著者の紹介、訳者の聖書ポジション

著者、アレクサンダー・ヒスロップ氏(Alexander Hislop)

1807年バーウィックシャー州ダンス生まれ、約2年にわたる闘病生活の翌年、中風の発作により、1865年3月13日に亡くなりました。
スコットランド自由教会(Free Church of Scotland)の教職者です。
ローマ・カトリック教会に対する遠慮の無い批判で悪評を買ったとされています。
巷ではフリーメイソンの教義の影響を受けているとされていますが、福音の教義などはっきりしています。
また、ジャンルで「カルト本」としている場合もありますが、ルターの教義に基づいていますので、異端者とするには意義があります。
当然、カトリックをここまで非難しているわけですので、攻撃はされると思います。

この著作「二つのバビロン」の内容は17世紀の同主張のさまざまな文献を集めたものであり、さまざまな意見の集約です。
ルター派の神学に基づいていますので、黙示録の記述はこの2000年間の教会に起きたものとして解釈しています。
訳者とは神学的に大きく異なっていますので、そのまま受け入れるわけにもいきません。


訳者の聖書ポジション

このように、この著作と訳者の間には、神学的な開きがあり、そのまま受け入れることができません。
しかしながら、多くの正統的な福音派の著者によって引用されています。
当時の一般的なキリスト教においては通常のプロテスタントの立場であり、情報源としては有効なものも多く存在しています。
繰り返しますが、私とは神学的な開きがあり、そのまま受け入れることは危険だと感じます。
確実に線さえ引いておけば、正しい考えをお持ちの方なら正確に読むことが十分にできると考えています。
引用先などはっきりしており、過去(キリスト以前)、現在(キリスト以降)のバビロンの存在を明確にしています。
また、現在、多くの教会で行われている「クリスマス」、「イースター」が何なのかを指摘することに成功していると考えます。
訳者としては「二つのバビロン」だけではなく、未来における三番目のバビロン(黙示録)を指摘してほしいと思いますが、彼の神学が邪魔をしているようです。

正直な意見では、17世紀の著作であり、lこの著書には多数の怪しい情報も多数あります。
(しかし、引用元も明確にされています。)
一人、一人が十分に吟味して読んでほしいです。
一部の不確かさを持ってきて、全体を否定するというのは知識に基づいた読み方ではありません。
ただし、この内容は現在のネット社会では、簡単に多くがネット検索によって十分に証明することができます。
著名なので、ここに上げたのです。

この著作の半分、いや、数分の一が事実なら、十分にカトリックが何者なのか?
巷で祝われている「クリスマス」、「イースター」が何なのかを十分に証明できると考えます。
ずばり、クリスマス、イースターは悪魔崇拝の延長です。
このことは別にこの本が無くても十分に証明できますが、著名ゆえに紹介しました。
どんな反対者がいたとしても、カトリックは古代の一つの宗教、ニムロデから発した世界共通宗教の延長だと考える余地が存在します。

「クリスマス」、「イースター」の起源についても、この著作でなくても、インターネットで簡単に検索することができます。
単純に異教、秘儀からのものです。
とくに、クリスマスツリーの起源は新しく、17,18世紀に教会に忍び込んできたもので最近のものです。

この著作は元々は英語で200ページ弱の著書でしたが、後にさまざまな人たちが説明を加え、2024年現在バージョン7、300ページほどの量となってアマゾンで公表されています。
また、このジャンルに集中することは好ましくないので、数か月ですべてを終えようと考えていました。
AI翻訳などを活用して短期に終わらせています。
目が届かない箇所もありますが、明確な引用元の存在を重点に解説を加えています。
(個人的にはこのジャンルに集中するよりも、より霊的な歩みの学びに時間を費やしたいのですが、必要を感じて、実行に移しました。)

この著作を非難するされる前に、どうして、現在の教会では聖書に記載のない「クリスマス」、「イースター」がこの世とともに、いっしょに行われているのか?疑問に感じてほしいと考えます。
キリスト信仰から「クリスマス」、「イースター」は排斥されるべきです。
そして、彼らはどうして執着するのでしょうか?
それは自分たちがそれを行っているからです。


訳者による要約

訳者の求めるものは以下のものです。
1、カトリックの起源
2、「クリスマス」、「イースター」の起源
3、古代宗教の特徴です。

アダムの創造、堕落後、人類はある程度の期間、族長時代と呼ばれる、アブラハム、ヨブなどに表される族長を中心として集まりが構成され、その中で信仰が保たれました。
しかし、時代が進むにつれて、人類の堕落は急速に進んでいったのです。
神はやもえなく、ノアの時代にノアの家族とさまざまな「ひとつがい」の被造物を箱舟に乗せ、彼らを守り、洪水によってそれ以外の世界を滅ぼされました。
やがて、洪水は引き、ノアから新しい人類がスタートしたのです。

しかしながら、ノアの後の世代も急速に堕落してゆきました。
ニムロデは「力ある猟師ニムロデ」と言われ、後の世代にバベルの塔と言われる塔を建てたのです。

人類は神に反抗し、結束しました。

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
(創世記11章4節)


この時代、人々の文明は発達しました。

「彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」
(創世記11章3節)

レンガを焼き、「アスファルト(瀝青)」を使用しています。
この塔の目的は偶像崇拝、特に天文学、天体崇拝のためであることがわかっています。

つまり、神に反抗して、宗教が生まれたのです。
そして、ニムロデの死後、彼は「力ある猟師ニムロデ」は神にされました。
そして、その母、「セミラミス」は聖母とされたのです。
そして、神によって、人類は地に散らされ、言語が乱されました。
このニムロデと聖母セミラミスを中心とする偶像崇拝の宗教システムは言語こそ違うが、同じシステムが違う言語、宗教として世界に散って行ったのです。

これが世界中にある同じ形式でありながら、違う宗教の起源なのです。
バビロニア、アッシリアでは、母は「セラスミス」、「レア」、子は「ニヌス」、「オシリス」です。
時にはこの「ニヌス」が「バール」、「タンムズ」と呼ばれましたが、共に母に抱かれた姿で描かれています。
エジプトでは、母は「イシス」、「ヴェスタ」、子は「ニヌス」、「オシリス」
異教ローマでは、母は「キュベレ」、「ケレス」、子は「オシリス」、「バッカス」、など、
(異教ローマでは中東の宗教がそのまま崇拝されていました。)
ギリシャでは、母は「ケレス」、「ヴィーナス」、子は「ゼウス」など
ローマ・カトリックでは、母は「マリア」、子は「イエス」です。

となり、同じ聖母と子供として崇拝されてきたのです。
(代表的な呼ばれ方を書きました。
原則的に多神教なので、違った呼ばれ方がされていますが、原則、同じ表現はされています。)
おそらく、アダムとエバに約束された救い主の誕生をサタンは見事に真似たのです。
日本の母子崇拝も例外ではありません。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
(創世記3章15節)


このように、神の約束を真似た偶像崇拝システムは母と救い主という形を取り、世界中に散らされたのです。
それぞれの宗教システムはそれぞれの姿に変えて行きましたが、原則、同じです。

そして、バビロニアでは、この信仰が植民国、奴属国を支配するためにしようされ、普及しました。
考古学的な記録によれば、薬物を用いた儀式(イニシエーション)と呼ばれる儀式が行われ、異体験を通し、この異教的な信仰の奴隷とされたのです。
日本ではオウム真理教がこの処方を用いて、多くの信者を獲得したことが有名です。
あきらかに、オウム真理教にはこの知識を知っており、これを用いて相手を支配する目的があったのです。
そして、政治的な目的があったことが証明されます。

たとえ、薬物が使用されなかったとしても、この異教信仰は政治的な支配を目的に使用されたのです。
この傾向はカトリックの歴史の中にも証明されます。
カトリックが世界に、日本に何をしようとしていたのか歴史を見れば明白です。

バビロニアでは、12月24日の夜に「クリスマスの薪木(Yule Log)」を火の中に入れ、翌朝、新しい木が現れるとされています。
エジプトでは、ヤシの木が「バアル・タマル」として崇拝されています。
異教ローマでは「バアル・ベレス」が「モミの木の主」として崇拝されていました。
ともにろうそくがともされます。

約束通りに救い主が生まれ、救いを完成しました。
キリストの信じる信仰は急速に広がって行きましたが、完全に浸透したわけではありません。
場所はローマです。

ローマではキリスト信仰が広がり、クリスチャンたちが迫害されました。
しかし、その広がりは完全ではありません。
日本、もしくは世界の都市と同様に、ローマはさまざまな異教とキリスト信仰が同居していたのです。
そこでローマ皇帝がキリスト信仰を告白し、キリスト教を国教としたのです。
ローマ皇帝は異教を弾圧もしたのかも知れませんが、異教をキリスト信仰に取り入れるという方法で支配に乗り出したのです。

さまざまな異教の慣習が取り入れられました。
ここにローマ・カトリックの起源があるのです。
どうして、カトリック教会の中にはギリシャ神話や、ローマ神話の絵や描写が多いのでしょうか?
これらはキリスト信仰から見れば、異教です。
どうして、聖書にない儀式がたくさんあるのでしょうか?
これらは異教の慣習を取り入れたものです。
なぜ、ラテン語ですが、ラテン語はイタリアの言葉とされていますが、もともと中東の言葉から来ています。

このように、クリスマス、イースター、さまざまな儀式が名前を変え、教会の儀式とされたのです。
そして、ふたたび、クリスチャンたちへの迫害が始まりました。
世界中でもっとも、クリスチャンたちを迫害したのはカトリックと言われ、人によっては1億人以上の人たちを殺害したとも言われています。
迫害されたクリスチャンの中にはクリスマスなどを取り入れた者もいたとされています。
しかし、多くがこの異教が姿を変えたキリスト信仰に否定し、迫害され、死に至ったのです。
クリスマスとはカトリックでキリストの儀式を指し、12月25日がクリスマスという記述がないどころか、異教の祭りの日であり、その慣習がそのまま残っているのです。

多くのクリスチャンが異教の慣習を否定し、死に至るまで守ろうとした信仰です。
なのに、多くの教会ではそれを守っているのです。
まるで、彼らの血をあざけ笑っているようです。
私はキリストの来臨が12月24、25日に起こらないことを願っています。
もし、キリストが来られ、教会にニムロデの象徴であるツリーが飾られ、その日が守られているのであれば、どのようにキリストは私たちを向かい入れることができるのでしょうか?
もちろん、そんな条件にかかわらず約束は実行されます。
しかし、どのように救い主に対して顔向けができるでしょうか?
訳者はただ、この地上の教会からこの異教の慣習が取り除かれることを望んでいるのです。
2024年7月


H・A・アイアンサイド氏による説明

著者と同じ神学を持つ、尊敬する聖書解説者のH・A・アイアンサイド氏による説明をしています。
黙示録の注解から引用です。

講義18 バビロン:その特徴と運命 17章


特記事項

1、クリスマス(Christmas)という名前の由来
「キリストのミサ」という意味で、カトリックの儀式を指します。

2、諸説あります。
しかしながら、先にも書いたようにこのもともと一つであった宗教システムには冬至の12月20日前後を祭りとして祝う傾向がありました。
現在でもスウェーデンなど北欧諸国ではクリスマスを「ユール(YULE)」と呼ぶ風習が残っています。
北ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の冬至の祭り「ユール(YULE)」から系譜を継ぐものではないかと言われています。
この「ユール(YULE)」という言葉は現在の辞書でもそのまま引用することができ、ずばり、クリスマスを指す用語です。
また「ユール・ログ(YULE LOG)」というのはそのままクリスマスケーキを指す言葉です。
もちろん、エジプトでもバビロニアでも冬至を祭りとして祝っています。
元は同じ宗教システムです。

3、エジプトではこの冬至の祭りには聖母は「イシス」に対して、このような樹木崇拝とともに、火を灯し、「命のパン」としてウェハース・ケーキや薄い丸いケーキの象徴として彼女に捧げられていました。

4、クリスマスツリーの起源は新しく、17,18世紀に教会に忍び込んできたもので最近のものです。
今日の人々が祝祭シーズンに松やトウヒ、モミの木で家を飾るのと同じように、多くの古代の人々はドアや窓に常緑樹の枝を掛けていました。
(クリスマス・ブーケ)
多くの国では、常緑樹は魔女、幽霊、悪霊、病気を遠ざけると信じられています。

クリスマスツリーの起源で最も古い話は、8世紀の聖ボニファスの故事です。
聖ボニファスは、ヘッセンでの宣教の最中、街に樫の巨木があるのを見つけました。
樫の木には、雷・雨・農業の神であるトール神が宿るとされて、ちょうど一人の少年がその木に、生け贄(いけにえ)としてささげられようとしていました。

ゲルマン民族は「ユール」の際、樫の木を「永遠の象徴」として祭祀に用い、崇める対象としていました。
北欧のヴァイキングの時代には、敵戦士の遺体を木にぶら下げて生贄とし、戦勝を願うという習慣がありました。

クリスマスツリーには何が飾られているでしょうか?
天体です。
もみの木はローマでは崇拝の対象でした。
トップには星が飾り付けられています。
時には、人形がぶら下がっています。
エジプトには崇拝される木には蛇が宿るとされています。
モールのように木に巻き付く蛇が多く描かれています。
木には人間が捧げられました。
まさか、こんなものが教会に飾られているわけではないと思います。

4、カトリック教会、もしくは、多くのプロテスタント教会においてクリスマスは受け入れられてきました。
それは、それぞれの教会の中から派生したものではなく、外から入ってきたものです。
特にカトリック教会は国との連携によって、植民地などの支配を強めるために宗教化したキリスト教が用いられました。
この傾向はニムロデ教の特徴であり、バビロンが相手国を支配するために用いた手段です。
オウム真理教などで知られるようになったイニシエーションの儀式はここから生まれ、オウム真理教はこの知識を用いたのです。
つまり、薬物等を用いて、杯を飲ませ、異体験によって、宗教的な奴族化を実現していたのです。

たとえ、薬物等をしようしなくても、目的は相手を支配することであり、時には相手の習慣をも取り入れていたのです。
そして、時にはその反発として、そのような習慣をも拒否された時代もありました。

近年の歴史を見るのであれば17世紀初頭、宗教改革の波がヨーロッパでのクリスマスの祝い方を変えました。
1645年にオリバー クロムウェルと彼の清教徒軍がイングランドを占領すると、彼らはイングランドから退廃を一掃することを誓い、その取り組みの一環としてクリスマスを廃止しました。
しかし、民衆の要求により、チャールズ2世が王位に復帰し、彼とともに人気の祝日が復活しています。

1620年にアメリカにやってきたイギリスの分離主義者、ピルグリムたちは、クロムウェルよりもさらに正統派なピューリタン信仰を持っていました。
注)ピューリタン
16世紀後半以後、イギリス国教会の信仰と慣行に反対し、徹底した宗教改革を主張したプロテスタント諸教派の総称です。

その結果、クリスマスは初期のアメリカでは祝日ではありませんでした。
1659年から1681年まで、ボストンではクリスマスの祝いは実際に禁止されていました。
クリスマス精神を示す人は誰でも5シリングの罰金を科されました。
対照的に、ジェームズタウンの入植地では、ジョン・スミス船長は、クリスマスは皆に楽しまれ、何事もなく過ぎたと報告しています。

アメリカ独立戦争後、クリスマスを含むイギリスの習慣は廃れてしまいました。
実際、クリスマスは 1870年6月26日まで連邦の祝日として宣言されません。



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