メッセージX 2000/9/8

永遠の保証 by H.A.アイアンサイド 
  (ETERNAL SECURITY By H. A. IRONSIDE)


前書き

「永遠の保証」について

永遠の保証:その意味

キリストの羊

キリストの一つのささげ物

未来の罪について?

聖霊の忍耐

経験と信仰

新しい創造

二人のアダム

永遠の生命を持つこと

イエスの羊はイエスについて来ます。

危険な教理

信仰によって義とされる。

反対意見

反対意見に対する答え

質問1 質問2 質問3 質問4 質問5 質問6 質問7 質問8 質問9 質問10

質問11 質問12 質問13 質問14 質問15 質問16 質問17 質問18 質問19 質問20

質問21 質問22 質問23 質問24


前書き

この小冊子はD・L・ムーディ・メモリアル・チャーチで主日の朝に述べられたメッセージと金曜日に行われている講義ミーティングでの二回の聖書研究の時間に出された質問から成り立っています。その時の質問の答えは講壇の上から答えられたものです。
慎重な編集にて、繰り返されたと思われることは適切に除去しました。
けれども、真実が心と自覚にある拠点を見出すことは、何度も再確認されることによるのです。
ですから、私が一方でしたかもしれない答えの削除を行っていません。
私の目的は論争することでも、反対者を出し抜くことでもなく、神の人々を教え悟すことであると証言します。
それは真実の知識が律法主義から引き渡され、真実の自由を与えることとなるのです。
H・A・アイアンサイド シカゴ、イリノイ、1934年4月24日


「永遠の保証」について

「永遠の保証」はD・L・ムーディ・メモリアル・チャーチにてH・A・アイアンサイド博士による「信じている者は失われることは有りえますか?」についての講演をまとめた物です。

私は神を信じる人々の間で引き起こされたたくさんの論争を生んだ、あなたに話すテーマはすでに知らせています。
私は出発点が欲しいのです。
私たちの良き多くの者が聖書のローマ人への手紙8章38〜39節を見るでしょうがそれは正確な出発点とはならないからです。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙8章38〜39節

これは35節の問題に対する霊感を受けた解答です。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章35節

私たちはかつて、クリスチャンとなりました。
私たちはかつて、キリストの愛を知りました。
私たちはかつて、信仰によって義とされました。
それは誰でしょうか?それはどんな力でしょうか?それらがキリストの愛から引き離すことが出来るでしょうか?
そして、その答えは完全であり、明らかなことです。
暗さも疑いも問題も持って来ません。

その時、使徒も「死も、いのちも、私たちを引き離すことはできません!」と言っています。

どんな目に見えない力も、神の子供たちをキリストから引き離すことができません。「御使いも、権威ある者も、力ある者も」
新約聖書の中で、特に書簡において、良き御使い、悪い御使いの群れのためにこれらの言葉が何度も使われています。
私たちの救い主が死より甦られた時、主権(権威ある者)と力(力ある者)を戦利品として受け取りました。
すなわち、悪魔によって導かれた悪の群れを破ったのです。

ここに述べられている御使いたち(ローマ38節)は良い天使であり、主権と力とはおそらく悪い天使について述べられていると、私たちは理解するでしょう。
しかし、悪い御使いにはキリストから神の子供たちを引き離すことは出来ず、、また良い御使いのするべきことでもありません。
さらに彼は「今あるものも、後に来るものも」と言っています。

あなたは、クリスチャンが今まで経験しようとして来た「今あるもの、後に来るもの」でもない、何かの経験について考えることが出来るでしょうか ?
そして、「今あるもの、後に来るもの」のどちらもキリストから神の子供たちを引き離すことがないと聖霊は言っています。
まるでそれでは十分ではないかのように、彼はより解りやすい方法で話しています。その時、彼は「高さも、深さも(天国の中にあるものでも、地獄の中にあるものでもありません。)、そのほかのどんな被造物も」と言っています。
私たちがもし、主イエスキリストにあるクリスチャンであるならば、私たちは安全であると私はみなすのです。


永遠の保証:その意味

私たちがクリスチャンの永遠にある保証について話す時、私たちは何か大切ことが言えるでしょうか?
それは、私たちがかつて哀れな罪人であったが、神の霊と言葉によって甦ったことを意味しています。
かつて、彼は新しい命を受け取り、新しい性質と神の性質を共に分かち合う者となったことです。
かつて、彼は神の王座の前にあるあらゆる訴えから義とされたことです。
そして、その人が再び失われる魂となることは絶対に不可能なことです。
そして、この時私は「私たちがクリスチャンの永遠にある保証について話し、何も必要なことはないと言いたい」と言う事が出来ます。
もし、ある人が集会にて、講壇の方へ出て行き、説教者と握手をし、彼が救い主として主イエス・キリストの人格によって永遠に安全であることを受け入れると言って、救われていると告白するならば、フォローの必要性は何もないことを私たちは言いたいのです。

もし、その人が教会につながってなくても、信仰告白がなかったとしても、聖餐式に来なくても、クリスチャンの働きに興味がなくても、その身柄は永遠に保証されているのです。
それが確実に示された贈り物であり、その身柄はかならず永遠に保証されているという、クリスチャンの証言にあってこれらの贈り物は実際に用いられるのです。
マタイによる福音書7章21〜23節に記録されているように、主の日に私たちの主イエスキリストが人々に言うでしょう。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
新改訳聖書 マタイによる福音書7章21〜23節

このような人々が、その時にいるでしょう。
クリスチャンと呼ばれる人々において、とても積極的であり、彼らは預言をし、悪魔を追い払いました。
彼らの影響力は男も女も、キリストの名によって悪魔の力から彼らの奉仕によって開放されることを見い出すほどです。
彼らは、彼らの唇は告白しました。
彼らは、完成した多くの素晴らしい働きを持っていました。
しかし、ある日彼らは失われた者の中で、そしてその時彼らは自分の働きの偉大さを弁明し始めます。
主は彼らに「わたしはあなたがたを全然知らない」と言い、
主は彼らに「わたしはあなたを知る必要があった。しかし、あなたはわたしへの好意を失い、私は、もはやあなたを知りません。」とは言っていません。
主は「わたしはあなたがたを(始めから)全然知らない」ときっぱり言っているのです。


キリストの羊

あなたはどのように覚えているのでしょうか。
イエスがヨハネによる福音書10章27〜30節の中で、イエスの所有しているものについて話しておられます。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
わたしと父とは一つです。」

新改訳聖書 ヨハネによる福音書 10章27〜30節

イエスの所有している羊については、イエスは「わたしは彼らを知っています。」と言っています。
この他の羊にはどんな働きがあろうとも、その日に彼らにどんな成果があろうとも、イエスは「わたしはあなたがたを全然知らない」と裁いて言うのです。
それはとても厳粛なことです。
その問題の答えは、しばしば私たちに問いかけられてきます。
多くの時をかけても私は知ることができませんでしたが、私には個人的にはこのようなたとえを持っています。
ある人が教会につながっていたと仮定しましょう。
その人は救われていると告白しています。
その人は教会の働きにとても活発で長いあいだそのメンバーです。
おそらく教会学校の先生だったのでしょう。
おそらく教会の長老か、執事だったのでしょう。
たぶん、献身的な奉仕者だったのでしょう。
しかし、はっきりとクリスチャンの生活に慣れ親しんだ何年もあと、彼は過去すべてに帰り、世に復帰し、クリスチャンとしての歩みを拒否してしまったのです。
そして、かつて彼が告白した福音全体を現在否定しているのです。
クリスチャンの永遠にある祝福をあなたの教義にどのように一致させればよいのでしょうか?
その問題に完全にたずさわることは出来ませんが、使徒ヨハネが私たちにどのようにこのようなケースを理解すればよいのかを語っています。
彼はヨハネの手紙第一の2章19節で言っています。

「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章19節

文字通りに「彼らがみな明らかに私たちの仲間でなかった」のです。
すなわち、私が話した全てのことを行っても、全く、改心せずにいることは可能なことなのです。
クリスチャンとしての歩みを認めることは十分に可能なことです。
教え、語るでしょうが彼はいまだに新しく生まれていないのです。
もし、ある者が真実を教え、語るのであれば、それは良い結果を生み出すでしょう。
それが神に用いられる真実のために、先生、もしくはメッセージにかかわらず、現実に、もしくはそうでないととしても、人々は良いことを行うのです。
もちろん、彼は偽善者によって宣言された時よりも、神の栄光のために生きている聖い人間によって宣言される時の方が、よりよい利益を生み出す真実を十分に使うことが出来ることを知っています。
にもかかわらず、キリストの名にある力強い働きをどのようにすれば行うことが出来るのかを人々に説明し、彼は宣言するかもしれませんが、彼の告白のいい加減な真実を神は用いるのです。
しかし、彼はいまだ、新しく生まれていないのです。


キリストの一つのささげ物

私たちが主イエスの中にあるクリスチャンが永遠に保証されていると言う時、聖書の証言するところの多くの御言葉に基礎を置きます。
最初に、私たちは十字架の上にてキリストによる一つの捧げ物の完全性をそこに据えます。
個人的には、私は神の聖霊によって教えられた人々がどのように考えているのか理解することは出来ません。
彼らは注意深くヘブル人への手紙を読むことができ、この手紙の著者が律法の下にある多くの捧げられた犠牲と私たちの主イエスキリストの一つの捧げ物を完全に対比されていることが見出されていません。
それは彼が特に注意を呼びかけていることです。
律法の下で毎回イスラエル人は罪を犯しました。
彼には新たな罪の捧げ物が必要でした。
それは毎年行われる国が贖いのために祝わなければならない、おおいなる日の儀式であり、その時の新たな捧げ物は民のための神へのプレゼントです。
なぜ対比されているのでしょうか?
それはこれらの犠牲が罪を決して持ち去ることができず、しばらくの間、彼らは罪を覆い隠しただけのことでした。
しかし、私たちはヘブル人への手紙10章で語られています。
その時、主イエスキリストは世に来て、自分自身をしみのない神への捧げ物としたのです。
キリストの犠牲の効果は永遠にあります。
14節はこれを明らかにしています。

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章14節

どのぐらい期間、全うされたのでしょうか?
「なんてことだろう!」と誰かが言うかもしれません。
「彼らが信仰的である間ですか?」いいえ聖書はなんと言っているでしょうか。
「彼は永遠に完成したのです。」
なぜ?
この犠牲はすべてに有効だからです。
私は、信じる者の永遠にある保証の教義を否定する私の同朋が、キリストの完成した働きに侮辱を与えていることを認識していないことを確信しています。
彼らはキリストの犠牲を、実際には旧約聖書の摂理である雄牛とヤギの犠牲のレベルまで価値を下げています。
私は彼らに主の名を汚してもらいたくありません。
なぜなら、ちょうど私が主を愛していると確信しているのと同じぐらい彼らは確信して主を愛しています。
しかし、彼らはこの教義を恐れていながらも、この教義は人々を地上の歩みにおいていい加減に導くのです。したがって信仰によって義とされた後に信仰を失う可能性を強調しているのです。
しかし彼らは筋の通った結論へとは達していません。
彼らは私たちのイエス・キリストの完成した働きを現実的に否定していることを知りません。
私たちにはキリストの犠牲があるので、永遠に救われているのです。
その時、私は主イエス・キリストのもとに来て、信仰をイエスのもとに置きました。
それは単に改心し私の罪が許された日までのすべての罪のためだけではなく、私の罪すべては(改心後に犯した罪も)永遠に離れ去っていったのです。

その時、若いクリスチャンであった私は幾分このように教えられました。
すべて私の罪は夜明けの時から夜に至るまで勘定されており、その時に私は主イエスに信仰を置き、今までの罪は片付けられ、今、神が私に新しいスタートを与えられたのだと....。
私は私が改心した時このように考えていました。
そして、もし私がただ人生の終わりまで清く保っていられるのなら、私は天国に入れることができ、私が清く保つことが出来なかったら、クリスチャンであることをやめ、もう一度始めから改心しなければならないのだと...。
過去にこのことが生じるたびにキリストの血の下に行きましたが、私は未来においても清くなければなりません。
もしそうであれば、なんと神がキリストの贖罪をはずかしめているのです!
たとえ、これらのことが起きたとしても、私の改心の瞬間に犯した罪はキリストの血の贖いによって片付けられているのです。
私がこれらを扱った後の告白は罪によってなされ、罪によってなされた許しにはどのような可能性があるのでしょうか?
神が罪を許すことができるという唯一の基礎は、イエスが十字架に上ですべてを確立したということです。
その時私はイエスを信頼するし、イエスが行ったすべてのことは私の説明することへと達するでしょう。


未来の罪について?

ある日、ある女性が私のところへ来て言いました、「私はあなたがそこで言っていることが解りません。」
私はキリストが私の改心の時までの犯した罪のために死なれたことを理解で出来ますが、あなたが語る「私の未来の罪のために死んだ」ということが何を意味しているのが解らないのです?
私は「キリストが十字架の上で死んだ昔に、あなたの罪はどのくらいあったのですか?」と言うと、彼女はその瞬間困っているように見えました。
しかし、その時光が差し、彼女は言いました。
「私はなんと愚かだったでしょうか!」
そのとおり、私のためにイエスが死なれた時、私たちはすべての未来の存在なのです。
私は彼らの罪を少しも知りませんが、神はあなたの罪、すべてを見ています。
そして、神はあなたのすべての不正をキリストの上に課したのです。
あなたが「もし、クリスチャンが罪を犯す時と、どこに違いがあるのですか?」と言いうかもしれませんが、それは別の問題です。
そして、そこに行くまで闇の中にいますが、ここにポイントがあるのです。
神の裁きを永遠に負わなければならないほどの罪人であるということが、あなたが主イエスキリストをあなたの救い主として信じた瞬間の、あなたに必要な答えとなるのです。
しかし、その同じ瞬間に「子は天に父を持つ必要」が生じ、その責任(応答)が始まるのです。
今、もしあなたが子供であるのなら、あなたの父に反抗して罪を犯そうとするのです。
神は裁判官のようにではなく、父としてあなたを取り扱うのです。
この一連の真実は自ら立っていて、私が今教えていることを否定していません。
この教義は彼らの前にもたらされる時、人々を当惑させますがこれらの事は説明できる事柄です。


聖霊の忍耐

第二に、私たちは神の聖霊の忍耐と全能なる力の上に成り立つ、クリスチャンの永遠にある保証の教義を基礎とします。
ピリピ人への手紙 1章6節を見てください。
使徒がこれらの聖徒に書かれていて、このように言っています。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 1章6節

あなたはそれを見ましたか?
もしあなたが主イエスを信じる人であるならば、誰があなたのうちに良い働きを始めたのですか?
神の聖霊が始めたのです。
彼はあなたに罪のために罪を自覚させた方です。
彼はあなたにキリストに信頼するように導いた方です。
彼は御言葉によってあなたにあなたが救われたという証言を与えた方です。
彼はあなたが最初に主イエスを信頼してから、キリストとあなたを一致させた方です。
このように恵みにてあなたを導いており、聖霊の見解は明確な目的をもっています。
彼はあなたを最後に完全に主イエス・キリストの同じ姿にするつもりです。
そして、彼は決して終わってしまうようなことを意図して働きを始めることはしません。
これは本当に確信すべきことです。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるのです。」

もし、その時あなたが哀れな罪人ならば、聖霊はあなたの神に対する妨害を打ち破るためには十分な力です。
そしてあなたの不信仰と反抗を終わらせます。
あなたは聖霊が「クリスチャンとしてのあなたの意志」を抑制するのに、そして彼が始めた御業が完成されたということに導くために、十分な力を持たないとでも思っているのですか?
ある人たちが言います。「私はあなたが『一度受けた恵みは常に恵みである』という昔のバプティスト教義を信じていると知っています。
また、他の人が言うと「私はあなたが『最後まで耐え忍ぶ聖徒』という昔の長老派の考えを持っていることを理解します。
私はなぜバプティスト派や長老派がこのことをを呼びかけているのかは知りません。
ただ、かつて神は私たちを恵みにて扱い、キリストの愛から何も私たちを引き離すことは出来ないことを、バプティスト派や長老派が聖書において一致しており、神の御言葉が明確にそのことを示しています。
ゆえに『一度受けた恵みは常に恵みである』というは完全正しい表現であるのは明らかです。
しかし、他方の『耐え忍ぶ聖徒』という他の表現について私はあまり勧める事は出来ません。
私は聖書が私に語っているので、神に属するすべての聖徒が最後まで耐え忍ぶことを信じています。

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
新改訳聖書 マタイによる福音書24章13節

もし、人が始めて、告白して、しかしすべて断念するのであれば、彼は決して救われません。
彼は神の恵みによって真実に方向転換(change)によって始めることができるのです。
彼が始めることをしないので彼は再び生まれていません。
ゆえに彼は救われていないのです。
また、彼が最後まで耐え忍ぶということは彼の持つ個人的な我慢ではないからです。
私が信じることは、神の御言葉がはっきりと何を教えているのかです。
それは聖霊の忍耐です。
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるのです。」
イエスは決してあきらめることはしません。
すなわち、私たちがイエスを信頼しているかです。

訳者注)直接的に「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」という御言葉は患難時代の聖徒たちに書かれています。
(24節には「この御国の福音」とあります。これはクリスチャンのいう天国ではありません。千年王国のことです。)
彼ら残りの民であるイスラエル、もしくは彼らに伝道された聖徒たちは、反キリスト、もしくは堕落したこの世の人たちに迫害されます。
しかし、最後までその迫害に耐えるのであれば、救われるのです。
千年王国に入れるのです。もしくは殉教することにより天に入れるのです。


経験と信仰

43年前、恵みにあって主イエス・キリストを信頼することへと聖霊を私は導きました。
私の出席した野外伝道集会で昔ながら集会に参加し、それ以来私は多くの気分の上下を繰り返していました。
私は時々気分が上がり、時々下がります。
しかし、今でも私の魂は天を目指します。
私は様々な経験をしました。
しかし、神の聖霊は決して私をあきらめません。
これは驚くべきことです。
そして、時には私はわがままになり、強情になり、神の前に屈服せず、私のわがままと強情さに悔い改めもしませんでした。
その時、私は私の父がむちを持って来なければならないことを知り、彼は私をむち打ち私を支配しました。
そして、私の失敗を告白する準備する場所が私に備えられ、彼との交わりに回復させられるのです。
しかし、父の良きむちは私に交わりに回復させられるための効果があり、私が良きむち打たれていた間も、当然真実な神の子供であったのです。
あなたの子供はあなたの子供であることをやめることはしません。
その時あなたは靴を履いて彼の膝の上にあがるようなこともしません。
それはその子があなたの子供であるからで、あなたはその子に行儀がいい少年になって欲しいのです。
あなたはそのようにするです。
そこで私たちは神の聖霊の忍耐にあって「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」ことを信じます。


新しい創造

三番目に、私たちは新しい創造の事実にあってクリスチャンの永遠にある保証の教義を基礎とします。
コリント人への手紙第二5章17節で私たちは読みました。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 5章17節

その節は恐らくこのように訳されるべきでしょう。
「もし、誰かがキリストの中にあるならば、新しい創造です。
昔のものは過ぎ去りました。
見よ!新しいことが起こったのです。」
(訳者によるギリシャ語直訳です。)
私たちは新しい創造によって何を考えます?
まさにこのことです。
私たちは、かつて死ぬべき者でした。
私たちは、かつて全く失われて破滅していました。
どのようにして私たちはそれらを得たのでしょうか?
私が今、教えましょう。
それは私たちの行為によったのではありません。
あなたは「私の行為によって、霊的な死の立場を得たのではない」と言うでしょう。
いいえ、あなたは行為によっては得ていません。
また、「私は私の行為によって失われたのでしょうか?」と言うでしょう。
いいえ、あなたは行為によっては失われたのではありません。
しかし、なぜあなたは失われた者の中に数えられたのでしょうか?
あなたが最初のアダムを頭とした古い創造に数えられた世界の中に生まれたからです。
そして、アダムの人類のすべての子供が死の判決の下にある失われた世に入って来たのです。
そこで私たちは14節を読みます。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 5章14節


二人のアダム

このことを明らかにするために確認してみましょう。
ここで、最初のアダムは古い創造の頭であり、彼はエデンの園の試みの上に置かれました。
その世界全体はアダムにあって現われ、あなたはアダムにあって現われ、私はアダムにあって現われたのです。
また、神の聖霊がレビについて「メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」と言っているように私たちと私たち一人一人がアダムによって存在しているのです。
その時、私たちは古い創造の試みの上にあったのです。
アダムは罪を犯して後「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」神が言いました。
新改訳聖書 創世記 2章17節
その失敗の結果、古い創造は死の中に落ちてゆき、いままでこの世に生まれてきたすべての人は死の中に生まれてきたのです。
その外で生まれた者は誰もいません。
私たちの主イエスキリストの超自然的な出生を除いて、そこは最初のアダムのスタート地点なのです。
ゆえに、私たちのすべての者が古い創造のメンバーであり、すべてが死んでいる者であり、すべてが失われている者なのです。
さて、私たちのために世に来た私たちの主イエス・キリストに何が起きたのでしょうか。(ここで書かれた言葉は生きている言葉として、人類と神との掛け橋となったイエスのことを話しているのです)
そしてイエスは罪がないという基準に立っておられます。
アダムは罪がない状態で作られましたが、堕落してしまいました。
イエスは、聖霊によって身ごもった処女である母によって罪のない方として来られました。
しかし、イエスは死の中に降りて行く人間を見て、イエスは十字架にあって死の中に降りて行き、そこで人間は死から恵みによって昇ってくることができたのです。
しかし、神がキリストとともに私たちを生かしたので、イエスは一人では昇って来ませんでした。
イエスは彼を信じるすべての者を死の場所から持ち帰ったのです。

訳者注)
アイアンサイド氏は十字架の福音について、正しく理解した上で「立場」について書いていると確信しています。
私たちの救いはイエスキリストによって十字架の上にて完了しました。
日本のいや、世界の多くの教会がこの真理から離れ、キリストは十字架後、黄泉に下り、死を処罰されたという考えがありますが、十字架の御業を否定する教理です。
また、キリストは十字架から、復活まで黄泉にいたのは事実ですが、アブラハムのふところ、裁きを受ける場所にいたのではありません。(キリストには罪がありません。)
キリストは黄泉に降りて、旧約の聖徒たちを引き連れて天に上って行かれたのです。
現在、生きているクリスチャンが黄泉(アブラハムのふところ)へゆくことはありません。
そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 4章7,8節
参照:死後の救いはあるか?


そして、一度はアダムの人類に属するものとして私たちは作られましたが、今では新しい創造に属するものとして私たちは作られました。
神は、今私たちのために何を行うでしょうか?
神はアダムが以前いた場所に私たちを置き、「今のあなたの態度を改めなさい、そうすれば再び死ぬことないだろう」と言うでしょうか?
いいえ、神はアダムよりも高い場所に私たちを置いたのです。
新しい、神の創造以外ではアダムは決して前進はありえません。

「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 2章6節

そして、私たちがこの新しい創造に属しているので、私たちは決して失われることがありません。
あなたは失われていました。
それは古い創造の頭が失敗し、あなたは神にに受け入れられていたのです。
もし、あなたがイエスを受け入れるようにイエスがあなたを導くのなら、新しい創造の頭である方が失格しない限り、あなたは決して失われることはありません。
しかし、神に感謝します。彼は王座に留まり、そこで彼の完成した働きにある、彼の完全な捧げ物である証拠して神ご自身がイエスをそこに置いたです。
あなたは改心したアイルランド人のことを聞くことが出来ます。
彼はいつか大きな罪を犯してしまい、魂を失ってしまうというひどい恐れに捕らえられていました。
彼は結局は、失われていたのかもしれません。
その考えが彼を身震いさせました。
彼は集会に参加して、読まれた言葉を聞きました。

「 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙 3章3〜4節

誰でも、頭を水の上に出して、溺れていると言っている人について聞きます。
その人は溺れているのではなく、私たちも失われているのではありません。
私たちはキリストに結びつけられます。
私たちは新しい創造に属するのです。
そして、それは私たちが決して失われるはずがないという証拠なのです。


永遠の生命を持つこと

今、最後に私たちクリスチャンが永遠の命を現在の所有しているという事実の上に、永遠にある保証の教義の真実を置きます。
それは単に、もし私たちが最後まで信仰を持つならば(神は信じるものを最後まで導き通せます)、永遠の命を受け取ることができるということではなく、それらは真実に理解することなのです。
それらは私たちの希望が永遠の命であることによって、生じる感覚です。
もし、私が主イエスキリストを信じて、永遠の命を持つならば、今、私はクリスチャンです。
しかし、今私は滅びゆく体を持っています。
そして、私は贖われた体を待っています。
その時、イエスキリストが再臨され、彼は私の屈辱のこの体を変えて下さり、彼の栄光の体のように作り改めてくださいます。
その時、私は完全な、霊、魂と体にすべてにおいて、永遠の生命を受け取り、完全にキリストと同じにされます。
そのことを理解して、私は永遠の命に希望を抱いています。
それでも、聖書は、何度も何度も繰り返し、あらゆる信仰者が現在、永遠の命を持っている事実をいろいろな方法で語っています。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

新改訳聖書 ヨハネによる福音書3章14、15節

アダムの生命は失うべき命です。
罪のために彼は命を失いました。
永遠の生命は失わない命です。
もし、そうでなければそれは永遠とは言えません。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書3章16節

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書3章36節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書5章24節


イエスの羊はイエスについて来ます。

私はわざと最後までこのポイントを残して置きました。
なぜなら、人々がたいていこの主題を始める時に、最初に使われる通過ポイントになるだろうと考えるからです。
ヨハネによる福音書10章27節において、私たちは語ります。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章27節

注意することが3つあります。
まず、人間の告白が重要なのでありません。
もしその人が神の子の声を聞かないならば、その人はクリスチャンではありません。
ゆえに、救い主はその人を自分のものとしては知りません。
もし、その人が主イエス・キリストについていかなければ、どんな告白をしようとも重要ではありません。
彼は単に偽り者であり、詐欺師であり、偽善者です。
彼は見かけ上、使徒ペテロが話しているように、少しはあとを追いかけるかもしれません。
その者は正しい道で歩み、すぐに向きを変えます。

「彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」
新改訳聖書 ペテロ人の手紙第二 2章22節

もし、その犬がいままでのことから心を入れ替え、一新の思いにて、羊になれたなら。
もし、豚が改心し子羊になれるなら、どちらも、汚れた所には戻らなかったでしょう。
しかし、犬はいつも犬であり、豚はいつも豚であることをあなたが知るでしょう。
彼らはちょうどしっくい(パテ剤)で塗られた壁のようです。
彼らは白く洗われてなく、彼らは更新されておらず、古いことに戻ってゆくのです。
しかし、キリストの羊は違います。
「彼らはわたしについて来ます。」とイエスが言っています。
注意してください。
もし、あなたがキリストについてゆかないのなら、その者はキリストの羊ではないのです。
それは現実に試されることなのです。
私たちに「これこれの時、私は改心に、私は前へ進み、私はカードにサインした。」と語る多くの人々がいます。
そして、その時あなたは再び生まれるのです。あなたは新しい命を得ます。
そして、あなたが新しい生命を受けとる時、イエスについてゆくことを愛します。
そして、もしあなたがそうでなければ、あなたはクリスチャンではありません。
少し、あなたの信仰の土台を調べることについて考えてみましょう。


危険な教理

ある人々が「もしあなたがクリスチャンのために永遠にある保証の教理を語るのならば、人は「よろしい、その教理と間違ったことを私は行いません。私はとにかく天国に行きたいのです。」と言う」と思います。
それは恐ろしい間違いをあなたは行っているのです。
もし、あなたが正しく歩まないならば、あなたが現実にはクリスチャンでないことを示し、あなたが本当のクリスチャンでないことを示します。
私はクリスチャンが現実に失敗することを知っており、違いはペテロとユダにおいて知ることができます。
ペテロは何度も恐ろしい失敗を繰り返しましたが、イエスはペテロが本物だと認めています。
イエスがペテロを送り出して一目見ると彼は激しく泣き出しました。
ペテロの心はこのことのために傷つき、ペテロは主の名を汚したのです。
しかし、ユダはほとんど3年半主と付き添っていましたが、ユダはいつも悪魔でした。
ユダは、盗人であって、人の注目を求めていました。
ユダは金入れを持ち、仲間の会計の仕事を十分にこなしていました。しかし私たちは「その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」と読み、そのことを文字通りに解釈します。
最後に、良心の責めが彼を襲い、真実ではない悔い改めをし、恐ろしい結果がそこにありました。
彼は行って、首を吊りました。
彼は神の子供ではなかったのです。
大きな違いをクリスチャンと偽の告白者との間にあることをあなたは見出すのです。


信仰によって義とされる。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」

新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章27、28節前

あなたはそれを信じますか?
クリスチャンが命を失っていると話す時のように、人々はこの一節をどのように読んでいるのか私には理解出来ません。
それを失うことができるなら、それは永遠とは言えません。

「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章28節後

" And they shall never perish, neither shall any man pluck them out of My hand."
KJV ヨハネによる福音書10章28節後
原文はここでとても強い表現をしています。
英語では二重の否定で肯定しています。
しかし、ギリシャ語では単に強く宣言しているだけです。
彼らは決して、決して滅びないでしょう。
訳者注)ou mh apolwntai eiv ton aiwna----彼らは永遠に滅びません。((ou mh)否定句をニ重に使い強い言い方をしている。英語とは違い肯定にはならず、強調される。)
ouc arpasei tiv auta ek thv ceirov mou----私の手から誰一人奪い取ることはない。((ouc)否定句)

永遠の命を持つ者が滅びることはあり得ないでことであり、考えられないことです。

「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章29節

ここで私は貧しい失われた罪人です。
しかし、主は恵みにて私を救い出し、私は主の御手の中いるのです。
そして今、父は御手を伸ばし、私は父と御子の手の中にいます。
そして、父がこれらの手を緩め無い限り、悪魔は私を得ることは出来ません。
あなたは、父と御子の手の中にいることよりも、偉大なはっきりとした救いの保証について考えることが出来ますか?
「決して滅びることがない」、「永遠のいのち」、これらはなんと驚くべき言葉でしょうか!
神の真理を恐れてはいけません。
神の主イエスキリストにある信仰によって、無償で許し、有罪の罪人を義とすることができる福音を始めるのと同じぐらい恐れるかもしれません。
人々はその真実のまわりに柵を設けて、「はい、もしあなたが義とされるために十分によい働きをしているなら、あなたは信仰によって義とされます。」と言うでしょう。
それは真実ではありません。
それが単純な信仰によらなければ、よい働きはそれからはじき出されます。
あなたはキリストの愛があなたの心に満たされることを見出すでしょう。それはあなたが彼の栄光のために生きることです。
その時、あなたは永遠の命を持っていることを知ります。


反対意見

そこでは間違った考えを持つ者が、ある一節を見せて言うでしょう。
「彼の言った事は十分に正しい考えかもしれません。しかしこの聖書と正しい考えとはいったい何なのでしょうか?」
言わせてください。それは現在話している方が慎重に何度もよく考慮しない質問であり、あなたの個人的な考えによるものです。
それらのことを答えるのは聖書には不可能なのです。
私はこれらすべてに進むためには、一つの講演では時間が足りません。
しかし、あなたがそれらすべてを注意して優れた知識によって調べているなら、私はあなたを確信させることが出来ます。
私はこの聖句を傍らに置いたことは一度もありません。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章38、39節

もしあなたがはっきりと、明確に、聖書を肯定しているなら、これらの節を認めていないと混乱し、難しく解釈し、幾分あやふやに感じるでしょう。
あなたが明確な地位を信じることを阻止することになります。

「信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書6章47節

それは私は人が救われなければならないという要求のためにこのような救いを持っています。
それは神が私を送ったのはこのような救いを宣言するためであり。それはイエスがくることを人々に促す責任を持っているからです。
もし彼らが私の救済者と生きて接触するならば、彼は彼らに永遠の価値を与えることを私は知っています。

2回の金曜日の夕方にわたって、反対意見をもつ人たちの質問に答える機会が与えられました。
あとに続くページに、これらの詳細に取り上げています。


反対意見に対する答え

最近、私は「永遠にある保証の教理のすべて」という小冊子を、ある紳士から受け取りました。
彼はこの教理がクリスチャンの命について無関心な人々を作る傾向があることを恐れていました。
私は一般的にアルミニウス主義的と呼ばれていることを信じている組織の中で、クリスチャンの働き人でした。
その考え方は、人が改心した時、その人にとって天への良きスタートとなり、その時から彼はがんばってそれをキープし続けなければならないという考えです。
私の老年の教会教師がこのように言っていました。
「天国に得ることは自転車に乗るようなことです。
もし、私が立ち止まるならば私は倒れるでしょう。」
私はそのとおりに信じました。それから人々が私に「永遠に救われている」と語られた時に、私ははっきりと言うことが出来たのです。
「それは邪悪な教理の一つです。」
それは、私がはっきりと間違いに気付くようになるまで、人々を迷わし、無頓着になるように導いていたのです。
私たちの会堂で2、3週ごとに何度も、何度も人々が改心を得るために群がっているのを見出しました。
古い賛美歌に「あなたがたは、再び生まれなければなりません」と歌われていると思いますが、ほんとうは彼らは「あなたがたは、何度も何度も生まれなければなりません」と歌われるべきでした。
そのようなことは聖書の中で何も読んだことがないので、私は困ってしまいましたが、それから、わたしは間違った教理が大変無頓着な傾向を持つ人々を作ることを見出しました。
あなたに具体的な例を与えましょう。
私が非常に興味を持っていた若者がまだ改心をしていない時、ある特定の罪に熱中していました。
しかし、彼は夜の闇の中に出て行き、その時だれも知らない所で何回も同じ罪を犯したことを私に対して個人的に告白しました。
私は彼に尋ねて「どのように、あなたはそれを行うことが出来たのですか?」と聞きました。
彼は答えて「私は罪を犯し、それから再び改心してから、家に帰ることを私はいつも決心に決めていることなのです」と言いました。
私は「今日救われて、明日失われるという教理」がいかに危険であるを知りました。
そして最後に私は若者を見て、彼は私に言いました。
「私が罪に対して我慢することができないことをこの罪は知っているのです。
ですからそんなことは無駄なことです。」
私は「それは譲歩できませんね。さあ、私は他の人たちを呼んできましょう、そして一緒に祈りましょう」と言いました。
それで私たちの4、5人の者がとても熱心にひざまずき、祈りました。しかし彼は反抗してこぶし握り、激しい苦痛の中で「そんなことは無駄だ」と言いました。
私は過去に罪を犯すために出かけて行きましたが、私はその後、改心して帰ってきました。
でも、彼は私と再び会うことはなく、彼がどうなったかわかりません。
それは、その人が罪を犯すとき、救いを失うという教理の影響の一つだと見ています。
確かに、聖書はそのような事は何も教えていません。
しかし、彼は帰って来ることが出来ます。そしていつでも欲望から悔い改めることが出来るのです。
あなたはアルミニウス主義的な見方をすることが出来ます。
それは神の恵みから出て行き好色の中に入って行くことが出来るのです。
違う見方をするならば、悪用することも出来ます。  
間違って使われているそれらの教理自体が、間違っていることを教えていると証明されていることを私はあなたに見出して欲しいのです。
私たちは信仰の基礎とする聖書を明確に必要としているのです。
もし、人々が神の前に良心を持たないのなら、彼らは聖書の中にこれらの教理を間違って用いることが出来るのです。
しかし、私たち達することを求めるのは救いの保障です。
もたらされた反対意見は現実には、筋道が通った永遠にある保証の教理に対してなのでしょうか?


質問1

一人の反対者が主張したように「人間は行いに対して完全に自由とは言えません。」
彼の主張は「私たちは無条件な永遠にある保証について、聖書のどんな引用もすることは出来ません。それはそこには答えがないからです」と言います。

私は彼が何を言おうとしているか知りませんが、もちろん、主イエスキリストにある個人的な信仰を基礎にしていなければ、永遠にある保証もそこにはありません。
しかし、この著者は言い続けます「人が救われる時に、彼は生きるためもしくは死ぬための選択をするために、神の祭壇の上で礼拝または捧げ物をするのです。」
それは「彼がその場所において自分自身を守るために神の恵みによって選択している限り」、悪魔もデビルも彼をそこから彼を取り除くことは出来ません。
この問題の事実は人間を「完全に自由な道徳の行為」にはしません。
彼の救われていない立場は罪の奴隷です。
彼は自分の意志で悪魔の奴隷になったのです。
その時、彼は生まれ変り、キリストの奴隷となったのです。
それは神の生きている霊によって聖め、内住されることによって喜びとなるのです。
私は、祭壇の上に私のすべてのことを置くことによっては救われません。
私の罪のための捧げ物として自分自身を与えたキリストを信じた時に、私は救われたのです。
私は私の命の問題に降参したことにより救いを守り通せるのではありません。
私は神の力によって守られたのです。
それが救われた時の恵みと、それを守る恵みは同じ恵みなのです。
私は単純に私を確保するために自分自身を守る選択はしません。
神は私を選びました、そして私は神の選択にアーメンと言います。
しかし、もし私にキリストを放棄することが可能だったら、その時私は滅ぶのでしょうか?
それでも、「キリストの羊は決して滅びることがない」と私に語られています。
再び、私たちはヨハネによる福音書10章27〜29節の主キリストの言葉を見ることにしましょう。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章27〜29節

私は、あなたが27節の言葉に目を向けることを願います。
キリストの羊は誰のことですか?
彼はキリストの声を聞いて、キリストについてゆく人です。
もし人が「私はクリスチャンです」と言うが、私は良き羊飼いの声も聞かないし、彼についてゆきません。
その人は偽善者です。
彼はクリスチャンではありません。
イエスは「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」と言いました。
この表現に注意してください。「わたしは彼らを知っています。」
私は以前、マタイによる福音書7章22、23節の説教で指摘しました。

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

新改訳聖書 マタイによる福音書7章22、23節

聖書によるとイエスは裁きの日にどんな魂に対しても「私はあなたを知っていましたが、今、私はあなたを知りません」と決して言ってはいません。
彼は「私はあなたを決して知りません」と言いました。
その問題全体を解くべきです。
キリストはご自分の羊について「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています」と言っています。
ゆえに、もしある者がキリストの羊だったなら、主イエスは彼を知っています。
もし、今不思議なことにキリストの羊がやぎに変えられたなら、その者は悪魔のやぎです。
そして、裁きの日にやぎの中にイエスが現れ、やぎについて「私はあなたを知っていました」とは言うことは出来ません。
「私はあなたを知っていたものですが、私は今あなたを知りません」とイエスは言うことはありません。
しかし、イエスは「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言います。それは、イエスが彼の羊に永遠の生命を与えるからです。
永遠の生命とはなんでしょう?
人は尋ねます。「もしアダムの霊的な命が条件付きならば、どのように、クリスチャンの命は保証されることができるのですか?
その性質上、アダムに永遠でなければなりません。
どのように「神が創造によってアダムに与えた命」と「キリストが新生によって私たちに与えた命」との間に違いがあることを、多少でも理解した人々に説明すればよいでしょうか。
アダムの命は単に生まれつきの命で、彼が罪を犯した時それを失いました。
しかし、神はクリスチャンに永遠にある命を与え、それは決して失われることはありません。
もしそれが失うことが出来るなら、それは永遠の命ではありません。

それで神は「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがない」と言い、「彼らは決して滅びることがない」という約束には神は条件を置いていません。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章28節
この「滅びる(perish)」と言う言葉は中動相で、文字通り英語に翻訳されるならば、英語には(日本語にも)中動相がないためにあなたはニつの単語から理解しなければならないでしょう。
その言葉は「滅びる(perish)」「破滅(destroy)」と同じ意味を持ちます。
ですから、ギリシャ語直訳では「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して自ら自滅することがない」となるのです。
そうです「羊は、非常に簡単に自滅します。」

訳者注)滅びる---perishはギリシャ原語にてapolwntaiと記されている。
これはアオリスト中動相であり、中動相とは主語との利害関係を表している。
つまり、「彼らは自分のために(原因が自分で)滅びることがない」となる。


私はインディアンたちの間を出て行き、砂漠を越えてゆきました。
私たちは深い谷に掛かる橋を通った時、私たちは羊の哀れな「メー」という泣き声を聞きました。
私たちは橋の端へと進んで行き、約50フィート下、小さい岩だなの上に羊がいるのを見ました。
そこへ行く道は、川の下流方向へ、およそ200フィートへの急な下り坂でした。
私たちは、そこに降りるための可能な方法があるかどうかを見つけることに期待しましたが、私たちは何も見つけることは出来ませんでした。
その子羊は岩だなに来て、草を食べており、下を向いていました。
その小さい岩だなは緑に覆われており、羊がそこから戻ってくるが出来ないと気付く前に、羊は下って行ってそこにあったすべての緑を食べてしまいました。
私たちは羊を投げ縄で捕らえようと試みましたが、それをするほど上手ではありませんでした。
私たちが目を上げてみるとすでに3羽の大きなハゲタカが周りを飛んでいました。
しばらくたって、その小さな動物があきらめた時を彼らは待っていたのです。
その羊は自滅しました。
イエスは言います。「彼らは決して自ら自滅することがない」。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがない」。(中動相を意識すると、決して自ら自滅することがない。)
なぜですか?
彼らは彼らのうちに住む聖霊を持っているからです。
神の言葉が言っています。
まさしくこのことを確信しています。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 1章6節
イエスは最初に「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」と言いました。
それから、「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
またこう言われるかもしれません。
「いいでしょう、悪魔が今、私を引き出すことができません、どんな御使いもしようともせず、人間にも出来ません。しかし、私は私自身で引き出すかもしれません。」
その時にあなたは滅びるでしょうか?。また、あなたはそうしたいのですか?
人間は完全に行いに対して自由なのでしょうか?
神があなたを作られた時のあなたは今のあなたでしたか?
罪人は行いに対して自由なのですか?
聖書は何と言っていますか?

「あなたがたは、悪魔に捕えられて思うままにされている」と言っています。
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 2章26節 参照

何を?
「悪魔に捕えられて思うままにされている人々」は自由なのですか?

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 6章16節

人間は罪と悪魔の奴隷です。
彼は自由ではありません。
さて、今福音は人に達し、人は決心の力を持ちました。
そして、人はキリストを決心し、永遠の命とそれに付随するすべてを得ました。
そして、その命は祝福された神の子である同じ命なのです。
そして、その命は人と交わりを持ちました。
そして、今その者は救い主の足へ愛の鎖で結ばれており、その者に自由に振舞って欲しくないのです。
その者はパウロがキリストの奴隷であったように喜んで奴隷になります。


質問2

マタイによる福音書 24章13節には「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と書いてあり、ウェイマスは「救われる者とは最後までしっかりと立つ者です。」と言っています。

この質問の質問者は、主にこれが偉大な苦難(大患難時代)のことを言及していると認識します。
それは聖書を文字通り理解しようとするすべての説教者が信じている原則です。
それらのことは改心を告白している人々に対して、使われることはありません。
ある人々は前へ出て手を上げ口で告白します。
彼らは告白の審査を受け、教会につながります。
そして、バプテスマを受け、交わりを持ちます。
日曜学校で教え、伝道の働きに加わり、キリストの働きのために献金をします。 長い間このように行った後に始めて、彼らは徐々に変わり始め、彼らを買い取った主を否定し、キリストの絶対的権威とさらに救われたという告白さえも拒み、すべてことから立ち返ることがあるのです。
それは、魂の中にある恵みの働きを現実にその忍耐(悔い改めを待つ忍耐)を証明しているのです。
これは単にキリスト教の教えによって改良されただけの人と新しく生まれた人との間に違いがあるからです。
ペテロはひどく失敗し、罪を犯しました。しかし、そのすべてにもかかわらず神は最後まで忍耐しておられました。
イエスは「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言いました。
その結果、外見上の生活は短い間、信仰的であるべきでしたが、そうではありませんでした。
しかし、ペテロは信仰に留まり、イエスはペテロを回復させました。
そして、ペテロは救い主のために十字架刑に至るほど、人生の最後まで仕えたのです。
訳者注)ペテロが最後に、迫害の結果十字架刑になったという伝説があります。ご存知ように聖書にはそのような記述はありません

ユダは選ばれた者の一人でした。彼が使徒の集まりとともにいましたが、決して新しく生まれてはいませんでした。
そして、ユダは罪を犯し、ユダの主を売りました。
彼は背教者に向きを変え、自ら死を選びました。
イエスがそのことの起こる前に「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」と言われています。
「あなたたちのひとりが悪魔になる危険にある」のではありません。あなたたちのひとりは悪魔です」と言い気っています。

「ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」
新改訳聖書 使徒の働き 1章25節

ペテロは堕落者です。ユダは背教者です。二人の大きな違いがそこにあるのです。
もし人が「私は救われている」と言うならば、彼に起こることによってそのことが証明されるでしょう。
このような理由で、私は「私たちがクリスチャンの永遠にある保証の教理を恐れてはならない」と言っているです。
ある人たちは「しかし、私は素晴らしいクリスチャンだった人を知っていましたが、今、彼はそのすべてをあきらめています。彼はいまだに救われていると言うのですか」と言うでしょう。
彼は単に自分自身を騙しているだけです。
聖書は何と言っていますか。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
それらは、もし現実的にあなたの生活において証明されていなければ、あなたの信じていることに効力を持ちません。
人は、これらの教理を間違って使用することが出来るのです。


質問3

ヨハネの福音書 8章31節については何が言われているのですか?

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 8章31節

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら?」という条件は永久的な弟子としての身分を保証していないのではありませんか。

確かに、永遠なる保証の真実を知っているすべての者は、それを信じています。
もしその者がイエスの弟子であることを告白し続けることをしないのなら、それらはその者のために使われません。
そのことはその者の魂の中に神の聖霊の純然たる働きがあることを証明しているのです。

訳者注)直接的に言うのであれば、この個所ははっきりとした福音が語られていなかった時、イエスはユダヤ人にメシアの弟子であることについて語ったのです。
この後、ユダヤ人たちはイエスの言葉を拒み、イエスを十字架にかけ、福音伝道を妨げました。これによって彼らはイエスの弟子ではなく、悪魔の子であることを証明してしまったのです。


質問4

ヨハネの福音書 6章66節については何が言われているのですか?

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 6章66節

それは今世紀ずっと起ってきたことです。
イエスは「弟子」と「本当の弟子」を区別しています。
もしくは、「単に弟子である者」と「真実の信者」を区別しています。
聖書の原語であるギリシャ語の「弟子-disciple-mayhthv」の意味することは「生徒-a pupil」もしくは「a learner-学習者」です。
イエスについてある程度まで学んだ者はたくさんいました。そして彼らがイエスの話を聞き、毎日ますます学んでいました。
しかし、イエスはその時宣言しました。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 6章54節

すると彼らは「それは私たちにはとてもひどすぎる、この人とはやっていられません」と言い、「多くの者が離れ去って行った」のです。
その問題は人間が再び生まれたか、失ったかの問題ではありません。
しかし、彼らは学習者(弟子)たちのメンバーであり、彼らは学び続けるなら、イエスは彼らの先生になるのです。
もしくは、彼らはより優れた教育者を拒み、帰って行ったのです。
私たちにはいままで引き返した人たちが、再び「帰った来た」とは語られていません。


質問5

ヨハネの福音書 6章67節については何が言われているのですか?

「そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 6章67節

イエスは今、使徒の小さな集まりへ戻ってゆき、彼らはイエスに長く付き従ったのち、彼らに「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と言ったのです。
そして、ペテロはすべて真実な改心者にいつも問いかけています。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書 6章68節

もしあなたが本当に再び生まれているならば、それは常に答えなのです。
私は、時々およそ一日のうち2時間、親愛なる良き兄弟とこの主題について考え合ったことを思い出します。
そして、その兄弟は人間は自分自身を主の手から取り出せると主張していました。
つまり、自分の意志で救いを失うことができるということです。
私は言いました。「なぜ、あなたはこれを主張し続けることが出来るのですか?あなたは、救われると確信していますか?」
彼は言いました。「絶対に....」
私は彼に尋ねました。「どれくらいたちますか?」
彼は返事をし「40年」と言いました。
「なら、あなたは40年間信仰を守り通せましたか?」
では、あなたは主の手からあなた自身を取り出したいと思うのですか?あなたは、そのように話しているのです?」
彼は「確かにその通りです」と答えました。
「いいでしょう」私は「あなた自身は、あなたの信じていることよりよいことなのです。」と言いました。
まさにそこがポイントなのです。
もし人間が再び生まれているならば、その人は自分自身を決してキリストの手から取り出そうと思わないのです。





テサロニケ人への手紙 2章3節については何が言われているのですか?

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙 2章3節

この「背教」と言う言葉は「落ち去ること」であり、原本でも「背教」という意味です。
そのことは特有な救いの問題とは関係ありません。
そのことは永遠の保証の教理には触れていません。
そのことは預言が今の時に私たちについてすべて起こることではないということを、あなたは見出だすでしょう。
最近、私たちはシカゴの教会連合の牧師がアンケートで75パーセント「聖書の偉大なる真実のいくつかが信じられない」と答えたことを語りました。
そこにあなたは背教があることを知ってください。
これらのすべての牧師がかつてクリスチャンだったが、今は救われていないことを意味するでしょうか?
私は彼らの大部分が仮にもこれまで再び生まれたことがないという、問題を恐れているのです。
彼らは、新しく生まれるという恵みについて何も知ることが出来ません。
ゆえに、偉大なる福音的な教えによる清純な状態を保つ教理から離れる十分な準備が出来ているのです。
私は確かなメッセンジャーが血の贖いの教理へのあからさまな攻撃に出たのを覚えています。
そのことは彼の本を読んでいたたくさんの人々に衝撃を与えました。
そして彼らは「かつて素晴らしいクリスチャンであった人が、今はキリストの血を否定することは、いまさら変わったことではありません」と言いました。
私は座って、彼の本すべてを読んで、十字架に行く屈辱感の実例を彼が話した時の一度を除いて、彼は十字架におけるキリストの死、もしくはキリストの血の何をも述べていないことを見つけました。
彼が述べた後、彼らは、私に血の贖いの教理を放棄するようにと要求してきますが、私は決してそのようなことを認めません。」
彼は私たちに、単純に彼が背教者であることを示しました。
彼らの心と命の中に正しい真理の余地はありません。
背教は来ています。
それは急速に近づいています。
素晴らしい告白をした教会はその中に進んでいます。
しかし、その者は再び生まれてはいません。
いつか反キリストに屈服するのです。


質問7

ヘブル人への手紙 12章14節については何が言われているのですか?

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 12章14節

それは、私たちがはっきりと支持することです。
誰かが「私は、クリスチャンです」と言っても平和と聖めを追い求めない者は主を決して見ていません。
しかし、私はどのように私を困らせるために使われたかを思い出します。
そして、それはあたかも神が言っているように「私は、過去に犯した罪はきれいに拭い去りました。そしてアダムが堕落する前の場所にあなたは戻ったのです。
もしあなたが、今から最後まで、清く記録され続けるのならあなたは救われていて、天国を手に入れることが出来るのです。」と教えられました。
私は納得できずに外をにらみつけて、すぐに失敗し始め、彼らは私に言いました。「あなたには困りました、あなたはまだ聖めを得ていません。
もし、あなたがそれを得ているのならあなたは正しい人生を送ることができます。」
そして、言いました、「神があなたを救ったとき、彼はあなたを義とするだけでした。」
あなたを義とするだけですか?
「イエスはあなたの過去の罪を許しました。
なのに、あなたは聖別にされなければなりません。
そしてそれはあなたがこれらすべてを持っていなくてはならないことを意味しているのです」
あなたの生まれながらの罪は根絶されました。
そして、あなたは真実の聖めを得るだろうと私は考えました
しかし、それはアダムにあるすばらしい良い働きではありません。
そして、それはむしろ私を悩ましました。
まだ、彼らは私をこのことで安心させました。
そこで、私は困ったことになり、6年間、私は奮闘したのです。
この主題のより完全に扱うために、本当の聖めを見つけてください。
(偽ものと真実、ロイザックス兄弟。)
「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
私はその主題で多くの説教を聞きました。
そして、私自身も時々その主題で説教します。
私は、白紙の手紙に言葉といっしょに大きな見出しを作りました。
そして私は聖めを得ようと試みたのです。
時々、私は私が聖めを持つべきだと考えました。
それから、時々過ちを犯し、私は始めからもう一度それを得ようとしなければならないです。
私は初めてこの個所を読んだことを決して忘れることはありません。

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 12章14節

私は「聖くなければ、だれも主を見ることができません」と言っていることを考えました。
私は、私がこの命において完全な聖めを得なければならないと思いました。
しかし、聖書は聖めについてなんと言っているのでしょうか。
「もし、あなたが聖められることを追い求めないなら、主を見ることができません」
すべてのクリスチャンは聖められることを追い求めます。
ある人が「私は、クリスチャンです」と言って、聖められることを追い求めないなら、自分を欺いているか、偽善者です。
私はすべて私の心にこれを保ちます。


質問8

ローマ人への手紙 6章16節については何が言われているのですか?

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 6章16節

私はすでにそのことについて話しました。
ローマ人への手紙6章は出エジプト記のようです。
イスラエルの子供がエジプトにいたとき、彼らは従わなければならないのでやもえなくファラオに従っていました。
彼らが荒野で神のもとにつれて来られた時、ファラオの力は破られ、彼らは神の僕になっていました。
私たちが救われていない時は、私たちは罪の奴隷でした。
今、クリスチャンとして、私たちは神の奴隷です。
私たちは聖く、義にあって神の前を歩みます。


質問9

エゼキエル書 18章24節については何が言われているのですか?

「 しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。」
新改訳聖書 エゼキエル書 18章24節


このように、まるで魂の救いの問題と関係があるようにこの一節を引用してくることは、恵みの摂理の中で誰にも不思議なことではありません。
戻ってエゼキエル書の18章を読んでください。
何のためにそれを扱っていますか?
私達は21節を読みました。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」
新改訳聖書 エゼキエル書 18章21節

それは恵みでしょうか?
いいえ、それは律法です。
それはまさしく典型的な律法なのです。
信じる前にもし、邪悪な人間が彼の邪悪性から立ち返るのなら彼は生きるでしょうか?
もし、これが真実なら、なぜイエスは死んだのでしょうか?
なぜ、罪人にそれを説教するでしょうか?
あなたは私を捕まえ、立ち上がって「あなたは人々を騙しました。あなたは不正を行ってきたのです。あなたのスタートは今夜です。正しいことを行うならあなたは生きるのです」と言うでしょうか?
あなたはわたしにこのようにメッセージをするでしょうか?
もし私が彼らにそのように語るならば、私は故意に人々をだましているのです。
しかし、あなたはここでみつけるでしょう。
神が律法の下に人々をテストし、そして「...ことをするなら、彼は生きられるだろう」と言っています。
そして、そこには「正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。」という呪いも含まれているのです。
その結果どうなるのでしょうか?
いままで彼らが行うためにかかれた律法の本の、それらすべてを守り通せた者はだれもいません。
ゆえに、彼らはすべて死刑判決の下にいるのです。
どのようにその時、彼らは救われたのでしょうか?
生活を一新することによって?
いいえ、彼らには正しさが何もないということを告白することによるのです。
もし、彼らが持っているとすれば、それは単なる不潔なボロ着です。
そして、今、彼らは主イエス・キリストの中にすべての義を見つけました。

「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」。それは福音です。
新改訳聖書 コリント人への手紙 1章30節

ですから、エゼキエル書18章を私たちに適応出来ません。それは、律法です。
そして、エゼキエルにおいて語られている「命」がキリストの中の永遠の命ではないことを思い出してください。
それは地の上にある命が神の支配の下に伸ばされているのは、服従するためであり、もしくは短く切られるのは罪のためなのです。

訳者注)もちろん、この地上の命の長さが服従ゆえに伸ばされ、もしくは罪ゆえに切られる場合もあるでしょう。
そして、人はすぐに答えを出してしまい、人を裁くかもしれません。
しかし、神の摂理はそれ以上に、人知を超えた基準(みこころ)によって、決められているのを忘れてはならないはずです。
「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 9章18節


質問10

ペテロの手紙第二 2章20〜22節については何が言われているのですか?

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」

新改訳聖書 ペテロの手紙第二 2章20〜22節

「羊は自分の吐いた物に戻る」という真実の格言の通りにそのような人たちに起こったことでしょうか?
いいえ、それは違います。
それは「犬は自分の吐いた物に戻る」のです。
なんと多く、これらの犬がいるのではないでしょうか!
彼らは主イエスキリストに来る知識によって一時的に世の汚れから逃げるでしょう。
もし、あなたがクリスチャンホームに育ち、あなたが若い時から主イエス・キリストについての知識を教えられているなら、あなたは多くの世の汚れから逃げてきました。
しかし、あなたがすべての知識を知ったあと、あなたはわき道へとそれることができるのです。
あなたは世のあるあなたの道を手に入れることができ、腐敗と汚れの中を生きることが出来るのです。
それは何を証明していますか?
それは過去にあなたがクリスチャンであって、今はクリスチャンではないことを証明するのですか?
そのことは、あなたは過去にキリストの羊であって、もはやキリストの羊ではないことを証明するのですか?
そんなことはありません!
では何でしょうか?
それは「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」ということが分かります。
注目すべきことにクリスチャンの永遠にある保証の教理は多くの神にある偉大なる人たちが、今までそれを信じ、生きてきたということです。
C・H・スポルジョン、D・L・ムーディー、R・A・トーリー博士、A・C・ディクソン博士、私たちが尊敬するその他の多く者がそのことを信じました。
C・H・スポルジョンはとても美しく言いました。「もしこの犬がいままで再び生まれていたのなら、自然に羊をなったでしょう、その羊は決して自分の吐いた物には戻りません。」
その質問はキリストの羊が滅びると言うことではありません。
悪魔は多くの豚を洗っています。
しかし彼らはキリストの羊ではなく、決してありえないのです。


質問11

今、私たちはヘブル人への手紙 6章4〜6節の決定的な問題にやって来ました。
注意深く見てください。
私が正しく読んでいるかを見てください。

「 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章4〜6節

そのことは何を言っているのでしょうか?
あなたはかつてその人が光を受けたと信じています。
聖霊をパートナーとし、神の言葉と後に来る世の力の味を知ることが出来ました。
しかし、堕落してその人は悔い改めることをしませんでした。
その教理はクリスチャンの永遠にある保証を信じないすべて人たちが信じていることです。
あなたは堕落した人と何をするのですか?
もし、堕落と背教が同じものならば、この一節が彼らの気にいった教理のために聖書すべての中でもっとも最悪な一節になりことがわかるでしょう。
もし、これらの人々は人間が何度も繰り返し救われることが出来るという教理をもつならば、この節をよく研究すべきです。
これがその一節を読む方法です。
私は彼らがどれほど致命的にそれが彼らの理論を切りつけたかを見出すのは確かです。
「 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません(不可能です)。」と読むべきです。

訳者注)英語のKJV訳では原語の「adunatov-できません(不可能です)」を「十分にありえる(quite possible)」としています。
つまり、著者のアイアンサイド氏はKJV訳を指摘し、原語でははっきり不可能なことだと書かれていることを指摘しているのです。


もしこの節が、人間が一度救われて再び救われることを教えているのなら、同時にその節は人間が再び失われることを教えていることになります。
彼は決して悔い改めも救われることも出来ないのです。
言い換えると、もしこの節が、人間が一度救われて再び救われるということを教えているのなら、その節は、あなたはかつて救われていましたが、今も失われているということを教えているのです。
あなたは地獄への片道切符を持っています。そしてそこから戻ってくることはできません。
しかし、ここにある現実の問題は何でしょうか?
1、2分でそのことを説明するのはほとんど不可能ことです、あなたのために、一緒にヘブル人の手紙の5章と6章すべてを学ぶ必要があります。
使徒は、旧約聖書を持って語り、イエスがメシアであることを理論的に確信させています。しかし、もし使徒たちがイエスの名を認めたのなら使徒たちは迫害されることになりました。
たとえ、もし本物でないとしても、彼らはイエスがメシアであることを知っており、力を感じているのにちがいなく、奇跡の働きの中に彼の権威の証言を見つけていました。
それでも彼らは、そのすべてから背中を向けて、そしてユダヤ教に戻り、もう一度シナゴーグに入り、そして「私たちは、イエスキリストが神の子であるメシアとは信じていません。 私達は、この人間の権威を拒否します。彼を十字架刑にしなければならない」ということができるのです。
まさしく、「彼らは、自分で(イエスキリストを拒否して)神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」です。
使徒は「そこで何かを行おうとは試みてはいけません、あなたは何も出来ません。彼らは遠くに行きました。彼らは背教者です。」と言っているのです。
それは彼らが本当のクリスチャンでないことを証明しているのです。
9節で私たちは読みました。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 6章9節

すなわち、「あなたはこれらすべてのことを持つことが出来ましたが、救われていません」と言うならば、あなたは「どうしてそんなことがありますか」というかもしれません。
しかし、見てください。
「一度光を受けて--者が、---立ち返らせることはできません(不可能です)。」
それは何を意味するでしょうか?
新しく生まれることでしょうか?
誰も光の中にいることなく福音メッセージは聞くことができません。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
新改訳聖書 詩篇 119篇130節

そして、天からの賜物の味を知ってください。
味をみるということは食べることとは別のことです。
多くの人はそこまでゆきましたが、決して救われてはいません。

御使いがエゼキエルに「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ」と言いました。
新改訳聖書 エゼキエル書 3章1節

しかし、御使いはエゼキエルがそれをただ味をみたことだけを確認して命じました。

「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」
新改訳聖書 エゼキエル書 3章3節

それは、彼の口の中にありました。
そして、もし彼がすべての真実を食することなく、口にしただけであれば真実はすぎさったでしょう。
しかし、神は心のうちの真実を喜ばれます。
「...そして、聖霊にあずかる者となりました」。
彼らは封印をすることもなく、内住もしていません、そしてバプテスマもしないし、そして聖霊で満たしもしません。
彼は聖霊の偉大な役目について言及する言葉を何一つ使っていません。
しかし、彼は「...そして、聖霊にあずかる者となりました」と言っています。
あなたは今まで神の霊が力をもって働いている集会の中にいる人を見たことがありますか?
その時、あなたは進んでゆき、彼に話し、「あなたはキリストに来てもらいたくないのですか?」言うでしょう。
そして彼は答えます。「私は私が来てもらうべきだと知っています。私はこの集会の中で神の霊の力を感じることが出来ます。
私はこのことを正しいと知っています。そして私は明け渡すべきだと知っています。
しかし、私は必要としないし、私はきてほしくないのです。」
そのことが、彼は聖霊に反抗したけれども、聖霊に預かったということです。
これらの人々がヘブル人への手紙6章で述べられている方法にてキリストらしさを外面的に知らせるでしょう。
そのためにそこで悔い改ることが出来なくなっているのです。

今、これがこの節の正しい解釈ということを証明するために、私はヘブル人への手紙6章7〜9節に対してあなたに注意して読むことを勧めます。
「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章7〜9節

最初の場所に注目してください。
すべてこれらのことが4〜5節の中で彼が話していることで、人が真実かも知れないが、いまだ救われていない可能性を話しているのです。
しかし、彼はあえて「私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです」と言っています。
それは「あなたはいままで行ってきたこれらの背教から遠く離れているなら、あなたは今救われているのです。私たちがあなたをこれらのような人々といっしょに困惑しているとはあなたは考えていないはずです」ということです。
ある人は何を意味するのか、はっきりさせるためにこのちょっとしたたとえ話を使いました。
この畑の2区画が並んで作植えをしていました。
私たちは「ちょうどよい、柵を設けて隔てよう」というでしょう。
その地と同じものです。
同じ太陽がその両方に輝いています。
同じようにその両方に雨が降り注ぎます。
収穫の時が来ました。
これらの一つの畑はハーブをもたらし、もう一つはいばらやあざみをもたらします。
彼はここで何を教えているのでしょう?
これはユダヤ人へのメッセージです。
彼らが現実に得ようとしているのは、キリストをメシアとして交わることで、旧約のすべての型(タイプ)にる彼らにある満足感です。
この2区画の畑は二人の人間です。
彼らは二人の人間の二つの心です。
私たちはすべてをより描くための方法を彼らのために考えます。
彼らは並んで成長しました。
彼らは両方とも聖書を教えられます。
彼らは同じユダヤ人集会に両方とも出席します。
両方ともメシアを待ちます。
両方とも下って行ってバプテスマのヨハネのメッセージを聞きます。
おそらく、両方ともバプテスマのヨハネによってバプテスマを受け、彼らの罪を告白します。
ヨハネのバプテスマは救いではありません。
それはまさに救い主の来る前に見たことです。
彼らの両方は主イエスを聞きます。
両方とも、イエスが死ぬのを見る、群がる人たちの中にいます。
両方とも、群集は開いた墓を見るために出て行く時、そこにいました。
両方とも、主が天に上がられる時、そのそばにいました。
両方とも、ペンテコステの日に力強い聖霊の働きを見ました。
彼らの両方とも、使徒の中を出入りしました。
そして、外見上、あなたは彼らの間にどんな違いも見つけることはできません。
しかし、その将来に迫害は起こりました。
彼らは逮捕された一人です。迫害者は彼に「イエスキリストを否定しなさい、でなければ、あなたは死にます」と言い、彼は「私はイエスを否定することができません。イエスは私の救い主です」と言います。
「ではあなたは死ぬでしょう」と最初の人が宣言します。
「私は死ぬ準備が出来ています。私はイエスを否定することは出来ません。」二番目の人間に答えます。
もう一人の逮捕者に彼らは言います。「あなたはキリストを否定しますか、それとも死ぬますか。」
彼は「私は死ぬことよりむしろイエスを否定します。私は戻って、死ぬことよりむしろ再び良きユダヤ人になります」と言いました。
彼らは「さあ、ここを出て行きなさい」と命令するでしょう。

迫害者は彼を取り戻すために、恐ろしい方法を使うのです。
私は、このようなケースをどのように読んだのかを思い出します。
彼らは彼を人間が豚を殺した汚い場所を連れて行きました。
そして、この者は「拒絶したという証し」を要求されたので、ユダヤ教に帰っていました。
豚の血の上につばを吐き、こう言いました。
「それを私はナザレのイエスの血とみなします。」
それから、彼らは彼をきれいにし、彼を連れ帰ります。
イエスを本当に信じる人はそれを行うことができるでしょうか?
二つの間の違いは何があるのでしょうか?
これらの地の畑の上に同じ雨が降りました。
同じ日が照りました。
しかし、違う収穫があったのです。
何が違ったのでしょう。
これらの一つの畑にはよい種が蒔かれ、よい実をもたらしました。
しかし、他方ではよい種が蒔かずにいばらとあざみをもたらしました。
これら二人の人は互いに真実にある親友でした。
しかし一人は朽ちない種を受け取りました。
命のことばです。
そして、神への実をもたらしました。
もう一人は決して良き種を受け取っていません。
そして、時が来てみると彼は背教者だったのです。
もし、あなたが心の中に背教者と堕落者の違いを理解し続けるのなら、聖書にある多くの問題からあなたを救うのです。
背教者は、キリスト教についてあらゆることを知っていますが、本当のクリスチャンで決してありえません。
堕落者はキリストを知っている人です。
そして、その人はイエスを愛しています。
しかし、彼の魂の中で冷たくなり、彼の霊的な命にあって失敗してしまったのです。
それらはクリスチャンがたびたび堕落して罪を犯すことがないということはありません。
こういった理由で、私たちは私たちの魂の回復するために、私たちを助けてくださる主を必要としています。

堕落した時、それはイエスと一致することではなく、破壊することです。しかしそれは私たちと共有することになります。
あなたは「なぜ、あなたには本当のクリスチャンが信仰を捨てることがないとわかるのですか?」と言うでしょう。
それは神が聖書の中で言っていることです。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章18節

反キリストの意味は「キリストに反対している者」ということです。
背教者はいつもキリストに反抗している人のことを指します。
その人は「私はすべてのことを試みましたが、そこには何もありませんでした」と言ってキリストを非難するでしょう。

「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら(KJVでは疑いもなく私たちの仲間だったら)、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章19節

この「疑いもなく私たちの仲間だったら(no doubt---KJV訳」と言う言葉は現実に疑いを持たせます。
これらのことばはそれらがギリシャ原語に忠実ではないので、意味を失っています。
では読みかえてみましょう。
「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。」(新改訳の方が良い)
付け加えてみると...。「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし(完全に(原語に忠実に読むなら))私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。」

訳者注)ouk hsan ex hmwn ei gar ex hmwn hsan
ギリシャ原語---もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら....。
最初の
ouk hsanの「私たちの仲間ではなかった」の否定形に対して、ei gar ex hmwn hsan「もし私たちの仲間であったのなら」は否定していません。
つまり、後記の「もし私たちの仲間であったのなら」は前記の「私たちの仲間ではなかった」の人以外の人を指します。
つまり、出て行った人たちは私たちの仲間ではないことを示しています。


言い換えると、彼らは告白において私たちの仲間でした。外見は交わりを持っていました。
しかし、私たちの仲間ではなかったのです。
彼らは神によって現実に決して生まれていなかったからです。
これと同様な例がヘブル人への手紙10章にあります。
そのことについては次の質問でこのテーマを上げて見ましょう。


質問12

ヘブル人への手紙10章28〜29節を説明してください。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章28〜29節

彼らが「よろしい、そのことが言っているようにその人は聖別されていて、この人は確かにクリスチャンです。」と言うので、人々は困ってしまいました。

それは必ずしも彼がクリスチャンであることを証明しているわけではありません。
イスラエルの国全体は契約の血によって聖別されました。
ある意味おいてはこの世界全体が十字架の血によって聖別されました。
もし、それがカルバリの十字架の上で流された血が無なければ、この世界全体が永遠の裁きにある運命にあるのです。
しかし、世界全体のために死んだからではなく、神の言うように「今、私は十字架の血を土台にしてすべての人を扱うことが出来るのです」。そして、私たちはたびたびそのことを言います。
今日、もっとも大きな問題は主に罪の問題ではなく、神と人間との間にある問題なのです。
なぜでしょうか?
なぜ?
それは罪のためのキリストの血があるからです。
では何が大きい問題なのでしょうか?
それは子としての問題です。
どのように、あなたがあなたのために死なれた神の子を受け取るのでしょうか?
キリストはすべての人のために死なれました。
彼の血はすべての人の救いのために流されました。
もし、彼らがイエスを信頼するのなら、世にある者、すべての罪人のためなのです。
(ヨハネによる福音書3章18〜19節参照)
ここでこのヘブル人は確かなポイントへと導き、追いかけて来ました。
そして今、この問題が起きました。
「あなたはそれがたとえ何を意味していても、キリストが一つの偉大な罪のためのささげ物であることを告白しますか?」
そして彼は答えました。「いいえ、私は告白することができません。私は神殿に帰ります。そこには罪のささげ物があります。
そして、私がイエス・キリストを告白しても私には苦しむ必要がないのです。
しかし、彼はそのようにすることが出来ません。
神は、これ以上いけにえを受け入れません。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章26節

「罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とは真実な意味があります。
祭壇でのこの犠牲は神による命令です。
彼は「もし、あなたが罪を犯したなら、あなたはささげ物を持ってこなければならない。そうすれば私はあなたを受け入れるだろう。」と言っています。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
新改訳聖書 レビ記17章11節

「了解しました」。このユダヤ人は「私は罪のささげ物を持っています」と言いました。
しかし、その人はイエス・キリストに会ったか、もしくは偉大な罪のささげ物としてイエスについて聞きました。
その人は神がイエスを受け入れ、死者からイエスを甦らせたことを知っているのです。
その人は「私にはこのキリストによる罪のためのささげ物は必要としていません。私は帰って神殿に罪のための捧げ物を捧げ、満足しました。」
イエスが来る前に罪のためのささげ物がイエスのことを示すことが認められていました。
そして、今彼は来たのです。
もし、彼が拒否するのなら「罪のためのいけにえは、もはや残されていません」。
この節は本当のクリスチャンがキリストから背を向けて離れることについて何も書いていないことをあなたは見つけるでしょう。
しかし、イエスを受け入れることを拒む者に徹底的に教える人について書かれているのです。
そして、ユダヤ人だけでなく、クリスチャンと言われる人たちのなんと多くの人たちがこの罪のためのいけにえを拒んでいるのではないでしょうか。


質問13

次にあげられる節は、ルカによる福音書9章61〜62節です。

「「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」」

新改訳聖書 ルカによる福音書 9章61〜62節

もしこの方法が天国へ入る方法なら、ひどいことではないでしょうか!

なんと多くの真面目なクリスチャンといわれる人々が、キリストに熱心に従わせないようにすることが友としての責任と考え、それを認めようとしています。
彼ら自身がキリストに十分に従うことだけを基礎にして、天国に行ったとは想像できません。
見てください。これらのユダヤ人は王国を捜していました。
そして、多くの人々が「主よ。あなたに従います。しかし、私の友は私に「それは違う」と言ってくるのです」。
しかし、主は「私にとって、何よりも重要なはずです。だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言っています。
それは弟子としてのテストです。
そこには恵みによる救いと信仰的な弟子への報酬とを区別する必要があるのです。
その報酬は王国と関係しています。
私どんなに忠実なクリスチャンだとしても、もし私が救われた瞬間に天国に連れて行かれるならば、それ以上に与えられる天にある地位は私には存在していません。
まさしく、あなたが改心したその瞬間に、あなたは急死し、あなたが天国に行くことを想像してみてください。
その通り、あなたは神の御子の働きによる神の喜びを基礎としてそこに行くのです。
あなたは50年前に改心したと仮定しましょう。
そのこではあなたの人生の間で上下があったはずです。しかしこれらのすべての年月の中ずっとあなたは救われていたのです。
あなたは天国にゆくでしょう。
何を基礎にして?
それは御子による働きにある神の喜びを基礎にしているのです。
その50年間の変化の量は問題にはなりません。
あなたは「しかし、私はすばらしく忠実なクリスチャンでした」と言いました。
本当ですか?
私はあなたが言ったことに驚いています。
私たちはより仕えなければなりません。
より、もっと私たちはどのくらい不忠実かを感じなければなりません。
あなたがイエスに信頼した瞬間のあなたよりも、あなたは少しでも天国に少しでも似合う者になれたのですか?
すると、その人は「弟子のように忠実であることは無駄なことですか?」と尋ねました。
そのことは大きなことを受け取りますが、あなたの救いとなる利点はありません。
私には純粋な恵みを基礎とした父の家に場所を持っています。しかし父の家は単に私たちの前にあることだけではありません。
神の王国が同じ様にそこにあるのです。

「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 13章43節

そして、ここでは、この人生においての忠実さが計られていて、それに応じて異なる報酬がが与えられるのです。
ここに主が「私はあなたにアフリカか、インドまで私に従ってきてもらいたい」と命じられた者がいたとしましょう。
彼は「主よ、私は悩んでいます。最初に行って私の父を葬らせてください。
私には年老いた父がいて、父が生きている限り、私は父を残して行くことは我慢できないのです。
私は父が死んだ後、私は喜んであなたに従ってゆきます。」と主に言いました。
そして、主が「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」と言われたのなら、その人がそれを破る信仰と勇気を持っていないから、彼はクリスチャンであることをやめるのでしょうか?
彼は家にいるでしょう。
彼には大きな価値と賜物があるかもしれません。
しかし、彼はキリストの裁きの座に来た時、そこには彼のあるべき報酬がないのです。
それは、彼はすべての道をキリストとともに歩まなかったからです。
もし、天国に完全な人が行くのなら、誰もそこにはいけないでしょう。
しかし、私たちは知る範囲の完全な方法にて天に行きます。イエスが私たちに報いてくださいます。
今後、これら反対意見者の大部分は現実にこれを受け取らなければなりません。


質問14

次にヘブル人へ手紙 3章12〜14節を取り上げてください。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」

新改訳聖書 ヘブル人へ手紙 3章12〜14節

この節は「もし(if)」ということばで始まる御言葉の一つです。

他には、「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

新改訳聖書 コリント人へ手紙第一 15章1、2節

また、「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
ただし(if)、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

新改訳聖書 コロサイ人へ手紙 1章21〜23節
私は他にも「もし」で始める節をあげることはできます、ここに3つの「もし」で始める節をあげてみましょう。
神の霊はこれらの「もしも」を書き加えることにより、何を教えているのでしょうか?
これらのすべての「もしも」において、神の霊は人々の立場について言及しています。
私は人々の立場にたってあなたに話しているのです。
もし、私が行ってあらゆる人に尋ねるのなら、その人はクリスチャンとして歩んでいると告白します。
私はほとんどの人が奮起すると思います。
そのことはあなたがクリスチャンであることを証明するのでしょうか?
そのことはあなたがクリスチャンであると公言していることを示しますが、あなたが実際にクリスチャンであることは何によって証明されるのですか?

「ただし(if)、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。」
新改訳聖書 コロサイ人へ手紙 1章23節

あなたは福音を受けたことを告白しています。
あなたがあなたに教えられたことを記憶に保つならば、あなたは救われるのです。
あなたが福音を保たないならば、あなたは現実に救われていないことを示しています。
ここにある信仰はあなたを救う信仰ではありません。
それはあなたが信じる信仰ではありません。
しかし、それをあなたは信じているのです。

ユダは「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」と言っています。
新改訳聖書 ユダへ手紙 3節

これはクリスチャンの教理の本体です。
そして、現実にクリスチャンなら、あなたは最後までこのクリスチャンの教理に立つでしょう。
もし、そうでなければ、あなたはモルモン教徒、もしくはクリスチャンサイエンス、もしくは神智論者(セオソフィアスト)もしくはそれに似た者です。
それから、あなたは単純に現実にはクリスチャンではありません。
「私は救われている」というのは簡単なことです。
それを証明する別の方法があります。


質問15

ペテロの手紙第二 3章17節については何が言われているのですか?

「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二 3章17節

私たちが数分前に話していたことに戻ってください。
それらは本当のクリスチャンが常に堕落する可能性を述べています。
そして、私たちは何度も警告される必要があります。
私たちはどのくらい多くの者が一度はクリスチャンの輝きを持ち、堕落したことを知っているでしょうか。
彼らは気をつけてはありませんでした、彼らは祈りに満ちていませんでした、そして彼らはつまずいて堕落しました。
それは彼らが失われたことを意味していますか?
いいえ、もし現実に再び生まれていないならば、いや、もし再び生まれているのならば、彼らは永遠の生命を受けとっています。
そして、もし人々がこのように堕落するならば、それは神の聖霊が来ることにより回復します。
ダビテは最も恐ろしい方法にて堕落しました。
しかし彼は神の人々の魂を時々回復させることを「主は私のたましいを生き返らせ」と言っています。
新改訳聖書 詩篇 23章3節
そして、神はとても苦い経験を通して彼らをそこに置くのです。
神は彼らをとても愛しています。
そして、神から離れている時も神は彼らを幸せにします。


質問16

この節を説明します。

「彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 2章18節

著者が「私たちはここで私たちの信仰を覆してしまう可能性に出会う」ことについて言っています。
そのようにパウロは話していません。
彼は信仰について話しています。
再びあなたは区別をしなければなりません。
私たちの信仰は私たちがどれを信じているかです。
私たちは神を信じます。
それが信仰なのです。
しかし、私たちは神が私たちに明らかにした真実を信じます。
そして、その真実は信仰です。
そして、それはこの例にあげられた信者の告白自身にあって覆されたことです。
それと同じ事をあなたはテモテへの手紙第一5章15節の中で得ることができます。
「すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第一 5章15節
現実に何人かクリスチャンはそのようにあとをついてゆきました。
しかし、なんと主を知ることは祝福されたことでしょう。
主は彼らの後について行き、そして決して彼らをあきらめません。


質問17

私たちは神についての聞いたことを私たちから押し流す去るかもしれません。

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章1節

別の言い方をすると「どんな時も、私たちはこれらに気をつけ(続けなさい)、決して押し流されないように」ということになります。
(訳者、私直訳)
これは再びなされた、同じ警告です。
あなたは神の人から貴重な御言葉を聞きました。
その人はあなたのために言葉を語ったのです。
あなたは決して多くはないが、このような教えを受けました。
あなたが学び続けることはこのように必要なことなのです。
しかし、もし、私たちがいくつかの教えられた間違いによって押し流されてしまうのなら、その度に、私たちは救いを完全に無くしてしまうのでしょうか。
それはなんと大変な事でしょうか!
ここにいる者はだれも決して押し流されるどんな小さな可能性も持っていません。
もし、罪が私をキリストから引き離すなら、どれほどの罪でしょうか?
今まで私は確かにとても多くの罪を犯しました。
どのようにこれらの罪を犯すことができたのでしょうか?
ここにいるクリスチャンで今日罪を犯さなかった人はいますか?
もしそのような者がいるのなら、それは事実ではありません。
私たちのすべての者は考えの中で、もしくは言葉で、もしくは行為の中で、おそらく私たちの生活において毎日罪を犯しているのです。
あなたが神の前にひざまずいて、「主よ、私はあなたに私は今日、考えにおいても、言葉においても、行為においても罪を犯さなかったことを感謝します。」と言うことができる夜が今までにありましたか?
私の正直なクリスチャンがそれを言うことができないと確信しています。
あなたがキリストにあなたを縛り付ける輪を壊すために罪を犯し、キリストからあなたがどのくらい離れればよいのでしょうか?
あなたは決してあなたをその日その日から救うことは出来ません。
そして、もしあなたの救いがあなたの個人的な信仰深さ頼っているのなら、あなたは神の働きを回復させるための空間までたどりつくことがないでしょう。


質問18

この聖書個所は何について書いてあるのでしょうか。

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
新改訳聖書 黙示録 2章10節

あなたはどのように言うことができますか?
人が永遠に救われる条件として、主がその時あなたに死に至るまで忠実でなければならないと言われた時に、人が永遠に救われるということをあなたはどのように言うことができますか?
いのちの冠は救いではありません。
それは報酬です。
5つの冠があります。
1、忠実に走り続けた人のための朽ちない冠
 コリント人への手紙第一 9章23〜25節
2、魂を勝ち取った人のための喜び冠(イエスがこられる時に)
 ピリピ人への手紙 2章19節
3、主の現われを慕っている人のための義の冠
 テモテへの手紙第二 4章8節
4、キリストの苦しみに預かった人のためのいのちの王冠
 黙示録 2章10節
5、キリストの羊と群れを牧する人々のための栄光の冠
 ペテロの手紙第一 5章2〜4節
私はこれらの全ての冠を失うかもしれません、それでも、私の救いを失わないでしょう。

「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
コリント人への手紙第一 3章15節
しかし、私はそのように救われたくはありません。
私はいのちの冠を獲得したいです。

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
新改訳聖書 黙示録 2章10節


質問19

ヘブル人へ手紙 10章37〜39節を説明してください。

「「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

新改訳聖書 ヘブル人へ手紙 10章37〜39節

次の節を見てください。
しかし、私たちは(もし本当のクリスチャンなら)、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
もし、その人が魂の救いを信じているのなら彼は「恐れ退いて滅びる」危険性はありません。
知識だけで確信して、そこでは立ち止まることは、恐ろしい事です。


質問20

今、私は黙示録3章15〜16節を参照しています。
そこで主はラオデキアの教会に話しています。

「「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」

新改訳聖書 黙示録3章15〜16節

これは一度救われたが、今は救われていない一個人に対して言われていることでしょう?
主は教会に向かって話しておられます。
あなたはこれまでラオデキアのような教会を見たことがありますか?
熱くも冷たくもない教会です。
そこであなたはキリストのために(熱く)、もしくはキリストに反抗して(冷たく)語ることが出来ません。
それから、主はその教会に言っています。
「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
私はあなたが本当の教会であると認められません。」
神の子供である教会の中ではそのような一個人がいないとは言い切れません。
ちょうどそれはエペソの教会のようです。
神は彼らに言っています。

「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
新改訳聖書 黙示録 2章5節

燭台は光を与えるものであることをあなたが知っています。
私が都心のほうへ行くたびにD.L・ムーディが所属していた教会を通り過ぎます。
しかし、今日ではとてもモダンなセンターになり、福音は決して語られなくなりました。
私はそこに目を向けるたび、ムーディがそこにいた時代を考えます。
そして、そのことは真実に堅く立って私は言います。「彼らの燭台は取り外されています。」
その教会の中には同じ真実なクリスチャンがいたでしょう。
同じ親愛なる古い人たちが何年も前にはいたでしょう。
たぶん、そこには彼らの交わりもそこにはあったはずです。
彼らがクリスチャンでないと言いませんが、しかしそのようになったのは彼らがキリストの証言を失ってしまったからです。


質問21

ここにある個所で私は驚くべきことを見つけました。
それは「堕落する」という教理を証明するために使われています。

「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 4章18節

その問題をどう処理しなければなりませんか?

ペテロは何について言っているのですか?

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 4章17節

私は神の子供に落ち度があると思います。
私は父による矯正において、彼らの失敗が裁かれることを知っています。
そして、神は彼らの失敗について彼らをとても厳粛に、真剣に取り扱うのです。
しかし、もし神がこの方法で神の所有する人々を取り扱うのなら、もし義人が難しいことを通して救われるのなら「神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
それはクリスチャンが永遠に救われているか、もしくは救われていないかの問題ではないのです。


質問22

ヨハネによる福音書15章1〜6節の節が質問されました。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」

新改訳聖書 ヨハネによる福音書15章1〜6節

この章は永遠にある保証の問題について議論しているのではなく、実を結ぶことについてです。
とても多くのクリスチャンがごくわずかな実しか結んでいません。しかしすべての者が神のためにいくらかでも実を結ぶのです。
多くの人々がブドウの木の中にいます。
(そして、そのブドウの木は地上で告白した者について話しています。)
しかし、神のために実を結ばない者は、結局はイエスが来られるときすべては刈り入れされます。
そこには彼との一致がないので、彼とともにいる場所はありません。
そこには生きているブドウの木の中に自然な枝はありません。
私たちは信仰によって接ぎ木されています。
私は接ぎ木することについての多くを知りませんが、接ぎ木を差すという事を知っています。
そしてもう一つ、接ぎ木を打ち込むということも知っています。
それは最初の者は見かけ上彼につながっています。
後者はキリストの中に命を持っています。
彼が実際にブドウの木の中にいるかどうか証明するために何をテストしたらよいのでしょうか?
そのテストとは「もし彼が実を結ぶならば」なのです。
すべて命を持つ者は神のためにいくらかの実を結ぶことが出来るのです。
もし実がないならば、あなたにも命がないと確信することができます。
実際にはキリストにつながっていないのです。


質問23

クリスチャンの中には告白していない罪を見過ごす者もいます。
その罪は正しいことを行う機会がありながら、死と変わるのですか?

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章9節

キリストが裁きの座に座るのはクリスチャンの間にあるすべて誤解と不一致が正しくされる時なのですか?
もし、クリスチャンの中でわずかでも告白されていない罪が記録されずに今まで死んだ者がいるならば、それは疑わしいことです。
罪が通常に告白されるかもしれない間に、私たちの誰かがこれまで明確に彼の罪すべてを告白しましたか?
キリストが裁きの座に座る時、主は新生から生涯全体を見渡すのです。
すべてのことについて御心を与えるのです。
その時、最初にクリスチャンは神の無限の聖い光に照らされてそれぞれが細かく見ることになるのです。
ここで言われているすべてのことは、クリスチャンの失敗について扱われています。
決して、その失敗は決して永遠に再び言及されることはありません。


質問24

いのちの書と小羊の書の間にはどんな違いがあるのですか?

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 20章12節

「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中(天国)に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 21章27節

はい、いのちの書は生きている人の本です。
それは、また、告白の記録でもあります。
この書から名前は抹消されるでしょう。
小羊のいのちの書は神の永遠の目的の記録です。
言い換えると、その一冊の書には責任と純粋な恵みについて話されています。
小羊のいのちの書からいままで名前が末梢されたクリスチャンは誰もいません。
このようなすべての人々は、決して没収されることがなく、決して終わることのない、永遠にある保証を持っているのです。

訳者は著者とともに訴えます。
現在の教会と呼ばれるもの中で、どのくらい聖書を一点の間違いのない完全な神の御言葉と信じているのでしょうか。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書3章36節

この言葉をどのくらいの教会が信じ、決していい加減ではすまない、現実の問題として捕らえているのでしょうか。
私は「神はあなたを愛しているから、神を信じなさい。」いいえ、あなたは滅びの下にあるから神の救いを受け取りなさいとなぜ語らないのでしょうか?
また、どのくらいの教会が永遠に保証された立場を理解し、揺るがすことの出来ない基礎の上を歩いているでしょうか。
2000.9.8 今日、私たちの主イエスキリストが来て下さいますように.....。


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