第四章 - 教義と規律
第五部 - 煉獄と死者への祈り

「終油の秘跡」は結局のところ、重荷を負った魂にとっては、死にゆく人間にとっては哀れな手段でしかなかったのです。
無理もありません。
したがって、聖職者の思い込みを受け取った人々が、永遠の展望し、慰める受けるために、何か他のものを必要としていたことがわかります。
このように、聖書を除くあらゆるシステムにおいて、死後の煉獄と死者のための祈りの教義が常に重要な立場を占めることがわかります。
太古においても、現代においても、どこに行っても、異教が罪人たちに死後の希望を残していることに気づきます。
罪人たちは、旅立つ時点で、意識的に祝福の住まいにふさわしくないことを知っているのです。
この目的のために、中間の状態によって煉獄の痛みは偽装されるのです
時が経ても取り除かれない罪は、未来の世界では浄化され、魂は最後の至福を迎えることができると信じたいのです。

ギリシャでは、煉獄の教義は哲学者のトップによって教え込まれました。
このようにプラトン氏は、未来の死者の裁きについて語り、すべての人に最終的な救いの希望を抱きました。
「裁かれる者」のうち「ある者たち」は最初に「下界の裁きの場に進まなければなりません。
そこで、彼らは当然受けるべき裁きを受けることになります。」

一方、有利なさばきの結果、ある天上の場所に一気に上がられ、「人間の姿で生きてきた人生と同じように時を過ごす」者もいます。
異教のローマでも、同じ様に煉獄の考えは人々の心の前に置かれていました。引用1)
しかし、そこでも、この苦しみから逃れる希望はまったくありません。
したがって、ヴァージル氏は、そのさまざまな拷問について次のように述べています

「また、手足が縛られた暗い地下牢の中で、うろたえている心は、自然の空を主張したり、天国のようなものを所有したりすることはできません。
死、そのものも彼らの汚れを完全に洗い流すことはできません。
しかし、魂の中でさえ、長い間住み着いていた汚物は、彼らが身に着けている根深い悪行の遺物として残っています。
そして、すべての顔に恥ずべき罪のしみが現れます。
そのために、さまざまな悔い改めが命じられています。
すべての汚物が消え去り、すべてのサビが消え去るまで、ある者は風にさらされ、ある者は水に浸され、ある者は火で清められるのです。
すべての者にたて髪があり、そのたて髪を背負っています。
清くされた少数の者たちは、これらの住処に戻ります。
広大な野原で、「エリュシオン」の柔らかな空気を吸うのです。
その時、彼らはある時間、幸福になります。
罪を犯すたびにスカーフがすり減ってゆきます。
彼らの習慣的な汚れは一片も残っていないが、魂の純粋な泡だけが残されています。」引用2)

エジプトにおいても、実質的に同じ煉獄の教義が教え込まれました。
しかし、ひとたびこの煉獄の教義が大衆の心に認められると、あらゆる種類の聖職者の脅しの扉が開かれました。
常に、死者のための祈りは煉獄と深く関連しています。
どんな祈りも司祭の介入なしには完全に効果を発揮することはありません。
そして、特別な報酬がない限り、祭司の職務を遂行することはできません。
したがって、異教の聖職者が「やもめの家をむさぼり食う」ことはどこにでもあることです。
愛する死者の永遠の幸福を敏感に求めている、悲しみに暮れる親族の優しい気持ちを売り物にしているのです。
このような死後の献身の負担の大きさ、費用、特徴について、あらゆる方面から聞くことができる一つの共通した証言が存在します。
アイルランドの貧しいローマ主義者たちがうめき声を上げている抑圧の一つとして、死によってその家の住人を連れ去られた時、定期的に行われる献身活動に参加する義務があり、彼らはその費用を支払う必要があります。
しかし、司祭は同じ目的のために何度も家族を訪問し、それには多額の費用が必要です。
いわゆる「マンス・マインド(month's mind)」 と呼ばれるもので、死後1ヶ月が経過したときに故人に代わって行うミサが始まります。

これと全く同じようなことが古代ギリシャでもありました。
というのは、ミュラー氏は「ドリア人の歴史」の中で、アルギブ人は(死後30日目に)、死者の導き手としてマーキュリーにささげ物を捧げた」と述べているからです。
同じ様にミュラー氏は、アルギブ人は死の直後にいけにえをささげたと述べています。引用3)

インドでは、死者の安息のための葬儀である「スラッハ」の儀式が多く行われ、重荷となっています。
そして、これらの儀式が有効であることを保証するために、次のように教え込まれています。
死が近づいたときに、その人自身によって、「牛、土地、金、銀、その他の寄付」はなされるべきです。
もし、その人に能力が無ければ、彼の名によって、ほかの者によって、なされるべきです。引用4)
どこを見ても、状況はほぼ同じです。
タルタリアでは、アジアティック・ジャーナル紙は「グルジュミ、つまり死者のための祈りは非常に高価である」と述べています。
引用5)
スイダス氏によれば、ギリシャでは「最も偉大で最も高価なささげ物は、テレテと呼ばれる神秘的ないけにえだった」と述べられています。
引用6)

プラトンによれば、このささげ物は「生きる者と死者のために捧げられ、彼らをあらゆる悪から解放するものとされました。
悪人はこの世を去るときに罪の責任を負うことになります。」引用7)
エジプトでは、葬儀費用や死者のためのミサに対する司祭の取り分は、決して安いものではありません。
ウィルキンソン氏は「司祭たちは人々が葬儀の儀式に大金を費やすように仕向けました。
そして、生活必需品を手に入れることしかできないお金しか持っていない人の多くは、自分の死の費用のために何かを節約したいと切望していました。
というのは、防腐処理には銀一タラント(14Kg)、つまり日本円800万円程度の費用がかかることもあります。
墓自体も莫大な費用をかけて購入されました。
そして、故人の財産に対して、祈りと慰霊の儀式を捧げるよう、数多くの要求がなされました。引用8)

彼は別の箇所でこのように言っています。
「儀式は、神殿で行われるものと同じ様な儀式で構成され、死者のために一人または複数の神に誓うのです。
複数の神とは、オシリス、あるいはアヌビス、アメンティなどに関係する神が見です。
香と酒も贈られました。
そして、時には祈りが読まれ、親戚や友人たちがその場にいて悲しみました。
埋葬を司る司祭は教皇の階級から選ばれ、ヒョウの皮を着ています。
儀式の後、ミイラが墓の穴に降ろされる前に、下級の司祭の一人によってミイラに対して他のさまざまな儀式が行ないます。
実際、司祭たちは家族が報酬を支払う限り、一定期間ごとに何かしらの儀式が行われ続けました。引用9)

これらが、公然と認められた異教徒の間で行われていた煉獄の教義と死者のための祈りでした。
本質的な点で、ローマ教皇における同じ教説のやり方とどこが違うのでしょうか?
他の国と同じ恐喝です。
煉獄の教義は純粋に異教的なものであり、聖書の観点からは見ることは出来ません。
キリストにあって死ぬ人々には煉獄は必要ないし、必要ありません。
なぜなら、「神の御子イエス・キリストの血はすべての罪を清めるからです。」
これが真実なら、他のどこに清めの必要でしょうか?
その一方で、キリストに近づくことなく死んだ人たちには、結果的に汚れていて、義と認められず、救われていないので、他に清める手段はありません。
そのような者のことを聖書にはこのように書かれています。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)


決して、命を持つことはないのです。
聖書を見るならば、「罪のうちに死ぬ」すべての人に関して、神の宣言が取り消せないことがわかります。

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
(ヨハネの福音書8章24節)

「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。」
(ヨハネの黙示録22章11節)


このように、煉獄の教義全体は、神を冒涜する、完全にむき出しの異教のシステムです。
罪の中に生きる者たちを欺き、死後に罪の償いをしようとしています。
そして、死はかれらの財産と救いを、たちまち奪い去ってしまいます。
先に述べたヴァージル氏の一節からわかるように、異教の煉獄では罪の汚れを一掃するために組み合わさり、火、水、風が表現されました。
教皇グレゴリオの時代以来、教皇制度の煉獄では、火そのものが煉獄の壮大な意味を持っていました。引用10)

一方、来たるべき世界における煉獄の火は、清めのバアルの火を具現化した聖ヨハネの前夜に燃え盛る火の原理をそのまま受け継いだものです。
これらの原理は、ローマのシステムとタンムズ、もしくはゾロアスターのシステムを結びつける別のつながりを形成しています。
これらはすべて、古代の火を崇拝する偉大な神なのです。
このようにバプテスマによる新生、行いによる義認、神の正を満たす苦行 群衆の無血のいけにえ、終油の秘跡、煉獄、および死者への祈りは、すべてバビロンから派生したのです。
ならば、ローマの全体制度がバビロニアにから来たと主張するのは当然のことです。
もし、前に述べたことが真実ならば、私たちは神にどんな感謝を捧げるべきでしょうか?
私たちは、このようにシステムから、祝福された宗教改革によって解放されました!
罪を取り除くことができない偽りの避け所を信頼することから解放されることはなんと大きな恩恵でしょう。
小羊の血を信じることはなんと幸いなことでしょう。
神の聖霊がこの汚れた良心に注がれ、死んだ行いと罪から完全に清められたのです!
私たちのすべての試練と苦悩の中で、私たちは出来る限り熱心に感謝すべきです。
私たちは、どんな被造物の名においても、堂々と恵みの御座に近づくことができません。
神の永遠の愛された御子によってのみ、近づくことができるのです。
聖書には御子についてこのように書かれています。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
(へブル人への手紙4章15節)

教皇の圧制に欺かれた奴隷たちへの優しい哀れみを呼び起こしています。
神はキリストとともに私たちを自由にしてくださり、この自由のうちにしっかりと立たせてくださりました。
そして、キリストは人としてご自分を御捨てになりました。
私たちも私たちの子供たちも、二度と束縛のくびきに巻き込まれないようにしなければなりません。


次は第五章 儀式と祭典 第一部 偶像の行列です。

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