キリストはなぜ、十字架で死なれたのでしょうか?
AD32年 イスラエルの首都、エルサレムの郊外のゴルゴダ(どくろ)といわれる場所に三本の十字架が立ちました。
両側には犯罪人、真ん中には自分を神として、むりやり死刑にされたイエスキリストという人物です。
彼は当時の宗教家たちに嫌われてエルサレムを支配していたローマの総督のところに送られて十字架刑になっているのです。
この人物は生まれた時から処女マリアから生まれたと言われており、エルサレムにいた預言者たちからも来るべきかたと賛美されていました。
三十歳になるまで大工のヨセフの子として育ったが、その後、民の前に現れて自分こそ来るべきメシアだと公言しました。
彼は生きているときに、病人をいやし、5つのパンと2匹の魚で5千人の人を腹を満たし、死人をよみがえらせ多くの奇跡を行いました。
三年間彼といっしょにいた、弟子のひとりも「この方は罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見出されませんでした。」と証しされるほどです。
なのに、彼の手は釘で打たれ、十字架に止められています。
その場面を聖書記者は次のように描いています。
「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。
またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。
また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 19章17〜34節抜粋
彼の死後、通常では十字架上に放置され猛禽たちのえさとなります。
しかし、イエスの遺体はアリマタヤのヨセフという議員に引き取られ,亜麻布で包まれて墓に埋葬されました。
墓の周りにはなんと、ローマの兵隊が護衛につきました。
イエスも多くの人の罪のささげものとして十字架にかかって3日目によみがえると証しをし預言されていましたが、弟子たちはだれも信じてはいなかったようです。
彼らは自分の先生が十字架刑になったのを恐れて逃げまわっていました。
しかし、3日目に死体はなくなったのです。
そして、弟子たちはイエスキリストが復活したと言い始めたのです。
聖書は次のように記しています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(旧約聖書)の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙 第一 15章3〜8節
なぜ、イエスキリストが十字架にかかったのでしょうか。
キリストは聖書に預言されていた救い主です。
私、そしてこのページを見ている方への救いのためです。
あなたの身代わりです。
すべての人間には罪があるのです。
罪があるものは天国(神様のいるところ)には入れません。
罪のあるものは死後の永遠の滅び(地獄)です。
ですから、罪の赦しが必要なのです。
神の御子キリストは人類すべての罪の身代わりに十字架の上で死んでくださったです。
罪の代価すべてが十字架の上で払われたのです。
ですから、イエスキリストの十字架の御業を信じるものは
だれでも罪が赦され、天国に行けるのです。
ここに神の愛があるのです。
もう一度言います、信じるだけであなたは罪が赦され、神に受け入れられるのです。
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16節
イエスキリストが死人の中から初穂としてよみがえったくださりました。
初穂とは、その年の収穫の質を決めるものです。日本でいう新茶に当たるかもしれません。つまり初穂が良ければその年の収穫もよいということです。初穂と収穫は一体です。)
イエスキリストを信じた者は、イエスキリストと一体とみなされ、信者も必ず死からの復活があるのです。
イエスキリストの中にあるものとされた私たちは神に愛されて当然です。
イエスキリストの復活は、死を突き破った証拠であり、神の証なのです。
逃げ惑っていた弟子たちは復活を理解しました。彼らはこの救いを世界に出て行き述べ伝えました。
当時の世界を支配していたローマ帝国さえもひっくり返してしまったことは歴史を知っているのなら言うまでもありません。