第七章 - 歴史的、預言的に考えられる2つの展開 |
第一部 - 大いなる赤い竜 |
この真理の敵は、ヨハネの黙示録12章3節に詳しく描写されています。
「また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。」
(ヨハネの黙示録12章3節)
これが福音書の時代にキリスト教会を襲った最初の壮大な敵であることは誰の目にも認められています。
もし、ヨハネの黙示録に記述されている単語と、それに起因する行動を考えるならば、あらゆる最初の敵との間に大きな類似点があることがわかります。
大洪水の直後、古代の神の集まりに対して現れたものです。
竜という単語から連想されることは、読者に誤解を与えがちです。
きっと、読者の脳裏には、翼を備えた暗黒時代の恐ろしいドラゴンがよみがえるはずです。
この神話的描写がなされた当時、世の書物にも、聖書にも、竜という単語にそのような意味は存在していません。
パウサニアス氏は「ギリシャ人の竜はただの大きな蛇だった」と述べています。引用1)
そして文章は、まさにこれがこの文章に適応することを示しています。
なぜなら、3節では「竜」と呼ばれるものが、14詩では単に「蛇」として表現されているからです。
「しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。」
(ヨハネの黙示録12章14節)
ということは、「赤い」と表記されている単語は、正しくは「炎のような」という意味があります。
そのため、「赤い竜」は「燃えるような蛇」、もしくは「火の蛇」を意味しています。
まさに「赤い竜」は、「ニムロデ」の後援のもと、古代世界に現れた最初の偶像崇拝の形だと考えられます。
シナイ平原にいた「火の蛇」は、壮大な崇拝の対象でした。
ノアの息子たちの背教の始まりが拝火崇拝であり、蛇のシンボルとの関連であったことを示す最も有力な証拠がある。
私たちは火が啓示者、清める者として崇拝されていたことは、すでにさまざまな場面で見てきました。
まさに初めにこのように行われていました。
というのは、「ニムロデ」は、古代人の声によって、この拝火崇拝を始めたとされているからです。引用2)
すでに「ニムロデ」と「ニヌス」の同一性は証明されています。
また、「ニヌス」の名においても、同じ慣習を起源とするものとして表現されています。
アポロドロス氏の断片には「ニヌスはアッシリア人に拝火崇拝を教えた」と記されています。引用3)
太陽は光と熱の偉大な源として、バアルの名で崇拝されました。
さて、世界の最も太古時代に太陽の名で崇拝されていたという事実は、背教の最初の始まりが極めて大胆なものであったことが示されています。
人類が容易に、そして無邪気におちいる可能性のある太陽や天体への崇拝が、あたかも許されることであるかのように、人々は語ってきました。
さて、事実はどうなのでしょうか?
人類の太古の言語によれば、太陽は「シェメシュ(Shemesh)」と呼ばれました。
つまり「召使い(Servant)」という意味です。
どんなに輝かしい光の球だとしても、この名称は偉大な真理を世に知らしめるために間違いなく神が与えたものです。
そして、太陽は究極的に、目に見えない偉大な創造主から地上の被造物への恩恵の約束された働きを成しています。
人間はそのことを十分に知っていたにもかかわらず、使用人を主人の代わりに置きました。
そして、太陽をバアルと呼んだのです。
つまり、主です。
そして、それに報いてバールを崇拝しました。
次のパウロの言葉にはどんな意味があるのでしょうか?
「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」
(ローマ人への手紙1章21節)
したがって、太陽崇拝と天の軍勢への崇拝の始まりは、光に反するようなものでした。
傲慢にも、天をも恐れない罪です!
天の太陽が崇拝の最大の対象であったように、火は地上の代表として崇拝されました。
この原始的な拝火崇拝について、ウィトルウィウス氏は「人間は火の周りで集まることによって初めて国家と共同体を形成した」と述べています。
引用4)
これは私たちが「ニムロデ」と同一視したフォロネウスについて、すでに見たこととまったく一致しています。
また、彼は「火の発明者」と言われる一方で、「人類を共同体に集めた最初の人物」ともみなされています。
太陽は偉大な火の神であり、やがて太陽と同じものとして見られるようになると、蛇といっしょに崇拝されるようになりました。注1)
この画像はモーリス「インド古代史」中の「フェニキア貨幣」のものです。引用5)
Fig52)
オーウェン氏は「太古の世界の神話では、蛇は普遍的に太陽の象徴です」と述べています。引用6)
エジプトでは、太陽、もしくは太陽神の最も知られているシンボルのひとつは、円盤の周りに蛇が描かれたものです。
引用7)
太陽が目に見える世界の偉大な啓示者であるというのが、この見解のもともとの理由です。
ゆえに、蛇は、人類に「善悪の知識」を与えることのできる、霊的な偉大な啓示者であったと考えられていました。
つまり、このようなシステムが始まった時期を考えるのであれば、システムの指導者たちの側にとてつもない堕落があったことを意味しています。
それが認識する本当の意味だったのです。
いずれにせよ、蛇の崇拝が火と太陽の崇拝と並行して始まったという事実について、聖書的にも世俗的な世界にも証拠があります。
パウロの霊感による言葉は、この称号に関して決定的なものであるように思われます。
「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」
(ローマ人への手紙1章23節)
彼らは神の栄光を、堕落した人間に似た像に変えただけではなく「はうもの」に似せて作ったのです。
つまり、蛇です。
まさに、この冒涜的な歴史と一致しています。
ヨシュアの時代に生きていたと考えられている、冒涜的な著作者にフェニキア人のサンチュニアソンが述べています。
「エジプトのトート氏はまず、蛇と蛇の一族に神性を見出したが、これにフェニキア人とエジプト人が追従しました。
というのも、トート氏は蛇を、あらゆる爬虫類の中で最も霊的で、激しい(火のような)気質を持つものと見なし尊敬していました。
蛇は手も足もなく、霊によって動くという信じられないような能力を発揮するからです。
それも長命であり、若さを更新する性質を持っています。
このようにトートが聖なる書物に定め書き記しました。
そのため、蛇は神聖な儀式や秘儀に取り入れられているのです。」 引用8)
「トート」はエジプト王「タムス(Thamus)」の顧問官であったことは思い出されるはずです。
したがって、この声明から、蛇崇拝は「ニムロデ」の太古の背教の一部であったという結論に導かれます。
上の引用でほのめかされている蛇の「激しい(火のような)気質」は、異教の詩人によって絶えず称賛されています。
こうして、「ポンペイ」の著者であるヴァージル氏は「アンキセスの墓の前で息子のアイネアスがささげ物を捧げた時、その墓から神聖な蛇が出てきて、その蛇の神性を利用したこと」について述べています
引用9)
その言葉はフェニキア人の言葉であり、わたしたちの前にある一節の「激しい(火のような)蛇」と、すぐにわかるようなものでした。
アイネアスが言い終わるやいなや、まだら模様の誇らしげな顔で、墓場からやってきた蛇がすべりはじめました。
7体分の巨体が転がり、背中は青かったが、鱗のような金色の筋がありました。
こうして、彼はその筋に沿って、炎を巻き起こしながら草を焼くように通り過ぎて行きました。
引用10)
このように、拝火崇拝と、蛇の崇拝が結び付けられるのは驚くべきことではありません。
また、蛇は毎年、脱皮して「若さを取り戻す」ことから、偶像崇拝の理由を求める人々には、偉大な再生者である太陽の象徴として、もっともらしく表現されました。
毎年、蛇は自然を再生し、姿を新たにする者です。
神格化されたときには、人間の魂の偉大な再生者として崇拝されました。
先の章では「偉大な激しい(火のような)蛇として、王家のあらゆるシンボルとして表現されています。
そして、蛇の頭は「王冠、もしくは記章」をかぶっています。
エジプトにおいて、激しい(火のような)蛇、もしくは太陽の蛇であり、ギリシャ語で「バジリスク(Basilisk)」つまり「王の蛇」と呼ばれ、モロクと同一視されています。
また、蛇は火と血の両方の概念があることを思い出させますが、正確には「王」を意味しています。
この「バジリスク」は、エジプト人で、また他の多くの国々の中で、常に「まさに権威と支配の型」とみなされてきました。
そのため、その像はエジプトの君主の頭飾りに付けられて着用され、他の人がそれを着るのは違法となりました。
この蛇と同じものとして見られる太陽は「ピューロ(P'ouro)」と呼ばれています。
そして、この名前から聖書に登場する「偉大な七つの冠をかぶった蛇」には「火」と「王」を意味する「ピュロス」という呼び名がつけられています。注)
「また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。」
(ヨハネの創世記12章3節)
注)聖書の「ピューロ」という言葉は「赤」という考えを排除するものではありません。 太陽神は、火の神であり血の神でもあるモロクと同一視するために赤く塗られています。 ただし、必要なのは火という考えです。引用11) |
このようにして、偉大な火の神である太陽が蛇と同一視されました。
同じ様に、彼は人間にも現れました。
それはイスラエルの娘たちが嘆いた「タンムズ」、つまり「ニムロデ」なのです。
「ニムロデ」と「ゾロアスター」の正体についてはすでに見てきました。
さて、「ゾロアスター」はカルデアの秘儀の首領であるだけではありません。
しかし、「ゾロアスター」は誰もが認めるように、拝火崇拝者の教主です。
参照N)ゾロアスターは拝火崇拝者の教主を見てください。
この称号はバビロニア王の最初として「ニムロデ」に与えられたもので、ベロソス氏によって示されています。
その称号は「アロルス」です。引用12)
つまり「火の神」です。引用13) 注)
注)後に続く名前の類似性から、アル・ホル(Al-Hor)「燃える神」に由来するのではないかと考えてられています。 どちらにしても意味は同じです。 |
「火の神」、つまり「ニムロデ」は「モルク・ゲバー(Molk-Gheber)」、つまり「強大な王」でした。注)
なぜなら彼は「モロク(Moloch)」、つまり王と呼ばれた最初の人物であり、地上で「強大」(Gheber)になり始めた最初の人物だからです。
「モロクへの火の通過」がどのようにして始まったのか、そしてローマ人の間で火の神がどのようにして「マルキバー」と呼ばれるようになった理由がすぐにわかります。
注)一般的に「モルク・ゲバー」は「(Mulciber)」とつづられます。 しかし、ローマ字の「c」は難しいです。引用14) |
「ゲバー(Gheber)」という名称から、インドのパールシー(火を崇拝する人々)は今でも「ゲブレス(Guebres)」と呼ばれています。
しかし、彼が神格化されたようになったのは彼の死後になってからです。
もともと、彼は太陽の子、あるいは受肉した受肉した太陽として崇拝されました。
しかし、彼は生前、ローマの火の神ヴァルカンのもう一つの名前の由来であるボル・カーン、すなわちバアルの司祭であること以上のことは誇示していませんでした。
ヴァルカンの歴史のすべては「ニムロデ」の歴史と正確に一致しています。
1、ヴァルカンはすべての神々の中で「最も醜く、奇形」でした。引用15)
ヴァルカンの歴史のすべては「ニムロデ」の歴史と正確に一致しています。
世界中で「ニムロデ」は黒人のような顔立ちと顔色で表現されています。
同じ様に、ヴァルカンは非常に醜く、妻を求めた時、「美しい女神たちは皆、恐怖のあまり彼を拒絶しました。」
しかし、「取り返しのつかない運命の介入によって、女神の中で最も美しいヴィーナスが、神々の中で最も醜い者と結ばれると宣言されました。
同時に、「ニムロデ」の黒人とクシュ人の特徴を持っていたのにかかわらず、彼は最も美しい女性である彼の女王「セミラミス」を愛していました。
2、「ヴァルカン」の妻はその不貞と放縦さで有名でした。
「ニムロデ」の妻も全く同じです。注)
注)「ニムロデ」は普遍的な王として「ククホルド(Khuk-hold)」、つまり「世界の王」でしたので、彼の権力の象徴は雄牛の角でした。 それゆえ、カックホールドの角の起源となりました。 カックホールドの角(Cuckhold’s horns) 浮気された妻に対して、夫が角を立てるという意味です。 |
3、ヴァルカンは「サイクロプス(Cyclops)」、つまり「炎の王」の教主であり首長でした。注)
注)「ククロプス(Kuclops)」は、「王」を意味する「クーク(Khuk)」と「炎」を意味する「ローブ(Lohb)」由来しています。 偉大なる神の像は三つの目で表現されました。 もう一つの目は額にあります。 このように、額に目のあるサイクロプスの物語が生まれたのです。 |
4、「ニムロデ」は火を崇拝する者たちの教主でした。
ヴァルカンは、神々の敵に大混乱をもたらした雷の仕掛け人です。
「ニヌス」、もしくは「ニムロデ」は、バクトリア王との戦争において、同じの方法で紛争を継続しました。
アルノビウス氏によれば、ニヌス率いるアッシリア人がバクトリア人と戦争した時、その戦いは剣や肉体的な力だけでなく、魔術やカルデア人の隠された指示に基づく手段によっても行われました。
引用16)
5、歴史家カストル氏によって、歴史上のサイクロプスはバビロンの初代王サトゥルヌスまたはベロスの時代までさかのぼることができること知られています。
引用17)
私たちはニヌスとまったく同じ特徴をもって崇拝されていた、ジュピターは「子供」であることがわかります。
そして、ニヌスはタイタンたちと戦った時、まばゆい稲妻と雷によって、サイクロプスの助けを受けました。
そのことを知るならば、ニヌスがバクトリア王に対して用いたカルデアの神秘術から由来する魔術について、かなり明確なアイデアがあったと思われます。
後の時代になって、カルデアの秘儀の司祭たちは水中で燃える恐るべきギリシャの火の成分を知っていたという証拠があるが、その秘密は失われています。
引用18)
「ニムロデ」が権力を確立する時に、「ニムロデ」と仲間たちだけが持っていた、あるいは、同様の科学的秘密を利用したことに間違いありません。
これらの点においても、もしくはまだ気づいていない他の点おいても、ローマ人の火の神「ヴァルカン」とバビロンの火の神「ニムロデ」の間には正確な一致があります。
6、伝統的なヴァルカンの場合、一般的に表現されているのは地上的な代理人としての火の神という特徴だけです。
しかし、世界に最も効果的に拝火崇拝が伝えられたのは、人々の魂の清めと新生という霊的な側面でした。
「ニムロデ」が「ファエトン」というよく知られた名前で表されるように、その権力、人気、手腕、そしてシステムそのものの魅惑的な特徴によって、妄信的な教義を広範囲に広めることができたのです。
参照O)ファエトンの物語を見てください。
それは「全世界に火を放つ」ということであり、そのことは比喩的な表現を持たずに、全人類を拝火崇拝の罪に巻き込むことになったのです。
世界の初期において、火の神への崇拝が非常に盛んであったことは、地球上のあらゆる場所で発見された伝説と、ほとんどすべての地域の起きている事実によって証明されます。
事例として、メキシコでは、太古の時代、最初の時代の直後に、世界は火で焼き尽くされたと原住民が伝えています。
引用19)
彼らの歴史は、エジプト人と同じ様に象形文字で書かれているので、象徴的に理解されなければならないことは明らかです。
インドにも、形は多少異なりますが、まったく同じ内容の伝説があります。
バラモン教徒によれば遠い過去の時代に、神々のひとりが耐えがたい光を放ち、「千の世界よりも明るい光で万物を苦しめた」と語られています。 引用21) 注)
注)神話では、この神は「ブラフマ」から5代目の教主として表現されています。 しかし、この教主は知識を得たと表現されており、 「ブラフマ」の他の4人の教主が作った「ヴェーダ」を熟読することで、耐えきれないほどの誇りを持つようになりました。 |
別のより強力な神が介入しなければ、もし首を切り落としていたら、最も悲惨な結果になっていたはずです。
イギリスの古い吟遊詩人たちによるドルイド三部作には、同じ出来事が明確に述べられています。
彼らの話によると、太古の時代に「大地を真二つに裂く火の嵐」が起こり、そこから逃れられた者はいません。
選ばれた集まりと「誠実さにおいて際立っていた偉大な族長」だけが丈夫な扉のある囲いの中に一緒に閉じ込められました。
それは明らかにセムと、ともにいた者たちです。引用22)
彼らは多くの人々が信仰と良心を失った時、自分たちの「誠実さ」を守った人たちです。
これらの物語はすべて同じ時代のものです。
そして、この形態の背教がいかに強力であったかを示しています。
教皇の煉獄や聖ヨハネの前夜の火についてはすでに考察してきました。
それ以外にも多くの寓話や慣習が残っています。
しかし、これらは同じ古代の迷信の遺物にすぎません。
しかし、偉大な赤い竜、もしくは偉大な激しい(火のような)蛇は、12の星の冠をかぶっている女の前に立っているものとして表現されています。
その女は神の教会です。
「その子が生まれるとすぐにそれを食い尽くす」 というのは真実な神の教会ことです。
これは拝火崇拝システムの偉大な教主の特徴と正確に一致しています。
「ニムロデ」は人間のささげ物、特に子供たちをささげ物として捧げられるための焼き尽くす貪欲な火の象徴であり、偉大な子供殺しと見なされました。
最初に神格化された時、「ニムロデ」は「ニヌス」あるいは子供として立てられました。
しかし、最初に神格化された人類としては、実際にはすべてのバビロニアの神々の父でした。
ゆえに、その後に「ニムロデ」の特徴は広く認められるようになったのです。注)
注)「ファエトン」は太陽の子ですが、神々の父とも呼ばれています。引用23) エジプトにおいても、ヴァルカンは神々の父です。引用24) De Falsa Religione(偽りの宗教について)は「ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス(Lucius Caecilius Firmianus Lactantius)」の著書「神聖な教え」(Institutions Divines)の第1巻のタイトルです。 |
私たちが見てきたように、神々の父として、彼は「クロノス」と呼ばれていました。
誰もが知っている「クロノス」の伝統的な物語はこれです。注)
注)「レンプリエール著「古典辞典」ではサタン(Saturn)です。」 (Lempriere, Classical Dictionary, “Saturn.”) |
つまり、彼は彼の子供が生まれるとすぐにむさぼり食べたということです。
これが「原型」と「型」の類似点です。
この伝説にはさらに深い意味があります。
そして、「ニムロデ」、もしくは「角のある者」として適応されます。
これはモロクやバアルの代わりに、幼児がこの祭壇でもっとも受け入れられるささげ物であったという事実を示しています。
この件に関しては、古代の記録から十分に痛ましい証拠を得ることができます。
エウセビオス氏によれば「フェニキア人は毎年、クロノスやサトゥルヌスのために、愛する一人子をささげ物として捧げていました。」
引用25)
ディオドロス・シクルス氏は次のように述べています。
「ある時、カルタゴ軍はシシリア軍に包囲され、ひどく圧迫された時、それを正そうとしました。
彼らは自分たちがカルタゴの古くからの習慣から、少なからず、かけ離れていることを想定して「自分たちの子供たちの中から優れた200人を選び出しました。
そして、彼らをこの神に公にささげ物として捧げました。」引用26)
ドルイド人の時代に私たちの土地でも同じ習慣があったことを信じる理由があります。
私たちは、ドルイド人が血なまぐさい神々に人間のささげ物を捧げたことを知っています。
私たちはドルイド人が「自分たちの子供たちをモロクに火の中を通過させた」という証拠を持っています。
そして、そのことから彼らもまたささげ物として捧げた可能性があります。
私たちはエレミヤ書32章35節とエレミヤ書19章5節を比較するならば、これら2つの事柄が1つの同じシステムの一部であったことがわかります。
「わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌みきらうべきことを行なうために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた。」
(エレミヤ書32章35節)
「バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高き所を築いたからである。このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。」
(エレミヤ書19章5節)
燃え盛るバアルの火が示すように、ドルイド人が崇拝した神はバアルであり、最後に引用された一節では、子供たちがバアルへのささげ物として捧げられたことを証明しています。
このように「からだの果実」がささげられたのは、それは「魂の罪のため」でした。
これはモーセの律法の原理であり、疑いもなく族長時代の信仰に由来している原理でした。
祭司は罪のためのいけにえとして捧げられたものは何であれ、それに預からなければならないのです。
「最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。
あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。」
(民数記18章9、10節)
したがって、「ニムロデ」や「バアル」の司祭たちは人間のささげ物を食べる必要がありました。
このようにして「カーナ・バル(Cahna-Bal)」が誕生したのです。注)
注)「(Cahna)」は「(Cahn)」の強調形である。「(Cahn)」は「一人の祭司」、「(Cahna)」は「その祭司」です。 |
「バアルの祭司」とは、人肉をむさぼり食う者を意味しています。
私たちの言葉では確立された言葉です。注)
注)歴史家カストル(「エウセビウス」のアルメニア語訳の一部、81ページ)によれば、「サイクロプス」が生きていたのは「ベル」、もしくは「ベルス」、つまり「バアル」の時代であったことが分かります。 アエスキロスの歴史学者の記述によれば、「サイクロプス」は「クロノス」の兄弟であり、「クロノス」は「ベル」、あるいは「バル」でした。 彼らの額にある目は、本来この名前が偉大な神の名前であったことを示しています。 なぜなら、インドやギリシャでは、その目は崇高な神の特徴です。 「サイクロプス」はその神の代表者であり、言い換えれば祭司であり、「ベル」、あるいは「バル」の祭司でした。 さて、サイクロプスは人食いとしてよく知られていたことがわかります。 「(Referre ritus Cyclopum)」とは「サイクロプスの儀式を復活させる」という意味で、つまり人肉を食べる習慣を復活させることを意味しています。 引用27) |
さて、古代の伝承によれば、「ニムロデ」の反乱に加わった背教者たちは、ノアの子孫のうち忠実な者たちに戦争を仕掛けました。
力と数は拝火崇拝派の側にありました。
しかし、セムと信者たちの側には神の霊による強力な力がありました。
そのため、多くの人が自分の罪を確信し、悪しき経歴の中に捕らえられたのです。
すでに見たように、聖徒たちに勝利が宣言されました。
「ニムロデ」の権力は終わりを迎えました。注)
それといっしょに、太陽と関連する燃える蛇への崇拝もしばらくの間行われなくなりました。
注)古代異教徒の作家が述べてきた天に対する巨人の戦争は、主に聖徒に対するこの戦争を指していました。 なぜなら、人間は神の民を攻撃する以外に神に対して戦争をすることができないからです。 エピファニウス氏を引用した古代の作家エウポレムス氏はバベルの塔を建てたのはこの巨人たちであったと述べています。 引用28) |
この声明は、私たちがすでに到達した結論とほぼ同じことになります。
なぜなら、私たちは「ニムロデ」の「強大な者たち」が古代の「巨人たち」であったことを見てきたからです
エピファニウス氏は「ニムロデ」がこれら巨人たちの指導者であり、「陰謀、扇動、圧制が彼の下で行われた」と記録しています。
引用29)
まさに「ニムロデ」の野心的で冒涜的な計画に要な思いから反対していた信仰者たちを激しく苦しめたのです。
「ニムロデ」の治世が、何か重大な大災害で終わったと結論づける十分な理由を、私たちはすでに見てきました。
シンセルス氏の次の声明は、その大惨事の特徴について、私たちがすでに得ている結論を裏付けています。
シンセルス氏は、塔建設計画の阻止について次のように述べています。引用30)
「「ニムロデ」は他の塔建設者たちのほとんどが散り散りになったときでもかたくなに残り、その場に留まり続けました。
彼は、卑しい者たちを支配しているわけではないので、身勝手に塔から退くこともできなかったのです。
これを受けて、私たちは、塔が激しい風に叩かれて崩壊し、神の正しい裁きによって塔が粉砕されたということを知っています。」
これは文字通りの真実ではあり得ませんが、この塔は長い年月にわたって立っていたにもかかわらず、「ニムロデ」が栄光を誇った塔は風によって倒されたという多くの言い伝えがあります。
この物語が正しく理解されると、次のように疑う理由が与えられますが、そこには本当の意味がありました。
これを比喩的にとらえるなら、風を意味する同じ言葉が神の御霊をも意味することを思い出してください。
その意味は、聖書の言葉を借りるのならば、「ニムロデ」の高慢で野心的な計画である可能性が高くなります。
彼は「天に登ろう」とし、「星の間に住もう」としましたが、しばらくの間、神の御霊によって打ち倒されたのです。
私たちがすでに結論したように、その崩壊によって「ニムロデ」自身が死んだのです。
この事例の型はここに述べたとおりです。
「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた」
(ヨハネの黙示録12章9節)
巨大な竜、もしくは燃えるような蛇は「天から地に投げ落とされ、彼の使いといっしょに一緒に追い出されました。」
つまり、拝火崇拝の指導者と彼のすべての仲間と手下たちは、彼らが昇りつめた権力と栄光から突き落とされたのです。
ギリシャの伝統的なパンテオンの神々が、敵の怒りから逃げて身を隠していた時代です。引用31)
その頃、インドでは神々の王インドラ、太陽の神スーリヤ、火の神アグニ、そしてヒンドゥー教のオリンポスに住むすべての猛者たちが天から追い出され、地上をさまよっていました。
引用32)
もしくは、彼らは森の中に隠れました。 引用33)
そして、空腹に耐えられず「飢え死に」しそうになります。引用34)
その時、「ファエトン」は太陽の戦車を運転して、世界に火をつけようとした時、唯一の神によって打たれました。
そして、真っ逆さまに落ちて、地に投げつけられました。
太陽の娘たちである姉妹たちは嘆き悲しみました。
つまり、「女たちはタンムズのために泣いた」のです。
それから、読者は理解しておかねばならないが、伝統的な「火の神」である「ヴァルカン」、すなわち「モルクー・ゲバー」は、面目丸つぶれで天から投げ落とされました。
ホメロス氏が、天の王の怒りについて語っているが、この場合、天の王とは至高の神を意味しているはずです。
「私は彼の比類なき力を感じました。
そして、この世のものとは思えないほどの高さから真っ逆さまに突き落とされたのです。
一日中、速い円を描きながら落ちてゆき、太陽が沈むまで地面に触れることはありません。
私は息を切らし、気を失い、動きを無くしました。
そして、シンシア人は私をレムニアの海岸で起こしました。」引用35)
ミルトン氏がこの墜落について述べている行では、別の意味で使われています。
しかし、この墜落の大きさをより見事に描写しています。
――「オーソニアの地では人々は彼を「マルチバー」と呼んでします。
彼がどのようにして天から落ちたのか、彼らは「ジョブ」の怒りによって投げられたと寓話として語り継がれています。
彼の水晶の胸板を切り裂かれ、朝から正午まで、夏の日の正午から露の前夜まで、そして、夕日とともに流れ星のように天頂からエーゲ海の島、リムノス島に落ちてゆきました。
引用36)
これらは、「モルク・ゲバー」、すなわち「ニムロデ」のすさまじい堕落をはっきりと物語っています。
その「強大な王」は、「突然」その権力の頂点から落とされ、 王権と命を一度に奪われました。注)
注)ギリシャの詩人たちは、「ヴァルカン」の2つの転落について語っています。 一つは「ジュピター」に、もう一つは「ジュノ」に投げ落とされています。 「ジュピター」が彼を投げ捨てたのは、謀反を起こしたからだとされています。 「ジュノ」が投げ捨てたのは、特別な理由のひとつは、彼の「姿」、つまり醜さです。 引用37) |
このことが「ニムロデ」の話とどのように正確に一致するのでしょうか?
最初に彼が個人として投げ落とされ、次に神の権威によって殺されました。
その後、彼は「ジュノ」によって肖像にされ、その像が天の女王の腕からも投げ捨てられ、美しい子供のために道を開きました。
さて、この追放について、イザヤの預言的な黙示によって、目前に迫ったバビロンの王の滅亡を喜ぶはっきりとした暗示があります。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。」
(イザヤ書14章12節)
バビロニアの王は「ニムロデ」、もしくは「ファエトン」の象徴として描かれています。
この言葉の中で、預言者は、自分が崇拝していた神がその高き場所から追放されたのと同じように、自分も追放されることを告げているのです。
伝統的な物語では、「ファエトン」は雷に打たれたと言われています。
そして、後で述べますが、「アスクレピオス」もまた同じ死に方をしています。
稲妻は神の怒りの単なる比喩ですが、「ニムロデ」はその下で彼の人生と彼の王国は終わりを迎えたのです。注)
歴史を検証し、その姿を消し去され、すでに見たように、彼は裁かれて剣で殺されたことが判明します。
注)「オルフェウス」は一般にバラバラに引き裂かれた姿で表現されているが、落雷で死んだというのはあまりにも寓話的です。 引用38) |
「ゾロアスター」が死んだ時、神話では彼は雷によって死んだとも言われています。 引用39)
したがって、その神話によれば、ゾロアスターは同胞たちに自分の体を保存しないよう要求しているように描かれています。
彼は灰になったのです。
しかし、落雷による死は単なる比喩に過ぎません。
このようにこれらの預言の言葉によって、太古の特徴、行為、運命が現わされています。
異教帝国のローマの力は型として見ることはできないのでしょうか?
最初にキリスト教会を迫害した権力によって、神の子ご自身の墓の周りにその兵士たちを待機させて、もし、可能であればキリストが現れる前にキリストを飲み干して阻止しようとしました。
キリストは今や、死者の中から最初に生まれた者としてすべての国を支配しようとしていました。注)
よって、ローマ帝国は「火のような蛇」として表すことができます。
注)上記に示したように、この男の子の誕生は、一般的に与えられている見解とは異なります。 私が取った見解がこのケースのすべての要件を満たしているかどうかを、読者に考えて頂きたいのです。 |
エリオットの意見に同意する人はほとんどいないと思いますが、実質的には次のようになります。
人の子とは皇帝コンスタンティヌスのことです。
つまり、キリスト教が名において帝政ローマの王座に着きました。
その時に、女が産み出した子が、苦しみの中で「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた」という言葉の成就としています。
「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」
(ヨハネの黙示録12章5節)
皇帝コンスタンティヌスが帝国に来た時、ダニエル書1章34節で予告されているように、確かに教会は「少しの助けを借りた」のは事実です。
しかし、それだけです。
「彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。」
(ダニエル書1章34節)
皇帝コンスタンティヌスのキリスト教は非常に疑わしく、異教徒たちは、彼が死んだら自分たちの神々の仲間入りをすること以外、障害になることは何もないと考えていました。
引用40)
異教徒たちは彼が死んだら彼らの神々の一員に加えられるべきであるということ以外には何の妨げにもならないと考えていました。
たとえ、そのような解釈が優れていたとしても、この女の子についての記述は、皇帝コンスタンティヌス、あるいは彼の後を継いで帝位に就いたキリスト教皇帝にとっては、あまりにも敷居が高すぎたのです。
「鉄の杖」ですべての国々を支配するために生まれた「人」は、紛れもなくキリストです。
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」
(詩篇2編7~9節)
「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」
(ヨハネの黙示録19章15節)
真実な信者は従属的な意味で主と一体となって、その栄誉を分かち合います。
「彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」
(ヨハネの黙示録2章27節)
このように、正すのであれば、その特権はキリストだけに属します。
そして、ここで述べられていることは、主の誕生について述べられているのは明白です。
この箇所をベツレヘムでの文字通りの誕生を指していると表現する見解を主張する人々に対して、エリオットの意見に同意する人たちは彼らを不当に扱っています。
キリストがベツレヘムで生まれた時、ローマ帝国に仕えていたヘロデは疑いもなくキリストを断ち切ろうとしました。
ヘロデがそのようにしたのはカエサルへの敬意からではありません。
それは単純にユダヤの王としての自分の権威が脅かされるのを恐れたからです。
カエサルはベツレヘムの子供たちの虐殺にほとんど同情していません。
しかし、それを聞いた皇帝アウグストゥスは「ヘロデの子供になるよりはヘロデの豚になるほうがましだ」と発言したと記録されています。
引用41)
ヘロデが幼い救い主を切り殺そうとした血なまぐさい試みが、ローマの竜に象徴されています。
「彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。」
(ヨハネの黙示録12章4節)
上記の聖句が認められたとしても、竜から子供を救うために「その御座に引き上げられた」という記述に対応するようなものがどこにあるのだろうか?
「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた」
(ヨハネの黙示録12章5節)
ヨセフとマリアが幼子を連れてエジプトに逃れたことはこのような言葉では説明できません。
さらに、主イエスがベツレヘムでお生まれになった時、重要な意味においてのみ「ユダヤ人の王」として生まれたということは特筆すべきことです。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」
(マタイの福音書2章2節)
これがキリストを捜すために東から来た賢者たちの質問でした。
イエスの生涯を通じて、他の特徴をもって現れたことはありません。
イエスが死なれた時、彼の十字架には「これはユダヤ人の王である」という言葉が刻まれました。
さて、これは偶然ではありません。
パウロは次のように述べています。
「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」
(ローマ人への手紙15章8、9節)
私たちの主ご自身もスロ・フェニキヤの女に同じことをはっきりと宣言されています。
「しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。」
(マタイの福音書15章24節)
そして、ご自身の伝道活動中に弟子たちを送り出す時に、イエスは彼らに次のような命令を与えられました。
「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。」
(マタイの福音書10章5節)
キリストが墓に勝利し「死者の中から生まれ」、「力と共に神の子であると宣言された」時に初めて、キリストは「すべての国を支配するために生まれた人の子」であることが明らかにされました。
それから、イエスは立ち上がり高い所に登っている時に、弟子たちに言われました。
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイの福音書28章18~20節)
この墓からの輝かしい「誕生」と、それに先立つ教会の誕生の苦しみについて、主ご自身は裏切られる前夜、はっきりと次のように宣言しておられます。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
(ヨハネの福音書16章20~22節)
ここでは、使徒たちの悲しみ、そしてもちろん、闇の時間と闇の力の中で使徒たちに同情したすべての真実な教会の姿が、苦しみを抱える女の苦しみに喩えられています。
そして、救い主が復活後に再び彼らに会われるときの使徒たちの喜び、そして無事に男児を出産したときの母親の喜びをも現わしています。
それは疑いもなく、私たちの前にあるこの象徴を意味しています。
その象徴とは女が「人の子」を産むための苦しみです。
「人の子」はすべての国を支配する者である」と言われ、「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた」のです。
これほど明確に示すものはありません。
ローマの帝都では多くの君主と多くの神々が崇拝される中で、二つの壮大な崇拝の対象は、ヴェスタの神殿で絶えず燃え続けている「永遠の火」と「聖なるエピダウロス人の蛇」でした。
異教ローマでは、この拝火崇拝と蛇の崇拝は時には分離され、時には結合されました。
しかし、どちらもローマの尊厳において卓越した地位を占めていました。
ヴェスタの火は帝国の壮大な防衛手段の1つとみなされました。
これはトロイからアイネアスが持ってきたとされ、アイネアスはヘクトルに隠れてこれを預かっていました。
引用42)
皇帝アウグスティヌスによれば、その神殿は「ローマのあらゆる神殿の中で最も聖く、最も尊ばれていました。」
引用43)
この神殿で非常に熱心に守られています。
そして、多くのものが拠り所になっていると信じられています。
しかしその火は、太古のバビロニアの拝火崇拝たちと全く同じものだと考えられます。
それは清める者とみなされ、毎年4月の「パリーリア」、もしくは「パレス」の祭りでは、清める目的で従う者や雄牛が火の中を通らされました。
引用44)
ローマ人が火といっしょに崇拝していた「エピダウロス」の蛇は、太陽の子「アスクレピオス」の神聖な象徴とみなされました。
引用45)
「アスクレピオス」の運命は「ファエトン」の運命とまったく同じです。
「アスクレピオス」は死者を蘇らせたために雷に打たれたと言われています。
このことが物理的に起きていないのは明白であり、簡単に信じることもできません。
しかし、それを霊的な意味で見るならば、この声明は次のようになります。
すなわち、彼は罪過と罪の中で死んでいた人々を、新しい命によってよみがえらせると信じられていました。
引用46)
まさに、このことは世界を炎上させることに夢中になっていた「ファエトン」がしようとしていたことでした。
これはバビロニアのシステムにおける象徴的な死でした。 引用47)
それは、新生によって示された新しい生命を得る前に、秘儀への参加者全員が通過しなければならないものであり、死から生へと移ったことを宣言するためのものでした。
火の中を通過することは罪からの清めと新生の手段だったように、「ファエトン」が打たれたのも死者を蘇らせるためでした。
そして、「アスクレピオス」が太陽の子であったように、「ファエトン」も太陽の子でした。注)
注)神話における「アスクレピオス」の誕生は、「バッカス」の誕生と全く同じです。 「アスクレピオス」の母親は雷に焼かれ、幼子は彼女を焼き尽くす雷から救い出されました。 「バッカス」が母親を焼き尽くす炎から救い出されたのと同じです。引用48) |
彼の母親は雷に飲み込まれ、「バッカス」は母親を焼き尽くした炎から奪われた時、幼児は彼女を飲み込んだ雷から救出されました。
この関係を象徴するために、アエスクラピウス像の頭部は一般的に光で囲まれています。引用49)
このようにして教皇はキリストの偽りの像の頭を円で囲います。
しかし、これらの放射線の本当の起源は、ローマの文学や芸術に詳しい人なら誰でも知っていることです。
ラティヌスのヴァージルはこのように語っています。
「今、平和な王たちが華やかに姿を現し、四頭の馬がラティヌスの戦車を引いています。
神殿の周りには12本の黄金の光で輝き、戯れています。
その光は、昼の神からのつながりを示しています。」引用50)
アエスクラピウスの頭の周りにある「黄金の光」は、アエスクラピウスが太陽の子、あるいは受肉した太陽であることを示すためのものです。
キリストの名で呼ばれる絵や像の頭の周りにある「金色の光」は、異教徒が安心して拝めることを示すためのものです。
その像はキリストの名で呼ばれてはいますが、異教徒にとってはよく知られた神々の像なのです。
アエスクラピウスは疫病が蔓延していた時代に、エピダウロスからローマに紹介されました。
その神は大きな蛇の姿をして、ローマに運ぶために送られた船に乗せられ、安全にテヴェレ川に到着すると、ローマ人の守護神として厳粛に迎え入れられました。
引用51)
その時以来、公の場だけでなく私的にも、太陽の神の化身を象徴する蛇であるエピダウリアンのヘビ、言い換えれば「火の蛇」への崇拝がほぼ通常になったのです。
ほとんどすべての家に無害なものとして聖なる蛇が見られました。
ポンペイの著者は「これらの蛇は、家庭の祭壇に寄り付き、犬や猫のように訪問者になでられ、食べるものをねだるために出てきました。
いや、もし私たちが遮断された通路の上にテーブルを建てるなら、蛇は客の盃の周りを這っています。
そして、暑い天気の日には、女性たちは蛇を生きた襟巻として使用し、涼しさのために首に巻き付けていました。
これらの神聖な動物たちはネズミたちと戦い、一種類の害虫を駆除しました。
しかし、蛇たちは魅力的な生活をし、誰も蛇たちに乱暴を加えることはありません。
そして、急速に増え、ベナレスの猿のように、厄介者になってしまったのです。
ローマで頻繁に起こった火災だけが彼らを抑えていました。」引用52)
いくつかの木版画には、ローマの拝火崇拝と蛇崇拝が分離されて行われていると同時に、結合されて行われている様子を描写しています。
引用53)
(Fig53)
神が二重に表現されている理由は、ここでは説明できません。
しかし、すでに引用したヴァージル氏の言葉から明らかなように、頭が光線で包まれた人は、火の神、すなわち太陽神を表しているのは明らかです。
そして、特に注目に値するのは、これらの火の神が黒色であることです。注)
この黒色により、それらはエチオピア、もしくは黒い「ファエトン」とであることが認識できます。
一方、ポンペイの著者が認めているように、これら同じ黒い火の神は2匹の巨大な蛇によって表されています。
注)すべての「ファエトン」の彫像の顔は真っ黒です。引用54) |
インドでは、女神デーヴァキの腕に抱かれた幼い「クリシュナ」は、毛深い髪と黒人またはアフリカ人種の特徴を強調して表現されています。
引用55)
太陽の聖なる蛇、偉大な火の神への崇拝がローマで普遍的に行われていました。
ならば「偉大なる燃えるような蛇」以上に、異教のローマ帝国の偶像崇拝的な力をより鮮明に描写できるシンボルとはいったい何なのでしょうか?
間違いなく、帝国の旗に規定するためのものです。
拝火崇拝と蛇崇拝の偉大なシステムの教主である「ポンティフェクス・マクシムス」こそが、ローマの異教徒の皇帝の旗なのです。
この蛇は、高い棒の上に高く掲げられ、拝火崇拝のシンボルとして認識される色彩で施されました。 引用56)
参照P)ローマ帝国の竜の旗 ― 拝火崇拝の象徴を見てください。
ローマ帝国でキリスト教が広まるにつれ、光と闇の力が衝突しました。
「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」
(ヨハネの黙示録12章7、8節) 注)
注)この箇所でのヨハネの黙示録の引用はあくまでも比較、型として引用しています。 直接の成就として引用していません。 |
「偉大な火の蛇」はグラティアヌス布告書によりローマ帝国の異教が廃止されたときに追い出されました。
その時に、ヴェスタの火が消え、ヴェスタの処女の財産が没収されました。
その時、ローマ皇帝が良心の呵責を感じ、自分の職を廃止しました。
その者は一世紀半以上もキリスト教の告白者であり、ローマの偶像崇拝の指導者であった「ポンティフェクス・マクシムス」です。
彼はしばしば異教の偶像崇拝の記章を身につけていました。引用57)
Fig54)
「ニムロデ」は文字通り剣で殺され、セムは聖霊の剣によって拝火崇拝のシステムを打ち負かし、一時的ですが完全に消滅させ、人々の心を屈服させました。
同じ様に、ローマ帝国の火の竜も剣、つまり神の言葉である聖霊の剣によって致命傷を負ったのです。
ここでは、原型と型の間には正確な類似点があります。
しかし、これは単なる例えではありません。
歴史の記録を徹底的に調べてみると、ローマの異教徒の偶像崇拝の指導者が、「ポンティフェクス・マクシムス」の職が廃止されたときに、剣で殺されたことが知られています。
つまり、ローマの最後のポンティフェックス・マクシムスは「ニムロデ」と当時の偶像崇拝制度の正統な、唯一の代表者だったのです。
これを明確にするには、ローマの歴史を、手短に目を通す必要があります。
全地で行われたように、ローマも先史時代のごく初期にバビロンの「黄金の杯」を飲んでいました。
しかし、他のどの国よりもバビロンの偶像崇拝と関係が強く、特異な、唯一の立場に置いていました。
ロムルスの時代よりずっと昔に、バビロニアの代表的な救世主として呼ばれていた者は、自分の神殿で自分を神として定めていました。
レムスとその兄弟が建設することになっていた都市の城壁になっていました。
そして、王としての宮殿は、その城壁の中に含まれ、まさにその高台の一つにありました。
後の時代に、ローマの偉大な礼拝の場所として有名なカピトリウムの丘に、サトゥルニア(偉大なカルデアの神サトゥルヌスの都市)が、古代のはるか遠い時代に建てられました。
引用58)
その時、何らかの革命が起こりました。
そして、バビロンの彫像は廃止されました。
また、あらゆる偶像を設置することは厳しく禁じられました。注)
注)プルタルコスによれば、「ヌマ」は像を作ることを禁じ、ローマ建国後170年間、ローマの神殿に像を飾ることは許されませんでした。 引用59) |
そして、世界的に有名になったローマの双子の創設者が城壁を築いた時から、前任者のバビロニアの都市と宮殿は長い間、廃墟と化しました。
この神聖な都市の荒廃した状態は「エヴァンダー」の遠い時代であっても、「ヴァージル」氏によって暗示されました。
「アエネアス」が古代イタリアの王を訪問したと言われている時について、彼はこのように語っています。
「その時、二つの遺跡の山が見えました。
かつては、川の両岸に2つの荘厳な町がありました。
「サトゥルニア」と「ジャニキュラ」の遺跡です。
そしてどちらの場所にも創設者の名前が残っています。」
引用60)
しかしながら、カルデアのシステムに与えられた致命傷は、回復する運命でした。
カルデアの偶像崇拝に熱心だったエトルリア人の植民地では、小アジアから、もしくはギリシャから移住してきた者もいました。
その植民地はローマのすぐ隣にあります。
しかし、彼らは最終的にローマ国家に組み込まれました。引用72) 注)
注) W・ベサム公は「ケルト エトルリア、1巻、47ページ(Etruria Celtica, vol.i. p.47)」の中で「エトルリア人のリディア起源説」に反論に反論しています。 しかし、レイヤードは自身の「ニネヴェとバビロン、24章、563ページ(Nineveh and Babylon, chap.xxiv. p.563)」の中で東洋の起源、もしくは少なくとも東洋と密接な関係があることを支持し、この疑問を解決しています。 |
しかし、この政治的な統合が行われるずっと昔から、カルデアのシステムはローマ人の宗教に最も強力な影響力を行使していました。
最初から、彼らの占い、占い、すべての科学の技術は、本物であろうと見せかけであろうと、予言者や占い師が支配していたことを、ローマ人は敬意を持って彼らを尊敬しました。
ローマ人が従事するあらゆる公的取引において、重要な立場を占めていた占いの知識は、主にトスカーナ人から得たことは誰もが認めるところです。
引用61)
すなわち、エトルリアの人々、初期の時代にはエトルリアの原住民以外は、本質的にささげ物を伴うすべての儀式に敬意を払うハルスペックスの働きを行うことを許されませんでした。
ローマとエトルリア人との間で戦争と紛争が起きました。
それでも、ローマの高貴な若者のうちの高位の者たちがエトルリアに送られ、そこで盛んになっていた宗教科学が教えられていました。
引用62)
その結果、古代の偶像崇拝にしがみついている人たちによって考えが形作られた人たちの影響の下で、ローマ人がかつて否定して追い出した偶像崇拝の多くに再び引き戻されたのです。
ゆえに、「ヌマ」は自分の宗教システムを確立する時に、その時代の主流の感覚を尊重し偶像崇拝を禁じました。
しかし、ローマとエトルリアの間では宗教に関する同盟を結んでいたので、事態はその禁令の究極的な崩壊に向けて動き出しました。
「ヌマ」が基礎を築いた教皇制度大学があります。引用63)
やがて、実質的なエトルリアの大学となり、その大学を統括する教皇が現れました。
ローマ人の公的・私的な宗教儀礼のすべてを本質的に支配していたエトルリアの教皇は、霊的にも実践的にもエトルリアの教皇となったのです。
エトルリアの偶像崇拝がローマの体制に吸収された後も、ローマの主権者である教皇は、バビロニアに由来した壮大なシステムから派生したものにすぎません。
彼はバビロニアの神の熱心な崇拝者だったのです。
しかし、彼はその神の正しい代表者ではありません。
真実な正統なバビロニア教皇はローマ帝国の枠を超えてその座を持ちました。
ベルシャツァルの死後、カルデヤの祭司職がメド·ペルシャの王たちによってバビロンから追放された後も、その座はペルガモにあります。
後に、そこはアジアの七つの教会の一つとなりました。注)
その結果、そこでは何世紀にもわたって「サタンの座」が存在しました。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」
(ヨハネの黙示録2章13節)
注)バーカー氏とエインズワース氏著、「キリキアのラレスとペナテス」、8巻、232ページ(Barker and Ainsworth, Lares and Penates of Cilicia, chap.viii. p.232)において、バーカー氏はこのように述べています。 「敗れたカルデア人は小アジアに逃れ、ペルガモに中心的な大学を設立しました。」 「ミュシア」もまた別の一人であり、ミュシア人はパッシカルの年代記で「ニムロデ」の子孫であると言われています。 その言葉とは「猟師で巨人である「ネブロド(Nebrod)」はミュシア人から来た」というものです。 引用64) リヴィ氏とヘロドトス氏が、エトルリア人が来たと言っているリディアも同じ王国の一部を形成していました。 ミュシア、リディア、フリュギアがペルガモ王国の一部だったからです。 引用65) |
そこでは、神格化されたペルガモの王たちが存在していました。注)
注)ペルガモの王たちは、カルデアの「マギ(魔術師)」たちが保護されていた場所で、彼らと彼らに同調する異教の声によって、ベルシャザルとその前任者たちが占めていた空席の座に座ったのです。 彼らは太古のバビロニアの神の代表として讃えられました。 これはパウサニアス氏の記述からも明らかです。 最初に「フェーニス(Phaennis)」と呼ばれる予言者の言葉から、ガリア人について次のような言葉を引用しています。 「神性は海の近くに住む者をより深刻に苦しめます。 その後しばらくして、ジュピターが彼らに守護者を送ります。 ジュピターは、ジョブに養われた雄牛の最愛の息子で、すべてのガリア人に破滅をもたらします。」引用66) その上で、次のように解説しています。 「この予言の言葉では「ファエニス」とは牡牛の息子です。 アポロの予言の言葉では「タウロケロン」と呼ばれ、ペルガモ王「アッタロス」もしくは「牛の角」のことを指しています。 「デルファイ」の神によって与えられたこの称号は、「マギ」たちが「デルファイ」の支配地に座していた「アッタロス」のことです。 彼は「マギ」たちの教主であるバッコスの特徴を引き継ぐ者として任命され、認められていたことを証明しています。 こうして、ベルシャツァルの空席は埋められ、途切れていたカルデヤ人の継承の鎖は新しくなりました。 |
ペルガモの王は好きな住居では、蛇の姿をしたアスクレピオスの崇拝が行われ、狂乱的な歓楽と過剰な行為で祝われていました。
他の場所ではある程度の自制の下に置かれていたようです。
最初は、ローマ教皇はペルガモや支配層と直接のつながりを持っていませんでした。
しかし、時間が経つにつれて、ローマ教皇制度とペルガモ教皇制度が同じものとして見られるようになりました。
ペルガモ自体は、紀元前133年に最後の王であるアッタロス3世が死去し、遺言によりすべての統治権はローマ市民に渡され、ローマ帝国の一部となりました。
引用67)
ペルガモ王国がローマの領土に併合されてからしばらくの間はペルガモス王の古い称号に対してかつての特有な威厳を、公然と、また忠告をもって主張できる者は誰もいませんでした。
ローマ教皇の本来の権限も、その頃には一時的な橋渡しのようになっていました。
しかし、先に教皇マクシムスに選ばれていたジュリアス・シーザーが、皇帝としてローマ人の最高統治者となりました。
引用68)
真実で正統なバビロニアの教皇の権限と機能はすべて、教皇に帰属し、教皇はこれらの権限を主張する立場になりました。
それから、シーザーはアッタロスの神聖な尊厳と、アッタロスがローマ人に遺贈した王国を、シーザー自身を軸にして宣言したように見えます。
なぜなら、彼の有名な合言葉「ヴィーナス・ジェネトリクス(Venus Genetrix)」は、ヴィーナスがユリウス民族の母であることを意味していたからです。
「雄牛の角」がアッタルスであったように、彼を偉大な女神の「息子」とする意図があるようです。注)
注)ディヴス・ユリウスの時代から続いた皇帝の神格化、すなわち「神格化されたユリウス」ことは、教皇としても君主としても「牛の角」のアッタロスを象徴していたことほどの理由にたどり着いてはいません。 |
それから、教皇としての地位を保つために、ベルシャツァルしたように、バビロンの華麗な衣装を身にまとい、紫の衣をまとって現れました。注)
注)ベルシャツァルの時代の「紫の衣」についてはダニエル書5章7、29節を参照にしてください。 |
「そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。」
(ダニエル書5章29節)
その手には「ニムロデ」のかぎ棒(crosier)があり、「ダゴン」の祭壇を身に着け、「ヤヌス」と「キュベレ」の鍵を持っていました。注)
注)鍵が秘儀の中で使われた象徴の一つであることは、読者はテイラーの「プルートへのオルフェウスの秘儀の賛歌の参照」を調べればわかることです。 そこでは、その神は「鍵の番人」として語られています。 「司教(Pontifex)」は「秘儀の祭司(Hierophant)」として、「世界の偉大な創造主の象徴」を身にまとい、飾られていました。引用69) |
太古の、もしくは創造の神は秘儀的に「アンドロギュヌス」として表現され、「ヤヌス」と「キュベレ」という二つの性質を同時に持つ存在でした。
引用70)
この隠された神性の秘儀を開くにあたって、「司教(Pontifex)」がこれら2つの神性の鍵を持つことは自然なことでした。
このように、「ヤヌス」は、「プルート」と同様、しばしば複数の鍵で表現されています。
上記のモーリスの版は、1793、1794年のロンドンにて述べられています。
すでに述べてきたように、いわゆるキリスト教の皇帝と呼ばれる者のもとにおいて、このような事態が続きました。
教皇は、良心の救いとして、偶像崇拝的な教皇職の職務をより直接的に実行させるための代理者として、異教徒を任命しました。
この代理者は教皇の名と権威によって行動をします。
しかし、ギボン氏が示したように、グラティアヌスの治世までの時代に、偶像崇拝的な教皇的な衣装、教皇としての行為が最初に拒まれました。注)
注)この記述について、ゾシムスの原典においてすでに述べられています。 読者はギボンの記述においても同じ事実を見出すことができます。 引用71) |
さて、これらすべてのことから、ローマ帝国における異教が廃止された時、教皇マクシムスの職が弾圧されました。
異教の高官全員が影響力と権力の座から引きずり落とされたことは明らかです。
しかし、彼らは多少なりとも残ることも許されました。
つまり、単純にローマの火の竜を廃止されることはないということです。
しかし、バビロンの火の竜は打ち倒されたのです。
しかし、その時に象徴的な意味で、「ニムロデ」の真実で唯一の正当な後継者に再び制定されたのです。
その者は自分の身に何が起こった事を知り、自分の破滅の大きさに驚きの声を上げました。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。」
(イザヤ書14章12節)
次は第七章 歴史的、預言的に考えられる2つの展開、第二部 海からの獣です。
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