黙示録の預言   患難時代になにが起きるか?
黙示録6章〜22章
INDEX

黙示禄の解釈方法について

多くの人たちが黙示録に書かれている内容について、多くの推測をします。
ある人たちは「チェルノブイリ」の意味が「苦よもぎ」だということで、黙示録の8章にある「第三のラッパ」の時に川々に落ちた星(苦よもぎと呼ばれる。)が放射能汚染だとする解釈があります。
また、終末には核爆弾が使用されると黙示録に書いてあるとする人たちがいます。
それらは推測や想像でしかなく、神の言葉の解釈ではありません。
しかしながら、人間の理解には限界があり、すべてを否定するわけにはいきません。
原則は下記の御言葉の通りです。

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
新改訳聖書 ペテロ第二の手紙 1章20節

もし、具体的に黙示録の書かれた内容を理解(解釈)したいのであれば、旧約聖書の具体例があります。
「十戒」の映画でも有名な旧約聖書、出エジプト記で神がモーセを通してエジプト(パロ)に下される神の裁きについて語りました。

主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、
ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」
主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

新改訳聖書 出エジプト記 7章17〜21節

ここで学ぶべき点は神の言われた通りにエジプトの地に裁きが行われたということです。
この後もモーセは「かえる」「ぶよ」「あぶ」「家畜の疫病」「腫物」「いなご」「暗闇」「過越し(長子の死)」と神の裁きを警告し、それを実行しています。
たとえも、解釈もありません。そのままです。

同じことが旧約聖書の預言書でも言えます。
確かにわからないことが黙示録の中にあります。
しかし無理な解釈をして想像をすることはけして利益にはなりません。
神が解きあかしていないものをこじ開けることは出来ません。
ただ、成就することを学ぶべきです。
そして、まだ、起きていないことを使徒ヨハネを通して示されました。
私たちの霊(知識)によって、このことを深く理解しようとしているのです。
分からないものは分からないを前提に、より深い理解を追求していきます。


患難時代の期間

この患難時代の期間の長さは三年半です。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

新改訳聖書 ダニエル書 7章25節

すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」

新改訳聖書 ダニエル書 12章7節

聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章2節

この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 13章5節

女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章6節

ダニエル書の70週の預言の中で最後の苦難の時は七年と決まっています。
荒らす忌むべき者が一週(7年間)の契約を結ぶが、その半週で契約が破棄されユダヤの儀式をやめさせます。
 この半週がユダヤの暦(一年は360日)で三年半となります。
三年半=四十二カ月=1260日

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
新改訳聖書 ダニエル書 9章27節

この一週を私たちは患難時代と呼んでいます。
また、患難の激しい後半の半週を大患難時代と呼んでいます。

大患難時代のユダヤ人たちに神は次のように呼びかけています。

 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

新改訳聖書 ダニエル書 12章11〜13節

この大患難時代を乗り越えてから45日目(大患難時代の千三百三十五日目)に達するものは休みに入る(千年王国)に入ることを約束されています。

竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
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女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章4〜6節

しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章14節

竜とはサタンのことです。
女とは、ここではイスラエルのことです。
後に宗教的な反キリストが女と表現されていますので、混合しないように注意すべきです。
子とは、イスラエルの王としてのイエスキリストです。
「その御座に引き上げられた。」とは、キリストの昇天です。
そして「女は荒野に逃げた」と述べられていますが、この間に教会時代が入ります。
イスラエルは神によって荒野にて千二百六十日間守られます。

上記のことから、患難時代七年であり、後半の大患難時代三年半であることがわかります。


封印、ラッパ、鉢のさばき   

黙示録の中で6章から18章まで多くのページをさいて描写されているのが「七つの封印の裁き」「七つのラッパの裁き」「七つの鉢の裁き」のことである。
それは下の表のような順番で行われます。

注意点 「第七のラッパ」の裁きの中に「鉢の裁き」が含まれ、「第七の封印」の裁きの中に「ラッパの裁き」が含まれています。


INDEX
最初の封印 悪魔的な世界政府ができる
第二の封印 戦争が各地に起こる
第三の封印 地球の各地で飢饉が起こる。
第四の封印 地球人口の四分の一が死ぬ。
第五の封印 宗教的な大迫害が起こる。
第六の封印 大地震が起こり、太陽が暗くなり、月が血のように変わる。
第七の封印 ラッパの裁き。
14万4千人のイスラエル
  第一のラッパ 地球の三分の一が火で焼かれる。
  第二のラッパ 海の三分の一が血のように赤くなる
  第三のラッパ 地上の川や湖の汚染によって大勢の人間が死ぬ。
  第四のラッパ 太陽の光が現在の三分の二になる。
  第五のラッパ イナゴのような昆虫が世界中を襲う。
  第六のラッパ アジアから二億の軍隊が中東に進軍し、その時に生存している地球人口の三分の一が殺傷される
  第七のラッパ 鉢の裁き
  口には甘く、腹には苦い巻き物 
  聖所と礼拝者を測る
  二人の預言者
  イスラエルの回復
  イエスキリストの誕生とイスラエルの保護 
  ミカエルと悪魔の戦い
  イスラエルの保護
  
  もう一匹の獣
  天での賛美
  混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒
  地上再臨時の諸国への裁き
    第一の鉢 反キリストに従うものにひどい悪性のはれ物がまん延する。
    第二の鉢 海の中の生き物が全部死に絶える
    第三の鉢 川と水の源が血になる
    第四の鉢 地上は集熱地獄となり、太陽の熱によって多くの者が死ぬ。
    第五の鉢 世界支配者の凶暴な支配によって多くの者が殺される。
    第六の鉢 世界の国々がイスラエル北方のメギドの平野(ハルマゲドン)に軍隊を派遣する。
    第七の鉢 人類最後の戦争が始まり、地球は文字どおりに震え、世界の都市は破壊される。
    御使いによる「獣」の注解
    宗教的な女のさばき
    バビロン(政治的反キリスト)の崩壊
    小羊の婚宴
    キリストの地上再臨
    ユダヤ人の観点から見た、患難時代、キリストの地上再臨
    千年王国への導入、サタンの1000年間捕獲
    千年王国
    解放されたサタン
    白い御座のさばき
    新しい天と地


「七つの封印の裁き」

この巻物には「七つの封印」がありました。

巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 5章4〜5節

「ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得た。」と言っています。これは明らかに十字架によって悪魔より勝利したイエスキリストのことです。
父なる神さまの権限により、十字架の贖いを基としてイエスキリストがこの地上を裁くのです。

最初の封印

また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 6章1〜2節

最初に白い馬に乗り、弓を手にしている軍事的、政治的ヒーローです。
確かに象徴的な表現を黙示録の著者ヨハネは見ています。
白い馬とは、人の目には汚れが無く、戦争の雄姿、手には武器を持っています。
その者は勝利者として冠を持ち、「勝利の上にさらに勝利を得よう」としています。
多くの人は彼こそが聖書にある「メシア」、「キリスト」だと考えるかも知れません。
ここで注目する言葉は「得よう」です。
その者は「勝利の上にさらに勝利」をたくらんでいますが、あらゆる邪魔が入り、実現しません。
そうです。
反キリストが権力を握ります。
黙示録後半でキリストの婚宴の後で次のように書かれています。

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章11〜13節

黙示録19章に描かれている方は「神の言葉」です。
その者はイエスキリストです。
しかし、6章に書かれている「白い馬の乗り主」はイエスキリストではありません。
地上で勝利をおさめ続け、最後に滅ぼされる「反キリスト」です。
なぜなら、彼が勝利をおさめたとたん、世界は恐怖に包まれるのです。
彼はキリストの来臨を真似ています。地上の人たちを自分がメシアだとだまします。(良く見るように)
白は勝利を示し、弓は武器、冠は権力です。
彼はあらゆる問題を解決し平和と権力もって支配に乗り出すでしょう。
突然、彼は世界の政治的ヒーローとして出てきます。
多くの聖書研究者は「この人物が出てくる時間」の問題を語ります。
先に書いたように、反キリストはこの患難時代の最初に突然現われ、すべての問題を解決してイスラエルと7年の期限付き契約を結びます。
反キリストはイスラエルにある戦争などの問題を一挙に解決します。
この反キリストはイスラエルの人たちから大いに信頼されます。
著者は、この時の条約にイスラエルの武力解除、もしくはそれに近いものが含まれていると考えています。
それほど、彼は魅力的に見え、信頼されるのです。
しかし、イスラエルの真の信仰者はそのように見ていません。

「あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。」
新改訳聖書 イザヤ書28章15節

新約聖書にもこのように書かれています。

「不法の秘密はすでに働いています。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二 2章7節

3年半の間、彼は世界中の問題を解決しつづけます。
ここでは、彼はメシアのようです。

でも、ここですぐに化けの皮がはがされヒトラー以上の独裁者として現われます。

第二の封印

小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 6章3〜4節

ここに赤い馬とそれに乗る者が現れます。
黙示録の中では「赤い」という言葉がたびたび現れ、強調されています。
ある人はこの「赤」が共産主義だと主張する人もいます。
福音主義、もしくは聖書を文字通り読もうとする者たちでさえ、意見をいうことをためらっています。
断定することを恐れています。
しかし、断定する必要はありません。
個人的に黙示録の解釈には100点満点で点数をつけるようにしています。
この赤が共産主義を現している可能性はゼロではないと考えています。
逆に共産主義ではないと断言してしまうことに問題があります。
その時が来れば、この「赤」が何であるか、明白になります。
確かに、聖書の中ではサタンは「赤」を好んでいます。
もし、共産主義だとすれば、彼らは「地上から平和を奪い取り」、互いに殺し合う(おそらく共産主義国同士)戦争します。

もし、共産主義ではないとすると、最初の白い馬に乗った政治的ヒーローが別の馬に乗り換えたという解釈も成り立ちます。
ならば、この政治的ヒーローが共産主義を主張して出てくるとも読めます。
彼は「勝利の上にさらに勝利」をたくらむのですが、予想通りにならずに暴走状態になり、独裁者になろうとするのです。
そして、地上から平和を奪い取られ、戦争下でない者も互いに殺し合うようになるのです。

その者が誰であったとしても、彼には大きな剣(武器)が与えられています。
それは核かも知れません。
何事を否定せずに、可能性を追求して行くとより見えるようになります。
確かに黙示録の解釈には文字通りの解釈が必要であり、その時になれば文字通りに解釈されたと理解できるはずです。
しかし、まだ、起きていない段階では、想像もつかずに、断言は到底できません。
それでも、この黙示録の記事はまだ起きていない事柄さえも、信者にとって、黙示録の出来事が近いということを期待させます。
そして、同時にこのタイミングで、自然界もより劣化し、暴走をし始めます。

第三の封印 

小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 6章5〜6節

地球の各地で飢饉が起こります。
黒い馬は飢饉を表すと言われています。
一デナリは一日の当時の賃金であり、一枡は1リットルです。
つまり、小麦粉1リットルはおそらく現在では200円以下で買えます。
当時、一デナリで15〜20枡の小麦が買えたそうです。
つまり、一挙に食糧の値段が二十倍になるということです。
また当時の高価品だった、オリーブ油とぶどう酒(医薬品とも言える)には害を与えるなと述べられています。
高価品を手に入れる裕福な階級と飢えで苦しむ階級がはっきりと分かれ、異常な経済的な状態に陥ります。
まさに「貧富の格差」です。

第四の封印

小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 6章7〜8節

地球人口の四分の一が死にます。
青ざめた馬とは病と死を表すと言われています。
現在の人口が80億人として四分の一が戦争とききんと死病と地上の獣によって殺す権威によって死にます。単に戦争とききんと死病だけではありません。
注意点は「戦争、獣によって殺す権威」と「ききんと死病」、つまり「権力によるもの要因」と「死病とききんという結果」があることです。
戦争の兵器として、ウイルス兵器が作られています。
一度に大勢の人を爆薬や銃をつかわずに抹消するものです。
また、食料は第三の封印のとき高価なものになってしまいました。
なおさら、この時代にあって権力は食料を使って人間の支配をするでしょう。
反キリスト(地上の獣)に従わないものもここで殺されます。

第五の封印 

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 6章9〜10節

次に宗教的な大迫害が起こります。
この場面は地上ではなく天です。
第四の封印の時、患難時代に殺された殉教者たちだと思われます。
彼らは殺されたのです、携挙によって上げられたのではありません。

このあとの黙示録の聖徒と比較してください。

「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 7章14節)

この殺された人々のたましいは、小羊の血を基にしていません。
反キリストを拒んだ「ユダヤ人」だと思われます。
彼らは患難時代の終わりに十字架についたキリストを受け入れます。
彼らはメシア(キリスト)を拒み、まだこれから来るメシアを期待しているのです。
彼らには白い衣(聖い、勝利)が与えられます。
また、「殺されるはずの人々の数が満ちるまで」と書いてありますのでより多くの殉教者が起きるです。


第六の封印

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 6章12〜17節

大地震が起こり、太陽が暗くなり、月が血のように変わります。
文字通り、大きな地震、太陽が暗くなり、月が血のように変わるでしょう。
解釈はいりません。
「天の星が地上に落ちた」書いてあります。
懐疑論者はこれをつつきます。
宇宙にある星が地上に落ちるわけがないと言います。
実際、どのようなことを表すのか私にもわかりませんが、神はこれを行うのです。

最近、ある動画を見ました。
もちろん、私は物理学の専門家でもありませんし、宇宙論に詳しい者でもありません。
そして、この情報が正しいものか?間違っているのかもわかりません。
宇宙のある方向に3つの恒星が重なるように存在が確認できていたとのことです。
ところがある日、50分ほどでこの三つの恒星が消えてしまったとのことです。
恒星とは言わば太陽です。
太陽からみれば、人間はチリにもならないほど小さな存在です。
そして、地球から見れば、これらの星は近く見えるのですが実は距離的に何光年も離れており、近くにある存在ではなかったのです。
その星が50分ほどで痕跡が消えてしまったのです。

星が生まれたり、消えたりする現象はブラックホール、超新星などで説明してきましたが、何光年も離れた地球から見てほぼ同じ方向の星がわずかな時間に消え去るとは物理的に不可能です。
そのことはシロートの私にでも理解できます。
ブラックホールでもありえません。
専門家たちはこれを宇宙での未知、理解できない現象として処理していますが、物理的にありえないのです。
現在の物理学をひっくり返してもありえないのです。
この宇宙のことを人間が理解できない別の存在である可能性があります。
「天の星が地上に落ちた」という現象が起きた時、人類は物理的に理解できないことが起きたと処理するのでしょうか?
彼らはそれでも神を信じません。

そして、地上のあらゆる人たちがこれは聖書にある神からの怒りであることを理解してます。
それでも悔い改めようとせず、山や岩に救いを求める愚かな人間の姿があります。
山や岩に人間を救う力があるでしょうか。
彼らは天地を造った神に助けを求めるべきなのです。
「だれがそれに耐えられよう。」と哀れに叫んでいるのです。
でも、患難時代のわざわいはこれからです。

もしこのページが患難の時代に残るのであれば、キリストにある救いを受け入れてください。
この世の権力者や宗教(物を言わない偶像)に救いを求めても、岩や石に救いを求めても助けてはくれません。
この時代にあって主にあって死ぬものは幸いです。

生き残る可能性が少ないのですが、患難時代を生き残るという方法で救われることもできます。
ユダヤ人に恵みを施すのです。
そして、生き残るのであれば、彼は千年王国に入ることができます。
ユダヤ人に水一杯でもいいので差し入れてください。

わたし(メシアとしてのキリスト)の弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報い(千年王国の祝福)からもれることはない」。

新改訳聖書 マタイによる福音書 10章42節

第七の封印

小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 8章1〜2節 

ラッパの裁き。
第七の封印は7つのラッパのさばきです。


十四万四千人のイスラエル

この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 7章1〜9節

患難時代においても神の救いの御業は行われます。
この記事は第六の封印と第七の封印との間に起きます。
第六の封印にて世界の人口の四分の一が死に絶えた後、絶望的な人類に神の哀れみが示されます。
ここに出てくる、十四万四千人は文字通りユダヤ人です。
まず神はこの十四万四千人に神の印を額に押します。
神は四人の御使いにこのことが終わるまで、風(神の怒り)が吹かないように命じております。
それはこの時代にある神のあわれみです。
それから彼らは神の印を額に押されて世界中に神の言葉を宣べ伝えるのです。
彼らを旧約聖書の記者は次のように記しています。

ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。こうして人々のざわめきが起ころう。
新改訳聖書 ミカ書 2章12節

「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
新改訳聖書 ミカ書 3章17節

彼らはヤコブの残りの民と言われ彼らは神に喜ばれます。

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 7章9〜17節

イスラエルの十四万四千人が選ばれました。
次の場面ではあらゆる国民、部族、民族、国語の聖徒たちが御座と小羊の前で礼拝をしています。
彼らはどこからきたのでしょう。主は「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」と言いました。
彼らはイスラエルの十四万四千人の伝道者によって救われた世界中の人たちです。
小羊の血にて洗われています。
彼らはイエスキリストの血の贖いを持っているのです。
彼らは「飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはない」と言われていますので、彼らは「飢えて、乾いて、炎熱の中にいた」のです。
「彼らにはもう悲しみはなく、イエスキリスト彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」


ラッパのさばき

小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 8章1〜6節

第七の封印を解くと祈りのときが与えられ、天において六カ月間の静けさがあります。
御使いにはたくさんの香(祈りをあらわす)が与えられます。
御使いと聖徒たちは神の御前に立ち上がる香にて祈りをささげています。(この香は神の前に立ち上っていた。)
そして、御使いは祈り(香炉)に祭壇の火(神の怒りを示す。)とで満たし地に投げつけます。
雷鳴と声といなずまと地震(神の怒り)が起こります。
静けさが終わり、神の怒り(七つのラッパのさばき)の嵐が地上に吹き荒れるのです。
一のラッパ 

第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 8章7節

核爆弾が使用されたという説があります。
たしかにヨハネの時代には核爆弾などなありません。
もしヨハネが核爆弾を見たのであればこのような表現をするかもしれません。
確かに個人的な理解力の不測の可能性もあります。
しかし、これでは神のことばの解釈としては不適格です。
なぜなら、聖書は2000年間多くのクリスチャンに読まれ霊的な糧になってきました。
そこには核爆弾の知識などありません。

ここでは地球の三分の一が火で焼かれる。
「血の混じった雹と火が現れ、地上の三分の一そして、青草が全部焼けた。」と記されています。
核戦争後の様子とは思えません。
これも文字通りにとるべきです。

第二のラッパ 

第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 8章8〜9節

ヨハネの目には何が写っていたのでしょうか。
このような説がある。
「火の燃えている大きな山」とは政治、経済、思想であり。海とは大群衆(または異邦人)に投げ込まれた。」
しかし、これでは海(大群集)が争って、たくさんの死亡者をだすかもしれないが、「海の中にいた、いのちあるもの」の意味がなりたたなくなります。
これも、文字通りに解釈をするべきです。
としても、神の激しい怒りは海の中の生物が死に、海の船の三分の一が壊された。

第三のラッパ 

第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 8章10〜11節

星が空から降っています。
映画の中には空からすい星が落ちてくるという映画がいくつかあります。
どれもが地上に悲惨な結果を及ぼすものです。
そのような光景かもしれません。
「たいまつのように燃えている」とは神の怒りを表しています。
苦よもぎ自身には毒性がないと聞きます。
ということは、乾いて人が死ぬぐらい水が苦いということです。
ここで多くの人という数が死んだとされています。
また解るとおり食料もないでしょう。
もし、あったとしても後には「666」の刻印のないものは食料の供給はされなくなります。

先に書いたように、ある人たちは「チェルノブイリ」の意味が「苦よもぎ」だということです。
確かに、原子力発電所のメルトダウンの代名詞は「チェルノブイリ」、もしくは「福島」になっています。
この川々に落ちた星(苦よもぎと呼ばれる。)が放射能汚染だとする解釈があります。
また、終末には核爆弾が使用されると黙示録に書いてあるとする人たちがいます。
黙示録の時代、このような状況になることは否定しませんが、推測や想像でしかなく、神の言葉の解釈ではありません。

第四のラッパ 

第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 8章12〜13節

太陽の光が現在の三分の二になる。

わしが「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。」と言っています。
つまりこれだけの犠牲者がありながら、わざわいではなかったのです。
残りの御使いがわざわいのためのラッパを吹き鳴らそうとしています。

第五のラッパ

第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。
そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。
また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 9章1〜12節

ヘブル語で「アバドン」、ギリシヤ語で「アポリュオン」どちらも破壊という意味です。
底知れぬところとは聖書のペテロの手紙第二ではまさに地獄のことを指しています。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
(ペテロの手紙第二2章4節)


この底知れぬところに天から星がおち、煙の中からイナゴのような生物が現れ世界中を襲います。
この個所はいろいろ想像されて説明されますが、これらは文字通り解釈すべきです。
この生物は神の印のない人間だけを襲い、殺すこともせず、ただ苦痛だけを与える神の裁きです。
5ヶ月間というのはイナゴの活動期間と言われています。
神を拒む人たちは「明らかに神の印の押された者には害が与えられていないのを知っていながら神に逆らうでしょう。
苦しくて、死を求めても死を与えられないのを味わいながらも神に逆らうでしょう。
モーセの警告を無視したエジプトのパロのようです。


第六のラッパ

第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 9章13〜21節

この個所については、正統派の中でも様々な意見があります。
先にも書いたように、これは未来に起きることです。
このことが成就した時に、すべてがこの聖句通りでしたと、私たちは言うことができるはずです。
しかし、今では、このテキストから読み取れるものと、読み取れないものがあります。
つまり、わかることはわかりますが、わからないものはわからないのです。
しかしながら、神のことばです。
「四人の御使いを解き放せ(自由にされ)、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使い人類の三分の一を殺すために解き放されます。
気になる言葉が「日、月、年のために用意されていた四人の御使い」という言葉です。
単純に「時が満ちた(成就した)」ということができますが、あきらかに「四人の御使い」と「日、月、年」の数字的な関係を示しています。
聖書にある月日などと関係を示しているようにも考えますが、断言することができません。

ここでは二つの解釈を述べます。
一つは正統的な解釈、もう一つは極端な解釈です。
繰り返しますが、個人的には極端な解釈をも否定しません。
否定できるものは否定しますが、受け入れられる可能性のあるものは拒否しません。

まずは「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ」となっています。
この御使いはサタンに従う御使いです。
つまり、悪霊です。
この悪霊が大川ユーフラテスの周り、付近で働くことを示しています。
世界地図を見るとユーフラテス川はティグリス川と並列に流れており、トルコ、シリア、イラク(バビロン)を流れ、イランをかすめ、ペルシャ湾に注がれます。
現在、アラブ・イスラム諸国の中で現在イスラエルと外交関係を有しているのは、エジプト、ヨルダンの2か国のみです。
特に2023年10月にイスラエル軍は、シリアで活動していたイランの革命防衛隊の幹部を殺害しており、現在は2024年9月段階でいつ中東戦争が起きてもおかしくない状態です。
そのイスラム国家の中心から、四人の御使いから、突然、人類の三分の一を殺すために騎兵が解放されるのです。
さて、この騎兵はどこから現れたのでしょうか?
先のイナゴと同様に地獄から解き放されたんのです。
つまり、地獄には奇妙なイナゴと奇妙な馬と騎兵がいることになります。

しかしながら、この2億の騎兵についての記録はここでなくなっています。
もし、地獄から人類を殺傷するために地上に上って来たのであればこの後にも記録が残るはずです。

あまりに見えなさすぎですが、そのまま起きると信じるべきです。
患難時代ではこのようなありえないことが起こるのです。
そして、人類はそれでも神を信じないのです。
これが肯定的な解釈です。

個人的には黙示録をできるだけ空想的、極端な解釈を避けて理解しようと努力しましたが限界があります。
理解できないし、頭にも想像できない、絵にもならない状況が続きました。
これを目にした時、私たちはこれが文字通りに起きたと理解できるはずです。
ヨハネはここで「私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった」と述べています。
ヨハネが幻の中で「実物」を見た可能性のあります。
しかし、ダニエル書にあるネブカデネザル王の見た夢にある巨大な像のように「釈義的」に現わされた可能性もゼロではないということです。

ここで極端な解釈を紹介します。
積極的に紹介しませんが、否定はしません。
先ほどの解釈通りに物事が進むことを前提としますが、人間の理解には限界があります。
現時点では理解できないことがその時代、その時になり、理解できるかも知れません。
時が進み、何かしらヒントになればと紹介します。

先の解釈で疑問になるのは、なぜ、イスラム教国のど真ん中、戦争に向かうその中でこの騎兵たちが現れるのかということです。
もちろん、サタンに従う御使いによるのですが、人間的に見て、これらの騎兵は意図的に発生させられた可能性です。

「騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 9章17〜19節)


ある者はこれをヨハネが自動車を見た表現だと言う人もいます。
また、ある者はこの姿を見て戦車とか軍服を想像されるかもしれません。
現在の人口分布からすると明らかに2億の兵隊を出せる国はインド、中国にあたると考えられるかも知れません。
彼らは地上部隊です。
これも完全否定はしません。
また、個人的に何かのDNA改変による生物兵器のような気がしないでもありません。
それも「その頭で害を加えるのである」とあり、人間を殺戮するために造られたようにも見えます。
サタンが地獄でDNAを改変して作り上げた生物のように見えます。
神が天地創造の時、このような生物を創造したとは思えません。
たとえ、この地上が堕落した結果だとしても、ノアの時代の前にいた生物と創造するのは難しいのです。
つまり、イスラム教国に開発された生物兵器の可能性です。
それも、研究所などで漏洩し、世界中にばら撒かれるのです。
これ以上語れば、空想的な話になります。
結論はその時が来れば、これが文字通りに起きたと理解できるということです。
完全否定するものは否定し、わずかな可能性があれば土俵に残しておきます。
まだ、起きていないことです。
もし、違ったとしても、我々の希望が遠ざかるわけではありません。
現時点で想像もつかないということです。

ともあれ、バビロンに4人の御使いがつながれているのが解ります。
ここで言われている御使いとはサタンに従うものです。
なぜなら、つながれていて、4人の御使いが解放されることにより大勢の者が死にます。
第六の御使い(神の御使い)によって、解き放たれて多くの者が死にます。
彼らの馬の口からは火と煙と硫黄はソドムとゴモラにあるような神の怒りが表現されています。
この軍勢はユーフラテス川の向こうからやってきます。
ここではまだ、イスラエルには攻めてきません。人類の三分の一を殺します。
現在の人口分布からすると明らかに2億の兵隊を出せる国はインド、中国にあたると考えられるかも知れません。
地球の人口が六十億とし、四分の一が死んで、また多くが死んだとされています。
またここで三分の一が死ぬのです。人口はすでに半分以下です。

これだけの災いがあり、小羊からの怒りと知りながら残った人間は偶像崇拝を続けてオカルトに走り続けました。

作者の欄
利益になるか解りませんが個人の権限ということで書かせていただきます。

第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章12節

この軍隊が2億で「中国」の可能性がゼロではないと個人的には思っています。

後に「第六の御使い」がユーフラテス川を枯らし、「日の出るほうから来る王たち」に道を備えてしまいます。
「日の出るほうから来る王たち」とはイラン、イラク付近のことを指していますが、「王たち」とは複数形です。
イラン、イラクを含む、ユーフラテス川の向こう側にある独裁国家と見るのが適していると考えています。

先に注意しておかなければならないことは、このように書かれていることです。
「私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。」
つまり、これは幻なのです。
なので、忠実な現物を見ているよりも、ヨハネが理解できるように再現されている可能性もあります。
だとしても、ここでは馬はサタンから与えられた兵器であり、改変されています。

この個所の前に底知れぬところから出てきたイナゴも出てきますが、出先が分かっていますので通常にイナゴだと判断します。
黄泉では、「うじ」もいます。

また、「それに乗る人たち」と書かれていますが、原語では人間であるとが限りません。

(無理な解釈はしないを前提です。
状況からの聖書判断は危険ですが、しかし、気にかかっている報道があります。
中国のDNA研究が生物倫理を超えているために、他国を超越しているという記事も気になります。
サタンは目的のために科学技術さえも与えます。

もう一つは最近の中国の臓器販売です。
世の終わりの反キリストの国では、このように商売について記されています。

「商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。」

ヨハネの黙示録18章12、13節

「奴隷と人のいのち」が別に書かれています。
反キリストのリストの「奴隷」は理解することができます。
「人のいのち」が別に書かれているのは理解できません。
個人的には「臓器販売」ではないかと考えています。
このようなことは21世紀になるまで、人類には理解できない内容でした。
心に留めておく必要があります。

この部隊が地上部隊(騎兵)であることがわかります。
黙示禄16章ではユーフラテス(イラク中央)がかれることによりハルマゲドン(中東)までの道が開けることが書かれています。
獣の国(たぶん、ヨーロッパ)は最後までとっておかれるので第六のラッパのさばきの中心はアジアになるのではないでしょうか。

赤い竜といい、2億の騎兵隊と言い、偶然とは思えないものがあります。

だとしても、これは個人的な推測です。

 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。
それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 10章1〜6節

この御使いがイエスキリストだという説があります。
しかし、新約聖書の中でイエスキリストが「御使い」という表現をされた個所はありません。
文字どおり御使いと取るべきです。
この御使いは雲に包まれ(イスラエルと共にある神の栄光)、頭上には虹があり(神の約束とその不変性)を示しています。
太陽のような顔はすべてを照らし出す洞察力(義の太陽)をもち、火のような足は容赦ない裁きを執行する力をあらわします。
そして、あらたな小さな巻物をもち左足は海(異邦人、ユダヤ人と対照的に民族として波のように落ち着いていません)右足を地(ユダヤ人、民族が動いていない)に置いていました。
七つの雷についてもここに「ステップ」があること示していますが、それ以上のことは解りません。
七つの雷は書き記すなとありますが、その存在だけはこの黙示録に記録されています。
その時代になれば、明白になるということです。
他の黙示録の解釈同様、文字(霊感)だけでは理解できませんが、その時になると文字通りだったと理解できると考えています。
患難時代に黙示録を読む地上の人たちに託しましょう。(雷は聖書のなかで「神の怒り、権限などをあらわしています。)
御使いは「もはや「もはや時が延ばされることはない。」と宣言されました。
神の裁きは速やかに行われ神の義が実現します。

第七のラッパ

 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 10章7節


口には甘く、腹には苦い巻き物

第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 10章7〜11節

ここに神の裁きを語る預言者の姿が語られています。
御使いによって第七のラッパの裁きが行われようとしているとき、ヨハネは小さな巻き物を受け取りそれを食べたのです。
これは神の救いと裁きを語る者の姿です。
救いを食すると口には甘いがそれを腹の中に入れると苦くなるのです。
神の救いは非常に甘い、しかしそれを語るのは非常に苦い。なぜなら裁きを語らなければならないからです。
神の甘い救いを受け入れたクリスチャンであれば、無神論の世界で神の裁きを語るということはいかに苦いか解ると思います。
ヨハネは「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と言われ、神の裁きを語らなければなりません。


聖所と礼拝者を測る

それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章1〜2節

神はヨハネに「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」と命じました。
裁きの時代にあって、神は礼拝者を忘れてはいません。
聖所の外の庭は測ることはないと神は言いました。
それはダニエル書で記されています

 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
新改訳聖書 ダニエル書 9章27節

半週=42ヶ月の間、聖所の庭は異邦人に荒されます。
異邦人はヨハネに測るなといいました。
神が測り、そのさばきを行います。

罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。
新改訳聖書 レビ記 6章26節

レビ記にも書いてあるように聖所の庭が荒されている以上、いけにえとささげ物は捧げることはできない状態なのです。


二人の預言者

それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章3〜6節

「神はこのような時にも二人の預言者を使わして警告を与え神を求める者を起こす御業を行おうとしています。
神の裁きは第七の封印の裁きの前に十四万四千人のイスラエルを起こしました。
この第七のラッパの裁きの前に神は二人の預言者をつかわして警告を与えようとしています。
「彼らは二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」と言われています。

また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書 4章3節

私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書 4章12〜14節 抜粋

彼らはゼカリヤ書に預言されていた二人の預言者です。
二つの燭台とは暗闇を照らす光源です。
オリーブの木とは燭台にオリーブ油を供給する源です。
彼らは患難時代を照らす光を発します。
彼らはバプテスマのヨハネのように荒布を着て預言します。
エリヤのように雨が降らせないような力を持ち、モーセのように水を血に変え、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っていました。
この時代に証をするために神は「火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。」という力を与えていました。
彼らが直接、モーセとエリヤだという人がいますが彼らがモーセとエリヤだと書いていません。
モーセ、エリヤ自身ではなくその力、権威を持つものと解釈すべきでしょう。

そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章6〜12節

底知れぬ所から上って来る獣とは、反キリストのことです。
霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都とは、エルサレムのことです。
彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

二人の預言者の働きは守られていましたが彼らは反キリストに捕まり殺されます。
そして、エルサレムの大通りに死体がさらされて世界中の人がその姿を見ます。
これはおそらく衛星中継、ネット配信にて、世界中のメディアが映し出すと考えています。
神を知らない者たちは喜び互いに贈り物を贈り合います。
ところが二人の預言者は三日半の後よみがえり世界中は恐怖に襲われます。
この二人の預言者の働く期間は患難時代の前半分の時代です。
なぜなら、反キリストがエルサレムに入場後、彼らは反キリストに証しをします。
まるで、エジプトのパロの前にモーセが証をしたようです。
そして、彼らの奇跡は患難時代後半の災害に関連しており、反キリストの民は彼らに苦しめられています。
そして、最後まで悔い改めを問いつづけるのです。
それでも、彼らは神を認めず、反キリストに従うのです。

(2024年、書いていて思いました。
どちらかと言えば、私は福音派です。
米国では民主党が米国を混乱させています。
移民問題、インフレ、共産主義傾向を感じさせる出来事が起き、いくつかの州では人口が減りはじめ、共和党支配の州に人が流れ込んでいます。
メディアの誘導があるとしても、それだけ、露骨なことが起きているのに民主党支持者が多いのには疑問を感じていました。
そうです。
患難時代には、これだけのことが起きても、この恐怖の中に生きていても、人間は反キリストに従うのです。)

そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章13節

二人の預言者がよみがえった時、エルサレムは大地震になり十分の一が倒れ七千人が死にます。
驚くべきかな、この時代にあって生き残った人びとは神をあがめました。
彼らは彼らを敵の前で雲に乗って天に引き上げられました。

第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章14〜18節

第七の御使いがラッパを吹き鳴らすとどんな災害が来るかと思えば、天ではキリストの地上再臨(キリストが地上に降りてきて、支配する)の宣言がされています。
このままでは人類は滅んでしまうからです。


イスラエルの回復

 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章19節

神殿の中に契約の箱(律法の石板、マナの壷、アロンの杖)はイエスキリストを表すものです。
神はイスラエルとの約束を思い出しました。
それは律法による呪いです。
律法を行わないものは呪われるのです。
いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹はシナイ山を思い出させます、神の怒りです。
神は忘れてはいないのです。
また、イスラエルをかならず祝福するという約束(千年王国)も必ず守ってくださいます。


イエスキリストの誕生とイスラエルの保護

ここで、イエスキリストの誕生とイスラエルの保護が回想されています。
黙示録は幻によって、与えられた預言だと主張する要因でもあります。
もちろん、すべてが霊的に与えられ、文字通りに成就され、成就します。

また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章1〜6節

女 ― イスラエル民族
十二の星 ― イスラエルの12部族、もしくは十二の栄光。
産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。 ― イスラエル民族は神の計画に用いられるため聖くなる必要がありました。
不信仰、偶像崇拝がイスラエルを襲い、彼らにとって痛みとなったのです。
大きな赤い竜(七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。) ― サタンである。また、患難時代に現れる反キリストのことです。
天の星 ― サタンに従う御使い
悪魔は御使いの三分の一を引き寄せ僕としてこの地上に働かせました。
イエスキリストがお生まれになった時代、福音書にもあるようにたくさんのサタンのしもべたちが働いていました。
その数は星の数、サタンに従う御使いの三分の一です。
(世の終わりにはすべてです。)

それはイスラエルが悪魔を踏み砕くメシアを生もうとしていたからです。
イエスキリストが地上に生まれたとき、ヘロデ王は、キリストを殺そうとしてベツレヘムの二歳以下の子供すべて殺しました。
また、悪魔は十字架によってイエスキリストを食い尽くすはずでした。
「この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。」 ― 千年王国の王としての支配者。
「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」 ― イエスキリストの昇天
「女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」 ― イスラエルは荒野で千二百六十日間、神によって備えられた場所で養われるのです。

ここで注意すべき点は内容からして、あきらかに過去の出来事から、イエスキリストを紹介し、未来に結び付けています。
この個所でイエスキリストを紹介し、イスラエルの王としての存在を明確にしているのです。



ミカエルと悪魔との戦い

ここで、サタンのことが回想されています。
黙示録での出場する者たちが紹介され、彼らは永遠の裁きを受けます。

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章7〜9節

ミカエル − 御使いの頭
竜 − 悪魔
このとき、ミカエルと彼の使いたちにより、悪魔とその使いたちは地上に投げ落とされた。

イザヤ書では次のように書かれています。

暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

新改訳聖書 イザヤ書 14章12〜15節

悪魔は「暁の子、明けの明星」と呼ばれていたほど素晴らしい御使いだったのです。
しかしこの中で『私は天に上ろう。〜いと高き方のようになろう。』と思ったのです。
つまり「神のようになろう。」ということです。
彼の行動は地上でよく表れています。
これが偶像崇拝です。
神は人間が神を礼拝するように創造されました。
悪魔はこの人間を神から取って自分に仕えさせたのです。
父なる神の面目はありません。
父なる神の栄光のために、悪魔に奪われた面白のためにイエスキリストは十字架にかかって神の栄光を取り戻したのです。
ですから詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書かれているのです。

わたし − 父なる神
あなた − イエスキリスト
きょう − イエスキリストの十字架の時。
生んだ − 父なる神とイエスキリストがより深い関係になることです。

また、この御使いの堕落(悪魔の起源)がいつ起きたのか論議の中心になります。
聖書の中の記事で最も古い悪魔についての記事はアダムとエバへの誘惑の記事となります。
ここではそれ以前だったのみ記しておきます。

 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章10〜12節

天に住む聖徒たちは悪魔の墜落を喜び、小羊の血とあかしのことばのゆえの勝利を喜んでいます。
しかし地上では悪魔が自分の時の短いのを知り、激しく怒ることになります。


イスラエルの保護

自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
そして、彼は海ベの砂の上に立った。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 12章13〜18節

回想から戻り、また場面は1〜6節の続きに戻ります。
悪魔はキリストを生んだイスラエルを追いかけます。
(キリストはユダヤ人として生まれました。)
患難時代にイスラエルは翼(注1)が与えられ、荒野で三年半守られます。
悪魔は大勢の軍隊を用いてイスラエルを押しながらそうと命令します。
「口から」情報誘導かも知れません。
聖書の中で、たびたび大きな攻撃を洪水とか水で表現をしています。
その時、大地震が起きて地面が裂け軍隊を飲み込んでしまいます。
また、「彼は海の砂の上に立った」(直訳)と記しています。
神を信じない異邦人のリーダとして、最終戦線(ハルマゲドン)に出かけると考えています。

(注1)と言う表現は聖書の中で神の特別な導きによって守られることを示しています。
 エジプトで奴隷だったイスラエルを神は特別な方法を使って導き出した記事を神はこう記しています。

『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
新改訳聖書 出エジプト記 19章4節



 
また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 13章1節

水とは、異邦人社会のことです。
ここから、反キリストの姿が描き出されています。
聖書は黙示録17章7〜18節でこの獣について詳しく解説をしています。
10本の角、7つの頭、女について、後の章でまとめてあります。

この野獣、ダニエル書7章の「ダニエルの預言」に預言されていたローマ帝国の延長(復興ローマ帝国)です。
この野獣は人手によらずに切り出された石(イエスキリスト)によって滅ぼされ、火の池に投げ込まれます。

「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章5節

私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 13章2節

この最後の国がこの黙示録で述べられている獣なのです。
ダニエル書では10本の指となっていますが、黙示録では十本の角となっています。
そして、この国には過去の3つの国の特徴をも備えているのです。
悪魔は自分の権威をこの獣、反キリストに与えています。

その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
耳のある者は聞きなさい。
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 13章3〜9節

この獣(反キリスト)は常にイエスキリストを真似していることがわかります。
ここでも「頭の一つは打ち殺された思われた。」という事件を起こしているが、14節を見るとこれが「剣の傷」(戦争または武器による傷)であることがわかります。
獣は「致命的な傷も直った。」と記してあります。
キリストの復活の真似であり、その結果人々は獣に従い、竜(サタン)を拝むのです。
出エジプト記にあるモーセの奇跡を真似をした、偽預言者のようです。
この獣は四十二か月間(後患難時代)活動する権威を持っていました。
神はイナゴにでも、獣でも必ず行動が制限され神の権限の中にあることを知ります。
この場面では神に従わず、獣に従うものは獣に逃げるのです。

ここにこの時代にあって神の勧めがある。「耳のあるものは聞きなさい。」
この原則はすべての時代に有効である。
「信仰は聞くことから始まり、口で告白することにより救われるのです。」
聖徒はキリストを待つ忍耐が必要です。
忘れていけないことは神は答えてくださるということです。
そして、サタンは必ず裏切るということです。
神を待つ信仰者の姿は現在においても同じなのです。


もう一匹の獣

また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 13章11〜15節

小羊ような − 小羊とは聖書の中で教会、もしくはイエスキリストのことを示しています。
注意すべき点は「小羊のような」となっています。
教会のようで教会ではない宗教団体であります。
それは、二本の王(角)もしくは二つの団体から成り立っています。
カトリック教会とキリスト系の団体が結びつくと考えられます。
最近カトリックとルター派が合意をしたというニュースが入ってきています。
カトリックと英国国教会はともに、異教の影響を受けています。
露骨に分かるのは、滴礼による洗礼です。
滴礼は異教の儀式です。
クリスチャンの洗礼は体全体を浸すというものであり、聖書に記されています。
そして、キリスト世界全体に影響を与えているクリスマスとイースターです。

この獣と前の獣と非常に親しい。この獣は前の獣を拝ませ、奇跡を行います。
彼は像を作らさせて(自分で作っていない)、それにものを言わせるようにし、従わなものを殺します。
像がものをいうことは最近まで不可能でした。
注意する点は反キリストの意図を崩すことなく、この像は自分で言ったのです。
2024年の段階でAIは急速にコンピュータ、ネットの世界に入ってきました。
多くのデータを蓄積に、そこから必要なデータを抜き取り、表現するという手法です。
この数年で人間の道徳、秩序等は急速に劣化しているのに、像にものを言わせる技術が急速に進歩してきています。
(悪魔は特別にこの像に超自然的な力(息を吹き込んで---命が与えられるのは神のみです)を加えるのかもしれません。)
恐ろしい時代である。
像を拝まないだけで殺されるのです。

また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 13章16〜18節

この獣は経済を握りました。
その右の手かその額かに刻印がないとものを買うことも、売ることもできないようにしました。
また、これにかかわってくる、獣の数字は六百六十六であり、それは人間を指していると書いてあります。

「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。


新改訳聖書 ヨハネの黙示録 14章9〜10節

「さあ大変です!。」神に従うには物が買えません。
ただでさえ食糧のない時代です、重大な選択をしなければなりません。
神に従わず、獣に従い、刻印を受けて、獣を拝みつづけるのならそのものは地獄へ行くと書いてあります。
 
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
新改訳聖書 マタイによる福音書 1章28節

この獣のシステムは多くの聖書研究家が想像してしましたが、最近の情報はけしてピントが外れたとは思いません。
インターネットやクレジットカードが発達して世界中の人たちがキャッシュレスで買い物することが多くなりました。
そこで問題になってくるのが本人の確認方法です。
現在、世界中の店にバーコードの端末が置かれるとは想像もしていませんでした。
すべての商品にバーコードが印刷されています。
世界中の人間の情報がコンピューターに入っていて、必要になればそこから引き出せるのが現実です。
本人だと確認する方法に印鑑やサイン、身分証明書を使いますがいくらでも偽造できます。
今年なって世界中でその方法が現実化されています。(商品化されています。)
「マイクロチップ」という米粒サイズのICを体に埋め込み、そこから発信される電波にて本人であることを確認する方法です。
経済はコンピューターによって支配されているからです。
コンピューターが壊れると経済が壊れるからです。
人がもしマイクロチップを体に埋め込むとしたらどこでしょうか?。
それは右手(利き手)です。
キャシュ・デスペンサーの前にゆき、右手はキーボードを押しながらキーボードの上には端末(センサー)があります。キャシュカードはもういりません。
それ以外に埋め込むとしたら額です。
顔と照合するためです。
強盗は二度とでません。彼らは現場にあるセンサーで犯人が確定されて売り買いはコンピュータ上でカットです。
もし、いま反キリストが現れ、自分に従わせるにはこれを使わずにはいないでしょう。

獣の数字は六百六十六、七という数字は完全数です。そこから一足りないのは不完全であることを示しています。
「コンピューターシステム(バーコード)に関係しているという人がいますが私にはわかりません。
ヒントとしては「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々」と言う表現が「黙示録15章2節」にある。
これは数字は打ち勝てるものであることが解ります。

ここで最近(2024年)、騒がれているニュースがあります。
2021年世界経済フォーラム、ダボス会議にて、「グレートリセット」と呼ばれる内容が議論されました。
ダボス会議とは、毎年、世界を代表する政治家や実業家などが集まり、世界経済や環境問題など幅広いテーマで討議する場で世界中が注目しています。
つまり、これは陰謀論とか、どこかの国が勝手に言い出していることではありません。
また、グレートリセットとは「現在の社会全体を構成する金融や社会経済などのさまざまなシステムを、一度すべてリセットする」ことと定義されています。
項目的には上から見てゆくのであれば、
1、公平性のある市場を目指す。
2、新しく拡張された投資プログラムを活用する。
3、各専門分野を超えた協力と革新する。
などとなっています。
人は上から読んで行き、その順位で理解してゆきますが、サタンは狡猾です。
しかし、その中は貧富の差を無くすため、不均衡を是正するため既存の金融システムをリセットしてより良いものに再構築することが含まれています。
これには「富の再分配」が含まれています。

つまり、お金のある人も、ない人もすべて金融的に集め、それを均等にわけて、平等に扱おうというものであり、いわば、共産主義です。
アメリカでは下位50%の世帯は、国全体の富の2%しか持たず、上位1%がアメリカの資産の3分の1を保有しているとされています。
それを是正して、すべての人が平等に持とうというのですから、素晴らしいように聞こえるかも知れません。
しかし、それが共産主義であり、その結果は現在の共産国を見れば明白です。
均等にばら撒くことができず、権力が集中します。
第一、現在の富豪たちがこのグレートリセットを主張しており、富豪たち全員が自分たちの財産、権力を捨ててこれを行うはずがありません。

個人的に意見ですが、これが反キリストの「だれも、買うことも、売ることもできないようにした」につながると予想しています。
おそらく、現在の紙幣制度はなくなり、すべてがデジタル決算になると考えています。
つまり、その時に本人確認がされます。
すでに、先進国、および、共産国では、一部の後進国では人間に番号が振り分けられております。
つまり、反キリストに従わない者には決算機能から外されるのです。
クレジットカードで言えば、使用不可能にされるのです。
この独裁者である反キリストは、世界の富を集中させるために金融リセットを行います。
反キリストは世界の富を手に入れ、人類に刻印を受けさせ、奴隷化してゆくのです。

そして、反キリストに反抗する者たちはこのシステムを打破します。
つまり、壊してしまうのです。
「その名を示す数字とに打ち勝った人々」という言葉が15章2節にあります。
そして、殉教して行くのです。


天での賛美

また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。
また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」


新改訳聖書 ヨハネの黙示録 14章1〜7節

ここでは「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」という黙示録11章15節の第七のラッパの裁きからの続きです。
天国でのイエスキリストの勝利(地上再臨)の喜びの様子です。

実際的に地上再臨は黙示録の19章になります。
ここではその喜びを前もってかみしめています。

シオンの山とは、天国のエルサレム(礼拝する場所)です。
十四万四千人の人たちとは、 黙示録第7章4節の患難時代に選ばれたユダヤ人のことです。
四つの生き物とは、イエスキリストの栄光を表す被造物です。
この永遠の福音には、定冠詞がありません。
つまり、終わりない良い知らせ(教会時代の福音だけではありません。)

第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 4章7〜8節

第一の生き物は、ししのようであり − 野の獣の王としてのイエスキリストです。
第二の生き物は雄牛のようであり − しもべとしてのイエスキリストです。
第三の生き物は人間のような顔を持ち − 人としてのイエスキリストです。
第四の生き物は空飛ぶわしのよう − 天の王(神)としてのイエスキリストを表します。

長老たちとは、教会時代に救われた者です。

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 4章4節

白い衣 − キリストの血によって白くされ、贖われたものの特徴です。
金の冠 −
説1)
冠(στεφανοs)は教会時代キリストに従うものに与えられたものです。
この単語はローマ時代競技の勝利者に与えられるものです。
新約聖書ではこの冠という単語を用いて(忍耐の結果、)勝利を得たクリスチャンに与えられると記されています。
通常、この冠は花輪である、しかし金でできています。
二十四人の長老たちは教会時代のクリスチャンであると言われています。

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

新改訳聖書 ヤコブの手紙 1章12節

説2)
19章に花嫁の婚宴の前に24人の長老の賛美があります。
婚宴の花嫁は教会であり、婚宴の前に教会の賛美というのは変だと思う。
同じく19章でユダヤ人が14万4千人と数えられています。
患難時代に救われた者を大群衆となっているのに教会が数えられずに24人となっているのは不自然です。
つまり24人は御使いもしくは特別な聖徒となります。
個人的には説2)の特別な(白い衣を着ている)聖徒だと考えます。

新しい歌 − 黙示録5章9〜10節「彼らは新しい歌を歌って言った、〜あなたはほふられ、その血によって、〜彼らは地上を支配するに至るでしょう」と語られています。
千年王国での賛美歌です。
女 − 淫婦(教会のような宗教)
彼らは女によって汚されたことのない人々 − 淫婦を拝まなかった人たちです。
彼らはイエスキリストに従うことを喜びとするために贖われた人たちなのです。
永遠の福音 − 「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」この裁きの時代に述べ伝えられる福音のことです。
神は裁きを行うとき、これでもか!と思うほど悔い改めを求めています。

混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒

また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 14章8節

旧約時代のイスラエル同様にまず神は勝利宣言をした後、裁き(勝利)を行っています。
大バビロン − 女、後の章で説明します。
不品行のぶどう酒をすべての国々の民に飲ませる、つまり、偶像崇拝によって酔わせるのです。

また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。


新改訳聖書 ヨハネの黙示録 14章9〜11節

反キリストに従い反キリストの刻印を受けた者たちの報いが描かれています。
「混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」、「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。---昼も夜も休みを得ない。」

ここに「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒」と「混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」という2種類のぶどう酒がでてきます。
詳しくは著者の紹介している「二つのバビロン(ALEXANDER HISLOP著)」の中で意義ある説が述べられています。
この著作は私とは別の神学を主張していますが、素晴らしい指摘をしています。
抜粋して取り入れてゆくのであれば、価値のある著作です。

この内容を要約します。
「不品行のぶどう酒」と「混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」が対照的に述べられています。
つまり、「不品行のぶどう酒」とは混ぜ物があるぶどう酒であることがわかります。

古代において、戦勝国は植民国を支配するために様々な手法が取られました。
戦勝国は宗教を使い、植民国を奴属的に支配することを目的としています。
その手法はニムロデの時代に考案されたとされ、多くの考古学的な発掘によっても証明されています。
ノアの時代に神によって、裁かれた人類は神に敵対して、集結することを求めたのです。

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
新改訳聖書 創世記11章4節

この手法は最近ではオウム真理教に利用されました。
彼らが信者獲得のために、この方法を相手を支配するためにこの手法は利用され、彼らに政治的な目的があったことが証明されます。
彼らは歴史から、考古学からこのことを学び、獲得したのです。

秘儀、つまり、イニシエーションです。
秘儀自身は秘密の儀式とされ、参加できるものは限られます。
つまり、ネタバレを防ぐためでしたが、何かしらの形で、受け継がれる必要があります。
ゆえに、歴史に残ったのです。
この秘儀に参加できるものは限られた、認定された者です。
一般的な記録では「ぶどう酒に混ぜ物」がされたものを飲み、不思議な体験をさせられたようです。
彼らは、この異体験を通し、この異教的な信仰の奴隷とされたのです。
これらの偶像崇拝者たちは、奇跡的な異体験を通して、偶像崇拝に確信が与えられ、より奴隷化されてゆきます。
このことをオウム真理教を利用し、信者拡大を図りました。
すべては悪なのですが、私たちにはそれが実際的に効果があることを証明しています。
このぶどう酒にある混ぜ物が、薬物であることhが明白です。
ゆえに、宗教儀式にはこのような飲み物が付き物なのです。
このような習慣、偶像儀式はおそらくヨハネの時代後も続き、ヨハネも認識を持っていた可能性も捨てきれません。


それを前提に混ぜ物がある「不品行のぶどう酒」について読んでみてください。
「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

ここでは仮説であることを前提に述べます。
反キリストはあらゆる国民に対して、薬物を使い、自分に従えさせます。
それに対して「神の怒りの杯」には混ぜ物によって誤魔化されること無く、ストレートに神の怒りを体験することになるのです。

「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
「また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 14章12、13節

患難時代にあって救われることは二者選択であり、妥協はありません。
患難時代に死ぬものは永遠の命を持ち、生きる者はそれをなくします。
確かに信じて、患難時代を生きとおした者は千年王国に直接入ることができます。
これは携挙同様に死を通さずに約束の場所に入る方法です。

教会時代のクリスチャンたちは千年王国で住むことはありません。
彼らは千年王国において、天において千年王国を支配します。
天と地が物理的に近くなることを示しています。

私たちはだれひとりをもこの苦しみに入ってほしくはありません。
イエスキリストを今の時代に受け入れてください。   ここをクリック


地上再臨時の諸国への裁き
世界中の軍隊がエルサレムを攻めに来ます。
その時にイエスキリストは地上に降りてこられ諸国の民を裁かれます。

また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 14章14〜20節

人の子のような方とは、イエスキリストのことです。
この方は御使いによって呼ばれています。
つまり、御使いでないのことは明白です。
金の冠は王がかぶるものです
手には鋭いかまを持っておられるのは、刈り取りをするためです

毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

新改訳聖書 マタイによる福音書 13章39〜40節

麦と毒麦は成長してからでないと区別がつかないといわれています。
神は神に従うものとサタンに従うものを世の終わりに刈り取ります。
麦は蔵(天国)に収められ、毒麦は焼かれます。

諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。
かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。

新改訳聖書 ヨエル書 3章12〜13節

ヨエル書は患難時代の裁きを語っています。
神様の怒りは酒ぶねに表されています。
ぶどう酒を作るために酒ぶねにぶどうを入れて足で踏むのです。

イザヤ書にこのように預言されています。

わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。
わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。
わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」

新改訳聖書 イザヤ書 63章3〜6節

イエスキリストがかまをもち、裁きを行います。
キリストの集めたものは集められます。
御使いもそれを手伝い、御使いの刈り集めたものは激しい怒りの酒ぶねに入れられ踏まれます。
上の二つに違い、集められる者と裁かれるものです。
患難時代ではイエスキリストが十字架にかかった都の外で、今度はイエスキリストに従わないものたちの血で満ち溢れます。
深さは20センチメートルくらい(馬のくつわ)でしょうか、その距離は三百キロメートル(六百スタディオン)ほどになります。
聖地の幅は250kmで300という数字は当てはまりません。
天変地異があって大きくなるなるのかもしれません。
まさに、聖地の周りが血のプールとなるのです。


鉢のさばき

また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。 
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 15章1節

最後の七つの災害とは、神の激しい怒りの鉢のさばきことです。

私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 15章2節

ガラスの海について、次のように書かれています。
「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」新改訳聖書 ヨハネの黙示録 4章6節)
海とは、神殿の内庭に置かれる、水のきよめの儀式の大水盤を海と言われています。(列王記第一7章)
これは捧げものを捧げる前に祭司が水のきよめをする場所です。
ガラス、つまり、水ではありません。
もう洗う必要がないでのす。
火の混じったとは、小羊が捧げられたすぐ後です。
火が残っています。
その名を示す数字とに打ち勝った、つまり、666の数字は打ち勝てるものです。

患難時代に反キリストを拒否し、殺された聖徒たちはほふられたばかりのキリスト(もちろん海の上には小羊はいない)の御業を覚えて、神への賛美を捧げるために立っていました。
彼らは患難の中を抜けてきたが今は非常に静かな中にいます。

彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。
主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。
そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。
聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。


新改訳聖書 ヨハネの黙示録 15章3〜8節

モーセの歌とは出エジプト記の十五章にあります。
それはエジプトから救われたイスラエルの詩であります。
彼らは主を賛美し、異邦の国々が主の栄光を驚嘆し神の統治を賛美しています。
小羊の歌とは、イエスキリストを賛美しています。
前者がイスラエルの賛美であれば、後者は十字架の賛美です。

あかしの幕屋とは、至聖所、神のおられる場所です。
光り輝く亜麻布とは、血で聖められた者の象徴です。
胸には金の帯を締めていとは、戦う姿です。
煙で満たされ、つまり、イザヤ書6章4節では神の御臨在、怒りの象徴です。

「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」
新改訳聖書 イザヤ書 6章4節

また、四つの生き物の一つとは「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった」のどの生き物なのでしょうか?
ここには記録がありません。
ここには記録がありません。
鉢のさばきの始まようとしているときの賛美です。
神の怒りは至聖所に満たされています。
患難時代を抜けてきた聖徒たちの賛美に答えるように裁きを行われるのです。

第一の鉢

また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章1〜2節

反キリストに従うものにひどい悪性のはれ物がまん延します。
申命記28章に神に従わないものは疫病に犯されることが書かれています。
鉢のさばきの特徴は「神の超自然的な理屈なしの裁き」だということです。
直感的には、上記の「666」の数字の刻印(ICなどのチップが埋め込められるため)によって、引き起こされた生理的な拒否による病気にも見えます。

主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。
主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。

新改訳聖書 申命記 28章21〜22節

第ニの鉢

第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章3節

海の中の生き物が全部死に絶えます。
黙示録8章8〜9節の第二のラッパのさばきで「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった〜いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた」とあります。
ここでは、海の中の生物がすべて死にます。
もう、魚にクジラも、微生物もいなくなります。
地球にある酸素の半分ほどが海にある「植物プランクトンの光合成」によってできるとされています。
もはや、地上の生物が生きるために必要な酸素も欠乏の危機に陥っています。

第三の鉢

第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。
また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。
彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」
また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章4〜7節

川と水の源が血になります。
「常にいまし、昔います聖なる方」とは、イエスキリストのことです。
ヨハネの黙示録8章10〜11節の第三のラッパのさばきで「川の水の三分の一は苦よもぎのようになった」とあります。
ラッパのさばきはこの鉢のさばきの準備ともいえるさばきであったことが解ります。
これが最後、本番のさばきなのです。

また、これはエジプトのパロに行われた裁きと一致しています。
神の裁きはパロに対して行われました。
しかし、その被害は一見関係ないようにみえる、すべてのエジプト国民に下ったのです。
これはパロに付くものには裁きが下ることを示しており、この時代においては一見関係ない、反キリストに付く者に裁きがくだるのです。

「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 18章4節

また、神は報復の神です。
かならず、聖徒たちに行った悪行に対して報復を行われます。
「聖徒たち、預言者たちの死の報復として反キリストに従うものたちに聖徒たちや預言者たちの血を飲ませた」とあります。
具体的に血を飲ませるのかは不明ですが、文字通りの報いを与えるのです。

これは現在の教会時代のクリスチャンにも同じ事が言えます。
職場や学校、もしくはコミュティの中でクリスチャンゆえに理不尽な経験をするかも知れません。
神はすべてのことを覚えておられ、かならず報復されます。

あえて、言うのであれば、私たちは無条件に神の報復を求める者であってはいけません。
最初に神はすべての人に悔い改めを求めておられます。
神の目から見ればすべてが罪人の悪人です。
問題は赦されているか?いないか?だけです。
その視線で見ることが必要なのです。

第四の鉢

第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章8〜9節

地上は灼熱地獄となり、太陽の熱によって多くの者が死むのです。
彼らの入る「火と硫黄の池」に比べればたやすいことでしょう。
しかし、神に従わないもの(神を知りながら、神を退けるもの)はけがしごとを言い続けるのです。

死者の復活から始まり、様々な奇跡、裁きをこの時代の人々は経験します。
ここまで来るとおそらく、すべての人は神の存在について信じていると思います。
それでも彼らは悔い改めないのです。
神の御元に行こうとはせずに、反キリストの配下にいるのです。
サタンの配下にいますので、彼らは悩み、苦しみ、希望のない状態です。
それでも、神の御元に行こうとはしません。
それが人類の姿であり、人類の性質なのです。
ただ、私が救われたのは一方的な神の恵みと知ります。
「アーメン」

第五の鉢

第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章10〜11節

さばきはついに獣の座にやってきました。
女がローマだとするのであれば、獣の座もローマだと考えます。

「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章18節

獣の国の住人は舌をかんだのです。
つまり、あまりの苦しみに死を選んだのです。
しかし、彼らには死ぬことさえも許されていません。
永遠の行き先も知らずに死を願いますが、苦しみが彼らについてゆくのです。

「その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 9章6節

神が彼らに悔い改めの道を備えたことを知ります。
そうです。
患難時代はただの裁きの時代ではありません。
神は神を呪い、反キリストに従う者たちに、悔い改めを求めているのです。

教会時代においても、神は苦しみを通して、人々に悔い改めを要求しています。
なぜ、自分がこのような苦しみに会う必要あるのか?
人はさまざまな憶測します。
それが神に導かれるためであることを知ることは幸いです。

第六の鉢

第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。
また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・
こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。


新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章12〜16節

かえるとは、汚れた動物です。
大いなる日とは、最終戦争ハルマゲドンのことです。
私は盗人のように来るとは、キリストの地上再臨を示しています。

「第六の御使い」がユーフラテス川を枯らし、「日の出るほうから来る王たち」に道を備えてしまいます。
「日の出るほうから来る王たち」とはイラン、イラク付近のことを指していますが、「王たち」とは複数形です。
イラン、イラクを含む、ユーフラテス川の向こう側にある独裁国家と見るのが適していると考えています。
つまり、世界の国々、特にアジアの国々がイスラエル北方のメギドの平野(ハルマゲドン)に軍隊を派遣するのです。

もう一つ注意すべき点は「ハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた」と書かれている通りに、イスラエルを攻撃する前準備として「王たちを集めた」のです。
ハルマゲドンでは戦争は行われません。
後に書かれているように、イスラエルを攻める前に神はこの軍隊を処分してしまいます。

第六の御使いがラッパを吹き鳴らした時(黙示録9章13〜21節)、大川ユーフラテスでは2億の騎兵が解き放されています。
彼らは人類の三分の一を殺すのです。
この騎兵がどこに消えたのか記録がありません。
もし、地獄から上って来たのであれば、戻って行ったのでしょうか?
それとも、自然消滅したのです。
もしくは人間によって、滅ぼされた可能性もなくはありません。
しかし、ここで「日の出るほうから来る王たち」は別の存在です。
これらの王たちは悪霊によるしるしによって、導かれるのです。

ここに「見よ。わたしは盗人のように来る」という言葉が挿入されています。
これはキリストがこの地上の王として、君臨されるための地上再臨のことです。
黙示録を読んで、期待する者たちにはキリストがどのタイミングで再臨されるのか理解しているはずです。
ここで使われているのはこの王たち、神を信じていない者たちに語っているのです。
おそらく、この王たちはこの世の王であるキリストが来られることが近いことを悟っているのでしょう?
しかし、彼らはいつ来るのか?
理解できないのです。

また、この言葉を使って、教会時代のキリストの空中携挙がいつ起こるかわからない、秘密裏に行われると主張することをよく聞きます。
しかし、神は神の付く者たち、信仰者にはこの地上再臨を待つ、信者同様にこのように言っています。

「目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章15節

不信仰な教義主義者は言います。
「キリストはいつ来られるか?聖書には記されていない!
そんなものを期待するよりも、今を生きるべきだ!」
しかし、信仰者は日々、今日、キリストが来られることを意識して「目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないよう」に歩むべきなのです。
まだ、その日が来ていないのであれば、このテキストを見て、今日にでもキリストが来られることを理解し、期待できるはずです。

第七の鉢

第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。
すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章17〜21節

地球は文字どおりに震え、世界の都市は破壊されます。
島々は消えてなくなり、山々は平らにされ、地形の大変動が起こります
一タラントの大きな雹、およそ35キログラムの雹です。
人々は地殻変動のため逃げる場所がないのです。
人類を起こした出来事、神の裁き、そして、天と地では災害が並列して、プログラムのように起きてきました。
偶然ではありません。
彼らはそれでも「神にけがしごとを言った」のです。
すべてがストーリとして成り立ち、それでも、神は人類に悔い改めを求めているのです。
あの大きな都 − ローマのことかも知れません。
著者はカトリックがバビロンの宗教のコピーであることに注目していますが、一般的には知られていません。
常に聖書は一部のマニアにしかわからないような表現はしていませんので、現時点の認識ではありえません。
しかし、将来的にこの知識が公になる可能性も述べておきます。
つまり、この解釈には可能性があり、否定していないということです。

「大きな都よ、力強い都、バビロンよ」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 18章11節)

聖書解釈は文字通りの解釈が原則ですがバビロンという地名を文字通りに取るかに議論があります。
黙示録、特に終末では固有名詞の使用が避けられています。
黙示録では二人の証人の場面で、エルサレムのことを次のように表現しています。

「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。
彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章8節)

わざわざ、直接的な言及を避けていますが、あきらかにエルサレムのことです。
バビロンとは現在のイランのあたりになります。
状況から聖書を解釈してはいけないのが前提ですが、現状ではイランがこのような国になるとは現時点では考えられません。
バビロンは反キリストが立ち上げたこの世の富、権力を象徴する場所だと考えます。
アメリカ、イギリス、上記ではローマだと書きましたが、ここでも否定はしないという立場です。


御使いによる「獣」の注解

この17章、18章は御使いがヨハネに対して獣の説明をしています。
黙示録全体の時間的経過と見るのであれば混乱が生じます。
18章と第七の鉢のさばきが時期が同一と見るのがいいでしょう。

また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章1節

七つの鉢(最終的なさばき)を持つ七人の御使いが大淫婦の裁きを見せています。
これは、大淫婦のさばきが最終的なことを示しています。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章1節

この女について

前にも十分に書いてきましたが、著者はずばり、カトリック教会だと認識しています。
人によっては、カトリック教会を中心としたエキュメニカル運動(宗教合同体)だと主張しますが、ずばり、ローマです。
この女は大淫婦教会のことです。
そして、バビロンの宗教を引き継いでいます。
カトリックの使う教会暦にある祭りはバビロンの宗教のコピーです。
宗教考古学では十分に証明されていますが、詳しくは著者の紹介している「二つのバビロン(ALEXANDER HISLOP著)」の中でまとめています。
それらは「クリスマス」、「聖母の日」、「イースター」、「聖ヨハネの降誕」、「昇天の祭り」などです。
ゆえに、著者は多くの教会で行われている「クリスマス」こそが最大の偶像儀式であり、教会の中にサタンの座があることを示していると主張します。

「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章12、13節

教会のかしらはキリスト御自身であることは新約聖書の教える大きな教理です。
決して、キリストの教会の座にサタンは住むことができません。

「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。
こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」

新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章18節

しかし、ペルガモの教会にはサタンの王座があったのです。
住んでいるのではありません。
サタンの王座、つまり、崇拝対象が存在していたのです。
黙示録の7つの教会はキリストの十字架から、携挙までの教会が象徴的に描かれているとされています。
著者のこの見解を支持しています。
つまり、この7つの教会こそが、地上にあるキリスト教(クリスチャリティー)だと認識します。
教会のかしらはキリストです。
しかし、物理的な教会にはサタンの座を置くことができます。
そして、地上の教会に属する限り、目に見えるキリスト教(クリスチャリティー)は必要なことは支持します。
しかし、すべての信仰者はこのことを覚えておかなければなりません。
クリスチャリティーは正しい信仰に必要なものです。
正しい信仰を保つために、間違ったクリスチャリティーを排斥する必要もあるのです。
クリスマスを祝いなさいとは聖書には記されていません。
キリストが誕生したのは12月25日の冬ではありえません。

「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」
新改訳聖書 ルカの福音書2章8節

イスラエルの12月から2月にかけての夜の寒さは非常に厳しいものです。
ユダヤの羊飼いは10月の終わりごろから野原で羊の群れを見守る習慣はありません。
ずばり、12月25日はバビロンの宗教のメシアの誕生日です。

「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章1節

この女は水(動くもの)に座っていた。
水---異邦人社会

「この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章4〜6節

「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章18節

繰り返しますが、直訳すると「現在支配している都」となりヨハネの時代の支配している都はローマです。
教会(キリスト信者の集まり)は聖書でキリストの花嫁とされています。
この女は大淫婦です。つまり花嫁が堕落して大淫婦になったのです。
この女の姿に注目してください。
法王もしくは祭司の姿を思い浮かべます。
バビロンの偶像崇拝と一体化した教会です。
教会の中にバビロンの偶像崇拝が入り込んでいます。

「この女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っています。」
カトリックは中世時代と宗教改革時代の初期だけで5000万人のカトリック外のクリスチャンを殺したといわれています。
ここでは患難時代中に殺された聖徒たちと判断すべきです。
ローマカトリックは地上の王たちを支配します。
地の王たちはこの女との不品行(偶像崇拝)を行い、この女の偶像崇拝のぶどう酒に酔ったと書かれています。
先にも書いたように、酔ったとはおそらくカルト的な、薬物を使ったものと考えらます。
彼らは酔っているため人を殺したことでさえわからなくなっています。

いや、聖書が否定しても、彼らの教理がそれを肯定しているのです。
ここにサタンの罠があります。
聖書の教理とは聖書から神の言わんとしていることをまとめたものです。
人間の主張を聖書から強引に引っ張る物ではありません。
現在の教会において、そのようなことが起きていないでしょうか?
教理、教理と言いながら、まったく別の事を信じ、正当化していないでしょうか?
ある異端のように、自分の子供に輸血をしないと死んだとしても、天に行ったのだから喜びなさいと人間の教理で示せば、それが正義になっていないでしょうか?
誰のみこころかさえも分からなくなっています。
現在は情報が満ち溢れ、様々な意見が飛び交っています。
一人一人が聖書に馴染み、神のみこころ、摂理を学ぶ必要があるのです。
しかし、このような宗教が患難時代では世界中にまん延するのです。

それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章3〜6節

十本の角について

「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章12節

ダニエル書に2通りの幻によって、ダニエルの時代から終末につづく支配王国が預言されています。
これらの幻によって、終末の王国の姿が10の指、もしくは十本の角で表現されています。
ゆえに、このヨハネの黙示録17章で紹介されている十本の角、十人の王たちは同じ者たちのことであり、関連性があります。
先には「獣」の項で一つの幻について紹介していますので、ここでももう一つの幻について紹介します。

「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。
ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。
また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ。』との声がかかった。
この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。
その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。
これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。」

新改訳聖書 ダニエル書 7章1〜8節

ダニエルにネブカデネザルの夢によって、より深い啓示が与えられました。
「天の四方の風が大海をかき立て」とは、異邦人世界において神の権威(怒り)が吹き荒れていることです。
四頭の大きな獣とは、地から起こる四人の王です。(ダニエル書7:17)

1、第一のものは獅子のようとは、バビロニアのことです。
とても、強い国でした。

2、熊に似たほかの第二の獣とは、メディヤとペルシャの連合国のことです。
食い尽くす熊のようです。
その様相は、横ざまに寝ています。
片腕(メディア)は下で、利き腕(ペルシャ)は上になっている。2つの国の強さの差を現わしています。

3、ひょうのようなほかの獣とは、ギリシャのことです。
西から猛然と襲ってくる足の速い軍隊です。
まさにひょうのようです。
ギリシャのアレクサンドロス王は考えられないような速さで国を占領しギリシャ帝国を築きました。
四つの頭とは四つの王のことです。
ギリシャのアレクサンドロス王が死ぬとすぐに国は4つに分裂してしまいお互いに戦争を始めています。

4:第四の獣が現われました。
それは恐ろしく、強くて、鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いたのです。
他の獣と異なり、十本の角を持っています。
一本の小さな角が出て来て、初めの角のうち三本が引き抜かれます。
これはローマ帝国です。
この国は鉄の国で非常に強かった。
足の指が10本であるようにこの国の角(王)は10人です。
そこから一本の小さな角が現れます。
患難時代に現われる反キリストのことです。
反キリストによって、初めの角のうち三本が引き抜かれます。
反キリストによって3つの国が滅ぼされるのです。

「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

新改訳聖書 ダニエル書 7章9〜14節

ここでは、裁く方(イエスキリスト)による御国が語られています。
その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見ることができます。
まさに、黙示録に語られている反キリストの最後です。
残りの獣の主権を奪われます、
しかし、いのちはその時と季節まで延ばされています。
それは、千年王国の終わりです。

ダニエル書ではともに神の御国で終っています。
それは患難時代の次に来るものです。
私たちクリスチャンは直接の希望ではありません。
私たちは患難の前に引き揚げられるからです。

ここで黙示録に戻ります。
ダニエル書によるとローマ帝国の延長上にある、復興したローマ帝国の形であることが記されています。
女に支配されている、同時(同時刻)に出現する国々です。
10本の角、冠(地の王たち)ダニエル書によると彼らは「人間の種によって混じり合うが互いに団結することはありません。(鉄と粘土)」と記されています。

「あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているので」
新改訳聖書 ダニエル書 2章41節

これは人種、経済、政治が交じり合うが国としては強弱があり、交じることない共同体であることを示しています。
もしくは、もともとは独立した民族でありながら、移民によってまじりあった国とも言えます。
近年のEUによる移民推進によって弱体化した国々とも言えます。
これは現在のヨーロッパ共同体(EU)だと思われます。
作者は再臨を待ち望むゆえこのようなことを書きますが、確定したことは言えませんが、未来形で変化して行くように思われます。
ヨーロッパ共同体が、自らローマ帝国の復興をめざしていると主張しているのも事実です。
ヨーロッパ共同体がローマ帝国の領土と近い形になり、10か国連合として、反キリストに支配されると考えています。

著者は20年以上前(2024年から数えて)に、EUからローマが離脱することを主張していました。
なぜなら、イギリスはローマ帝国の支配ではなかったからです。

七つの頭について

「ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章9〜11節

七つの頭はヨハネの時代の連続した(時間)国または、王の再来という見解があります。

説1)カトリックによる支配階級
この考えはプロテスト教会の標準的な教理です。
なぜなら、プロテスト教会はカトリックに対して反抗して(プロテスト)からです。
確かに、プロテスト教会はカトリックに対して反抗し、カトリックの本質を見抜いていることもあります。
彼らはサタンの教会だからです。

ここでは七つの頭とはローマのことだとする主張を紹介します。
七つの山とは、バチカンはティベル川のほとりの7つの山(丘)と言われています。
これらはパラティオ、アヴェンティネ、カエリア、エスクリネ、ヴィミナル、クイリナル、カピトリネという丘々です。
そして、カトリックには七つの座という階級があるとされています。
今の時代にあって聖書を読むとき、著者は女がカトリックとして判断しています。
勝手な判断を防ぐためにカトリックのような宗教団体が起こされる可能性も「0」ではないと記しておきます。
「五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。」と意味が判らなくなります。
ある聖書学者は七つの山をヨハネの時代に継続して支配している王たち(ローマ帝国)と解釈し、当時のローマ皇帝とカトリックの七つの座をからませた解釈をしています。
想像の域を脱出してないが、終末にはカトリックの七つの座が過去のローマ皇帝を名乗り、支配に乗り出すということです。
だから、七つの頭の獣の上に法王が乗るということです。

説2)世界を支配した国の歴史は
エジプト―アッシリア―バビロニア―メゾ・ペルシャ―ギリシャ―ローマ―復興ローマ帝国と流れて行きます。
当時ヨハネの時代を支配していた国はローマです。
つまり、ローマ以前の国「五人はすでに倒れた」ということになります。
ひとりは今おり(現在形)「ローマ」です。
まだ来ていないのが「復興ローマ帝国」ということになります。
また、「昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」は「バビロニア(バビロン)」だと主張する人もいます。

説3)七人のローマ皇帝ことです。
当時のローマ帝国を支配した王を支配していた(ヨハネの時代)、霊(御使い)の一つが底知れぬところから出てきて反キリストを支配するという考えです。
彼らのうち5人はヨハネより昔、ヨハネの時代で一人、またその後で一人ということになります。
特にこれがクリスチャンを迫害したネロ皇帝を支配したの霊(御使い)の再来という説です。
ユリウス・カエサル―アウグスト―テベリオ―カリグラ―クラウデオ―ネロ―ガルバ―つづく
ローマ皇帝6代目がネロです。
この皇帝はローマに火をつけてクリスチャンを迫害した有名な皇帝です。
この七つの頭の啓示は天であり、地上の様子ではありません。
地上のことではなく見ることは出来ません。
つまし、聖書にて解釈が必要となるからここに記されたとのことです。

結論
7つの頭についてはいろいろな解釈があるが、正直言って不明であるが、どの説もローマであると言う解釈になります。
患難時代にあって始めて解き明かされるものかもしれません。

解釈上のヒント
1、「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます」と書かれています。
十本の角には国の受けることが書かれていますが、7つの頭にはこの記述がありません。
2、10の角の王と7つの頭の王が共存する可能性があります。
つまり17カ国ということになります。

七とは完全数で完全な支配を示しています。
彼らは王であり、女(恐らくカトリック)と親密な関係になります。
「昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」
滅びるものは反キリストです。

女について


この女について、先に書いていますので省略します。
この堕落した教会、宗教団体は、聖徒たちの血とイエスの証人たちを殺し喜び酔っています。
罪悪感などない。
第二次世界大戦中、ヒトラーに属する人たちはユダヤ人を殺すことに喜びを感じていたそうです。
人間の本性がそのようなものでしょう。
ユダヤ人たちは鍵十字と十字架を比較し、カトリック、及び、ユダヤ人に敵対するキリスト教徒に恐怖を感じていました。

すると、御使いは私にこう言った。「なぜ驚くのですか。私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話してあげましょう。
あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。
ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。
あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。
この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。
この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章7〜14節

この女は「羊のような二本の角を持つ獣」と同じだと考えます。
なぜなら、17章には出て来ていません。
この者どもは心を一つにして、つまり、七つの頭と十本の角(連合国)とは一人の獣に全力をそそぎます。
小羊はイエスキリストのことです。
小羊は勝利します。


宗教的な女のさばき

御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。
あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。
あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章15〜18節

ここで獣に乗っていた女(淫婦)は獣に焼き尽くされます。
神は政治的な獣を使って、宗教的な女(カトリック)をつぶします。
ここでも「彼ら」は一致します。
この女は地上の王たちを支配する都とは直接的には「バビロン(イラク)」です。
また、この聖書の流れからいうと「ローマ」のことです。
地理的なことを言うのではなく後者の「バビロンの宗教を得たローマ」と解釈したいと考えます。


バビロン(政治的反キリスト)の崩壊

この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 18章1〜2節

もうひとりの御使いとは、17章と違う御使いです。
ここで御使いは「バビロン」の崩壊を宣言しています。
「倒れた」という動詞は不定過去形で記されています。
しかし、この個所は未来ので出来事である。それは確定的な宣言と突然の出来事であることを示しています。
言うまでもないが「バビロン」は悪霊の住まいとなったのです

それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」
それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。
なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。
彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 18章3〜6節

この人口の半分以上の人が死んでいる状態において、反キリストの周りは非常に富んでいることが理解できます。
社会が混乱すると貧富の差が大きくなるといいますが、まさに極めです。
この国はこのさばきの時までとっておかれたのです。
よく、世界中に患難が訪れているのになぜ、この国だけ栄えているのかと言って、黙示録に書かれている順番、内容を置き換えるのを聞きますが、この国は裁きのためにとって置かれているのです。
彼らの偶像崇拝とは商売と密接に関係し、地上の王たち偶像崇拝に酔い多くの利益を得ていました。

ここで患難時代にいる聖徒たちへの勧めが書いてあります。
この女から離れなさい。
神はあらゆる時代のすべての聖徒にこの勧めをしています。
この堕落した教会である女から離れなさいと勧めています。
この女は裁かれるのです。
神はこの女の罪をその女に返しました。神はすべてを見ていたのです。

彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。
彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。
彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』
また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。
商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。
また、あなたの心の望みである熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことができません。
これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、泣き悲しんで、
言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。
あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。』また、すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、
彼女が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』
それから、彼らは、頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、叫んで言いました。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。』
おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」
また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。
立て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。
ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。
また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 18章7〜24節

大きい、ひき臼とは、神の怒りを表してます。

エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンにはいったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、
『主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました。』と言い、
この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、
『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる。』と言いなさい。」ここまでが、エレミヤのことばである。

新改訳聖書 エレミヤ書 51章61〜64節

黙示録の中でこのバビロンの崩壊に多くのページが割かれています。
詳しく説明されているということは、それだけ信仰的な利益があるということです。
心の中で「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。」と自分の地位に頼りました。
しかし、人間の地位が自分を守ってくれないのです。
神に反抗したバビロンが一瞬のうちにされてしまいます。
神の裁きは出エジプト記のエジプトへの裁きと同様に短い期間に行われます。
また、ダニエル記でのバビロニアの崩壊も一晩でした。
地上のものたちはもうこの都が滅びて、もはや商売が出来ないのを知って嘆きました。
彼らは神のさばきより目の前の富が無くなることを予測して嘆いたのです。
喜びはこの都から消えました。
商人たちは国々の民を魔術でだましていたと書かれています。
所詮、富とは魔術なんだと言う表現も出来ます。
天では聖徒たちが喜び、地上で神は聖徒たちの血の報復がなされていました。


小羊の婚宴

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章9節

天では、キリストの地上再臨、つまり勝利が祝われ、賛美されています。
招かれた者は幸いだ、ユダヤ人は幸いです。
しかし、最も幸いなのはキリストの花嫁(教会)です。

この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章1〜3節

大群衆は、患難時代に殉教したものと思われます。
彼らは血の報復を賛美しています。
神の裁きがなされたこと、この群衆はバビロンの倒れたことを賛美していました。

すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。
また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章4〜6節

二十四人の長老たちとは教会の長老たちだと思われます。(4章)
しかし、この後、花嫁の婚宴があります。
この後、婚宴で花嫁と呼ばれているのに、ここで長老というには疑問が残ります。
もし、教会とすれば大群衆(患難時代の殉教者)の賛美とは明らかに別内容になります。
四つの生き物とは、キリストの栄光を表す動物です。(4章)
御座からの声とは、御使いたちの声です
神に仕えるものたちは皆、神を賛美しました。
それはイエスキリストが勝利をした瞬間です。

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 9章6〜9節

花嫁とは、現在の教会です。
天では婚宴が行われ、その後すぐにキリストは地上に勝利を治めにゆくのです。
ここでルカの福音書の宴会に招かれた人たちのことを思い出してみましょう。

「するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」

新改訳聖書 ルカの福音書 14章16〜24節

ここでの宴会はユダヤ人のために催されました。
そして、多くのユダヤ人たちがその参加を断ったのです。
招待されたはずの人たちにはこのような結論が与えられました。
「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」
連れてこられたのは「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」でした。
もしくは「患難時代のユダヤ人」とも言えます。

しかし、ただの宴会ではなく、天では婚宴が開かれます。
この婚宴の主人公はもちろん、イエスキリストであり、花嫁である教会なのです。
ここで、ユダヤ人の祝福と教会との祝福の比較はする気はありません。
しかし、教会にはこのような聖句が与えられています。

「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 1章3節

天とは神のおられる場所です。
つまり、「天にあるすべての霊的祝福」とは神の持つすべての霊的祝福をもって、教会が祝福されているということです。
そのようなことばは教会以外の、何者にも語られていません。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙 5章25〜27節

現在、イエスキリストを信じるものが持つ最終的な望みです。
私たちはこの地上で悩みを持つかも知れません。
この地上で主にあって解決を頂くこともあるでしょう。
しかし、また問題が繰り返します。
地上には私たちに解決がありません。

しかし、このときすべてが解決されます。
人間は、あらゆるしるし(奇跡)を神に求めるだろう。
神は、時にはしるしも与えてくれるかもしれません。
しかし、しるしがあって感動があってもまた覚めてしまいます。
神は無駄なしるしは与えません。
私たちがこの地上にあって絶望を味わったときに、私たちは「主よ、来て下さい」と願うだけです。
いや、イエスキリストはすぐに来るのです。アーメン


キリストの地上再臨

そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。
「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章10節

ヨハネは多くのことを学んだ神の使徒です。
ヨハネはこの啓示を受けたときに御使いを拝んでしまいました。
もちろん、これはヨハネの失敗であるがあまりにも啓示が素晴らしかったからです。

しかし、地上ではキリストによる地上への裁きが行われようとしていました。
最初に黙示録に書かれていることから述べてゆきます。

「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章10〜13節

黙示録6章では反キリストがメシアのまねをして白い馬に乗ってきました。
ここでは、すべてを勝利したイエスキリストの姿です。

白い馬とは勝利者の乗る馬です。
目は燃える炎とは、罪に対して怒りの炎、ねたみの炎です。
多くの王冠とは、多くの勝利を得た証拠です。
血に染まった衣、十字架で流された血によって染まった衣を着ていました。
ヨハネの福音書の冒頭でキリストのことをこのように紹介しています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書 1章1〜4節

「神のことば」とはキリストのことです。

「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章14節

イエスキリストの衣は血に染まっていました。
しかし、イエスキリストに従うものの衣は白かったのです。
彼らもイエスキリストと同じ白い馬(勝利)に乗っていました。

「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。
この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章15、16節

千年王国を支配する王イエスキリストを表しています。
教会に対しては恵みと哀れみの杖を持って私たちを導きます。
千年王国の国民に対しては鉄の杖を使い支配されます。
それは千年王国の国民のからだが贖われていないからです。
罪を犯した者に対してむちを持って支配します。

この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれます。
---イエスキリストははこの地上をさばくためについに来られるのです。

「また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。
そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章17〜21節

イエスキリストの地上再臨の時です。
獣は捕えられた、つまり反キリストのことです。
獣の刻印を受けた人々とは、反キリストに従った人々のことです。
にせ預言者とは、宗教的反キリストのことです。
「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた」
彼らは死を通ることなく地獄へと入れられました。


ユダヤ人を中心とした、患難時代、キリストの地上再臨

地上再臨までの出来事を地上の観点から見るのであれば、旧約、ユダヤ人への約束の歴史を見る必要があります。
神は全知全能です。
創造の神であり、ユダヤ人の神であり、異邦人の神です。
何よりも、あなた個人の神なのです。
全知全能だからこそ、できる神の御業でどんな立場であっても、神を信じる者すべての個別事情においても神なのです。
神はイスラエルの祖先アブラハムを偶像崇拝の街、ウルから選び、無条件の祝福をお与えになりました。

「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

新改訳聖書 創世記 12章1〜3節

信仰によって歩んだアブラハムには次のような言葉が与えられました。

「主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」

新改訳聖書 創世記13章 14、15節

アブラハムには「なぜ私に?」と思わされる「無条件に差し上げる」という約束が与えられました。
ここが重要になってきますので、覚えておいてください。
しかし、アブラハムはその地を与えられることなく死にました。
アブラハムは後の時代に必ずよみがえり、必ず中東の地を引き継ぐことになります。
そして、アブラハムには100歳で、妻サラによって奇跡的に生まれたイサクによって、祝福が引き継がれました。

「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。
わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」

新改訳聖書 創世記 17章19節

イサクの息子、ヤコブはこの祝福を引き継ぐものとなり、神によりイスラエルと命名されました。

「神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」
それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。」

新改訳聖書 創世記35章10節

ヤコブの時代、イスラエルの地に飢饉がおきました。
神はヤコブの子、ヨセフを用いて、イスラエルはエジプトの地へと逃げ、偉大な国民となったのです。
しかし、偉大な国民となったイスラエルはエジプトの王、パロによって虐待を受けていました。
神は偉大な国民となったイスラエルを、預言者モーセを通して、約束の地に戻したのです。
これが映画「十戒」にも、あった出エジプトなのです。

神はその時、映画の題名にもなっている10の戒めである「十戒」、そして多くの戒めをお与えになりました。
この内容はアブラハムへの無条件の祝福と違い、これを守るなら祝福され、守らないのであれば、呪われるというものでした。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」

新改訳聖書 申命記 28章1、2節

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。」

新改訳聖書 申命記28章15、16節

イスラエルの民は「アーメン」といい、その約束を受け取りました。
この約束の条件は守るなら祝福され、守らないのであれば、呪われるというものです。
ここでイスラエルには二つの約束が与えられたのです。
つまり、無条件と条件付きの両方の約束がされたのです。
しかし、この条件付きの約束にはもう一つ裏がありました。
始めからこの約束が破られ、そしてイスラエルには信仰が与えられ、祝福されることが網羅されていたのです。

「あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」

新改訳聖書 申命記30章2、3節

神は無条件の約束の上に、イスラエルに信仰の中を歩むという祝福をさらに与えてくださるのです。
この信仰を与えるのに、もっともふさわしい場所は苦難の中なのです。
イスラエルは約束の地に戻り、王国を立ち上げます。
ダビテ、ソロモンの時代は繁栄しますが、すぐに不信仰になり衰退して行きます。
やがて、イスラエルの国の中には、約束された神以外の別の神を崇拝するほど堕落して行くのです。
神はイスラエルをバビロンとアッシリアの国に捕囚させました。
イスラエルが神に従わず、呪いを受けたのです。

「ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。
彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。
彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。
そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。
彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。
ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。
そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。
彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。
彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。
彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。」

新改訳聖書 歴代記第二36章11〜20節

ここでもう一度、思い出してください。
この呪いの約束には始めから破られ、そしてイスラエルには信仰が与えられ、祝福されることが網羅されていたのです。

「あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」

新改訳聖書 申命記30章2、3節

通常、世界に捕囚された国はその国に吸収され、消滅してゆきます。
ユダヤ民族は違ったのです。
預言者エゼキエルにこのような預言が与えられました。

「主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」

新改訳聖書 エゼキエル書37章3〜6節

しかし、捕囚の40年後、この40年を長いとみるか?短いとみるかが感覚で変わってきます。
まさに風化されようとしていた時に世界史ではありえないことが起きたのです。

「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。
あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。
残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」
そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」

新改訳聖書 エズラ記1章1〜5節

つまり、ペルシヤの王クロスはこのように言ったのです。
「神に啓示を受けた。
イスラエルは財産をもって、自分の国に帰って、主の宮を建てなさい」なのです。

イスラエルの最初の苦難は過ぎ去りました。
彼らは自分の国に戻り、国を再建しました。
後にローマの支配下に入ることになりました。
この以降、イスラエルにはまことの神以外を拝む、偶像崇拝は存在しなくなったと言われます。
しかし、それでもイスラエルは不信仰を続けたのです。
神はイスラエルに王であり、救い主であるキリストが来られる約束、預言をお与えになりました。
詳しくは前章の中で語られています。
300の預言があるとされていますが、ここではアブラハムに与えられた預言から紹介します。

「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」
新改訳聖書 創世記 13章15節
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)

「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」
新改訳聖書 ガラテア人の手紙 3章16節

しかし、イスラエルはキリストであるメシアを拒否したのです。

「しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」

新改訳聖書 ルカの福音書 23章21〜23節

聖書はその日をこのように語っています。
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われました。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。
わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。
それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません」

新改訳聖書 マタイの福音書23章37〜38節

イスラエルは再び、世界に奴隷として売られて行くことになりました。
イエスはユダヤ人のキリスト拒否の結果であるエルサレムの崩壊を嘆いておられたのです。
エルサレムの崩壊はローマ帝国によって行われました。
ローマに対抗したユダヤ人は紀元70年、ロ−マ将軍ティトスによってエルサレムは包囲され、ついに陥落しました。
100万人の住民が虐殺され、大量のユダヤ人奴隷が市場に流出したので奴隷の値段が大暴落と言われています。
このように、キリストを拒否したユダヤ人に裁きが下ったのです。
先の捕囚では70年間、イスラエルは捕囚状態でした。
しかし、この離散は2000年間でした。
この不信仰の結果がいかに大きなものかを示しています。
しかし、再び、彼らは自分の国を手にしたのです。
イスラエルの最終的な招集についてこのように書かれています。
イスラエルは一人残らず集まられます。

「わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、
彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。」

新改訳聖書 エゼキエル書39章 27、28節

しかし、これは患難時代の最後に主によって行われます。
しかし、その前に不完全な形で集まり、国を作る必要があるのです。
なぜなら、反キリストと契約を結ぶ必要があるからです。
イスラエルは不信仰な状態で、キリストをメシアとして信じない状況で集まっている必要があるのです。

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。
荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

新改訳聖書 ダニエル書 9章27節

国としての状況も説明されています。

「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。
その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。
その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。」

新改訳聖書 エゼキエル書 38章8節

上記のエゼキエル書は直接、反キリストと結び付けて書かれていませんが、同時期に起こる「ロシア」と「ウクライナ近郊の国々」のイスラエル攻撃について書かれています。
イスラエルは「その国は剣の災害から立ち直り」、そして、「その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる」状態です。
そして、彼らはみな安心して住んでいます。
現在、イスラエルは戦争状態なのでこのような表現ができません。
おそらく、反キリストとの契約によって、安心して住んでいる状態だと考えます。
そして、この契約の直前に携挙が起き、イスラエルは患難時代へと突入するのです。

おそらく、読者は気が付いていると思いますが、この患難時代は世界の裁きの時であるとともに、イスラエルを精錬するための時なのです。
かつて、イスラエルは捕囚によって偶像崇拝から清められてきました。
しかし、再び集まられた後、メシアであるキリストを十字架にかけてしまいます。
後にイスラエルは結果として、ローマによって、世界中に奴隷として散らされますが、奇跡的に集められ、1948年にイスラエル国家が再建されました。
そして患難時代に突入し、反キリストとの契約によって、イスラエルはかつてない迫害を受けることになります。
その苦難の中で、イスラエルはメシアを呼び求めます。
すると、メシアが地上に降りてくるのです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 1章7節

イスラエルはメシアが来られるのを目撃し、助かったことを神に感謝します。
ところがメシアの手にはくぎの跡、まさに突き刺された痕跡をメシアの体に見るのです。
そして、イスラエル民族は、自分たちの期待していたメシアこそが2000年前に祖先が十字架にかけてイエス・キリストだと悟り、悔い改めるのです。

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。
この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書 12章10〜14節

イスラエルは先の捕囚では偶像崇拝から清められ、今度はイエス・キリストを信じる信仰が与えられ、悔い改めるのです。

「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書 14章4節

「その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書 書9章16節

このようにイスラエル民族は、神によって清められ、神の宝とされたのです。
患難時代はイスラエル民族にとって、精錬の時、悔い改めの時、そして、神により信仰が与えられる時なのです。


千年王国への導入、サタンの1000年間捕獲

キリストの地上再臨により、政治的反キリストと宗教的反キリストが捕らえられました。
彼らは人間でありながら、特別扱いの裁きを受けます。
彼らは「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」のです。

すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章20節

悪魔でありサタンである竜はついに捕まり、千年の間閉じ込められます。
サタンは二人の反キリストはとは違うところに落とされます。
サタンは囚人のように鎖で縛られ、「底知れぬ所」に鍵を付けて入れられます。

また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 20章1〜3節

サタンにはまだ役割があります。
サタンの存在の目的には様々な議論がありますが、人を欺き、時には人に試練となります。
神はこのサタンを利用し、信仰者を精錬して行くのです。
たとえ、神がサタンを利用し、サタンの願いを聞いたとしても、神の摂理には闇がありません。
ヨブ記にはこのようにあります。

「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」

新改訳聖書 ヨブ記1章 6〜12節

神はサタンの願い事を聞いて、いや、利用してヨブの信仰を試しているのです。
多くの信者が悩みを持ち、信仰に入ることを聞きます。
それはこの世にサタンがいます。
あらゆる人々に悲しみや苦しみを与えることがあります。
なぜ、あなたにこのような苦しみが来たのでしょうか?
それはあなたがこのような苦しみがなければ、神を知ることが無かったからです。

クリスチャンにも、悲しみ、苦しみ、そして死が訪れるかも知れません。
そして、このテキストを読んでいるのは、教会時代、もしくは死者の復活のあと、患難時代の真ん中かも知れません。
しかし、それはあなたが神に、主に目を向け、「助けてください」というためなのです。
つまり、あなたが「あなたの神である」主との交わりを得る為なのです。
古い人間はほっておけば、神との交わりから離れるようにできています。
常に聖霊の監視、神から手がなければ、神との交わりに留まることができません。
患難、苦しみが神の手段であることをおぼえてください。

「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 20章4、5節

天には多くの座、つまり、座席、椅子が用意されています。
彼らがここに座りました。
問題はここでいう「彼ら」です。
前から見てゆくのであれば「底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持った御使い」になりますが、単数形です。
しかし、座る場所は「多く」となっています。
ここには解釈が必要になりますが、個人的にこの座に着くのはすぐ後にある「生き返った人」とするのが好ましいと考えます。
直訳ならば「彼らに裁きが与えられた」となりますが、裁かれるための座が与えられたというのも不可解です。
ならば、患難時代に反キリストに従わず、殉教していった者たちには始めから特別な「座席」が用意されていたことになります。
彼らは千年王国で王となり、民をさばくのです。

ここに千年王国での迫害、殉教の仕方について記されています。
「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」です。
彼らは「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」です。
地上では差別され、理不尽な扱いを受け、買うことも売ることも出来ずに、飢え、閉じ込められ、そして、斬首刑という最後が与えられます。
つまり、信者にとって、反キリストは信仰のために試金石となっているのです。

ここで考えていただきたいことがあります。
一つは私たちにこの根性、これを成し遂げるだけの信仰があるかです。
多くの方々が自分に適合できないと思うのではないでしょうか?
この聖句にも試練があります。

個人的には教義主義者と呼んでいますが、福音的な教会においてもこのように言う人が多くいます。
「死は怖くない、だって死んだらすぐ天国だから」、確かに真理です。
しかし、私たちにそのまますぐに適応できるでしょうか?
もともと、創造時に設定されていなかった死を通り過ぎることが楽しいことなのでしょうか?
おそらく、この聖句を読み自分がギロチン台の前で順番待ちになっている時、この言葉が適応できないことを知るはずです。
もし、死がクリスチャンの希望だと言うのであれば、なぜ、あなたは毎日小さなことで悩むのですか?
私はかつて、この言葉を克服し、理解するために目の前にナイフを起き、祈りました。
「主よ、私は死を通り過ぎることの恐怖を克服するために、今、ナイフを喉元に置きます。
そして、死など怖くないと言わせてください。」
答えはありませんでした。
死んだ後にキリストの御元に行けるという知識、教義がないのでありません。
そのまま、死は生きている私にとって恐怖には代わりがありません。

患難時代の信者はこの試練に立ち向かわなければなりません。
最後に自分が斬首刑になるという試練です。
ただでさえ、様々な苦しみを味わってきました。
「もう十分だ!ここで反キリストに従えば、食べることはできる!
もう十分だ!」
と考えるかも知れません。
そうです。
失格者になる道です。
おそらく、古いからだ、古い人類はその道を選ぶはずです。
しかし、私たちは聖霊によって、そう、聖霊によらなければこのように言うことができません。
「私たちには天に特別な座席が用意されている。
死んだら、その座席に座ることができるのだ!」

患難時代の聖徒たちは聖霊によってこのようにいうことができるのです。
ここで斬首刑に会うすべての者は教会時代のクリスチャンのように聖霊が住んでいません。
すべての者がキリストを救い主として信じていないからです。
しかし、一時的に聖霊が彼らに注がれます。
教会時代の私たちは自分を吟味せずに、自分に信仰があり、決まり文句の信仰を言うかもしれません。
私は患難時代の「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましい」と思います。
最後まで勇敢に、主の道を歩めることを祈ります。
そして、病床にあるクリスチャンについて感謝します。
多くのクリスチャンが間近に近づいている死について勝利しているのを見ることができます。
もちろん内心、さまざまな思いがあることも知っています。
最後まで聖霊がただしく、主への信仰を保たせてくださることを感謝します。

そして、教会時代において御言葉を語る時、特に未信者に語る時、聖霊が注がれることを期待します。
聖霊なしには誰も信じることができないからです。
多くの人たちが未信者をどうしたらクリスチャンにすることが出来るのかを考えます。
教会になじんだら、始めからまっすぐに語っても拒否されるだけだとか考えるかも知れません。
しかし、聖霊に有無を感じて、人はメッセージを伝えることをしているでしょうか?
奇跡を待つ者は神が行うことを期待するはずです。

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」

新改訳聖書 ヨハネの黙示録 20章5、6節)

患難時代に斬首刑になり、もしくは反キリストを拝まなかった者たちは千年王国で祭司となり、キリストとともに、千年の間王となります。
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である」とあります。
逆に患難時代で反キリストに従った者たちは「千年の終わるまでは、生き返らなかった」とあります。
ここに千年の差が生まれています。
後に書きますが、彼らは千年後によみがえっても、永遠の裁きを受けるだけなのです。


千年王国

キリストの地上再臨により、サタンと反キリストは裁かれ、地獄へと落とされます。
そして、地上では信仰をもったイスラエルの祖先たちが新しいからだでよみがえり、かつての契約を成就させるのです。
アブラハム、イサク、ヤコブには約束の土地が与えられ、ダビテは永遠の王座を手に入れます。

この千年王国は神のイスラエルへの約束を成就させるためであり、クリスチャンはこの地上には住んでいません。
キリストと共に支配します。

「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。
それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第二 6章2、3節

まさに、キリストが王なのです。
王国の期間、新生されていない人々は異邦人だけに存在します。
王国の期間中は、救われていないユダヤ人は存在しません。
ユダヤ人が他のユダヤ人に「主を知りなさい」と言う必要がないのです。
なによりも、最終的に世界中に離散したユダヤ人たちが集められます。

「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる」。

新改訳聖書 イザヤ書11章 11、12節

ここでは多くを書くことができませんが、旧約聖書にはこの千年王国の姿が多く描かれています。
これはイスラエル、ユダヤ人たちへの祝福なのです。
そこに異邦人が付帯されています。
まさに、アブラハム、ダビテ、そして旧約の預言者たちに与えられた契約の成就です。
神は言われたことを必ず文字通りに成就させます。
そこには罪の許しが含まれています。

「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――
わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」

新改訳聖書 エレミヤ書 31章34節

迫害されてきたユダヤ人は祝福の対象であることが世界中から認められます。

「彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。
彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」

新改訳聖書 イザヤ書 61章9節

神によって、ユダヤ人たちが立てられた目的が達成されます。
神がすべての人と共に歩むために、ユダヤ人は人間と神との仲介者としての祭司となることが成就されます。

「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」。
新改訳聖書 出エジプト 19章6節

イスラエルは完全な形で再建され、エルサレムに主が帰ります。

「私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。』
それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』
もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」」

新改訳聖書 ゼカリヤ書 1章14〜17節

大きな地殻変動が起き、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ちます。
主が世界を支配していますので、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習いません。

「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」。それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」。

新改訳聖書 イザヤ書 2章2〜4節

大きな癒しが行われ、大自然も主を賛美します。

「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」

新改訳聖書 イザヤ書 35章1〜10節

イスラエルは主のために神殿を建てます。

「彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」

(エゼキエル書37章25〜28節)

世界中の国民から、イスラエルは祝福を受けるのです。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。
これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。」

新改訳聖書 ゼカリヤ書 14章16〜19節

しかし、その千年王国のすべての住民の罪が贖われ、罪の性質が取り除かれたわけではありません。
過去の罪が赦されたのみかかわらず、彼らは再び、サタンが解放され、多くの者たちがサタンに従うことになるのです。


解放されたサタン

「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」

(ヨハネの黙示録20章7〜10節)

この平和な千年王国が終わりにもう一度悪魔は解き放たれます。
前にも書きましたがこの千年王国に入ったものはすべて信仰者ではありません。
偶然に反キリストに従わずユダヤ人を助けたという理由で千年王国に入った者もいます。
信仰のないものは悪魔に従います。
そして悪魔は最終的に捕まえられ火と硫黄との池に投げ込まれます。

この個所をエゼキエル書38章の「ゴグとマゴグ」といっしょにする方がおりますが、著者は別の出来事としてみています。
なぜなら、イスラエルの状況が違うからです。

エゼキエル書にはこのように書かれています。

「その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。
その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。」

(エゼキエル書38章8節)

しかし、黙示録の場面は集まられて1000年経っています。
「久しく廃墟であったイスラエルの山々」ではなく、地殻変動により美しいエルサレムの街に住んでいます。
ゆえに、エゼキエル書38章は終わりの年と書かれていますので、患難時代の後期の出来事と見ています。
ともあれ、ゴグとマゴグというのはエルサレムの北部、ロシアとウクライナを指しているのは言うまでもありません。
ウクライナ戦争の結末がどのようになろうとも、ロシアとウクライナは手を結んでイスラエルを襲うのです。

黙示録の記事に戻りましょう。
千年王国の終わりにサタンはその牢から解き放されます。
これは神の計画なのです。

底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

(ヨハネの黙示録20章2、3節)

始めから神はサタンを千年王国の終わりに解き放す計画だったのです。
それは再び、聖徒たちを精錬するためです。
その対象が「聖徒たちの陣営と愛された都」であり、サタンが惑わしたのは「地の四方にある諸国の民」であることは明白です。
結論は「天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした」のです。
すでに獣とにせ預言者は「火と硫黄との池」に投げ込まれています。
そこにサタンも投げ込まれるのです。


白い御座のさばき

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

(ヨハネの黙示録20章11〜15節)

ついにすべての人々が裁かれる時が来ました。
千年王国の後に「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」様子が描かれています。
そこには「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方」がおられます。
サタンと獣、偽預言者はすでに裁かれ、「火と硫黄との池」の中にいます。

救いを無視したすべての人類が復活してここに立ちます。
たとえ、救いを得ていないとしてもすべての者がよみがえります。
裁かれるためによみがえるのです。
彼らは悪魔に従い、神を無視した者たちです。
彼らは何も弁解することができず神の書物が開かれます。
それぞれ、自分の行いに応じて裁かれます。
死もハデス(人間が死んだ後、仮に置かれている裁きの場所)も死者を出し、神に従わなかった者(命の書に名の記されていない者)は永遠の火の池に投げ込まれました。
ルカによる福音書16章に出てくる「金持ちとラザロの話」で金持ちは苦しんでいます。
実はハデスは本当の苦しみの場所ではないのです。
本当の裁きは火の池(ゲヘナ)なのです。

いのちの書に名のしるされていない者(救われていない者)はみな、この火の池に投げ込まれるのです。
人間ならば、絶対に行ってはいけない場所です。
もし、このことがわかるのであれば、「イエスキリストが自分の罪の身代わりに死んでくださった救い主であることを信じてください。」


ここで考えてほしいことがあります。
イスエキリストを自分の罪の身代わりと信じない者も「火と硫黄との池」に入ることになります。
そこには神の支配はありません。
信者であっても、なくても人生には浮き沈みがあり、どん底で死んでしまおうかと思ったことがある人はいると思います。
報道を見れば、あれだけの有名人、資産家なども自殺したという記事もよく見ます。
でも、多くの人たちには回復があり、幸せに暮らしている者も多くいます。
サタンはこの世の人たちに悲しみ、苦しみ、そして、死を与えようとします。
しかし、神は人に回復を与え、生きることの素晴らしさを与えています。
「火と硫黄との池」とは物理的に焼き尽くされるだけではありません。
そこには神はいません。
心も精神もサタンに食い尽くされるのです。
もう、回復することはありません。
永遠に続くのです。
私たち救われた者は、間違ってもそこに入ってはいけないことを必然的に語る必要があるのです。
信じるも、信じないのも自由ですよと言っているようなものではありません。
信じなければならないのです。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ人への手紙6章23節)


新しい天と地

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

(ヨハネの黙示録21章1〜7節)

この新しい天と地が現在の教会、イスラエル、患難時代の信徒たちの最終目標です。
もはや、ユダヤ人と異邦人には何の仕切りもありません。
もともと、人間は神の祝福の中に生きるように創造されたのです。
人間はサタンに惑わされて、罪を犯し、祝福にあずかれなくなってしまったのです。
この時、人間への祝福が復旧され、さらにキリストによる祝福が増し加わっています。

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるもの(教会)も地にあるもの(イスラエル)も、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」
(エペソ人への手紙1章10節)

神の幕屋とは、イエスキリスト自身のことです。
何の注解も入りません。私が何か文章で介入すればこの素晴らしい天と地の価値が落ちてしまいます。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」これは地上にいる私たちクリスチャンの現在を生きるための希望です。
「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」ただ、待ち望むのみです。

ここに突然、思い出すかのようにその反対側の者たちのことが上記の聖句に続きます。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録21章8節)

つまり、現在、この聖句を読む者たちに思い起こせということなのです。
最後に新天新地の様子を書いている聖書の個所にて終わりにしたいと思います。
小羊の妻である花嫁とは、教会(イエスキリストを信じる者の集まり)のことです。

「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
------ 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
------ これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」

(ヨハネの黙示録21章9節〜22章抜粋)


けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
(ピリピ人への手紙3章20節)


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