として、支配者として、神がキリストに栄光をお与えになります。
キリストは血をもって買い取られたのです。
このことがこの時に始まるのです。
すべてのひざはキリストの前にひざをかかげます。
すべての舌はキリストを主と告白します。
キリストがすべての栄光をもって現われる時、それはキリストは一人で来るのではありません。
キリストの聖徒たちがキリストとともに来るのです。
さばきはキリストによって実行に移されます。
永遠の、死者のさばきを言っているのではありません。
キリストが地上再臨される時代に、生きている国々に対してなされます。
ある国々はキリストの右の座に置かれこのように言われます。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち。」
新改訳聖書 マタイの福音書25章31節

これらの国々はその時、地上に建て上げられた王国を受け継ぎます。
これらの正しい国々は明らかに教会の聖徒たちではありません。
私たちが知っているように、キリストの未来の働きが始める時に私たちは引き上げられます。
キリストが栄光と力とを持って来られる時、私たちは空中でキリストと出会い、キリストと結び合わせられるのです。
また、他の国々はキリストの左の座に置かれ、さばきの王座から永遠に終わりないさばきの中に入れられるのです。

「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
新改訳聖書 マタイの福音書25章46節

しかし、このさばきの基準とはいったい何なのでしょうか?
彼らは主の兄弟に何をしたのでしょうか?
それとも、何かをしなかったからでしょうか?
主の肉の兄弟とはユダヤ人のことです。
この患難時代に信じたユダヤ人たちはすべての国々に王国の福音を宣べ伝えます。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 」
新改訳聖書 マタイの福音書24章14節

この国々は最後の哀れみの申し出であるメッセンジャーをやさしく取り扱いました。
信じない国々はこのようには彼らを扱いませんでした。
そして、この偉大なさばきが通り過ぎた後、義と平和の御国がこの地上に建て上げられます。
この時、義によって、恵みとしての支配が始まるのです。

3)王国の栄光

「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。」

新改訳聖書 ダニエル書2章44節

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

新改訳聖書 ダニエル書7章13、14節

ダニエルの偉大な預言からこれら二つの基本的な節を正確に学ぶなら、ここにキリストの地上再臨の時に約束された御国が建てられるという事実を見ることができます。
この地上の御国はさばきが吹き荒れた後で建てられるのです。
ネブカネネザルは彼が見た預言的な夢の中でこのことを見ました。
この地上の御国に、すべての国々が入れられます。
エルサレムと改心したイスラエルがその王国の中心となります。
主イエスキリストと、彼の聖徒たちはこの地上とこの王国を支配するのです。
その時、キリストはどのような働きをするのでしょうか?
はっきりとしたことがわかりませんが、少しながら言うことができます。

「この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書9章10節

「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」

新改訳聖書 イザヤ書11章4節

「彼は国々に公義をもたらす。」
新改訳聖書 イザヤ書42章1節

「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。 」

新改訳聖書 イザヤ書2章4節

「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」
新改訳聖書 イザヤ書11章12節

「その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書2章11節

「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書14章9節

「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」
新改訳聖書 イザヤ書32章1節

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」
新改訳聖書 エレミヤ書23章5節

より多くの節が御国を預言し、描写しています。
そして、それに栄光が加えられようとしています。
これら多くのみことばは預言者たちが何を言おうとしているか正確に語っています。
義と平和がこの世界に形作られ、主イエスキリストが広くこの王国を支配するのです。
深い海をおおう水のようにこの地上をキリストの栄光がおおいます。
国々はキリストを礼拝します。

「彼は海から海に至るまで、また、川から地の果て果てに至るまで統べ治めますように。 」
新改訳聖書 詩篇72編8節

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」
新改訳聖書 詩篇72編11節

この地上ですべての誤りが正しく導かれ、今日の悪は圧制されます。
犯罪と悪習慣、貧しさと病気は消え去ります。
キリストだけがこのような力を持っているのです。
ああ!栄光の王国。
私たちはこのように祈るでしょう。
すぐに来てください!
栄光の王国が....。

被造物の救い

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章19〜22節

罪は被造物の上にものろいを持ってきました。
イバラとあざみは人が堕落した結果です。
同様に荒廃と苦難が被造物の上にとどまりました。
しかし、創造者によって良きことが宣言されています。
この被造物がおとしめられた状態は永遠には続きません。
より良き日が来るのです。
うめき苦しむ被造物は救われます。
そののろいは除かれます。
人の働きによるのではありません。
科学者たちは滅びようとしている被造物のために何かをしようと試みました。
しかし、失敗に終わりました。
破壊、暑さとかんばつ、津波と大地震、人の手によっておさえることはできません。
神の子はいばらの冠をかぶりました。
そののろいはキリストの上に置かれました。
キリストはすべてのものを創造し、御自分の尊い血によって贖いの代価を払われたのです。
万能なる力をもって、うめき苦しむ被造物を救うのです。
神の御子が現れた時、その被造物の救いが起きるのです。
神の御子が現れる時、私たちが知っているようにキリストが目に見えて現れる時、このことが明白になります。
イザヤの見た幻がその時、成就されるのです。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 」

新改訳聖書 イザヤ書11章6〜8節

すべてのものがキリストの足の下に置かれます。

この時代が成就する時が来ます。

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章10節

すべてのものがキリストの下に置かれます。
そして、すべての敵がキリストの足台となるのです。
キリストはすべての者の主です。
キリストは王としての栄光をもって支配し、預言者たちが見てきたことが成就されます。
そして、その後にもう一つのさばきが続くのです。

大きな白い御座

キリストの支配される王国の終わりに邪悪な死者たちの二度目の復活が起こります。
この偉大なるさばき、そして邪悪な人々の最終的な運命は、黙示録20章11〜15節の中で現されています。
この恐ろしい場面の中で、主イエスキリストはさばきを行います。
それはすべてのさばきが御子に委ねられていると書かれているからです。

「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章22節

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。 」

新改訳聖書 コリント人への手紙15章24〜28節

その時、キリストは新しい天と新しい地とを創造します。
永遠に贖われた平和と栄光ある人類がここに住むのです。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録21章1節

「「すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録21章5節

「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録22章3〜5節

これがキリストの幸いなる働きの究極的な結果です。
キリストの過去の働きは終了したのです。
すぐにキリストの現在の働きは終わり、すぐに未来の王としての働きが始まります。
その時、キリストはこの地上に来られます。

「アーメン。主イエスよ、来てください。 」
改訳聖書 ヨハネの黙示録22章20節

2003/4/29 終了


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