イエスキリストとは誰でしょう。PART1
イエスキリストとは誰でしょう。
ある人は宗教家といい,ある人は革命家といます。
聖書はイエスキリストを「御子」、「ダビテの子」、「救い主」と呼ばれています。
イエスキリスト世界中の人たちに信じられ、聖書に預言された「救い主であり、十字架にかかった方であり、3日目によみがえられた方」です。
イエスキリストによって人々は生きる希望を持ち、逆に命を捨てる人さえいました。
彼は今騒がれているような、カルトの親分でしょうか。いいえ、違います。
世界中の知名人たち、歴史上の知名人の多くが、このキリストを信じているクリスチャンであることはご存知だと思います。
結論から先に言いましょう。
イエスキリストとは天地を造られた神です。
まず、新約聖書に直接、イエスキリストについて書かれた個所を見てみましょう。
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです
新改訳聖書 テトスへの手紙 2章13節
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 20章28節
ヨハネによる福音書ではもっとはっきり、イエスキリストを紹介しています。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
神から遣わされたヨハネという人が現われた。
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
------- ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 1章1〜17節 抜粋
最初にことばは神であると宣言しています。
ことばとは何でしょう。
それは人間と人間のコミュニケーション(交わり)の方法です。
自分の意思を他人に伝える方法です。
神と人間の間には断絶がありました。
それは罪の結果です。
しかし、イエスキリストが神と人間のコミュニケーションをとってくださったのです。
神の意志が、イエスキリストが人となることにより人間に伝わったのです。
神の愛が伝わったのです。
神の一人子イエスキリストはわたしたちの罪のために十字架で死なれたのです。
次にことばによってすべてのものが造られたと書かれています。
これは創世記の7日間にて天地万物の造られた神の御業を語っています。
神はことばによって天地万物を作られました。
つまり、天地万物はイエスキリストよって造られたのです。
そして、このことばはイエスキリストであることをヨハネは語っています。
イエスキリストは天地を創造された神です。
イエスキリストとは誰でしょう。PART2
出エジプト記の中でモーセという人物が神の名を聞きました。
その時の聖書の記事です。
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
新改訳聖書 出エジプト記 3章13〜14節
ここで神は『わたしはある。』と答えられました。
意味としては「私は存在する。」ということを語られたのでしょう。
実は『わたしはある。』(ヤハウエ)ということばは主語と動詞だけで英語で「I am」となり名詞がありません。
実はイエスキリストは自分を「I am」と言っています。
ギリシャ語で「εγω ειμι」(エゴー・エイミ)と書きます。
イエスキリストを裁判のときの聖書の記事です。
夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、
こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、
わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。
すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言った。
新改訳聖書 ルカによる福音書 22章66〜71節
民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが「ではあなたは神の子ですか。」と尋ねました。
驚くなかれイエスキリストご自身が「わたしはそれです。」(εγω ειμι)と答えたです。
イエスキリストは旧約聖書の『わたしはある。』(ヤハウエ)です。
それを聞いた、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが怒ってイエスキリストをローマに引き渡し十字架にかけたのです。
イスラエルのために来た神である。メシアを.......
またある聖書学者がイエスキリストの「わたしは〜である。」から神の宣言と考えています。
たとえば「わたしはいのちのパンです。」 のとき、「ヤハウエはいのちのパンです。」ということを主張してるといいます。
「わたしはいのちのパンです。」
ヨハネによる福音書 6章48節
「「わたしは、世の光です。」
ヨハネによる福音書 8章12節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
ヨハネによる福音書 8章58節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。」
ヨハネによる福音書 10章7節
『わたしは神の子である。』
ヨハネによる福音書 10章36節
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネによる福音書 11章25節
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
ヨハネによる福音書 14章6節
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」
ヨハネによる福音書 15章1節
イエスキリストは神であり、いのちのパンであり、アブラハムが生まれる前からいる方であり、わたしは羊の門であり、よみがえりであり、道であり、真理であり、いのちであり、ぶどうの木であるかたです。
アーメン