「ヨセフス「ユダヤ古代史」第十八巻(紀元95年ごろ) さてこのころ、イエスという人物において、その他の災難の種が生じた。彼は人を驚かすようなことを行った賢人、奇妙なことを喜んで受け入れる者たちの教師であった。 彼は多くのユダヤ人を誘いだし、異邦人の多くの者をも誘いだした。彼はキリストと呼ばれていました。 ピラトゥスが我々の中の長たちから提供された情報に基づいて行動し、彼に十字架刑の判決を下した時、最初、彼に従ったものたちは、厄介ごとを起こすことをやめませんでした。 そしてキリスト教徒(クリスチャン)---彼らは彼にちなんでこの名前を持っている。---の仲間は今日も消滅していない。 |
タキトォス「年代記」(紀元115〜117年) しかし、元首の慈悲深い援助も惜しみない施与も、神々に捧げた贖罪の儀式も、不名誉な噂で枯らせることはできなかった。 民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。 そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、手の込んだ罠の加えたのです。 それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ「クリストォス信奉者」と呼ばれていたものたちである。 この一派の呼び名の起因となったクリストォスある者は、ティペリオスの治世下に、元首属史ポンティウス・ピラトォスによって処刑されていました。 その当座は、その有害きわまりない迷信も、一時、鎮まっていたのだが、最近になって再び、この禍悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥な行為がことごとく流れ込んでもてはやされていたのです。 そこでまず、信仰告白していたものが審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結び付けられたのである。 彼らは殺される時、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。 あるいは十字架に縛りつけられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのです。 ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、その上、戦車競技まで催して、その開中、戦車敗者のよそおいで民衆の間を歩き回った歩き回ったり、自分でも戦車を走らせたりした。 そこで人々は不憫の念を抱きだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなにむごたらしい懲罰にも値する。 しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためではなくネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。 |
キリストの復活を否定するために次のような説もある。
1、キリストは死んだのではなく意識を失っただけ。
a)通常、十字架刑には検死官たるものがついており、十字架刑を行って死んでいなかった場合はローマの権威にかかってくる。イエスキリストが十字架刑になり墓に収められた状態で死んでいなかったというのは非現実的である。
b)イエスキリストの死体は亜麻布でミイラのようにぐるぐる巻きにされ、ガム上の香料をその上からられた。
イエスキリストが十字架上で死んでいなかったとすれば、彼は三日間(実際には二日間)飲まず食わずの状態でその包帯を取り、2トンもある墓石を動かし、外にいるローマ兵と戦って出来たとは決して思えない。
2、「弟子たちがキリストの復活の幻を見たにすぎない」という説
3、「キリストの復活物語は、後の教会の創作である。」という説
ならば、墓は空っぽにはなりません。
次に、何百人も同時に見るような幻覚はありません。
最近流行のカルトの洗脳ならば、復活の預言もなければ、四十日の期限もありません。
また、復活物語の統一性もありません。
(複数の人間の幻であれば、また創作であれば必ずストーリーは食い違いが現れます。)
4、墓を間違えたという説
5、人間違いの説
6、双子の兄弟説
いずれもありますがここで説明するのはやめておきます。
1930年代、イギリスの法律家であったフランク・モリソンはキリスト信仰の土台が復活であることに気づき、これが迷信だと、世界中に暴露しようと努力しました。 しかし、時代は変わり、彼は「動いた墓石」という本を書いたのです。 その第一章”どうしても書けなかった本”の中で彼は、「証拠を調べていくにつれ、自分の意志に反して肉体の復活の事実を信じざるを得なかった」と述べています。 |
わずかなページで納得させることは難しいかもしれません。
しかし、イエスキリストの存在と十字架は歴史の証明するところであり、その復活はそれ以上の論証ができるのです。
多くの攻撃が聖書にありました。特に復活です。
この二千年間、キリスト信仰はなくなってはいません。
結論
イギリスの最高裁判所長であったダーリング卿は次のように結論をしています。 「このようのいかなる知的な審判員も、復活の物語は真実であると評決を下さざるをえない、積極的、及び消極的証拠、事実の証拠と状況証拠という、圧倒的な証拠が存在するのである。」 |
私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
新改訳聖書 コリント人への手紙 第一 15章19〜21節
聖書はキリストが神であり、私たちの罪の身代わりに死なれた救い主であることを示しています。
人間は愚かです。永遠の命があるといっても信じられないのです。
神の御子キリストご自身が死者の中からよみがえりその証明をされたのです。
イエスキリストの復活は、私たちの永遠の命の証なのです。
またイエスキリストは初穂と言われています。
初穂によって、その年の産物の評価がわかります。
初穂が聖ければ、その年の産物すべてが聖いのです。
「初穂 = その年」の産物なのです。
私たちはイエスキリストの復活により、永遠の命が保証されているのです。
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