始めに


「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」
(ヨハネの黙示録17章5節)

人間の働きと神の働きには大きな違いがあります。
一方の欠点や不完全さを明確にするために、二つを同時に徹底的に調査することで、もう一方の美しさを引き立てることができます。
人間の技が注ぎ込まれ、精巧に磨かれた針を顕微鏡で見るならば、多くの不揃い、多くの粗さと不器用さを見ることができます。
しかし、野の花を顕微鏡で見るのであれば、そのような結果は現れません。
一見、野の花の美しさは減少するかもしれませんが、人間の肉眼では見られない、より美しい繊細な美しさを見ることができます。
普段は、この美しさを見ることができませんが、さまざまな方法で完全な姿を見つけ、評価することができます。
主はこのように言われました。


「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
(マタイの福音書6章27、28節)

神のみことばと人間の作り出した完成された作品が、聖書によって比較されます。
人間の才能が生み出した最も称賛に値する作品にも、シミや傷があります。
しかし、聖書を探せば探すほど、詳しく調べれば調べるほど、より多くを学び、その完璧さが現れてきます。
毎日のように、光によって新しい美しさはもたらされています。
科学には多くの発見があり、研究者は学び、多くの分野において働きがあります。
同じように、すべての部分が見事に調和し、神の美が全体を覆い包んでいます。

このことは聖書全般において言えることですが、特に聖書の預言はそうです。
摂理の車輪は回転するほどに語り、預言の象徴は、より大胆に美しく浮き彫りにされてゆきます。
現在の働きの基礎と礎石は形成され、預言の言葉において注目されています。
見識のあるプロテスタントの信者であれば、「七つの山に座っている」女を見分けることは難しいことは何もありません。
この女の額には秘められた名で「大バビロン」と書かれています。
この女はローマの背教です。
世界でローマ以外に「七つの山」のある町として有名な都市は存在していません。
預言を知らない異教の詩人も、雄弁家たちも同じようにローマを「七つの山のある都市」と呼んでいます。

ヴァージル氏は次のように述べています。
「ローマは世界で最も美しい都市です。
そして、ローマだけが七つの高い山(城壁)で取り囲まれています。」注1)

注1)引用1)
プロペルティウスも同じ様に、この都市を「全世界を支配する、七つの山の上にある高くそびえ立つ都市」と評しています。
(Septem urbs alta jugis toto quae praesidet orbi)


「全世界を支配する」とは、まさに神の言葉である「地上の王々を支配する」(ヨハネの黙示録17章18節)と同じ意味です。
引用2)

「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
(ヨハネの黙示録17章18節)


ローマ市民はローマを「七つの丘(山)の都市」と呼んでいるほど、これは描写的な表現です。
それゆえ、ホレスは「七つの丘(山)に愛情を置く神々」と題し、七つの丘だけでローマを語っています。
引用3)

一つの言葉を加えるだけで、ヨハネの黙示録の描写が完成します。
同じように、マルティアルも「七つの支配する山」 について語っています。
引用4)

後の長い時代においても、同じような表現が使われていました。
というのは、最後の異教徒であるポンティフェックス・マクシムスの代理人、シンマコスがその街を監督していた時代、シンマコスは一人の友人を別の友人に手紙でこのように紹介しています。
シンマコスはその友人に「七つの丘(山)から来た男」(De septem montibus virum)と呼んでいます。
注釈者たちの解釈では、「ローマ市民」(Civem Romanum)のことを指しています。
引用5)

このように、ローマの特徴がはっきりと定義されており、簡単に示すことができます。
ローマの七つの丘(山)にその座と本部を置く教会があります。
その教会は偶像崇拝としての座を中心地であり「バビロン」がふさわしい呼び方です。
それは旧約聖書において、古代バビロンが偶像崇拝の中心地であったように、新約聖書においてのバビロンが偶像崇拝の中心地であるからです。
しかし、アッシリアにおける最近の発見は、かつては周知の事実でしたが、最近ではあまり理解されていません。
この発見は古代世界の歴史と神話とのつながりが示されています。
かつて、バビロン大王の名はよく知られた名前ですが、これ以上の意味があります。
「教皇システム」(Popery)とはカトリック教会で侮辱的な言葉で、異教のバプテスマを指していることは一般的に理解されています。
しかし、神はすべてを明確に示しています。
それは、ローマが異教のバプテスマを受けたという事実です。
そのバプテスマには、異教のすべての本質的な要素が含まれています。
ヤハウェがクロス王の前で「二葉のとびら」(王宮の門)を開き、鉄の鉄格子を切り裂いた時に、文字通りの古代のバビロンが既に蔓延していました。
そして、今、その異教のベールを取り去られたのです。


「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」
(イザヤ書45章1、2節)

注)1節の「とびら」は英訳KJVでは「二葉のとびら」(two leaved gates of brass)と訳されています。
一般にこのとびら(門)は王宮の門を指しています。

その新しく、予想外の光は、いくつかの方法や他の方法で、まさに教会に至りました。
その教会は大いなる背教であり、文字通りヨハネの黙示録の象徴であり、私たちの期待通りの可能性を秘めています。
ヨハネの黙示録のまぼろしでは、この女はさばきの直前に現れています。
この時、初めてヨハネはこの女性の額に「大バビロン」と書かれているのを見ています。


「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」
(ヨハネの黙示録17章5節)

ヨハネの黙示録のまぼろしの中で、この額にある名にはどのような意味があるのでしょうか?
それはさばきが女に襲い掛かる前に、この女の現実の特徴が徹底的に現わされています。
すべての者の目が、少なくとも霊的な判断力を持つ者の目が、その実物を見ることに縛られます。
神の聖霊がこの女につけた称号のすばらしさを認めざるを得なくなります。
この女にはさばきが近づいており、まさに今、そのことが説明されます。
神の摂理、神のみことばともにあらゆる方面から光が注がれています。
そして、ローマがヨハネの黙示録にある実際のバビロンであることがますます明らかになってゆきます。
そこには、この教会の本質的な特徴、そしてこの教会を崇拝する壮大な目的が存在します。
この教会の祭り、教義と規律、この教会の儀式、この教会の祭司と目的、そのすべてが古代バビロンから派生しています。
そして最後に教皇自身が真実にベルシャツァルの直系代表であるということです。
ローマの横暴な主張に対して行われてきた戦いがあります。
この教会はすべての教会の母であり、愛人であるという、唯一のカトリック教会(普遍的な教会)というおこがましい自慢をして、われわれはただ聞くだけで、退けてきました。
その淡い紫色に救いはありません。
どのような言い訳があったとしても、その言い訳ももはや通用しません。
私の立場を述べるのであれば、キリスト教会の名前を完全に剥奪すべきだと思います。

その夜、バビロンの王である教皇が、数千人の君主たちの中で、「金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した」ことが描かれています。


「彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。」
(ダニエル書5章4節)

この夜に集まったのがキリストの集会としたら、この礼拝を行うことが可能でしょうか?
ローマカトリック教会はキリスト教会を代表しているとされています。
しかしながら、それが必ずしも正しいとは限りません
いくつかの、疑いようのない、驚くべき観点が提示されます。
これを確固としたものにすることが、この活動の目的です。
私自身が自分の立場を証明するために十分な証拠を持っているかどうか、それを私だけでなく、読者にも判断していただきたいのです。


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