聖書Q&A 質問コーナー
Q,再臨(携挙)って何ですか。WHAT IS THE RAPTURE
A,イエスキリストは十字架の刑を終えて墓に葬られました。
しかしイエスキリストは死をつき破った証拠として三日目に死人の中からよみがえったのです。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
新改訳聖書 使徒による働き 1章3節
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」」
新改訳聖書 使徒による働き 1章8〜10節
イエスキリストは必ず帰ってくるということ使徒たちに約束になったのです。
イエスキリストは聖書の中で「世の中の終わりにもう一度来る。」という約束をしています。
それは神の怒りである患難時代からまた、この悪の世界から今生きている聖徒たちを救い出すためです。
クリスチャンにとって最大の希望です。
ひとつはイスラエルのためにオリーブ山において来られるメシヤとしての約束です。
もうひとつは教会(クリスチャン)を世から救い出して下さるという約束です。
突然、終末が近づいたある日クリスチャンが地上からいなくなるのです。
私たちは前者を地上再臨、後者を空中再臨(携挙)と呼んでいます。
地上再臨の約束は
「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書 14章3〜5節
これは患難時代の終わりに絶望的でかつ、神に希望を置いたイスラエルの民を救うために「エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」イエスキリストの姿です。
空中再臨(携挙)の約束は
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 4章13〜14節
眠った人々(地上において生涯をおえた人々。)に対しての希望を語るとともに、イエスキリストが天からある位置まで降りてこられ、イエスキリストを信じる者たちを引きあげて下さる約束です。
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 15章51〜55節
神はこの天と地をもう一度造り直すと言っています。 そこが神を信じる者の求める。最終目標であり、新創造です。 神はこの新創造の始まりに最初ご自身がよみがえり、新創造の初穂となって下さいました。 次の新創造に属する者はわれわれ(キリストの贖いの御業を信じるもの)です。 この空中再臨の時に教会時代に死んだ者は最初によみがえり、次に今生きているキリストの贖いの御業を信じるものは(単に教会に行っている者、キリスト教信者だと自称する者ではありません。)一瞬のうちに新しい体(罪のない体)に変えられるのです。 ですから、聖書のいう罪の許し、救いというのはここにかかっているのです。 「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 再臨を語らない教会は残念ながら、聖書のいう救いを語り切っていないことになります。 |
これは教会時代(クリスチャンのいる時代)の最後、患難時代の前に起こると考えています。
また聖書は、すべてのクリスチャンがこのことを希望において歩むことを推薦しています。
(試練の中にあるクリスチャンに対して(つまり、地上にあるクリスチャンすべてに対して)神が守ってくださるというみことばとともにイエスキリストを待ち望むよう悟しているのです。)
また、空中再臨後神にそむいた人類への患難(7年)が待っています。
神の怒りの現われの時と言われ、人類は反キリストに従い、落ちるところまで落ちます。
イスラエルにとっても試練のときであり、彼らはメシアの来臨を待ち望みます。
そこにイエスキリストがメシアとして地上に降りてくるのです。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 9章27〜28節
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるとき(空中再臨)にも、喜びおどる者となるためです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 4章12〜13節
再臨MAP
Q,世の終わり(終末)は本当ですか。
A,本当です。聖書は一貫してこの世に終わりがあること告げています。
人間は、神に対して罪を犯した者は地上であっても後にくる時代にあっても神のさばきを受けるのです。
これは厳かに言いますが非常に恐ろしいことことです。
人間が神に対して何の不満が言えるでしょうか。
神は私たちのためにイエスキリストを与えなければならない立場ではありませんでした。私たちを無条件に滅ぼしてもよかった方です。
しかし、神は愛です。(第一ヨハネ4章16節)
私たちに御子イエスキリストを与えてくれました。
「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」」
新改訳聖書 マタイによる福音書 24章3節
「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。
かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。
さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。
太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。」
新改訳聖書 ヨエル書 3章12〜16節
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」 新改訳聖書 ペテロの手紙第一 4章17節
Q,信じるだけ救われるというのは(信じるだけじゃ救われたと確信できない。)
A,もし、私があなたに百万円あげるといったら信用するでしょうか。
それは嘘です。私を信用してはいけません。
そうです。約束は約束をしてくださった方の人格によって確信を持つものなのです。
人間の約束は当てにはなりません。
しかし神は私たちに次のような約束を与えてくださいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16節
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章36節
この約束の条件は何でしょうか。
教会へ行って献金をすることでしょうか。
毎日祈ることでしょうか。良い行いをすることでしょうか。
貧しい人たちに施しをすることでしょうか。
聖書はこの行為を禁止していませんが、この約束の条件は信じるだけです。
私は神ではありませんので、この言葉に条件をつけるわけにはいきません。
では、あなたはイエスキリストがあなたの罪のために十字架にかかったことを信じていますか。
信じているのなら、あなたは滅び(地獄)でなく天国に入るものとなったのです。
これは、私は約束していることではありません。神さまが保証して下さったのです。
Q,救われたいのですが、どうも教会に行くというのは。
A,聖書は神様を礼拝することを勧めています。
しかし、それが救いへの条件ではないのです。
思い切って言いますが、もしあなたが教会に行くことがあなたの救いの邪魔をしているのなら行くなくてもいいんです。
しかし、もう一度言いますが、聖書は神様を礼拝することを勧めています。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 4章23節
また、あるクリスチャンの書いた本にはこのようなことは書いてありました。
「すべてのクリスチャンに、毎週日曜日に教会に行くようにいうのは高慢だ。日曜日に教会に来れるのはバスや電車が動かす人がいるからでしょう。」
私は思います。すべてのバスや電車が止まっても、すべての人が教会に来るなら神様は喜んで下さると。
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Q,私はキリスト信仰守って歩んでいく自信がありません。
一度イエスキリストを信じて救われた者が救いをなくすことはありますか?。
A,絶対にありません。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
新改訳聖書 エペソ人の手紙 2章8節
主イエスは、
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 5章24節
と仰せになりました。さらに主イエスを信じたものについて、主は次のようにお語るになりました。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 10章28〜29節
一度イエスキリストを信じて救われた者が救いをなくすことは神の言葉(権威)にかけてありません。
一度、永遠の命を持つ者として生まれた者が、滅びの子へと生まれ直すことは不可能です。
また、次の聖書の言葉を用いて救いを失うと主張するする人たちがいますが....。
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 6章4〜6節
同じ、へブル人への手紙にはこう書かれています。
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 7章24〜25節
ここでは、一度信じたものを最後まで守り通すことが使命とする、キリストの大祭司としての姿が描かれています。
イエスキリストには私たちを導く力がないのでしょうか。
神は、私たちクリスチャンを最後まで導けることを確信するように勧めています。
では、へブル人への手紙 6章4〜6節はどのような意味なのでしょうか。
「一度光を受けて」とは神の導きの理解力を与えられ、永遠の命という「天からの賜物」を知り、「聖霊にあずかる者」と「後にやがて来る世の力」とは神の癒し、導きを味わったのに(つまり、救いの一歩手前まで来たのに)しかも堕落してキリストを否定しまうなら、自分で(わざと)神の子を十字架にかけて、恥辱を与える人たちだと言っているのです。
この聖句は救われたものが救いを失う恐れがあると語っているのではありません。
Q、大切なことは「信仰」だといわれますが、信仰とは何ですか?。
まず言葉の意味から説明しましょう。
信仰とは聖書の言語(ギリシャ語)でピステウオー(πιστευω)といいます。
辞典で調べますと「信頼する、信頼を置く、信じる、委ねる」と書いてあります。
それは神様を信じる人たちが語句の通り、神に自分の人生の問題において信頼するという意味です。
では具体的にどのようなことを言うのでしょうか。間違った教えから説明してみましょう。
1、努力することです。私たち人間は罪人ですから努力して神に近づくのです。
(金銭を出すことです。)
2、神様の力を体験することです。
神様のことを念じ、神さまから力を与えてくださることを確信し、通常では体験しないこと経験することです。
3、霊的な状態になることです。
4、感情的になることです。
ひとつひとつ説明していきましょう。
1、人間の努力によっては神に近づくことはできません。
神は人間に(ユダヤ人に)戒めを与えました。
その内容は戒めを守れば祝福される。戒めを破れば呪われるでした。
歴史を見るのであればユダヤ人は戒めを守れなかったのでの呪われました。
努力や行いは信仰ではなく神に近づくことはできません。
(神は最終的にユダヤ人を祝福すると約束しています。それを信じることが信仰です。)
まして、神はお金がなくては何にも出来ない方ではありません。
2、聖書には神様の力を体験することが信仰だとは言っていません。
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 13章1節
初期の教会では異言(たぶん、意味のないことを叫び、失神状態になること。)という特別な経験をすることが必要だと教えていたようです。
しかし、聖書は愛がないなら、うるさいだけで迷惑だと語っているんです。
不信仰な人間はしるしを求めます。しかししるしよりも私はイエスキリストご自身を求めます。
3、私はこの言葉を使う人に「霊的とは何ですか?」と尋ねたいです。
聖書は霊のことを目に見えない存在を指しています。
例えば聖霊とは人格のある存在。(神の三位一体の一人格)を指し、悪霊とはサタンに属する人格ある存在を指しています。
確かに私たちはこれらの霊に影響されることはあるでしょう。
しかし、それが信仰だとは書かれていません。
(聖霊は私たちの中に住み、信仰へと導いて下さっています。しかしこの方は人格と神の無限の知恵を持っています。(紳士的です)
この方が私たちを失神状態や狂喜へと導くことは通常はありえないと考えます。(聖霊体験))
4、私たちは大切なことを知らなければいけません。
感情と信仰とは全く別なものです。
ある人が「朝起きて今日は晴れていて気分がいい、だから霊的にも気分がよく非常に信仰的だ。」と言うかもしれませんがそれは信仰とは全く関係がありません。
逆にその日の気分によって信仰を判断しているのであれば、感情はあなたにうそをつきます。
気分のさえない日は神のみことばを信じることをせずに気分によって神を呪います。
では聖書は信仰とは何だと言っているのでしょうか。それは次の聖書カ所で明白です。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 11章1節
聖書は信仰とは預言を信じることだと言っています。
神は人間に罪のある者は滅び向かうと宣言しました。
それはその通りになるという預言を信じることです。
また、イエスキリストの十字架の贖いを信じる者は天国に入ることができるとも宣言しました。
それはその通りイエスキリストを信じる者が天国に入れるという預言を信じることです。
私たちは信仰ということを難しい哲学にしていることが多いのです。
しかし、聖書は単純に神のみことば(預言)を信じることが信仰だと言っているのです。
気分の上揺や、兄弟愛ではありません。
今の時代にあって、私たちは聖書のみことばがその通りになると期待しています。
それは私たちへの希望であり、励みであり、喜びなのです。
もしそのことを忘れたのであれば神のみことばを信じる者たちは何に希望を置けば良いでしょうか。
(死んだ後に天国に入れる。それは大きな望みです。キリストの再臨それは大きくて目の前の望みです。)
この世の支配者であるサタンは私たちにこの地上は住み心地がいいと言います。
それは希望を天にではなく地上に置かせるためです。
この地上に望みのある人はキリストの再臨を語ること嫌がります。
天に希望を置く人はキリストの再臨を待望します。
(多くの説教者がキリスト者の歩み方を研究します。私はけして間違いではないことを知っています。しかし、聖書は私たちキリスト者の希望をキリストの再臨に希望を置いて日々励むことを勧めています。(まず、ゴールを設定して。))
「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 3章20節
もし、皆様方がより多く信仰について聖書から学びたいのであればへブル人への手紙11章をすべてお読みくださることが励みになると考えます。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 11章13節
「義人は信仰によって生きる。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 1章17節
参考)聖書の証言は神の存在について、及び十字架の歴史的事実については信仰だとは言っていません。
認められる事実だとしています。
実際、著者は多くの教会が未来預言に没頭し、神の福音から離れてきたのを目撃しています。
しかし、聖書(預言)が悪いのではありません。人間は神のみことば(権威)と人間の興味心を置き換えてしまったのです。
結果、教会の主人は人間になり、悪魔と入れ替わってしまいました。
著者はキリスト信者はみことばに忠実に立つことの必要性を訴えます。